恋文
君と別れてから早十年。タマも随分と大きくなった。
タマは相変わらず散歩好きだ。ただ、今日は朝から雪が降り続き、ずっと僕の横で丸まっている。僕は売り出しで買ったコーヒーを飲みながら、また君のことを考えている。
僕の夢は、タマを抱く君を車椅子にのせて、名所を巡り歩くこと。
覚えてるかい? アンドルの谷間に咲く花々を。あの華やかな舞踏会を。
僕は君を愛しつづける。この恋に終わりは無いのだから。
だめだ。恋文は本当に難しい。
もう十年も考えているのに、どう書けば良いか分からない。文学を彷徨ってみてもだめだった。やはり文学なんて、何の役にも立たないのだ。
私は名著をあさるような学生だった。小説的な恋に憧れ、文学は人を幸せにすると信じていた。
サークル仲間に女優のような美人がいた。彼女の名は加奈子。彼女は成績も優秀で、男子学生の注目の的だった。
小説に触発された私の想像力は、自分の恋物語のヒロインに彼女を選んだ。
私は容姿に自信があったから、バイトで貯めた金をはたいて服を買い、彼女を食事に誘ったのだ。
「ありがとう。嬉しいけど、その日は先約があって」
なら別の日になんて、みじめすぎて言えない。「そうなんだ。残念だなあ」と言って笑うしかなかった。
結局、彼女は私のサークル仲間と交際を始めた。先約とは彼のことだったのだ。
彼の父は名の通った福祉施設を経営していた。私の大学では学生のほとんどが医療従事者になる。つまり彼女はサラブレッドを選んだわけだ。
でも、その打算を軽蔑する気はなかったし、自分自身、深く落ち込むこともなかった。
所詮「小説的な恋」は偽物の恋。かっこばかりで、情熱なんて最初から無いのだ。
私の大学は福祉系で、介護施設などで実習することができた。
大学三年の春、難病患者の療養所での実習計画が、仲間たちの間で持ち上がった。
しかし、加奈子の彼氏は乗り気ではなかった。
「難病患者でなくても実習はできるだろ?」
「でも、いい経験になると思うわ」
加奈子がそう言えば、彼はそれ以上文句を言わなかった。この計画を最初に言い出したのは彼女だったのだ。
療養所とのアポは私が取った。大学の許可を得て、私が療養所と日程を調整をしたのだ。
大学前から電車を乗り継ぎ、寂れた駅で降りて渓谷沿いの道を歩いていると、その療養所が遠くに見えてきた。
三棟の四階建ての病棟が、人里離れた山間に建っていた。
一見すると田舎の小学校に見えなくもないが、病棟に入れば死の影を感じた。
職員の話を聞きながら重篤患者の階を歩いていると、私たちの横を車輪のついた担架が通りすぎた。
白布で覆われた「小さなもの」がのっていたが、それが何であるかは察しがついた。
「気の毒ね」という加奈子の声が、やけに冷たく感じられた。
私たちは患者の話を聞きながら、満開の桜の下で車椅子を押した。私が押したのは、やせた少女の車椅子だった。
事前に付き添いの職員から、彼女は目に障害があるが、中庭の散策を好むと聞いていた。
少女の髪についた桜の花びらを手に取り、彼女の手に握らせると、彼女はそれをずっと握りしめていた。
「して欲しいことは何でも言ってね」と話し掛けても、少女から返事はなく、私は聴覚の問題を疑った。
すると付き添いの職員が私の耳元でささやいた。
「全緘黙だから話せないのです」
「ぜんかんもく……」
職員がその珍しい症状について話し始めると、少女の握りこぶしが小刻みに震えた。
実習を終えると、職員たちに挨拶をして帰途についた。来た道を歩いていると、加奈子の彼氏が小さな小料理屋を見つけた。
「飲みながら検討会でもするか」
私は酒を飲む気分にはなれなかったから、「そうね」という加奈子の返事に驚いた。
収穫祭でもやると言うのか……
そのとき私の携帯が鳴り、出てみると先ほどの職員だった。
「あなたに車椅子を押してもらった女性が、お礼を言いたいと言っているのですが」
「そんな。お礼なんていいですよ」
「ただ、彼女がどうしてもと」
「わかりました。まだ近くにいますので、すぐに行きます」
急用を理由に飲み会を断り、施設へ引き返すことにしたが、向かう途中でふと思ったのだ。
「お礼を言う? 話すことができないのに」
職員に案内されて三階の個室に入ると、キーボードをひざにのせた少女が介護ベッドの背にもたれていた。
ベッドの横の丸椅子に腰掛けて、「お礼なんていいのに」と声をかけると、少女は目を閉じたままキーボードを叩いた。
すると、すぐ横にある液晶に言葉が映ったのだ。
「冷たい花びらに触れたとき、白い桜が見えました。嬉しかった。感謝しています」
ベッドの横に小さな本棚があった。
「彼女は本を読めるのですか?」
「お母さんが読んでいたのです。でも去年亡くなられました。時間があれば読んであげたいのですが」
立ち並ぶ単行本の中に、バルザックやスタンダールの小説があった。
職員に少女の年齢を聞くと、意外にも私と同い年だった。
「僕が読みましょうか?」と言うと、「ありがとうございます」と液晶に言葉が映った。
彼女の名は小百合。
私は週末になると療養所を訪ね、彼女に小説を読んであげた。でもいつの間にか、大学をさぼってまでも行くようになった。
奉仕は口実で、真の目的は彼女との密会だった。
彼女は小説から様々なことを学んでいたが、その思想はロマン主義ではなく、小説での経験に基づく現実主義だ。だから彼女はときに私を利用したが、それは好意の印とも受け取れるやり方だった。
小説の選択は私に任せられた。私が選べば彼女は何でも受け入れた。
砂漠を彷徨う者が水を求めるように、彼女は経験を渇望していたのだ。
彼女の心は小説世界に入り込んだ。息づかいや仕草から動揺が読み取れた。彼女は体を震わせ、涙を流すことさえあったのだ。
彼女の楽しみは小説と中庭の散策だけだったが、私には散策のほうが遥かに新鮮だった。
私が車椅子を押していると、彼女はよく手の平を前に向けた。それは止まれの合図なのだ。
だが何が起こるわけでもない。彼女は静かに風を楽しむだけだ。彼女と風を浴びていると、不思議なほど気持ちが安らぐのだ。
そう言えば、こんなこともあった。
いつものように車椅子を押していると、遠くで雷の音がして、ぱらぱらと雨が降り始めた。
私はあわてて病棟に戻ろうとしたが、小百合が止まれの合図を出した。
「早く戻らないと、ずぶ濡れになるよ」
ごろごろと音が響き、雨が本降りになっても、彼女は止まれの姿勢を崩さなかった。
彼女は空を見上げた。雨がその顔を濡らし、閉ざされた瞳から涙がこぼれた。
病棟に戻ると、私は職員たちから強い口調で注意された。
「風邪を引いたら大変です!」
ただの風邪でさえ、彼女にとっては命にかかわる病なのだ。
散々注意されて個室に戻ると、乾いた寝巻きを着せられた彼女が、ベッドの背にもたれて私を待っていた。
液晶には、「ごめんなさい。雨に打たれてみたかったのです」と言葉が映っていた。
私はまんまと利用されたわけだが、なぜかとても幸せだった。
秋が深まった頃、短編を読み終えた私たちは、紅葉を迎えた中庭を散策した。空には雲ひとつなく、爽やかな風が木の葉を散らしていた。
石畳の上で車椅子を押していると、小百合が手の平を前に向けた。
風の音しか聞こえなかったが、やがてカサカサと音が聞こえた。それは段々と近づいてきて、私たちのそばでピタリとやんだ。
「誰かいるの?」
毛玉のような子猫が木陰から顔を出した。
子猫は落ち葉をかき分けながら近づいてきて、小百合の前で鳴き始めた。すると彼女も反応した。まるで心が通じ合っているかのように。
子猫が彼女のひざに登って丸くなると、私は再び車椅子を押した。
彼女は子猫をなでながら散策を楽しみ、病棟の入り口の前に着くと、子猫は膝から飛び降りて走り去った。
個室に戻ると私は彼女に言った。
「人懐っこい子猫だね」
「お母さんがいないのです」
「なぜ分かるの?」
「触れていると分かるのです」
私たちは子猫をタマと名付けて可愛がった。
私たちは穏やかな時を過ごしていたが、仮象の世界では果敢に冒険をした。
『谷間の百合』や『赤と黒』の主人公たちを案内人にして、十八世紀のフランスを堪能したのだ。
フェリックスとモルソフ伯爵夫人の密会に同席し、彼らと一緒にアンドルの谷間で花を摘んだ。
バルザックに飽きれば、ジュリアン・ソレルと一緒に馬車に乗り、貴族たちがつどう舞踏会に参加した。
私が小百合の腰に手をそえると、彼女は私の肩に手をおき、しなやかにダンスを踊った。彼女は美しかった。マチルド・ラ・モールでさえも色あせるほどに。
ただ、長編である『赤と黒』を一日で読み終えることは出来なかった。
面会時間は午後六時まで。
続きはまた明日と言うと、小百合は私の腕をつかんだ。
「でも、もう時間が……」
つかまえる手が震えていた。彼女は必死なのだ。
「なら、特別に許可をもらってくる」
しかし面会時間の延長は厳禁なのだ。
私は外の非常階段に出る扉を開錠してから受付に行き、来庁者名簿に退出時間を書いて建物を出ると、そっと裏にまわって非常階段を上った。
私が小百合の元に戻ると、彼女はキーボードを叩いた。
「6時半から7時の間に夕食が運ばれます。食器を運ぶ音が響いたら隠れてください」
施設に忍び込むなんて、下手をすれば警察沙汰だ。彼女にそこまでの意識はなかったと思うが、規則違反であることは知っていたのだ。
それでも責める気にはなれなかった。彼女は「明日は来ない」という不安と常に戦っていたのだから。
私はベッドの下に隠れて晩飯時をやり過ごすと、彼女の枕元の明かりをつけて『赤と黒』の後半を読んだ。
雪が降っていたが、室内は暖かく、窓ガラスが曇っていた。
読み終えたときには帰る電車がなくなっていた。
「ごめんなさい」と彼女は文字を打った。
「気にしないで。駅のホームで野宿でもするから」
「この寒さで野宿なんて無理です。ボタンを押さなければ誰も来ないから、朝まで私の横で寝てください」
「それは出来ないから床で寝るよ」
「なら私の毛布を使ってください」
毛布を借りて床に横になった。小百合の温もりに包まれて眠りにつくと、また彼女との旅行が始まった。
二月の休日、『カストロの尼』という短編を朗読した。
それはスタンダールが古文書を調査して書いた恋愛小説の傑作で、16世紀イタリア屈指の貴族カンピレアーリ家の娘エレーナ・ダ・カンピレアーリと、勇敢な戦士であるジュリオ・ブランチフォルテの壮絶な恋物語である。
高貴な家柄の娘が、よりによって山賊に恋をしたのだ。
だだ山賊と言っても犯罪者ではない。それは「反対政党」や「革命勢力」という意味に近い。山賊は貧しい農民のために豪族と戦っていたのだ。
実際ジュリオは敬虔なキリスト教徒であり、勇気と教養を兼ね備えた高潔な若者だった。
しかし彼との恋を貴族である両親が許すはずもなく、エレーナは厳重に警護された修道院に幽閉されてしまう。
ジュリオはエレーナを修道院から奪還すべく一戦交えるが、鉄砲で反撃されて兵士を失い、自身も負傷して作戦は失敗に終わる。
それ以後、幽閉されているエレーナの元に、ジュリオの筆跡による「冷たい手紙」が届きはじめ、それが途絶えると、ジュリオは死んだとの知らせが届いた。
それでもエレーナはジュリオは生きていると信じ、十年以上も彼を待ち続けたのだ。
しかし三十路を過ぎたころ、エレーナはついにジュリオをあきらめ、好きでもない青年司教に操を与えてしまう。
純真な娘が十年以上も恋人を待ち続けたあげく、悲しみを肉体的快楽で癒すしかないとは、一体どんな苦行なのだ。私は読んでいて泣きそうになった。
しかし不幸はそれで終わらなかった。ある日エレーナは、ジュリオが生きており、再会を待ち望んでいると知らされるのだ。
ジュリオからの冷たい手紙や、彼の訃報は、すべてエレーナの母による術策だった。頭の切れる母ヴィットリアは、恋を断念させるため、娘のまわりを嘘でぬり固めたのだ。
エレーナは恋人と再会できるのに、それを望まなかった。彼女は短剣で心臓を貫いて、死んでしまうのだ。
私は小百合に言った。
「やはり恋は盲目なんだ」
「いいえ。恋人たちは真実を見ている」
「真実を見てるのに、なぜ不幸になるの?」
「恋は悲しくて愛しい真実だから」
彼女は美しいものを「美しい」と表現し、悲しいものを「愛しい」と表現した。
盲目でも彼女は真実をとらえていたし、死に裏打ちされた洞察は、哲人をも凌駕していたに違いない。
卒業が近づくにつれて忙しくなり、会うことができなくなった。それでも彼女のことが常に頭の中にあった。寝ても覚めても彼女のことばかり考えていたのだ。
なんとか卒論を書き終えて提出すると、その足で彼女に会いにゆき告白をした。
「好きな人がいるんだ」
「私にもいる」
私はその言葉に動揺した。
会えない間ずっと恋心に悩まされ、彼女の横で卒論を書くことさえ考えたのだ。
私は彼女に問いただした。
「この施設の人?」
「いいえ」
「なら誰なの!」と声を荒らげると、「あなたなのよ。分からないの?」と液晶に言葉が映った。
私は慌てた。文豪の言葉を借りるなんて馬鹿げた真似はできない。そんなものは彼女に通用しない。私は自分の言葉で語らねばならない。しかし私はそれを持ち合わせてはいない。
「愛してくれる?」と彼女が文字を打つと、私はその手を奪って握りしめ、握り続けた。
私の手は震えていたが、彼女は手をゆだねていた。その手の甲に唇を押しつけると、閉ざされた瞳から涙がこぼれ落ちた。
卒業式が終わると、その足で小百合の元へ急いだ。帰郷はしない。ずっとそばにいると早く伝えたかった。
施設の玄関を通りぬけ、早足で廊下を歩いていると、何かが横を通りすぎたような気がした。
振り返ると、裏口から一台の担架が運び出されていた。
階段を駆けあがり、息を切らして彼女の部屋に飛び込むと、布切れをつないだ紐のような物が、ベッドの手すりにぶら下がっていた。
その下にキーボードが落ちていて、キーを叩くと液晶に言葉が映った。
「文字を打つことさえ辛くなってきました。もうすぐ私はチューブに繋がれて、息だけをして生きることになります。もう一度風を浴びたい。雨に打たれてみたい。タマを膝にのせて、あなたに車椅子を押してもらって、一度でいいから旅行をしてみたかった。でも、あなたのお荷物になってまで生きたくはありません。さようなら。あなたがいたから幸せでした。小百合」
一瞬なにが起こったか分からなかった。大きな叫び声が聞こえたが、自分の声だと気づいたのは少ししてからだった。
私は彼女の言葉の下に、「君を愛し続ける」と言葉を足して部屋を後にした。
病棟を出て、桜につつまれた中庭を歩いていると、タマが木陰から私を見ていた。
「タマ。しばらく僕と暮らそう」
私が石畳に膝をつくと、タマは身をすり寄せて、悲しげに鳴いた。
あれから十年が過ぎ、タマも随分と大きくなった。
タマは相変わらず散歩好きだ。ただ、今日は朝から雪が降り続き、ずっと私の横で丸まっている。私は売り出しで買ったコーヒーを飲みながら、また彼女のことを考えている。
ぼんやりと雪を眺めていたら、ふと恋文の文末を思いついた。
悲しみの谷間にさく百合の花。君に愛を捧げ続ける。この恋に終わりは無いのだから。
おわり
執筆の狙い
約6000字の推敲作品です。
よろしくお願いします。
アドバイスをしてくれた、神楽堂様、西山鷹志様、ののあドール様、その他の方々、本当にありがとうございました。