作家でごはん!鍛練場
やひろ

黎明

 一

 耳元で黒電話がけたたましく鳴った。もちろん本物の黒電話ではなく、スマートフォンの着信音だ。ベッドで眠っていた僕はなんらかの夢を見ていたはずだが、そんなものは一瞬で消し飛び、出し抜けに現実に放り出された。
「もしもし」
 喉がカラカラに乾いていて、思っていた数倍は掠れた声が出た。思わず咳払いをする。
「あ、もしもし? 何かあった?」
 電話は当直の田中さんからだった。月明かりに浮かぶ掛け時計に目をやる。時計の針は、午前零時を示していた。
「すみません、寝坊しました! すぐ行きます!」
「了解了解。キミ遅刻なんて滅多にしないからさ、珍しいなと思って。念のために電話入れてよかった。じゃ、待ってるから」
 用件はそれだけで、すぐに電話は切れた。布団をはねのけ、部屋のあかりをつける。洗いざらしのポロシャツをハンガーから外し、椅子の上に脱ぎ捨ててあるズボンを掴んだ。カバンは昨日帰宅してから全く中身を出していないので、そのままでいい。一分ほどで身支度を終えると、転がるように家から出た。
 静まりかえった住宅街を自転車で駆ける。初夏が終わり、しっとりと水気をふくんだ生ぬるい風が顔に吹きつける。ふだんはコンビニに寄ってスポーツ飲料を買ってから出勤するのだが、そんな余裕はもちろんない。
 会社に着くと、事務所の脇にある駐輪スペースはすでに自転車で埋まっていた。それを掻き分けて自分の自転車を停めると、事務所のガラス戸を開け放った。
「おはようございます!」
「あ、きたきた。おはよう」
 電話をくれた田中さんがこちらを見て手を上げた。事務所の中には誰もおらず、照明も必要最小限だけで、ガランとしている。
 僕は田中さんの座っているデスクの前の椅子に座る。田中さんが手早く、小さなビニール袋に入ったプラスチック製のストローを手渡してくれる。僕はポケットから財布を取り出し、免許証を渡した。田中さんは受け取り、机の上に載せている機械に読み込ませる。
「はい、どうぞ」
 田中さんの合図で、僕はプラスチック製のストローを金属製の穴に差し込み、思い切り息を吹き入れる。乗務開始前のアルコールチェックだ。
「はい、オーケー。睡眠時間は?」
 僕は少し考えて、七時間、と返す。
「ずいぶん寝たね。じゃ、これ鍵。ご安全に」
 僕は事務所の掛け時計に目をやる。時刻は零時半に近かった。間に合うだろうかと不安になったが、焦っても仕方がない、と覚悟を決めた。
 事務所を出て、向かいにある工場の敷地に入る。無数のトラックが工場にアイドリング状態のまま横付けされており、かなり騒がしい。人は誰も見えない。僕はカバンから髪の毛飛散防止用の網帽をかぶり、その上から会社支給のキャップを乗せた。工場脇に設置されている白い階段を登り、重い扉から中に入る。その奥にエアシャワー室があるが、何年も前から壊れているらしい。
「遅い! 間に合うか?」
 いつ入っても、工場の中はすごい音だ。扉から入ってすぐのところに工場の出荷場の人が立っており、叫ぶように声をかけてきた。短く「遅れました」とだけ言い、配分場の中に入っていく。配分場はかなり広い空間で、アルミの床にプラスチックでできたレーンが無数に伸びている。そのレーンの内側に番重と呼ばれるケースがタワーのように積み重ねられており、その中に店舗ごとにパンが仕分けられている。
 自分の担当レーンまで駆け寄った。積み込み用トラックバースの隣に、配送ルートの番重タワーが林立している。それをすべて積み込まなくてはならない。
 トラックの荷台のライトをつけると、それらをひとつひとつ、トラックの奥から積み込み始めた。番重の下には台車を噛ませてあり、積み込み自体に力は必要ないが、うまく番重を傾けて台車を抜く必要がある。気を抜くと倒れてしまうので、神経を使う。トラックの中はちょっとしたワンルームマンションぐらいの広さがある。
「寝坊か?」
 夢中で積み込みをしていると、隣のコース担当の清水さんが話かけてきた。すでに積み込みは完了したのだろう。
「寝坊です」
「焦るなよ。あ、そうそう、今日も配分が終わってないのがあっちにあったぞ」
 そう言いながら、積み込みを少し手伝ってくれる。時計に目をやると、すでに出発時刻である一時をまわっていた。
「じゃ、先行くから」
 清水さんはそう言うと、あっさり出て行ってしまう。隣のレーンのシャッターが降りる音が聞こえた。僕は黙々と積み込み作業を続ける。ほとんどのトラックが出発してしまい、騒がしかった出荷場がだんだん静かになっていくのがわかった。
 やっと積み込みが終わり、時計に目をやると、一時半になるところだった。いつも一時には出発しているので、三十分も遅れていることになる。出発しようと思ったそのとき、仕分けが終わっていない荷物がある、と清水さんが言っていたことを思い出した。
 レーンのはずれに自分の担当コースの番号が振られた番重タワーがあった。急いでそれを自分のトラックに運ぶ。ほかの工場で生産されたパンで、仕分けに間に合わなかったものはこうして配分されないまま直接ドライバーに渡される。ドライバー自身が配送しながら、店舗ごとに数を確認して納品するのだ。
 すべてが終わると一時半を回っていた。僕は駆け足で工場を出て、トラックに向かった。
 運転席に乗り込み、エンジンをかける。車内の無線機で出発を告げた。事務所に待機している田中さんが応答してくれる。
 僕の仕事はパンの配送だ。こうして工場で直接商品を積み込み、コンビニに配送する。夜通しで五十店舗のコンビニに納品し、明け方に工場に戻ってくる。それで仕事が終わるわけではなく、もう一度パンを積み込み、同じルートをもう一周する。すべてが終わると、お昼を回っている。そこから帰宅し、夕方に寝て、また深夜に起きる。毎日がその繰り返しだ。
 五十店舗を二回転するので、つまり毎日百店舗に配送することになる。件数が多いので、少しでも手間取るとそれが積み重なって、とんでもない遅延になってしまう。遅延すると店員に文句を言われるだけでなく、自分の上司、それからメーカーの担当に呼び出しを食らう。雨が降ろうが雪が降ろうが、台風が上陸しようが全くおかまいなしだ。大地震がきたらどうなるのかはよくわからないが、よほどの事態でない限り、配送はするのだろう。
 どんな人間でも、腹が減ったら何かを食べる。たいていの人は、食べ物を買いにコンビニなどに行く。そこで売られている商品は自動的に陳列されるわけではなく、誰かがそこまで運んでくるわけだ。当たり前すぎるほど当たり前のことだが、それをやる人間が自分になるなんて想像もしていなかった。
 三十分も遅れてのスタートはそう滅多にはないが、はじめてというわけでもない。パンの製造や仕分けが遅れていれば、出発が遅れることはある。しかし、今日の場合は完全に自分の責任だ。遅れる理由にはならない。
 トラックの速度はすべてデジタルで管理され、記録されている。法定速度を上回れば警告が鳴り、点数が引かれる。急ブレーキや急発進も同様だ。勤務が終わったあとに、その日の運転の点数がレポートとして出てくる。その点数はそのままドライバーの査定になる。当然、配送時刻もすべて記録される。規定の時間よりも早かったり遅かったりすると、それも点数に響く。終わりのないゲームをさせられているようなものだ。
 市街を抜け、川沿いを走る。自分が担当するエリアはもう少し先にある。時計を見ると、いつもならもうとっくに何店舗かの配送が終わっている時間になっていた。
 最初の店舗についた。運転時間は短縮できないので、作業時間で追いつくしかない。急いでシャッターを持ち上げ、手前の番重を取り出す。店舗は配分伝票で区切られているのですぐにわかる。最初の店舗分を抱え、店の中に入っていく。
 パンコーナーの前に番重を起き、店員にスキャナーで店着証明をもらっているとき、「あんたさあ」と金髪の店員が声をかけてきた。
「はい?」
「今日、なんでこんなに遅いの? 昨日の人、今日より一時間も早かったんだけど」
 昨日は休みだった。僕はこのコースのメイン担当だが、当然休みの日は別の人が代わりに走ることになる。昨日の担当は石塚さんという人だ。元自衛隊員で、せっかちなことで知られていた。一時間も早く納品するのは完全にルール違反で、おそらく先に納品だけすませ、あとで規定の時間になってから店着証明をもらっているのだろう。
「すみません、実は……」
 工場の製造が遅れて、と言いそうになって、立ち止まった。いや、今日は工場の製造が原因じゃない。寝坊したのだから、完全に自分のせいだ。だが、寝坊したと正直に言うべきなのか。
「工場でトラブルがありまして……」
 結局、口をついて出たのは嘘の言い訳だった。
 店員は「本当に?」とでも言いたそうな訝しげな顔をする。僕は目を逸らした。さすがに、工場に問い合わせたりすることまではしないだろう、と踏んだ。
「まあいいや。できたら、もうちょっと早く持ってきてほしいんだよね。こっちも、段取りとかあるんで」
 すみません、ともう一度頭を下げて謝った。顔を上げると、金髪の店員はもうそこにはいなかった。
 店舗の外に出て、昨日配送したカラの番重を回収する。それをトラックの荷台に入れながら、これがずっと続くのか、と思った。どこで時間がいつも通りに戻るのかはわからないが、遅れている以上、配送をするたびに小言を言われ続けるのだろう。十店舗? いや二十店舗?
 いや、そうじゃない、と僕は思った。今日の配送が終わっても、また明日がある。明日が終われば明後日もある。これがいったいあと何年続くのだろう、と思った。

 二

 春からは、まずは配送をやってもらおうと思う。そう告げられたのは、入社まであと少しに迫っていた、去年の二月のことだった。
 会社の応接室で、中谷という部長と向かい合わせに座っていた。入社前面談があると言われ、特に服装についての指定はなかったので、スーツを着ていった。中谷はワイシャツにネクタイを締めていたものの、あとは作業着という不思議な格好をしていた。
 免許証、見せてくれる? と言われたので、財布から取り出した。中谷は一瞥し、中型免許だな、とつぶやいた。そのときまで知らなかったのだが、マニュアルで取得した自分の免許は七トンまでのトラックであれば運転できるようだった。
 営業するにしても、まずは現場を知らないとはじまらないから。中谷はそう言い、夜勤にはなるけど、最初は修行だと思って頑張って、と言った。面談は短く、ものの五分ほどで終わった。
 就職活動が解禁された直後、自分が働くことの実感が全く湧かなかった。とりあえず同級生にならってイベントホールで開催される合同説明会に行ってみたが、同じ格好をした無個性な学生が集まり、話を聞いている光景に圧倒された。率直に、気持ち悪い、と思った。どの企業も似たような担当が似たような説明をしていた。話す側も、話を聞いている側も、一様に似た格好をしていて、全員が同一人物なんじゃないかと思ったほどだ。
 学校では、就職課の担当が就職活動について指南してくれるイベントもあった。自分のやりたいことは何か、深掘りしてみましょう。自分の強みと弱みを把握しましょう。エントリーシートと履歴書は添削してもらいましょう。面接は、模擬練習を重ねて、万全の準備をして臨みましょう。そのような説明を受けたが、全く意味があるとは思えなかった。第一、みんなが同じことをしていても、その中で能力の優劣がはっきりするだけで、なんの意味があるのか、とさえ思った。
 当たり前の話かもしれないが、本格的に就職活動がはじまると、厳しい現実に直面することになった。大学ではスーツを着こなし、ハキハキと自分の意見を主張する生徒などどこにもいなかったはずなのに、今までどこにいたのか不思議になるぐらい、そういう学生に大量に遭遇した。
 僕が通っている大学はそこそこ名が通っている大学だったので、就職ぐらいどうにでもなるだろうと甘くみていたのだが、全くそんなことはなかった。面接どころか書類選考で撥ねられる日々が続き、最初はいちいち落ち込んでいたが、いつしか慣れて当たり前の感覚になった。
 この世には星の数ほど会社があるが、学生に馴染みのある会社はほんの一部だ。合同説明会は僕でも知っているような有名企業しか出展していなかった。とりあえず知名度が高いというだけで、メディアや大手商社を受ける友人は数多くいた。確かに考え方としては間違ってはいないのだろう。しかし、僕たちはおそろしいほど社会を知らず、どういう会社が社会を動かしているのかも、ほとんど何も、と言っていいほど知らない。
 であれば、絶対に偏りが生じるはずだ。つまり、学生に異常なほど知名度が高く、競争率の高い会社がある一方で、学生にはほとんど知られていないが、実は重要な会社もあるのではないか、ということである。もっと極端なことを言えば、どの会社にも営業がいて、現場担当がいて、総務がいて、という仕組みそのものは変わらないわけだから、どこに勤めたところで大した違いはないのではないか。そんなことも考えた。
 いったんそういう考え方に落ち着くと、少し気が楽になった。しかし、それはただの思考停止だったのかもしれない。僕は「自分のやりたいこと」を考えるのをやめ、とりあえず内定をくれたトラック輸送の会社に就職することにした。
 部長の中谷の面談が終わってから二ヶ月後、僕は本当に配送の現場に放り込まれた。最初はトラックに同乗して仕事を覚えてもらうから、と言われ、四十代ぐらいの大柄の男と一緒に配送をすることになった。夜勤のサイクルになかなか慣れず、同乗中にうっかり寝そうになってしまうこともあった。
 嫌だったのは、仕事の内容そのものではない。慣れてしまえばゲーム感覚でできるし、パソコンの前に張り付いて事務仕事をやるよりはわかりやすくて、いい仕事なのかもしれない。何より馴染めないと思ったのは、作業着を着て、終電で出社する必要があることだった。
 周囲には酔っ払ったサラリーマンや学生が帰路についているなか、作業着を着て出社するのは居心地が悪かった。サラリーマンの中には自分と同年代ぐらい、つまり新卒に見える人もいて、なぜこんなことになったのだろう、と思った。
 配送をしていると、たまに自分の知り合いに見える人に遭遇することがあった。もちろん大半は勘違いなのだが、そんなときは会社支給のキャップを深く被って、自分の顔を隠すようになっていた。

 三

 配送をしていると、午前三時がきてほしくないな、と思うことがある。配送中はずっとFMラジオをつけっぱなしにしているが、午前三時に放送がストップしてしまうからだ。そこから朝まではラジオの放送がなくなるので、沈黙の時間が訪れる。
 ずっと夜勤で勤務しているとはいえ、その時間になるとなぜか猛烈な睡魔が襲ってくる。人間の声は人間を覚醒させる作用があるらしい。その覚醒効果でなんとか三時までもっているということなのだろうか。もちろん居眠り運転はしたことがないが、まっすぐで単調な道路を走っていて意識が飛びかけた経験は一度や二度ではない。
 午前三時が近づくころには、いつもと同じぐらいの時間にまで戻すことができていた。途中の店舗で、納品ついでにスポーツドリンクを購入した。かなり汗をかいているはずだが、会社支給のポロシャツは吸水性が高く、すぐに吸い取って乾かしてしまう。
 二時五十分に、とある駅のロータリーに入った。当然この時間なので誰もいない。駅のロータリー付近のマンションの一階にコンビニがあるが、夜は営業しておらず、無人になっている。
 配送ドライバーは店舗の鍵を渡されており、開錠して納品する決まりになっている。万一、その鍵を紛失すると会社の責任問題になるので、しっかりと腰にキーチェーンで結んである。トラックのキーもチェーンがついており、腰につけるのが決まりになっているが、納品のたびにキーを抜き差ししなければならないため、ほとんど誰もやっていない。
 トラックの荷台を開け、納品準備をする。ふと、トイレに行こうか、と思った。普段、トラックで配送をしているときはコンビニのトイレを借りることが多いのだが、納品先のトイレを借りるということで、なんとなく気が引ける。この駅のロータリーには公衆トイレがあり、気兼ねなく使えるので重宝していた。配分が済んでいないパンは伝票によると五つということだったので、納品用の番重に納める。荷台の手前のほうに置いたまま、トイレに行った。
 戻ってきて、番重を抱えたとき、違和感に気づいた。納品のパンの数が少ないような気がしたのだ。普段はそんなことがあっても気にしないのだが、なんとなく胸騒ぎがして検品をしてみると、たしかにパンが一つ足りなかった。さきほど五つ追加したつもりが、四つしか入れてなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろうと思いながら、番重を抱え、店舗に向かって歩き出した。
 いつも通り、手順に従ってセキュリティロックを解除する。無人の店舗は暗い。一応、真っ暗闇というわけではなく、かろうじて足元が見える程度の明かりがついているが、何度入っても不気味だ。あたりは静まりかえっているので、自分の足音だけが響く。
 番重を指定の場所に置いたとき、遠くでトラックのエンジンがかかるような音がした。トラックのエンジン音は乗用車とは全く違う音なのですぐにわかる。別のトラックがたまたま通りかかったのだろうか。だが、今までこの場所で別のトラックに遭遇したことはない。
 いやな予感がしたが、納品はコンビニのセキュリティロックをかけてから退出する決まりなので、すぐには出られない。嫌な想像をしてしまい、額から汗が出てきた。指が震えたが、なんとかセキュリティロックをかけると、すぐに外に出た。
 不安が的中し、呆然となった。目の前の光景が信じられなかった。ロータリーから、自分のトラックがなくなっていたのだ。あまりにも現実感がなく、目の前の光景は本当に現実なのだろうか、と思った。血の気が引くというか、一瞬で頭が真っ白になった。
 トラックが盗まれた? およそ考えにくいことではあるが、可能ではある。納品中はキーを差しっぱなしにしているのだから、ひねればエンジンはかかるだろう。問題は、この時間帯に一体誰がそんなことをするのかということと、どうやってトラックを運転したか、ということだ。
 とっさに、事務所で待機している田中さんに連絡、と思った。だが、無線機はトラックに積んである。携帯、と思ったが、それもトラックの中だ。そもそも、田中さんに連絡したところでどうこうなる問題でもない。まずは警察に連絡しなければと思い、それも携帯がないとだめだということがすぐにわかった。
 こうしている間にも刻一刻と配送時間は削られているわけだが、事態はそれどころではない。トラックごと納品中の商品が盗まれるなんて、前代未聞だ。
 とにかく探さなくては、と思った。もし仮にトラックが盗まれたのだとしても、そのへんの乗用車とはわけが違う。車体には会社のロゴが入っているし、そもそも目立つので、逃げ切れることはないだろう。だが、遅延は避けられないし、無事に戻ってくる保証はない。そもそも、なぜ盗まれたのかといったことを追求されると、ルールを破ってキーを腰につけていなかったことが原因になる。最悪クビになる可能性もあるかも、と思った。
 どこを探すという当てがあるわけでもない。駅のロータリーは一方通行になっているので、とりあえず果てに向かって走り出した。ロータリーの正面は交差点になっており、幹線道路に接続しているので、そちらに走って行ったのだとしたら、もう終わりだろう。
 交差点の手前に雑居ビルがあり、そこを曲がった路地あたりに止まってるんじゃないか、と自分に都合のいいことを考えた。
 そんなことあるわけないよな、と思って目をやる。
 あった。
 トラックはそこに止まっていた。
 一瞬自分の目が信じられず、別のトラックなんじゃないかと思った。が、何度見ても、自分の会社のロゴがシャッターに印刷されている。
 さっき動いたばかりのはずなのに、エンジンはかかっていないようだ。現実にロータリーから移動しているわけだから、誰かが乗っているはずだ。誰が乗っているのだろうか。こんな午前三時の片田舎の駅前には、歩いている人間も誰もいない。酔っ払いだろうか。
 トラックに近づき、サイドミラーを覗き込む。トラックのサイドミラーはかなりサイズが大きく、外からでも運転席の様子を見ることができる。だが、暗くて様子はよくわからなかった。
 怖かったが、ここで対応しないことにはどうにもならない。僕はドアの横まで駆け寄ると、思い切ってドアを開け放った。
 運転席に座っていたのは、細身の女性だった。いや、座っているという表現は正確ではない。トラックの大きなハンドルに突っ伏するようにして眠っていた。
「ちょっと、あなた誰ですか。起きてください」
 僕は女性を揺する。トラックは一般的な乗用車よりも車高が高いので、肩を揺するにはかなり背伸びしなければならない。
 女性は黒髪のロングヘアーで、紺色のジャージを着ていた。まるで、いままでそのまま寝室で寝ていました、というような格好だが、実際その通りなのかもしれない。問題は、その寝ている場所が自分のトラックだということだ。酔っ払っているのだろうか。
「起きてください、警察呼びますよ」
 トラックが見つかったことで安心すると、途端に配送の遅れが気になってきた。実際のところ、この仕事は一分一秒のロスが命取りになる。こんな酔っ払いに絡まれて時間をロスするわけにはいかない。
「そういうあんたは誰?」
 女性は体を起こし、こちらを見た。暗くて顔はよくわからない。年齢も不明だが、声からそれなりに若い女性だということがわかった。
「このトラックの持ち主ですよ。早く降りてください。じゃないと、警察呼びますよ」
「やだ」
「本当に警察呼びますよ」
「どうやって? これキミの携帯なんじゃないの?」
 女は黒いスマホをつまみあげる。確かにそれは僕のスマホだ。
「ここで大声で騒いだって、誰かが通報しますよ。さあ、早く」
「いいよ、呼んでも」
「え?」
「警察呼んでもいいよ、呼びなよ。なんなら、あたしが呼んでやろうか?」
 女は僕のスマホを起動し、番号を押そうとする。スマホはロックがかかっているので他人が使うことはできないが、一一〇番などの緊急の番号は押せるようになっている。
 僕はやめてください、と制止し、スマホを取り上げた。
「なんですか、目的は。何がしたいんですか」
「目的……、目的か。なんだろう……。考えてくるのを忘れたな……」
「は?」
「とりあえず、ここではないどこかに行きたい」
「勝手に自分でどこかに行ってください。これ、仕事用のトラックなんで。あなた、窃盗罪とか、よくわからないけど、そういった罪で逮捕されますよ」
「逮捕でいいよ」
「はやくどいてください。いまどいてくれたら、それで不問にするので」
「不問にする?」
「そうです」
「あたし、カギがついてたから運転しただけなんだけどなぁ」
「立派な窃盗罪ですよ、それ」
「いや、カギがついた状態でトラックを放置してたわけだから、ほら、警察とか呼んで騒ぎを大きくしたら、そっちだって困るんじゃないの?」
「え?」
「不問にしたげる」
「は?」
「だから、カギ抜かずに納品してたの、不問にしてあげる」
 相変わらず暗くて顔はよく見えないが、女が微笑んだのだけはよくわかった。

 四

 結局、配送時間は普段の十五分遅れになった。やっとここまで巻き返したのに、また遅れてしまった。だがトラックのスピードは管理されていて、法定速度を超えて走ることはできない。僕はアクセルを調節して、ちょうど時速六〇キロを少し下回るスピードにベタ付けしていた。
 女は助手席に座って、ぼーっと前を眺めている。目的は全くわからないが、要求はシンプルだった。助手席に乗せてほしい、ただそれだけだ。もちろん社外の人間をトラックに同乗させるのは規定違反で、見つかったらタダじゃすまないだろう。
 ただ、女の指摘通り、トラックのキーを腰につけて納品するのもまたルールであり、それを守らず、トラックを盗まれかけた、というのが明るみに出れば、それもそれでタダではすまない。女には失うものがないのか、それともただのハッタリなのか、警察を呼んでもいいという。当然ダメージが大きいのは確実に女のはずだが、こちらも無傷でいられないのは確かだった。
 無職? 年齢はわからないが、まだ二十代のようにも見えるし、三十代のようにも見える。
 いわゆる「無敵の人」というやつだろうか、と思った。要は、何も失うものがない人は、犯罪などを犯すリスクが少なく、ためらいがない、というわけだ。ストレスを抱えている主婦は、ストレス解消のためにコンビニなどで少額の万引きを繰り返す人がいる、と聞いたことがある。少額の万引きどころか、これは立派な犯罪なわけだが、案外そういう感じなのではないか、と思った。
 はじめてトラックに乗った人間が運転なんてできるわけがないと思ったが、考えてみれば自分だってマニュアルの免許を持っていたわけだから、一応、練習したら乗ることができた。細部は違うが基本的には同じだ。
 動かすことはできても、カーブでうまくギアチェンジができずに、エンストしたのだろう。その状態で止まっているところを自分が発見したというわけだ。しかし、トラックは乗用車と違い、車体が長いので、当然内輪差も大きい。脇を擦ったあとはなかったので、それは不幸中の幸いだったのだろうか。
 とりあえず成り行きで隣に乗せることになったわけだが、車内の様子はドライブレコーダーで撮影されている。なので、この録画映像を見られたら一発でアウトだ。だが、ドライブレコーダーは常時録画はしているものの、事故などのイレギュラーな事態がなければ見返すことはない。
 なので、今日は絶対に軽微なトラブルも起こせないな、と思った。また、もちろん会社の同僚のトラックにも見つかるわけにはいかないが、エリアが完全に分かれているので、配送中に見られる心配はない。
「思ったより静かだね。配送中って、音楽とかラジオとか聞いてるもんだと思った」
 女は足を組んで座り、そう呟く。こちらはこんなにリスクを背負っているのに、まるでドライブを楽しんでいるかのような口ぶりだ。僕はなんて答えたらいいのかわからず、黙って運転に専念する。
 道は田んぼの畦道のようなところに差し掛かり、次の店舗まではまだだいぶ間が空いている。女は勝手にラジオのボリュームやチューナーをいじりはじめた。勝手に触らないで、と注意しようとすると、「なんだ、何もやってないんだ、この時間」と言った。確かに、スピーカーからはなんの放送も流れておらず、ザーッというノイズが聞こえるばかりだった。
 危機的な状況にあるはずなのだが、驚くべきことに、今度は猛烈な睡魔が襲ってきた。女が思ったよりも無害そうなので安心したのかもしれない。
 出勤時に、田中さんに睡眠時間は七時間だと告げたが、実はあれは嘘だった。ベッドに入っていた時間は五時間ぐらいだが、実際の睡眠時間はそれよりもはるかに短かっただろう。普段でもこの時間帯は魔の時間帯で、眠気が襲ってくることが多い。ラジオがかかっていない時間というのもあるし、エリア間の移動で、単調な状況がずっと続くからだ。おまけに道路は田舎道で、信号も少ない。
「ねえ、眠いの?」
 女が聞いた。ハンドルがふらついているからかもしれない。その言葉で、少しだけ意識が覚醒した。逆にいうと、意識が飛びかけていたのかもしれない。
「眠いですよ」
「毎日配送してるんでしょ? それでも眠いの?」
「毎日やってても慣れません。人間は夜中には寝るようにできてるのかもしれませんね」
 何を僕は普通に会話しているのだろう。相手の素性は一切わからないし、何を考えているのかも全く不明だというのに。
「カフェイン入りのガムとか、噛んだらいいのに」
「昔は噛んでたけど、とっくに効き目なくなったのでやめました」
「どこかで休む?」
「そんな時間、あるわけないですよ」
 言いながら腹が立ってきた。ラジオのディスプレイに表示されているデジタル時計に目をやると、「03:32」と表示されていた。本来であればもう次のエリアにいなくてはならない時間だ。
 この夜中の便が終わるのが大体五時半ぐらい。そこから工場に戻り、朝の分のパンを積み込み、また出発する。番重の積み下ろしと積み込みは先着順であり、遅くなると渋滞して時間がさらに押す。その合間に朝食と休憩をとるのだが、もし時間が余らなければ休憩抜きで後半戦に突入することになる。ただでさえ睡眠不足なのに、休憩なしとなると、気が遠くなりそうだった。
 やっと次の店舗に着くと、適当にトラックを駐車場に停め、外に飛び出る。こんな時間なので、当然車は全く停まっていない。さっきの信号待ちのときに、キーはちゃんと腰に付けておいた。あの女がまた何かしだしたらたまったものではない。
 トラックの後ろにまわり、シャッターをあげる。この店舗は新装開店したばかりで、最近はものすごい量の注文がある。トラックの下からだとわかりにくいが、番重のタワーは自分の身長ぐらいあるだろう。僕はトラックの外から番重を引き寄せると、右手で底部分をつかみ、ステップまでおろした。そのまま足を使って地面に下ろし、台車を噛ませる。
「おー、すごい!」女はトラックの横に立ち、僕の動きに対して感嘆の声を上げた。「力持ちだねー!」
 まるで大道芸人を見ている観客のようだ。
 僕はその声を無視し、台車を押して店舗に入る。
「おはようございます!」納品のときは必ずその挨拶だ。ここの店舗は、夜間はバイトではなく店長が自らシフトに入っているようだ。まだ夜勤の人員が確保できていないのかもしれない。まだ開店したてということもあり、ドライバーに対する態度もやわらかい。
 レジで店着証明をもらっているとき、店長は「あの人だけど」と言い、店の外を見た。店の中からでも女がトラックの脇に立って、店内を見ていることがわかった。駐車場を含めてもほかに客は全くいないのだから、一緒にきた人物だということは誰にでもわかる。社内の人間に見つからなければ問題はないだろうと考えていた僕は、思わぬ話題に心臓が跳ねた。
「もしかして、本社の人? 視察に来てるの?」
「え? ……ああ、はい、そんなところです」
 曖昧にごまかす。本社の人があんなジャージでいるわけないだろう、と心の中で突っ込んだが、部外者からみればそんなものなのかもしれない。いずれにしても、勘違いしてくれたのならありがたい。
 納品を終えると、店の裏からカラの番重を回収して、トラックに乗せた。女はその様子も珍しそうに見ている。経験はないが、実演販売でも見られているような気分になった。
 行きますよ、と声をかけようとして、何を連れのように考えているのだろう、と思った。できることなら、ここで降りてもらえたらありがたい、と思っているのに。
 僕がトラックに乗ると、女も同じタイミングで乗り込んできた。幸い、次の店舗までも若干の余裕がある。僕は意を決して、言った。
「財布、持ってますか?」
 女は訝しげに「財布?」と聞き返す。
 僕が前を見たまま運転を続けていると、いや、ないけど、と答えた。
「財布がないということは、現金も当然ないということですよね。一万円あげるので、それで、もう帰ってくれませんか。たぶん、幹線道路まで行けばタクシーも流しのがあると思うので。そこで降ろすので、もう勘弁してくれませんか」
「財布はないし、お金もないよ。だけど、そんなお金は受け取ることはできないね」
「どうしてですか」
「恵まれるような謂れはないからだよ」
「いや、恵もうとか、そういうことじゃなくて、単純に帰ってくださいと言ってるんです。迷惑なんです」
「あたし、何もしてないよ。手伝おうかと思ってるぐらい」
「ここに同乗してるだけでもう迷惑なんですよ」
「騒ぎを大きくしてもいいの?」
「ああ、はい、もういいですよ。警察でもなんでも呼んでください。確かにカギをつけてなかったのは自分に落ち度があるし、それで会社から処罰されるんならそれでもいいです。どっちにしても、こうやって知らない人を同乗させてるほうがヤバいんで」
「そっか」
 予想に反して、女はなんの抵抗も見せなかった。てっきり、なんらかの反論があるものとばかり思っていたので、少し拍子抜けした。
 あらためて、何者なのだろう、と考えた。駅前のコンビニに納品しているところでトラックを盗まれたのだから、もともとあの近くにいたと考えるのが自然だ。だが、午前三時にまともな人間があんなところにいるわけがない。当然電車も動いていない。
 コンビニの上階がマンションになっているので、そこの住人なのだろうか。いずれにしても、午前三時に人が外に出てくるところを見たことはないのだが。しかし、上下ジャージであることを考えると、それこそ近所を散歩するような格好ではある。
 運転しながら、ちらりと隣に目をやる。袖のところぴったりまでジャージの袖を伸ばしている。これだけ暑いのに。もしかして、DVか何かなんじゃないかと思い始めて、そう考えると妙に合点がいった。
 こんな時間に外にいたのも、もしかしたら家の中に入れてもらえないからなのかもしれない。もしそうだとしたら、タクシーに乗せてもそもそも意味がない。お金がない、というのは本当なのかもしれないが。
「名前、なんて言うんですか」
「名前?」
「名前ぐらいあるでしょ、ないんですか」
「どうして?」
「どうしてって……。素性が全くわからないんだから、名前ぐらい教えてくださいよ」
「本当のことを言うとは限らないよ」
「本当の名前じゃなくてもいいですよ」
 女はフロントガラス越しに星空を眺めている。そして、スピカ、と言った。
「スピカ?」
「そう、スピカ」
「どういう字? 外国人?」
「漢字じゃないの、カタカナなの」
 当たり前だが、もちろん本名じゃないだろう。だが、どういう形であれ、名前があると便利だ。
 そんなことを考えているうちに、次の店舗に着いた。相変わらず全く車の停まっていない駐車場に、適当に横付けをする。
「じゃあ、ここで降りてくださいよ」
 スピカは黙ってトラックを降りる。どうするつもりだろうか、と思った。だがそんなことをゆっくり考える余裕はなく、トラックのシャッターを開け、番重を取り出す。納品のときにふと目をやると、トラックの脇にはもう彼女はいなかった。
 もう、どこかに行ってしまったのか?
 番重を抱え、納品する。店着証明を受けようとしたとき、レジ横にスピカが立っているのが見えた。店員は先に客の会計をすませるよう目配せする。レジに客がいる場合は客のほうを優先するルールになっている。
「この焼き鳥、全部ください」とホットケースを指しながら、スピカが言った。
「ぜ、全部ですか?」店員が驚く。僕も驚いた。いまは時間としては営業時間外に等しいので、当然それほど数多くあるわけではないが、それでも十本以上はあるだろう。
 何を考えているのだろうか、と思ったが、スピカは財布を持っていない、ということも同時に思い出した。つまり、これを自分が出せということだろうか?
 店員はせっせと一つ一つ紙袋に詰めていく。結局、焼き鳥は十二本あり、店員は金額を告げた。
 そこで、スピカはポケットからスマホを出すと、スマホで支払いをした。
 何も驚くことではないのだろうけれど、確かに財布を持っていないからといって、支払い能力がないことを意味しないのだ、という当たり前のことに気がついた。店員はレジ袋に入れてそれをスピカに手渡す。スピカは一瞬こちらを見た。かすかに微笑んでいるのがわかった。
「ほら、早く行くよ」
 スピカは僕に店着証明を促すと、さっさと外に出た。

 五

 車内には焼き鳥の匂いが充満していた。結局、スピカはトラックを降りることなく、当たり前のようにそのまま乗り込んできた。あまりにも驚いたので、指摘するタイミングを逃してしまった。
「ほら、半分あげるから」
 運転している側から、口元に焼き鳥を持ってくる。いいですよ、と拒否しても、ほらそんなこと言わずに、とさらに勧めてきた。
「降りるんじゃなかったんですか」
「なんで? 降りるなんて一言も言ってないよ」
「だって、騒ぎを大きくしてもいいって……」
「騒ぎを大きくしたらお互い困るでしょ? だったら何事もなく、このままいくのがいいと思うけど」
 押し問答していると、なんだかもうどうでもよくなってきた。どうせ見ず知らずの人を乗せているという事実は変わらないし、既に大勢に見られてしまっているのだ。いまさら降ろしたところでどうなるだろう。何より、途中で何があろうとも、ドライブレコーダーの映像をチェックさえされなければ、このことがバレることはない。そもそも、トラックの窃盗未遂という大罪があるのだから、いざ警察を呼ばれるとダメージが大きいのはスピカのほうだろう。
 それに、こうしていろいろなことをしているおかげで、眠気が飛ぶのもありがたかった。あのままだと、スピカとは関係なしに、事故を起こしていたかもしれない。
 もう一度時計を見る。焼き鳥事件のおかげで、さらに五分ほど遅延していた。しかし、もうこうなったらどうにでもなればいい、と思った。
「トラックの免許はいつとったの?」スピカが聞いた。「こんな大型のトラックを運転できるなんて、すごいね」
「別に免許は取ってないですよ。普通にマニュアルで免許とったらついてきたんで」
「え、そうなんだ?」
「いまは違うらしいですけど。あと、このトラック、大型じゃなくて中型です」
「へえ」
「もちろん、ただ免許持ってるだけではいきなり運転できませんよ。訓練しないと」
「じゃあ、訓練したんだ」
「はい」
「あれだけのパンをいっぺんに運べるのもすごいね」
「慣れです」
「トラックに積み込んである分、全部配送したら終わり?」
 僕は鼻で笑うように吐息を漏らした。
「いま載ってる分で半分ですよ。朝になったら、後半の半分を積んで、また同じコースを走るんです」
「これで半分?」
 スピカは驚いた声をあげた。確かに、まだまだトラックの中には荷物が詰め込まれているので、相当残っている感じはするだろう。自分も最初に勤務したときに感じたことだ。やっとトラックの中が空になったと思ったら、まだ半分残っているのか、と。もちろん、ひとつひとつの荷物を個別に配達しているわけではないが、三トントラックには手積みで三トンの荷物を積載している。それを自分の手で荷下ろしして納品するのだから、確かにすごい労力だった。
「なんでトラックの運転手になろうと思ったの?」
 さらに深入りした質問をしてきた。こちらの態度が軟化していることを感じ取ったからだろうか。しかし、その質問は、僕の神経を逆撫でするものだった。
「トラックの運転手になろうなんて思ったことはないですよ」
「現にいま、トラックの運転してるじゃない」
「なろうと思ってなったわけじゃないです」
「どういうこと?」
「新卒で配属された部署がたまたまここだった、ってだけです。自分で望んだわけじゃない」
 へえ、とスピカは声を漏らした。心底感心しているような声だった。
「じゃあ、もともとは営業とか経理とか、そういうスタッフとして入社したのか。でも、ドライバーもやるもんなんだねえ」
「普通はないと思いますよ。自分はなんというか、運が悪かったというか」
「そうかなあ」
「え?」
「営業も経理も、いつだってやろうと思えばできるじゃん。でも、いきなりトラックの運転手なんて、ある程度の年がいったらなかなかできないよ。だから、当たりみたいなもんだね」
「あなたに何がわかるんですか?」
「わかるよ」
「だから、何が」
「あたし、こういうトラックに乗ったことないから」
「ああそうですか。そりゃ幸せだったんでしょうね」
「仕事はしてたけど、お金を稼いでるって実感はなかったな」
「なんの仕事だったんですか?」
「別に、たいした仕事じゃない。でも、何で稼いでるのかわからないって、わりとしんどかったな。それは本当のお金じゃないような気がして」
「本当のお金ってなんですか?」
「わからないけど、本当に自分で稼いできたって実感のあるお金かな」
「どんな仕事で稼いだって、お金はお金じゃないですか」
「本当にそう思う?」
「思います」
「そう」
 スピカの言うことはわかるようなわからないような、という感じだった。深夜にトラックの運転をしているだけあって、いまの自分の稼ぎは、周囲の同級生よりははるかにいい。しかし、こんな将来性のない、ビジネススキルの身につかないような仕事をしていて、果たして未来はあるのか、というような気はする。
 同期の飲み会も何度か開催されたことがある。しかし、いつもだいたい夜の七時ぐらいからはじまる。普段は寝ている時間だ。少し遅れて参加し、その後は運転だから酒を飲むわけにもいかない。
 みんな、表向きは現場で汗を流して働いている自分のことを持ち上げてくれるが、内心ではどう思っているのかわからない。本社でスーツを着て働いている人とは違って、自分はまだ名刺交換すらしたことはない。社会人としてちゃんとした経験を積んでいないのではないか、というような焦燥感があった。
 コンビニに配送することで、いかに自分のいまの地位が低いのか、ということを思い知らされたことは無数にあった。学生時代も、当然なんの感情もなく買い物をしていたコンビニの、取るに足らないと思っていた店員が、自分に文句を言ったり指図をしたりするということがなかなか受け入れられなかった。社会で自分が一番底辺にいるのではないか、と思うことさえあった。
「こんなの、社会の底辺の仕事ですよ」
「どうしてそう思うの?」
「思いますよ。大学を出ているのに、まだ大学生のバイトとかに指図されるんですよ」
「仕事ってそういうものじゃん? その理屈だと、一流企業の社員は、お客さんから何も文句言われない、ってことになる。一流企業の家電製品とか、持ってるでしょ? よく、社長とかが記者会見で謝罪したりしてるじゃん」
「そういう屁理屈は……」
「きっとね、キミが、そうやって今まで人を見下してきてたんだよ。それに気づいただけ」
 カミソリのように鋭い言葉だった。
 思わず息を呑む。
「楽しい? いまの仕事」
 衝撃で、ぼーっとしていたら、ものすごくシンプルな質問が飛んできた。
「楽しいわけないじゃないですか。聞いてましたか、いまの会話」
「そう? わりと楽しそうにも見えるけど」
「おんなじことの繰り返しですよ。本当に、毎日まいにち、ほとんど何も変わらず。トラブルもなかったら、それこそ記憶になんて何も残らないですよ。下手をすると、一ヶ月ぐらい、ほとんど同じ生活で終わってることもあるかも」
「じゃあ、辞めたらいいのに」
 こともなげにスピカは言った。まるで、映画がつまらないなら映画館から帰っちゃったらいいのに、とでも言うかのように。
 なぜ自分はこんな仕事をしているのだろう。向き合いたくなくて、考えることを放棄していたのかもしれない。営業所で働く周りの同僚を見ても、大学を出ている人はほとんどいない。高校すら中退といったような、そんな人ばかりだ。
「そんなわけにはいかないですよ」
「なんで?」
「だってそんなの、落ちこぼれってことじゃないですか」
「そう? キミは望んでこの仕事に就いたわけじゃないんだよね。だったら、さっさと切り替えて、別の道を探すのも手だと思うけどな」
「簡単に言いますね。人ごとだと思って」
「まあ、実際に人ごとだし。なんで一人前になるまで苦労したのか、わかんないけど」
 なぜだろう。悔しかったからだろうか。
 スピカはまたラジオのチューニングをいじった。まだラジオは沈黙したままだ。
 トラックは田園地帯を抜け、ふたたび住宅街に差し掛かってきた。
「やりたいこととか、ないの?」
「ないですね。ないからここにいるんです」
「普通、やりたいことって何かはあるんじゃないかなぁ? あたしは、常にやりたいことってあるけどな」
「たとえばどんなことですか?」
「トラックで配送してみること」
「ただ隣に座ってるだけじゃないですか」
「でも、これだってたぶん一生経験することはなかったよ。別に、これをずっとやってみたかった、ってわけじゃないけど」
「いま辞めたところで、別になんにもならないですよ。ハズレくじを引いたのは確かだけど、そんなのいまさらどうにもならないんで」
「その若さで、悟ってるねぇ」
「結局、要領のいいやつがいいところを全部持ってくんですよ。就職活動だって、結局は茶番じゃないですか。一生懸命勉強して、それなりの成績で卒業しても、就職活動じゃなんの役にも立たなかった。ろくに授業も出ないで、遊び歩いていたやつが要領よく、大手の内定を取っていくんですよ」
「極論だね」
「極論? 実際、そうじゃないですか」
 それ以上、スピカは何も言わなかった。暗闇の中に、ポツンと明るく、夏の一等星のように輝くコンビニが見えてきた。

 六

 次の店舗も、いつも大量の注文をする店舗だった。住宅街に位置するため、通勤の時間帯にパンがよく売れるのだろうか。スピカのことを気にする余裕もなく、納品の準備をした。
 台車を押しながら入店し、いつものように挨拶をすると、また驚きの光景を目にした。スピカが、レジ横に立って店員と何かを話している。先ほどの焼き鳥の例もあるので、また何か余計なことをするんじゃないか、と思った。
 いや、これ以上面倒ごとを起こすのなら、もうここで置いていこうか、と思った。夜はだんだん明るみ始めている。田園地帯を抜けて、住宅街に入ってきたので、もう少しで電車も動く時間になるだろう。そんなことを考えながら、店着証明をもらいにレジまで歩く。スピカと店員は何かを楽しそうに話していたが、店員はこちらをみると、さっとスキャナーを手に取った。スピカは買い物をしていたわけではなかったらしい。
 店着証明が終わると、スピカは驚くことに店員に手を振った。店員も小さく胸の前で手を振り返しているのが見えた。
 スピカを置いていくつもりが、無効化されたので少し苛立った。大丈夫だ、まだチャンスはある。乱暴にドアを閉めると、「何話してたんですか?」と感情のままに荒々しく聞いた。
「別に。ちょっとした世間話だよ」
「世間話?」
「そう。世間話はしない?」
「納品のときに? 店員とですか? するはずないでしょう。そんな暇もないし」
「店員さんだって人間だよ? 知ってた?」
「……」
「確かに、普通はマニュアル通りに接客してくるコンビニの店員と世間話はしないよね。でも、それって相手をロボットか何かだとみなしてる、ってことだよね」
「そんなことはないですよ」
「キミが店員さんを内心で見下しているように、店員さんもキミのことを同じように見てるんだよ。たぶん、配送ロボットか何かだと思ってると思うよ」
「とにかく、あんまり勝手なことしないでください。クレームになったら、本当、迷惑なんで」
 スピカはシートに深く腰掛け、短くため息をついた。
 店員のことをロボットみたいだ、と思ったことはある。というより、この仕事をするまでは、ロボットみたいなものだと思っていた。マニュアルから外れた会話はしないわけだし、そういうものだと思っていた。しかし、当たり前だがコンビニの店員だって、コンビニの店員である以前に、普通の人間だ。もちろん彼らなりの生活があるし、人生があるのだろう。
 スピカはそれきり、何も話さなくなってしまった。自分から望んで一緒にいるわけではなく、むしろ押しかけてきたような格好なのに、妙に沈黙が重く感じた。
 スピカは一体何者なのだろう、と思った。ただの頭のおかしい女にしか見えないが、ときどき核心を突いたようなことを言う。
 沈黙が重く感じたのは、昨日のことが影響しているのかもしれない。昨日、学生時代から付き合っていた恋人と別れたのだった。夜勤が基本なので、常に昼夜逆転のような生活をしており、まともに相手をする時間がとれなかったのが原因だと思ったが、本当はもっと別の原因があったのかもしれない。
 本当にきついのは、この仕事そのものじゃない。この仕事によって、何か自分の人生を削られているような感じ、本当はもっと大事に過ごすべき時間という大切な資産を、どこかに置き忘れてしまっているような気がするのだった。
 深夜配送をする中で自分が唯一気に入っているところは、毎日ちゃんと夜明けを見ることができる、ということだ。学生の頃は、もちろんそんな時間に起きていることはなかったし、夜明けがそんなに綺麗なものだと感じたこともなかった。暗闇からだんだんと周囲の視界が開けていき、世界が赤く染まっていく様は痛快だった。
 それと同時に、ほとんど車や人がいない中でそんな光景を見ている自分は、本来いるべき世界から外れてしまったような気がして、焦りも覚えた。一人暮らしのアパートの一室ではなく、ローンを組んで建てた家で目覚め、ほかの大多数の人と同じように出勤する自分はまったくイメージできなかった。真夜中に出勤し、世間の人がまだ忙しく働いている昼間に家路に着く自分はどこに向かっているのだろう、と思った。
 スピカはそこから本当に何も話さなくなった。淡々と店舗納品を続け、ついに最後の店舗がやってきた。あたりはもうだいぶ明るくなってきている。
 店舗から空の番重を回収し、最後の店舗の荷物を引き出したとき、異変に気づいた。別立てで用意してあったパンが一つ足りないのだ。どこかで入れ忘れてしまったのか。いや、パンが一つ足りないということは、どこかで一つ余分に入れてしまったということだ。配分が間に合わなかったのはメーカー側の責任にはなるのだが、どこかの店で欠品が生じてしまうので、ドライバー責として査定に反映される。配分伝票を見ながら記憶を辿っていると、「これじゃない?」とスピカがパンを手渡した。
「あれ? どこかに落ちてましたか?」
「ううん、これ、最初から持ってたの」
「え?」
「トラック、最初に乗るときに、荷台から。これ、余ってるやつなのかなあ、って」
「そんなわけないでしょう。立派な窃盗ですよ」
「ごめんなさい」
 短くため息をついた。まあ、終わったことはしょうがない。それに、ちゃんとこうやって出してきたわけだから、問題がないといえば問題はない。
 気を取り直して、また番重を手に取り、納品した。これまた無愛想な店員から店着証明をもらっているとき、こんな厄日みたいな日も半分が終わったな、と思うと同時に、スピカともここまでか、と思った。
 この店舗の納品が終わったら前半が終了し、納品すべきパンはすべて納品したことになる。いったん工場に戻って、軽く休憩してから、また納品するパンを積み込まなくてはならない。いくらスピカがわがままを言ったところで、これ以上同乗すると確実に誰かの目には触れるし、積み込みの場所に一緒にいることなど不可能だった。
 納品を終えて外に出ると、スピカはこちらを見ていた。
「じゃ、ここでお別れです」
「どうして?」
「だって、もう納品するパンはないでしょ? ここが、前半の最後の店舗なんですよ。あとは工場に戻って、次の便の積み込みをします」
「あたしもついてくよ」
「それは無理です。うちの会社のトラックもちょうど同じタイミングで帰ってくるんで、見つからずに戻ることは不可能です。それに、工場の中は関係者以外は入れないんで、そもそも無理ですよ」
 スピカは腕組みをして、何かを考えているようだった。
「こんなところに取り残されても、帰れないよ。近くまででいいから、乗せてってよ」
「ここからタクシーで帰ったほうがよくないですか?」
「そんなお金ないし。だいたい、ここから家までって相当あるよ。工場の近くからだったら、たぶん電車で帰れるから」
 押し問答は続く。いろいろと言葉は交わしたが、それで終わるんならいいか、と思いはじめていた。ガラス越しに店員がこちらの様子を気にしていることもわかった。変にトラブルを起こすよりも、さっさと乗せてしまったほうが賢明かもしれない。
「いいですよ。もう本当に、これが最後ですから」
 スピカは少し宙を睨むような仕草を見せたが、小さく頷くと、トラックに乗り込んだ。
 僕は運転席に座りながら、あることが気になった。
 なぜスピカは工場の場所を知っているのだろうか?



 いつの間にか太陽はとっくに昇り、世界を照らしはじめている。夜中から仕事をしている自分にとっては「折り返し地点」だが、世間一般的にはやっと「朝」という感じなのだろう。それも、人によってはまだ起きる時間ですらないはずだ。布団の中でまだまどろんでいられる時間帯なのが羨ましい反面、自分は暗くなるまで働かなくてもいいのが特権のようなものだ、とも感じた。
 夜中に働いているうちは、夜行性の動物のように陽の当たらない暮らしをしているように卑屈な気分になるが、朝がやってくると不思議とその気分が少し和らぐ。自分が社会の一員に加わっているような気分になるからだろうか。
 ふと隣に目をやると、ジャージ姿のスピカが組んでいた足を解き、普通に座り直しているのが見えた。乗り始めた当初は暗くてわからなかったが、いまならよく見える。はっきりいって異常事態なのだが、ここで別れるのが名残惜しいような、そんな気分にもなっていた。こんな形じゃなく、もっと全然別の形で出会えていたなら、また少し違った展開にもなっていただろうか、と思った。いや、そんなことを考えても仕方がない。
 急に空気が薄くなったように気まずい気分になり、何かを話さなければ、と思った。
「そういえば、どうして工場の場所を知ってたんですか?」
 先ほど感じた疑問を口にした。
 スピカはちょっと驚いたような表情になった。
「工場の場所?」
「このトラックが工場に戻るっていうのは確かにそうなんですけど。普通の人はパン工場がどこにあるかなんて知らないと思うので。なんで知ってたんですか?」
「え? だって大きい工場じゃない。知ってるよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ」
 ただはぐらかされているだけのような気がしたが、そう言われるとそれ以上は追求できなかった。水掛け論のようなもので、答えなど出ないだろう。
 朝になったことで、道路も混み始めている。さて、どうしたものか、と思った。確かに工場は駅から比較的近いが、駅まで寄る余裕はないし、記録が残るので正規のルートを外れて走ることもできない。もう工場まではだいぶ近くなっているので、適当にこのへんで降りてもらうしかないのか、と思った。
 だが、道は幹線道路のため、ちょくちょく信号で引っかかったりするものの、人が簡単に乗り降りできるような状況ではない。
「幹線道路から出たところで、適当に停めてくれていいよ」とスピカが言った。はい、と返事をしたものの、適当なところで出られるような場所はなく、事務所や工場は幹線道路のすぐそばにあるので、出たところに駐めるということはそれらの近くに駐めることを意味する。同僚たちに見られないか心配ではあったが、もうここまできたらどうすることもできない。ちょっと脇道に外れて、なんとかするしかないだろう、と思った。
 やっとこの状況が終わる見通しが立ってくると、急に脱力するように力が抜けていった。安心したのかもしれない。
 しかし、今日のことは間違いなくずっと記憶に残るだろうな、と思った。この仕事をしていて真に恐ろしいことがあるとするなら、それはおそろしいほど速い時間の経過だった。毎日、特別なことを要求されるわけでもなく、同じルート、同じ店舗に納品し続ける。もちろん配送しているパンそのものは毎日違うものだし、種類や量も日々変化しているが、変化はそれだけだ。少なくとも自分の記憶に留めておこう、と思えるものは少なく、変化が乏しいとどんどん忘れていってしまう。何かトラブルが起きたり、異常なことがあったりすると記憶には残るのだが、下手をすると一ヶ月分ぐらいの記憶がまるまるなかったりもする。要するに、何かの変化を記憶として捉えていて、それが時間の感覚につながっている。何も変化が起きなければ、時間が流れていないのと同じだ、ということなのだろう。
 自分の感覚としての時間は止まっていても、もちろんそんなことに関係なく世間は動いている。自分も、一年に一歳ずつ確実に歳をとる。営業をやっている同期は、とっくに独り立ちして、顧客を持ったり、新規に開拓をしたりしているようだ。時間の感覚が希薄だと、頭の中が靄がかかったように不透明で、ぼんやりしてくるところもあった。
 こんなことをしていていいのだろうか? 自問は何百回もした。だが、どうすることもできなかった。辞めるにしても、まだなんの経験も積んでいない。
 スピカとの出会いはどういう形であれ、記憶に残ることは間違いないだろう。あれはなんだったんだろう、と数十年後も振り返ったりするのだろうか。それとも、あまりにも奇妙すぎるので、夢のようなものだった、とこれまた記憶から消去してしまうのだろうか。
 そんなことを考えているうち、トラックは事務所近くの交差点に差し掛かった。交差点を右折し、本来ならさらに左折するところを、直進する。そのまま、空き地のようになっているところにトラックを止めた。
「ここでお別れです」
 さっきも言ったような気がするが、もう一度同じことを告げる。
「まあ、そうだね」
 スピカはあっさりと言い、ドアに手をかけた。「また会えるといいね」
 何かを言おうとしたのだが、そのままドアを開け放って、スピカは外に出た。
「駅は、あっちです。わかりますか?」
「うん、わかる。たぶん」
「じゃあ……」
 歩き出そうとするスピカに向かい、「ありがとうございました」と声をかけていた。言ってから、いや、なんだそれ、と自分で呆れた。
 スピカは一瞬笑顔を作ってから、じゃあね、と言い、歩き始めた。
 だが、妙なことが起きた。スピカは、駅だと言った方向と逆に歩き始めたのだ。
「ちょっと、スピカ!」
 僕は窓を開けて叫んだが、スピカはこちらを振り返ろうともせず、すたすたと歩いて行ってしまう。そちらは工場の方角だった。そして、すぐに角を曲がって、見えなくなってしまう。
 呆気にとられたが、どうすることもできなかった。すべては終わったのだ。
 トラックを元のルートに戻し、工場のへと向かっていった。
 事務所のそばを通過したとき、信じられない光景を目にした。先ほど別れたはずのスピカが、ジャージ姿のまま、事務所の中に入っていったのだ。

 八

 スピカが事務所の中に入っていくのを目撃しても、どうすることもできなかった。工場までの道は一方通行で、途中で引き返したり、止まったりすることもできない。工場横に隣接されているトラックバースで、回収してきた番重を戻す必要があった。幸いにも順番待ちはなく、スムーズにつけることができた。
 工場の中に入ると、積み込みのときに手伝ってくれた清水さんが番重を自動レーンに流しているところだった。
 僕が急いでトラックのシャッターを上げると、「おっ」と言いながらこちらを見た。
「間に合ったか?」
 声をかけてくるが、僕は短く返事をするだけだった。
 急いでトラックを駐車場に駐め、事務所の中に駆け込む。僕の形相に田中さんは驚いた表情になった。時刻は六時すぎで、そろそろ田中さんは帰宅の準備をする頃合いだった。
「どうした?」驚いた顔のまま、田中さんが声をかけてくる。普段、空番の回収が終わってからはトラックの中で休憩することが多く、事務所まで戻ってくることはない。
「あの……、誰か入ってこなかったですか、さっき」
「誰か?」
「そうです、部外者だと思うんですが。事務所に入っていくのが見えたので」
「え、そんな人が入ってくるはずないと思うんだけど」
 田中さんは不思議そうにしている。明け方の時間はあまり動きがないとはいえ、いろんな人が出入りするので、それに紛れ込んだのだろうか。それにしても、なぜ? 田中さんにしたところで、席を外したりすることもあり、すべての人の出入りを監視しているわけではない。
「桜木さんなら、いま帰ってきたけど」
「桜木さん?」
「あれ、今日は一緒だったんじゃ? あっちの部屋にいらっしゃると思うけど」
 桜木というのは初めて聞く名前だった。
「ありがとうございます」と短く礼を言った。田中さんのいう「あっちの部屋」とは、中谷常務の執務室のことだろう。中谷常務に何か用事があるのだろうか。
「失礼します」
 ノックをするのも忘れて、ドアを開け放った。ドアの正面に執務机があるが、いると思った中谷常務はそこにはいなかった。代わりに、スーツ姿の女性が座り、パソコンに向かっていた。僕が入ってくるのを確認すると、パソコンを叩いている手を止め、顔を上げた。
 スピカだった。
 驚いて、声も出ない。スピカと目が合ったのはほんの数秒だったと思うのだが、体感としては一分ぐらいの時間に感じられた。スピカも驚いた顔をしたが、少し口端を持ち上げて、にやりと笑った。
「なんだ、思ったよりも早かったな」
「え、どうして……」
「何を動揺している?」
 スピカはノートパソコンを畳んだ。そして、机の上で手を組む。
「自己紹介が遅れたな。昨日付けでこの会社の取締役になった、桜木だ」
「は?」
 なんの冗談かと思ったが、スピカは笑わない。何より、着ているスーツは皺ひとつなくピンとしていて、まるでずっとこの執務室にいたかのようだった。
「この営業所に新卒がドライバーとして働いていると聞いたのでな。どんな奴だろうと関心をもったわけだ。たまに抜き打ちの配送チェックを行なっていたらしいが、ここ数年は人手不足で実施されていなかったらしい。ちょうどいいと思って、田中主任に頼んで社用車を出してもらい、私が抜き打ちのチェックを行った。その後配送に同行し、勤務態度のチェックも行った。いまそのレポートをまとめていたところだよ」
「まさか……だって、ただのジャージだったから……」
「会社の制服だったら目立つから、抜き打ちチェックの意味がないだろう? かといって、スーツで行くわけにもいかないしな。案の定、チェックが行き届いていなかったからか、膨大な規則違反が見つかったよ。配送後に講習をするので、参加するように。レポートの提出も、だ」
「でも……」
「特に鍵の抜き忘れは重大な規則違反だ。トラックが盗難される恐れがあるので、本来は厳重処罰の対象となる。だが、キミも相当肝を冷やしただろうし、初回なので、特別に不問とする」とスピカは言った。「まあ、それはトラックの中でも言った通りだが」
 そういえば、と思い出した。トラックの中で会ったときも、「鍵の抜き忘れを不問にする」と言っていたのだ。てっきり、あの時は、警察に通報しないことと交換条件だと思っていたのだが……。
「まあ、そんな狐に摘まれたような顔をするな。まだ、少し時間はあるか?」
 配送しているときの口調とまるで違い、服装も違うので、まるで別人のようだった。もともと中谷常務が使っていた執務室はさほど広くはないが、応接室のように使われることが多く、小さい二人がけのソファが二台、向かい合うようにして置かれている。スピカはソファに腰掛け、向かいの席に座るように促した。わけがわからないまま、僕も席に着く。
「スピカって、どういう意味なんですか」
 いろいろと聞きたいことはあったが、最初に口から出たのはその疑問だった。スピカは薄く笑った。
「スピカというのは、私のあだ名」
「あだ名?」
「そう。本名は桜木真珠という。スピカは、あまり一般的ではないが、和名で真珠星というそうだ。私が生まれたとき、一際明るく光っていたらしい」
「僕みたいな新卒を騙して、楽しかったですか」
 スピカが声を出して笑った。笑い顔は、配送のときに見たスピカの顔そのものだった。
「楽しいに決まってるだろ。こんなに愉快なことはそうそうないよ」
「そうですか」僕はむくれた。こんなに人からバカにされた経験は、学生時代まで遡ってもそうそう経験がない。
「鍵の抜き忘れ、輪止めのし忘れで死亡事故になったりする。抜き打ちチェックのときは、なるべくこうして肝を冷やしてもらって、安全運転に努めてもらわないと」
「そうじゃないですよ。騙していたことについてです」
「私がこの会社の人間じゃない、なんて言ったか?」
「もういいです。行きますよ。時間ないんで」
「そうか」
 立ち上がると、スピカは僕の目を見た。
「まあもちろん、はじめから黙っているつもりだった。こちらの正体を隠したほうが、本音を聞けると思ったからだ。キミは青臭いところはあるが、職務は比較的忠実にこなす人物であることがわかった。もちろん、最後にパンを抜き取っておいたのも、ちゃんと追納分の検品をしているかどうかを試すためだ」
「それはどうも」
「たぶん根底が負けず嫌いなんだろうな。そこも評価に値する」
「はいはい」
「そして着任早々ではあるが、キミに辞令を出す」
「辞令?」
「そうだ。来週から現場を外れて、私の部下になってもらう。人員は、所長と調整した」
「え?」
「トラックの配送はもうそろそろいいだろ? とはいえ、一年半、よく頑張った。これからは私の部下として、仕事の基本から存分に叩き込んでやるから、そのつもりでいろ」
「急ですね」
「仕事に対する舐め腐った態度も、叩き直してやる」
「わかりましたよ」
 僕は立ち上がり、ドアから外に出ようとした。
「眠くても寝るなよ。最後まで気を抜くなよ。やり切れよ」
 振り向くと、スピカが缶コーヒーを投げてよこした。僕はそれを受け取り、出口に向かう。
 事務所の窓に目をやると、外はすっかり明るくなっていた。

黎明

執筆の狙い

作者 やひろ
168.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp

ずいぶん前に、別名義でこのサイトに何度か投稿していました。小説執筆からもしばらく離れていましたが、久々にリハビリ感覚で書いてみました。お手柔らかによろしくお願いします。

コメント

ラピス
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中盤くらいまで文学してるのに展開がラノベですね。スピカの登場(動き出し)が遅い気がします。
ざーっと読み流しただけで感想書いて、ごめんなさい。
どのジャンル指向なのか気になるところです。

やひろ
softbank060120199223.bbtec.net

ラピス様

コメントありがとうございます。ラノベのつもりはないのですが、キャラクターからそのようになってしまっている感じがします。
一応、最後でスピカが何者なのかがわかる仕様にはなっているのですが。

構想はスピカにトラックを乗っ取られるところから作り始めたのですが、前半の回想のあたりをもっと削って、スピード感を出したほうがよかったかもしれません。
ジャンルについては……自分でもよくわかりません。
読んでいただきありがとうございました。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読ませていただきました。
おもしろかったです。
それなりに文字数のある作品でしたが、先が気になってぐいぐい読むことができました。

私は女性の正体について考えながら読んでいきました(他の読者様もそうだと思います)。
いろいろなパターンを想像していたのですが、工場に向かう場面で事実上のネタバレになってしまっていたのが残念でした。
ここはもうちょっと引っ張ってもよかったかも。

>「そういえば、どうして工場の場所を知ってたんですか?」

ここで正体が分かってしまうのはもったいないですね^^;
私だったら、の話になるのですが、
真相がわかってから、主人公がそういえば工場の場所を知っているのは何となくおかしいとは思っていたのだが……みたいに回想してみるとよいかと。
で、本文中には、主人公が違和感を感じたことを匂わせる程度の文を入れておき、伏線にしておくとよかったように思いました。

物流の2024年問題が話題になっているので、実にタイムリーな作品だなと思って読ませていただきました。
トラック業界について知ることができて知的好奇心も満たせました。
職業物の作品が好きな私にとっては、大満足の作品でした。
読ませていただきありがとうございました。

やひろ
softbank060120199223.bbtec.net

神楽堂 様

コメントありがとうございます。面白いと言っていただけて、大変嬉しいです。また、ストーリーの核となる部分(スピカの正体)についても考えていただき、著者として嬉しく思います。

推敲しながら、工場のくだりで完全にバレちゃうなとは思ったんですが、自分はどちらかという読書家として察しの悪いほうなので、これぐらい匂わせておいて「え、もしかして?」と思わせ、ネタバラシになるところまでページを繰らせる狙いがあったんですが、察しの良い方には一瞬でわかっちゃったみたいですね。

>私だったら、の話になるのですが、
真相がわかってから、主人公がそういえば工場の場所を知っているのは何となくおかしいとは思っていたのだが……みたいに回想してみるとよいかと。
で、本文中には、主人公が違和感を感じたことを匂わせる程度の文を入れておき、伏線にしておくとよかったように思いました。

ここはもう一工夫必要かと思いました。手直しの参考にさせていただきます。

じつは、自分も主人公と全く同じ立場でドライバーを一年半ほどやったことがあり、背景というかディテールはほぼ事実です(もちろんスピカなどの女性は現実にはいませんが、管理職による抜き打ちチェックはありました)。なんとか配送の経験を小説に活かせないか、と思っていたんですが、ちょっとひねらないとお話にならないので、そのあたりは少し頑張りました。

ありがとうございました。

キラキラポルノ
fp83d51d4b.ap.nuro.jp

拝読しました。
面白かったです。

全体的にサクサク読めましたが、引っかかる場所が幾つかありました。
取りあえず、冒頭の黒電話の意味が分かりませんでした。たぶん着信音の設定の名前だと思うのですが、冒頭の文章で引っ掛かると印象が悪いです。
主人公が具体的に何の仕事をしているのかが、判るまでに時間が掛かるのもちょっと引っ掛かりました。アルコールチェックの段階で何らかのドライバーであることは判るので、それまでに職場がパン工場であることを示した方が良いと思います。
トラックドライバーのディティールが良かったです。実際に作業されたことがよく活きていると思います。

スピカの正体が取締役は、かなりの無理がある超展開であんまり良くないです。せめて、人事部の社員か外部委託の調査員とかの方が納得いきます。
最終的に主人公の仕事の悩みは解決しますが、この流れだと全ての悩みがドライバーであることに集約されてしまうので、車内での会話の意味が殆どなくなってしまうと思います。
スピカを通じて別の視点から自分を見詰め直すことによって精神的な成長を遂げる流れが消えてしまうのは勿体ないです。

そして、全体的にもう少しエロくしても良いと思います。

やひろ
softbank060120199223.bbtec.net

キラキラポルノ様

コメントありがとうございます。また、面白かったと言っていただけて大変嬉しいです。

>取りあえず、冒頭の黒電話の意味が分かりませんでした。たぶん着信音の設定の名前だと思うのですが、冒頭の文章で引っ掛かると印象が悪いです。

単純に、寝ているところに電話がかかってきた、という出だしです。スマホの着信音の中で印象的なものを選びました。ほかにどう書けばいいか、……ちょっと思いつきません。

>主人公が具体的に何の仕事をしているのかが、判るまでに時間が掛かるのもちょっと引っ掛かりました。アルコールチェックの段階で何らかのドライバーであることは判るので、それまでに職場がパン工場であることを示した方が良いと思います。

ここは迷いましたが、映画のようにまずはなんの説明もせずにシーンを流して、あとから説明するという演出でした。小説なので、わからない部分を読んでいただくのは負担だと思います。もうちょっと早く出してもいいかなと思います。

>トラックドライバーのディティールが良かったです。実際に作業されたことがよく活きていると思います。

ありがとうございます。いろいろ削ってはいますが、逆に細かすぎないかなと思いつつ書いてました。

>スピカの正体が取締役は、かなりの無理がある超展開であんまり良くないです。せめて、人事部の社員か外部委託の調査員とかの方が納得いきます。
最終的に主人公の仕事の悩みは解決しますが、この流れだと全ての悩みがドライバーであることに集約されてしまうので、車内での会話の意味が殆どなくなってしまうと思います。
スピカを通じて別の視点から自分を見詰め直すことによって精神的な成長を遂げる流れが消えてしまうのは勿体ないです。

スピカが取締役であることは最初から構想していたので、超展開ではないつもりです。もともと国土交通省に勤めていた官僚で、エリート中のエリートの設定です。設定としてはそうであっても、車中でいろいろ話すと素性がわかってしまうので、削った結果、結局よくわからないということになってしまいました。もうちょっと小出しにできないか考えてみます。

また、仕事の悩みが解決するのではなく、ステップアップするという意味合いです。実際、スピカのもとで働いても相当苦労すると思うので。このへんをどう出すかも考えてみます。

(今後主人公が「引き上げられる」展開が考えられることを想定しているので、取締役の必要性はあります。なぜ就任してきたのか、どうやって就任できたのか、ミッションは何かによると思いますが、ありえなくはないと思います)

>そして、全体的にもう少しエロくしても良いと思います。

これは思いがけないご指摘です。車中の雰囲気が変わってしまいそうで、うーんどうするか……(笑)、エロくするとちょっと主旨がそれちゃう感じがしますが、女性であることをもうちょっと活かしたほうがいいかもしれませんね。

いろいろとご指摘、ありがとうございました。

浮離
KD111239168250.au-net.ne.jp

>展開がラノベ

っていうのは言い得て妙で、そう感じさせられなくもない気がしてしまう根拠は違うかもしれないんですけど、“小説“っていう形式的な視点に立てばまるきり違うでもない構造的な結果のことなんじゃないのか、なんて個人的には勝手に腑に落ちたりしてしまうところだったりします。

読み進めるにあたって文章に目立った瑕疵は感じさせられないし、個人的には物語が動き出す以前の読み心地の方がよほど“小説“らしい質感に思えなくもなくて、これは書き手には失礼な言い方になってしまうかもしれないんですけど、個人的にはスピカが登場した以降は関心的にはほぼ斜め読みというか、つまりはありきたりを眺める気分には違いなかったと思ってます。それが、

>久々にリハビリ感覚で書いてみました。

といった動機としての現れとするのが書き手の言い分だとするならなおのこと、腹を立てずにお付き合いいただければと思うんですけど、そもそも面倒なキャラとして気嫌いされるばかりなので別に腹を立ててもらっても構いません。


>展開はラノベ

って、どうしてそう感じられるのか? あるいは感じさせてしまうのか。

察しの良い方はたぶんお分かりかと思うんですけど、あたしもそう思うんですよね。
このお話の“ありきたり“として割と面白くない方向へ引き連れてしまったベクトルって、たぶんスピカのはずなんですよね。
他の感想にもっとエロく、みたいなのがあったと思うんですけど、そうとはしなかった理由も根っこは同じことだと感じさせられているわけなんです個人的には。

これって例えばの話なんですけど、個人的にはスピカが何者であるか? ということにちっとも興味が引かれなかったわけなんです。
そんな読者っていますか普通。

馬鹿げた話だと思われる方が普通かもしれないんですけど、むしろ個人的にはまさにその通り、っていうことをお話させてもらっているつもりなんですけど伝わりづらいですよね。

つまり、一読者としてこのお話の一番の退屈さ、ありきたりとして物語の加速地点からむしろ潮が引くように興味が失われた理由って、

スピカ、なんかおまえ上から気取ってるか見下げてるか知らないけど、当たり前のことしか言ってねえから

ってことだと思うんですよね、あくまでも個人的には。
っていうか、“小説“っていう視座に立つならむしろ文字通り、当たり前のことのはずなんですよね。
伝わるといいんですけど。


なんで、いちいち書いて、読まなければいけないのか。
個人的には“小説“っていう目的化した視点にできるだけ掘り下げてその理由か役割のようなことを求めるなら、“当たり前以外のこと“としての手法、みたいなことをなんとなく要求してしまうところが実際のところすごく重要な気がしてるんだと思うんですよね。

正体不明の女が普通ではないシチュエーションで現れながら、そのインパクトとは裏腹に至極真っ当な言質を憚らない、だとかそれって読者への真っ当な興味として、読書の牽引力として本当にインパクトだと思えますか? 
意外性として物語世界に導くものと感じられますか。

たぶん、あたしにはそうではなかったということだと思うんですね。

どうしてそう感じてしまうのか。
簡単ですよ、スピカは語り手のために喋らされてるだけだからです。
当たり前に、そう感じさせられてしまうってことですね。
だから、その正体を知ることにこそちっとも興味を引かれなかったんだと思うんですね、個人的には。

“当たり前“って、そのままだと“小説“にとっては露骨すぎるんですよたぶん。
“下手くそ“って、そういうことを理解しない“程度“のことだと思うんですよね、個人的には。

どうして“小説“であるべきなのか。
書かれるべきなのか。
読ませたがるのか。

スピカの立ち位置っていうのは、ただの“道徳“の範疇にとどまってるだけだと思うんですよね。
読むことで思わされたり感じさせられたりするには間違いではないんですけど、こと“小説“となると個人的にはそうばかりでもなさそうだ、とつい感じさせられてしまうってことなんですけど、伝わりますか。

配送ドライバーの世界のお話は面白かったです。
“小説“として語られる景色として十分に魅力もポテンシャルも感じさせられたし文章としての読み心地も水準を満たしたものと個人的には感じさせられています。
そういった作品としての評価点をものの見事に刈り取ってしまったのが奇しくも物語のヒロインというのは皮肉なことかもしれないんですけど、勘違いしないで欲しいんですけどそれってこの作品に限ったことではなくて、むしろそういうことに気づいていない書き手って、気づける書き手より圧倒的に多いはずって個人的には当たり前に認識するところでもあるんですよね。

あたしは乱暴な感想者なので、例えば“つまんない“だとか、一括りに切り捨ててしまうので誤解されやすいんですけど、そんな折にこの作品はそういった説明にことのほか適当な、とてもわかりやすい形式に整って見えたのでむしろ機会を拝借したようなつもりでこそいたりするわけなんです。
不愉快に感じたならすみません。


簡単に言ってしまえば、スピカにまともなことなんて言わせてはいけないはずなんですよね、“小説“的な創作視点に立つなら、ということなんですけど。
道徳の教科書は道徳をそれとして“わかりやすく“提示できなければその目的を果たさないはずなんですけど、“小説“はたぶん、道徳を道徳として語らずに道徳を示す、っていう一回り面倒な表現を用いいて道徳をより道徳として、メッセージとして深める表現方法のことだと思うんです個人的には。

そういった意味において極端な言い方をしてしまえばこの作品は小説の体は成しているかもしれないけど、“小説“っていう本来の視座や挑む野心みたいなところから眺めるにはたぶん小説ではないはずと思うし、書き手はその認識に欠けたことを自覚出来ていないはずと思うんですね。
あくまでも個人的に、この作品に限った感想としてそう感じさせられるということなんですけど。



書き手には申し訳ないですけどせっかくだからちょっと脱線。

二言目には“わかりやすく“って言いたがる馬鹿小説論恥じない馬鹿多すぎ、ってあたしは散々言ってるわけなんですけど、まったくこのことなんですよね。
わかってますか、これ見てるそこの下手くそども。
おまえらっていう程度のことをすごく丁寧に話させてもらってるから書き手の不遇に礼を感じて自覚すること。

脱線終わり。



リハビリなんて呑気なこといつまでもやってられっか。

なんて、発奮する機会に捉えてもらえるなら光栄ですけど、そうでもない人がほとんどなので期待はしてません。
勝手にムカついてください。




お邪魔しました。

やひろ
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浮離様

コメント・ご指摘ありがとうございます。また、仔細に目を通していただけたようで、感謝申し上げます。

ひとつひとつお答えしていきます。

>個人的には物語が動き出す以前の読み心地の方がよほど“小説“らしい質感に思えなくもなくて、これは書き手には失礼な言い方になってしまうかもしれないんですけど、個人的にはスピカが登場した以降は関心的にはほぼ斜め読みというか、つまりはありきたりを眺める気分には違いなかったと思ってます。

読者によって、前半パートと後半パート、どちらが読んでいてダルく感じられるか、二分されているように感じるのは興味深いです。中盤でそれまでの雰囲気がガラリと変わるからでしょうか。

もともと自分の経験として下地があるところに、スピカという全くの架空の要素を追加した形で作っていった作品なので、その異質さが際立ってしまっているのかもしれません。実写の風景にアニメキャラがいるみたいな感じでしょうか。

一応、物語の着想としては、「変な女にトラックを奪われてしまう」という事件を軸に組み立てているんですが、キャラの立て方や、プロットそのものが凡庸すぎる、というのはあるかもしれません。スピカがきてからは、事件らしい事件もなく、基本的に会話だけなので。

プロットとしては「主人公とスピカが会話を通じて理解を深める」しかありません。わかりやすいイベントもラスト以外ないので、そこが退屈に感じられた要素かもしれません。

>このお話の“ありきたり“として割と面白くない方向へ引き連れてしまったベクトルって、たぶんスピカのはずなんですよね。

もともと、自分の経験を下地にしていたものの、それだけではお話にならないと考えて、フィクションとして追加した要素が、かえって小説としてはありきたりなものになってしまっているということですね。彼女だけ、あまりにも「作り物感」があるからかもしれません。

>スピカ、なんかおまえ上から気取ってるか見下げてるか知らないけど、当たり前のことしか言ってねえから
>スピカの立ち位置っていうのは、ただの“道徳“の範疇にとどまってるだけだと思うんですよね。

これは痛いですね。なぜなら、自分でもそう思っているからです。ここをなんとかするのがこの小説の最大のキモの部分で、最も苦労した点です。

初稿の段階ではスピカは完成稿よりもさらに魅力がなく、もっと説教くさくて嫌なやつで、「スピカに魅力を感じてもらえないと小説として成り立たないのでは?」と危機感を抱きながら修正していました。もっとスピカ自身の葛藤とか、経緯について書きたかったですが、くどくなるし、不自然なのでやめました。

あのラストにつなげていくためにはあまりにエキセントリックなことはできないし、かなり書くのが難しかったです。もうちょっと主人公をかき回すぐらいの人物であり、プロットでもよかったかもしれません。

>配送ドライバーの世界のお話は面白かったです。
“小説“として語られる景色として十分に魅力もポテンシャルも感じさせられたし文章としての読み心地も水準を満たしたものと個人的には感じさせられています。
そういった作品としての評価点をものの見事に刈り取ってしまったのが奇しくも物語のヒロインというのは皮肉なことかもしれないんですけど

配送ドライバーの世界だけで小説として成り立ちそうにないと思っていたんですが、やりようはあるかもしれませんね。あまり私小説的なものをあまり読んでこなかったので、そういった作品にヒントがありそうです。

>そういった意味において極端な言い方をしてしまえばこの作品は小説の体は成しているかもしれないけど、“小説“っていう本来の視座や挑む野心みたいなところから眺めるにはたぶん小説ではないはずと思うし、書き手はその認識に欠けたことを自覚出来ていないはずと思うんですね。

いえ、自覚はしてますよ。なぜ勝手に決めつけたんでしょうか。が、このプロットである以上、こうなることを自分の筆力では避けられなかったという感じですね。小説として成り立っているかどうか? 悩みつつ、実際に破綻なく面白い作品を書き上げるのは難しい。でも、「小説ではないはず」というのはちょっと言い過ぎじゃないですかね。

>リハビリなんて呑気なこといつまでもやってられっか。
なんて、発奮する機会に捉えてもらえるなら光栄ですけど、そうでもない人がほとんどなので期待はしてません。

もともと長編ばかり書いてきたので、また長編の制作に入ろうかなと思います。リハビリとしてはこれで終了です(笑)。

ありがとうございました。

パイングミ
flh2-221-171-44-160.tky.mesh.ad.jp

拝読しました。ある種のシンデレラストーリーで面白かったです。新卒の頃の悩みを抱えている主人公の等身大感はよく描かれていると思いますし、ドライバーの仕事風景もリアルで凄く興味深く読めました。文章も分かりやすくて躓くところはほとんどありませんでした。


気になった点は、物語がわりとスロースターターだったところでしょうか。リハビリ作(公募作ではないの)だからかもしれませんが、もう少し読み手の興味を引くようなキャッチ―な冒頭でも良かったかもしれません。

また、スピカのキャラは紙一重かなとも思いました。物語を動かすという意味ではいいキャラクターだとは思うのですが、主人公が作中でずっと「時間がない」と言っているので、どうにも「ひたすら邪魔をしているな…」と感じてしまうからです(チェックという立場であえてそうしているのかもしれませんが)。

別に迷惑を感じる言動でも良いのですが、一つひとつの配送先で「主人公の考えが変わるキカッケを作る」みたいな展開を分かりやすく描かれていても良い気がします。具体的には、店員との世間話のブロックみたいに、主人公の変化のシーンをそれぞれの配送先で描く感じです。

あとは、清水さんや石塚さんなどの先輩ドライバーを見て絶望するシーンがあっても良いかもしれません。「二十年後の自分の姿が想像できた…」みたいな感じです。

色々書きましたが、充分レベルが高いですし、今以上に良い作品になると思った故なのでご容赦いただければ幸いです。読めて良かったです。

やひろ
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パイングミ様

感想・ご指摘ありがとうございます!

>拝読しました。ある種のシンデレラストーリーで面白かったです。新卒の頃の悩みを抱えている主人公の等身大感はよく描かれていると思いますし、ドライバーの仕事風景もリアルで凄く興味深く読めました。文章も分かりやすくて躓くところはほとんどありませんでした。

ありがとうございます。嬉しいです。

>気になった点は、物語がわりとスロースターターだったところでしょうか。リハビリ作(公募作ではないの)だからかもしれませんが、もう少し読み手の興味を引くようなキャッチ―な冒頭でも良かったかもしれません。

もともと本作は、ドライバーの日常を描きたいというところからはじまったので、そもそも地味な題材でした。何かひとつぐらい、冒頭に事件があってもよかったかもしれません。

>また、スピカのキャラは紙一重かなとも思いました。物語を動かすという意味ではいいキャラクターだとは思うのですが、主人公が作中でずっと「時間がない」と言っているので、どうにも「ひたすら邪魔をしているな…」と感じてしまうからです(チェックという立場であえてそうしているのかもしれませんが)。

確かに、物語を動かすうえでの存在のようなので、ちょっと難しいところはあります。スピカの心理になって考えると、「そんなに思い詰めるなよ」ということなのかもしれません。主人公をリラックスさせるように心がけているのかも。大人しくしていても物語にならないので難しいところです。

>別に迷惑を感じる言動でも良いのですが、一つひとつの配送先で「主人公の考えが変わるキカッケを作る」みたいな展開を分かりやすく描かれていても良い気がします。具体的には、店員との世間話のブロックみたいに、主人公の変化のシーンをそれぞれの配送先で描く感じです。

なるほど、そういうことですね。もうちょっと味付けをしてみてもよさそうです。

>あとは、清水さんや石塚さんなどの先輩ドライバーを見て絶望するシーンがあっても良いかもしれません。「二十年後の自分の姿が想像できた…」みたいな感じです。

そうですね。ドライバーはドライバーで大事な仕事なので、あんまり否定するような書き方になると困る、というのはあるかもしれません。でも、主人公本人としては反発する、といった感じでしょうか。

>色々書きましたが、充分レベルが高いですし、今以上に良い作品になると思った故なのでご容赦いただければ幸いです。読めて良かったです。

ありがとうございました!

ぷりも
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拝読しました。
文章力があると思うのですが、実は途中離脱して、今日読み直しました。
どんな職業物でも、一般の人の目に触れない裏側を知るのは面白いのですが、その部分がかなり長いのではと思います。一日に配送が二回あるというのも、何回か繰り返し述べられてましたし。
で、スピカが登場してからストーリー性が出てきました。
最後にスピカ直属の部下になるわけですが、なんかいいコンビなので続編書いても良いのでは。
まぁこれは私自身にも当てはまることですが、長編は前半が平坦だと冒頭脱落案件になりがちなので、読者を繋ぎ止める工夫が必要だと思います。

やひろ
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ぷりも様

コメントありがとうございます。返信遅れて申し訳ありません。

>文章力があると思うのですが、実は途中離脱して、今日読み直しました。
どんな職業物でも、一般の人の目に触れない裏側を知るのは面白いのですが、その部分がかなり長いのではと思います。一日に配送が二回あるというのも、何回か繰り返し述べられてましたし。

そうですね。ここを書くのが趣旨なので、削るのは難しいですが、重複箇所は確かに削っていいのかも。あと構成として、回想シーン的なのはもっとあとのほうでもいいかなと思いました。

>で、スピカが登場してからストーリー性が出てきました。
最後にスピカ直属の部下になるわけですが、なんかいいコンビなので続編書いても良いのでは。

続編も面白そうですね。やっとキャラが立ってきたところなので、検討したいです。

ありがとうございました。

ぷりも
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お気になさらず。

読者への配慮と、書き手の譲れないもの。
この間のどこを取るかが作家の個性だと思うわけです。
私自身も何でもかんでも読者に合わせたくないというラインがあります。
なので、受け入れられるアドバイスは受け取って、譲れないところは我を通したらいいと思いますよ。
返信なくても大丈夫です。

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