作家でごはん!鍛練場

分かりやすさについて

A

ある国の王様は粗野な武人に生まれつき、王宮の礼儀作法には不慣れでした。
とはいえ王様にふさわしく臣下には敬われる必要があったので、
王様は自分が恥ずかしい思いをしないよう、
王宮の規則を自分に合わせて作り変えることにしました。

まず王様は、貴族が使っている難しい言葉づかいや専門用語を廃止しました。
次に王様は、身分や職階ごとに細かい違いのある服装の既定を撤廃しました。
最後に王様は、儀式や式辞に関する有形無形の細目を改訂し簡素化しました。

これならどんな人であろうと王宮で恥ずかしい思いをすることはありません。
皆が同じように話し、皆が同じように振舞う王宮を見て王様は満足しました。
それから王様は玉座にどっかりと腰を下し、次の戦争について臣下にいろいろと指示を下しました。
王様は戦争の言葉だけは以前のものを残しておきました。それについてはよく知っていたからです。

ある日のこと、王様はきまぐれに首都の市場を見て回りました。
市場にはたくさんの人がいて、皆てんでに大声を上げています。

しばらくして王様は、人々の話がまったく理解できないことに驚きました。
そこにいるのは皆人間なのに、

商人は商人の言葉、
金貸しは金貸しの言葉、
大工は大工の言葉、
占い師は占い師の言葉で話しています。

それは普段王様が王宮で聞いている、子供に噛んで含めるような言葉とは大違いでした。

王様は腹を立て、さっそく国民の言葉もすみずみまで統一するよう命令をくだしました。

命令は速やかに実行に移されたので、
その日から国民はみな王宮の中でと同じように、
「国語」でしか話せなくなりました。

国語の教科書に出てくる以外の言葉を口にすることはご法度になり、
教科書に出てくる言葉でも王様が理解できなければ廃止されました。

多くの本が焼かれました。難しい言葉で書かれているからです。
哲学者は町を追い出されました。誰より正確に話したからです。
詩人は首を吊られました。誰にも似ない言葉で語ったからです。

皆が同じように、自分の理解できる言葉を話す国を見て王様は満足しました。
それから王様は自室に戻り、そこにひかえていた妻の頭を撫でてやりました。
王様の妻は誰より王様に従順で、王様の分からないことを言うことは決してありません。
そしていまや王様の見渡す限り、すべての国民が王様の妻のように振舞っているのです。
王様は妻を強く抱きしめました、まるで自分の国を抱きしめるように。

ある日のこと、王様の国は戦争に負けて滅ぼされてしまいました。
一説によると、王様の愛していた妻が敵国の密偵だったそうです。

逃げた王様の行方は杳として知れません。



B

ある国の王様は卑賎な奴隷に生まれつき、王宮の礼儀作法には不慣れでした。
とはいえ王様にふさわしく臣下には敬われる必要があったので、
王様は自分が恥ずかしい思いをしないよう、
王宮の規則をすみずみまで勉強することにしました。

まず王様は、貴族が使っている難しい言葉づかいや専門用語を覚えました。くわえて学者たちからさらに難解な知識を学び、それをしかるべき時に引用しました。
次に王様は、身分や職階ごとに細かい違いのある服装の既定を徹底し、人々の序列と階層が一目で分かるようにしました。その頂点にいるのはもちろん王様です。
最後に王様は、儀式や式辞に関する有形無形の細目を明文化し法律にしました。王様はこの法律も自家薬籠中のものにして、政敵を失脚させるのに利用しました。
これならだれであろうと王様の権力を邪魔することはありません。この世には知識があり、階層があり、法律があり、そのすべてが権力を維持する道具なのです。

自分が一番王様らしく話し、自分が一番王様らしく振舞う王宮を見て王様は満足しました。
それから王様は自室に引きこもって、寝台に横たわり、長い不安な夜をじっと耐えました。
王様には友達も、恋人も、家族もいませんでした。

ある日のこと、王様は臣下たちの前でちょっとしたミスを犯しました。
演説でもちいた言葉に誤りがあり、そのことに後から気づいたのです。
王様の背中にいやな汗が流れました。まるで全身が燃えるようでした。
皆が自分を笑っているのではと不安になり、夜も眠れなくなりました。
王様はたまらなくなって寝台から起きだし、いつのまにか寝室を出て、
知らない間に王宮から抜け出していました。そこは夜の市場なのです。

小柄な体躯に夜着をまとった王様を、人々は気にもとめません。
市場にはたくさんの人がいて、皆てんでに大声を上げています。

しばらくして王様は、人々の話がまったく理解できないことに驚きました。
そこにいるのは皆人間なのに、

職人は職人の言葉、
物乞いは物乞いの言葉、
飛脚は飛脚の言葉、
呪い師は呪い師の言葉で話しています。

それは普段王様が王宮で話している、鎧のように固く重たい言葉とは大違いでした。

王様は感心して、さっそく国民の言葉もすみずみまで勉強することを決意しました。

決意はただちに実行に移されたので、
ある時から王様の演説は、重々しい中にも軽快で、軽やかな中にも荘重な、
一言で言えば劇的なものへと変わっていきました。

それはまるで国中の人間が入れかわり立ちかわり話しているかのよう、
誘い込んだかと思えば突きはなし、突き放したかと思えば抱きしめて、
笑いあり涙あり、最後には不思議な感動が訪れるのです。
それにこの演説を聞くと、誰もが王様のために何かしてあげたいという気持ちになるのでした。

それからというもの、王様の権力はとどまるところをしりません。

多くの本が捨てられました。もう誰も王様以外の言葉を聞かなかったからです。
学者は用済みになりました。硬く厳密な言葉の賞味期限が切れていたからです。
哲学者は町を追い出されました。言葉に真理を求めたからです。
詩人は広場で首を吊られました。言葉に倫理を求めたからです。

誰もが自分の言葉に熱狂し、誰もが自分の言葉に心酔している国を見て、王様はやっと安心することができました。
それから王様は市場に出て、新しい言葉を探しました。けれども新しい言葉にはもうずいぶんと出会っていません。
どれくらい歩いたことでしょう、市場の外れにある薄汚い通りの隅で、王様は老いた奴隷の夫婦を目に留めました。

彼らは誰よりも静かに、敬虔に、ほとんど消えそうな言葉で話していました。
それは王様が長いあいだ忘れていた言葉でした。

ある日のこと、王様は身内の策謀にあって王の座を失ってしまいました。
一説によると、王様の出自について怪しからぬ醜聞が流されたそうです。

逃げた王様の行方は杳として知れません。



C

大きな森のはずれに泉があり、泉のほとりに小屋を建てて、一人の狩人が住んでいました。
たくましい筋骨は熊のよう、黒々とした髭が顔をおおい、目には暗い光を浮かべています。

狩人はいつも一人でした。たまに訪れる行商人とも余計な言葉を交わすことはありません。

ある夜のことです。不意に扉を叩く音がして、狩人はびくりと体を震わせました。
不審に思いながらも薄く扉を開けてみると、青白い顔をした若者が立っています。
小柄な体躯に質素な身なり、背後に老いた夫婦を従えていました。
彼らは旅人で、一夜の宿を乞いたいとのことです。

若者の口調は穏やかで礼儀正しく、狩人は不思議と断る気になりませんでした。
なんということでしょうか、旅人たちは狩人のはじめての客人になったのです。

あかあかと燃える暖炉のそばで、狩人は旅人たちに料理を振舞いました。狩りの獲物と山菜を使った贅沢な御馳走です。
狩人の料理の腕前は相当なものでした。旅人たちは感謝と感嘆の入り混じった声をあげ、その味を口々に称賛しました。
素材や味付けについて詳しい質問が飛び、狩人は簡単明瞭な、しかし深い知識に裏打ちされた言葉でそれに答えました。

まぎれもなく、それは狩人自身の言葉、狩人の生活の言葉でした。

やがて狩人は旅人たちに、これまで旅のあいだ見聞きしたことがらについて、詳しく教えてくれるよう頼みました。
老いた夫婦が笑って、あいかわらず青白い顔をしている若者のほうを見やりながら言うには、
そういう話なら、彼ほど見事に語る者はほかにいない、とのこと。
一同に促されて、若者は静かに目を閉じました。

それから四人は、森のはずれの小屋のなか、あかあかと燃える暖炉のそばで、長い長い一夜を過ごしたのです。

夜が明けたのち彼らがどうなったのか、ここに語ることはできません。
それについては歴史も伝承も失われ、誰ひとり知る者もないからです。

今はただ、彼らの言葉に耳を傾けることにしましょう。

分かりやすさについて

執筆の狙い

作者
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分かりやすく書こうと思いました。    

コメント

金木犀
sp49-109-154-62.tck02.spmode.ne.jp

タイトルは少し残念に思いました。
もっと簡素にするか、他にふさわしいタイトルがあるような気がしてなりません。
『物語』とかどうですか?

寓話として読みましたが、非常に示唆のとんだ内容になっていると思いました。
老いた奴隷の夫婦というのは、王様の親なのかな……。
努力した結果得た地位も、得ると当たり前になってしまう。得たとしても簡単に逸してしまう。そんな儚い現実を良く描けていたと思います。夢を見たときは楽しいと思うけど、夢を見た後は忘れてしまうように。人生というのは泡沫ですね。

結局、今この瞬間に抱く感情、今目の前にいる人の話す内容に耳を傾けること以上の『物語』はないのかもしれませんね。

執筆お疲れさまでした。

茅場義彦
M106072182224.v4.enabler.ne.jp

すごい読みやすい。なかなか深みあるようで、詰めきれてないかも。
でも基本的に好きです

みうちっとキャラたてて 寓話じゃなく ファンタジーに仕上げてみりゃどーでしょう。

アイデアはいっぱいありそうやし

i220-99-166-163.s41.a001.ap.plala.or.jp

金木犀さん

コメントありがとうございます。

最初はタイトルありきで書いてて、書いてる途中にだんだん物語ができてきた感じです。
単なる寓話ともちょっと違うものになったので、そのあたりを読んでくれたようで良かった。
何か思いついたら改題するかもです。

毎度ありがとう。

i220-99-166-163.s41.a001.ap.plala.or.jp

茅場義彦さん

コメントありがとうございます。
今回は凝らずに書いてみました。

ファンタジー好きなんですけど、昔からこんな感じで固有名が出てこないことが多いです。なんか思いつかなくて……。

いまもう一本書いてて、そちらはちゃんとファンタジーなので、完成してこのサイトにあげられるよう頑張ります!

夜の雨
ai226236.d.west.v6connect.net

「分かりやすさについて」読みました。

童話の世界に入り込んだような作品で、「ある国」のなかを歩いていたような感じにさせますね。
A、B、Cと、お話はわかれていましたが。
AとBが対比されて国の行く末を左右するような王様の行動がありましたが、それらは王様の自己を守るための政治でした。
Aの王様は国民を自分に合わせる政治でした。
Bの王様は自ら国民に合わせる政治を執りました。
かなり差がありますというか天と地の差です。
しかし二人の王様は追放されました。
Aの王様がどうなったのかは、御作を読む限りわかりませんが、たぶんCの狩人でしょうね。
このあたり、あまりはっきりとさせないほうが童話的には深くなると思います。
Bの王様は物語の中で別人になり、町の片隅にいる奴隷の夫婦に話し掛けました。
Cでは、森の中で生活をしている狩人のところへ三人が訪れ一夜の宿を頼みました。
となると、話の流れからこの三人は奴隷の夫婦と王様だった青年です。
ことばづかいが丁重なのは国民に合わせた政治を執っていたからです。

御作を読み終わり、なるほどなぁと思いました。
彼らがその後どうなったのか、それを知っているのは読み手の一人一人だと思います。

童話でありながら白雪姫とか赤ずきんとかの世界とは一味違う物語で楽しめました。

ちなみにタイトルはもっと適正なものがあるだろうと思いました。


お疲れさまでした。

浮離
KD111239171189.au-net.ne.jp

傾聴ならぬ“傾読"とでも言うのか、個人的には上に連なる感想か下卑た作法のどれにもこれっぽっちも同意出来ないというかそれほどわざわざ興味が持てないというか、その象徴たるCのお話に至ってはなんのことやらこれっぽっちもわからなかった程度の読者です。

この一連のお話を何か構造的か対比的な企みとして受け止めたがるものらしいんですけど、まったく腑に落ちなかった読者もいることをお伝えさせて欲しい気がしたんですよね。

A王様、B王様としたところのそれぞれの思想や理解や欲求も含めて、それを元に起こした行動とその顛末。
その有り様をケーススタディよろしく"分かりやすさについて"とする意図が個人的にはあまりにも散漫としたもののように見受けられて、一体どこにその意図の中心やら本懐を据えたものなのやら、これっぽっちもわからなかったですし信用ならざる気分でした。

A王様は、自分の都合で王宮内から市井の人々に至るまで言語統制を敷いて、してやったりとしたところが密偵なる妻に寝首を掻かれるような顛末に陥る。

B王様は、偽れざる出自を覆うためとはいえ旺盛な学びと理解を取り入れ、王宮内から市井の人々に至るまでを魅了しその豊満な指向を伝播させるに至ったものの、気づけば周りは判で押したような人真似乞食ばかり、そんな折に見かけた奴隷夫婦が話す古びて敬虔なる言葉遣いにかつての自身を彷彿するや、偽れざる出自ながら心無い醜聞に駆られたらしい身内の策謀によって座を追われる。

Aの市井では本を焼かれ言葉を奪われ思想は排除された。

Bの市井では本は見捨てられ言葉は言い草として使い捨てながら安い思想を笠に着て潔癖が求められた。


個人的にはそんな理解の上でお伝えさせていただいているつもりなんですけど、つまりそんな上でこのABの相関を天と地だの象徴的な対比らしく捉える理解は思い尽かされなかったですし、むしろ典型みたいな盛者必衰のわかりやすい"型押し"に付き合わされたに過ぎない読後感から行きつかされるCのお話に至っては、個人的には憶測も連想も興味すらも刺激されたくない程度には書き手都合として手仕舞いにはやるのぼせた語り口としてそもそも熱心に書き綴る意図などなかったことをあからさまに、その全編にわたる意図を隠す気もないらしい早急さばかりが透けた閉じとして少しも感心させられませんでした。

"分かりやすさ" について、一読者としてその通底するらしい意図を整えた形で受け取ることは適わなかった気がしてますし、一読者として読み取るなり受け止めるに足る理解は少なくともABとしてまでの示唆をわざわざ必要とするほどのものとは到底感じさせられなかった気がするし、それも承知の上での"分かりやすさ"とするつもりなら、このサイトもいよいよそんなお話にもならないい程度のお節介すらも取り沙汰したがるべき低脳さか惨めさに落ちぶれたものなのかと、甚だ嘆かわしく思わされるばかりだったりします。

210-146-210-100.east.fdn.vectant.ne.jp

夜の雨さん

返信遅れてすみません、コメントありがとうございます。

丁寧に物語を読み解いてくださって感謝です。

「分かりやすさ」というテーマについてAとBで対照的な物語にしたい、
でも「アリとキリギリス」のような「良い/悪い」で作者が一方に肩入れしているものではない、
もう少し客観的で公正な位置から物語を動かしてみたいと思ってこれを書いたのですが、
そうすると物語の方が作者の手を離れて勝手に進んでいってしまいました。
その道筋を丁寧に追ってくださって、とてもうれしく思っています。

ありがとうございました。

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浮離さん

コメントありがとうございます。
他の皆様と同じく丁寧な読み解き、そして他の皆様にはない鋭い批判をいただきました。
先の返信でも似たようなことを書きましたが、このお話は「寓話」としてもっとシャープに仕上げることもできたところ、作者の「物語欲」のようなものが出て焦点がぼけている面があると思います。寓話は平面的ですが、物語は立体的。それで言うならば、この小説にはCという奥行きがあります。「分かりやすさについて」という題はいわば寓話向きのキャプションですが、看板に偽りあり、というわけです。
夜の雨さんへの返信にも書きましたが、私はこれを勧善懲悪の道徳物語にはしたくなくて、もうすこし客観的な、「同じ設定でこの条件だけ変えて進めるとどうなるだろう」という実験、まさしく「ケーススタディ」がしたかった。そこまではよかったのですが、理の当然というべきか、物語は私の意図したところ──つまり寓意──とは違うところに行ってしまいました。ちなみにプラトンは『国家』のなかで同種の実験をして、見事に自分の意図する理念的国家の青写真を提出することに成功していますが、私にはそれだけの力量がなかったようです。
プラトンの国家を反転すれば今度はオーウェルの1984年になります。いずれにせよ、物語という名の暴れ馬を好きに歩ませているだけでは到達できない透明な世界があることは確かなので、やはり今作は「寓話」としては失格なのかもしれません。いただいたコメントは今作の歪みを的確につくものだと思います。

「手じまい」ってそんな言葉があるんですね。Bの王様が聞いたら喜ぶでしょう。ありがとうございました。

浮離
KD111239171189.au-net.ne.jp

プラトンでもオーウェルでも知ってるつもりならそれでもいいですし、あたしはどっちも知らないのでむしろどうでもいいこととして尚のこと思い尽かされるのは、そのつもりで書きながらちっともわかっていないらしく受け止めたくさせられる言語化物語化とそれに付随する言質の明らかさ、みたいなことなんですよね。

まったくあたし以外の人にはどうでもいいことですし、とはいえこのサイトを見ていてあたしが常に苛立たしく腹立たしく感じさせられるばかりのことに違いないんですけど。

>ちなみにプラトンは『国家』のなかで同種の実験をして、見事に自分の意図する理念的国家の青写真を提出することに成功していますが

とのことなんですけど、あたしは何もかも知らないので文脈としては完璧なるメタ認知としてやり過ごすより他にないわけで、むしろその文脈なり言質にファクトを求めるなら認めるとするなら、"どうして“そう感じたのか断ずるに至れたものなのかを書き手自身の理解として明らかにするべき、とする齟齬にこそ着目するべき理解からは逃れないものですし、

>いずれにせよ、物語という名の暴れ馬を好きに歩ませているだけでは到達できない透明な世界があることは確かなので

というのは他でもないこの作品の有り様として白状される自覚のことのはずなので、言及するに至った客観性は姿勢として正しく感じさせられてものではありましたよね。

>やはり今作は「寓話」としては失格なのかもしれません。

しれません、とは自覚したくない書き手の見栄として正直なものとは理解するんですけど、どうしてその見栄に拘泥したくなるのかといえば、個人的にほぼ明らかに感じさせられるのはやっぱり“どうして“という書き手自身が自らに自覚的であるべき道義的なものから逃れた筆筋任せの無自覚な筆致による結果であるからに違いない、という剣もほろろみたいな見立てだと思うんですよね。

>「分かりやすさ」というテーマについてAとBで対照的な物語にしたい、
でも「アリとキリギリス」のような「良い/悪い」で作者が一方に肩入れしているものではない、
もう少し客観的で公正な位置から物語を動かしてみたいと思ってこれを書いたのですが、
そうすると物語の方が作者の手を離れて勝手に進んでいってしまいました。

“対称的な物語にしたい“

ってあるんですけど、個人的にはそれに対するさらなる“どうして“が欠落してる気がする、ということを言ってるつもりなんですけどわかりますか。
反発を恐れずにざっくりとした言い方をしてしまえば、“寓話"ってそういう“どうして“を回避したマクロ的な啓発か啓蒙っていう善良性、そんな価値観の平明化や汎用性みたいな創作のことソリッドな見識のことかと思うんですよね個人的には。
だから学びの少ない子どもに読ませたがるのだろうし大人には退屈なだけだし悩み多き馬鹿で怠け者なだけの大人の言い逃れか気休めに誤解の如く優しいんだと思うんですよ。
まともな人間ならそんなこといくらでも使いこなしてやり過ごして日々を懸命に生きてることくらい当たり前じゃないですか。
そんないちいちを“分かりやすさ“として対照的な物語にいちいち預けたがるのか、っていう“どうして“

その動機を見損なうならそれは多分“小説“っていう動機も道義も負わないもののように個人的には感じさせられなくもないですし、甚だ退屈なものでしかない気がしてしまうんですよね。


ちゃんと、白状しろって思うんですよ。

Aって、なんですか。Bってなんのこと。

今現在の世の中について、あたしが選択する態度はどちらかと言えばはっきりとAです。
もっと分かりやすく言うなら、このサイトであたしが振る舞うというか当てつける当然の理解としての態度って、完全にAじゃないですか。
あたしは差し合ってこのサイトの現状っていう嘆かわしさに対して、特効薬的な態度や言質は今しばらく必要なはずだし隠すべきではないってずっと思ってますし、隠さないことを皆さん嫌というほど知ってるし面倒に感じてるわけじゃないですか。
あたしはそんな人たちをアホかと思ってるだけなんですし。

だったら、Bってなに?

>Bの市井では本は見捨てられ言葉は言い草として使い捨てながら安い思想を笠に着て潔癖が求められた

これってあたしの感想からの抜粋なんですけど、皮肉ですよね、まさしくこのサイトの現状そのままじゃんって、後から読み返して笑っちゃったんですよね。
ABどっちがどうかなんて、まじでくだらない“対照的な物語“かと思うんですよ。
そんな上でのAからのBとして有耶無耶曖昧に言い逃れるCだとか。

つまりやっぱり、道義的無自覚は証明されてる、ってあたしは思わされるよりないってことなんです。
誤解してほしくないのは、このお話に限ったこと言ってるんじゃないってことなんですよ。
伝わりますかね。

浮離
KD111239171189.au-net.ne.jp

ここ数日最コメ欄に連なる面々とその言質、まじでつまんないじゃないですかあくびするのも勿体無いくらい見るとこないしクソかわいそうなほどの自覚的偏り。
どうしてか分かりますか?

>Bの市井では本は見捨てられ言葉は言い草として使い捨てながら安い思想を笠に着て潔癖が求められた

らしいそんなサイトだから、っていう個人的には1ミリの疑いもなくかねてより嫌い続けてるその性質というかおびただしく蔓延する今どきの凡人性っていう禍々しい回避性を良識と信じて他人を舐め腐った言い草を潔癖として使いこなす腐った見栄の折り重なるクソつまんないだけのゴミ溜めの有り様ってことだと思うんですよね。
ていうか、はっきり事実でしかないでしょ。

卑怯すぎて、そんなもん面白いわけないじゃないですか。

鍛錬上も伝言板もスレ掲もどこ見てもクソの恥晒ししか見当たらないのどういうことなんですか。
そういう腐った“潔癖“の蔓延を“対照的な“なんて言い腐りながら明らかに蓋をしてこのお話は言い逃れてるも同様、ってあたしは初読から感じさせられてるわけなんです苛立たしく馬鹿馬鹿しく。


我が身を平穏で囲うなら、“寓話"なんて見栄を欲しがるものじゃないと思うんですよ。
ミクロとして蜂起も適わないなら、マクロを語るなんて見栄は欲しがるものじゃないと思うんですよね。

たかが素人の文章だろうが、その文意や言質って見苦しく漏れ出して当たり前ってことに上手も下手もないと思うんですよ。
そういう"潔癖“こそを請け負って自覚して嘘も馬鹿も根拠として振る舞う気合いがないなら、生意気なことなんか思いつきたがるなって思うんですよ。


今このサイトには我が身可愛さだけの卑怯者しかいない。


このお話は、例えばそういう頑丈な作為や皮肉や熱心なメッセージをこれっぽっちも背負う意図を負っていない、恐れない気合をこれっぽっちも感じさせないですよね。
書き手がこのお話の書き手である自覚すら、遠ざけたい位置から物語たがっている意図がはなから透けてる気がするんですよ。

あたしはそういう意図もそれを請け負える筆筋もそんな欲求こそ全然好きじゃないので、ついつい言い方がキツくなります。
すみません。

とはいえ言うべきこと当たり前に言える機会を頂けたので感謝もあります。
頑張ってください。

ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
120-51-219-76.aichi.fdn.vectant.ne.jp

<我が身可愛さだけの卑怯者
にニヤニヤしてコメントを読んでおりました。
どっかんと、山が噴火した感情的な「浮離」さんの言葉面白いですね。
で、言いたいことをいったら、マグマが固まったかのように落ち着いた。

そもそも言いたいことを明細に書けるわけがないんですよ。
だって、文字自体が有ですから。
だから、プラトンも「無」や「空」を語れねーって、語ろうとしている失敗者たちですよ。
オーウェンは、監視社会への警告がメインですがね、、、

そのために、プラトンは、ソクラテスという語らぬものを存在させているわけで、ソクラテスがいたのかは、不明ですからね、、、、
釈迦ともおなじで、シッダルタをモデルにしていて集合意識みたいなものですからね。

そして、ここにいる誰もが、失敗者で卑怯者です。
もし、本当に青写真が書けているののであれば、それは限りなく実像に見える虚像でしょう。
文字は有ですから。

されに言及するなら、プラトンにしてもオーウェンにしても、原文を翻訳しているので、ご解釈が生まれる。

この無がわからないから、哲学が始まったわけで、文字のない時代は語られぬものを感じていたんでしょうね。

それがカント以前の神々で、1800年も以上も続いて、語れぬものを語ろうとした。

だが、語れぬものは語れず、現象を現象としてみようとしてのが物質主義に発展して、科学崇拝になったわけで、オーウェンが、科学監視社会になりまっせ、って書いたわけですが、
作家としてなんとかそれを語ろうとし、ここで「獏」さんは、藻掻いているのでは?

夢喰いの「獏」ですからね(笑)

人間に生まれた時点で、みんな未熟なのでしょう。
そもそも、未熟じゃなかったら人間になる必要もなかったでしょうし、悩みも必要無く。
「色即是空 空即是色」「◯」「空」「無」
どの言葉を当てはめても、語れぬものは語れず無理です。
語れぬものを、この話の王様語にしているのでしょう。
けど、最後に「誰ひとり知る者もない」という虚像が生まれているわけですね。

ここまで、考えさせられること、自体に意味があり、かなり面白いのでは?

自分の殻やエゴを突っつかれると、きまって人類の獣部分は感情的に爆発させる。

ただ、A vs Bのビックバンであれば、プレスバンの弁証になっていき、そんなものはないんだ。と、なっていくのが、プラトンですよね。
この弁証が、なくならないから困っちまったわけで、では、次は、量子力学の意識をクオリアすれば、無が観測できんじゃね。と、物理も移行しだしているわけで、けどそれも物自体が生まれるわけで、「有」であるわけで、、、、永劫回帰してしまうわけで、哲学も移行しているだけで、、、
「哲学者は町を追い出されました。誰より正確に話したからです」
と、いいますが、哲学者は町を追い出せても消えなかった。
いまも哲学が有るのですから。

そして、最後にソクラテスの「私には悪を知らなすぎた」を取り入れているのですが、、、
ニーチェは悪も喜びだと言って神を殺したわけで、サルトルが「存在と無」で「いまの実在から無」をしろうと綴ったわけ、
繰り返しのぐるぐるを体験しているだけのことを皆様で藻掻いているわけです。

以上面白い作品ありがとうございました。

浮離
KD111239171189.au-net.ne.jp

あのね、そういうふんどし口上も結構なんですけど、それにこの書き手がまたそれっぽいことためつすがめつか上っ張りも甚だしく応答してみたとして、それ見てる人が一体なにがおもしろいんですか? ってこと考えないんですか? って言ってるんですよね。

知っていようが、考えようが、それを自分なりに正確に言語化出来ないなら知らないも一緒でしょ、って言ってるんです。
他人のふんどしって、そういうことじゃないですか。

“作家"って、一体なんのつもりだと思ってんの。
お金もらって云々とか時代遅れみたいな話ならあたしは全然違うから話しかけんななんです。

あたしは感想書いてないですけど、あなたの作品ってなんか、スッカスカの乾いたスポンジみたいなんですよね。
浴槽洗うときによく泡立つみたいなやつ。
あれこれ考える材料があるらしいことは結構なんですけど、それが気になるばっかでどれもこれも齟齬になる気がするばっかで切り捨てて整えたつもりになってるばっかみたいな、本当に自分可愛さばっかのこれ見よがし丸出しみたいで、あたしはこれっぽっちも興味持てなくて感想書く気にもさせられないばっかなんですよ。
干しすぎたのかそもそも別モノだったのか、アミノ酸まですっかり紫外線で分解されちゃってダンボールみたいになっちゃったスルメもどきとかそんな感じ。


伝わらないと思うんですけど、あなたが言ってることってたぶん、すっごい古臭い解釈っていうか“小説“としたがるものらしく張り付いたきりとっくに古びた概念みたいな気がするんですよね。
そんなことばっかって、興味も何もない人たちに高括られるばっかなわけじゃないですか。
頭良さそうに高尚に言葉と材料選んで一角気取れば適当にそれっぽいかみたいなとこから始まるお鼻高ななんちゃらとかめんどくせえ胸糞わりい、くらいにしか世間は思ってなくて面倒くさくて“文芸"なんてこじれた性悪が群がる元手ゼロから誰でも始められる人生一発逆転お花畑ホイホイですよね草、だとか見込まれるなりに丸出しで落ちぶれたわけじゃないですか。
推しだのAIだのって安っぽく擦り寄るだけの所詮商業とか見透かされて見損なわれるばっかなわけじゃないですか。


馬鹿ですけどいいじゃないですか、気に食わないなら気にすんな


くらいのこと言った途端に角が立つらしいひ弱で陰険なご趣味蔓延るケチ臭さでしかなくなっちゃったわけじゃないですか。
苦手なばっかがヒステリックにケチ臭いばっかじゃないですか。
何様のつもりか知らないですけど。


古臭いご高名を笠に着て博識かただの受け売りかもどうでもいいんですけど、それ見せびらかして気持ちいいだけなら自分にだけ着せて他人巻き込むなって思うんですよね、つまんないので。

このちょっと下でもあたし騒いでるんですけど、見てないですか?

言うだけなら簡単みたいのことばっかでどいつもこいつもつまんないばっかなのどうにかするべきなんじゃないの? って言ってるんですよね。
言い草ばっかでろくに書きもしないやつばっかがあちこちで恥晒してのさばるばっかの“小説サイト“ってなに。
作品書かずに屁理屈ばっかあちこちに並べて認められる気がするクソ馬鹿ばっかの“小説サイト“ってなに。
みっともなさすぎないですか。

プラトンもオーウェンも知らないですよ、知ってるならそれ自分の言葉に変えられなくてなに知ってるつもりなのか威張りたがるつもりなのかって言ってんの。
そういう空っぽさをあなたの作品からは感じるなあ、ってこれはあたしばっかの言い草ですけど、読者なんてそんなもんだってことくらい請け負って当たり負けない自分ばっかの言葉探すのが楽しいんじゃないんですかこんなくっそ面倒臭いこといちいちやりたがるってことは。

どうしてあたしは手口の見苦しさを憚らない馬鹿ばっか刺激しちゃうの?
簡単なことですよ勘違いしたらダメなんですよ、それがあたしっていう“作家"たる威力の証明だとあたしは当たり前に思ってるし、事実でしかないじゃないですか。
あなたがプラトンを語るのと、あたしがあたしの作品を存分に語れる意味を履き違えたらダメなんですよ。
その違いがわからないし、でも口惜しくて疎ましくてとはいえ太刀打ちできないことわかってるから、馬鹿こそあたしに筋違いな粘着を諦めないわけじゃないですか。
あたしは、それほどには引き締まった動機をぶん回してるし他人より自分の側向いて懸命に書いてるんですもん当たり前ですよ面倒臭がりの腐れた見栄ばっかの馬鹿なんかが敵うわけないです。

あなたが博識でお利口らしいだとか、そんなポジショントークかドヤとかどうでもいいんですよそんなもん誰も興味ないですから。
その上で客呼ばないやら場が動かないならただのつまんないか下手くそでしかないでしょ。
そんなもんばっかと馬鹿ばっかで枯れ木も山の賑わいですらないことばっかしか見掛けない感じどうなの、って言ってんです。

下手と馬鹿とつまんないが余計なこと口出すなとは思うんですけど、そんな馬鹿が呼び寄せられても許されると思わせるくだらなさから是正しないとダメでしょって言ってんの。
クズばっかうろうろしてまじめに書くこと馬鹿らしくなるとかどんな非効率なの。

感情的であることを馬鹿にして見下げるつもりなら、“小説“なんて諦めた方がいいんですよはっきり向いてないと思うしそれが片手間の筆筋にもちゃんと表われてるみたいですよ、って言ってんです。


あたしそういう外側ばっか向いた自分に優しいばっかの選び方振る舞い方自分に許せる人嫌いなんですよ言うことやることつまんないばっかじゃないですか。


趣味違うならこすんないでくださいよあたしはもっと頑丈なこと当たり前に楽しみたいだけですから。

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ロムスカさん

コメントありがとうございます。
浮離氏は意外と分析をしっかりされているので、ああ見えてバランスが取れているように思いますね。

最初はソーカルかと思いましたが、浅田彰くらいにはまとまっていました。ムスカさんの手にかかるとプラトンもエクリチュールと手に手を取り合って愉快に戯れ始めるわけですが、それではなぜ『国家』のソクラテスは詩人を追放したのか、そこに真理を語る側として輝かしい勝者の意識がなかったかどうか、疑問が残ります。プラトンが描くところのソクラテスは語りえないものを語ろうとして藻掻いてなぞいません。彼はロゴスという名のこん棒をしっかり握りしめて、不正とみれば誰彼なしに殴りに行ってさらしあげる迷惑Youtuberであり、そうでなければ──いみじくもニーチェが言ったように──社会に出て生きる勇気のないオタクたちの集合意識が作り上げたイエス・キリストです。寓話というものは彼らの手こそふさわしいので、つまりは専断であり、トップ・ダウンのドグマこそがその本質なんですな。1984だってそうです。ムスカさんもまさかオーウェルがイデオロギーとポリコレ棒を投げ捨ててあれを書いたとはいいますまい。プラトンもオーウェルも忌々しいほどに教条的であり──しかし奇跡的なまでに美的なのです。上方へと無限に下降していく螺旋状の変転? そんな陳腐なイメージなぞこの際捨ててしまいましょう。いつまでも砂時計をひっくり返すだけが哲学なら、そんなものに何の意味がありましょうか。

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