愛の絆
ある湖畔にある公園の片隅で二人の男女が話し合っていた。
恋人同士なのだろうか二人とも真剣な眼差しで見つめ合う。
だが女の方が突然切り出した言葉は「さようなら」真弓が信じられない言葉を発した。
そう言うと真弓は、いっぱいに溜めた涙を瞳に浮かべて去っていった。
坂本博則は、さよならの言葉に、ただ呆然と見送るしかなかった。どうしてこんな事になったのだろうか……
『真弓……俺は君を忘れられない』
博則はいなくなった湖畔の公園で、消え入りそうな声で呟いた。
彼女の去ったあとの公園は、光に遮られた寂しい公園と変わっていた。
真弓が傍に居ると雨の日でも、雨音が楽しいメロディーに聴こえたのに。
それほど真弓の存在が博則には大きかった。
博則の父親は地元では、まぁまぁ名の知れ渡ったスーパーの経営者だ。
この街だけでも七店舗の店があり県外合わせて十七店舗ある。
だが全国展開する大手のスーパーが、この街にも入り込み経営は徐々に圧迫されていた。
店の規模、流通の面でも太刀打ちできない。こちらが値下げすると大手スーパーは更に値下げする。値下げ合戦に入ったら資金力に勝る大手には勝てない。もはや為す術がなくなった。
そんな矢先に、博則の縁談が持ち上がった。いわゆる政略結婚だ。経営者である父は会社を立ち直すために有力なコネが必要だった。武士の時代じゃあるまいし、まさかそんな事を父が企てているとは……だがこのままでは一年後には大手企業の圧力に押されて、店舗縮小に追込まれ、やがては破綻するだろう。
真弓は普通のサラリーマンの娘だった。
景気の良い頃は、博則の家族ともども歓迎してくれたのに、数年後には結婚しようと約束していた二人だったが父は真弓の事を知りながら非情にも、銀行頭取の娘と強引に縁談を進めてしまった。もちろん博則は反対したが、いずれ後を次ぐ後継者の博則に父は託したのだ。
博則は、その事を真弓に隠していたが真弓の知る事となった。
父は銀行がバックアップしてくれれば経営を立て直せるそう思ってのことだ。
真弓は優しい、博則の事情を知って、私が博則の前から姿を消せば全て上手く行く……だから自分から身を引いたのだ。さよならの訳はそれが原因だろう。真弓の気持は嬉しい。だが真弓の心情はどうなのだ? それを考えると博則は胸が張り裂けそうだ。
本当は真弓を引き止めたかった。でも、それでどうなるのだ。博則がすべてを捨てて真弓と共に生きて行きたい。それが本音だ。しかし父の会社が傾けば従業員とその家族はどうなるのだ。全従員にアルバイト・パート合わせて二百五十人以上も働いている。その家族を合わせれば千人近い人が路頭に迷うことになる。会社に席を置く博則にも責任はある。従業員とその家族まで犠牲にして愛を貫くのか? そんな事は出来ない。愛か……それとも多くの人の幸せか。人の幸せまで奪って愛と呼べるのか? 結局は会社の安泰を優先してしまった博則だった。そんな時に父から一言。
「博則良く決断してくれた。これで会社も絶ち直せるよ。ありがとう」
父の言葉は嬉しいが、やはり真弓の事を考えると複雑だ。
それから半年後、博則は披露宴会場に主役として座っていた。隣には博則の好みとは違う頭取の娘の花嫁が座っている。そして、お色直しとなり会場の人達の祝福を受けて、会場を出て羽織袴から真っ白いタキシードに着替えた時のことだった。
その入り口に真弓の妹、真奈が涙を浮かべて、そこに立っていた。
真弓の妹は良く知っている。だがあの明るい真奈とは違う切迫した顔で、博則は驚き真奈に声を掛けた。
「真奈さん。どうしたの?」
「ごめんなさい……大事な日な事は分かっています。こんな所に来てはいけないのも分かっています。それを承知で来ました。もう一刻の猶予もないのです。だから最後に聞いて下さい。姉の真弓が、さっき自殺を図りました。危篤状態が続いています。うわごとで貴方の名前を呼び続けています。私はいたたまれなくなり此処に来ました。ごめんなさい」
「え!? 真弓が自殺を図った。なんでどうしてですか」
「決まっているでしょう。生きる事に希望がなくなったから。姉は貴方の為に身を引いたけど心の奥底まで誤魔化せない。本能的に自殺を図ったと思うの」
「真弓、なんと早まった事を……そう全て俺が悪い。俺が追い込んでしまった」
もう博則は頭が真っ白になった。いま披露宴の最中と言うことさえ忘れて、博則は真奈の手を取って、引き止める関係者を後にタクシーに乗り込んだ。
「ごめんなさい。博則さんを苦しめたくなかった。でも私にも大事な姉です。もし博則さんに気を使って姉が万が一亡くなったら私以上に博則さんも悲しむと思って」
「良く知らせてくれた。君は間違った事をしていない。妹としての気持も分かっているから」
タクシーの中で頭を抱えながら、真弓のあの笑顔を思い浮かべた。
「真弓、早まったことを。俺のことを思って……すまない真弓」
その病院の緊急治療室では、真弓は医師の治療を受けていた。博則と真奈はタクシーを受付で真弓の状態を聞いた。医師の隣に居る看護士が博則に気づいて声を掛けて来た。
「貴方が博則さんですか。貴方の名前を彼女が呼んでいます。今は意識がありませんが、助かるか助からないかは彼女次第です。でも彼女は生きると言う意志がありません。貴方がそれを与えてください」
病室に入ると、真弓は口に酸素マスクと沢山の管が何ヶ所も体に繋がれていた。なんと痛ましい姿だろうか。博則はベッドに歩み寄った。
「真弓! それほどまでに、すまない。それなのに俺は別な人を選んだ」
博則は彼女の手を握りしめ真弓の名前を呼び続けた。
「真弓! 俺を置いて逝かないでくれ、俺と一緒に逃げよう」
それから数時間後、真弓の手がピクリと動いた。
「せ、せんせい真弓が、真弓が……目が覚めたようです」
更に一時間後、真弓の呼吸は安定し、やがて目を開けた。
「まっ真弓、俺だよ。博則だ」
「ひ……ひろのりさん。どうして此処に?」
白いタキシード姿を見れば、どこに居たか誰でも分かる。病院に入るなり白いタキシード姿を見て周りの人々は驚いていた。
「真弓……俺の為に生きてくれ。そして俺と結婚してくれ」
「なっ、なにを言っているの? 貴方は結婚披露宴の最中でしょう」
「もういいんだ。俺は真弓が居ないと生きて行けない。真弓も同じだろう? 二人が離れる事は死を意味することだよ」
理由はともあれ、来客や花嫁を置いてここに来た事は何を意味するのか、たぶん今頃は、披露宴会場は大騒ぎだろう。案の定、結婚披露宴会場は大騒ぎになっていた。花嫁が式場から逃げた事は聞いた事はあるが、これだって前代未聞、ましてや花婿が逃げるとはあまり聞いた事がない。同時に相手の親から博則の父が責められていた。
「坂本さん、これは一体どういう事が説明して下さい」
博則と結婚する相手は大声で泣き、その母もどう慰めて良いかと伏せっている。
来客も祝福する為に来たのに戸惑っている。会場は収拾がつかず式場のスタッフは大あわて。
だが花嫁の父で銀行頭取は怒りで顏が真っ赤だ。頭取の面子は丸潰れだ。娘が式場で花婿に逃げられたと永く噂されることだろう。いい恥さらしだ。
博則の父も母も相手に対しても、お祝いに駆けつけた来賓の方達に土下座して詫びるしかなかった。博則の両親は、もはやどう言い訳しても許されるはずがない。ただただ赤い絨毯に頭を擦り付け詫びるだけだった。
「坂本さん、これほどの恥を搔かされたのは生まれて初めてだ。私が良いとしても婿に逃げられた娘はどうなる世間の笑い者だよ。覚悟して置くんだね。高くつく事を」
数週間後、相手からは莫大な慰謝料を請求され、当然ながら銀行からは融資も打ち切られた。それから半年後、会社が倒産する前に全ての店舗を売払、債務に充て従業員の退職金に充てた。博則は当然親から勘当された。いやそうしないと相手や出席してくれた方々に対して申し開きが出来ないからだ。
博則も分かっていた。両親に申し訳ない事をした。親は当然だが相手に大きな迷惑をかけた。しかし自殺までしようしとした真弓を見捨てる事は出来ない。勘当された博則は、その日のうちに真弓を連れて出て行った。それから博則は人目を忍んで、真弓と東北の片田舎で細々と暮らしている。家を出る時、父母にお詫びの置き手紙を残して来た。それから何度も詫びの手紙を送った。父からなんの返事がなかった、当然だろう。頼りにした息子がやらかしてくれた。許される訳がない。それから一年後のある日、父が尋ねて来た。
「おやじ……」
張り飛ばされようが蹴飛ばされようが覚悟した。
驚いて博則は、それ以上に言葉が出なかった。詫びるよりも先に頭を床につけて謝った。
同じく真弓も土下座して謝った。ところが父親は穏やかな表情で、こう言った。
「博則、どうだ。元気でやっているか」
意外な父の言葉だ。てっきり張り飛ばされた後、罵声を浴びると思っていた。真弓は一番責任を感じている。全てが自分が自殺を図った事から始まっている。
「お父様、全て私が悪いのです。どうか博則さんを許しやってください」
真弓も博則の父の前で詫びる。
「真弓、君は悪くない全て俺の責任だ。俺は真弓の愛に応えだけだ」
真弓も驚き、頭を畳につけて誤るばかりだった。
「二人共もう良い、過ぎた事だ。二人を攻めに来た訳ではない。全て私の経営力の無さから始まった事だ」
父は静かに黙々と語り始めた。あの披露宴の一週間後、博則の父は病院を訪ねて真弓の治療を担当していた看護士からも事情を聞いて知っている。そして真弓の妹、真奈の父母が尋ねて深く詫びると同時に二人の愛の絆を切々と語ったそうだ。
「真弓さん、頭を上げてください。貴女や博則を責めに来たんじゃない。聞いたよ、自殺しようとして一命を取り戻したんだってね。貴女の両親も何回も何回も詫びに来たよ。最初は私も怒り心頭で追い返したけど、考えて見れば私が悪い。会社を立て直そうと必死だった。それを知った真弓さんは身を引いたんだよね。しかし結婚式当日、生きる意味を失い自殺を図った。それを知って妹さんが式場に駆けつけたんだね」
「申し訳ございません。まさかこんな大事になると考えもしなかった私を許し下さい」
「いや二人の仲を引き裂いたのは私だ。貴女と息子の事をもっと考えてやるべきだった」
父はやっと気がついたそうだ。会社よりも大事な事があることに。
家族の絆、愛の絆は何事に代え難いことに。
父は店舗も財産を処分して博則に、もう一度夢を託し決意で来たのだった。
「俺はもう年だ。本店と十七店舗すべてを売払った。なんと家だけは売らずに済んだが。倒産する前に店を畳んだから従業員に退職金を払っても、多少の資金は残っている。小さい店くらいだったら、金は出せる。お前達二人で、一からやって見ろ。失敗しても構わないから。俺が政略結婚をさせようとしたばかりに真弓さんが死の淵に追いやられ、お前は世間に顔向け出来なくなった。その罪滅ぼしだよ」
博則は父の気持ちは痛いほど分る。父が築きあげた物を壊した。愛を貫いた事が良いと思っていない。しかし真弓の愛は受け止めたい。そんな狭間で博則は苦しんで来た。
こうなったら、もう一度掛けて見よう。
それから間もなく父の願いと、真弓の後押しで父の志を告ぐことにした。
でも地元ではもう商売は出来ない。完全に信用を失ったから、それならこの東北の地で立て直ししかない。資金は充分とは言えないが、この地なら大手のスーパーもない。貸店舗を改良して中規模程度のスーパーをオープンさせた。仕入れと流通面は父が昔のコネで探してくれた。競争相手が居ないから予想以上に繁栄して行った。真弓も一生懸命支えてくれた。
博則は経営のノウハウは良く分かっている。これまで父の下で働いて来た。地域により何が売れるかも勉強した。真弓もスーパー経験はゼロだが一から学んだ。その献身ぶり見事なものだった。一年過ぎた頃から経営も軌道に乗り出した。それでも慎重に経営を進めた。二度と失敗は許されない。三年目にして二店舗目を開業した。もう父は隠居して一切経営には口を挟まなかったが、強力な人材を提供してくれた。以前経営していた時の従業員達だ。勿論地方だから東北の地に来られる人は限られるが、それでもまた一緒に働きたいという人達が集まった。ベテラン社員だから全てが分かっていて頼もしい人達だ。
「ぼっちゃん、久し振りです。また一緒に働けて嬉しいです」
[池田さん、ぼっちゃん、は止して下さいよ。でも良く来てくれました。助かります]
「ハッハハもう立派な経営者でしたね」
月日は流れて十年、博則はいま社長室に居る。子供も男と女の二人来年はもう小学生になる。真弓の内助の功もあり、また十数店舗の店が稼動している。噂が広まりまた一人と昔の従業員が加わり、来る気があれば元従業員を優先的に雇い入れて、少しでもあの時の償いもした。父は十七店補まで伸ばしたが無理する事はない。まず安全経営が第一だ。二度と従業員を路頭に迷う事はさせたくない。そんな経営方針から従業員から慕われるようになった。
今朝も、家を出るとき妻の真弓と子供達に見送られ、今ここに(社長室)居る。十年ひと昔と良く言ったものだ。
あの時、式場を抜け出し相手には本当に申し訳ない事をした。それも今では噂さえなくなった。ただ沢山の人に迷惑は掛けたが許してくれとは言わない。俺達は愛の絆を貫いた。
社長室から見える、五月の空は真っ青に澄みきっていた。
了
執筆の狙い
前回はハチャメチャな物を作ってしまいました。
今回は一転して純恋愛物、愛の絆です。
6000字前後で纏めました。宜しくお願いします。