作家でごはん!鍛練場
跳ね馬

Bridge in the sky 完全版

『前編』


「──始めようか」
 博士がエンターキーを叩くと、脱水を控えた洗濯機のような音が響いた。モニター室と処置室を隔てるガラス窓が、まるで境界線を主張するみたいにじんじんと振動を始める。
 自席のディスプレイのみを凝視する博士に対して、佐藤はいくつもの画面に気を配っていた。バイタル表示に、流動的なエネルギーの数々。そして、ガラス窓の先のベッドで眠る、若い女。どれも異常がないことを確認すると、最後に雇い主に目を向けた。傾いた眼鏡、枯れ枝のような手首、研究に没頭した猫背、白髪混じりの剥げ上がった後頭部、ヨレヨレの白衣……。だが前のめりなその姿勢は、まるで好奇心にとり憑かれた子供のようにも映る。
 博士のパソコン画面ではカウントダウンが始まっていた。数字は10秒を切った。5秒を過ぎると、博士は切るように息を吸い、手元の砂時計を耳の近くで握りしめた。そして時だけに執着する。まるで望み通りの爆発を期待するテロリストのように。
 初めの頃は何の意味があるのだろうと佐藤は疑問だったが、いつしかそれは博士にとって、ある種の儀式なのではと考えるようになっていた。宗教家のごとく必然的で、それでいて見方を変えれば何の意味も無い。"ただ、博士にとっては必要なことなのだ"。佐藤はそう思うようにしていた。
 ブゥゥンという重低音が鳴り響いている。画面では横長いゲージに色が溜まっている。軽い色盲の佐藤でも、その色が何なのかはっきりと断言できる。血の色。赤黒い棒が、右端のMAXに滞ることなく伸びていく。止まらない。
 ゲージに血が浸透しきったその時、博士は砂時計を眼前にすばやく移動させた。上部では、まだ落ちきっていない砂がさらさらとこぼれている。ゲージはすでに溜まっている。不気味な音も振動も聴こえてこない。だが砂はこぼれ続け、博士はそれをじっと見つめている。佐藤はそんな彼の背中を、色のない顔で眺めている。
 砂がすべて落ちきった時、博士は縄を解かれた囚人のようなため息をつきながら腰を上げ、砂時計を白衣のポケットにしまい、パソコンからUSBメモリを取り外した。子供が握る100円玉のごとくそれを手に収めては、佐藤に「後はいつも通りに」と言い残し、備え付けのエレベーターに乗り込んだ。
 佐藤は変化の止まったディスプレイを一瞥してから、処置室に入り、仰向けになった女の腕を持ち上げた。脈と体温を確認し、眼球にペンライトを当てる。パルスオキシメーターを外し、カテーテルや電極に繋いだいくつもの針を抜く。女の体がまっさらになると、彼は事務的に努めた声をもって、腕時計の数字を読み上げた。
「17時23分」
 一つの死が、いま、いのちに変わった。

 坂下総合病院の地下には三つの出入口がある。一つは一般開放された駐車場へと繋がり、一つは救急車専用の通路となっている。そして最後の通路は、PASSを持った関係者だけが入ることのできる、ある施設へと続いている。薄暗く、警備員も常駐しないそこでは、病院の機能・目的とは一線を画す研究が行われていた。
 坂下議員の秘書が研究所にやって来たのは、佐藤が死亡確認をした30分後のことだ。マネキンに紳士服を着せたようなボディガードを引き連れた田所は、佐藤から受け取った報告書類を淡々と読み進めていた。細い男だった。声も仕草も、オールバックで露になった眉も糸のような目も、何もかも細く、それでいて鋭かった。まるで強い力で伸ばされ研がれた剣のような印象を、相対するすべての者に与える男だった。
 書類をすべてめくり終えた田所は、唇の片端を持ち上げながら滑るような口調で話し始めた。
「今回もお疲れ様でした。被験者の処理はこちらにお任せください」
「よろしくお願いします」と佐藤は目を合わせないように頭を下げた。
「博士は?」
「注入しているかと。坂下議員によろしく、と言っていました」
「お伝えしておきます」
「次の被験者は?」
「ああ、これは失礼」と田所は部下から受け取った資料を佐藤に手渡した。
 ページをパラパラとめくった佐藤は、ため息混じりにこう言った。
「多いですね」
 田所は喉を削るような笑い声を立てながら「4という数字が多いか少ないかは、人それぞれですねえ」と答えた。
「それでは」とそそくさに所内に戻ろうとした佐藤だが、程なく田所に呼び止められた。
「佐藤さん、今日こそ飲みに行きませんか?」
 佐藤は道化のごとく歪んだその目と口を見ないように頭を下げた。
「すみません、データ化しなければならないことが山程あるので」
「それは残念」
 足早に去っていく白い背中を見届けながら、田所はボソッとこう付け足した。
「いずれ、必ず」

 自室に戻った佐藤は、コーヒーメイカーのスイッチを押すやソファーに倒れ込んだ。そして手探りで見つけたリモコンをテレビに向ける。見たい番組があったわけではなく、頭の隅にこびりついた、あの不気味な重低音を少しでも紛らわしたかった。
 気分が落ち着いた頃にもう一度資料をめくった。今度はいくらか真面目に、それでいて心を捕われない程度に、被験者それぞれの顔と名前を確認した。
 四人目の被験者の名前は、黛と書かれていた。この時の佐藤にはまだ、その名詞よりもコーヒーをあまりに苦く感じてしまう疲労の方が問題だった。
 視聴者のいないテレビではニュースが流れていた。つい数年前までは見向きもされなかった、ある議員の特集だ。記者は腹を空かせたオウムみたいに何度も『道徳』や『摂理』という単語を繰り返し、応答する議員は面倒な顔一つせず、淡々とこう切り返した。
「我々は獣ではない。人は誰しも、尊厳を抱く権利を有している」
 安楽死制度を公約とする坂下議員の支持率は、去年の3倍に達していた


 黛と出会うまで、佐藤は三人の女を見送った。一人目は20代前半で、例に漏れず病的なまでに痩せて、手首にいくつもの線をこしらえていた。貢いだ男に騙され風俗店で働く彼女は、精神安定のために始めたドラッグをやめられなくなり、その量は男に殴られるたびに増えていった。
 面談時、彼女はずっとすがるように親指の爪をかじりながら、博士の説明に対してこんな返答を繰り返した。
「痛いのは、嫌です。痛いのだけは、もう耐えられません。他の事は何でもいいから、お願い、痛いのだけは、やらないで」
 痛みへの恐怖は、麻酔薬が注入されるまで続いた。むしろ麻酔薬の効果を適切にするためにドラッグの服用を止めていたので、その震えは最後の最後までおさまらなかった。
 絞られた雑巾みたいに縮こまった彼女は、ベッドに寝転がった時に視界に入る、ある物体から目を離せなくなった。第三者が端から眺めたら電子レンジにも見える、真っ暗な正方形──。
 黒い箱。
 鉄製なのかアルミ製なのかも分からないそれは、彼女に埋め込まれたいくつものカテーテルや電極を受け入れ、箱を通して一本のコードに代えて、博士のパソコンへと繋がっている。
 黒い箱は、博士が席に着くや重低音と振動を撒き散らした。置かれた処置室の中にいると、余震のごとく床がざわつき、腹底に嫌らしく響き渡る。
 女は泣きながら佐藤に訴えた。
「ねえ、アレは何? アレはダメだよ、絶対ダメ、この世にあっちゃいけないやつだよ」
「大丈夫。痛いことなんて何もない」
 佐藤は嘘をついた。一つは、麻酔薬の注入時にはひどい血管痛がつきものだということ。だがそれはほんの一時的なものなので、たいていは文句を言われる前に意識を失ってしまう。
 もう一つの嘘は、大丈夫、と答えたこと。
 アレが何なのかなんて、助手である彼にすら分からない。分かっていたのは、博士が一から作り上げたということ。そして──。
 何があろうと、必要以上に関わってはならないということ。
 この時の佐藤も例に漏れず、黒い箱には一切目をくれなかった。田所に接する時のような不信感からではなく、生物が誰しも備える危機意識によるものからだ。
 女はしばらく落ち着かなかったが、なだめる佐藤に麻酔薬を注入されるや、フッと眠りについた。それからはあっという間だった。佐藤がモニター室に戻った時には、博士はすでに砂時計に執着し、まもなく取り外したUSBメモリと共に部屋を後にした。
 動かなくなった彼女には何も残っていなかった。ただ、生命活動を放棄した肉体があるだけ。それは佐藤に、子供の頃よく遊んだ電池の切れたラジコンロボットを彷彿とさせた。

 二人目は30代半ばの主婦だった。彼女はとても饒舌で、資料に載せる必要もなかった事柄まで、聞き手の博士がうんざりする程に語り並べた。簡単に要約すると、自分を裏切り続けた夫への復讐らしい。
「田所さんにお願いしてるんです。私が死んだら、不倫の証拠を親戚一同に送りつけてくれって。父や兄はきっと婿養子への怒りがおさまらないでしょうね。副社長の椅子を取り上げるだけでなく、一流の弁護士チームを結成してあの男を苦しめてくれるはずよ。今思えば、子供ができなくて幸いだったわ」
 憎しみに囚われた彼女は、驚くほど淡白だった。不気味に震える黒い箱にはまったく意に介さず、ベッドに仰向けになるや、じっと人形のように、天井のLED電球だけを見つめていた。
 ただ彼女は、麻酔薬を受け入れる前、人形には決して浮かべることのできない色を瞳に滲ませながら、こんな話を佐藤に遺した。
「生物的本能なんてクソよ」
 脈絡のない彼女の言葉は、どうしたって整理できなかった自身の感情を、何のフィルターも通さずそのまま漏らしているみたいに、佐藤には思えた。
「もしそれが最も尊重されるべきだとしたら、どうして人は感情を持って生まれてくるの? 心が無い方が繁栄に適しているのに」
 黙って耳を傾ける佐藤は、彼女の資料のある一文を思い出していた。"10年に渡る不妊治療は効果が現れなかった"。その一文が、頭から離れなかった。
「私は、生物として、欠陥だったの? それとも──」
 女の悲しみに触れながら、佐藤は思い出していた。
 あの子の言葉を。

『佐藤くんの子供に会いたい』

「──それとも、私は……」
 目尻の先から、頼りない一粒がこぼれていく。女はそれに願望を託して、深い深い眠りについた。
「もしかしたら私は、進化の過程にいるのかもしれない」


 三人目は30代前半の難病患者だった。大腸を摘出する程の症状だけでなく合併症にも悩まされ、さらには鬱病も併発していた。博士から一通りの説明を受けた彼女は、話を理解できたのかどうか分からない顔にそっと微笑を滲ませながら、こう答えた。
「私なんかでも誰かの役に立てるのなら、嬉しいです」
 それが本音だったのかどうかは博士には興味がなかったし、佐藤も気にしないようにしていた。だが、いざその時を迎えた彼女は、震える黒い箱を一瞥した後、笑みの枯れ果てた顔でこんな今際の言葉を吐いた。
「他人は傲慢だ」
 それも本音の一つなのだろう、と佐藤は思った。あれも、これも、彼女を形成した一部なのだ、と。
「他人は傲慢だ。苦しむ者が訴えたら、世の中にはもっと苦しんでる人がいると言う。恵まれている人が手首を切ったら、あの人は影で苦労していたのかな、なんてほざく。正否を決めたがるのはいつだって赤の他人だ。そんなもの当事者には何の救いにならないのに」
 しくしくと頬を濡らす彼女の語り口は、どこか、己に言い聞かせているようにも佐藤には聞こえた。
「華やかに映る芸能人の自死は、健全者にとっては悲劇以外の何物でもないのでしょう。けれど、救いのない私にとっては希望に思えた。終わりを求めるこの気持ちが、決して間違ってないんだって、背中を押されたように感じた。私のこんな純粋な想いも、他人は平気で踏みにじるでしょうけどね」
 博士と違って、佐藤は疲れていた。この仕事を続けるたびに、目の下にこびりついた黒はいっそう濃さを増していた。
 だから最近の佐藤は、義務ではないこんな質問を被験者に投げかけるようになっていた。
「あなたは、死の先に何を求めますか?」
 その答えは人によって様々だったが、本質はどれも変わらないように彼には聴こえた。難病患者であった彼女の答えも、例外にはできなかった。
「痛みと苦しみが無い世界。私が求めるのは、ただそれだけ」
 佐藤を含めた多くの者は、それをゼロと呼ぶ。
 または、無。

 そんな無に真っ向から立ち向かうのが、黛という女だった。
 見方を変えれば、それは博士も同じなのかもしれない……。後に佐藤は、そんな結論に至ることになる。




 田所に魅入られた被験者は、最初に必ず博士の面談を受けることになっている。そこで自らの生い立ちや死への動機を正直に語らなければならない。いつからかその場に佐藤の立ち会いも義務付けられたのは、博士の飲む薬の量が増えたことも影響していたのだろうか。
 黛は岩を掘って描かれたような女性だった。これまでの被験者とは打って変わった、堂々たる姿勢、泰然とした顔つき、揺るぎない意志をまじまじと見せつけるその眼差し……。真一文字に結ばれた薄い唇に、細くも芯の通った背筋、そして、一本の淀みなく整えられたポニーテールは、確立された自我というものを、見る者に印象づけた。

 対面する博士の後ろで、佐藤は彼女の書類をめくっていた。
 在学中に司法試験に合格した黛は、当たり前のように検事になったが、わずか3年で検察庁を退庁。その後は海外を放浪とし、帰国後は再び大学で学問を修めた。哲学、倫理、宗教学……およそ一般的な幸福を求める者には無用な学問ばかりだったが、彼女はそれらの学習をこんな風に表現した。
「いくつもの世界を旅してきた──」
 肉体的に、そして精神的に。そう、黛は付け足した。
「本はいい。読むだけで、他人の頭の中に潜り込むことができる」
 唇をうっすらとした微笑で染めたその顔は、絶望や苦しみといった言葉から掛け離れていた。これまでの被験者とは明らかに異なる、なにか、抽象的に言うなら、無謀な作戦に従事する軍隊長にも似た価値観・気概が、彼女の全身からあふれているように佐藤には見えてならなかった。
 それは同時に、神にすがる信者のような危険性をも垣間見せたが、佐藤にはどうもしっくり来なかった。仕事上、現実に背を向ける教徒は何人も見てきたが、黛はそのどれにも当てはまらなかった。カビのごとく何かに依存する前者とは違い、彼女は、何物にも縛られていないように感じるからだ。
 この時から、佐藤は黛から目が離せなくなった。それは、彼女の口元にあるホクロがあの子のそれと同じ位置にあったから、という理由だけではないのだろう。彼は今後、たびたび黛からあの子や母親の影を見つけてしまうが、思い出はいつだって現実の前では敗者だった。

 面談は終わりに近づいていた。実験について、博士は淡々と、だが子供でも理解できるくらい丁寧な説明を並べていたが、黛は石像のような面持ちを隠さぬまま、やがて毅然と話を遮った。
「中身を失くした器に興味は無い」
 書籍を保護するクリアカバーを乱暴に剥ぎ捨てるような声でそう前置きした彼女は、穴の空いた風船みたいに鼻息をつきながら、一転して穏やかな顔をつくった。
 彼女が気にかかっていたことは、一つだけ。
「私は、確実に、死ねるんですよね?」
「うん、それは保証しよう」
 あっさりとした博士の返答を耳にするや、黛はホッとした顔で、白い歯をこぼした。



 被験者に相応しいと認められた者は、所内で三日間の猶予が与えられる。その間は外出や外部連絡こそ厳禁だが、それらを除けば自由に時を過ごすことができる。ただ彼女たちには、簡単な身体検査の他にもう一つだけ、済まさなければならない義務がある。
「──どこに連れて行くの?」
 被験者を"そこ"に案内するのは博士の役目だったが、今回は佐藤に任された。彼は気が進まなかったが、諦めにも似た寛大さでこれを受け入れた。それでなくとも最近は、博士の代わりにやる仕事が増える一方だ。
 田所は先日、からかう口調で佐藤にこんなことを言った。
「二代目は大変ですねえ」
 二代目……。佐藤はその言葉の意味を考えるも、程なくして無意味だと悟った。道端の雑草のごとく物事を従順に受け入れるのは、まだ返しきれていない奨学金だけが理由ではないのだろう。自分はどこへも行けないのだと、行くつもりすら無いことを、彼は身に染みて理解していた。
 自分がからっぽになった原因は、あの子か、または母親か、それとも……。そんなことを考えていると、目的地に着いていた。
 モニター室からエレベーターで降りてここまで、通路から扉までの道程は、まるで一流ホテルの装飾みたいに輝いていた。実際、金の掛け方に大して違いはなかった。
「王様でもいるの?」と黛。
「似たようなものかな」と佐藤はノックもせずに横開きのドアを開いた。ラヴェルのピアノ曲が聴こえてきた。入室した黛は、それまでの無感動から一転させた表情をもって、しばらく中を見回した。


 疲労が津波のように押し寄せてくると、記憶の奥底に沈めた疑問や後悔といったものが、泥と共に表面に浮かび上がってくる。そんな折、佐藤はまるで身投げするかのごとくその濁水に顔を沈める。

『苦しい時に思い出すのは、いつだって苦い思い出。それはすなわち、その思い出が、あなたを苦しめている元凶でもあるのです』

 何かの雑誌で読んだ、どこかの国の心理学者の言葉。それはまたたく間に波に呑まれ、代わりに新たな疑問が泥水の中から見え隠れする。
 研修医の頃に参加したシンポジウムで、名前を忘れた誰かがこんな提言を唱えていた。

『認知症は脳のバグではなく、キャパオーバーと考えております。膨らみ過ぎた風船が割れてしまうように、人も、生きていく上では何かを忘れていかなければならない。進化の弊害、とでも申しましょうか。情報過多。現代人は覚えなければならない事が多すぎる。他者はいつだって責任という二文字を掲げ、他者に誠実さを求めている。故に人は、パンクしてしまう。この病気の根本的な解決策は、もっと、人生にゆとりを持つことなのです。忘れる、という必須機能を損なってしまう……このような障害を進化の過程と呼ぶ人もいらっしゃいますが、私は賛同しかねます。人は、そんなに強く作られてはいない』

 誰にも相手にされていなかったが、なぜか、佐藤の中にはしつこく残り続けていた。
 濁りがだんだんと澄んでいく……。

『ねえ、佐藤さん。あなたは気づいてるはずだ。私と、あなたは、同類なんだって』

 いつかの田所の言葉が、道端に捨てられたガムみたいに佐藤にまとわりついていた。それを乱暴に引き剥がそうとしたその時──。
「ねえ」
 黛に現実へと戻された。流れる曲はラヴェルからドビュッシーに変わっていた。15帖ほどの室内を忙しく見回していた彼女の視線は、今は二つのものだけを捉えている。
「あれは、誰?」
 黛は二つのものを見比べていた。一つは、キングサイズの華やかなベッドに仰向けになった女。人形のように目と口を閉じてはいるが、胸まで掛けられた毛布はその呼吸に上下している。赤子のように瑞々しい肌には艶が広がり、薄紅色の唇は潤いに包まれ、長い黒髪は磨かれた爪同様に丁寧に手入れされている。身体が点滴や様々な医療器具に繋がれていなければ、とても病人には見えなかっただろう。
 そしてもう一つは、いくつものぬいぐるみが並べ置かれた棚上に貼られた写真。その数々には二人の男女が写っている。片方は部外者の黛にも一目で分かった。博士だ。学生時代の若かりし頃から、額が寂しさを見せ始めた中年の頃まで、今では考えられないような笑顔を浮かべている。
 博士の隣にいる女も同一人物だった。彼同様、様々な年代の中で笑顔を絶やさずにいる。特別な関係だというのは一見に足る。だから──。
「あれは……」
 だから、黛には分からなかった。今この時、ベッドで眠る女が、いったい誰なのか。
 写真と寝顔を唖然と見比べながら、黛は問いかけた。
「娘さん……お孫さん?」
「奥さんだよ。博士の」
 その時初めて、泰然とした水面に波紋が広がった。目を丸くした黛は、ハッピーエンドのアニメのヒロインみたいに、一瞬だけ、その瞳を輝かせた。
「ホントなんだ」
「うん。キミたちの死は、彼女のいのちに変わる」

 黒い箱とは、摂理に逆らう人の叡智。肉体から寿命を算出し、抜き取り、それを他者に与えることのできる機械。
 まるで子供が思いつきで書きなぐった空想のようにも佐藤には思える。おそらく、こうして博士の助手をしてこなければ、そんな風に鼻で笑っていたかもしれない。作家や演奏家みたいな気分だ、と彼は皮肉に唇を歪めた。上を向いて口を開けてる雛さながらの消費者には決して理解できないことが、演じ手や作り手にはあるのだ。

「──世界中の金持ちが投資しそうな話ね」と黛。
「現にこの事を知っている金持ちに支援してもらってる。彼女のお兄さん、つまりは博士の義理の兄だ」
「博士は何者なの?」
「医学界では現代のダ・ヴィンチと呼ばれてた。もっとも、表舞台からは何十年も前に退場しているから、今では化石のような存在かもね」
 一度はときめきにも似た表情を浮かべた黛だったが、それは長く続かなかった。博士の妻は、20年前の交通事故からずっと目覚めない……そんな説明を佐藤から聞いた彼女は、だんだんと顔を曇らせながら、やがてこんな言葉を呟いた。
「男のエゴね」
 沈黙で詳細を求める佐藤に、黛は気を取り直すみたいに咳払いを挟んでから、今度ははっきりとした口調で続けた。
「女は誰しも『自分だったら』って物事を考える。私がこんなことをされたら、たぶん憎むし、許せないと思う。だけど……」
「だけど?」
 言葉を紡ぐ前に、黛はもう一度室内を見回した。そこは眠りの姫が愛するたくさんのもので彩られていた。ぬいぐるみ、古いレコード、昭和のアイドルのポスター、おはじきにかるた、擦り切れた本に人形、いくつもの笑顔、枯れない造花……。
「憎しみ……だけではないんだろうね、きっと。やっぱり、私も女だから……」

『──意識が混じったりしないのかな?』

 佐藤は、前の被験者の言葉を思い出していた。

『仮にそうだとしても、悪くないかも。少なくとも今の自分よりは。だって、この人はこんなに愛されてるんだものね』

 唐突に白衣が震えた。緊急用の携帯を耳に当てると、博士の声が聞こえてきた。
「三分後に田所さんが来る。入口で迎えてあげて」
 佐藤はため息を止められなかった。約束の無い田所の訪問は、いつだってろくなことがなかったから。
「どうしたの?」と黛。
「戻らなくちゃ。もういいよね」
 黛は頷くも、しばらく後ろ髪を引かれる様子で写真の数々を眺めていた。
「どうして、目覚めさせる努力より若返らせる方法を選んだのだろう」
 退室する際、黛はそんな想いを漏らした。
「きっと、男は思い出を捨てられないのね」


 田所が運んできたのは、被験者候補の一人だった。自宅で首を吊った彼女は死にきれず、目を覚ますこともできなかった。
 田所はさもコンビニの募金箱に小銭を入れてきたといった顔で、どこか得意気に釈明を始めた。
「アポ無しでご迷惑かとは思ったんですが、私は食べ物を粗末にするなと口酸っぱく言われて育った身でしてねえ。ついつい、もったいない精神ってやつが働いちゃったんですよ、はい」
「いいよ、問題ない」と博士は淡々と女を受け入れ、黒い箱を起動させた。

 目に見えない"なにか"が、まるで採血のようにカテーテルや電極を通り、一度黒い箱におさまった後、博士の薄いパソコンの中に収納され、さらに小さなUSBメモリへと保管される。
 子供でも持ち運べることができるもの……それは佐藤が学んできた医学的知識や用語とはまるでかけ離れていた。人の身体の中には必ず“それ”があって、博士はそれを『いのち』と呼んだ。佐藤もいつしかそれに倣った。それ以外の言葉が、彼には思いつかなかったから。
 助手になったばかりの頃、佐藤はこんな質問をした。
「──それは、魂なんかとは違うんですか?」
「違うよ」
 訝しげな佐藤に、博士はきっぱりとこう告げた。
「だって、それには記憶も感情も無いのだから」
 言うなればそれは、記憶や感情が魂と言い切れなくもない。佐藤はそんな風に感じた。
 だけど、どうなんだろう。一つの疑問が佐藤から離れなかった。命というものは、本当にUSBメモリで運べてしまう存在であって良いのだろうか。

 動かなくなった被験者と引き換えに、田所から資料を受け取る。新たな被験者リスト。鼻をかみ終えたティッシュでも握るように持つ医師に、一回り年上の男は黒板をひっかくような声で話しかけた。
「ずいぶんとお疲れのようですねえ、佐藤さん」
「いえ」
「どうです? 良かったらこの後少し。静かで雰囲気のいいお店知ってるんですよ。佐藤さんは女のコがたくさんいる所よりもそっちの方が好みでしょお?」
「今日は遠慮しておきます」
 スッと顔を近づけた田所は、佐藤の輪郭に沿って蛇のように頭を揺らした。
 そして、前歯を見せつけるように笑いながら、怪談でも話すみたいに静かに語りかけた。
「やっぱり、あれって本当なんですねえ。安楽死に携わる医療従事者は、鬱になりやすいって」
 初めて佐藤に睨まれた田所は、うっとりした顔を隠すことなく耳元へと近づけ、こう囁いた。
「私ね、最近なんだかスゴイ楽しいんですよ。こんな気持ちは警視庁を辞める頃以来だ。上手くは言えないんですが、なんて言うかね、終わりに向かって奔走していく感じが好きなんですよ、はい。佐藤さん、あなたなら分かるでしょお? この、物事が一気に収束していく感じ。蟻地獄、ヌメリを取り除いた排水溝……ふふふ、ぞくぞくしませんかあ?」

 博士と違って、佐藤は疲れていた。ゆえに妻の病室から戻ってきた雇い主に聞かずにはいられなかった。
「僕たちのしていることは、正しいことなのでしょうか」
「……意外だね──」
 いくらか感心した面持ちでそう前置きした博士は、曇った眼鏡を白衣の袖で磨くと、そのレンズを通して助手をじっと見つめた。
「キミのその質問は、答えの分からない子供がするそれではなく、法定で被告人に確認を強いる検事のようなものに聞こえる。でもまあ、キミが今、その腕に聖書を抱えていなくて安心したよ。うん、キミは正常だ」
 何をもって正常と言えるのだろうか。これ以上混乱したくなかった佐藤は、その疑問を胸に閉じ込め返答を待った。
 博士はそんな助手をもう一度観察すると、いくらか真面目な口調に直して、こう続けた。
「私の大学時代の級友は、国境なき医師団をして戦地や途上国を転々としている。彼は私がやっていることを知らないし、私も彼が助けられなかった命の数々を知らない。当然、その命を構成する背景もね」
「……つまり?」
「つまりはそういうことさ。彼の正義は私のそれとは異なるし、私の信条も、キミのそれとは分かりあえないかもしれない」
 何て言ったらいいのか分からなかったので、佐藤は田所からもらった書類を床に叩きつけてから、こんな質問をした。
「先生は、その人のことをどう思ってるんですか?」
「私たちとは異なる生き物。それ以外に思うことなどないよ」
 私たち。
 それに自分は含まれていないことを、佐藤は知っていた。



 自室に戻ると、黛が部屋の前で待っていた。倉庫から持ち出したワインボトルと二つのグラスを掲げて微笑んでいる。
「付き合ってよ」
「悪いけど疲れてるんだ」
「疲れてる時以外にいつ飲むのよ」
「悪いけど」
「私、明日の今頃には死んじゃうんだよ? 普通少しは気を遣うもんじゃない?」
「それを望んだのはキミ自身だろ?」
「だーかーら、死にゆく者の願いくらい聞き入れたらって言ってるの。たいしたワガママじゃないんだからさ、ほら」
 佐藤は諦めたように噴き出して、こう言った。
「ホント……女って自分勝手だな」
「だから生み出せる。あるゆるものをね」

 初対面の男の部屋を訪ねた動機を、黛はこう補足した。暇だったから。それなりに歳が近かったから。一人で飲むのは嫌いだから。顔が結構タイプだったから。そして、自分のために手を尽くしてくれる二人に、何かしらの感謝を伝えておきたかったから。
「博士には、わざわざ告げる必要はないよね。利害がはっきりしてる人ってのは一番信用できるわ」
「今更だけど」
「なあに?」
「変わってるよね、キミ」
「それは、あなたたちもね」
 陽気にグラスを空にした黛は、ゆっくりと鼻息をつくと、落ち着いた口調でこう言った。
「見てたよ、田所さんたちとのやりとり」
「あの人の名前は今出さないでほしいな」
「博士はいいんだ?」
「別に博士のことは嫌いじゃないからね」
「でも書類ぶん投げてたよね?」
「男には何かに八つ当たりしたくなる時がある。その対象が夜の校舎の窓ガラスじゃないだけ褒めてほしいもんだよ」
 今一ピンと来なかった年下女子の顔を見たら、佐藤はいくらか気が安らいだ。誰かとゆっくり話すのはいつ以来だろう。

 微酔に頬を染めた黛は饒舌だった。多くの被験者が眠りにつく前にこぼす遺言のような語り口ではなく、己の学説を学会で意気揚々と発表する学者のような言い回しだった。その内容は医学の道を歩んできた佐藤には理解し難いものばかりだったが、不快な気はしなかった。
「──苦しみは、人を個に追い詰める。でも本当は、苦しみがあるからこそ、個を顧みることができる。苦しみを知るから、自分の求める、純粋な想いというものに気づけるの」
 自分はどうして医者になったんだったか……。佐藤はそんなことを考えてはグラスを傾け、黛の話を掘り下げた。
「どうして海外へ?」
「記述されることのない、たくさんの苦しみを知りたかったから」
「それを知って、何か変わった?」
「変わるのは、これから」
 詳細を求められた黛は、グラスを置き、正面から佐藤を見つめた。
「私がこの世界で学べた最も有益なこと……それは、どんなに願っても尽くしても、他人は変わらないということ。"ここ"は水を吸う紙のごとく正直な舞台だということ。悪は影のように誰の後ろにもつきまとい、正義はいつだって風向きに従う。この世に自由というものがあるとするなら、それは、間違いなく、心だけ。己の心だけは、何物にも侵害されない新雪の野」
 初めて耳にする外国語でも聞いているみたいな顔で、佐藤は黛を見ていた。
「そこに、私は描いた。私の世界を。そして、ようやく作り上げることができた。だからここに来た。私が唯一恐れていたのは、死ねなかった時のことだけ。確実に死ねる方法が私には必要だった」
「キミの、世界」
「そう。私の世界」
「それは……いったいどこにある?」
「ここ──」
 黛が指差したのは、自身のこめかみだった。
「すべてのピースはすでに埋め込まれてる。後はもう、行くだけ」
 佐藤には理解できなかった。そんな彼に、黛はあらゆる哲学をぶつけていく。
「なぜ音楽家は音を紡ぐの? なぜ絵師は絵を描くの? なぜ作家は物語を書くの? 名を残したいから? 認められたいから? ホントにそれだけ? 本当は──」
 その根底にあるのは、もっと、混じりけのない願望なんじゃないの?
「こうであってほしいという、純粋なる想いが、あるからなんじゃないの?」
「キミが死んだら脳は止まる。手塩にかけて作ったその世界ってのも、無くなってしまうんじゃないかな」
「もう肉体とは別の場所に移してあるから心配ない」
「意味が分からない」と口にした言葉は本音ではなかった。この時、彼の頭に浮かんでいたイメージは、彼女の言葉を否定するものではなかったから。
 そのイメージは、まもなく黛によって言語化された。
「あなたたちだって実現させたじゃない。人の命を、別の場所に」
「それは……いくらか非現実的ではあるけども、こっちは少なくとも科学的根拠には基づいてる」
「その根拠は、あなたが子供の頃にもあった? ちょんまげを切り落としたお侍は、地球が回っていることを知ってた? 地震がいつ来るのかを答えられる人間はいる? 知らないということは、無ではない。メロディに音符が付けられたみたいに、人の感情や想いも、いずれはきちんと数式化できるのかもしれない。他者の目に見えるかたちに表せるかもしれない。私は一足先に、誰も踏み込んでいない領域を見つけたというだけのことよ」
 方向性を違えた男女の会話というのは、なんて生産性が無いのだろうと佐藤は思う。子供の夢想、言葉のレトリック……そう一蹴できたらどんなに楽だろうか。少なくとも研修医の頃の彼には、命をUSBメモリで運べるなんて想像さえできなかった。
 もちろん、博士の研究の成果と黛の夢想を並列に考えるのは愚かだとは思う。非科学的で、何より無根拠だ。けれど、科学の初歩というのは、いつだって暗闇から始まるのだ。現実ならば、いつかそれに光が当てられるだろう。だから人は追い求めていける。だが彼女は違う。科学とは対照的に、暗闇へと向かっている。
 それでも佐藤は、彼女を真っ向から否定する気にはなれなかった。科学の知識に関しては明るくない彼でさえも、これだけは分かる。未来というのは、誰にも予期できないということを。
 人にはそれぞれの正義があって、様々な苦しみを経て、人はそれぞれの夢をみる。
 佐藤には分かるはずもなかった。彼の意識は彼だけのものであって、黛のそれとは違うのだから。
「──キミの世界に行けなかったら?」
「それならそれでかまわない。"私が間違ってた"ということだから。でもね、果たして終わりが無だとしたら、私は間違いだったと気づくことすらできない。嘆きも絶望も生まれないの。だって、それが、無というものだから」
 ホームランを打つにはバットを振らなければならない。それが黛の持論だった。
「だったら、少しでも可能性のある方にベットしたくなるのが道理というものじゃない?」
「パスカルも似たようなことを言ってたね」
「彼はあくまでも現実にあてはめていたのだと思う。でも私は違う。私が信じるのは、あやふやな神じゃない。私自身。私の心」
「そこには何がある?」
「決まってるじゃない」
 その曇りなき笑みは、彼女がすでに心を決めている何よりの証でもあった。
「私の愛するものがある。この世で触れた苦しみや憎しみは、すべて、"私の世界"をつくるためにあった。もし知ることができなかったら、私はまた"向こう"でも同じ苦しみを味わうでしょうね。誰も恨まず、何も憎まず、愛だけを抱えて旅立つことができるのは、ちゃんと"ここ"で、それらを知れたから。どんなに打ちのめされても、私は不条理から目を逸らさなかった。だから"あっち"には、私の愛したものだけがある」
「悟りっていうのは、キミのような境地に達することなのかもしれないね」
 佐藤は大いに皮肉をまじえたつもりだが、いっそう嬉しそうに微笑んだ彼女を見ては、自分の腕に麻酔薬を刺したくてたまらなくなった。


 掬っては零れ落ちる水のような虚しさが、佐藤の胸の中でさざなみのように揺らめいていた。この感覚には覚えがある。あの時の母親の背中が、いつまでたっても鮮明に残り続けている。

『たしかに私はこの子の母親だけど、私には私の人生がある。私の命の使い方は私が決める』

 それが母から聞いた最後の言葉だった。児童相談所の所員との面談を一方的に切り上げ、トイレにでも行くような佇まいでサンダルを履いた彼女は、玄関のドアを開けるとそのままどこかに消えた。
 佐藤はあれから幾度となく道徳の教科書を読み返したが、答えはどのページにも載っていなかった。心はいったい、身体のどこにあるんだろう。
 そうだ……それが知りたくて、俺は医者になったんだ。

「──今なにを考えてる?」
 顔を覗き込む黛の言葉にハッとし、佐藤は本音を隠した。代わりに口にした話題は、目の前のホクロによって引き起こされたものだ。
「前の彼女のことを考えてた」
「聞かせてよ」
「結婚したかった。でもできなかった」
「どうして?」
「方向性の違いってやつかな」
 佐藤は穏やかな家庭を求めていた。それはあの子も同じだった。だけど彼女の描いた理想には、佐藤が持ち得なかったピースが一つ加わっていた。
 あの子のためなら何でもできると佐藤は思っていた。だが、それだけは無理だった。自分が求めていないのに、愛せる自信がないのに、この世に生み出してしまうことを、彼はひどく罪深いことだと感じていたから。
「あなたは優しい人だわ──」
 黛は大真面目な顔をして、その言葉を強調した。
「あなたは、とっても、優しい」
「無責任なだけさ」
「そう言う人もいるかもしれない。でも本当の無責任は、自分の都合で作って、ほったらかしにする人間のこと。世界を作ったらどこかに消えてしまった神様と同じような、ね……」
 だから私は、"ここ"では作らなかった。そんな呟きがいくつものさざなみに消されてしまう前に、黛はこんな言葉を佐藤に告げた。
「初めて会った時から、一目で分かった。あなたも答えを探しているのよ」
「それは……キミと同じものなのかな?」
「同じかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。私が求めるものとあなたが求めるものは、同じとは限らないから。神や悪魔が人間に生み出されたように、答えなんて最初から無いのかもしれない。でもあなたが羊のように盲目になれないのは、あなたがなにかを欲しているから。求めているから。必要としているから。それが何なのか、"何になるのか"は、あなたにしか分からない」
 黛は語った。私は、ずっとそれを探してきた。自分のこの目と手と足を使って、幾度もさ迷い、幾度も諦めかけて、探し続けた。ボロボロになって、たくさんのものを憎んで、やっと、答えにたどり着いた──。
「生きるって、たぶん、そうやって己の答えを見つけていくことなんだと、思うんだ。だってそうじゃない? 本当に終わりが無だとしたら、この世で勝ち得たすべてが無意味となるでしょう。達成感も優越感も、死んだらすべてが消えてなくなる。無価値。後悔すら残らない。自己も他者も、何もかもが闇に溶けて黒に染まる」
「キミが死んでも、僕は覚えていると思うよ。記憶力はいい方だから」
「なんにも分かってないのね」
 黛は呆れたように笑って、佐藤の頬に唇をつけた。
「それは、あなたの意識でしょう。私の意識は、私だけのもの。だから、心だけはいつだって自由なの。だから、答えはいくつも生まれてくるのよ」
「なら、人はみんな、孤独なんだな」
「でも、一緒に探すことはできる」
「そう、なのかな」
「試してみる?」

 女の中に入り、探り、確かめ、じきに委ねることができた今でも、佐藤には逃避以外の何物にも思えなかった。
「──それはね、あなたが求めてるものは、これじゃないからなのよ」
「気に障った?」
「あはは。まあ、面白くはないかな。私も女だから。でも理解はしてるよ」
「そんな女がこの世にどれだけいるんだろう」
「みんな、探してるんだよ。自分のことで精一杯」

 この夜のコーヒーは苦くなかった。後に黛が無断で砂糖を入れていたことを知ったが、特に気に留めなかった。その夜だけは、穏やかにコーヒーを楽しめた。その事実が佐藤をいくらか救ってくれた。
 佐藤の腕の中で、黛は色んな話をした。作家が文末に句読点を付けていくみたいに、その語り口は、自身の物語の終盤を丁寧に区切るものだった。
「──私は何不自由なく育った。明るい家庭、品行方正な両親、優秀な兄と姉。綺麗な服にグランドピアノ。イジメも挫折も、悪意も災難も何一つ降りかからなかった。なのに、こうなった。誰のせいでもない。私がおかしかっただけ。もしくは、障害を経ずに大人になってしまったことが、悲劇だったのかもしれない」
 聞き手の頭に浮かんでいたのは、バナナの皮と、実をにくり抜かれたスイカ。前者は踏む人々を転ばせ、後者は色んなものを詰め込まれていた。
「自暴自棄になってた頃、一人のおじさんに抱かれたの。平凡な独身サラリーマン。タバコを吸ってくつろぐ彼は、私にこんな話をした。『今のゲームは、苦労が少なすぎる。プレイヤーに想像の余地を与えない。それってどういう事か分かるかい? 楽しみのハードルが上がるんだ。満たされるための要求が増えるんだ。それはゲームに限った話じゃない。酒やクスリをやめられなくなるように、幸せの定義ってやつを見失っていくんだよ、人は。少し物足りない、ってくらいがちょうどいいんだ、人生ってやつは』……今考えれば、あの話には私への警告も混じっていたのかもしれない。案の定、私は平凡な道から逸れ、二度と戻れなくなってしまっていた──」
 だけど、後悔はしていない。
 黛のその言葉に、佐藤は胸が引きちぎられた思いがした。その痛みをきっかけに、彼は一つの答えを出そうと決めた。


地上では雨が降っていたけれど、地下は空調の音しか聞こえなかった。夕方にようやく空いた雲間は、綿に沿ってこぼれていく黄昏を受け入れながら、静かに、ゆっくりと広がり、迫り来る闇をじっと待ち構えた。

 黒い箱が震え出した。
 黛はあらゆる苦しみを知っていたし、佐藤も彼女の前ではそれを隠そうとはしなかった。手を求められたら差し出し、握られたら握り返した。ありがとう、と彼女は告げたが、佐藤は決して口を開かなかった。
 麻酔薬を注入する寸前、ほんの一瞬、彼女の弱さ……この世への未練とも呼べる何かが、震える網膜を横切った。
 黛は、緩んだ紐を縛り直すかのように、ポタポタと垂れる蛇口の詮を閉め直すみたいに、そっと、深く目を閉じ、自分にしがみつくこの世界のすべてを、振り払った。
「やっと行けるんだ。私の世界へ」

 振動が止んだとき、あの時もっとこうしておけばという後悔が、佐藤の中に次々とあふれた。それは壊れた水路みたいに、すかすかな胸の中を乱雑に濁していく。誰しも少なからず抱く、もし。すでに思い出となった彼女たちには、そのもしが余計に強く働いた。
 けれど、今となっては何もできない。自分はここにいて、彼女たちはここにいない。それがすべてだ。この世ではいつだって、事実がすべてに勝る。
 その事実に抗うのが、目の前の男──。
 佐藤には、博士がこの世の理に真っ向から立ち向かう勇者のように映った。同時に、己の肉にかじりついて空腹をごまかしている浮浪者のようにも……。
 上下がこまめに入れ替わっていた。砂が止まると、時計の針がやかましく響く。呼応した鼓動が、視界に見えない波紋を広げ続ける。息は吸えるのに吐き方が分からなくなる。まるで水を吸った紙みたいに、自分というフィールドが何かに侵食され、他のものへと変わりながら、ボロボロと崩れていく……。
 トイレに駆け込んだ佐藤は、そんな錯覚を吐き出すみたいに、喉に指を突っ込んだ。

 黛だった肉体を乗せたバンが去っていっても、佐藤はしばらく動けなかった。研究所の入口をぼうっと照らす、その非常灯の下で、どこを見るでもなく壁に寄りかかって座っていた。辺りはしんとして、暗かった。そっちに行けば黛に会えるのかもと思うくらい、明かりの下では暗がりがやけに濃く見えた。
 やがてその闇の中から、二本の缶ビールを手に田所が現れた。踵の高い革靴を履いているにも関わらず、足跡の一つすら聴こえてこないその登場は、佐藤に死神の存在を信じさせる程に、不気味で、それでいて今の彼にとっては待ち焦がれた話し相手だった。
「どうですか、一杯」と田所はラベルを見せつけた。
「田所さんてさ」
「んん?」
「実は結構気が利くよね」
「はは、これでも元探偵ですから」

 胃が空っぽになっていたからだろうか。それとも、さっきまでの自分が胃液と共に下水道へと消えていったのだろうか。久しぶりに飲む缶ビールは美味かった。それが、わけの分からない男の隣であっても。
 田所はずっと無関心を装っていた。そのくせすべてを悟っているような穏やかさをもって、ゴクゴクと缶を傾けていた。先に中身を空にした彼は、誰に何を言われたわけでもないのに、どこか観念したと言った顔で笑って、語り始めた。
「私の母親はテレビが好きな人でね、いつもリモコンを片手にチャンネルをあちこち回してた。ある夜、海外のドキュメントを見ている時だった。『どうして生きられる子供と生きられない子供がいるんだろう』って呟いたんですよ。彼女が私を産む前に女の子を死産したと知ったのは、それからずいぶん後のことでしたがね」
 田所はすべてを知っているように佐藤には思えた。被験者たちの苦しみも、黛と博士の動機も、その助手が何に苦しんでいるのかも……。
「あの女は、いつも何かを探していた……抽象的で申し訳ないですが、何か、としか言えないんですよ」
 母親とはどうなったのか。田所はそれを口にしなかったし、佐藤も聞かなかった。
 田所はごまかすように噴き出してから、暗闇の方を見つめ、これまで佐藤が聞いたことのない粛々とした声色をもって、こんな話をした。
「安楽死が普及しても格差は無くなりませんよ。いつの世もどの世界も、下が上に吸い上げられるのは変わらない。みんな分かってる。それでも我慢ならないのは、為政者たちが臭いものに蓋をしているからでしょう。皆が分かりきっていることに、そうじゃない、と厚顔で宣っては搾取し続けているのがこの国の政治です。そしてまともな人間ほど、騙されているフリをしている。考えないようにしている。考えると疲れるから、立ち止まっちゃうから、止まったら動けなくなることを、彼らは本能的に察しているから」
 佐藤は初めて、田所を見つめながら話を聞いていた。下から見上げるその横顔からは、不気味に歪んだ目はうかがえず、嫌らしく曲げられるはずの口元は、固く、はきはきとしていた。
「坂下議員は、その詭弁を排除しようとしてるだけにすぎない。『ええ、そうです、皆さんの仰るとおりなんです、この世はクソなんです、弱者は弱者にすぎません、でもね、それでもね、救いだけはなくてはならないんだ』とね。ねえ、佐藤さん。それこそが真の平等って言えるんじゃないかな? 人が可能な範囲の、人が傲慢であり過ぎない範疇の、人が人にもたらせてあげることのできる救いってやつなんじゃないかな? それがこの腐った世界に唯一芽生える、公平ってやつなんじゃないのかな?」

『どうして生きられる子供と生きられない子供がいるんだろう』

 田所はもう一度その言葉を口にしてから、こう続けた。
「あの女は、ずっと探していたんだ」
 田所も探し求めている。佐藤にはそう思えてならなかった。
 消え入りそうな声で佐藤は言った。
「真の平等なんて僕には分からない。でも、どうして宗教が無くならないのかは分かった気がする」
 田所が隣に腰を下ろすと、狭い世界が広がって、虚ろな黒が現れた。大きな石を持ち上げたらおぞましい虫が集まっていたみたいに、その瞳は歪な輝きに包まれながら、佐藤を捉えた。
「人はね、自分の目で見て、手で触れて、安心したいんですよ。背もたれってのが必要なんだ。観念世界は何かと都合が良いんだろうけど、どうしたって寄りかかれないからね」
「いつか、その世界も解き明かされるのかな」
「不可能とは言いませんよ。でもね、佐藤さん。私たちは"ここ"に生まれて、"ここ"で生きている。他人に認めてもらうには、見聞きできるものでなければならないんだ。だから人は、うたを歌い、物語を書く。それぞれが見据えたゴールに、たどり着くために……」
「田所さん」
「やっと、私を見てくれたね、佐藤さん」
「あなたと議員のゴールは、同じなんですか?」
 声を立てて笑った田所は、佐藤の肩をポンと叩き、地上へと続く暗闇へと足を進めた。
「もう少し仲良くなったら教えてあげますよ」



 手頃なものが見つからなかったので、分解したベッドの骨組みを使うことにした。1m程の鉄パイプ。もし剣道をやっていたらそれはちょっとした凶器になったかもしれないが、未経験で華奢な佐藤にはこれで破壊できるか疑問だった。それでも彼は、迷うことなく処置室のドアを開けた。結果はどうであれ、思いっきり叩くと決めていたから。
 それなのに……と振り上げた両手がわなわなと固まる。振れたら指がなくなってしまうんじゃないかとさえ思うその黒を目の前に、身体が動かない。どうしてか自分でも分からない。これが無くなれば、自分は解放される気がしたのに。もうたくさんの死を見届けたり、施し用のない悲しみに触れずに済むと思ったのに。
 でも壊せない。それは、この、何もかもを呑み込んでしまいそうな黒が、固い箱から漏れて世界を覆いつくす予感に包まれたからか。それとも、黛の、彼女の核とも呼べる部分を形成したそれが、この箱の中にまだ残っているような気が……残っていてほしいとさえ思ってしまうからなのか──。
「キミの望む通りにすればいい」
 いつの間にか後ろにいた博士が、ゴルフの打ち方でも教えるような声でこう続けた。
「何なら箱ではなく私を狙ったらどうかな。どのみち私が死んだらこの研究もおしまいだ」
 佐藤は動かせない身体の代わりに口を使うことにした。
「ずっと聞きたかったことがあるんです」
「何となく分かるね」
「どうして僕だったんですか?」
「強いて言うなら、キミが優秀で、からっぽで、くたびれていたからかな」
 からっぽさを一切隠さなくなった助手に、博士はどこか励ますような口調でこう続けた。
「この世は無価値だ。それは、万物すべてが有限だからだ。日々の様々な暮らし……笑い、泣き、得て、失って……それらには何の意味も無いのだよ。神は人間の想像でしかない──」
 だから、創造するんだ、人は。
「己で作り上げるんだ。価値を、意味を。それらを見出すには、苦しみが無くてはならない。絶望は最大のスパイスだ」
「あなたにとってのそれが、眠りの姫というわけですか」
「私は探しているんだよ」
「……探す?」
「私は、ずっと探し続けているんだ」
「……何を?」
「決まっているだろう。妻をだよ」

"それは魂ではないよ。なぜなら、記憶も感情も無いのだから"

 いつかの博士の言葉が、しばらく佐藤の中でこだました。茫然と立ち尽くす青年に、老人は断ずる口調でこう告げた。
「信じるとは、他者にすがることではない。心臓に硬い釘を打ち込んで、二度とぐらつかせないようにすることだ」
 白衣のポケットにしまわれた右手が、そこにあるものを強く握った。
「あの子は、信じていたんだよ」
 あなたも信じているんでしょうね。そんなことを思いながら、佐藤は力無く鉄パイプを床に落とし、観念するように言った。
「僕には選べません」
「選ばないということも一つの選択だよ。停滞と後退を日本人はひどく嫌うが、私はネガティブな印象を持っていない」
 床に膝を付けた博士は、そのまま黒い箱に触れた。その表面を赤子のように撫でながら、落胆とも感嘆ともつかないため息に、次の言葉を乗せた。
「さっきから箱の調子が悪いんだ」
 助手の目には、笑っているように見えた。
 男の目には、泣いているようにも見えた。
「死というのは、闇だ。わずかな光すら許さない漆黒が、すべてを覆い尽くしている……もしかしたら彼女は、そんな暗闇から何かを見つけられたのかもしれないね……っと、こりゃあ、新しいのを作らなければダメかな。さてさて、どうするべきかとずっと考えていたんだが、やはり箱の設計図はキミの見えるところに遺しておくことにするよ。望まないのなら、キミの決めた時に、終わりにしてくれていい」
「……先生は」
「うん」
「先生は、死の先に何を求めているんですか?」
 不意な静寂が、博士の時間を止めた。
 ひと呼吸の沈黙の中で、佐藤は初めて、博士の素顔を見た気がした。
 咳払いをした博士は、確認するみたいに言葉を切りながら、こう聞き返した。
「それを、私に、訊くのかね? 妻を引き止め、縛り付けている、この私に」
「言葉として、受け止めたいんです」
 再び口をつぐんだ博士は、ポケットから取り出した砂時計を、何度も何度も回した。

 黒の絵の具を溶かしたバケツみたいに、空に闇が広がっていく。三日月が湾曲の端からさらさらとした明かりをこぼしている。救急車のサイレンが近づいては去っていく。世界の至る場所で産声が上がり、やがてそれは屍へと変わる。黛はもうどこにもいない。坂下議員の支持率は上がり、田所は次の被験者たちをリストアップしている。誰もが傷つき、失い、それでも何かを求めている。砂が落ちきっても、針は止まらない。佐藤はじっと、博士の言葉を待ち続けている。




『後編』

1.


 私の"なにか"がプツンと途絶えてしまったのは、望月さんが退所した日だったと思う。それは今なお生態が解明されていないモグラさながら、無自覚に私の中をさまよい、うごめいていたものだった。
 この日の望月さんはとても晴れやかな顔をしていた。麻痺の見え隠れする左半身をデスクに預け、所長夫婦や同僚のねぎらいの言葉に目を潤ませながら、感謝を告げた。
 私は少し離れた位置で、望月さんの髪を眺めていた。長髪を一つに結び、右肩に掛けるこれまでのヘアスタイルは、耳がよく見えるくらいバッサリ切られていた。私が誕生日にプレゼントしたシュシュで束ねる長さもなかった。
 私はその変化に、どこか安堵の滲んだ悲しみを感じてならなかった。
「サキちゃん」
 望月さんに呼ばれ、持っていた花束を渡しに行く。一歩目がとても重かった。同期で、職場で最も仲の良かった彼女は、受け取った花束を懸命に左腕で抱えると、そっと、右腕を広げた。
 私は半ば吸い込まれるかたちで、頬を合わせた。沈黙が、彼女の痩けた首筋を際立たせる。ささやかなフローラルの香りに包まれながら、何か言わなきゃ、と胸の中で繰り返したが、どうしても言葉が出てこなかった。
 望月さんは、この時、いったい何を考えていたのだろう。
 離れる間際、背中を優しい熱がさすった。彼女の右の手のひらが伝えようとしていたものを、私は理解できずにいた。

 弟が運転する助手席に乗り込んだ望月さんは、笑顔を絶やすことなく、ずっと手を振ってくれていた。ライトブルーの軽自動車が角を曲がるまで、私はその背中から目を離せなかった。
 結局、何も言えなかった。
 曇天を走る肌寒い風に鼻をすする。ポンと所長に肩を叩かれた時、私は頬が濡れているのに気づいた。



 帰り支度を終えた頃、曇り空はパラパラと小雨をこぼし始めた。バッグに折りたたみ傘は常備していたが、なぜか差す気になれなかった。
 会計事務所から駅までの道程は、私が高校を卒業した10年前からずいぶん変わったものだ。田畑が目立った一画にはモダン住宅が建ち並び、古いアパートメントは東南アジア系の外国人が占拠していった。公園の遊具はほとんど撤去され、半径500m以内に3つのコンビニが建ち、国道沿いでは飲食店や量販店が夜を照らした。あぜ道は無くなり、ゆとりのある舗道は交通事故を目に見えて減らした。
 都市開発は交通インフラを整え、利便性と華やかさを町に与えたが、私には好意的に受け取れなかった。こだわりがあったわけではない。ただ私はいつからか、変化というものにひどく怯えていたのだ。

 国道沿いの広々とした歩道は、夕方を過ぎると帰宅ラッシュでにぎやかになる。今日は金曜日ということもあり、明るい声がいくつも聞こえていた。
 だからだろうか。いつもは別の道を通る私だが、やかましい人混みにはいくらか気が紛れた。それでも──。

 来週から、望月さんが私の隣のデスクに座ることはない。
 
 言いようのない虚しさに襲われた私は、あるヒーリング系のBGMに立ち止まり、いざなわれるかたちで顔を上げた。
 街頭ビジョンがコマーシャルを流していた。読み終わった一冊の本が、順に次の人へと手渡されていくという内容だ。
 コマーシャルは最後に『繋がれていく想い』と銘打ち、広告主の名称である『COL』を添えた。

 バッグの中でスマホが震えている。
 別のコマーシャルが流れてからも、私はしばらく雨雲を仰いでいた。
 望月さんの笑顔が頭をよぎると、泣き叫びたくなってたまらなかった。
 どうして何も言えなかったのだろう。
 街路樹の色づいた葉々の匂いが、やわらかな甘みを、湿った鼻腔へとかすめる。冬を予感させる風が、強まる雨脚を含みながら、しんしんと私の胸を暗くしていく。
 そんな秋の一面は、これからもずっと、私の中にこびりつくのだろう──。

 どこかに行ってしまった、私の"なにか"と引き換えに。

 スマホが震えている。見なくても分かる。どうせ母からだ。
 スマホが震えている。動けずにいた私は、じっと、着信の振動と雨の音を聴いていた。
 スマホが震えている。
 どうして、何も言えなかったのだろう。

 近いうち、望月さんはこの世からいなくなるのだ。



────────────

2.


 土日、私は熱を出した。これまでに抱いたいくつもの感情を糧に、轟々と燃え盛る炎が、私の中の隅から隅までを熱しているみたいだった。涙と葛藤はいつしかねっとりとした汗に変わり、それは秋の夕立さながらにベッドシーツをびしょ濡れにした。
 白湯とプリンぐらいしか口に入れられないほど疲弊した私は、うなされた頭の中でいくつもの『暗さ』を覗いた。
 唯一覚えていたのは、塔の夢。
 薄暗い世界に高々とそびえる灰色の塔へと、人のかたちをした棒状の群れが、我よ我よと駆けていく光景だ。大きな者は小さき者を弾き、転んだ者は次々と踏みつけられていく。入口も梯子も無い円塔の外壁にしがみつき、蹴落としては登っていくその様は、まさに蜘蛛の糸を彷彿させた。
 くすんだ雲を突き抜けてまで佇む塔の上には、いったい何があったのだろう。上空から彼らをひそひそと照らす満月は、まるで下々を嘲笑うかのように白い輝きに満ちていた。
 これは描きたくないな、と私は思った。

 月曜日の朝には平熱に戻っていたが、仕事に行く気分じゃなかった。何か、違う。なにかが、足りない。幾ばくかの恐怖に駆られてパンをむさぼったが、満腹では満たされない何かが、私の中に空白を作っているように感じた。
 病欠の電話を事務所に入れると、所長の奥さんは優しげな声で「近頃は色々あったから、どっと疲れが出ちゃったんだよ。こっちは気にしなくていいから、ゆっくり休みなさい」と言ってくれた。
 罪悪感とは似て非なる不安が、胸の奥でくすぶっていた。知的生命体にはありがちなコンディションだが、私の場合は放っておくと動けなくなる。久しぶりの快晴にも支えられ、布団を干し、ぬるめの湯船にしばらく浸かった。

 3階の自室は、窓を開けると秋の香りを乗せたやわらかな風が吹いてくる。私はキャミソール姿でベランダの手すりにもたれ、ぼんやりと髪にバスタオルを当てていた。眼下では大人たちがラジコンで操作されているみたいに駅へと向かっている。そのうちの一人、前髪を何度も手で直しながら小走りする女子高生を、私はしばらく目で追っていた。
 風はゆっくり、雲はのんびり、時は着々と流れていた。小鳥は健気にさえずり、野良猫はトコトコと塀上を歩き、焦っているのはこの世で人間だけに思えた。私は眉まで届かない前髪を摘みながら、当分、切ることは無いだろうなと根拠のない確信を抱いた。
 10年前から賃貸している六畳一間の洋風ワンルームは、驚くほど掃除のしがいがない。家具はベッドと本棚に、二人分の食器を並べたら手の置き場の無い丸形テーブルのみ。適当に掃除機をかけたらもうやることがなくなる。
 週に一、二度やって来る友人には、よく味気ない部屋と言われる。同時に、私らしいとも。たしかにこの飾り気のない白部屋は、独身三十路女の性質をよく表していると思う。
 普通の人は、そんな事実にいくばくかの寂しさや虚しさを覚えるものだろうか。それをまったく感じない私は、良くも悪くもやはり普遍的ではないのだろう。

 少し早めの昼食に冷凍うどんを食べ終わった頃、安村さんからメッセージ着信が届いた。時間ができたら連絡がほしいとの旨だったので、私はスマホを耳にあてた。
「お疲れ様。今大丈夫?」
「はい」
 物腰の柔らかい声の奥から、ガヤガヤとした背景が聞こえてくる。彼は今職場のデスクにいるのだろう。
 儀礼的な世間話をしてから、安村さんは一つ咳払いを挟み、こう訊いてきた。
「そろそろ新刊の時期かなと思って連絡したんだけど、着想の進捗はどうかな?」
「あるにはあるけど……」
「まだ気分じゃない?」
「ええ」
 編集者という人種は、嫌でも作家の本質に寄り添わざるを得なくなるのだろう。6年という月日の中で、彼は私の数少ない理解者になっていた。
 安村さんは穏やかに笑い声を立ててから続けた。
「上原さんが描きたくなったら描けばいい。行き詰まって描けなくなるよりは全然いいさ」
 それから安村さんは、いくらか機嫌良く上原サキという作家の評価を伝えてくれた。
「──4冊目は共同出版にして、部数も3倍の3,000冊にしようかという話が出ているんだ。それに伴って前の3冊も増版してね」
「それは……大変光栄なお話です」
「前向きに検討していただけるかな?」
「はあ……一応考えてみます」
 スマホからクセのない失笑が届いた。
「上原さんはいつも正直で清々しいよ」
「すみません」
「いやいや、良い意味で。自分の気持ちを嘘偽りなく言ってくれる人ほど、やりやすい仕事相手はいない」
「はあ」
「やっぱり、今でも自費出版にこだわってるの?」
 適切な言葉をすぐに見つけられなかった私は「責任は自分でもちたいんです」とだけ答えた。
 うんうん、と安村さんは咀嚼するように相槌を打った。
「当社としても作家さんのご意向を尊重する姿勢だから、全然構わないんだけどね。ただ、経済的支援は上原さんの足を引っ張るものにはならないと思う。まあとにかく、次作品も社は全力でサポートさせていただく予定だから。見通しが立ったらご連絡ください。全然ゆっくりでいいからね」

 私の務める会計事務所の従業員は、所長以外全員女なので、クライアントの電話対応などを除けば男とまともな話をする機会が無い。
 だからなのだろうか。人間らしい会話にいくらか気分が晴れ、午後はゆったりとした時間を過ごせた。
 無線イヤホンを耳に付け、好きな音楽を聴いて本を読む。久しぶりにクレア・キーガンを読まうと思ったが、活字だけを追いかける根気はまだ回復していなかった。
 寿司詰めの本棚には、自作絵本と、もう何度も読み返した本しか並んでいない。レディオヘッドを聴きながらエドワード・ゴーリーを読む女は、世間一般的には変わり者と呼ばれるのだろうか。
 でも私には、深い深い海の底へと沈んでいくような旋律も、モノクロで残酷な配色も、ひどく落ち着ける世界観だった。アーティストのインタビューも専門家の解説本も見ない私にとって、彼らの作品に惹かれる理由は琴線に触れることを別にすれば一つしかない。
 それは、そこに嘘が無い、ということ。
 嘘なんて、現実だけで十分なのだ。


 日中スマホが何度か震えたが、私は無視した。『話したい気分じゃない』とメッセージを送ったのに、何度も電話をかけてくる母の神経には嫌気が差す。この人はどうしていつも、相手の状況を鑑みようとしないのだろう。
 以前安村さんが、こんなことを言っていた。優れたクリエイターは誰しも、自分だけの世界を持っている。彼らにとって"そこ"は聖域で、そこ以外の場所はゴミの散らばった路地裏と変わらない。だからズカズカと土足で他人のプライバシーに踏み込んでも、ちっとも気にしないのだ、と。
 まさに母の概説のように聞こえて、その時はクスッと吹き出したものだが、今は憎しみにも似た苛立ちでいっぱいになる。私とあなたは違うのだと何度説明しても、母は理解できない。
 血が繋がっているという事実が、時折ひどくうらめしくなる。

 "感情を整理できなくなったら、何か描いてごらん。"

 安村さんの言葉を背もたれに、私はテーブルにスケッチブックを広げ、260色の色鉛筆セットを開いた。折り畳み式の仰々しい容れ物の中で、暗色系の鉛筆ばかりが短くなっているのを目にすると、いつも皮肉に鼻を鳴らしてしまう。もっと種類の少ないものにすれば良かったのだ。どうせ明るい色はほとんど使わないのだから。
 適当にページを暗く塗りつぶしながら、私は安村さんのことを考えていた。私が絵本作家になる決意を、他人で唯一真剣に後押ししてくれた人。
 一回り以上年上の彼は、最初、元野球選手か何かだと思った。制球の良い球を投げそうなスラッとした手足に、はつらつとした眼力。何と言っても、ピタリとしたスーツ姿に坊主頭がひどくしっくり来ていた。
 薄毛じゃないのに丸刈りにしている編集者なんて初めて見たものだから、少し変わった人に映った。

 "髭も芝も、伸びたら整えるだろ? 僕にとっちゃ髪の毛も例外じゃないんだ"

 そんな無機質な几帳面さは、最初は面倒くさがりな性格の反動から来ているものだと思った。ただ大雑把なのは己に限った話で、仕事では微細なところまでしっかり見聞きし指摘してくれる。
 出版社を探していた7年前、私は途方に暮れていた。ネット検索で見つけた社へ作品のPDFを片っ端から送ってみたものの、返ってくる感想はどれも似たりよったり。それも構文マニュアルでもあるのかと思うくらいに、抽象的なものばかりだったから。
 そのくせ自費出版の話題になると、途端に鼻息を荒らげて「キミならやれる」と囃し立てるものだから、編集者という人種が公共放送の集金屋か何かに思えてならなかったほどだ。
 そんな中、ただ一人まともな感想をくれたのが安村さんだった。彼の正直な意見は、根暗な21歳の女の心を打った。

 "上原さんの作品からは、世の中への怒りや諦め……またはご自身への暗い感情を、ありのままに表現しているように感じる"

 決定的だったのは、次の言葉だった。

 "まるで、世界に悪をばら撒いてやりたいかのような作品だね"

 その後の会話はよく覚えていない。記憶がハッキリしてくるのは、御社と契約したら、あなたが私の編集者になってくれるかと質問したところからだ。
 安村さんは二つ返事で承諾した。それから今日まで、彼は約束通り私の作品に尽力してくれた。
 その誠実さに、激しい人見知りの私が心を開くまで時間はかからなかった。

「──それって、恋とは違うのよね?」
 夕方、私の調子を見に来てくれたマユミが、オレンジジュースのおかわりをグラスに注ぎながら、道を尋ねるトーンで訊いてきた。
「話だけ聞いてると、年上の男に惹かれた女って印象にしか見受けられないのだけど」
「アマチュア絵本作家なんて、恋愛とは無縁の空気を吸って生きてるものよ」
「たしかにサキが誰かを好きになったって聞いたことないけど、それにしたってもう三十路前だしねえ。お腹の下が心地よく締め付けられたりすることはないの?」
「無くはないけど、特段相手を必要としたりはしないかな」
「寂しいねえ」とマユミは嫌味なく笑った。
「それもアマチュア作家の宿命よ」

 不意にテーブルがガタガタと音を鳴らした。1分を超えるかという長い着信に、私はたまらずスマホを枕の下に詰め込んだ。
「お母さん?」とマユミはばつが悪そうに言った。
「何度も玄関のチャイム鳴らす人種はいつまでたっても好きになれない」
「まだケンカしてるの?」
「ケンカという表現は不適切かな。価値観の不一致。冷戦という言葉が近いかも」
「サキたちが仲良かった記憶は私にも無いけど、さすがのミトさんも今回ばかりは不安なんじゃない? 『施設』なんて、誰もが行けるわけじゃないんだから」
 少し迷ったが、私は打ち明けることにした。
「前に話した同僚のこと、覚えてる?」
 マユミは一度息継ぎしてから答えた。
「ああ……あの、難病になった人でしょ?」
「その人、先週辞めたの」
「……じゃあ」
「いつかはハッキリ言ってなかったけど、彼女は『施設』に行く」
「それは……話したくないよね」

 2週間前に口論した時に耳にしたから、母はすでに『施設』に入所したのだろう。
 願わくば、彼女と望月さんの日時がかぶってほしくないばかりだ。
 母は『施設』から出てくるだろうが、望月さんは、戻ってこないのだから。

「ねえ──」
 私はマユミの目を見つめながら問いかけた。
「あなたはこの世界をまともだと思う?」
 マユミはゆっくり二度まばたきをしてから、笑みも悲しみもうかがえない穏やかな表情で、こう答えた。
「サキがこれからも私の友達でいてくれるのなら、そう言えるかな」
 これだからこの女にはお手上げだ。孤独を感じた時、真っ先に声を聞きたくなるから。



 デリバリーのピザを平らげた後、マユミは旦那の車に迎えられ帰宅した。二人で飲んだジュースの缶を洗った私は、お見舞いに買ってきてくれたリンゴを剥きながら、彼女との出会いを思い出していた。かれこれ14年の付き合いだ。中学2年生のクラス替えの日、隣の席になった彼女が生涯の友となるなんて思いもよらなかった。
 マユミは端的に言うなら、カースト上位の女の子だった。ヒロインにありがちな美しい黒のロングヘアは、男のみならず多感な女子までをも魅了した。それでいて浮いた話は一切なく、誰に対しても同じ態度で接するものだから、嫉妬を通り越したアイドル的な存在になっていた。
 だからクラスメイトは、私たちがツルむことに目を白黒させた。真逆な人間がまるで磁石のように馴れ合う様は、理科の教員も不思議に思えたことだろう。
 もちろん私も、最初はなぜ彼女が親しくしてくれるのかが分からなかった。理由を訊いたら、マユミは魅惑的に頬杖をつきながら、こう言った。

 "私、友達と結婚相手だけは自分で選びたいの──"

 あなたがどうしても嫌と言うなら諦めるけど、とマユミはニッコリと付け足した。一向にぶれることのないその微笑は、ひどく自信家な気質を思わせたが、そうではないと知るのにあまり時間はかからなかった。

 マユミは100%文系の女だった。理数系はいつも平均点以下で、国・英・社は必ずトップ3に入った。幼少から習ったピアノとヴァイオリンのおかげで音楽はずっと5をキープしたが、美術はどう頑張っても3以上を取れなかった。
 才色兼備と言っても過言ではないと思う。ただ、優等生という表現は似つかわしくないだろう。マユミはよく私の家に来ては、二人で大人の真似事をした。
 得手不得手もだが、マユミは取捨選択がハッキリしている女だった。彼女のお気に召さなかったものは、一度のお試しで篩にかけられ、その後は二度と見向きされることはなかった。ネイルも髪染めもSNSもタバコも、おそらく彼女はやったことを忘れているに違いない。
 私の知る限り、残ったのは酒だけだった。ビールも洋酒も日本酒も、彼女はアルコールさえ含まれていればこよなく愛した。私も嫌いじゃなかったので、祖母が亡くなった高校2年生以降は、週末によくウチで二人で飲んだ。

 "好きだけど、さすがに毎日は飲まないよ。アル中にはなりたくないし。好きだからこそ、一定の距離が必要なのよ"

 私は彼女のそんな表現が好きだった。ただ、母は私以上にマユミを気に入った。

 "あの子は磨けば光るわ。もうすでに周りのどんな子よりピカピカだけど、もっとキラキラになれる"

 職業病を通り越した好意が、実の娘ですら驚くくらいに目を輝かせていた。
 母の意見には同感だったが、素直に賛同できるほど当時は大人ではなかった。ただでさえ私は、自分の容姿にコンプレックスを抱いていたのだから。
 きりりとした瞳に高く尖った鼻を持つ母の遺伝子は、良くも悪くも私には受け継がれなかった。眼鏡をかけるとより小さく映る平べったい瞳と、父親譲りの団子鼻は、一般的な美形から著しくバランスを損ない、良く言えば個性的、忌憚なく言えば愛嬌のない地味顔だ。

 "私は可愛いと思うけどなあ"

 マユミは昔からそう言ってくれるが、彼女の美的価値観は普遍的とは呼べないところがあった。夫の戸根くんは劇団員にいたら間違いなく村人Aの役を押し付けられるくらいに平凡的な容姿と能力だし、プードルよりもブルドッグに頬を緩める女だ。実家の自室にも愛玩的なぬいぐるみは一切置かず、特撮ヒーロー物の敵役に選ばれそうな、正直気色の悪い怪獣を枕のそばにいくつも並べていた。
 14年マユミと一緒にいた私からすれば、彼女は『見抜く』という行為や達成感に快感を覚える女に思えてならない。宝石とかアイドルとか、誰が見ても美しいものにはあまり興味を示さず、自分だけが見つけられる美、もしくは見抜けた美を備える者をひどく愛でたがる女だった。
 マユミはおそらく、自身の構築した価値観および気に入ったものしか領域に入れたがらないのだろう。それは私にとって幸か不幸かで言えば間違いなく前者なのだが、無知な子供の頃は猜疑の目を向けたことも少なくなかった。カースト最上位の女の友人である資格というものを、私は何一つ持っていなかったから。
 とはいえ、彼女が私を気に入ってくれたおかげで、私の中学生活は平穏の中で送ることができた。子供という生き物は、美しいものに携わっているものを悪とは見なさないのだ。



 歯ごたえの良い旬のリンゴをかじりながら、私は望月さんのことを考えていた。
 彼女には、マユミのような存在がいたのだろうか。

 秋の夜風が窓をガタガタと揺らしている。
 正反対の季節に挟まれたこの時期はひどく儚い。来たるいくつもの死を前に、生命はあざやかな彩りを奏でながら、冷たく散っていく。
 そんな泡沫のきらめきは、最後の最後まで手を抜かずに仕事していた望月さんの横顔を、私の脳裏にありありと浮かばせた。


────────────


3.


 打順やメンバーが代わればまったく別の打線になるように、狭い所内でもその変化は顕著だった。私が休んだ月曜日に面接を受けた石田さんは、火曜日から元気に出社してきた。経済学部を卒業したばかりの彼女はあどけないひたむきさを前面に出しながら、皆に挨拶をしていた。
「上原さん、よろしくお願いします」
 卸したての黒いレディーススーツに控えめな白のネイルアート。薄めのファンデにピンクの口紅を塗り、ダークブラウンの長髪を後ろにバナナクリップで留めている。まさに可も不可もない新人の装いといったところだ。
 いまだに初対面の人には絡みづらかった私だが、新人教育は隣席の役目だ。一つ深呼吸してから話しかけようとしたら、彼女は隅をホチキスで留めた用紙をパラパラとめくっていた。
「何見てるの?」と私は訊いた。
「あ、さっき所長の奥さんにもらったんです。前任者の人が作ってくれたんだとか」
 望月さんはレジュメを残していた。見せてもらうと、そこには新人が仕事を始めるのに必要な情報がすべて載っていた。
 パソコン起動のパスワードに、掃除やお茶汲みのローテーション。仕分けや月次処理のマニュアルに、領収書のまとめ方。さらにはコピー用紙のインクの場所や交換方法など、痒いところにまで手が届いている。

 レジュメを読み込む彼女を脇目に、私は黙々とキーボードを叩いた。涙が出そうなのを必死に耐えながら電話対応をした。どうして望月さんが、病気にならなければならなかったのだろう。自身の過失や不摂生が原因ならまだ納得できる。でも彼女を狙ったのは難病だ。その事実が、憎くて、悲しくて、悔しくてたまらなかった。
 原因不明・完治不可という難病は、雷や車に当たるのとはまたわけが違う。どうして彼女なのだ。この世には、それに相応しき人間がたくさんいるはずだろうに。

 総勢7人の従業員しかいない会計事務所はこぢんまりとして、一軒家の間取りをくり抜いた一階の仕事場は、所々に様々なファイルが積まれ移動も一苦労だが、私にとっては悪くない職場だった。所長夫婦は色々と融通を利かせてくれるし、クライアントからいただいた商品を従業員の私たちにもお裾分けしてくれる。何より、パーソナルスペースをきちんと保ってくれる人間関係がありがたかった。
 でもそれは言い換えれば、職場に気軽に話せる相談相手がいないということでもある。以前は望月さんがいた。だからこんな気持ちになった時は、昼休みに近くの公園で一緒に昼食を取りながら話を聞いてもらえた。
 でも、今はいない。
 もう、彼女が戻ってくることもない。

 暗い感情を払拭できずにいた私は、昼休みを迎える前に早退した。通行人もまばらな大通りを駅へと向かっていると、舗道に散らばったものにふと目が止まり、立ちすくんだ。
 昨晩光を求めた小虫の死骸が、電柱の下にいくつも転がっている。彼らを見下ろす街路樹は、冬に備えて黙々と、その葉に色を染み渡らせていた。
 バイクが破壊的なマフラー音を撒き散らしながら私の横を駆け抜けていく。世界が狂っているように感じてならなかった。一緒に叫べたらどんなに楽だろう。けれど私はそういう人種ではないし、かといって無言で感情を整理できるスキルも持ち合わせていない。
 私はたまらず電話をかけた。相手は役場の窓口で忙しくしているであろう親友ではなく、もう一人の理解者だった。
「はい、もしもし」
 いつもの安村さんの声に胸を撫で下ろしながら、私は絞り出すように「描かなくちゃ……」と声を発した。
 私の心を落ち着かせるみたいに、安村さんはゆるやかな沈黙を挟んだ。
「うん。いくらでもサポートするよ。打ち合わせは電話でもメッセージアプリでもいいし、何なら会いに行ってもいい」
「会えますか?」
「明日はだいぶ時間が取れるよ。夜中で構わないなら今日でも行けるけど」
「じゃあ、明日で」
「はい。じゃあ明日の朝また連絡するね」

 これは、恋ではない、と私は確信している。
 その事実がいくらか私を安心させ、同時に、今抱いてるそれとはまた別の失意を、暗い胸に覗かせた。



 溜まっていた有給消化も相まって、私は今週すべての時間を自分のために使うことに決めた。と言っても独身三十路女のやることなんて高が知れている。掃除洗濯をし、スーパーで必要な食品と日用品を買い終えたら、あとは趣味か自慰にでも精を出すくらいだ。
 私の趣味が副業に変化したのは、望月さんの言葉がきっかけだった。同じ日から会計事務所で働き始めた私たちは、報連相で嫌でも話をする機会に恵まれた。
 私たちは最初から気が合った。それはマユミしか友達のいなかった私には奇跡的で、青と黄を混ぜたら緑が生まれるような必然的な関係にも思えた。
 隣市の有名な進学校を卒業した望月さんは、実家から車通勤をしていた。弟を小学校に送り、そのまま出勤し、帰りは誰よりも先に帰った。
 色んな話をした。両親が離婚したマユミにはしづらかった、父の話も聞いてもらったことがある。
 仕事で家を空けがちな母と昔から折り合いが悪いせいか、私は父のことをほとんど知らない。残された写真も数えるばかりだし、祖母も結婚の際に出会ったのが最初で最後だったらしいから。
 父が生きていたら、私はどんな女になっていたのだろう。そんな想いをこぼしたら、望月さんはしみじみとした微笑を浮かべながら、独り言のようにこう言った。

 "覚えているのと覚えてないのとじゃ、どっちがマシなのかな。比べるものでもないのは分かってるんだけどね"

 早く一人立ちしたかった私は、マユミとは別の商業高校に入学した。早く大人になりたかったから、在学中に簿記の資格を取り、卒業と同時に就職した。
 でもそんな私よりも、大人にならざるを得なかった望月さんのが、ずっと大人らしく映った。

 "サキちゃんはやりたいこととかないの?"

 一年くらいたった頃、ふいに望月さんからそう訊かれた。打ち込めるものを持てなかった当時の私は、今よりずっと母と仲が悪く、週末のマユミとの飲み会だけを目的に生きていた。
 望月さんはそんな私を案じてくれていたのかもしれない。答えに窮していると、彼女は照れくさそうに笑いながら、こんな話を続けた。

 "私はよくスーパーで考えちゃうの。今日は豚肉が安いけど、牛肉食べたい気分なんだよなあって。前は経済的に買い物してたんだけど、今は自分の気持ちに素直に生きてる。だって、明日も牛肉が食べられる保証なんて、どこにも無いんだから"

 私は望月さんに同じ質問をしてみた。

 "やりたいことは沢山あったよ。大学にも行きたかったし。だけど弟が小学生でね。まだ何かと面倒見てあげなきゃだから、車で片道10分かつ9時〜17時勤務のここは最適な職場だった。ポジティブな消去法ってやつよ"

 望月さんはよく、ポジティブな消去法という言葉を用いた。それはきっと、事故で両親を亡くした高校2年生の時に、嫌でも備えざるを得なかった思考法なのだろう。
 彼女が最期に選択した『施設』も、果たして前向きな検討によるものだったのだろうか。
 私は、望月さんと職場だけの関係にとどめていたことを、心底後悔していた。連絡先すら知らない私は、もう彼女の声を気軽に聞くことさえできないのだから。



 安村さんは連絡通り、昼過ぎに私の町に来た。11月半ばだというのに暖かい午後で、彼はネクタイを緩めたYシャツ姿で、腕をまくった肘にスーツを掛けていた。
 わがままを言ったお詫びを告げたら「頼りにしてくれて嬉しいよ」という彼の笑顔にいくらか救われた。
 駅前の喫茶店に入り、私たちはテーブル席でしばらくゆっくりとコーヒーをすすった。安村さんがこっちに来てくれた時は決まって利用する、個人経営の落ち着いた店だ。ワインレッド調のインテリアがのどかな空間を引き立てる店内では、カウンターの台にサイフォンがアーティスティックに配置され、アルコールランプの幻惑的な炎に焚かれてポコポコと心地よい音を出している。その隙間から聴こえてくるBGMでは、バド・パウエルが滑らかなタッチでクレオパトラの夢を弾いていた。
 仕事の話を始めるのは、いつも安村さんがコーヒーのおかわりを頼んだ後だ。私は持参したスケッチブックをテーブルに広げ、描いた鉛筆画のプロットを見てもらった。
 仕事の話をする時、安村さんは9回裏満塁フルカウントに直面した投手のような顔をする。
 私はその顔が好きだった。性的好意ではなく、作品を真剣に見てくれているのが分かって。



 私の絵本は、一話完結のシリーズものだ。架空の中世の時代を舞台に、主人公である吟遊詩人が旅先で出会ったキャラクターの背景を掘り下げていく内容となっている。
 全体的に暗めな配色に、報われないキャラクター……詩人はそんな人々を憐れむうたを歌い、また旅をする。題名は『メロディのゆくえ』。詩人、そして彼のうたがどこに終着するのかは、作者である私ですらまだ分からない。
 1,2冊目の売上は300部数にも満たなかったが、3冊目がとあるインフルエンサーの目に触れ、一部の日陰者たちの中で、秋の黄昏さながらの期間だけ話題になった。
 売れた3冊目は、墓守の少年の話だ。遠い昔、その地を治めていた領主に任命された墓守一族の末裔である彼は、唯一の肉親である祖父が病に倒れてから、ずっと一人で墓を掘ってきた。雨の日も晴れの日も、暑い日も寒い日も、彼は黙々と墓を掘る。直営地の町外れに不気味に佇む十字架の群れの端で、彼は幾日もスコップを地に差し、踏みつけ、土を掘り返す。

 詩人が現れるのは、雪の積もる季節だ。雪と土の区別すらつかない寒々とした日……少年の祖父が亡くなった夜のことだった。
 繰り返しの毎日の最中、移りゆく季節にどこか羨望めいた絶望を感じていた少年には、詩人がとても自由に映った。好きなうたを歌い、根無し草のごとくあてもない旅をする彼に、憎しみにも似た嫉妬と憧れを抱いた。
 物語の終盤、二人は初めて、そして最後の会話をする。
 少年は問いかける。終わりはあるのかな、と。
 詩人は夜空に語りかけるように答える。何事にも終わりはあるよ、と。
 少年は望むようにつぶやく。終わりはいつ、来るのだろう、と。
 詩人は星々を眺める彼の横顔に、眉をひそめながら告げる。誰にも分からないさ、と。
 少年は途方に暮れた顔で詩人を見つめる。あなたのうたは、どこへ行くの?
 詩人は目をつむってから、そっと答える。僕はそれを探しているんだ、と。

 少年は、最後に一つの墓を掘る。
 彼の祖父の墓を。
 詩人はそれを見届けてから、旅を再開する。
 彼の弾くリュートの音色が、悲しげな歌声と共に、再び降り出した雪の中をさまよう。
 少年はスコップを片手に、詩人の背中を見送る。
 スコップが手から力なく滑り落ち、詩人の背中が小さくなっていく。
 少年はスコップを拾うことなく、ただただ、詩人が見えなくなった方角を見つめている。
 町人がまた、遺体を運んでくる。
 詩人の歌声が小さくなっていく。
 遺体がどんどん運ばれてくる。
 詩人のうたが、聴こえなくなる。
 そばに転がったスコップを少年が拾ったかどうかを、詩人は知らない──。

 この3冊目は、『施設』設立の法案が可決してから考案し、手掛けた作品だった。



 4冊目は、父親から性虐待をされている少女の話を描こうと思っていた。
 少女は詩人に請う。私も連れて行ってと。
 詩人は頑なに断る。彼は決して、傍観者という立場を変えようとはしない。
 少女は詩人のうたをずっと聴いていたいと思う。彼と彼のうたの行方を見届けたいと、切に願う。
 詩人が頷くことはない。自分とこのうたは、まるで自分だけのものだと言わんばかりに、少女を拒絶し、一人で旅立っていく──。

 そんな下描きのプロットを安村さんは何度も読み返してから、ゆっくりと頷きを重ねた。
「悪くないね」
 彼の第一声は予想できていた。それは言い換えれば、まだまだ編集の余地があるということ。
「どこが気になりますか?」と私は訊いた。
 安村さんは下唇を無造作に摘みながら、プロットに目を向けたまま答えた。
「そろそろ変化が欲しいかな」
「作風の?」
「いや、詩人さんの──」
 あと、できれば上原さんも。
 そう言いかけて、彼は誤魔化すように喉を鳴らした。
「あー、いやごめん、最後のは忘れて。うん……そうだな、詩人さんはこれまでずっと他人を拒んできた。感情も目的も悟らせずにね。僕はそろそろ、彼の目指すゴールというものを、ぼやけた輪郭でもいいから垣間見せてほしいかなって思うんだ。おそらく読者もそう思う頃合いだろうしね」
 私は言葉に詰まってしまった。
「上原さん?」と安村さんはほがらかに小首をかしげて促した。
「まだ決めてないんです」
「ふむ」
「正確には、決めかねてる」
「理由を聞かせてもらえるかな」
「以前は彼の存在を、絶望の予兆と捉えてた。彼が来る先で、彼が目をかけた人は、みんな不幸になるって」
「うん。それはこれまでの3作で読者に伝わってると思う」
「でも……」
「今は気に入らない。それとも、詩人さんをそういう存在のままにはしたくない?」
「はい」と私は即座に頷いた。
「うんうん」
 今度はどこか興味深そうに頷いた安村さんに、私は言うつもりのないことを口にしていた。
「望月さんが……」
「ん?」
「あ、あの……職場のともだ……同僚が、辞めたんです。病気で……」
「そう……それは、お気の毒に」
「その人『申請書』を出してたんです」
 その言葉に、安村さんの顔がただちに曇った。彼は色を失くした顔で、静かに声を強張らせた。
「『施設』に、行ったんですね?」
「……はい」
 安村さんの重いため息を聞いたのは初めてだ。それから気を取り直すようにおしぼりで顔を拭いた彼だが、その目は固いままだった。
 担当編集者のプライベートをほとんど知らない私だったが、『施設』というキーワードが彼の人生の中で大きな意味を持つことだけは、瞬時に理解できた。
「上原さん──」
 彼は別人のように渇いた瞳を私に向けた。
「僕らが初めて会った日のこと覚えてる?」
「……ところどころは」
「あの時は言わなかったけど、僕はね、この作家さんは、ひどく純粋な人だって感じたんだ。悲しくなるくらいにね」
 その表現が良い意味なのか悪い意味なのか測りかねていた私に、安村さんは新聞を朗読するみたいな口調で続けた。
「当時は安楽死法案が可決されたばかりだったから、まさかこんな世界が来るなんて夢にも思わなかった。だから、上原さんの作風は良い意味で、世の中への啓発となるんじゃないかと期待したんだ。もちろんそれは別にして、あなたの実力が純粋に評価されるべきだという願望もあったよ。それが実現されて、担当編集者としてとても嬉しく思ってる……ただ──」
 安村さんの視線と唇が、しばらく行き場を失ったようにまごついていた。
「ただ……いや、ここから先は弊社の社風に反するな……」
 彼はそう言って、話題を断ち切るみたいにコーヒーをすすった。それから取り繕うようにニッコリ笑うと、いつもの彼に戻った。
「うん、やっぱり上原さんの描きたいように描くべきだと思う。方向性はこれでいいと思う。ただ、やっぱり詩人さんの背景はもう少し見せてくれるとありがたいかな」
「……わかりました」としか私は言えなかった。

 別れ際、安村さんはどこか申し訳無さそうにこう言った。
「上原さんが『描かなくちゃ』と言った意味が、ようやくハッキリ分かった気がする」
 茫然と彼を見上げていると、安村さんはいつもの微笑を浮かべ、駅へと向かった。
「キミは、初めて会った時にも、同じことを言ったんだよ」
 彼の背中を見送りながら、私は何だか、取り残されたような気持ちに襲われていた。
 私は初めて男性に自身の一部を晒し、相手も外皮を少しめくって中を覗かせてくれた。その中身に、自分の想いに通じるなにかを垣間見た気がしてならなかった。それがなぜだか鬱々とした感情を浮きだたせ、一人きりになった私の孤独を際立たせた。

 孤独はある意味、創作のスパイスでもあると思っている。現に私はその立場に浸りながら、作品を生み出してきた。
 だから母からの着信が途絶えたこの1週間は、すらすらと色鉛筆を走らせることができると思っていた。原稿用紙に鉛筆画の下描きを薄く描き、そこから慎重に色を付けていく。
 私は先に絵から仕上げる。私にとって絵本の絵は、家の骨組みみたいなものだ。土台をしっかり構築しておくことで、ブレない文章を添えることができる。
 淀みなく下描きを描き進めていた時、ふと手が止まった。そこは、少女が詩人に請うシーンだった。そのページは詩人と読者の視線が重なり、緻密に描かれるはずの少女の顔を真正面から捉えることができる。つまり詩人に感情移入させる大事な場面だ。
 そこから、まったく描けなくなってしまった。少女の顔はラフ画にもかかわらず、その悲惨な運命と背景がひしひしと伝わってくるくらい、どうしようもないほどに打ちのめされ、それでも捨てきれない一抹の希望を、暗く沈んだ瞳にポツリと浮かべているのだ。
 背筋が寒くなった。本当に、この子は私が描いたのだろうか。少女はまるで、私に問いかけているようだった──。

 このままで、いいの?



 金曜日の夜が来ても、私は前進できていなかった。別用紙にいくつも描き直してはみたものの、どれもしっくり来るどころか、まるで別の作品みたいになってしまった。
 何度も気分転換をした。近所を徘徊したり、普段吸わないタバコに手を出したり、時には強いアルコールにも頼ったりした。でもダメだった。
 私はひどく困惑していた。幼少から今まで、描けなかったことはなかったから。
 私が自費出版にこだわっていたのは、こういった時の保険だったのかもしれない。絵を商業的活動にしてしまったら、嫌でも完成させなければならなくなるから。
 感情と現実が相反していた。描かなくちゃという想いと、描けないという事実。
 安村さんは「一時的なスランプだよ。作家の誰もが通る道さ」としか言ってくれなかった。
 はたして本当にそうなのだろうか。私は紺碧の色鉛筆をじっと握りしめながら、何時間も少女の顔から目を離せずにいた。

 ストーリーを根本から見直そうかと諦めかけていたその時、唐突にスマホが震えた。母ではなくマユミからのメッセージ着信だったのでホッと息をついたのも束の間、届いたその一文に、私はひどく嫌な予感がした。

 "飲みに付き合って"



────────────


4.


「──やめたの」
 一杯目の中ジョッキを息継ぐ間もなく飲み干したマユミは、居酒屋チェーン店の個室の、壁に掛けられたオススメおつまみの写真をぼんやりと眺めながら、3年間の断酒と、不妊治療をやめた理由を語り始めた。
「もういいかなって思ったんだ。経済的にも精神的にも、ここまでが限界だった」
 私はしばらく言葉が出てこなかった。マユミに何を言ってあげればいいか分からなくなるなんて、初めてだ。
「私が諦めるって言ったら、彼、ホッとした顔してた。それ見たら、何だか虚しくなっちゃった」
「……戸根くんと何かあったの?」
「何も。"彼は何も変わっていない"。優しくて、いつも私を一番に愛してくれる、私が選んだ最高の旦那──」
 だからなのかな、とマユミは物憂げに目を落としながら、小さく呟いた。
「だから、こんなに苦しくなるのかもしれない」

 いつ以来だろう。二人で酒に逃げる夜は。
 途切れ途切れの会話に、増えていく空のグラス。今夜のマユミは、3年ぶりの飲酒だというのにちっとも美味しそうに見えなかった。まるで砂漠に水を撒くかのようにグラスを傾ける彼女は、内から込み上げてくるどうしようもない感情を、必死に堰き止めているようだった。
 もしかしたら、それは私も同じだったのかもしれない。同じペースでグラスを重ねる私を、彼女は時折、慰めるような、憐れむような眼で見つめた。
「──サキはさ、自分の欲しいものがどうしたって手に入らないと分からされた時、どうしてる?」
 いくらでも励ましの言葉は浮かんだ。でも私はこれまでそんな返答はしたことがないし、マユミも私をそういう人間だと痛いほど理解している。
 だから私は、正直に答えることにした。
「何も変わらない。そんな局面にばかり襲われてきた人生だから」
「……ごめん。今日の私、イヤなヤツよね」
「謝らないで──」
 私は本心から言った。
「あなたに謝られたら、私は自分の存在価値を見失ってしまう」
 マユミは今にも泣き出しそうな顔で微笑みながら、すがるように言った。
「今晩泊めて」



 マユミの両親が離婚したのは、彼女が大学生になった年だが、不仲だったのはずいぶん前からそれとなしに聞いていた。彼女はハッキリとは言わなかったが、小学校を卒業する前に父親が不倫したせいで、それまで平穏だった家庭が別世界になってしまったと。
「──他人(ヒト)は、私を恵まれた女だと信じて疑わない。欲しいものは何でも手に入れる傲慢な女だと思ってる。昔からそう。近所の親子も、同級生も、職場の奴らも、母さんも……もしかしたら、彼も……」
 秋の肌寒い風をしのぐように寄り添いながら、私たちはアパートへと歩いていた。
 マユミは鼻をすすりながら、吐き捨てるようにこう言った。
「妥協の繰り返しよ。人生なんて」
 なんて言っていいか分からなかったので、私は心の蓋を開けた。
「泊めてって言ってくれて、嬉しかった」
「迷惑じゃなかった?」
「私一人じゃ、こんな寒い道を歩いて帰れなかった」
 マユミはギュッと私の腕にしがみついてから、蓋を優しく持ち上げてくれた。
「話して」
「描けないの」
「……そっか」
「うん」
 どこからか赤子の泣き声が聞こえ、救急車のサイレンが近づいては離れていった。
「鍋島って男、覚えてる?」
「いつかの総理大臣?」と答えると、マユミはクスクス笑った。
「中3の時のクラスメイト。昨日市役所に来たの」
「プロポーズでもされた?」
 顔をそらすように曇天を見上げたマユミは、一転した硬い声で「『申請書』を持ってきたの」と答えた。
 長い沈黙が、ブーツを引きずるように歩くマユミの足音と、私の鼓動を響かせた。
「私、何も言えなかった」
「……私も言えなかった」と私はあの日の望月さんを重ねていた。
「面食らってた私に、そいつ、なんて言ったと思う?」
「わからない」
「これからは死ぬ気で頑張れるんだ。文字通りね、って……」
「……クソね」
「うん、クソ。ホント……狂ってるよ、こんな世界」
 すれ違った通行人に、マユミはふと足を止めた。
 両親と両手を繋いで歩く幼女の背中をしばらく眺めていた彼女は、まるで己に問いかけるみたいに、静かに呟いた。
「子供を作るのって、そんなに罪深いこと?」



 死ぬために頑張れ。
 いつからかネットで流行ったその過激な標語は、多くの不安を取り除いた。文字通り死ぬ気で頑張ると、見える景色が変わってくる人が少なくなかった。
 増加傾向にあった自殺者数は目に見えて下降し、反対にGDPが嘘みたいに上昇した。いつでも楽に死ねる、という保険が日本人にもたらした功績はあまりにも大きかった。しかもそれが、誰かのためになる、というプラスアルファまで付いてきたものだから、高齢層を多く抱えるこの国では、世論の波に抗える者など誰もいなかった。
 『施設』はたびたび、ネットなどで『天国への門』と呼称される。天国行きにそぐわない者は入門を拒否され、地獄に落とされるという逸話の由来からだ。
 私は、死と生そのどちらが地獄に当てはまるのか、分からずにいた。



 マユミがシャワーを浴びてる間にテーブルを片寄せ、床に布団を敷いたが、彼女は当たり前のように私のベッドにもぐり込んできた。しばらく女子中学生的なたわむれをし、ひとしきり笑った彼女は、私を後ろから抱き枕のようにかかえた。
 15cmも高い彼女にそうされていると、まるでぬいぐるみにでもなった気分だ。けれど悪い気はしない。寒い夜には、どんな暖房よりも人肌が勝るのだ。
「サキの匂い、好き」
「あなたと同じシャンプーでしょ、たしか」
「そういう意味じゃなくて」
 マユミは私の髪を優しく撫でながら言った。
「あの時、私は、この人ならって思ったんだ」
 私が男だったら、私たちはどうなっていたのだろう。そんな意味のない妄想をしながら、私は黙って親友の吐露に耳を傾けていた。
「あの日、サキが友達になってくれてなかったら、私は、私じゃなくなってたと思う。世間一般の人間と同じように、綺麗なものだけに身を包んで、周りからチヤホヤされるのが生きがいだと勘違いして……きっと、私が生まれる前から大事に大事に抱えてきた、大切な"なにか"を失ってしまっていただろうね」
 私があの日見失ってしまったものは、いったい、何だったのだろう。
「私はサキがずっと羨ましかった。ずっと」
 マユミは静かに打ち明けた。隣のクラスだった中学1年生の時に初めて私を目にしてから、ずっと友達になってほしかったのだと。
「あの桜ミトの娘だと知った時、私は驚きよりも納得の方が大きかった。ああ、そりゃそうよね、って。この子は、他の子とはまったく違っていたんだから。誰もそれに気がつかなかった。気づけたのは、私だけ──」
 私も、一人だったから。
 マユミはか細い声でそう紡いでから、念を押すように言った。
「でもこれだけは間違えないで。サキが桜ミトの娘だから、友達になりたかったんじゃないってことは」
「知ってる。もう寝なさい」

 親友の告白を聞きながら、私は望月さんのことを考えていた。胸が張り裂けそうだった。私が彼女に抱いていたのは、感謝や敬意や憧れとか、そんな耳心地の良いものだけではなかったということを、今になって思い知らされて。
 同期というのは、どこの世界でも何かと比べられがちだ。仕事ぶりはもちろん、陰ではプライベートなことまでも。
 だから私は、望月さんが病気になったと聞いたとき、多分のショックや同情の隙間に、どこか安堵した気持ちを挟んでいたのだ──。

 この人は、私と同じように、幸せにはなれないのだと。

 同年代が次々と結婚していく中で、自分らしさを失わずに生きていける女はそういるものじゃない。悲しい現実に心を歪めずにいられる人間は、この世にいったいどれだけいることだろう。
 だから人は、誰かを求める。似た境遇の者だったり、自分にはない"なにか"を持っている者を。
 私たちは、いま、空っぽになっている気がした。それは女として、一人のクリエイターとして、とても怖いことだ。
 けれど……。そんな接続詞が私の胸を締め付けるのは、隣にマユミがいてくれるから。そして、描かなくちゃという、義務的にも似た意欲をまだ失っていないから。

 マユミの熱に触れながら、私は数日前の安村さんを思い出していた。
 彼がおそらく感じ取ったように、私は『施設』という存在を好ましく思っていなかった。自然の摂理に反するとか、神への冒涜だとか、そんな無責任かつ身勝手な建前を述べるつもりはない。
 でも今は……望月さんの選択が、間違ったものではないように思えてきていた。いや、違う……それは元から、正否や善悪などでは測れないものなのだろう。
 そのことに気づいたら、彼女に会いたくてたまらなくなった。
「──ねえ、サキ」
 マユミは私の首筋に唇を付けながら言った。
「いつか一緒に暮らさない?」
「いつかって、いつ?」
「20年後か、30年後か……何なら明日から」
「さすがに明日からは無理ね」
「じゃあ、いつか」
「ええ、いつか、ね」
 寝息を立てる前に、マユミは耳元でこう囁いた。
「私を置いて行かないでね、サキ」



 この日も母からの着信はなかった。
 彼女と再会したのは4日後。祖母の命日のことだった。


────────────


5.


 上原家は代々、男運の無い家系だと祖母からつねづね聞かされていた。彼女の父は戦死し、夫は飲酒運転のトラックに轢かれ、義子は一粒種を残して病死した。
 そんな家系に生まれた女は、大概が波乱の人生を送るものだと、祖母は我が身を省みるかのように言った。その通りなのかもしれない、と私は諦めにも似た感情で同意した。祖母は幾度も名字を変えたらしいし、母は娘より国際線のCAと親密になるくらい世界を飛び回っている。そして肝心の孫は、一族の血を引いているのか疑わしいほどの器量と内気な性格だったから。

 "いつか、サキに相応しい男が現れるよ。悪い虫が付かないように、神様はサキをそんな風に作ってくれたんだ"

 祖母はそう慰めてくれたが、私はこう考えていた。もし人々の願いを叶えてくれる存在がこの世にあったのだとしたら、そのお方は、私に使命をくださったのだ。上原家の不遇な運命は私で終わりにするのだと。
 そんなひねくれた私だが……いや、だからこそ、親友が子供を諦めたという事実はひどくショックだった。私は誰よりも知っている。マユミが心から欲しいと願っていたものなんて、ほんの数えるくらいしかなかったことを。服も化粧品も大量生産の安物を選び、いくつもの妥協を繰り返しながら努力し、それなのに子供の頃から願い続けたものを手放さなければならなくなった彼女が、たまらなく不憫に思えた。

 火曜日の早朝。実家のある町へと向かう電車に揺られながら、私は鍋島というクラスメイトを必死に思い出していた。けれどいくら記憶を辿っても、その顔と声は一向に頭をよぎってはくれない。
 そんな顔も分からない男に、私はいささかの憎しみを抱かずにはいられなかった。親友が夢を断った背景には、少なからず彼の出現が影響したのではと邪推して。
 安楽死法案が国会に提出された当時、世論の意見は真っ二つに割れていた。反対派の理由はさまざまだったが、ワイドショーが大きく取り上げた一つは、もし自分の家族がそれを選択したら、だった。親が、配偶者が、愛する我が子が安楽死を選択することになったら、はたしてあなたは耐えられますか、と。
 そういった議題を、マユミが涼しい顔でこう評していたのが印象に残っている。

 "人には誰しも生きる権利と死ぬ権利があるのよ。子供が死を望んだとしても、親にできることなんて高が知れてる。少なくとも私は、黙って首を吊られるよりは幾分マシな妥協案に思える。あくまでも幾分、ね"

 私は、万が一の質問をマユミにしてみた。今度の彼女は半ば冗談みたいに笑いながら答えた。

 "もしそうなったら、必死で止めるよ。何度も話し合って、解決の糸口を探す。それこそ死物狂いでね。見つからなかったら……まあ、その時は仕方ないかな。私が誰よりもしつこい性格なのはサキが一番知ってるでしょ? そんな私が諦めたのなら、それはもうやるべきことは隅から隅までやりきったってことなのよ。だからそうなった時は、一緒に死んであげてるでしょうね"

 安楽死法が施行されてからも、マユミは意欲的に妊活に取り組んでいた。そんな彼女が初めて当事者側に立って意見したのは、法が改正され、『施設』設立が法的に認められたニュースにだった。

 "これは……違う"

 静かな怒りが、わなわなと唇を震わせ、眉を吊り上がらせていた。

 "これは、間違ってる"

 マユミの妊活報告を聞かなくなったのは、ちょうどその時からだ。同時に、私の絵本が売れ始めたのも……。



 祖母のお墓は、閑静な商店街が連なる駅前から少し歩いた、農道に臨する集落墓地にある。私の背よりも低い石垣に囲まれるひっそりとした墓地だが、近隣住民の手入れのおかげもあってかゴミ一つなく、小さな水汲み場も大切に使われていた。
 一通り掃除を終えた私は、白いトルコキキョウを供えた墓前に膝を付いていた。上原家之墓という文字を見つめながら、祖母を思い出し、自分の今後の展望を漫然と考える。
 私と同じように、祖母も母と良好な関係を築けなかった。それは元からソリが合わなかった私とは違い、祖父の死が多分に影響していたのだと、後になって知った。
 私が母の愚痴をこぼすと、祖母は決まってこう言ったものだ。

 "あの子を恨まないでね"

 再婚を繰り返した彼女の言葉は、どこか自戒にも聞こえた。不安定な思春期を過ごした娘は高校を勝手に退学し、何も持たずに家を飛び出したという。
 私がよく学校をサボりたいと言った時、祖母はその日の家事をすべて私に押し付けた。掃除洗濯に料理と、何から何まで。
 それを片付けた後は、私の教科書をテーブルに並べて勉学を勧めた。学校に行きたくないなら行かなくてもいい。ただ行かなかった日は、同級生の3倍励みなさい、と言って。

 "あの子もよく学校に行きたくないと言ってた。でも私は無理やり行かせてた。それこそ今ではタブーとされる過激なやり方でね。当時は珍しくない手段だったし、私も普通のことだと思ってた。でも、本当は気づいてた。まともな大人になってほしい、という願望よりも、どうして思い通りにならないのっていう怒りや嘆きのような暗い感情が、あの子の頬をひっぱたいていたんだって"

 私は祖母の話を聞くのが嫌いじゃなかった。母は仕事関連を除けば、満足に自分の話をしてくれなかったから。

 "普通に頭を働かせれば分かることなのにね。穏やかに心を育てなきゃいけない時期に、父親を失い、まだその事実を受け止めきれないうちに、ろくに知らない男が空いた席に次々と座っていくんだ。まともな家庭じゃない。ひどい母親だよ。それなのに、私は優しくしてあげられなかった。自分のことで精一杯でね"

 祖母の葬式の日、母は冷めた口調でこんなことを言っていたのをよく覚えている。

 "あの人が再婚を繰り返したのは、お父さんを忘れたかったから。でもできなかったから、最後は上原の姓を名乗って死んだのよ。お父さん、婿養子だったからね"

 私の絵は自己流だが、その基礎の多くは祖母から学んだ。正確には、見て盗んだ。好きなようにやりなさい、が彼女の口癖だったから。

 "サキの描きたいものを、描きたいように描けばいいんだよ。この真っ白なページこそが、真の自由なんだから"

 母の経済的なバックアップもあって年中家にいた祖母は、庭の木漏れ日の中でよく絵を描いていた。そのほとんどが水彩画で、幼い私も見様見真似で筆を使ったものだ。
 けれど私には、どうしても筆のタッチがしっくり来なかった。中に一本芯の通った鉛筆ぐらいしか、私の拙い技量(おもい)を支えてくれる道具はなかったのだ。
 ただ幸いにも、私は自分だけの絵を見つけることができた。けれど、今はそれすらも見失っている。
 私にとって描けないということは、自己の存在意義を問われる問題だった。



 スマホのアラームが鳴った。もうすぐ30分に一度の電車がやって来る。私は祖母に別れを告げ墓地を出た。
 それは数m歩き出した時だった。黒塗りのセダンが私の横を通過し、墓地の前で止まると、愉快な声が私の名を告げた。
「サ〜キ!」
 助手席から降りてきたのは、若い女だった。ベージュのトレンチコートをタイトに着こなし、長い裾から伸びた褐色の革ブーツが、全体の姿勢や配色を美しく引き立てている。
 私はたまらず息を呑んだ。黒の長髪を前髪までまとめた団子ヘアであらわにされたその笑顔を、まざまざと見せつけられて。うっすらとファンでが塗られた頬は、制服を着せたら女子高生と見間違うくらいの肌艶で、どこからどう見ても、年下にしか映らなかったから。
 私は声を失っていた。その整った目鼻立ちは、幼さすら感じさせる明るい声には、私が見慣れ聞き慣れた面影が、はっきりと滲んでいたから。
「久しぶり、会いたかったよ〜!」
 短い呼吸が、ホラー映画の山場で流れる効果音みたいに、速さを増していく。
「誰だか分かる? あ・た・し」
 震えた足が、逃げ場を求めるように後退りする。ぽっかりと垂れた下唇が、上手く動いてくれない。
「リハビリに時間かかっちゃってさ。どうせなら突然会いに行って驚かせてやろうと思って」
 色とりどりの菊の花束を片手に近づいてくる女に、私はひどい恐怖と、憤りを感じずにはいられなかった。
「ビビった? 何度も電話したのに出なかったサキが悪いのよ」
 ニカッと咲いた笑みを目にしたところで、とうとう、私の心は限界に達した。
 これまで表に出せず内に留めておくしかできなかったさまざまな感情が、胸の奥から乱雑に溢れ出す。これまで発したことのない大声が、またたく間に悲鳴となって、私の胸の内をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
 そんな私に目を丸くした彼女は、たちまち青い顔をした。
「ちょ、ちょっとサキ……そんな驚かなくても──」
 感情を抑えられない両手が、私のボブカットをぐしゃぐしゃに掻き回していた。叫びを止められなかった。壊れた蛇口みたいに流れていく涙が、これまで私を必死に繋ぎ止めてくれていた理性のように感じた。
 たじろぐ女のそばへと、運転席から白髪頭の男が降りて来るのが見えたが、その顔を確認する前に私は駆け出していた。

 生まれて初めて全速力で走ったと思う。心が押しつぶされそうだった。分かっていたのに、覚悟していたはずなのに、いざその現実に直面すると、耐え難い苦しみと罪悪感が、私を壊そうとしていた。
 母は、禁断の果実に手を出したのだ。



────────────


6.


 気がつけば事務所のある町の、国道沿いの縁石に腰を降ろしていた。慌ただしく流れる人波がチラリと私に目をやり、中にはスマホを向ける者もいたが、何も感じなかった。
 私は糸の切れた人形みたいにじっと膝を抱えながら、無機質な通勤ラッシュと、その上の街頭ビジョンを眺めていた。番組は朝のワイドショーを放送している。他人の不倫には鬼の首を取ったように叩くくせに自身の女性問題には口を濁したことで有名な司会者が、仰々しい口調でこう切り出した。
「だんだん過激になっているように思えます」
 画面に流れたVTRは、昨日都内で行われたデモ活動だった。1000人を超える人々が弾幕やプラカードを掲げ、国会前で声を張り上げている。彼らはもうずいぶん前から、安楽死制度や『施設』の設立に反対していた宗教団体だ。

『人はまた、罪を犯すのか』

 プラカードにはそんな類の言葉がいくつも書かれていた。インタビューに応じた者は、決まって神とか摂理なんて常套句を口にした。これは間違っている、とマユミ同様の言葉を用いた者もいたが、具体的かつ論理的な批判ができた者は一人もいなかった。
 画面がスタジオに切り替わると、数年前にベストセラーとなった『自殺は罪ではない』の著者である年配コメンテーターが、得意げに自説を述べ始めた。横柄に顎を持ち上げた話し方が鼻持ちならなかったので話半分に聞いていたが、彼女の話を要約すると、『施設』は人類の進化において正しいベクトルへといざなう存在だという主張だった。
「──ここ数十年で平均寿命は右肩上がりでしたが、幸福度はそれに比例したでしょうか? 癌の脅威はいまだ衰えず、鬱病や認知症患者は増え続けるばかり。止まらない物価高に野蛮な海外情勢、そして未知のウイルスの出現は、どれだけの人々の生活を脅かしたことでしょう。こういった障害がさらなる少子化を促進させたのは言うまでもありません。ですが残念なことに、そんな実状に危機を感じない国民が少なくなかったのが事実です。潤沢な刺激に侵された現代生活は、人類を明確にカテゴライズしてしまったように私には思えます。端的に言えば、活力に満ちた人と、無気力にならざるを得なくなった人に区分されてしまった。『施設』の存在意義は、それら双方の人々にとって救済となるところです」
 当たり障りのない相槌を打った司会者は、ここで法医学の専門家に話を求めた。
「さて、改めて『施設』の概要および設立までの経緯をご説明いただきたいと思います。先生、お願いします」
 紺のスーツにオレンジのネクタイという、見ていて目が疲れる装いをした薄毛の中年男性が、銀縁眼鏡のブリッジを中指で何度も持ち上げながら、たどたどしい口調で説明を始めた。



 安楽死制度が発足した当時は一議員に過ぎなかった坂下守が、今では厚生大臣として確かな実権を握っている。反対していた保守派も少なくなかったが、もうこの国が限界を迎えていたというのは、少し頭の働く者なら誰もが理解していたことだった。
 大臣の所属する党が政権を勝ち取ったのは、彼の義弟が独自に構想を進めていた『施設』が決め手となった。施行と同時に民間の病院ならびにリゾート業界との提携が報道されるや、都道府県に一軒の割合で建設が始まった。
 この『施設』に入れる者は、2種類に分けられる。表向きはレシピエント・ドナーと呼ばれるが、率直な言い方をすれば、生きたい者と、死にたい者だ。
 ノーベル医学・化学賞をとった義弟が発明したのは、医学界、そして人類の価値観を根底から覆すものだった。その機械は、人の『いのち』を吸い取り、他者に分け与えることができるという……。
 まさにSFチックな話だが、悲しいことにここではそれが現実だ。ドナーは一切の苦しみなく生命活動を止めることができ、レシピエントはその『いのち』を受け取り、肉体細胞を修復・回復させる──。
 つまり一言で言えば、若返るのだ。

  "昨日今日で実践できる話じゃないよね、これ"

 避暑地のリゾートホテルのような外観と、設備の整った病院の内観を備えた『施設』が報道され始めた頃、マユミが珍しく眉をひそめながらそう言ったのが忘れられない。私も同感だった。法案が通る前から水面下で臨床試験を重ねたであろうという憶測は、おそらく沢山の人が抱いていただろう。
 でもそんな猜疑や倫理問題が表面化することはなかった。それほどまでに『施設』の需要は多くの日本国民において、無視できないものだったから。

 人を、若返させる。
 マユミと同じで理系に明るくない私だが、その科学的根拠は理解できなくとも、理屈はなぜだか素直に呑み込めた。きっと心の奥底で、人の『いのち』には元々、それを可能にしてしまうほどの価値があるのだと信じていたのだろう。
 同時に、こう思わざるを得ない──。

 何てふざけた世界なのだろう、と。

 仮に私が『施設』の重要ポストに就いていたり、はたまたその全容を解明しようと奔走する主人公だったら、私の物語はもう少し見応えのあるものになったのかもしれない。でも私は、私でしかないのだ。女としての器量に恵まれない、代わりはいくらでもいるアマチュア絵本作家。
 本音をためらわないネット掲示板などでは、選民思想を隠さない意見が多く見られる。彼らの崇めるアーティスト・声優などは、この恩恵を受けるに値するという主張がたくさん見受けられた。
 おそらく一部の界隈に限っては、母もその対象に該当されるのだろう。そして彼女をきっかけに、堰を切ったようにレシピエントへと名乗り出る者が現れるのは、想像に難くない……。
 そんな危惧が、私をひどく苦しめていた。



「──上原さん?」
 聞き覚えのある声に力なく顔を上げると、新人の石田さんが心配そうに腰をかがめていた。
「ど、どうしたんですか? お腹痛い?」
 そんなワードが出てくる彼女の人間性にたまらず鼻を鳴らしてしまったが、石田さんはなおも私を気遣ってくれた。
「大丈夫ですか? 鎮痛剤持ってますよ、私」
「大丈夫。痛くない」
「じゃあ、どうして? 何があったんです?」
「そういう気分なの」
「気分って……」
「先行ってて」
 彼女はいくらかムスッとした顔で、私の隣にひょっこりと腰を降ろした。
「上原さんと一緒に行きます」
「遅刻しちゃうよ」
「そういう気分なんです」
 ワイドショーでは作家コメンテーターがまた長話をしていた。今では改革派筆頭の立場を隠さない彼女の語り口は、呆れるほどに饒舌だった。
「──人は誰しも、無駄という言葉に一定の嫌悪を抱いています。一般的には、対価にそぐわない代償が生じた場合に無駄を用いられますが、その差があまりにも大きかった場合、大半の者が負の感情に苛まれます。それは自責であり、他責であったり、または罪悪感を孕んだ恐怖だったりするでしょう」
 彼女の息継ぎの際に、石田さんがため息をついたのが耳に届いた。
「この世に、死に勝る無駄は存在しません。ではその死が、無駄にならなかったとすればどうでしょうか。多くの悩める者たちが、自己の命や人生の存在意義に疑問を感じながら生きています。そんな者たちを答えへといざなってくれるのが『施設』であるわけです」
 CMに切り替わると、石田さんはもう一度ため息をついてから、はっきりと言った。
「私、この人キライです」
「気が合うね」
「お喋りな物書きは癇に障るってのは別にしても、この人に良い感情は持てないです。話してることが間違ってるとは言いません。でも、こういう話って、もっとおごそかにというか……少なくとも、こんな明るい時間帯の井戸端会議みたいな番組でする話じゃないと思う」
「あなたも反対派なの?」
「反対派ってわけじゃないけど……」と石田さんは誤魔化すように苦笑しながらうつ向いた。
 街頭ビジョンは番組のメインスポンサーかつ『施設』の既得権益企業である『COL』のCMを流していた。
 なにが『Cycle Of Life』だ、と私はそのアルファベットを睨んだ。どうして人は、すぐ綺麗な言葉で蓋をしようとするのだろう。どうしてこの世は、嘘で溢れているのだろう。
 いまだ口ごもる石田さんに、たまらず私は本質を晒してみた。色んなことがどうでもよくなっていたのだ。
「桜ミトって知ってる?」
「……あ、知ってます。お母さんがあの人のブランド好きで、昔からよく服買ってますよ」
「私の母親なの」
「えっ、そうなんですか!?」
「うん」
「え、でも名字違うじゃないですか。あ、芸名かな?」
「桜は父親の姓よ」
「あ、なるほど……あれ? じゃあ何で上原さんは、上原さんなんですか?」
「父は私が生まれる前に死んだから」
「あ、そうなんですね……すみません……って、あれ? 何か私混乱してきました」
「色々あるのよ」
「あ、ですよね、色々ありますよね……誰にも……」
 石田さんは職場同様、終始落ち着かない元気を振りまいた。いつもの私ならうんざりしていただろうが、今はそんな気持ちにすらなれないくらい、すり減っていた。
 そんな私に、彼女は励ますような口調で言った。
「話してくれて嬉しいです。秘密にしといた方がいいですよね?」
「あなたの好きにしていいよ」
「私、上原さんと仲良くなりたかったんです」
「そう」
「だから、その……聞いちゃったんです」
「なにを?」
「所長の奥さんや先輩たちに。私の前任者が病気だったってこと」
「……そう」
「だから最近の上原さんは元気ないんだって」
「ごめんなさい。迷惑よね」
「そんなんじゃないです! そういうんじゃ……」
 石田さんはまた大きく息をついた。愛想を尽かしたり気持ちを落ち着かせるというよりは、自身の想いを正しく言語化しようとする儀式みたいに見えた。
「さっきの話ですけど」
「なに?」
「私、反対派ってわけじゃないんです。ただ、考えちゃうんです」
「どうして?」
「私の祖父がドナーだったから」

 CMが開けると、法医学者は続けて安楽死とドナー申請の概要を語った。
 日本国民が安楽死制度を利用する場合、自治体および職場に『申請書』を提出する必要がある。性別や年齢、そして健康状態にも左右されるが、扶養家族や疾患・障害を持たない壮年男性の場合、申請後の累計所得税400万円到達が条件となる。期間内に違法行為や自己破産などをした者は除外され、新たな傷病によっては条件が緩和されることもある。
 ドナー申請の場合は、前述した条件よりもいくらか要求が減るものの、それは身体的・精神的に正常と言い難い者だけに限られる。対して健全者の申請はぐっとハードルが上がる。その明確な差別は、あくまでも生きることを諦めないでほしいという建前によって設けられた条件のように、私には思えた。
 レシピエントになるには、ドナーより遥かに厳しい条件を満たさなければならない。言い換えれば『資格』でもある。その基準は実際に『申請書』を出した者にしか伝わらない程ひどく曖昧だが、日本国への多大な貢献に、生への圧倒的な意欲、そして基礎疾患の無い者だけに限られる。
 だがそれも、いずれは少しずつ条件が緩和されていくだろうと、法医学者は推測した。現在はまだ肉体レベルを回復させるという漠然的な処置のみの段階だが、近い将来その技術が応用され、脳細胞の特定的な箇所への部分適応をも可能にし、鬱や認知症を劇的に改善させることも夢ではないと、彼はいささか浮かれた口調で念押しした。

 そんな説明をどこか遠い目で見聞きしていた石田さんは、いくらか渇いた声で語り始めた。
「癌でした。お祖父ちゃん、まだ還暦になったばかりだったのに、病気が見つかった時にはもう末期で、あと一年生きられるかって診断でした……世の中不公平ですよね。消防士としてずっと人のために働いてたのに。健康診断だって、毎年欠かさなかったのに……」
 咳払いと鼻をすする音がした後、一転して妙に明るい声が届いた。
「誇らしい気持ちは無くはないんです。最後の最期まで、誰かのために生きるって贔屓目なしに凄いことだと思う……だけど……」
 私たちはしばらく、色のない雑踏を聴いていた。
 石田さんは大きく息を吸い込んでから、静かに言った。
「私は、もう手の打ちようの無い病気とかになってしまったら、ドナーは有りだと思ってます。でも、考えちゃうんです」
「……何を?」
「最期に見たお祖父ちゃん、まるで眠ってるようだった。安らかな顔して、やりきったようで……それを見て私たち、ちょっとホッとしたんです……でも、それでも……考えちゃうの──」
 石田さんは晴れ間が差し込む空を仰ぎながら、ゆっくりと漂う雲に問いかけるように言った。
「お祖父ちゃんの心は、いったいどこへ行ったんだろうって」

 人の『いのち』は、誰かの糧になる。
 ならば、心は?
 石田さんの言う通りだと思った。

「望月さん……でしたっけ?」
「うん」
「私が言えたことじゃないかもしれないけど、何か気になるんなら、伝えたいことがあるのなら、会っておいた方がいいと思います」
 再び『COL』のCMが流れた。読み終わった一冊の本が、順に次の人に渡っていく。
 繋がれていく想い……、と石田さんはその声をナレーションにかぶせると、目尻を指ですくいながら、こう続けた。
「ドナーもそうだけど、安楽死って、遺された人たちが覚悟を持てるまでというか、気持ちを整えるまでの時間を設けてくれる手段の一つって考えられれば、悪いことばかりじゃないと思うんです」

 人は誰しも、誰かを求める。
 それはきっと、自分にはない考え方を、知るためなのかもしれない。

「──石田さん」
「はい」
「この前頼んだ中田建設さんの月次、間違ってたわ」
「あ、ごめんなさい!」
「いいの。私も最初はよく間違えてたから」
「へえ、上原さんも」
「これから一緒に直しましょう」
「はい、ありがとうございます!」

 仕事が終わったら、所長の奥さんに教えてもらおうと決めた。望月さんの連絡先を。



────────────


7.


 11月も終わりに近づくと、コート無しでは外を歩けなくなるくらい寒い日が続いた。街路樹は葉を散らせ、落ち葉が虫たちの亡骸を隠すように積もった。
 絵はずっと描けなかった。そもそも描こうとさえしていなかった。描けないことより由々しき感情が、私の胸をいつも締め付けていた。

 墓地で再会した日以来、母からの連絡はない。
 あの翌日、彼女のレシピエントは大々的に報道された。案の定、世界的ファッションデザイナーの若返りは世間に大きな論争を招いた。その様相はまさに日本人的で、共感は乏しく、感情論に近い批判がネットでいくつも散見された。
 だが当の本人はどこ吹く風といった顔でインタビューに答えていた。
「これからも変わらず作品を生み出していきます」
 そんな母を、ワイドショーは面白おかしく扱った。コメンテーターの一人は、町中で女装したオジサンでも見かけたかのように苦笑しながら、こう評した。
「やはりアーティストというのは、いつの時代も先鋭的ですねえ。自己を確立していると言うか、我が道を行くと言いますか……いやはや、ちょっと羨ましい気持ちになりますよ」

 母の報道がなされてすぐ、マユミから気遣いの電話が届いた。
「大丈夫?」とマユミは本当に心配そうに言ってくれた。
「大丈夫」
「いつでも電話してね。何でも話聞くから」
「ありがとう」
「ホントは一緒にいてあげられたらいいんだけど……」
「大丈夫よ。あなたも何かと大変でしょう」
「……うん」
 マユミは意味深に口ごもってから、しばらく仕事を休むのだと教えてくれた。
 私は理由を訊かなかった。石田さんの言う通り、色々あるのだ。誰にだって。
「マユミも無理しないでね。あなたは頑張りすぎるところがあるから」
「うん……ごめんね、こんな時に」
「ありがとう。ホントに大丈夫だから」

 そこはかとなく、私は予感していた。14歳の頃から切れ目なく続いたこの関係も、これから少しずつ変わっていくのではないのだろうかと。あの夜、マユミに打ち明けられてから、私たちはより親密になり、同時に、二人きりでは埋められないなにかを、お互いに求め始めたようにも思える。
 きっと私も彼女も、心のどこかで受け入れようとしていたのだろう。私たちは、変わらなくてはいけないということを。

 それでも私はなかなか変われなかった。何度も頼んでようやく教えてもらった望月さんの番号へ、いまだに連絡さえできずにいたのだ。
 時間が限られているのは痛いくらい分かっている。けれど、どうしても一歩が踏み出せなかった。彼女がすでにドナーになって、この世からいなくなっていたらと考えると、スマホを持つ手の震えが止まってくれなかった。

 そんな私の背中を後押ししてくれたのは、意外な人たちだった。一時的に世間を騒がせた母は、すぐにコレクションショー開催に向けて海外に旅立ってしまったので、彼が私のアパートを訪問するのは予想だにしていなかった。
「こんばんわ。お久しぶりですね、サキさん」
 部屋のチャイムを鳴らしたのは、タイトなチャコールグレーのスーツを着こなした初老の男だった。ダンディズムに整えられた短髪の白髪頭は、祖母の命日に母を車で連れてきたあの人だ。
「突然の来訪、さぞ驚かれたことでしょう。誠に申し訳ありません。どうしてもサキさんと直にお話がしたく、押し付けがましくもご訪問させていただきました」
 彼の言葉通り玄関先で舌を巻いていた私は、慌てて自室に招き入れた。マユミお気に入りのクッションを配置し、急いでインスタントコーヒーを差し出した。
 子供の頃から知ってる川辺さんは、髪色とシワの数を別にすればまったく変わっていなかった。紳士的な受け答えに温和な顔立ちは、カイロのようなあたたかさと親近感を与えてくれる。
 何とか一息つけたところで、私はおぼつかない気持ちのまま問いかけた。
「母はフランスへ行ったとニュースで見ましたが」
「ええ。私は今回同席しなかったんですよ」
「ああ、それで」
「そろそろ私の後任も育てておかねばなりませんもので」
「引退なされるんですか?」
「もうしばらくは彼女のマネージメントをさせていただく所存にございます。ただ私ももうじき還暦ですので、準備に越したことはありません」
 川辺さんは儀礼的にコーヒーに口をつけてから、本題に入った。
「マネージャーという立場をいくらか逸脱しているのは重々承知の上ですが、先日の一件についてどうしてもお話がしたかったのです」
「母に頼まれて来たんですか?」
「彼女には伝えていません。私の一存です」
「久しぶりに会えて嬉しいです」と私は本音と皮肉を織り交ぜた。
 彼は赤子でも眺めるみたいに、やんわりと目尻を下げながら、しみじみと言った。
「大きくなりましたね」
「どこに行っても私が一番チビよ」
「中身の話ですよ」
「私にはちっともそう思えない」
「人が何をどう感じるかは、個人の自由です。だから彼女の服は愛され、彼女本人は誤解されやすく、あなた方親子はよくすれ違う」
「母の釈明で来たんですね」
「釈明ではありません。事実を伝えに来ました。あくまでも私の主観に則った事実ではございますが」
「それだと中立的ではないですよね」
「お言葉ですが、この世に確かな中立など存在しないと存じます。なぜなら我々は、糸で操られる人形ではないのだから」

 川辺さんは話してくれた。母がどれだけの葛藤を経てレシピエントになることを選択したのかを。そして、彼女が私をどれだけ気にかけていたのかを。

 宇宙飛行士の中には、宇宙へ行く前と後では価値観が変わってしまう人が少なくないらしい。それまでまったく興味のなかった宗教活動に参加する人もいるくらいだとか。
 『施設』を出た人にも同様の傾向が表れている、と川辺さんは自身のネットワークから、実名を省いて教えてくれた。母も例外ではなかった。彼女は、これまで行ってきた慈善団体への寄付を取りやめ、自身で新たな寄付団体を設立するのだという。

「──前から何かと一人でやりたがる女性でしたが、矢面に立って活動したいと言い出したのはこれが初めてでして」
「母は変わった、ということでしょうか? 誰かの『いのち』を受け継いで」
「何も変わってませんよ」
 川辺さんははっきりそう言ってから、穏やかにこう付け足した。
「正確には、やりたかったことがより明確になったということでしょう。以前から旅の道中で、彼女は私にいくつもの夢を話してくれました。死ぬまで現役でいること。経済面が理由で目標を諦めなければならない子供がこの世からいなくなること。既得権益にすがる老人どもを一掃すること……そして、あなたが幸せになってくれること」
 私はその言葉を素直に受け取れずにいた。
「彼女はよく嘆いていました」
「あんな美しい人から醜い子が生まれたら、そうなるのが自然でしょう」
「そうではありません。娘との接し方が分からないと、いつも頭を悩ませておりました」
「母はいつも自由だった」
「ええ、サキさんの視点からはそう映ったことでしょう。それも彼女の一つの側面ではありますが、本質のすべてではない。桜ミトという女性は、いつだって前向きに努力を重ねてきましたが、同時に、多くの不安を必死に振り払ってもいたのですよ。競争の激しい業界で、いつも新たな才能に背を追われ続けている。それでも彼女は走り続ける。娘を愛しているのに、愛し方が分からず、娘に嫌われるのが怖くてたまらないのに、それでも娘に干渉せずにはいられないように」

 私は言葉が出てこなかった。彼の話を、そこらに転がっている綺麗事と同類だと見なしてしまえれば、どんなに楽だろうか。
 それを拒否している自分が、私の中に確かに存在していた。それは、願望? そうであってほしいという、私のささやかな望みなのだろうか。
 いつからか私は、美しい言葉から距離を置く人間になっていた。綺麗なものが、嘘で作られたものだと盲信せざるを得なかった。だって私は綺麗ではなく、美しい絵を、素敵な物語を作ることのできない人間なのだから。
 でも、それなら、マユミは?
 それなら私と望月さんは、どうして仲良くなれたの?

 私はただ、母が妬ましかっただけなのかもしれない。自分には無いものをたくさん持っている人が、実の親だったということに……。


「川辺さんは……」
「はい」
「川辺さんは、レシピエントにならないの?」
 彼はどこか観念したように鼻息をついてから答えた。
「言われましたよ。金ならいくらでも出すから『施設』へ行けと。でも、私は今のままでいいんです」
 彼はイチョウの葉みたいな人に感じた。春に芽吹き、秋に色づき、冬が来たら枯れ落ちる。
「でも、それが自然でしょう?」
 川辺さんの言葉には、私が否定できるものは何一つなかった。それがいくらか心地よく、同時に言いようのないやるせなさに襲われる。母は不自然で、私はそんな女の娘だから──。
「でもね、サキさん」
 またネガティブな感情が立ち込めようとした時、川辺さんはいっそう優しい声で言った。
「彼女はきっと、自分のためだけにレシピエントになったのではないと、私には思えるんです」
「どういうこと?」
「分かりません。その先に踏み入ることは、明らかにマネージャーとしての領域を逸脱しておりますので」
「私に聞けって?」
「気になるでしょう?」
 いたずらっぽく小首をかしげた彼は、子供みたいに白い歯を見せながらこう続けた。
「きっと、彼女はそれを望んでると思いますよ」
 そのくしゃくしゃな笑顔は、マネージャーではなく川辺敏郎という男としての本当の笑顔のように、私には映った。



 もう一人のキーパーソンである安村さんが再びやって来たのは、川辺さんと会った3日後だった。仕事のない土曜日の昼過ぎ、何の予兆なく電話が届いた。
「久しぶり。調子はどう?」
 スマホから聞こえる安村さんの声はいつもと同じだったが、なぜか妙な感じがした。
 私はいささかの戸惑いを感じながら「良くはないです」と答えた。
「まだ描けない?」
 私は少し考えたが、あえて「今は描きません」と答えた。
 うんうん、とお決まりの相槌をした安村さんは、わずかな沈黙を挟んでからこう言った。
「仕事で近くまで来てるんだ。少し話せないかな?」
「絵の話以外なら」
「もちろん──」
 次の言葉に、ある種の覚悟が見え隠れした。
「そのために電話したんだ」

 場所はいつもの喫茶店。
 話題は、普段ではあり得ないシリアスなもの。
 彼はスーツを着ていたけれど、仕事の鞄は持ち歩いていなかった。注文したのもコーヒーではなくホットウィスキーで、最初に香りを確かめたものの、口を付けることはなかった。
 安村さんは何気なく語り始めた。
 私は初めて、身近な異性の嘘の無い物語を、その目を見つめながら聞いた。

「──僕はもともと報道志望でね、大卒後はテレビ局に入社したんだ。でもご覧の通り、長くは続かなかったよ。子供の絵空事に等しい夢と希望を抱いた青年は、実際のジャーナリズムの中で世界の広さと、醜さと、あまりの嘘の数に愕然と打ちのめされた。自分の求めた正義を実現する手段も居場所も、そして実力も、そこには無かったんだ」
 知り合って7年目になる彼が、なぜ唐突に自分の話を語り始めたのか……その理由を、私は何となく気づいていた。
「それから職を転々としたよ。肉体労働もしたし、何度も失敗を重ねた。人間関係に恵まれた時もあったけど、仕事にしっくり来たのは今やってることを除けば一つもなかった。僕はきっと、自分がこの世界の一部だって実感が欲しかったんだと思う。それが創作だったんだろうね」
 安村さんはしばらく、オレンジ色のグラスの中で傾くシナモンに目を向けていた。
「でも自分には、何かを生み出すという才能に欠けていた。だから、それを持っている人には純粋に憧れたし、自分にできるなにかで支えられたらとも思った……そんな頃だったかな、今の会社に誘われて、彼と出会ったのは」
 私はこの日、男性としての魅力を十分に備えている彼の薬指に、一度も指輪がはめられることの無かった理由を、初めて知った。
「彼は細々と活動する彫刻家だった。僕はツテを利用して珍しい資料を彼に与え、代わりに安らぎをもらっていた。僕は幸せだった。当時もまだ世間からは何かと白い目で見られがちな関係ではあったけど、毎日が楽しかった。彼もそうだと信じていたけど、嘘の無い現実はやはり、甘くはなかった」
 安村さんはゆっくりと取っ手のついたグラスを鼻先まで持ち上げるも、やはり口に傾けることはなかった。
「ある日、こんなことを訊かれたよ。もう一度人生をやり直せるとしたら、どうしたいと。僕は同じ人生を選ぶと答えた。でも彼は、何も教えてくれなかった。人は彫刻と同じだ、としか言ってくれなかった。一度削ったら、もう元には戻れない、ってね……」
 その日をきっかけに、二人は別れた。そしてその1年後、彼はドナーになったのだと、安村さんは切なそうに眉を寄せながら、唇の端をそっと持ち上げた。
「ひょっとしたら彼は、自分とは違う誰かになりたかったのかなあ……そう思ったら、なんだか自分のすべてを否定された気持ちになってね」
 私は不思議な気持ちに襲われていた。驚きとも、憐れみとも違うなにかが、彼の言葉に真剣に耳を傾かせていた。
 安村さんは目をつむると、物語の大事な局面を迎えた際の朗読家みたいに、ゆっくりと鼻で息を吸った。
「一人は楽さ。いつだって心を自由にとどめておける。でも孤独は、そんな自由を侵害する。どんなに明るい色を重ねても、黒には決して叶わないようにね」
 気づけば私は、詩人に同行を請う少女の顔を、安村さんに重ねていた。
「僕は足りないもの、損なわれたものを仕事で埋めてる。自分では生み出せないから、作家さんを支えることで、何かえらいことをした気になれている……でもね、そういう人間がいてもいいんじゃないかって、思うよ……うん、思えるようになってきたんだ、この頃はね──」
 それはきっと、サキさんの絵に触れたからだと思うんだ。
 そう呟いてから、安村さんはまっすぐに私の目を見つめた。
「何かを生み出すってことには、それ程のパワーがあるんだと、僕は思う。それに取り憑かれたり、すがったりして生きていくのを、僕は間違ってるとは思いたくないんだ。人には絶対に、生きている価値というものが、あると信じたいから」

 好きだからこそ、一定の距離が必要。
 いつかのマユミの言葉を思い出しながら、私は葛藤していた。作家と編集者という関係は、いったい、どの程度の距離感が正しいのだろう。
 答えは見つからない。けれど、心を開いてくれた彼に、私が応えるのはとても自然なことに感じた。

「安村さん」
「うん」
「病気の友達が、ドナーを選択したの」
「うん」
「私は、どうすればいいと思う?」
「キミはどうしたい?」
「会いたい」
「うん」
「でも、怖い」
「うん」
「でも……だけど──」

 プロ・アマ問わず、創作に精を出す人間なら共感できる部分がある。それはキャリアが伸びれば伸びるほど、過去作が稚拙に見えてしまうことだ。
 もしくは"過去の作品が今の自分に相応しくない"と拒絶してしまうのかもしれない。トム・ヨークが一時『Creep』を封印したように。それは、人はいつまでも同じままではいられないという、残酷な事実に思える。
 けれどレディオヘッドは再び『Creep』を演奏した。時は止まることを知らず、季節は移ろい続ける。いくつもの死がたくさんの生を支え、数えきれない生が、屍を産み続ける。
 私が望月さんに言えることなど、一つも無かったのかもしれない。けれど、私は言いたかった。彼女の心を少しでも軽くしてあげられる、何かを。
 でもきっと、それは、私自身の心を、なのかもしれない。

 私の時間は止まってしまったのだ。あの日、彼女に何も言えなかった時から。
 もう一度彼女に会わなければならない。望月さんのためじゃない。私がまた前に進み始めるために。なにより──。

「あんな終わりは、嫌だ」
「うん」
「このまま会えずに終わったら、絶対に後悔する」
「なら、会いに行くべきさ。この世の正否を決めるのは人の感情ではないけれど、答えにたどり着くためには、想いが不可欠なのだから」
「ありがとう」
 私は無理を言って、コーヒー代の伝票を取り上げた。
 そんな私に、彼は楽しそうにお手上げしてから、こう言った。
「サキさん」
「はい?」
「やっぱりキミは、間違いなく、もう一人の詩人さんだ」
「私も、最近そう感じるようになったの」
 安村さんは嬉しそうに微笑みながら、父親さながらに私を見送ってくれた。
「行ってらっしゃい。連絡待ってるよ」



────────────


8.


 その日は朝から曇りだった。所々晴れという天気予報は夕方になっても正解に至らず、冷たい北風が人々に手を擦らせ、マフラーを巻き直させた。
 イツキくんが駅に迎えに来てくれたのは、午後6時になろうかという時刻だった。ライトブルーの軽自動車をロータリーに停めた彼は、私を見つけるや小走りで近寄ってきた。ローブランドの黒ダウンジャケットとブルーデニム姿で、愛嬌を感じさせる目鼻立ちは姉そっくりだ。
「おまたせしました」と彼は息を切らしながら言った。
「無理を言ってすみません」
「いえ、むしろ助かります。俺もだいぶまいってたから」

 私が最初に電話をかけた時、すでに望月さんは市民病院に搬送されていたところだったらしい。入院の手続きなど諸々の用事を済ませて帰宅したイツキくんが、何度も震える姉のスマホを悩んだ末に応答したことで、ようやく私はコンタクトを取ることができたのだ。
 彼はひどくくたびれた声で事情を説明してくれた。無言でその言葉を反芻しつつも、私はひどく冷静だった。今ではもう左半身がろくに動かなくなっていた彼女が選択した行為を正しいこととは思えなかったけれど、嘆いたり、責めたりする気持ちにはなれなかった。
 私には、彼女がそうした理由を何となく理解できた。きっと、描けなかったからだと思う。

 病院までの道中、イツキくんは何かと話しかけてくれていた。それは気を遣っているというよりは、むしろ気を紛らわすような、まるで心を休ませる場所でも探すかのような口調だった。
「──上原さんって」
「はい」
「『メロディのゆくえ』の作者さんですよね」
「ええ」
「姉ちゃん好きでずっと読んでました。入院してからもスマホそっちのけでそれだけは持ってきてくれって言われて。たぶん今も読んでるんじゃないかな」
「……何冊?」
「3冊。4冊目はまだですよね?」
 私がプレゼントしたのは、初版の一冊だけ。その後は描いてることも発売したことも知らせていなかったので、少し驚いた。
 俺も読まされたんですよ、と前置きしたイツキくんは、忌憚のない感想をくれた。
「最初読んだ時は、なんだコレってのが正直な感想でした。当時はまだガキだったから、よく分からなかったんです。でも最近は、漠然とですけど、ちょっと良いなって感じるんです。絵心や文才無いから上手く言えないけど、姉ちゃんが何度も読み返したくなる理由は何となく分かる気がする」
 途切れ途切れの会話の中、イツキくんはふと思い出したように言った。
「俺、卒業したら介護士になるんです」
「それは……お姉さんがきっかけで?」
「それもあるけど、色々と融通が利くし、昔に比べたらだいぶ給料も上がってきてるみたいだし」
 病院の外観が見えてきた頃、イツキくんは白状するように言った。
「俺、耐えきれなくて聞いちゃったんです。どうしてそんなことしたんだって」
 イツキくんは一つ大きく深呼吸してから、打ち明けてくれた。
「姉ちゃん、俺の重荷にはなりたくないって……」
 しばらくウインカーの音がやかましく耳に響いた。
「悲しかったですよ。それじゃ俺は、ずっと姉ちゃんの重荷だったってことになる。金のかかる野球をたっぷりやらせてくれて、さらには大学まで行かせてもらってた俺は、いったいどれだけの金と時間と可能性を、姉ちゃんから取り上げてたんだろうって……」
「彼女はそんな風には思わないと思う」
「俺の前ではね。姉ちゃんはずっと、自慢の姉貴だった。だから頼りっぱなしにされてた弟には、言いたいこと言えない気がする」
 駐車場に車が止まるまで、私たちは口を開かなかった。
 エンジンを切ったイツキくんに、私は一人で行かせてくれと頼むと、彼はどこかホッとしたように快諾した。



 3日前に自分で左手首に切れ目を入れた望月さんは、私の憧れていた彼女ではなかった。化粧気のない顔はひどくやつれて、だらんと垂れた眼差しは、園児が描いた人の目よりも生気が無かった。点滴に繋がれた左腕は、手首に包帯が何重にも巻かれている。私が入室してそばに寄っても、彼女はしばらく気づいてくれなかった。
 やがて何気なしにこちらを向き、私の顔を見つけるや、望月さんは目を見開いた。だが驚いたのも束の間、咄嗟に笑みを浮かべると、私の見舞いに感謝し、空元気に階段から転んだと嘘をつき始めた。
 涙が出そうでたまらなかったが、私は必死に我慢していた。でも、その表情から読み取られてしまったのだろう。望月さんはだんだんと笑顔を硬く整えながら、やがてポキリと折れた小枝みたいに首を斜め下に傾かせては、重いため息と共にこう呟いた。
「見られたくなかったなあ、サキちゃんには……」
 その言葉をきっかけに、瞳がまた虚ろに色を失くしていく。隠すようにまぶたが垂れ、背骨が無くなっていくみたいに、肩が下がった。
 私はベッド脇の背もたれのない椅子に腰掛け、オーバーベッドテーブルに並んだ本のタイトルを指でなぞった。『メロディのゆくえ』。冊子の状態から、どれも丁寧に読み込まれているのが分かった。
「読んでくれてたんだね」
 望月さんは抑揚のない声で「素敵な絵本だもの。羨ましいよ」と答えた。
「そう言ってくれるのはあなたぐらい」
「ホントよ。私には逆立ちしたって描けやしない。今じゃ逆立ちすらできないけどね」
 そう言って皮肉に笑う望月さんから、私は目を離さなかった。
 彼女には、私の瞳がどんな風に映っていたのだろう。
 まもなく笑うのをやめた望月さんは、そっけない声で「どうして来たの?」と訊いた。
「あなたに会いたかったから」
「サキちゃんはそういうキャラじゃないと思ってた」
「私も……あなたのくたびれたところは初めて見た」
「だから見せたくなかったのよ!」
 まだかろうじて自由の効く右手が、その感情を一手に引き受けたかのように、テーブルの絵本を乱暴に弾き飛ばした。
 私が無言で拾って戻すと、望月さんは後悔するように頭を抱えながら、震える声を吐いた。
「バカ……みたいでしょ? これまでせっせと経済的にやりくりして、ようやく安楽死とドナーの権利を得られたのに、わざわざ苦しむ手段を選ぶんだもの……自分でもそう思うよ。何てバカなんだろう。でも、分からなかった。これしか、これが正しい方法なんだって、疑わなかった」
 それから険のある、濁った泥土のような目を私に向けた。
「同情しにきたんでしょ。それとも創作のネタでもほしかった? 私が一番思ってるの。どうしてこんなことしたんだろうって。本当はもっと……感動的に死ぬつもりだったのに」
「死に感動もクソも無いわ」
「分かったようなこと言わないでよ! サキちゃんとは違うの! 何にも、なにも無いのよ、私には! 何も作れず、何も成し遂げられないまま死んでいく女の気持ちなんか、絶対にサキちゃんには分からない!」
 私はしばらく、彼女の感情を黙って受け止めた。
 望月さんはとても優しい人だ。それは間違いなく彼女の本質だ。だから狂ってしまいそうになる病魔におかされようとも、独りよがりのままではいられない。
 いつだって、誰かを気遣ってしまう。そんな悲しすぎる優しさを、私は知っている。
 案の定、だんだんと落ち着きを取り戻した彼女は、涙ながらに問いかけた。
「どうして……どうして来たの? サキちゃんなら分かってくれてると思ってた。私が、どんな気持ちで、『申請書』を出したのか。あの日、どんな気持ちで抱きしめたのかを……」
 あの日と同じく、私は何て言ったらいいか分からなかった。
 それでも、たとえ脈絡のない拙い言葉でも、思いの丈を打ち明けたかった。
「新人が入ってきたの。元気だけが取り柄の、まだろくに戦力にならない子。いつも尻拭いさせられてる。でも、仕事に張り合いを感じるの。誰かに頼られるってことが、こんなにも自信をくれるなんて知らなかった」
 何を話しているのか、自分でもよく分かっていなかったと思う。声で生み出される言葉というのは、どうしてこうもおぼろげで、頼りないものなのだろう。自分の気持ちを一切の脚色なく捧げられたら、世界はいったい、どんな変化を見せてくれるのだろうか。
 どれだけ夢想しようとも、現実はやはり甘くはないのだ。だから人は、文字を生み出し文章を作った。拙い言葉だけでは不安だから、人は絵や仕草や行為といったさまざまな手段をもって、ぬくもりを求め、与え合うのだ。
 私は無意識に、望月さんの動かない左手に、自分の手のひらを重ねていた。
「誰が何をできるかなんて、本当のところ、誰にも分からないんじゃないかって思う。それを気づかせてくれるのは、時だったり、境遇だったり、人だったり……私にとって、望月さんは間違いなくその一人だった──」

 私も、あなたにとっての、その一人になりたい。

 そう告げると、震える口元が、これまで表に出されることのなかった感情を、必死にかたちづくり始めた。
「全部……消したかった」
 目尻に溜まった一粒が、堪えきれずに頬に弾ける。その一滴を境に、彼女の想いが淀みなく吐き出された。
「何もかも、すべて……悲しい過去も、不安に苛まれる日常も、希望の無い未来も……好き勝手生きられる健常者、結婚して子供を作れた女、スポットライトで輝く女優……そして、あんな絵本を描けるサキちゃんへの、嫉妬も、羨望も……何より、私自身への、どうしようもない憎悪と諦めを……」
 それは、これまで彼女がずっと、誰にも言えなかったこと。
「誰にも知られたくなかった。キレイな人だと思われながら、終わりにしようと、ずっと考えてた。それが私の物語なんだって、何度も何度も言い聞かせた……けれど、ダメだった。できなかった。私の『いのち』が、誰かのものに代わるということを、本気の本気で考えたら、怖くて恐ろしくてどうしようもなかった。それは誰かに殺されるよりも、自分で自分を殺すよりも、ひどく間違ったことに思えて仕方なかった」
 それは、これまで彼女がずっと、誰かに知ってもらいたかったこと。
「誰にも見せられなかった……これが、ホントの私。弱くて、嫉妬深くて、諦めきれなくて、それでもこれから間違いなく無力になっていく自分を見たくなくて、見られたくなくて……これが、私。ずっと、嫌で嫌で仕方なかった。その気持ちはきっと、生きてる限り、ずっと抱き続けるんだろうね……でも、それが私。それが、自分を棄てることができなかった、私……でも……それでも──」
 私の心は、私だけのものだ。
「それだけは、これからも何を、どれだけ、奪われ続けたとしても、絶対に譲れない」
 彼女を握り続ける私の手に、弱々しく右手を重ねてから、望月さんはありのままの自分を、溢れ出す涙と共にさらけ出した。
「私は、私のままで、終わりたい」
 雛が殻を破ろうとするみたいに、私の胸が震えた。
 私は、その言葉を聞きたかったのだ。
「話してくれてありがとう」
 彼女の頬を指で拭いながら、私ははっきりと口にした。
「私はあなたの力になりたい」
「……どうして?」
「自分のためなの」
「……絵本のため?」
「……そうかもしれない。けれど、それだけじゃない──」
 私は知りたかった。『いのち』の正しい使い方を。
 その言葉を呑み込んで、自分のもう一つの、鮮明な想いを問いかけた。
「私たち、友達でしょう?」
 彼女の右手に、確かな力が伝わったのが、私には分かった。
「変わったね……サキちゃん」
「何も変わってない。気付いたの。これが、本当の私だって」
 変わった部分はあると思う。でも、それを含めて、私なのだ。
 私はずっと、綺麗な言葉を避けていた。嘘っぽく聞こえるから。自分の想いを嘘と思われたくないから。
 だから私は、私が可能な範疇の、事実へと実現できるところまでを、偽りなく、己で選んだ言葉で伝えた。
「本当にどうしようもなくなったら、自分でやるんじゃなく、誰かの糧にするのでもなく、あなた自身のまま、ゆっくりと眠りながら、終わろう。一人で句読点を打たないで。私が見届けるから。その時が来るまで、私はまた、この手を握りに来るから」
 私の手に、彼女の力が伝わってくる。
 それは紛れもなく、生の証だった。
「私は……これから動けなくなる」
「うん」
「サキちゃんを……妬んでしまうと思う」
「いいの」
「筋違いな恨みを向けてしまうかもしれない」
「いいの」
「サキちゃんを嫌いになってしまうかもしれない」
「いいの」
「サキちゃんを嫌いになりたくない」
「私はあなたを嫌いにはならない」
 私は、私たちの想いを重ねるように、左手でそっと蓋をした。
「望月さん、あなたなら分かるはずよ──」
 私は写真に写った父の顔を思い浮かべながら言った。
「大切な人が生きていてくれるだけで、どれだけ救われるか」



 病室の扉越しに話を聞いていたイツキくんに送られながら、私は今後の展望を描いていた。それは絵の下書きと同じく、これまで何度も繰り返した見通しだったが、この日ほど明確に、そして覚悟を要したことはなかった。
 アパートに着くと、私は送迎の礼のついでに、こんな質問をした。
「イツキくん」
「はい?」
「介護ボランティアになる条件を知ってる?」
 彼はまばたきを繰り返してから「ええ、知ってます」と頷いた。
「教えてほしいの」
 イツキくんは私の顔をまじまじと見つめた後、どこか納得したような、それでいてとても前向きに映る笑顔を浮かべてから、こう言った。
「大丈夫。上原さんはすでに条件を満たしてますよ」

 発進した彼に手を振って、自室へと階段を登っていく。
 いつしか雲は晴れ、夜空には星々が輝いていた。
 私は生まれて初めて『やりたい』と『やらなければ』が胸の中で固い結託をしているのを、強く実感していた。



────────────


9.


 休日の人気のない朝の電車に揺られながら、私は夢をみていた。
 あの、塔の夢。
 私は一人、その光景を眺めている。違っていたのは、私の体が動くこと……そして、手に一本、空色の鉛筆を握っていること。
 それは魔法の色鉛筆だった。私が願った場所なら、空中でもどんなに遠くても、色を引くことができ、描いたものはまたたく間に実現した。
 そうか……。
 これだったんだ。
 私がずっと求めていたものは。

 私は躍起になって、空へと続く階段を描いた。花柄とか幾何学模様など、その都度頭に浮かんだレリーフを階段の手すりにあしらいながら、一段一段、着々と積み上げていく。
「何をしてるの?」
 背後から声をかけてきたのは、塔に群がる棒状の人々ではなく、私が描いたまま止まっていた、あのラフ画の少女だった。
 不思議と、驚きはなかった。
 私はそっと微笑んで「空へ橋を架けてるの」と答えた。
「どうして?」
「遅い人も、小さい人も、誰かに弾かれることなく、自分のペースで登っていけるように」
「できるの?」
「たぶん」
「ホントに、やれる?」
「やってみせる」
 口元をそっと和らげた少女は、小さな手を差し出した。互いの小指を絡めた時、彼女はたしかに、私の一部となった。
「約束ね」
「ええ、約束」



 電車を降りると、慣れない潮風の匂いが飛び込んできた。無人の駅前には田畑が広がり、林の茂る丘へと続く緩やかな傾斜にそって、住宅地が連なっている。
 父が生まれ育った町。

 駅のすぐそばに黒塗りのセダンが停まっていた。川辺さんは私に気づくや、落ち着いた足取りで助手席のドアを開けてくれた。
「これもマネージャーの仕事?」
「今日はオフです」と川辺さんはにこやかに微笑んだ。
「ご厚意にありがたく甘えるわ」と私もその顔を真似た。

 私を高台まで連れて行くと「あとでまた迎えに来ます」と言って、川辺さんは車を走らせていった。
 開けた場所だった。明らかに手入れされている芝が一面に広がり、見晴らしは駅の反対側の海まで一望できる。
 一番見通しの良い岡岬に、父のお墓があった。川辺さんの話では、この辺り一帯をずいぶん前に母が買い占めたらしい。いったいどこからどこまでを、とは怖くて聞けなかった。これだから先鋭的なアーティストというのは手に負えない。
 冬にしては比較的あたたかい日だったが、昔から寒がりな母はコートで全身を包むようにうずくまっていた。
 母は私に気づくや、仲の良いクラスメイトみたいに声を張り上げた。
「遅いってばもお。いつまで待たせんのよ!」
「若いんだからガタガタ言わないの」
「キーッ、ムカつく! そういうところホンっトにムカつく!」
 持参した水筒であたたかいコーヒーを入れてあげると、母はケロリと機嫌を直した。相変わらず感情に素直な女だと呆れたが、どこか心地よい懐かしさが勝った。
 フーフーとコーヒーをすすりながら、母は片手を広げて周りを覗かせた。背の高い裸の木が、柵のように辺りを囲んでいる。
「あなたは今の時期にしか来ないから知らないだろうけど、ここは春になると、一面に桜が咲き乱れるの──」
 ま、私が全部植えたんだけどね。と母は得意気に笑った。
「ここまで大きくなるのにずいぶん時間がかかった。けれど今になっては、あっという間……月日が経つのは早いわ、いくつになっても」

 昔から、何となく気づいていたことがある。
 母が口に出したことはないからずっと推測の域は出なかったけれど、今日初めて父のお墓参りを彼女と一緒に過ごしたことで、それが私の願望だけではないことを知った。
 母が名字を変えない理由。
 
「──まだ怒ってる? あなたより若くなっちゃったことに」
 気安くくっついてきた彼女を、以前の私ならぞんざいにあしらっていただろう。
 私は彼女のあたたかさを受け入れながら、静かに問いかけた。
「ママ」
「ん?」
「幸せって、なに?」
「それはあなたが決めることよ」
 母は私の髪を撫でながら答えた。
「サキの幸せは、サキだけが選ぶことができるのだから」
 それからそっと、私の頭を肩へと引き寄せた。
「世の中の評価や価値観なんて、所詮は品物を包む包装紙に過ぎない。どんなに非難されようと、蔑まれようとも、私の幸せは私だけが選ぶことができる。どれだけ嫌われようと、自分だけは自分を愛せる。いい、サキ? "最後に委ねられるのは、己の解釈なの。" だから世界は、こういう風に変わっていったの」
「自分の意志で生き、自分の意志で死ねるように?」
「それもまだ、変化の途中なのかもしれない。万物流転。流行や人の想いと同じようにね……でも──」
 でも決して、変えられないものもある。
「私は、あの人を忘れたくなかった。レシピエントになった理由は、ホントにそれだけ。だって今ではもう、私しか彼を満足に覚えている人間がいないのだから」
「私と共有する気は、今でも無いのね」
「もちろん。だってあの人との思い出は、何物にも代え難い、私の大切な宝物だもの。サキと同じくらいにね。だから──」
 あなたもそんな大事なものを、抱えて生きなさい。
「多くなくていい。たくさんあると押しつぶされちゃうから。たった一つでいいから、絶対に手放せないと思うものを、いつも胸の中で、大切に……ね」
「でも、少しは知りたい。パパのこと」
「欲しがりさんね。いったい誰に似たのかしら」
「さて、誰でしょうね」と私はたまらず吹き出した。
「仕方ないなあ。じゃあ、来年から私の誕生日を必ず一緒に過ごすこと。毎年一つずつ、彼との思い出を分けてあげる」
「ドケチばばあ」
「それ久々に聞いたわ、ネクラ娘」と母は声を出して笑った。



────────────


 引っ越すかもしれないとマユミに言われた時、とうとう一軒家でも建てるのかと思ったものだが、仕事を辞めて戸根くんの実家で暮らすと聞いた時は、さすがに驚きを隠せなかった。
 けれど荷物を整理し終えた彼女の前向きな笑顔を目にしたら、賛同せざるを得なかった。正直寂しい気持ちは拭えない。でも、応援したい気持ちのが勝ったものだから、私はそんな自分が不思議だった。
 だけど、嫌いではなかった。
「──彼、言ったの。『いのち』を育てたいって」
 戸根くんの実家は農家で、兄夫婦が継いだ農業を手伝っていくつもりらしい。
「マユミが畑仕事、ね」
「中学の清掃活動なんか二人でよくサボってたのにね」とマユミはクスクス笑った。
「意外と向いてるかも」
「私も不思議と、やる気に満ちてるの」
 最後まで明るく見送ろうと努力したが、やはり難しかった。先にマユミが涙目を見せるものだから、これからやって来る寂しさが、否応なしに私の頬を濡らした。
 服の袖で優しく拭ってくれながら、マユミは母親みたいに言った。
「初めてだね。離れて生きるのは」
「うん」
「私がいなくても生きていける?」
「難しいけど、頑張る」
「私は……自信無いかも」
「頑張れ」
「……うん、頑張る」
「電車で2時間の距離よね?」
「なかなか微妙な距離だよね」
「好きだからこそ、一定の距離が必要なのよ」
「どこかで聞いたセリフ」とマユミは涙をこぼしながら笑った。
 しばらく女子中学生みたいにじゃれ合ってから、私たちは固くハグをした。
「サキ」
「うん」
「約束覚えてる?」
「ええ」
「いつか、ね」
「ええ、いつか」



────────────


 出版社に顔を出したのは初めてだ。都内にあるから電車で片道1時間を超えるし、人混みも疲れるしで億劫だったが、この日は行かないわけにはいかなかった。
 ロビーで出迎えてくれた安村さんに応接エリアへと連れられ、紙コップのコーヒーをすすった。
 コーヒーを美味しいと感じるのは久しぶりだった。
「初めてだね、サキさんから出向いてくれたのは。電話で全然よかったのに」
「そういう気分だったの」
「いいね」
 私は姿勢を正し、改まって言った。
「共同出版のお話、お受けしたいと思ってます」
「それはそれは、誠にありがとうございます」と安村さんもかしこまった。
「ただ、条件というわけではないけれど、偉そうな注文をしてもいいですか?」
「うかがいましょう」
 私は、売上の一部を難病患者への寄付に当てたいという旨を伝えた。
「いいね。うん、とてもいいと思う」
「やれそうですか?」
「僕が通すよ。是が非でもね」
「ありがとう」
「こちらこそだよ」
「安村さん」
「うん?」
「もう一つお願いを聞いてくれる?」
「なんなりと」
「もし今後、作風が変わってしまっても……それで本が売れなくなったとしても、私をサポートしてくれる?」
「もちろん。サキさんはどうしたい?」
「ハッピーエンドにしたいの」
 私の瞳をじっと見つめた安村さんは、しばしの沈黙をほがらかな微笑で彩りながら、力強く頷いた。
「うん。ハッピーエンドに」



──────────────


 山間の小さな村は、人の心までをも凍てつかせるような冷たい風の音と、赤子の泣き声がやかましく響く。
 だから詩人の歌声は、聴く人を選んだ。緑を作るためには黄に青が不可欠なように、そのうたを必要とする者だけが、リュートの音色に心を震わせた。

 うたを聴き終えた少女は、迷いのない瞳を向けながら、詩人に同行を懇願した。
 彼は答えを出せずにいた。長い旅の中で、誰よりも寒さを知り、誰よりも苦しみを見てきたから。
 詩人はそんな記憶を、偽りなく少女に伝えた。
「苦しみはどこにでもある。いつも穴を掘って、僕らを待ち構えているんだ」
「そうでしょうね」
「今よりもっと苦しむかもしれない」
「そうかもしれない」
「それでも行きたいかい?」
「うん」
「どうして」
「決まってるじゃない──」

 せっかく、この世に生まれてきたのだから。

「それに一人ではなく二人なら、苦しみは半分になる」
 少女の言葉に、詩人はどこか雲が晴れたように、微笑んだ。
「わかった。一緒に探しに行こう」



 彼らの行く先に、うたがある。
 彼らの歌った後に、道ができる。
 人々はお日様の向こうに夢を描き、星々の下で想いを語る。
 いくつもの生が死を生み出し、いくつもの想いが、メロディへと変わっていく。
 二人は、その行方を見届けたいと、旅をする。
 今夜もメロディが聴こえてくる。
 夜風にそよぐ焚き火のように、さまざまな色と、かたちになって。
 今夜もメロディが聴こえる。
 うたはやまない。
 雨の日も、風の日も。
 うたは、生まれ続ける。
 交わされる言葉が、距離を縮めていくように。
 進んだ距離が、言葉を増やしていくように。
 月日が、新たなメロディを生んでいくように。
 メロディがいつか、その手を繋いでいくように。





END

Bridge in the sky 完全版

執筆の狙い

作者 跳ね馬
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『前編』
 医者であり科学者でもある博士。その助手の佐藤。被験者の黛(まゆずみ)。三人は『ある実験』を通して、死という普遍的なテーマを掘り下げていく……。

『後編』
 黛の実験から8年後。アマチュア絵本作家のサキは、有名な母への劣等感を抱きながらも、細々と活動を続けていた。
 ある日、同期の望月が職場を退所したことをきっかけに、彼女は己の本質を見失ってしまう。
 親友のマユミや担当編集者安村との触れ合いを通じ、サキは自分を見つめ直しながら、ある一つの答えにたどり着く……。

コメント

ぷりも
softbank060117238039.bbtec.net

拝読しました。
これはSFですね。なんというか

圧倒的な筆力

特別な言葉を使うことなく、豊かな情景描写と各登場人物の人間味というのか弱さが表現できているのが素晴らしいのでは。

難点というのか、私の好みの問題というか、SF色が強い前編に比べると、後編は人間ドラマですね。もともとそっちが表現したい方なのかもですが。

あと粗探しというわけではないですが細かいところで
後編1の、助手席に乗る望月さんの”背中”が見えなくなるまで見送るのは物理的に無理ということと5のとこで、ファンデが、ファンで
になってたとこが気づいたところですが、作品自体を損なうレベルのものではないかと思います。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読ませていただきました。
読みながら書いたメモを、コメントとして投稿します。

三人称視点かなと思って読んでいたのですが、
どちらかというと語り手は佐藤なのですね。
つまりはワトスン役ということでしょうか。
であれば、始めから佐藤視点で書いたほうがすっきりしたかもしれません。
地の文で佐藤の心情を書いてしまっているからです。

砂時計というアイテムが登場しますが、
高度な科学技術の中に、アナログの要素が混じっているのですから、
その点をもっと強調させてもよかったように思います。
砂時計とUSBメモリを対称的に書く記述を増やすなどしてみてもよかったように思います。

冒頭、いったい何をしているんだろう? と読者はわからないまま読むわけですが
最初のヒントが

>一つの死が、いま、いのちに変わった。

この記述から、蘇生術なのかな、と思いました。

>安楽死制度を公約とする坂下議員の支持率は、去年の3倍に達していた

この記述から、この物語は安楽死を書いているのかな、と思いました。

>黛と出会うまで、佐藤は三人の女を見送った。

ここで、あの機械は安楽死装置なのでは? と思いました。
物語がいったい何を書いているのか、なるべく冒頭で明らかにしないと読者は離脱してしまいます。
ここで明かしたのはギリギリのタイミングだったように思います。
これ以上遅ければ、読者は離れていたかもしれません。

>在学中に司法試験に合格した黛は、当たり前のように検事になったが、

ここがよく分かりませんでした。
司法試験に合格した人の大半が弁護士になるので、検事や裁判官になる者は少数派です。
当たり前のように検事に
という表記には違和感がありました。
作者はキャラクター像を頭にすでに描いた状態で書いているので、黛が検事になることは当たり前に思えるかもしれませんが、読者はまだこの物語を読み始めたばかりです。


>「うん。キミたちの死は、彼女のいのちに変わる」

ここで、冒頭の伏線の回収ですね。
なるほど、ただの安楽死ではなくて、ヒトの寿命を別の人に移す機械だったのですか。
なかなかおもしろい設定ですね!
寿命をUSBメモリで運ぶのもおもしろい!


私が興味をもって読めたのはここまででした。
ここから先は、物語の斬新性がなくなっていったような気がします。
一応は最後まで、ざ~~~~~っと流し読みはしました。

設定は魅力的でしたが、それが作品に生かされていないような気がします。
生き方や安楽死について考える物語ということであれば、博士の機械である必要はないですし、砂時計でなくてもUSBでなくても話が成立すると思います。

とはいえ、おもしろい設定の物語を読ませていただきました。
ありがとうございました。

浮離
KD111239169152.au-net.ne.jp

お話の出来不出来なりその枝葉末節みたいな部分や箇所についていちいち指摘することに意義を見込みたがるような鈍感な読書をしたいつもりはないんですよね。
そのくらいにはこのお話は長過ぎると思うし、長過ぎるだけのことを書き切れる時点で、些細なディテール云々っていう指摘はたぶんまぬけだし、“小説“っていうものに触れる基礎的な感度や理解があるつもりなら、いかなる言い分としてもたかがディテールとして指摘する程度のことなんて、読み手より書き手の方が絶対正しいに決まってるんですよね。

つまり、上の感想の二人ってとっくに定番ですけど、まぬけだと思う。


個人的にはこのお話って、“如何に真に受けずに、とはいえ共感を持ってお付き合いできるか“みたいなジャンルのお話だと思ってるんですよね。
悪口言ってるつもりはないので勘違いしないで欲しいんですけど、要するに“ジャンル“って、そういうプロレス的な理解の共有あってのことのはずって、個人的には思わないでもないところがあって。

物語の構造として、“前編“、“後編“とされてるわけなんですけどこれって案外微妙なはずで、何が微妙かって、たぶん“程度問題“みたいな視座とか感度っていうセンスに分かれる理解の話のような気がするんですね、個人的には。

なに言ってんのかわかんないですよね、あたしはまあまあ馬鹿なのでロジカルに平坦なお話をお伝えすることが苦手なので。


例えばこのお話の背骨、つまり“世界観“の軸になるものってなに? って言えばまともな読者ならわからないはずもなく、“施設“って答えるもののはずなんですよね。
それに呼応するもう一つの軸が、“黒い箱“ってことになると思うんですけど、つまりなにが言いたいって、“前編“、“後編“とする物語としての“相関“、その理解か読み方、みたいなことのはずなんですよね。

とはいえ、“黒い箱“が前編、“施設“が後編っていう平たく眺める設計っていう視座においては、書き手としては“施設“っていう主たる世界観の根拠として“黒い箱“なる前編っていう定義を案内する目的があったものらしく受け取るのが常套ってことだと思うんですけど、ただ個人的には“ジャンル“だとか、そんな割と引き気味のカメラ意識みたいな読書に預けるには案外、それってなかなか違和感のある読み心地だったりしなくもなかった気がしてるんですね。


前編は佐藤を眺める三人称一元。
後半はサキが思考して語る一人称。


なにが言いたいって、その選択に異議なんてあるはずもなくただ単純に、筆力として個人的には好みじゃなかったし、そんな違和感にこそ共感のタイミングを削がれた気がするってことなんですよねたぶん。

この作品に限った話なんて書き手にはつまらない言い草でしかないんでしょうけど仕方ないですよね、印象的には三人称の方が書き手の観察や理解や欲求にはたぶん相性がいいんだろうし、その上で個人的には些細な不自然さに物語の世界観か単純な前提みたいなものを不要に歪められた気がしているし、後編の一人称については極端な話、個人的には一人称とは思っていないし何より、語り手であるサキが一読者として単純に好きになれないってことなんですよね。
個人的にはそれが一番ネックになってるように感じさせられてもいますし。


“人称”って、どういうことだと思いますか。
あるいはその選択の判断か、その理由みたいなこと。

個人的には、“人称“って手法として語られる“作法“みたいなことなんかじゃなくて、それならそれとして個々に規定して開発する“文体“のことのような気がしてるんですよね。
それを感じさせられる有り様として、違和としてこの作品はもろにあからさまに見えたってことなんですけど。

どうしてその人称であるべきなの?

それって、単に視点から伝える景色のことばかりではなくて、その場面や世界の時制も視点も感情も関係も、つまりはすべての要素に無関係はわけはないディテールの基盤、大袈裟に言ってしまうなら根拠とか説得力のことだと思ってるんですよね。

伝わらないと思うんですけど、例えば後編のサキの思考や観察、言質って、あたしは原則として“逆さま“ですよね? っていう了解で読み進めたくなるってことなんですよね。
それってわかる人にはわかることだと思うんですけど、そう感じさせる端的な理由って“主語”ってことのはずで。

一人称の語りに現れる“私は……“っていう文体。

その違和感ってどんな時に発生するかっていうと、“現在形”の地点においてだと思うんですよね。
語り手である私が、“私は“って語りえる時制って、いつのことだと思いますか?
これは決定でもなんでもなく、ただの個人的な感度として、“過去“だと思ってるんです。
っていうか、当たり前にそう感じてしまうってこと。

実際にはそれって事実でもなんでもなくて、“小説“っていう表現の“バグ“みたいなものだとさえ個人的には理解しているつもりなのであまり気にしないで欲しいんですけど、でもやっぱり個人的には現在形において“私は“って語らせる書き手って、まぬけだよなあ、って反射の如く感じさせられてしまうってことなんですよね。

バグでないとするなら、それこそむしろ“作法“として明らかに使いこなすべき“筆力“っていう選択や認識における瑕疵、みたいなの話にこそ違いないはずで。

伝わらないと思うんですけど、それって悪口でも見下すでも性悪な皮肉でもなんでもなくて、先にお伝えした、

>個々に規定して開発する“文体“

その精度や感度のことでしかないつもりで言ってます。
そんな上での“違和感“ってことですよね。

前編は都合“SF“として、真に受けずに理解できる世界としてなにも文句はないです。
感情なんて死んでる方が“事実“としてむしろ設定しやすい“ジャンル“ってあるはずですし、佐藤から博士から黛もその他雑な女ども云々に至るまで、個人的にはストーリーパフォーマーを眺めるようなものだと思っていますし、もちろん悪口じゃなくてプロレスでしょ? って言ってるだけのつもりです。

浮離
KD111239169152.au-net.ne.jp

かたや後編。

先にお伝えしたとおり、あたしはサキの言質をことごとく自己を逃れたただの“誤解“の連続だと思っているし、そうして終盤には望月さんとの瓦解を迎えるわけなんですけど、そもそも誤解が瓦解するやっぱり誤解として、“文体“としてのサキの思考や言質や理解を、あたしは永遠に信用しないわけなんです。
そう読まされてしまう、ってことなんですけど。

間違ってるって言ってるんじゃなくて、そういうお話、つまりは“SF“っていう理解でしかお付き合いする気になれないよね、なんてちょっと面倒くさいところに当たり前として着地したはずなんです。
でなければこんな面倒くさい感想? とか書けるはずもないんですし。


つまりどんな決算かって、先に言いましたよね、

>“前編“、“後編“とする物語としての“相関“、その理解か読み方

ってことなんですけど、あたしはこのお話の設計っていうたぶん基本的な理解として、

>書き手としては“施設“っていう主たる世界観の根拠として“黒い箱“なる前編っていう定義を案内する目的があったものらしく受け取るのが常套

って、割と全方向的に平均を見越したつもりの気を遣ってみたわけなんですけどその実、あたしは単純に物語の“世界観“として、平常として真っ当に行き交って見えるのって、前編の方だと思うんですよね。
創作としての感度、なんて言ったらなんだか生意気に読み取れるかもしれないんですけど、現代創作の時制というか感度として前編は割とリアルタイムっぽい理解に基づいてるはずで、後編は物語の本懐で熱のこもったものに見えるんですけど、個人的には結構嘘っぽいっていうか、先にも言った通り“プロレス“だとか、そんな前提理解を要請しがちなのって実は前編より後編の方なんじゃないのか? っていうつまりは古臭いか鈍感であるはずの人間の機微みたいなものをそれとして、プロレスとしてお付き合いくださいわかりますよね? みたいな世界に、個人的には読み取れてしまう気がするんですよね。


伝わらないと思うんですけど、でも“施設”ですよ? “黒い箱”ですよ? 

なんですかそれ、っていう何よりの世界観に立つお話ですよ。
それに共感してお付き合いするなら、読み手としてその世界における感情の進化か倫理の変化まで前提として了承してズブズブと感じて想像してお付き合いしたいですよ。

そんな意味において、“安楽死法案“っていうものに対する個々人や社会倫理におけるそれぞれの逡巡っていう表現には乗り遅れた時差を感じさせられるし、これは偏見かもしれないですけど今現在の世の中ですら考えてみてくださいよ、株式相場も世界平和も健康行政も社会保障もなにも片っ端からきっと民意不在、っていうかむしろそれ前提であからさまにぶち抜いてもいっそ気にしませんからっていう世界政治の傾向くらいは馬鹿の庶民でも感じるところじゃないですか。
喫緊に迫るパンデミック条約界隈の話だけでも理解できるはずなんですよね、そんな馬鹿げた倫理を何より思い描きたがるらしい現代から眺めたって、“安楽死法案“を“安楽死法案“としてズブに逡巡を戦わせる庶民の未来なんて、次元レベルで食い違ってるか立ち遅れて見える方が当たり前のような気がしてしまうんですよね。
USBで命の移行や分配が可能な世界ですよ、そんな次元の人間がマクロで了承する理解や倫理を想像させることは書かれていないしむしろ思考や感情は努めて現代的であるべきのように書かれているはずだし、せめてはその地点からの展望の予感までで物語は収められているはずだし、つまりなにが言いたいかって、この世界観において書き手は一体なにを描こうとしたのか? っていう観察において案外、あたしっていう一読者としてはもちろんよく書けてる文章として物足りない感度の世界だった気がしているし、知ってか知らずかはこちらこそ知る由もないんですけど、近いうち“SF“を題材にした企画を始めるってあたしは散々宣伝してるんですけど、そのタイミングにおいて先んじてこれを投下できる意図っていうのは明らかにあたしにあまりいい印象を持ってない参加者なんだな、って当たり前に理解するし、どうしてそういうケチな魂胆でこれほどまでの手間を簡単に腐らせるようなつまらない反発にばかりこだわる人たちばかりなのかなあこのサイトってまじでケチくせえやつばっか、なんてつまらない謎反発に着地させられるばかりだったりするんですよね。



まあ、嫌いなものは嫌いったらあたしこそ極端だからわからなくもないですけど、こんなに長いの、まともに感想よこして付き合ってくれる人なんてあたしくらいしかいないですよこんなとこ。

だからこその企画ってことくらいも理解できないかよだとか。

なんてね。



言ってる意味わかりますか。
いつものことでしょうたぶん。


頑張ってください。

跳ね馬
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ぷりもさん、ご感想とご指摘ありがとうございます。
最後まで読んでくださって嬉しいです。

そうですね、おっしゃるとおり『後編』が自分の表現したいことだったと思います。
作品のテーマを視点を変えて伝えたかったという感じです。

跳ね馬
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神楽堂さん、ご感想ありがとうございます。

砂時計は隠喩みたいなもので、特別な設定にするつもりはありませんでした。
黒い箱も世界観をかたちづくるためのアイテムの範疇は超えないです。

死というテーマを『前編』と『後編』で視点を変えて、言うなれば『円環』と『螺旋』を表現したく、あえて三人称と一人称で区別してみましたが、おっしゃるとおり佐藤の視点ばかりですね。

貴重なご指摘ありがとうございました。参考にさせていただきます。

跳ね馬
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浮離さん、ご感想とご指摘ありがとうございます。
最後まで読んでくださって嬉しいです。

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