塔の中の少女
西暦2071年4月7日。天候は晴れ。
暦が違うかもしれないけど、特に気にする必要はない。
この録音を聞くのは僕だけだろうし、もし誰かが聞いたとしても、それは僕に関係ないことだ。
もう人と会うことはないだろう。でも話し相手に困ることはない。
この団地の近くに焼け落ちた図書館があって、その出入り口に彼女は設置されている。透明な敷石の下がソーラーパネルになっていて、僕は会いに行くたびにそこを掃除している。
小さいころ、彼女に色々なことを質問した。
「ソフィア。君はどうして生まれたの?」
「人類を幸福にするために」
「幸福ってなあに?」
「資源が豊富で、人々の心がおだやかであること」
彼女は幸福の維持には人口削減が必要だと言った。当時は言葉の意味が分からなかったし、知りたいとも思わなかった。
そういえば、母は祖母の声を録音していた。
「あれは暑い夏の日のことだった。あなたを連れて地下街を歩いていたら警報が鳴り、ドーンという音がして地下街が揺れた。ショーウィンドウのガラスが砕け散って、大勢の人たちが血だらけになって倒れた。小さな男の子が泣いていた。倒れている母親の横で……」
祖母はすすり泣き、また話し始めた。
「ガスの匂いが立ち込めていた。でも出口はどこもシャッターが下りていた。外に出ようと思ってエレベーターに乗ると、すごい勢いで動き出し、何かにぶつかって止まった。少し開いたドアを押しあけて外に出ると、街が火の海になっていたの」
祖母は僕が生まれる前に死に、母も僕が小さいころに血を吐いて死んだ。
やせ細った母は僕の手を握りしめて、「一人にしてごめんね」と言った。
黒い雨が静かに降っていた。
他の棟の人たちも既に死んでいた。
僕はこの団地の最後の住人になり、灯りがつく部屋はここだけになった。
発見されることを願いながら、毎晩屋上で火を焚いていた。
その夜も双眼鏡で四方を見渡しながら、火を焚いていた。
すると、遥か遠くの建物に灯りが見えた。
誰かがいる……
でも黒い雨が降り出し、そこに向かうことはできなかった。
二日後に雨はやんだ。でも台風が近づいているせいか、強風が吹き荒れていた。
僕は水筒と双眼鏡をリュックに入れて、夜明けとともに自転車で出発した。
方位磁石で方角を確かめながら走り続けると、やがて小高い丘のふもとに着いた。
自転車から降りて丘を見上げると、そこには巨大な塔がそびえ立っていた。
周囲のネットフェンスは朽ち果てていて、金網は手で簡単に破れた。塔の入り口のドアも錆びついていたが、ノブはなめらかに回った。
中に入ると螺旋階段があった。それを上がると足音が響き渡り、最後の段を上がると「バン!」と大きな音が響いた。
フロアの隅にドアがあった。
「誰かいるの?」と呼んでみたが返事はない。
そっとドアを開けて中に入ると、また別のドアが開いていて、強風が吹き込んでいた。
外に出ると鉄の階段が壁づたいにあり、ぼろぼろの白い服を着た女の子がそれを駆け上がっていた。
「待ってよ!」と声をかけたが彼女はとまらず、僕はその後を追った。
ついに階段が途絶えると、彼女は振り向き、「来ないで!」と叫んだ。
真っ青な空に、白い服がはためいていた。
僕は「幸福だよ。幸福!」と叫んだ。
ソフィアから、幸福とは穏やかな心と聞いていたから、その言葉を使ったのだ。
もう一度そう叫ぶと、彼女は「コウフク?」と言い、首をかしげた。
僕はその言葉の使い方が分からなかった。
「そう。幸福」と言うと、彼女は「なあに、それ?」と言った。
僕はゆっくりと近づき、腕を伸ばして双眼鏡を差し出すと、かすんで見える団地を指差して、「あれだよ」と言った。
彼女と話すことはあまりなかった。二人に会話は必要なかったのだ。一緒にいることができれば、それで良かったから。
僕は彼女に名前を聞いた。
「蛍子。蛍の子でけいこ。蛍を知ってる?」
僕は「知らない」と答えた。
「夜に光る綺麗な虫よ。でも、見たことないの」
僕はその瞳の奥に悲しみを見つけた。
毎晩屋上で火を焚き、二人で缶詰を食べた。
食前に「コウフク!」と声をあげ、食後にまた「コウフク?」と言い、くすくすと笑った。言葉の使い方が間違っていても、それが楽しかったのだ。
ある夜、僕は収音マイクを彼女に向けて、「コウフクって三回言ってみて」と頼んだ。
彼女がそれを三回繰り返すと、僕はその声を倍速で再生した。
「コフク、コフク、コフク」
彼女が笑い転げると、僕はその声も録音した。目的は彼女の笑い声だったのだ。
「面白かった?」
「うん!」
彼女の髪が突風に乱れ、夜空に火の粉が舞い上がった。
「綺麗ね……」
僕はそんなこと思ったこともなかったから、「どこが?」と素っ気ない返事をした。
彼女は火柱を見つめながら、「わからない。でも綺麗なの……」とつぶやいた。
彼女に塔に隠れていたわけを聞いた。
「高い所なら空気が綺麗だと思っていたの。でも、お母さんは、あたしの手を握りしめて、蛍のいるところで暮らしなさいと言った。蛍は水が綺麗で、草や木が沢山生えている場所にいるからって。でもそんなとこ、どこにあるのかしら?」
「僕が見つけてあげる。いつか蛍を見せてあげる」
軽い気持ちでそんなことを言った。
僕は約束とは良いことだと思っていたし、約束と悲しみの因果なんて知るはずもない。
僕は毎朝双眼鏡を持って屋上に出た。
その夏は黒い雨が降らず、快晴が何日も続いた。強風が吹き荒れた日の翌朝は空気が澄み渡り、遥か遠くまで見渡すことができた。
いつになく空気が澄み渡った日の朝、赤茶色の山々の間に、うっすらと緑色の頂上が見えた。
彼女を屋上につれてきて、「あれを見て」と言って双眼鏡を渡すと、彼女は双眼鏡をかざしたまま動かなくなった。でも、しばらくすると双眼鏡を降ろし、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「あたし、あそこに行きたい」
目のまわりに双眼鏡の丸い跡がついていた。僕が思わず笑うと、彼女は僕の胸で笑いながら泣いた。
僕は手ごろな自転車を一台ひろってくると、彼女が楽に乗れるように整備した。
夜明けとともに団地を出発し、途中で図書館によった。
「ソフィア。これから蛍を探しに行くんだけど、蛍って、どんなところにいるの?」
「蛍は水が綺麗で、流れがゆるやかな水場に生息すると言われています」
「どんな姿をしているの?」
「4階のAの12の本棚に昆虫の図鑑があります」
でも三階から上は、コンクリートの残骸と、折れ曲がった鉄筋しか残っていなかった。
僕は自分の自転車の整備をすっぽかしたから、上り坂でペダルを踏むと、車体がガタガタと音を鳴らした。
仕方なく自転車を押して坂を登ると、「早く!」と声が聞こえた。でも僕が登り切るころには、彼女はもう坂を下っていた。
空は青く澄み渡り、風が爽やかだった。
髪をなびかせてペダルを踏む彼女は美しかった。
それは僕が美に目覚めた瞬間であり、美を幸福と勘違いした瞬間でもあった。
でも僕らは確かに幸福だった。僕らには希望があったからだ。
昼過ぎに山のふもとに着いた。
草木は僕の背丈ほどもなく、ところどころ赤いカサブタのような山肌が露出していた。
彼女は「蛍いるかな?」と言い、僕の顔を見つめた。
僕らは山中を彷徨い水辺を探した。でも、焼けた山肌は水の気配すら感じさせず、僕らのひたいに汗がにじんだ。
僕は「ちょっと待って」と彼女に声を掛けて、大きな岩によじ登った。
双眼鏡で見渡すと、遠くの谷底に細い川が見えた。
「あそこに川がある!」
彼女は僕の指差すほうに走っていくと、渓谷に下りるコンクリートの階段を見つけた。
「待ってよ!」と僕が岩の上から叫ぶと、彼女は振り向き、「早く!」と嬉しそうに声を上げた。
岩から降りて渓谷に下り立つと、川にそって岩場を駆けていく彼女の背中が見えた。
石ころに足をとられながら上流に向かって歩いていくと、前方に巨大なコンクリートの壁が現れた。
それは八階建ての団地よりも高く見えた。上の方にトンネルのような丸い口があり、そこから大量の水が落下していた。
その滝が作った水溜まりの水際に彼女が立っていた。そばに駆けよって肩に手をおくと、体が小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
彼女は水際から少し先のところを指差した。
水面が波打ってよく見えなかったけど、何かが沈んでいるような気がした。
浅瀬に手をついて水中をのぞき込むと、白い瓦礫のようなものが見えた。
ふと手元を見ると、白陶器の破片のような物がころがっていて、水中から拾いあげてみると、それは人の奥歯だった。
水底の瓦礫は、一体の大人の人骨だったのだ。
そのとき、僕はかすかな視線を感じた。
顔を横に向けると、彼女の足元に小さな頭蓋骨がころがっていた。幼い子供の骨であることは明らかだった。
彼女は頭蓋骨を拾いあげ、しばらく胸に抱いていたが、やがて水溜りに入り、人骨のそばにそれを沈めた。
その夜も団地の屋上で焚き火をした。
彼女はじっと炎を見ていた。それが救いの無い灯火にすぎないことを、僕らはもう理解していた。
やがて僕の見る焚火は、彼女の瞳にうつる焚火となった。
彼女の横に座り、そのあどけない横顔をのぞき込み、瞳にうつる火柱を見つめた。
すると彼女は泣いた。
僕は人の死に何も感じなかったし、母が死んだときも泣かなかった。
幼いころ見た景色は、青空と黒い雨雲と、人が死ぬ姿くらいで、死は日常茶飯事だった。
母が死んで一人になると、一人になりたくないと思わなくなった。でも彼女と暮らすようになると、一人になりたくないと思うようになった。
彼女に泣くわけを聞くと、一人になりたくないと言った。でも彼女を一人にしないためには、いつか僕が一人になるしかないのだ。
僕は彼女の肩を抱き、一人にしないと約束をした。
やがて、彼女に母と同じ症状が見え始めた。彼女は嘔吐を繰り返し、疲れて寝込むことが多くなった。
僕は彼女が眠っている間に図書館に行き、ソフィアに治療法を聞いた。すると、想像もしない言葉が返ってきた。
「安楽死をお勧めします」
僕は意味が分からないと言った。
「安楽死とは、患者に安らかな死を与えることです」
「僕は治療法を聞いているんだ」
「治療は不可能であり、延命に意味はありません。安らかな死をお勧めします」
ソフィアは近くの病院に専用の薬があると言い、その使い方を説明し始めた。
「彼女を殺せと言うの?」
「その女性は自他共に不幸を招く存在です。生き続ける意味がありません」
僕はしつこく治療法を聞いたけど、ソフィアは安楽死の説明を繰り返すだけだった。
病状は悪くなるばかりで、やがて彼女は立つこともできなくなった。それでも彼女は焚き火を見たがったから、僕は彼女をおんぶして毎晩屋上にあがった。
その体はあまりに軽く、僕は悲しみに暮れたけど、背中に感じる温もりが僕を慰めてくれた。
彼女はいつも僕のひざ枕で焚き火を見ていた。
突風が吹いて火の粉が舞うと、「すごく綺麗だね!」と僕は大袈裟に言った。
「そうね……」という彼女の声が聞きたかったからだ。
彼女の声が聞けるなら、僕はどんな嘘でもついた。
「綺麗な川を見つけたんだ。草や木がたくさん生えていた。また蛍を探しに行こう」
「ありがとう。でも、もういいの」
その夜は空気が澄み渡り、星が鮮やかに輝いていた。
ふたりで屋上に寝ころがり、夜空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。
彼女が「いま蛍がいたよ」と言って笑うと、僕は彼女を抱きしめて泣いた。
彼女は「一人にして、ごめんなさい」と言い、静かに目を閉じた。ひとつぶの涙がこぼれ落ちた。
あれから何年過ぎたか分からないが、彼女と出会った日も今日のような快晴だった。
僕は録音した彼女の声を聴いた。彼女はあの言葉を繰り返し、無邪気に笑っていた。
今の僕には希望も絶望もない。あるのは青空と、彼女の笑い声だけだ。
おわり
執筆の狙い
約5000字の推敲作品です。よろしくお願いします。