作家でごはん!鍛練場
上松 煌

「龍が上がる山」(民俗学風味のショート・エッセイ)

  『大岳山には今も龍が上がる。たまにそれを見ることがある』
漫画家の故・水木茂氏の著書の一節だ。
魅惑的だが、ただそれだけの文で、細かな記述や状況説明はない。
が、おそらく気象現象や雲の動きなどを指したものだろう。

 奥多摩にある大岳山は日本花の百名山のひとつで、多摩地区では「雨乞いの山」とされている。
たしか、平成になってからも1~2度、立川市の農業組合が山に出向いて水を持ち帰り、神事を行って雨が降ったという話を聞
いたことがある。
雨は龍神がつかさどるから大岳山は龍の山であるかも知れない。
多摩に広く伝わる「棒打ち唄(脱穀のために「くるり棒」という農具で、こもに広げた麦を叩く)」にも、

♪ホイホイホイ
大岳山の黒雲が
ホイホイホイ
あの雲がかかれば雨か嵐か(霰かという地区あり)
ホイホイホイホイホイ♪
 
と唄われ、大岳山が多摩の降雨に大きく関連していることが察しられる。

 また、大岳山のふもと、登山口のかたわらに神社があるが、奇妙なことに社殿脇の狛犬は獅子ではなく、一対の龍なのだ。
これには縁起があり、昭和のころに五日市で製材業を営む、裕福な某氏が寄進したものだ。
所以は氏が見た夢に始まる。
「自分は川のほとりにいた。川は大岳山の神社前を流れる、さして大きくはないものだが、よく見るとそこに2匹の白龍が蟠っ
ている。雌雄一対で実に優しい目をしていた。その夢を何度か見た自分は台湾の石工に頼んで、龍の姿を掘ってもらい、大嶽神
社里宮社殿前に収めた」
というもので、この話は筆者が平成の半ばに、ご本人から直接取材した。
巧みに掘られた御影石の龍は、現在でも見ることが出来る。
このように大岳山は不思議に龍に集約されるのだ。

          * * *

 そして実は筆者も、この山で龍を思わせる形状を見ている。
まだ、春浅い、うらうらと晴れた日だった。
山頂本宮への参道をそのまま使った初心者ルートは道々、別に変わったこともない。
登山道の両脇の木々が、植林された山でよく見かけるように伐採され、丈の低いクマザサとススキの生えた見通しの良い所にさ
しかかった。
50~60メートルの登り傾斜の先には一本松が見え、そこからまた木が生い茂る道になる。
いきなり、フッとあたりが陰った。
上空の雲が太陽を隠し、しだいに厚くなっていく。
冬を含んだ山の冷気が白い霧となって、右側からやって来ていた。
山風の影響だろう、前方がひときわ濃い塊になって、その中に円筒形の長いものがうねうねと地形に沿って左の谷へと降りて行
く。
その末端がもやもやと筆者のまわりにも漂ったが、気象や地形のために山でよく出会う、通常の霧と全く変わりがなかった。
その長物が過ぎて間もなく空は晴れて、また、うららかな日差しが戻ってきた。

 のどかな大気にさそわれて、あらためて歩みを進めようとした刹那、猛烈な恐怖に襲われた。
何だか知らないが、怖い、とにかく無性に怖いのだ。
あたりをビクビクもので見回しても、平穏な陽光に満ちた萱原が続くだけだ。
だが、前方、道半ばの地面がモグラの掘り後のように盛り上がったその先、一本松に至るまでの間がものすごく不気味なのだ。
気のせいだと自分をなだめても、背中がゾクゾクする。
風の流れで、カサカサ・サラサラと葉ずれの音が周りのあちこちからするのだが、それがわけのわからない長虫が迫っているよ
うで、本気で怖気をふるってしまう。

 どうにもその場にいたたまれない。
なぜか地面に膝まづき、ローアングルで写真を1枚だけ撮った。
そして大急ぎでその場を脱出。
早足で10メートルも離れると恐怖は薄らぎ、後から何かが追って来る気配もない。
今のは何だったのだろう。
故・水木茂氏が言うところの「大岳山の龍」なのだろうか?

 気象現象としてなら不思議はない。
霧(遠くから見れば雲)は気流によって動くから上昇気流に巻きあげられれば、あたかも火災旋風のような柱状となって、いか
にも龍が上がるような形状を見せることは理解できる。
氏が「今でもそれを見ることがある」と言うのは、昔も今も気象条件の変化はないということだ。

 だが、筆者の見た、うねうねと「谷を下る円筒形」はどうなのか?
実は横にたなびく円筒形の雲は、「波状雲」や「モーニング・グローリー」などけっこう多い。
横方向の回転力を得た、巨大な1本雲と思えばそれほど不思議とも思えない。
ただ、波状雲やモーニング・グローリーは風に対して平行方向に現れる。
山越えの風に押されたとしても、このように、まるで谷落としの「御柱(おんばしら)」そのままに縦に下って行くことがある
のだろうか? 
おまけにあの時、にわかに感じた得体の知れない危機感は?

          * * * 

 釈然としないまま登頂をあきらめ、家に帰った。
たった1枚の写真はB5に引き延ばし、母の友人に頼んでみてもらった。
近所の人で、霊感があるという。
「あ、あ。これ」
その人の第一声。
だが、トーンはすぐに下がった。
「う~ん、これ。この地面の穴と松の木ね。何か引っかかるんだけど…。う~、そうねぇ…わからないわ」
拍子抜けしたけれど、まぁ、霊感のあるなしにかかわらず、わからないものはわからないのだ。
もっと身近な現象でも、例えば冷蔵庫などで水と湯を同時に凍らせると、なぜか湯が早く凍る謎も解明されていない。
彼女の持っていない方がいいという言葉どおりデータは消し、写真はそのまま手渡して処分してもらった。

 「龍が上がる山」に関する話は、これだけの漠然としたものでオチすらないのだが、筆者は辰年である。
龍つながりで告白するが、巳年の母は筆者誕生の折り、なんと龍になったという。

 分娩時、母はいきなりの豪雨に包まれたそうだ。
まるで堰を切って落としたような、経験したことのない激しさ。
同時に怒涛のような颶風も吹きつけ、飛ばされまいと何かにしがみついた。
それが何と龍で、母はそのまま真っ暗な天空に舞い上がったらしい。
気がつくと母自身が龍になっていて、黒々したトンネルのような中をたいへんなスピードで、真横になって飛んでいる。
如意宝珠のような光物を追っていると思ったのは、実は出口で、抜けたと思ったとたん筆者が誕生していたという。

 子供のころ、母はよく人差し指を額につけ、
「ほ~ら、ママは龍なんだよ~。うにょろろろろ~」
と筆者を追いまわす遊びに付き合ってくれ、実際に母が龍になっていたらどうしようという怖さも混じって、とても楽しい追い
かけっこだった記憶がある。

          * * *

 龍は元々は現実の動物である入江ワニが変化したものだが、民間信仰では竜神で、天空に住むものは雲や風雨などの気象をつ
かさどる。
海は海で竜王の住む竜宮があり、潮や海流を支配するという。
仏教によると龍は畜生界の代表で、法経を守護する天部だと言われる。
仏教はキリスト教等に比べて非常に高度な教えだが、それでも女性が仏になるという「女人成仏」は法華経になって初めて説か
れる。
それも竜王の8歳の娘が「変成男子」の形態を取って、というのだから、女性と龍は縁の深いものなのかもしれない。
 
 また、龍はもともとは蛟(みずち=蛇)の姿で沼に潜み、時至りて一片の雲を得、天空に駆け上がって龍になると言われる。
雄渾で気宇壮大だが、実は龍には大きな弱点がある。

 時至らず、雲を得ることのできないものは、そのまま蛟として沼に潜んで一生を終えるというのだ。
龍の寿命がいかほどのものかは知れないが、全く気の毒な話だ。
さらに雲を得た幸運な蛟は未明に天空にのぼるのだが、その姿を人に見られてはいけない。
目撃されたが最後、龍になるという悲願は成就しないのだ。

 これについては、こんな伝承がある。
ある沼の蛟が雲を得て、天に駆け登らんとした。
その折も折、早起きの豆腐屋が渦巻く黒雲の中にその姿を見てしまう。
蛟は今一歩のところで天に上がることがかなわず、転げ落ちで石になったという。
なんとも切ない伝説で、その運の悪さに同情を禁じえない。
天空や海原を支配し、仏教を守護する龍といえども万能ではないのだ。

 強大で神秘な力を持ちながら、運命に流されざるを得ない龍は、生物の頂点に君臨しながら、さまざまは制約や格差、社会条
件に左右されつつ人生を送る、人間に似ているのかもしれない。
それを思うと巳年の母が出産時、龍に化身した夢を見たのも特別なことではないように感じられる。
時至って龍に変じた蛟から生まれた「龍の子」であるはずの筆者は、残念ながら心臓を痛めてしまい、どうにも10年生存率を
クリアできる気がしない。
巳年から生まれた辰年は文字通り「竜頭蛇尾」なのだろうか。
いや、竜頭蛇尾どころか、ほんの蚯蚓(みみず)ほどの細い余命にすがる泡沫(うたかた)に過ぎないのでは?

 多摩地区を南北に縦断する「多摩モノレール」からは、西遥かにとがった山頂を持つ大岳山を見ることができる。
今も龍が上がるというその山は冬晴れの大気の中に蒼い山容を鎮めている。
その手前にはビルが林立し道路が走り、人々の日々の営みが今日も続けられていくのだ。
龍になる可能性を秘めた蛟たちの群れに混じる時、同じ運命共同体としての感慨がほおを緩める。
天宮に登る者もいれば蛟として沼に残るもの、運拙く転げ落ちる者やさまざまな悪条件のもとに早々に命を落とすものもいるだ
ろう。
それらを知らぬげに見下ろす青い空は、今この時も、うらうらとした日差しに満ちているのだ。

「龍が上がる山」(民俗学風味のショート・エッセイ)

執筆の狙い

作者 上松 煌
M106073145001.v4.enabler.ne.jp

旧作です。
題名どおり龍に関する所感です。
おれにしてはあんまり長くないつもりだけど、みんなにとってはやっぱり長いかなww

コメント

神楽堂
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読ませていただきました。

こういうエッセイもいいものですね。
私も山や雲など、大自然を眺めるのは好きです。

「龍」をテーマにしたのは興味深いですね。
十二支にも「辰」はありますが、十二支の中で唯一、実在しない動物でもあります。
龍(ドラゴン)の不思議なところは、架空の生物であるにも関わらず、
東洋は龍・竜・辰
西洋はドラゴン

世界中に龍の伝説があるというのはなかなかに興味深いです。
西洋のドラゴンは悪役ですが、
東洋の龍は雨の神様ですよね。
私も、実は「雨乞いの巫女」をテーマにした短編を書いたことがありまして、
この作品を読んで自作をなつかしく思い出しました。

さて、ここは鍛錬場ですので、あえてアドバイスを申すとなれば、
「エッセイ」は自分語りですので、読者に興味を持ってもらえるかどうかがカギになります。

冒頭で自分に対して疑問を投げかけ、いろいろと思索の旅をめぐり
最終的に自分の納得のいく結論に至った
みたいな書き方をすると、エッセイといえども、物語のような読み応えが生まれてくると思います。

作品を読ませていただきありがとうございました。

上松 煌
M106073145001.v4.enabler.ne.jp

神楽堂さま、こんばんは

 早い段階でお読みくださり、ビックリしています。
「民俗学的考察」が含まれていましたので、それに付随する形で漢字が多くw、表現も硬い作品でした。
とっつきにくいだろうなぁと思っておりましたが、あにはからずや、あなたがお読みくださっていたので、とてもうれしく感じました。
ありがとうございます。


   >>「龍」をテーマにしたのは興味深いですね。十二支にも「辰」はありますが、十二支の中で唯一、実在しない動物でもあります。龍(ドラゴン)の不思議なところは、架空の生物であるにも関わらず、東洋は龍・竜・辰 西洋はドラゴン。世界中に龍の伝説があるというのはなかなかに興味深いです<<
    ↑
 はい、そのとおりですね。
龍に関するエピや考察、伝説などは多くあるので、おれのこの作品も長さの割には多くの事象を盛り込みましたので、ちょっと難しくなり、読みづらいかなぁと案じていました。


   >>実は「雨乞いの巫女」をテーマにした短編を書いたことがありまして、この作品を読んで自作をなつかしく思い出しました<<
   ↑
 そうですか。
それは是非、掲載していただきたいです。



   >>「エッセイ」は自分語りですので、読者に興味を持ってもらえるかどうかがカギになります。冒頭で自分に対して疑問を投げかけ、いろいろと思索の旅をめぐり最終的に自分の納得のいく結論に至ったみたいな書き方をすると、エッセイといえども、物語のような読み応えが生まれてくると思います<<
    ↑
 なるほど、なるほど。
その場合、文体も少し軽いものに変え、漢字も少なめにすべきですね。
アドバイスをありがとうございました。

京王J
M106073002160.v4.enabler.ne.jp

上松さんは小説よりこっちのほうが向いてると思いますw

ただ、もっとキャッチーなフックがあると、もっと多くの人に読まれると思います。

たとえば、みんなが知っているこれは、実はこういう形で龍と繋がっていた、とか。

冒頭の漫画の引用も、有名な漫画なら名前を出したほうがいいでしょう。

(お。あの漫画の話か!)

と、なるかもしれませんw

上松さんはこのジャンルで書いた方が読まれるそうな気がしますねー

しまるこ
133.106.218.252

上松さん

こんにちは、上松さん。いつもの文体だと、オノマトペが悪目立ちしてしまうこともあり(言い方wすいません)、音が飛び跳ねる流れについていけなくなってしまっていたところがあったのですが、こちらの文章ですと、静かに浸れるというか、全文が一読して頭に入ってきました。小説がエッセイが、というより、文体ですね。私も、京王Jさんのいう通り、こちらの文体の方が好みかな。上松さんは、こんなに文章が上手かったのかと思いました。

上松 煌
M106073145001.v4.enabler.ne.jp

え~????ものほんの京王jさま? 初めて真面目なレスをいただいた気がします。
ありがとうございました。

   >>上松さんは小説よりこっちのほうが向いてると思いますw<<
    ↑
 そ、そう?
自分ではこういう硬い文体は好きだけど、薀蓄ばかりで教科書的だし、考え方も超マジメっ子なので面白みに欠けるなぁと思っています。


   >>ただ、もっとキャッチーなフックがあると、もっと多くの人に読まれると思います。たとえば、みんなが知っているこれは、実はこういう形で龍と繋がっていた、とか<<
    ↑
 ああ、なるほど、具体的なアドバイスは参考になりますね。


   >>冒頭の漫画の引用も、有名な漫画なら名前を出したほうがいいでしょう<<
    ↑
 いえ、これは故・水木茂氏の著書で、マンガではなく「挿絵つきエッセイ」の中の1節です。
手元にあるはずなのですが、今現在、ちょっと本棚には見当たりません。
氏はマンガだけでなく、短い文章もけっこう残していますよ。


   >>上松さんはこのジャンルで書いた方が読まれるそうな気がしますねー<<
    ↑
 そうですかぁ??
おれの小説は「純文とエンタメの中間を行く」と言われていますので、どっちつかずの作風も個性的でいいかなぁと思っていたので悩むところです。
小説は小説で心から絶賛してくれる人もいますし……。
う~ん……

 でも、あなたが初めてくださった真摯なご感想がうれしいです。
おれもあなたのアドバイスを無にしないよう考えて見ますね。

上松 煌
M106073145001.v4.enabler.ne.jp

しまるこさま、こんにちは

 感想を下さり、大変うれしく思っています。
あなたの最新作を、感想は残しませんでしたが拝見しています。
多くの好感度のレスがついていておれもうれしく思っていたところです。
あなたの善良さ、考え深い長所がよく現れていて心地良く読める良作でした。

 ただ、それだけに現実問題として、生身のしまるこさまと付き合うとなったら、あなたのガンコな一面や警戒心の強さ、テレの裏返しなどがネックになってちょっととっつきにくいかなと感じました。
いや、よけいなことを。


 さて、
   >>いつもの文体だと、オノマトペが悪目立ちしてしまうこともあり(言い方wすいません)<<
    ↑
 いえ、いえ、オノマトペですかぁ??
自分ではちっとも気付きませんでした。
そんなに擬態語や擬音語を多用してるかなぁ?
比喩ならよく使うかもしれませんが。
う~ん、思い当たらないや(かなり、病硬膏????)


   >>、音が飛び跳ねる流れについていけなくなってしまっていたところがあったのですが、こちらの文章ですと、静かに浸れるというか、全文が一読して頭に入ってきました<<
    ↑
 そうですか。
音が飛び跳ねる感じですか??
どういうことだろ?
「魍魎記」のことかなぁ??
あれはただの怪奇話じゃ在り来たりなので、ちょっとお笑いも混じっているんだけど。

 おれの作品は「純文とエンタメの中間を行く」と言われているので、純文を好む人には「なんかウッセエ」エンタメが好きな読者には「なんか変に純文っぽくね」と思われてしまうってこと?
ごめん、あなたの真摯な言葉が理解できないよぉ。

 以前にもあなたが一生懸命、おれにアドバイスしてくださったのにおれはそれが理解できなかったことがありました。


   >>私も、京王Jさんのいう通り、こちらの文体の方が好みかな。上松さんは、こんなに文章が上手かったのかと思いました<<
    ↑
 初めてホメていただいた気がします。
でも、小説のほうも本気で誉めてくれるかたがたがいますので、どっちも捨てがたいなぁとおもっているおれがいます。
あなたも倦まずたゆまず書き続けてくださいね。
とてもいいお話がありますよ。

夜の雨
ai194040.d.west.v6connect.net

「龍が上がる山」読みました。

大岳山には上る龍がいるという話から「雨乞いの山」とされているという流れで、登山口のかたわらにある神社の社殿脇には獅子の狛犬ではなく、そこには一対の龍がある。
昭和のころに五日市で製材業を営む、裕福な某氏が寄進したもので、雌雄一対で優しい目をしていた白龍がとぐろを巻いている夢を何度も見た某氏が台湾の石工に頼んで、龍の姿を掘ってもらい、大嶽神社里宮社殿前に収めた。
>というもので、この話は筆者が平成の半ばに、ご本人から直接取材した。<
ということなので、筆者は大岳山にまつわる龍に興味があったのでしょう。

その理由は筆者の誕生にからんでいる。
つまり「辰年」ということで、母が「巳年」なのだが、子供が産まれるときに豪雨のなかで龍になり天空に舞い上がり、暗いトンネルの中を如意宝珠のような光物を追っていて出口を抜けたと思ったとたん、筆者が誕生していたという。

このエピソードのあと母に遊んでもらった思い出というのが、母が「ほ~ら、ママは龍なんだよ~。うにょろろろろ~」と筆者を追いまわす遊びに付き合ってくれたという記憶。

そのあと龍(蛟)が天界に上り本来の龍になるべきところを人間に見られて、転げ落ち石になったとか。(エピソードでは豆腐屋に見られて、というところが落語的で面白い)

結局のところ、強大で神秘な力を持ちながらも運命に翻弄される龍は、生物の頂点に君臨しながらも、さまざまは制約や格差、社会条件に左右されつつ人生を送る、人間に似ているのかもしれない。

こういった龍の話と、筆者の誕生秘話から「残念ながら心臓を痛めてしまい、どうにも10年生存率をクリアできる気がしない」と「龍の子」であるが、哀しみの運命を背負っているという話にもっていき、巳年の女性から生まれた辰年(筆者)は文字通り「竜頭蛇尾」なのだろうか。
と、締めくくりました。

そのあと都会のビル群から仁木との営みのなかに、龍になる可能性を秘めた蛟たちの群れに混じる時、同じ運命共同体としての感慨がほおを緩める。
とあるのは。

龍になり天界に上るものもいれば悪条件のもと、転げ落ちて命を落とす者もいるとあり、それでも青い空はあり、今この時も、うらうらとした日差しに満ちているのだ。このあたりは、自然界の厳しさを描いているのかもしれません。

御作は、龍と筆者との関係、そこに来て、大都会の下にも運命を翻弄されている龍がいるのであろう、というようなことになっている。

たんなるエッセイではなくて、作者の運命もからめて描かれているので、作品に厚みが出ているのではないでしょうか。

ちなみに「民俗学風味」ということで、読みにくいというかネット検索をしなければならないような事柄がちょくちょくあるので、読み進めるのは時間がかかりました。
わかりやすく書いていれば、もっと感想が入るかもしれないですね。


お疲れさまでした。

上松 煌
M106073145001.v4.enabler.ne.jp

夜の雨様、こんばんは

 いつもながら掲載される作品を精力的に読んでくださっていて、頭が下がります。
またまた理屈っぽいおれの作品いも目を通してくださり、ありがとうございました。

 この作品は「民俗学風味」と銘打ったもので、棒打ち歌などの民間労働歌なども取り入れた、ごはんではあまりない路線を狙ったものです。
文中にもあるように大岳山のふもとにある下社には龍の狛犬があって人目を引きます。
大抵が獅子で、祭神によってトラやウサギ(波ウサギと言って火防せの意味がある)などもあるが、龍は本当に珍しいので大岳山にも関心がありました。
その登山道で見た奇妙な円筒形の気流や恐怖感は、未だに説明がつかないものです。

 
 また、エッセイですので自分語りが許されるので、自分の生い立ちや母のエピソードなども書かせてもらい、最終的に巷に生きる人々も龍になる前の蛟ではないかとの見解に至っています。

 そこのところを非常に良く読み取ってくださり、作者冥利に尽きます。


 ただ、
   >>ちなみに「民俗学風味」ということで、読みにくいというかネット検索をしなければならないような事柄がちょくちょくあるので、読み進めるのは時間がかかりました。わかりやすく書いていれば、もっと感想が入るかもしれないですね<<
    ↑
 ネット検索しないとですか。
う~ん、読みにくさを超越していて、これは欠点ですね。
これは他のかたの指摘もあるので、考え直す必要があるかも知れません。
小説のほうは読者を常に意識してあまり難しいことは書かないようにしているのですが、エッセイということでちょっと読者不在になったかも。
なかなかこれはと言ったものはかけないものですね。
ありがとうござました。      

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