落日の眩耀(完全版)
夢の話をしよう。君達も一晩の間に、随分と長い時間の夢を見た経験があるのではなかろうか。現実世界で換算すれば何時間にも相当する夢を。とはいえ、そもそも夢の中では正確な時間というものは存在しない。単純にできごとを並べただけのものが夢で「そう、これは一時間だった。」というように、あとから時間という概念を付けているだけの話だ。夢は、特にレム睡眠が二十から三十分以上持続したときに出現しやすくなるといわれる。レム睡眠は、約九十から百二十分の間隔で一晩に数回出現し、睡眠後半に向かうほど持続時間が長くなるそうで、そのため、朝方に、鮮明でストーリー性のある夢を見ることが多い。どんなに長い夢でも見ているのはほんの僅かな時間なのだろう。事故の瞬間に、走馬灯のように映像が浮かんでくるというが、脳は、現実の時間よりも遥かに短時間で同等の内容を認識することができる。いずれにせよ、一瞬で、かなりの情報を夢として見せてくれるのだ。
あぁ、今夜もそうなのか……
ここ一週間、毎晩同じ時間に同じ夢を見る。目覚めると決まって時計は、午前五時二十五分を表示している。不思議なことに『今、自分は夢を見ている』という意識がある。そのような、夢と認知して見る夢というものは大抵が、夢の中での非日常を察知したときにそう気付くものだが、私のそれは、夢の世界に入った瞬間から『夢を見ている』と解るのだ。夢の最後には、いつも朱色のぼやけた光の楕円。徐々に焦点が合ってくるとそれが、デジタル時計の時間を表示していると気付く。
そして静かに、目覚めたのだと理解する。
………
まばゆいばかりの落日が、枯れ葉を透かしながら山々に漆黒の訪れを告げている。この峠に、どのような経路で辿り着いたかなどはどうでも良いことだ。ただ遠い昔、 子供の頃から脳裏に焼き付けられていたのであろう、初めて見る景色ではない。
私は急いでいた。このままでは日があるうちには帰れないと解っているのだが、とにかく急いだ。山道には枯れ葉が積もり、踏みつける度にガシャグシャと音をたてる。場所によっては膝近くまで埋まる程、落ち葉が積もっている箇所があるために、急いではいるものの歩みは慎重でやけに重い。気を付けなければ底に貯まった水気のある枯れ葉に足をとられ、滑りそうだ。
暫く下って行くと右手に大きな白樺があり、それを過ぎると脇道があった。その入り口には地蔵が立っている。風と雨水にやられたのか、顔付きがやけにいびつな地蔵である。木々の間から差し込む夕日に照らされた地蔵の影は、脇道に沿って長く伸びている。それに導かれるように無意識に、私は道を逸れていった。手入れされたその道には落ち葉が無く、ゆったりと右にくねる小道をいった先には一軒の平屋の家が建っている。平屋の裏は断崖なのだろう、西陽に照らされた雲がオレンジ色に耀き、遠くの山々迄見渡せる。山に映る陽は徐々に暗闇に支配され、その上空に星々がうっすらと姿を現すと不意に不安感が押し寄せて、来た道を振り返る。振り返った先には、逆光を背中に浴びた、すらっとした女が佇んでいた。背中越しの夕陽が眩しくて女の顔が認知できず、手のひらで光を遮りながら細目で凝らす。わずかに唇が動いているのがわかる、何か話し掛けている様子だ。「なんなんだ……」と、一歩踏み出した刹那、女の姿が消え、人差し指と中指の間から西陽がもろに突き刺さる。瞬時に目を瞑ると、瞼には朱色の光の楕円。徐々に焦点が合ってくるとそれが、デジタル時計の時間を表示していると気付く。
『――5:25――』
そして静かに、目覚めたのだと理解する。そんな夢を一週間も見ているのだ。
何度も同じ夢を見ているうちに私には願望が芽生え始めていた。疑問も生じたがそれは大したことではなかった。自身の中で、解決はされている。
夢冒頭のあの景観、見覚えがある。確かに以前から記憶している風景だ。……そうだ、あれはこどもの頃に遊んだ裏山。冬になると険しく細い山道は枯れ葉で埋め尽くされ、道の窪みに貯まった枯れ葉の中に飛び込んで、遊んだ記憶がある。小一時間程かけて登って行くと山の頂きに着く。逢魔が時、そこから見える海に沈む夕日が、こどもながらに素晴らしく思えたものだ。多分、デフォルメされたその景色が夢に出てくるのであろう。だが、裏山には地蔵はないし民家などなかった。白樺が自生する環境でもない。しかし、それこそが夢の夢たる証し。全ては、脳の記憶がクロスオーバーして創られた世界なのだと納得はできる。安易ではあるが疑問は解決された。
願望というのは、あの平屋の家には何があるのか見てみたい。そしてあの女性は、私に何を話したのか、はっきり聞いてみたいというものだ。その願望を意識して夢に挑むのだが、白樺を越した頃にはいつもすっかり忘れてしまっていた。
今夜こそ夢を進ませなければならぬ。謎が解けさえすれば、こんな夢は見なくてすむはずだ。
………
落日の山道、見た夢の足跡を辿るかのようにゆっくり進む。
一本の白樺、ここからだ。右手の甲をつねりながら次の場面に向かう。
地蔵が見えた。顔つきを確認する。歪んだ顔、よし。
無意識ではなく、はっきりとした意識の中で手入れされた小道を進む。崖の手前に平屋が見えた、不安はない。
初めて平屋の玄関に辿り着く。ここからが新しいステージとなる。
綺麗だな……
玄関ドア上部には、切り抜きの四角い枠にステンドグラスの細工が施され、室内の灯りが漏れている。ガラス細工の赤い花。見たことはあるがなんという名前だったか思い出せない。というよりも、その花の名を知らぬ。
私は、ゆっくりとドアを開けた。
中に入ると、そこには、床も壁も天井も全て漆喰で塗り尽くされた真っ白な、外観からは想像もできない程の空間が広がっていた。透明感と奥行きのある光沢、これはイタリア漆喰、その中でもベネチアーノか。高級ホテルのロビーのようでもあり、美術館のようでもあった。高い天井からは、無数の間接照明が、様々な角度から空間全体を照らし、演出された自然な光は私の影さえ落とさない。
白の世界……
暫く見渡していると、背面からス~と風が入る気配を感じた。振り返ると、黒い喪服を着たすらっとした女が、ステンドグラスのドアの前に立っている。
白の中に浮かび上がる黒衣の女。山道のあの女だとすぐに気がついた。また、なにかを話している。口だけが微かに動く。同じ言葉を、ゆっくりと、何度も繰り返している。唇を読むと、「や……め……な……さ……い……」。やめなさいと動いているのが解った。
なんのことだと問いかけても反応がない。いや、私の声そのものが出ていない。女のように唇だけが動いている。
音のない世界なのか……
女は遠い目をしていた。私を通り越した女の視線の先に目をやると、いつ現れたのか、奥の壁中央に大きな絵画が飾られており、その横に真っ黒なドアがある。
初めて見る絵ではない。絵画の下には作品の題名が記されている。「決して来ない時」と書かれていた。そうだ、絵画展で見たことがある。確かフランスの画家だ、バルテュスと言ったか。
バルテュスの絵には少女が描かれた作品が多い。なぜ少女を描き続けるのかについて、「それがまだ手つかずで純粋なものだから。」と、答えたのが印象深く、記憶に残る。
「決して来ない時」
椅子に浅く腰掛けて片足を投げ出し、上半身を反り返らせるような、不自然なポーズで眠っている少女。その奥にいるもうひとりの少女は、大きな窓から遠くをただ見つめている。窓からうっすらと差し込む陽は、その絶妙な色彩により、観る角度で、朝陽にも夕陽にも想起させる。それは、観る者のその時の感情により、左右されるのであろう。
私には、夕陽にみえた。
♢ ♢ ♢
――二日前――
愛知県蒲郡市 県警管轄病院解剖室
「ドクター、司法解剖中に失礼するよ」
「いいえ、構いませんよ。でも、こんなところに。……捜査の指揮を執らなくてもよいのですか」
「いやね、先ほど所轄から愛知県警に捜査権限が移行した。私は指揮権を剥奪されたよ」
「そうだったんですか……あっ警部補、この仏さんは高校生と聞きましたが」
「かわいそうに、三年生だよ」
「……はぁ……」
「死因は絞首による窒息死だろ。この手首やら、足首やらの鬱血は……、縛られてから首を絞められたということなのか?」
「はい。正確には縛られて、強姦された後に、首を絞められて殺されたのでしょうね」
「この顔つきからは、想像出来ないな……」
「そこなんですよ謎なのは。強姦ならば、膣口や膣壁に損傷があってしかるべきだが、それがない。手首、足首の他に目立った傷は見つからない。抵抗しなかったのか、綺麗なもんですよ」
「しかし、被害《ガイ》者からはストーカー被害の届けが出ていたんだよなぁ」
「ストーカーですか……」
「誰かに見られているようだとか。証拠不十分で見送られたんだよ」
「でもね警部補、確かに性交の跡はあるが、体液が残されていない。強姦者がゴムして犯すかなぁ?」
「そうか、……なるほど」
――コンコンコン……
「はい」
「お忙しいところ失礼します。鑑識からの報告で、被害者のアパートから盗聴器が見つかりました。ストーカーが仕掛けたのだと思われます」
「ああ主任、ご苦労様。私も直ぐに署に戻る。その前に君もちょっと見てくれないか、顔つきなんだがな……」
「……はい、苦しんだ様子がありませんね」
「そうなんだよ。抵抗した痕もない」
「……そのようですね……」
「なぜ、ガイ者は自宅を離れて、一人暮らしをしていたんだ?」
「母親が三年前に再婚をしておりまして、多感な時期だけに、被害者は同居を拒否したらしく。高校進学を機に、アパートを借りたと」
「そうだろうな、母親とはいえ女だ。一人暮らしの承諾はするだろうな。君も女性だから、そのへんの感覚は解るだろ」
「…………まぁ……」
「あぁそれで、犯行現場のアパートからは指紋は出たのか?」
「はい。被害者のものとは別の指紋がありました。特に、ベッドの周辺に密集していました」
「そうか、多分、犯人のものだろうな」
「その犯人なんですが意外なことに、義理の父親と指紋が一致しております」
「なに! 父親だと」
「はい」
「それで、義理の父親の身柄は確保できたのか」
「いえ、事件発生の夜から家には帰っておりません。逃亡しているのかと思われます。指名手配の方向で県警本部は動いています」
「では ストーカー行為をしていたのは、そいつなのか……」
――その日――
愛知県警蒲郡署 取り調べ室
「あの人が、娘に手を出していたことは知っておりました……」
「それは、いつ頃からなんでしょうか」
「一年程前からなんとなく、娘の態度が変わって。……あなたも女だから、解るでしょ」
「むっ…………」
「あの人……主人も、わたしから遠ざかるようになってしまって、最近では一緒にいても会話もなくて」
「それで、前のご主人に相談したんですね」
「いいえ違います、相談したわけでは。前の主人が、成長した娘に会いたいと言ってきたんです」
「失礼ですが、離婚したのはどれくらい前なんですか」
「娘が五歳の頃ですから十二年くらいになります。前の主人は事業に失敗し、ヤミ金に手を出して、離婚後に自己破産をしました」
「その後はどうされていたんでしょうか?」
「実家の西伊豆、松崎町に帰ったのではないかと思いますが、全く音信不通で。三ヶ月前にひょっこり家に現れて。ここではなんだからと、彼の車の中で話をしました」
「その時に、娘さんとご主人の関係を話されたんですか」
「はい、そうです。相談と言うよりも、娘に会わせて欲しいとしつこいものですから、わたしもつい苛立ってしまって……」
「その話を聞いて、前のご主人はどんな様子でしたか」
「無言でした。ただ下を向いて、両手で握り拳をつくって、震えながらドンドンと車のハンドルを叩いていて……。わたし、恐くなってしまって」
「アパートの住民からの聞き込みによると、部屋に盗聴器を仕掛けたのはどうも、前のご主人のようです」
「んっ…………」
「それと、言いにくいお話なんですが。……娘さんは殺されたのではないようです」
「えっ、それはどういうことでしょうか……」
「事故です。検視の結果、性交の最中に、なんと言うか……行き過ぎた行為によるものだと」
「……そ……そんなぁ…………」
「主任失礼します、犯人の車が見つかりました。現在蒲郡方面から三河湾スカイラインに向って逃亡中、白バイが追っています。白バイからの報告では、もう一台普通車が、逃亡車の後ろを追っている模様。警察の車両ではありません」
「承知した、こちらもすぐに向かう、幸田町方面から入り挟み撃ちにする。至急応援車両を回すように」
「了解しました。尚、もう一台の車両は白いワゴン車だそうです」
「えっ、前の主人と、同じ車だわ……」
「……とにかく急げ。国坂峠で挟み撃ちだ!」
――三河湾スカイラインを一台のパトカーが疾走している。 時は正に落日を迎え、朱色に耀く太陽が、それぞれの万感の思いと共に水平線にその身を浸そうとしていた。
「主任あれですね、少女殺しの犯人の車は」
サイレンをけたたましく鳴らしながらパトカーが国坂峠の駐車場に入って行く。フロントガラス越しには、犯人が車から慌てて飛び出して行くのが見えた。犯人の車の後ろにはぴたりと白いワゴン車が停まり、その運転手が後を追う。手には出刃包丁が握られていた。
「そこのふたり、止まりなさい!」
女性主任警官は、声を張り上げながら走り寄る。
追っていた男の手が犯人の肩を掴んだ。
「やめなさいっ!」
逆光を浴びた女性警官の姿を確認した男は、一瞬動きが止まったが、直ぐに刃《やいば》を掴んだ手を犯人の頭上にかざした。
ドゴーン、ゴーーー……
銃声と共に、栖で微睡み始めた鳥たちが一斉に木々から飛び立つと、辺りは静寂に包まれた。すぐさま男の警官が、犯人の身柄を確保し手錠をかける。撃たれたワゴン車の男は、ぐったりとその身を地面に横たえていた。その視線は、真っ直ぐ歩み寄る女性主任警官に向けられている。
そばに寄り、しゃがみこんで男の顔を確認すると、視線は変わらず彼女が来た方向に向けられていた。振り返り、男の見つめる視線の先に目をやると道路標識が立っている。
逆光の中、目を凝らす。
『県道 525号』とある。
標識の周りには、季節外れの真っ赤な彼岸花がゆらゆらと西風に揺れていた。
♢ ♢ ♢
椅子に腰掛け微睡む少女。窓の外を見つめているのはその少女自身ではなかろうか。今、この瞬間、過ぎ去っていく時間は決して後戻りすることは出来ない。逢魔が時、夢の中の少女には窓の外に何が見えたのか、決して来ない時を愁いでいるのか。
絵画を観ているうちになんだか視界がぼやけてきた、私は泣いているのか……。どういう訳だかこのまま、この絵をずっと観ていたくなった。しかし、夢を終わらせねばならぬ。黒いドア。多分これが、最後のステージなのだろう。これで終わりにしよう。
覚悟を決めドアを開ける……
落日に目が眩み、膝をついてしまった。
…………了
《参考音源》
ショパン
ノクターン20番『遺作』
https://youtu.be/WrrLraHKvZs?si=CmfjCROGT3N6lPaz
執筆の狙い
以前あまりにも不評だった為、推敲に推敲を重ね、このようなものになりました。
お読みいただけたら幸いです。
先日、天城から河津に下り、伊豆半島西海岸をドライブしました。
黄金崎辺りからたそがれ始め、松崎町の海岸から見た海に沈む夕陽は素晴らしかった。