作家でごはん!鍛練場

選別

 アラームの音で目が覚めると、一瞬の混乱の後、脳はすぐに覚醒した。安物の遮光カーテンは思っていた以上に効果がなく、朝は朝らしく白かった。開くとそこには変わらぬ水平線が見える。船は間違いなく進んでいるはずだが、ここから見える景色は昨日と何ら変わりなかった。
 今日はいつもよりも一時間半早い起床だった。これは、選別の日は普段より早く起きた方がいいという説に従ってのことだった。誰が言い出したことなのか、信憑性があるのかどうかも分からないが、それくらいのことであれば説に従う方が無難だと思ったのだ。
 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して飲む。口の中の粘りは多少取れたが、苦味のようなものが喉に残った。それは水のせいではない。やはり選別の日の朝には独特の緊張感がある。私は毎朝コーヒーを淹れて飲むのだが、今日は止めておいた。
 部屋を出て共用の手洗い場へ行く。ステンレスで作られた昔ながらの手洗い場では、まだ早い時間にもかかわらず、すでに二人の男が顔を洗っていた。彼等は夜勤明けなのか、それとも私と同様に今日選別を受けることになっている者なのか、二人とも知らない顔だったので尋ねることはなかった。
 私は部屋から持ってきた剃刀で髭を剃った。蛇口にはネットに入れられたピンク色の石鹸がそれぞれ掛かっている。私はそれを両手で包み擦った。相変わらず泡立ちが悪い。腕が疲れるほど擦ってやっと顔を洗えるくらいの量の泡ができた。
 顔を洗ってしまってからハンドタオルを部屋に忘れたことに気付いた。些細なことだが朝からいきなりつまづいてしまったことを私は暗く思った。逆に、悪いことが先に出たと考えることもできるのだが、そもそもそんな考えに正解など無い。選別前はやはり物事に過敏になってしまう。仕方がないので着ていたシャツの裾で濡れた顔を拭いた。顔を上げると先程までいた二人の男達はもういなくなっていた。
 部屋に戻ってシャツを着替え、時計を見ると六時五分前だった。選別は十時からだ。まだあと四時間もある。いや、その前に九時からの一時間だけは通常通り業務に入らなければならないのだ。なぜ選別前のデリケートな時間に業務に入らなければならないのか、私には理解ができなかった。いつも通りのパフォーマンスができないことは明白で、そんな人間が業務に入ることは船にとって危険なことではないかと私は思う。
 しかし、そういえば選別前の一時間は特に注意深く監査部から見られているから注意した方がいいという説も聞いたことがある。選別にまつわる他の説と同様にこれも信憑性の無い話だが、あながち無くも無い話かもしれないと思った。確かに精神力を試すという意味では打ってつけの状況ではある。
 選別前は朝食を抜いた方がいいという説もある。なので少し迷ったが、けっきょく私は朝食を食べに行くことにした。説だ説だと言っていたら何もできなくなってしまう。ある程度の取捨選択は必要だと思った。それに腹も減っていた。
 部屋を出て食堂を目指す。食堂は三階の船首近くで、私の部屋は四階の船尾手前だからそれなりに遠い。私は船に乗ってからずっとこの部屋に住んでいる。希望をすれば他の空いている部屋に移ることも可能なのだが、別にそこまでの不自由は感じていなかった。船首近くの廊下は海に面している。今朝の海は穏やかで、風が気持ち良かった。昨晩は早くから眠っていたので気付かなかったのだが、夜のうちに雨が降ったようで、床が少し濡れていた。いつもこの廊下を清掃している清掃員が吸水モップで床を掃除していた。
 食堂は空いていた。普段私が朝食を取るのは勤務開始時間前のピークの時間帯なので、食堂はいつも満席状態だった。しかし今はまだ数えられるくらいしか人がいなかった。一人で食べている人がほとんどだが、中には数人で集まって食べている人もいる。みんなで携帯ゲームをして笑っている男達はおそらくプリント部か封入部の夜勤明けだろう。明らかに今さっき起床した人間のテンションではなかった。
 私は積まれたトレーの一番上を取りカウンターへ向かった。普段は五~十分は並ぶところを待ち時間無しで進めるのは少し気持ちが良かった。コック服を着た男がカウンターの中から、和食か? 洋食か? と私に尋ねた。最近は毎日この男がここにいる。真っ白なコック服に身を包んでいるにもかかわらず、どこか小汚い印象を覚える男だった。ちょっと前までは別の男が同じように毎日いたのだが、この男が来てからは一度も見ていない。もしかするとあの男は選別の結果、別の職場へ異動したのかもしれない。失礼ながら、あの男もコックらしい人間には見えなかった。ここの食堂の料理は基本的にはレトルト食材の盛り付けなので、専門的な技能が無い人間にでも務まるのだ。
 昨日の朝は和食だったので、今朝は洋食にした。朝食はこの二択しかない。コック服の男は頷くと、積まれたクロワッサンの山から二つをプラスチックのプレートの一番広いスペースに置き、残りのスペースにベーコンエッグとレタスのサラダを手早く盛り付けた。私はICカードの船員証を読取機にかざす。支払いは都度精算ではなく天引き制になっていた。コック服の男が、本来洋食ならばコーンスープしか選べないのだが、今なら特別に味噌汁に変えてやってもいいぞ、と言った。しかし私はコーンスープのままで構わないとそれを断った。味噌汁が特に好きだという人間ではない限り、洋食メニューであれば普通はコーンスープを選ぶだろうと私は思う。男が残念な気持ちを隠すような顔をしたことには気付いていたが、それ以上何も言うことは無かった。
 窓際の、外の景色がよく見える席に座った。こんなにゆっくりと朝食を食べるのはいつぶりだろうか。普段は席を待っている人もいるので、どうしてもせかせかとした食事になってしまっていた。クロワッサンもベーコンエッグもレタスのサラダも、一定の周期で朝食に出てくるので特別な感情は何も湧かなかった。
 遠くの空を数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。流れる雲の間を縫って彼等は飛ぶ。その場所がどのくらい遠いところなのか私には分からない。ただ、そこにも世界があることをあの鳥達は図らずとも証明していた。


 指定された会議室の前に集合時間の五分前に着くと、すでに男と女が一人ずついた。二人とも顔に見覚えはないが、状況から見て彼等も私と同様にこれから選別を受ける船員だと考えて間違いないだろう。二人とも壁にもたれかかることもなく、真っ直ぐに背筋を伸ばして正面の壁を見つめて立っていた。見た感じ私とあまり変わらない年頃に見えた。おそらくこの二人も私と同様のオペレーターランクの船員なのだろうと思った。私も黙って二人の横に並んで立った。
 その一分後くらいにもう一人男がやってきた。この男の顔には見覚えがあった。確か印刷機を回すプリント部の男だ。私よりもだいぶ歳上だと思うのだが、ここにいるということは彼もまだオペレーターランクなのだろうか。それとも別ランクの人間と一緒に選別を受けることもあるのだろうか。
 指定された集合時間から一分を過ぎるか過ぎないかくらいのタイミングでドアが開いた。男が一人出てきて、私達四人に中に入るよう指示をした。
 中に入ると椅子が四つ並べられており、私達は奥から女、男、私、プリント部の男の順でそれぞれ椅子の前に立った。向かいには真っ白いテーブルクロスが敷かれた長机があり、女と男がそこに一人ずつ座っていた。無機質な部屋だった。ここにいる人間が座るために用意された物以外は、部屋の隅に観葉植物が一つ置いてあるだけだった。それ以外は何も無かった。
 私達を招き入れた男が一番端の空いていた席に座り、それで長机の三つの席が埋まった。彼等は試験官と呼ばれている監査部の幹部ランクの人間である。これは選別にまつわる数少ない正確な情報だった。船内のランクは上から役員、幹部、班長、リーダー、オペレーターで分けられている。オペレーターである私にとって、幹部ランクの人間など普段は会うこともない雲の上の存在だった。試験官は幹部の中でもまた特殊なポジションであり、三人とも一目見ただけで優秀な人間なのだということが分かった。一番左に座る男は五十代後半か六十代前半くらいに見える。白髪混じりの髪、左頬に親指くらいの大きさのあざがあった。真ん中に座る女は年齢は掴めなかったが、少し時代遅れに思えるスーツを着ていた。長い髪を後ろで一つ括りにして、口紅は赤とピンクのちょうど真ん中くらいの色だった。一番右の私達を招き入れた男はまだ若かった。試験官としてこの場にいるということは幹部ランクなのは間違いないので、さすがに三十代ではないと思うのだが、そう言われても頷けるくらいに若く見えた。実際は四十代前半くらいだろうか? だとすれば幹部としては異例の若さだ。ジェルで固められた黒髪は綺麗なオールバックになっており、カッターシャツは眩しいくらいに白い。袖元には銀のカフスが光っていた。三人とも笑顔は無く、権威のある人間特有のじめっとした威圧感を纏っていた。
 唾を飲み込むと、水風船一個分くらいの重みが身体の中に落ちてきたように思えた。緊張しているのだ。これ以上唾を飲み込んだら吐いてしまうかもしれないと思った。
「どうぞ座ってください」
 試験官の女に言われ、私達はそれぞれの椅子に座った。動きを与えられたことで一瞬緊張が和らいだが、それでも姿勢を崩すことはない。当然背中を椅子に預ける者など一人もいなかった。
 試験官の三人は私達を見て手元の資料を並び替えていた。おそらく座っている順に並び替えているのだろう。内容までは見えないが、それぞれがA4サイズの資料を四枚ずつ持っているので、おそらく一枚の資料に一人ずつの情報がまとめられているのだろう。私は軽く握った手の中に汗をかいていた。そして右端の試験官が話し始めた。
「では、これより選別を始めます。あなた達は船の規定に基づいて監査を行った中で、それぞれ一定の要件を満たしていると判断されたため、今回選別対象者となりました。これから私達からいくつかの質問を投げかけます。それに対して各々の考え、意見、思想を回答してください」
 私が選別を受けるのは今回で三回目だが、冒頭の試験官の言葉はいつも同じだった。私の隣に座る男が、よろしくお願いしますと声を張ったので、つられて選別対象者全員が同じように声を張った。
「あなた達は、どのようなところに業務を遂行することにより得られる喜びがあると考えますか?」
 左端の試験官が私達に投げかけ、促すような目で左端に座る女を見た。奥から座っている順に答えろという意味のようだった。前の二回は手を挙げた者から順に回答していたのだが、回答の順番は試験官によって変えられるようだった。左端に座る女は不意に自分が最初の回答をしなければならなくなったことに戸惑ったのか、反射的にあっ、はいと弱々しい声を漏らした。彼女も相当緊張しているようだった。
「業務を遂行することで自らの居場所が作り出され、社会の中で自分という存在を位置付けることができるところに喜びがあると私は考えます」
 女が声を張って回答した。試験官は三人とも表情を変えずに頷くだけで、彼女の回答に対してどのような感想を持ったのかは掴めなかった。次の男の回答は言葉こそ少し変えてはいたが、内容的には最初の女と同じようなものだった。次は私が回答をする番である。二人同じような回答が続いたので、違う角度からの回答に変えた方が試験官の印象に残るだろうと私は考えた。
「日々繰り返すことで自分自身の成長を確かに感じられるところに喜びがあると私は考えます」
 予想はしていたが、試験官達は私の回答に対しても先の二人の時と同じような反応だった。しかし自分としては先の二人とは違う回答を上手く言えたという感触があった。
「報酬を受け取る瞬間にのみ、喜びがあると私は考えます」
 プリント部の男の回答に対しても試験官は表情を変えなかったが、この場にいる誰もがそれを安直過ぎる回答だと思っただろう。捻りが無さすぎる。それに報酬という言葉は下品で、選別の場には相応しくないように思えた。プリント部の男がこの年齢でまだここにいる理由が何となく分かったような気がした。彼はおそらく右端の試験官よりも歳上だと思われる。そう考えると急にこの男の人生を不憫に感じた。しかし選別の場に情けは無い。プリント部の男が落ちてくれて、その分私が選ばれる可能性が上がるのであれば、それはありがたいことだと思った。
「あなた達が日々の業務で大切にしていることは何ですか?」
 この質問に対して、私はあえて最初の女の回答に少し言葉を付けたすような形で回答をした。間の男が少し違った回答だったのを受けてのことだった。選別において最も大事なのは回答のバランスだと言われている。そういう意味では常に最初の回答を求められる女は運が悪かった。プリント部の男はこの質問に対しても安直な回答をしていた。質問は前回は五問、その前は四問だった。今回は何問なのか分からないが、今のところ順調に回答できていると思った。
「あなた達はバナナは好きですか? 好きか、嫌いか、またその理由を教えてください」
 試験官の女からの質問だった。彼女は表情を崩さずに言った。前回もこのような意表を突いた質問があった。
「食物繊維やミネラル、ビタミンがバランスよく含まれており、身体に良いので私は好きです。よく朝食に食べます」
「ビタミンB6を上手に取り入れられ、効率よくアンチエイジングができるので好きです。私は夜に食べることが多いです」
 前の二人が予想以上に上手く回答をした。それで私は混乱した。バナナに関しての有益な情報が何も浮かんで来ない。女試験官が私を見ていた。感情の無い目だった。しかし口元は少し笑んでいた。私の焦りを読み取っているようだった。私は何とか回答をしたものの、それはどう考えても上手い回答ではなかった。明らかな失敗だった。
 続くプリント部の男はまた安直な回答をしていた。横を盗み見ると、先に答えた女と男の顔には確かな自信が見えた。たった一問で大きく印象が変わる。やられたと思った。しかし、まだ質問はいくつか残っているはずだ。ここから取り返せばいいと思い、私は目立たないように深呼吸をした。握りしめた掌は汗でべっとり濡れていた。
 試験官が次の質問を投げかけた。


 お電話ありがとうございます、本日はどのようなご用件でしょうか、と私が言い切る前に、相談者の女は食い気味で、この前なんですけど、と話し始めた。決して若くはない声だった。怒っているようだった。
「この前なんですけど、よくある郊外型の、ああいうのは何と言うのでしょうね。量販店? ディスカウントストア? とにかく、馬鹿でかくて、様々な種類のものが売っているお店ですよ、ほら、あなたも何となくイメージはできているのでしょう? 私だって、名前は分かっているんですけどね。ちょっとそれを口に出すのも嫌になるようなことがあって、今からその話をするんですけど。あれは先週の、確か水曜日ですね。週の中頃で、そう、水曜日です。間違いありません。火曜日の夜に私が毎週観ているドラマを見逃して、それを翌日に後追い配信で観ながら昼食を食べた後にあの店に行ったことをはっきりと覚えています。あの日、私は息子が誕生日に欲しいと言っていたゲームソフトを買いに行ったんです。そのゲームソフトは人気シリーズの続編で、別にあの店でなくてもどこでも買えるのですが、あの店で買ったら付いてくる限定の特典が割と趣味の良いマグカップだったので、あの店で買うことにしたのです。私があの店に行ったのは今回が初めてでした。元々、何となく不潔なイメージを持っていたので必要に迫られない限りわざわざ行こうという気持ちになりませんでした。あぁ、もちろんこれは偏見ですよ。何かが起きる前の私の一方的なイメージです。そういう偏見が物事の本当の姿を歪曲させてしまうことがあるのは私だって分かっています。だけど今回のことはそういうレベルの話ではなかったんです。だからこうして電話をかけることにしたんです」
 私はなるべく相談者を刺激しないよう、寄り添うようなトーンで、承知いたしました、お聞かせいただけますでしょうかと言った。どういうタイプの相談者にはどういう話し方をすべきか、全てマニュアルに書いてある。私はそれに従った応対を心がけていた。
「ゲームソフトはすぐに見つかりました。人気商品だったのでしょうね。目立つところに置いてありました。でもレジの位置が分からなかったんです。なんせ店内は広くて、あの店、私が行った店舗は全部で三階も売り場のフロアがあるんですよ。さらに四階と五階は駐車場で、それなのに一つ一つのフロアの広さもとてつもないんです。相当歩きましたよ。まさに化け物だと思いました。自分は化け物に飲み込まれたのだと。そう考えたら店内に山のように積まれたケバケバしい色をした海外のお菓子とか、カーワックスとか、いやらしくて安っぽいテラテラした洋服だとか、そんな訳の分からないもの達は、化け物に飲まれたまま消化されない沈殿物のように思えてきました。あ、すみません。話の本筋から脱線していましたね。それに、消化されずに残ったものを沈殿物と呼んでいいのか、正直言って私には分かりません。が、他に合う言葉が見つからず使ってしまいました。それからしばらく探して、やっとレジを見つけたんです。でも誰もいなかった。レジがあって店員がいない時は、普通はcloseとか準備中とかそういうことが書かれたプレートが立ててあると思うのですが、そういうものは何もありませんでした。でも別にそこに対しては怒っていないんです。問題はその後です。私は他のレジを探して店内をさらに歩きました。するとフロアの端、おそらく中古品なのだと思いますが、少し傷の付いた腕時計が大量に陳列された棚の前にレジを見つけました。中には女が二人いました。どちらも私より全然若い、とは言っても三十手前くらいでしょうか、もう若者とは言えないくらいの年齢でした。派手な化粧をしていて、二人ともあの店のイメージキャラクターが書かれたエプロンを付けていたので店員だと分かったのですが、それが無かったら私は多分あの二人のことを店員だとは思わなかったでしょう。そして二人は双子ではないかと思えるくらいにそっくりでした。ただ、本当の血縁者ではないだろうと何故か私は確信めいてそう思いました。彼女達はガムをくちゃくちゃと噛んで、客である私が近づいても止めなかった。私は彼女達にこのゲームソフトを買いたいんですと言いました。すると一人の女が、あ、そうなんですか? とまるで他人事のように私に言いました。こいつは何を言っているのだろう、というような目をしていました。おかしな話だとは思いませんか? 私はレジに買いたい商品を持って行っただけなんですよ。そんな目で見られる筋合いはありません」
 その通りだと思います、と私は言った。話の脈絡は分からないが、私の隣で別の電話対応をしていたオペレーターもその通りだと思います、と同じようなタイミングで同じことを言っていた。
「もう一人の女がここのレジは化粧品と時計の専用なのであっちにあるレジに行ってくださいと言いました。女が指を差した方向からして私が先程行ったレジのことを言っているのは間違いありませんでした。この女にいたっては私に対して嫌悪感を剥き出しにしてきました。それで、さすがに私もカチンときました。あっちのレジにはさっき行きましたが誰もいませんでした、と女にはっきりと言いました。彼女達は二人ともそんなはずはないと私に言いました。一人は馬鹿にしたような笑みを浮かべていました。しかし誰もいなかったのは事実です。私は嘘などついていません。確かにいなかったと、強い口調で言い返しました。すると笑っていた女の顔から笑みが消え、首から下げていた携帯電話でどこかに電話をかけました。女が、お前今どこ? と厳しい口調で言ったと思ったら、すぐに向こうの方からまだ十代くらいの若い男の子の店員が走ってきました。男の子は笑顔ですみませんと謝りましたが、二人の女の顔に笑みは無く、電話をかけた方の女がレジ横に置いてあった重そうなジッポを男の子に投げつけました。ジッポは彼の肩に当たりました。すごく痛そうでした。もし頭に当たっていたら大怪我をしたかもしれない。女はまた次のジッポを彼に投げようとしました。私はさすがにまずいと思って彼女を止めようとしたのですが、逆にそれを男の子に止められました。彼は、いいんです、僕が品出しで少し持ち場を離れてしまっていたので、僕が悪いんで、いいです、と笑顔で私に言いました。彼は一人の女に店のバックヤードに連れて行かれました。残った女は仕方がないという感じで溜息をつき、特別にここのレジでそのゲームソフトの精算をする、と言いました。今回だけだと二度も念を押されました。それで私は会計を済ませて家に帰りました。あなた、この話を聞いてどう思いますか?」
 私は、その女達の接客態度は最悪であり、根本から接客対応の研修をやり直すべきだと思いますと言った。しかしそれに対しての女の反応はあまり良くなかった。若干の苛立ちを含んだ声でまた話し始めた。
「接客態度が最悪なのはもちろんそうなのですが、それはもう私があの店に行かなければ終わりにできる話です。これから他の誰かがまたあの女達の接客態度で嫌な気持ちになろうと、それはその人とあの女達の間の話であって、私が気にすることではありません。考えてみてください。一番の問題は接客態度ではなく、そこに虐めがあるということではないですか? 彼女達は間違いなくあの男の子を虐めています。それも慢性的にです。あの僅かな時間だけでもそれが分かりました。こんな卑劣で汚い行為が許されていいと思いますか? ねぇ、あなた、私は何もあの店の接客態度を咎めるためにわざわざこんな電話をかけたわけじゃなんですよ。虐めという絶対的な悪を許したくないから電話をかけたんです」
 私は、申し訳ございません、虐めは絶対的な悪であり、それを許せない気持ちは私も痛いくらい分かりますと伝えた。それを訴えかけることはとても勇気のある行動だと、称賛もした。それからまた少し話を聞いて、けっきょく通話時間十二分で終話した。通常、電話対応は五分での終話が理想とされている。今の相談者は熱量が高かったのである程度は仕方がないのだが、それでも大幅な時間オーバーには変わりない。女が話していたあの店というのがどの店なのか、けっきょく最後まで分からなかった。
 今の相談者についての応対記録をシステムに入力していると、メールが新たに数件来ていることに気付いた。未開封状態になっているので、おそらくまだ誰も対応していない。私は受信から一番時間が経っているメールを開いた。
『お世話になります。私には今年八十になる祖父がいます。幼い頃からよく遊んでもらい、二人だけで登山をしたこともあります。あの年代の人にしては背も高く、本当に元気なお爺ちゃんでした。しかしここ数年で急速に認知症が進んでしまっているようです。それは日々進行しており、週に一度様子を見に行っている母親曰く、今はもう私のことも忘れてしまっているだろうとのことでした(実の娘である自分のことすら怪しいと言っていました)。祖父は身体もだいぶ弱ってきているようで、現在は介護型の老人ホームに入っています。私自身、学校を卒業して働くようになり忙しくなったということもありますが、そのような状態になってから一度も祖父に会いに行っていません。人によってはそれを冷たいと言う人もいます。しかし私は、私のことを忘れてしまった大切な人に対して、正直言ってどう接していいのかが分からないのです。もちろん怖くもあります。そんなことを思っている間にも時間はどんどん過ぎていきます。祖父に会いに行かないことは間違ったことなのでしょうか。ご意見をいただければと思います』
 私はすぐに返信ボタンを押してキーボードを打ち始める。
『お世話になります。お祖父様の件、心中お察しいたします。大切な人が自分のことを忘れてしまうというのは確かに怖いことです。それが現実に起こってしまっていることだと、頭では分かってはいても認めたくない気持ちは分かります。私はそここそがあなたがお祖父様に会いに行くことを避ける一番の理由なのだと考えます。あなたは変わってしまったお祖父様を認めたくないのだと思います。実際に目にしない限り、それはあくまでただの言葉であり、想像の域を超えません。理由は分かりませんが、お母様があなたに嘘をついている可能性も完全には否定できないはずです。なぜならあなたはまだそれを自分の目で確かめてはいないからです(お母様に対して失礼な言い方になってしまっていたら申し訳ございません)。実際に会って事実を確認してしまったらもう逃げ場はありません。あなたはそれを受け入れるしかなくなってしまいます。つまりはそれが怖いのだと思います。それは別に間違ったことではありません。しかし私は、それでもあなたはやはりお祖父様に会うべきだと思います。例えお祖父様があなたを忘れていようと、このまま会わなければあなたは必ず後悔します。お祖父様のお歳もいただいたメールにありました。時間は無限ではありません。深く考えず、まず会ってみた方がいいのではないかと私は思います。考えるのはそれからでも遅くはないです。最後にもう一度、迷うことは間違ったことではありません。大切なのはこれからです。また何かございましたら、いつでもメールをお待ちしております』
 私は自分の打ったメールを二度読み直してから送信ボタンを押した。前に文面チェックを怠ったオペレーターが誤字だらけのメールをそのまま相談者に送ってしまいクレームになったことがあり、それからこの二度読みチェックが作業工程に追加された。
 メール対応した相談者の記録をシステムに入力していると、隣のオペレーターが「はい、窓のサッシのパッキンですね」と言っているのが聞こえた。彼は、ええ、ええ、と相槌を打った後、困ったような声で「それは確かに不良品の可能性がありますね」と言っていた。住宅関係の問い合わせなのだろうと思った。
 私の所属する受付部には毎日様々な問い合わせが寄せられる。受付部は船の中でもプリント部、封入部に次ぐ規模の部署で、部署内でさらに三つの班に分かれる。一つの班は班長を含めてだいたい十人前後で構成されているので、部署全体では約三十人ほどの船員が所属していることになる。問い合わせは電話とメールで来て、その内容は相談者によって様々だった。私達は自社の製品に対しての問い合わせ対応を行っているわけではない。毎日様々な相談者から寄せられる問い合わせに対して、ただ話を聞いて応対をする。それが私達の業務だった。
 私は船に乗ってからずっと今の受付部に所属していた。船に乗ってから何年が経ったのかは分からない。私は学校を卒業してすぐに船に乗った。でもあれが何年前のことなのかが分からない。毎日同じ業務を繰り返していると、だんだん日付の感覚がなくなってくる。暑かったり寒かったり、かろうじて季節感はあるのだが、別に今が夏だろうと冬だろうとやることは変わらないのだし、変わらず海の上を進み続ける船の中で季節に対して特別な意味を見出すことはできなかった。
 十七時のチャイムが鳴り、業務終了時間となった。私は今日の応対記録をまとめてシステム上で班長に送り、パソコンの電源を落とした。隣に座っていたオペレーターがお疲れ様と私に声をかけて部屋を出て行った。私も彼にお疲れ様と返す。彼とは毎日顔を合わせるが、それ以外の言葉を交わしたことはなかった。


 昼休みの食堂で一人昼食を食べていると同じ班の田丸さんが来た。
 前いいか? と聞かれ、どうぞと答えた。田丸さんは私よりも前から班にいる先輩だった。誰とでも気さくに話せる性格で、業務以外でも班の他のメンバーと積極的にコミュニケーションを取っていた。そういう人はこの船には少ない。基本的には業務以外でのコミュニケーションを避けたがる人が多かった。私にしても業務以外でこうやって話をするのは田丸さんくらいだった。
 私と田丸さんは同じBプレートを食べていた。今日のメニューは鯖の味噌煮ときんぴらごぼう、豆腐のサラダにご飯と味噌汁だった。もちろんいつもの男が盛り付けていた。昼食のランチプレートにはAプレートとBプレートがあり、Aプレートの方が少し豪華で値段が高い。私はほとんどいつもBプレートを選んでいた。他にうどんとカレーライスもあるにはあるが、あまり評判が良くなかった。
「選別はどうだった?」
 田丸さんは鯖の味噌煮を頬張りながら聞いた。
「ダメでした」
「ダメって? 変動無しだったってこと?」
 私は頷いた。昨日、正式に班長から書面で「変動無し」として選別の結果通知を受け取っていた。田丸さんは、そうかぁ、と言って味噌汁をすすった。
 やはりあの三問目の回答が良くなかった。あのバナナの質問に対して上手く答えられなかったところからリズムが崩れ、その後の四問目と五問目も上手く答えることができなかった。ダメだろうとは薄々思っていた。だから通知を受けた時もそこまで大きな落胆はなかった。
「変動無しだからって、必ずしもダメだってわけじゃないぜ」
 田丸さんは私を箸で指して言った。
「そうなんですか?」
「変動無しっていうのは、つまりは変わらなくてそのままでいいって意味だからな。今の班の今のポジションが合ってると判断されたから変動無しってこともある。ちょっとポジティブに考えてみろよ」
「でもけっきょくは選ばれなかったということじゃないですか」
 田丸さんは私を慰めようとしてそんなことを言っているのだと思った。選ばれた船員には「変動無し」ではなく「選出」の通知が来る。「選出」こそが選別における絶対的な成功ではないのか。
「選ばれることが必ず良いことだなんて誰が決めた? 知ってるか? 選別で選ばれて降格した奴もいるって話だぜ」
「本当ですか?」私は驚いた。
「あくまで説の一つだよ。でもそういう奴を見たという奴を知っている奴がいたよ」
 そう言って田丸さんは笑った。選別に対して出回っている説について、いったいどのくらいのものが本当なのだろうか。しかし今の説が本当だとすると、選別を受けること自体にもリスクを伴なうことになる。それはあまり考えたくない話だった。
 ちょっと甲板行こうぜ、と言われ、田丸さんも昼食を食べ終わっていることに気付いた。田丸さんは食べるのが早い。私達はプレートと皿を返却カウンターに返し食堂を出た。階段を上り甲板まで出ると、外は風もなく穏やかな天気だった。かもめの鳴き声が聞こえたような気がして空を見上げたが、その姿を見つけることはできなかった。昼休みなので多くの船員が甲板に出ていた。
 私が甲板の前の方に行こうとすると、おい、そっちじゃないよ、と田丸さんは反対の方向を指差した。連れられて行ったのは甲板のほとんど一番後ろにある電圧室の階段下の少し隠れた場所だった。男が一人座り込んで煙草を吸っていた。田丸さんもポケットから煙草を取り出して火をつけた。田丸さんが煙草を吸うのを見るのは初めてだったので少し驚いた。
「煙草吸うんですね」
「まぁ、ストレス解消法の一つだよ。ずっと止めてたんだけど最近また始めた」
 しかし喫煙は船の規定で禁止されている行為だった。さすがに処分を受けるまでのことはないと思うが、厳重注意にはなるだろう。こんな隠れた喫煙所があるなんて私は知らなかった。久しぶりに煙草の匂いを嗅いだ。そういえばこんな匂いだったなと少し懐かしい気持ちになった。私も学校に通っている頃に付き合いで何度か吸ったことがある。
 先に煙草を吸っていた男が立ち上がり、慣れた手つきで階段にかけてあったスプレー型の消臭剤を自分の身体に吹きかけた。ここにはここのルールがあるのだなと思った。
「煙草なんてどこで手に入れるんですか?」
「まぁ、いろいろあるんだよ」
「インターネットですか」
「それもある」
 田丸さんはそう言って煙を吐き出した。船の売店で売っているものなんて一部の生活必需品に限られており、それ以外のものは皆インターネットを通じて購入する。インターネットで買ったものは週に一度ヘリコプターでまとめて船に搬入される。それ等は一度管理部がまとめて受け取り、購入者や品名等の情報を確認したうえで本人にわたされた。煙草や酒など、船の規定で持ち込みを禁止されているものは、管理部が発見次第、違反品として破棄される。だからインターネットを通じてだとしても煙草を手に入れることは簡単ではない。ましてやそれ以外の方法となると、私には想像もできなかった。
「おい、そんなに深く考えるなよ。前から思ってたけどお前は真面目過ぎる」
「真面目にやることが一番じゃないですか」
 別に腹が立ったわけでもなかったが、何故か言い返すような口調になってしまっていた。
「それはもちろんそうだけど、お前今いくつだっけ?」
「二十代後半です」自分でもはっきりと年齢が分からなかった。
「そうか。なんだ、まだ若いんだな」
 田丸さんは少し驚いたように言った。自分としては別に若いとは思っていなかった。それは時間の感覚が薄くなっているからか。
「まぁ、若いんなら真面目も悪くない。でも歳を取るにつれて徐々に視野を広げていかないとな」
 田丸さんが何を言いたいのか、本当のところは理解できていなかったが、私は頷いた。田丸さんは以前からこのような抽象的なアドバイスをすることが多い。
 煙草のことは別として、田丸さんだって真面目な人だと私は思っていた。業務遂行能力は高いし、班長からの信頼も厚い。今はリーダーランクで次期班長候補だとも言われていた。
「まぁ、めげずに頑張ろうや。まずはしっかりと業務を遂行することだよ。それだけは絶対に間違いじゃないから」
 田丸さんはそう言って自分の身体に消臭剤を吹きかけ、同じように私の身体にも吹きかけた。確かに、ここにいるだけで煙草の匂いが服に付いてしまっているかもしれない。
 甲板に幾つも取り付けられたスピーカーが昼休み終了五分前を告げる。受付部の作業場は四階の船首近くなのでここからだと少し遠い。私は少し早足になっていた。


 夜、もう一度甲板に上がった。昼休みの時間とは打って変わって今は数えるほどしか人がいなかった。恋人なのだろうか、二組ほど男女のカップルもいた。私は一人だった。
 船内での恋愛は禁止はされてはいないが、あまり良い目では見られない。同じ部署内であれば発覚次第すぐに片方が別部署に異動する規則になっており、それなりに周りに迷惑をかけてしまうため、表立って恋愛をする船員はほとんどいなかった。しかしごく稀ではあるが船員同士で結婚に至る場合もある。そこまでいくとある程度はオフィシャルになり、部署は分けられるものの、住居は同じになることを認められた。もちろん子供だって認められる。幼い頃は保育部が運営する船内の保育園に入れ、それ以降は全寮制の陸地の学校に通わせることが多かった。
 私も過去に一度だけ船内の女性と恋愛に発展したことがある。彼女は同じ部署の別の班に所属しており、私より少し歳上だった。休憩時間にサロンで何度か顔を合わせることがあり、話をするようになった。
 あなたの暗い顔って何だか笑えるね、それが彼女からの最初の言葉だった。人の顔を見て笑っているのだから失礼な話なのだが、彼女に言われると不思議と悪い気はしなかった。彼女はいつも黒縁の眼鏡をかけていて、背は高かったが胸はほぼ無いと言っていいくらいに小さかった。全体的にバランスが悪いようにも思えたが、それが愛らしくもあった。
 彼女とは班が違うので業務中に顔を合わせることは無かったが、日々メッセージのやり取りをした。たまに夕食を食堂で一緒に食べた。夜の甲板で落ち合って話をした。
 彼女はいつも私の顔を見て笑った。そんなに暗い? と聞くと、うん、今日も絶好調で暗い、と言って笑う。けっきょく部屋に誘うまでの勇気は無かった。手に触れたことは辛うじてあるが、それも一度切りのことだった。
 別れは唐突で、そのうえあっけなかった。ある夜、私は彼女にサロンに呼び出された。普段、私達はサロンで会うことはなかった。サロンには遅くまで誰かしら人がいて、人目につくことを避けるべき逢瀬には適した場所だとは言えなかったからだ。私がサロンに入ると、彼女はもう来ていた。私を見つけて、よう、と言って片手を挙げた。冗談なのか本気なのか今となってはもう分からないが、彼女はそういう男勝りな言葉をよく使った。私は彼女の分と自分の分のコーヒーをカウンターで淹れてテーブルまで運んだ。彼女は礼を言った後、驚くほどあっさりと今日で終わりにしようか、と別れの言葉を口にした。
「急にどうしたの?」
 私は驚いてはいたが声は冷静だった。
「何となくだけど、監査部に気付かれている気がするのよね。私達のこと」
「まさか」
 それがもし本当だとしたらどちらかが即異動となる。まさかって思うでしょう? と、彼女は笑った。話し方からして、何か心当たりがあるようだった。別れ話をしているというのに彼女は驚くほど普段通りだった。
「ねぇ、あなたも私もそろそろ大切な時期に入るのよ。遊んでいる場合じゃないと思わない?」
「それは選別のことを言っているの?」
 別に遊んでいるわけではないという一言は出なかった。その頃、私も彼女もそろそろ初めての選別の声がかかるのではないかという時期だった。
「選別はもちろんよ。でも選別以外だって、常に私達は見られているじゃない。分かるでしょう? 監査部だけじゃなくて、この船にいる限りとにかくずっと見られているの。業務から、生活態度やら購入したものの一つ一つまで全てね。あなただって分かるでしょう?」
 私は頷いた。
「ここにいるうえで大事なことって、もっと他にあるじゃない。遊びで身を滅ぼすなんて馬鹿のやることよ」
 彼女はじゃあ元気でね、と言ってそのままサロンを出て行った。最後まで口元には笑みを浮かべていた。終わってみれば、たった三ヶ月足らずの関係だった。
 思えばこの三ヶ月間、私は彼女の「喜」以外の感情を一度も見たことがないような気がする。テーブルの上には二人分のコーヒーが手付かずのまま置かれていた。私は、ねぇ、ちょっと、と彼女の背中に声をかけたが、不思議と追いかけようという気持ちにはならなかった。私は、彼女の言いたかったことを理解していたのだ。ここは学校ではないということくらい私だって分かっていた。三ヶ月にわたる夢から覚めたような気持ちだった。それは夢だったから楽しかったのだと、一人サロンで思った。
 彼女は二回目の選別でリーダーランクに上がり、それと同時に受付部から姿を消した。その後しばらく見掛けないなと思っていたら、どうも船を降りたらしいという噂を耳にした。真偽のほどは定かではないが、実際船内で彼女を見掛けることはなかった。
『寂しい』と明美にメッセージを送った。
 甲板は薄暗かった。床を踏む足音は聞こえない。船を囲む海は黒く、不気味で、たくさんの生物が暗闇の中から私のことを見ているような気がした。『何かあったの?』と明美からの返信は早かった。
『別に、何も無いけど。何となくそう思ったから』
『疲れてるんじゃないの? お仕事大変そうだもんね。あんまり無理しないでね』
『ありがとう。そっちだって仕事大変だろ』
 明美は広告関係の仕事をしていると前に言っていた。
『私はまぁ、ぼちぼちって感じよ。だから大丈夫』
 会話のリズムが心地良かった。取り止めのない会話だったが、明美をたまらなく愛おしく感じた。
 私はメッセージの吹き出しの横に表示されている明美のアイコンをタップした。すると彼女のホーム画面に飛び、「明美」というアカウント名と、どこかの寺の前でピースサインをする茶髪でショートカットの女性の写真が出てきた。冬なのだろう。彼女は厚手のダッフルコートを着たうえに暖かそうな紺色のマフラーを巻いていた。可愛らしい人だった。確認をしたことは無いが、彼女が明美自身なのだと私は思っている。
『でも、寂しいという感情が生まれるということは、人として正常な証だと思うよ。みんな一人では生きていけないんだもん。だから疲れた時やつらい時に寂しいって思えるのは心が正常に動いてるという証拠だから、良いことだと私は思うよ』
『ありがとう』
 本当のことを言うと、私は別に本気で寂しいと思っていたわけではなかった。ただ浮かんだ言葉をそのままメッセージにして送ってみただけだった。それでもこうして慰めの言葉を返してくれるのは嬉しい。
 明美とはインターネット上のマッチングサービスで知り合った。やり取りを始めてもう半年以上が経つ。
 マッチングサービスに会員登録をすると、自分の望む条件でマッチング相手を検索することができ、申請をしてマッチすれば直接やり取りを行うことができた。基本コースのユーザーはメッセージを送る度に料金が加算されていくのだが、私は定額コースに加入しているので何度メッセージをやり取りしても追加料金はかからなかった。おそらく明美も定額コースなのだと思う。
『会いたい』
 メッセージを送った後、いたたまれなくなってサロンまで歩いた。サロンは甲板のヘリポート横にある甲板棟と呼ばれる建物の一階に入っていた。サロンには何人かの船員がいた。新聞を読んだり、携帯ゲームをしたり、皆思い思いの夜を過ごしているようだった。コーヒーを飲もうかと思ったが、時間も遅かったのでお茶にした。明日もまた朝から業務がある。
『私も会いたい』
 再び甲板へ戻るまでの間に明美から返信が返ってくる。
 私達は会ったことがない。会いたいとは言うが、実際に会う段取りをすることはなかった。私としても一時下船するにはそれなりに面倒な手続きや調整が必要だし、明美は明美できっと同じような事情があるのだろうと思っていた。
 私は明美がどこに住んでいるのかも知らなかった。遠い場所なのか、近い場所なのかも分からなかった。ただ、彼女は間違いなくいる。この世界のどこかにいる。私にメッセージをくれる。私もメッセージを送れる。明美という名前は本名なのか、あのアイコンの写真が彼女なのか、私は明美の「本当」を何も知らない。私にできることは目に見えるものとメッセージの文字を信じることだけだった。それでも私は彼女に恋をしていた。愛していた。
 甲板のベンチに座り空を見た。そこには闇が広がるだけで、星はまったく見えなかった。雲もなく、こんなに澄んだ空気の海の真ん中だというのに一つも見えなかった。なぜだろうと思った。私が見ている空は本当に空なのだろうか。そこから疑問に思った。学校に通っていた頃、仲間達と山のコテージに泊まって夜にみんなで星を見たことがある。砕いた宝石を散りばめたような星空で、あの映像は今でも目に焼き付いていた。
 明美に『今日はもう寝る。おやすみ』とメッセージを送り甲板を後にした。部屋に戻り、明美からの『おやすみ』という返信を確認してから電気を消して眠りについた。


 休みの日はだいたいまず図書室に行く。図書室は船のちょうど真ん中あたりにあり、四階なので私の部屋からは階段を使わずに行けた。
 図書室はいつも半分くらいの席が埋まっていた。そのうち半分くらいの人は本を読んでいて、もう半分の人は参考書を片手に何かの資格を取るための勉強をしていた。
 私は図鑑コーナーへ行き、恐竜図鑑を手にした。恐竜図鑑はいつも通り、寄生虫図鑑と昆虫図鑑の間に置いてあった。図鑑は持ち出し禁止書物なので、いつも同じ順に並んでいた。私はこの恐竜図鑑がお気に入りで、毎週ここに来て読んでいた。
 一番奥の席に座り図鑑を開く。ティラノサウルスとトリケラトプスが戦っている絵が大きく載っているページだった。上背のあるティラノサウルスがトリケラトプスの背中に噛みつこうとしていた。一方で低く構えるトリケラトプスはその鋭い三本の角をティラノサウルスの足に向けていた。私としては、この勝負はトリケラトプスが勝ったのではないかと思う。ティラノサウルスの足も強そうではあるが、おそらくトリケラトプスの角には勝てない。いくらティラノサウルスの牙が強力であろうと、足元を崩されたらその威力を十分に発揮することは難しいだろうと思った。
 ページをめくると、今度は海に生息する恐竜が紹介されていた。メトリオリンクス、リオプレウロドン、モササウルス。やはりモササウルスが一番目立つ。後期白亜紀の頂点捕食者であり、全長は約十三~十八メートル、体重は二十~三十トンと書いてある。とんでもない化け物だと思う。ティラノサウルスやトリケラトプスにしてもそうだが、遥か遠い昔とは言え、こんな化け物達が本当にこの世界にいたのだ。
 私は目を閉じて、巨大なモササウルスが私の乗る船の下をゆっくりと横断する姿を想像した。今、もし何かの理由で海に落ちるような船員がいたら、間違いなくモササウルスの餌食になるだろう。モササウルスは肉食なのだ。図鑑には、モササウルスの絵の横にサイズ比較のために成人男性の絵も並べて描かれていた。圧倒的な体格差だった。しかも海の中。抵抗する術は無いだろう。
 もちろん今現在の世界では、モササウルスなんて生物はいないと言われている。しかし同じように、過去にはいたと言われているのだ。
 恐竜の世界は私にとって、自分の想像を超える本当に実在した世界であった。船の中の狭い世界で生きている私にとって、それは世界の広さを感じさせてくれる希望に近いものだった。だから私は休みの度に図書室に行って恐竜図鑑を読んでいた。
 一通り恐竜図鑑を読んだ後、私はジムへ向かった。ジムの時間は予め予約をしていた。午前十一時~十二時の枠だった。船の中では満足な運動ができず運動不足になりやすいので、ジムは船内で一番の人気施設となっていた。予約無しで入れることはまずなかった。
 カウンターに座る男に予約証明書を見せ、船員証を読取機にかざす。先日インターネットで買ったトレーニングウェアに着替えて軽くストレッチをしていると、先程のカウンターの男が私のところにやってきて、一番右端のランニングマシンは電気系統のトラブルで現在使用ができない状態になっている、と言った。確かに四台あるランニングマシンのうち一番右端のマシンだけは誰も使っておらず、それ以外の三台には順番待ちをしている人がいた。私は男に分かったと言った。しかし、この男はジムに来る一人一人に対していちいちこの説明をしているのかと思い、聞いてみた。すると男はそうだ、と当たり前のことではないか、とでもいうように言った。使えないマシンに張り紙をしておけばいいのではないか? と私が言うと、男は目を見開き、お前はなかなか頭がいいなと笑って、私の肩をばしばしと叩いた。しばらくして見ると、右端のランニングマシンに「使用禁止」と貼り紙がしてあった。
 今日はエアロバイクとチェストプレスマシンをメインにトレーニングをした。休憩を挟みつつトレーニングをしていると、何だかんだ一時間はあっという間だった。適度な運動は気持ちが良い。次の休みにも同じ時間で予約をしたかったのだが、もうすでに空き枠がなかった。仕方がないので空いていた午後の遅い時間に予約をしてジムを出た。
 食堂でランチを食べようかと思ったが、けっきょくサロンでサンドイッチを食べることにした。一通り食べ終わるとトレーニングの疲れか眠くなり、少し目を瞑るだけのつもりがそのままサロンのソファで眠ってしまった。
 目が覚めると、一瞬ここがどこだか分からなかった。窓の外で海が揺れている。それは別にどこの部屋からでもだが、窓の形や微妙な装飾の雰囲気からサロンにいるのだと思い出した。隣のソファに男が一人座っていた。選別の時にいたプリント部の男だった。
 私が驚いた素振りを見せると、すまない、起こすつもりはなかった、と彼は言った。いや、すみません、気にしないでください、と突然のことで私は少し焦った口調になっていた。男はそんな私に、この前、一緒に選別を受けた人だよね? と言った。私は頷いた。
「結果、どうだった?」
「変動なしでした」
「そうかぁ」
 私もダメだった、とプリント部の男は頭を掻いた。あの感じではダメだろうなと思ってはいたのだが、もちろんそんなことは言わない。
「君はどれくらいオペレーターをやってるの?」
 私は、正確には覚えていないが、おそらく十年は経っていないくらいだと思うと答えた。
「そうか。じゃあ、まぁ、うん。今回ダメでもまだ全然先があるよな。まだ大丈夫。私はダメだよ。もう二十年以上オペレーターをやってる。今回、かなり久しぶりの、多分五、六年ぶりの選別だった。もちろん今まで何回も選別を受けてきたよ。でも毎回変動なしだった。いろいろな説を聞いて、それなりに対策を考えて臨んでたんだけど、全部ダメだった。だから今回は敢えてその裏を行ってみたんだよ。説でタブーとされることばかりをやってみた。だってもう、それしか選択肢が無かったから。他のことが全部ダメで、残ったのがあれだった。最後だった。でもまたダメだった。また変動なしだった」
 男はそう言ってホットコーヒーを一口飲んだ。私は何と言っていいのか分からず、とりあえず男の目を見て頷いた。
「選別なんてただの出来レースなのかもしれない」
「出来レース?」
 言葉の意味は知っていたが、それが頭の中で選別と上手く結び付かなかった。
「最初から選ばれる人が決まってるんじゃないかって話だよ」
「そんな、まさか」
 あまりにも突飛な話で説にも成り得ないと思った。
「だって、そうじゃないと説明がつかないんだよ。何故ずっと選ばれない人がいるのか、そして何故簡単に選ばれる人がいるのか。私は船に乗った時からずっとプリント部にいて、真面目にやってきたよ。本当にいろいろなものをプリントした。何十万枚、何百万枚と業務を遂行してきた。色が合わなくて怒られたこともあった。プリンターの不具合でローラーの汚れが製品に付いて問題になったこともあった。コスト削減のために業務改善をしろと言われたらちゃんと考えて実行に移した。真面目過ぎて周りから敬遠されることもあるくらいだった。それなのに一向に選ばれない。私より後に船に乗った人がどんどん私を置いて選ばれていくのに。彼等はもしかすると私よりもずっと良い学校を出ているのかもしれない。でも別に特別素晴らしいものを持っているとは、私は思わなかった。しかしちゃんと選ばれていく。もう幹部になった男もいる。彼は会う度に私のことを哀れそうな目で見る。気を遣ったような話し方をする。彼にしても同様に、何がそんなに良くて選ばれたのか、私には分からない。選ばれることの判断基準が見えない」
 男はそこまで言って、ふぅ、と息を吐いた。それで少し気持ちが落ち着いたのか、すまない、ただの選ばれなかった人間の僻みだよ、と皮肉っぽく笑った。私は、半分はそうだと思ったが、もう半分は彼の話を否定することができない自分がいた。
「ほぼ初対面の人にする話ではなかったな。選別が終わって少し気が緩んでいたのかもしれない。疲れが出てる。毎日毎日、何年も何年も同じことを続けるというのは何とも奇妙で体力が要ることだと思うよ」
 私も船に乗ってからずっと受付部にいると話すと、違う部署に行きたいとは思わないの? と聞かれた。私はそんなことを考えたことがなかったと答えた。男は頷き、業務は楽しい? と聞いた。それについても私はそんなことを考えたことがなかったと答えた。
 そこで私はふと、この前の選別で、日々繰り返すことで自分自身の成長を確かに感じられるところに業務を遂行することによる喜びがある、と答えたことを思い出した。
 喜びは自分で得るもの、楽しみは他者から与えられるものだという違いはあるものの、私は果たして業務を行うことによる喜びに対しても今まで考えたことがあっただろうかと思った。記憶には残っていない。では選別の場で話したあの言葉は嘘だったのか。あれは選別のためだけの言葉だったのか。いや、完全な嘘だとは言えない。でも完全な本当だとも言えない。ではあの言葉は一体何だったというのだ。
「私は本当は画家になりたかったんだ」
 男はぽつりとこぼすように言った。サロンはとても静かだった。画家ですか、と私は繰り返した。そう、画家に、と男はまたホットコーヒーを一口飲んだ。
「幼い頃から絵を描くのが好きだった。お袋が買ってきてくれた画用紙にたくさん描いて、親兄弟には上手い上手いと褒められた。私は歳の離れた一番下の子供だったから必要以上に可愛がられていたというのもあったかもしれない。一度だけ、当時住んでいた地域のコンクールで佳作に選ばれたことがあった。地域の、と言ってもそれなりに大きなコンクールだった。みんな喜んでくれた。もちろん私も嬉しかった。それで自信もついて、美術を習う学校に進学した。今思えばそれがまずかった。それなりに有名な、レベルの高い学校だった。当然優秀な人間が集まる。私よりも絵が描ける人がごろごろといた。間違いなく私は下から数えた方が早いような人間だった。辛かった。でも諦められなかった。やっぱり絵を描くことが好きだった。根気よく勉強をして、練習をして、大きなコンクールにもチャレンジした。しかしあの地域のコンクールの佳作以来、私の描いたものが世間に認められることは一度も無かった。やがて学校を卒業する年齢になった。私の絵はお金を貰うに値するレベルには達していなかった。絵に対する思いは変わってはいなかったが、それでも何かをして生きていかなければならなかった。それで船に乗った。何故この船だったのか、今となってはもはや覚えていない。夢は未だに枯れてはいない。私はやはり今でも画家になりたい。でもここには絵を描くための画用紙も絵の具も無い。時間はただ過ぎ去っていく。どんどん歳を取っていく。止める術は無い」
 まだ言葉が続くかと思い、先を待ったのだが、男の話はそこで終わりのようだった。私は、インターネットで画用紙と絵の具を買えばいいのではないか? と言った。男はそれはもちろんそうだけどね、と少し笑った。
「もちろん、画用紙も絵の具もインターネットで買える。インターネットで買えないものなんてこの世に何も無いからね。私が言いたいのはそういうことではなく、けっきょく、業務の中に私が本当にやりたいことは何一つ無いということなんだよ。しかし日々の時間はほとんど業務に充てられている。心に従って身体が動くとしたら、これは矛盾だと言えないだろうか? もちろん生活というものはある。何があっても生きていかなければならない。しかし、それと心を殺すことがイコールになるのならば、生活というものはいったい何のためにあるのかと疑問に思わないか?」
 私は分からない、と正直に答えた。業務に対してそこまで深く考えたことが無かった。それは私には夢と呼べるものが無いからか。いや、それはかつてはあった。確かにあった。まだ学校に通っている頃だったが、あった。いつの間にか忘れていたのだ、そして久しぶりに思い出したそれは、もう今や夢とは言えないような姿に成り果てていた。
 つまらない話を聞かせてしまったね、と言って男は立ち上がった。私は別につまらないとは思っていなかった。だから正直にそう言った。男はありがとうと言ってサロンを出て行った。一人残ったサロンで私は目を閉じた。私も少し疲れているようだった。


 落ち着いた感じの男の声だった。
「私は学校でバレーボールをやっていた。合計すると多分、七、八年はやっていたと思う」
 長引きそうな相談者だなと直感で思った。焦る気持ちを何とか抑え、左様でございますか、と相槌を打った。
「しかし、もともと私はバレーボールなんてする気はなかったんだ。特に興味があったわけでもないし、世間ではちょうどサッカーが人気だった頃で、周りはみんなサッカーをしていたよ。あの、やたらと気温の高そうな国で世界大会が行われていた頃だ。外国人の、何という選手だったか、髪型が奇抜で、その髪型を若者がみんな真似をして、ちょっとした流行になっていた頃だ。あれは何という選手だったかな。君、覚えていないか?」
 申し訳ございません、存じ上げておりません、と言いつつ、目線は電話機のディスプレイに行っていた。また応答ランプが点滅している。電話が繋がらず相談者が待ち状態になっているのだ。周りを見回すと、他のオペレーターも皆電話対応中のようだった。何故だか分からないが、今日は異常なくらい電話が多い。さらに私は連続して通話時間が十五分超えの相談者に当たってしまっており、対応数が著しく悪かった。
「君、そんなことも知らないでコールセンターのオペレーターをやっているのか?」
 申し訳ございません、と私は再度謝った。
「まぁ、いいや。そんな中で私がバレーボールを始めたのは、単純に仲の良かった友人が始めたからだった。彼はクラスメイトで、学校が終わった後も毎日一緒に公園で遊んでいたよ。そんな彼がバレーボールをやるというのだから、私もやらざるを得なかった。私達が入ったのは地元のクラブチームだった。全員で十五人くらいのチームで、けっこう年齢のばらつきがあった。私と友人はその中でも一番若かった。一番歳上の人は自分達の親くらいの年齢だった。そして皆すらっと背が高かった。実にバレーボーラーらしい体型をしていた。私と友人は背が低かった。学校のクラスの中でも一番前とその次だった。始めのうちは腕が痛くて仕方がなかった。レシーブをした場所が、夜になったら毒に侵されたかのように紫色になる。あれは辛かった。それでも私はバレーボールを辞めなかった。何故かというと、友人が辞めなかったからだ。彼も私と同様に頑張っていた。同じように腕を紫色にしてレシーブをしていた。体育館の床を転がっていた。数ヶ月経つとレシーブはある程度できるようになった。腕の痛みも以前ほどは気にならなくなった。でもスパイクだけは二人ともなかなか上手くできなかった。それは単純に背丈が足りていなかったからだ。腕を伸ばしてジャンプをしてもまだ掌がネットを超えなかった。身長はすぐには伸びないから、私達はジャンプ力を上げることに注力した。君、ジャンプ力を上げるためにはどこの部位を鍛える必要があると思う?」
 足ですか、と私は答えた。男はふん、と納得したようなしていないような、中途半端な声を出した。おそらく半分正解くらいの感じなのだろうと思った。
「足、というか、太腿、すね、ふくらはぎ辺りだな。あと、肩や胸、腹筋、背筋も大事だ。身体というものは正直で、トレーニングをしたらしただけ筋肉はつく。だからしばらくすると少しずつスパイクが打てるようになってきた。友人も私と同じようにスパイクが打てるようになった。最初のうちは二人、本当に同じように成長をしていった。最初のうちは、とわざわざ言ったのは、つまり途中からは違っていったという意味を含んでいるのだが、そのうち私は彼のスパイクがだんだんと鋭くなっていることに気付いた。私のそれよりも明らかに強烈だった。同じようにトレーニングをしているのに何故差が出るのだ、と疑問を抱いたよ。でも答えは簡単だった。彼はいつの間にか私よりも頭一つ分くらい背が高くなっていたのだ。だからリーチが伸びた分、上からスパイクを打ち下ろせるようになっていた。悔しかったよ。一方で私の身長はほとんど伸びなかった。これは遺伝のせいだと思った。私の父親は私と同じく小さかったが、友人の父親はすらっと背が高かった。そのうえ医者だった。だから彼も背が伸びたのだと思った。バレーボールをするうえで、リーチの差は大きい。やがて彼はチームの主力選手になったが、私はけっきょく最後までパッとしない選手だった」
 私は何と言っていいのか分からず、左様でございますか、と言った。男が最終的に何を言いたいのかまったく分からなかった。手元で書いている会話内容のメモもまとまりが無く、後で記録を入力する時に苦労しそうだと思った。
「まぁ、しかし仕方がない。遺伝の問題ならばそれはもう文句の言いようがない。そんなことで自分の親を恨むでもない。私はそんな心の狭い人間ではない。ただ、彼は恵まれていた。それだけだ。学校を出て、彼も医者になった。何年か総合病院に勤めた後、自分のクリニックを開業したと聞いた。もう何年も会うことは無いが、今でも年に一度くらいはメールのやり取りをする。さて、ところで君は身長は何センチあるんだ?」
 私が、確か百七十三センチです、と答えると、男はなるほどね、と言って唐突に電話を切った。私は一瞬自分の失言で相手を怒らせてしまったのではないか、と不安になったのだが、どう考えても私の回答に問題は無かった。私は自分の身長を聞かれて答えただけなのだ。
 電話が鳴る。まだシステムに記録を入力していなかったが、私は反射的に応答ボタンを押していた。すまない、一つ間違えていた、と言う声はさっきの男に違いなかった。
「友人は医者じゃない。歯医者になったんだ」
 それだけ言って男はまた電話を切った。
 それ以降も最悪だった。どうにも温度感の高い相談者に当たってしまい、結果的に数をこなせなかった。オペレーター毎の応答数と平均通話時間の一覧が一日の終わりに班長から配られる。この日、私は班内のオペレーターの中で最低の応答数だった。全体的な入電数も多かったが、それにしても酷かった。
 私は、まぁこんな日もある、と深く考えないように努め、気持ちを切り替えるためにこの日は早めに寝た。しかし翌日も状況は好転しなかった。同じように入電数が多く、やはり何故だか私は厄介な相談者に捕まってしまい応答数が伸びなかった。さらにその翌日も悪かった。けっきょく私は五日連続班内で最低の応答数を出してしまった。こんなことは初めてだった。私も悪かったが、班全体の応答数も悪かった。嫌な予感がした。そしてそれは的中し、五日目の業務終了後、班長と私は受付部の幹部から呼び出された。
 私と班長は幹部の男の背中について船内を歩いた。この男のことは知っていた。少し前まで隣の班の班長だった男だ。途中で、お前は会議室Bへ行け、と言われた。私は承知いたしました、と言って二人と別れて一人会議室Bまで行った。ドアの窓から明かりが漏れていたので、中に誰かがいることは分かった。私はノックをして、失礼します、と言ってドアを開けた。中にいたのはこの前の選別の時にいた試験官の女だった。
 何故あの試験官の女がここにいるのか、私にはよく分からなかった。女は選別の時と同じような時代遅れのスーツを着ていて、その手には竹刀が握られていた。そのアンバランスさが何とも不気味だった。机や椅子は部屋の端に押しやられ、部屋の真ん中にぽっかりとスペースが空けられていた。その中心に一つだけ椅子が残されており、女は私に、ここに座りなさい、言った。
「私は監査部教育グループの責任者をしている清水と申します」
 女は私の目をしっかり見て言った。私は少し気圧されたが、お疲れ様です、と挨拶をして、自分の所属する部署名と名前を言った。何となくだが、この女は私のことを覚えていないのかもしれないと思った。
「あなたはここ最近の業務において、与えられた役割には遠く及ばない酷い結果を残してしまいました。これは明らかな問題であります。船にとって一つ一つの問題は小さいですが、その都度ちゃんと潰していかないと、それはいずれ巨大な脅威と成り得ます。今回の事象は、個人の問題によるものではなく、仕組みの問題によるものだということは私も理解をしています。ミスや不手際を個人の問題にすることはありません。人間はミスを起こす生き物だと念頭に置いたうえで運用を考えなければいけません。しかし一方で、今回個人としてあなたに至らない点があったこともまた事実です。そこに対しては再教育を行う必要があると考え、それで本日はここに来ていただきました」
 私は頷いた。次の瞬間、右肩に竹刀が打ち込まれ、電流のような激しい痛みが身体の中を走った。次に打たれたのは左腕だった。私は激痛で椅子から転げ落ち、床にうずくまった。それでも竹刀は止まらず打ち続けられた。女が服で隠れている部分だけを狙っているのはすぐに分かった。それでも私は頭を守ってうずくまっていた。痛みで意識が飛んでしまいそうだった。
「あなたは経験もあり、日頃の業務態度もけっして悪くはありません。では何故今回のようなことが起きたのか? それは気が緩んでいたからだと思います。そうとしか思えません。でもそれはそれで仕方がないことだと思います。所詮は人間ですから、毎日同じことを繰り返していたらいずれ気も緩みます。それは別に恥じることではありません。ただ、緩んでしまった気はもう一度締め直す必要があります。それさえすれば、あなたはまたベストな状態で業務に戻ることができます。車や機械を定期的にメンテナンスするのと同じです。分かりますか?」
 女は話しながらも私のことを激しく打ち続けた。こんなに竹刀を振っているのに、女の呼吸はまったく乱れていなかった。私は激痛で身体を丸めながらも何度も頷いた。そんな状態が何分くらい続いたのだろうか、竹刀は唐突に止まった。女は、では、明日からもまたよろしくお願いします、と頭を下げ、そのまま部屋を出て行った。私は女の背中に、ありがとうございます、と言ったが、それが声になっていたのかは分からなかった。しばらくそのまま動けなかった。蛍光灯の白いライトに無様に照らされていた。


 翌日、船内通達のメールで私達の班で問題が起きたことが全体配信された。
 そこには、起こった事象についての説明と、該当班の班長と特に問題のあったオペレーターに対して再教育を行ったということが書かれていた。通知上に私の名前は出ていなかったが、班長の名前は出ていた。それで私は班長に対して申し訳ない気持ちになった。通達の最後には昨日私達を呼び出した受付部の幹部の男の署名があった。おそらくあの男が今回の再教育の実施責任者なのだろう。
 一晩経っても女に打たれた身体が痛んだ。特に風呂がきつかった。すぐには回復しそうになかった。
 業務中、田丸さんさんに肩を叩かれた。その時私は電話対応中だったので話をすることはできなかったのだが、おそらく元気を出せという意味だったのだと思う。嬉しくもあったが、情け無い気持ちにもなった。今日は入電数もそこまで多くなく、それなりにリズム良く対応ができていた。しかし私は油断をせず慎重に応対をした。
 昼休みに班長に食事に誘われた。班長から個人的に声をかけられるのはこれが初めてのことだった。二人で食堂の門をくぐると、そこにいる船員達が皆私達のことを見ているのではないかという錯覚に陥った。実際何人かは班長のことを見ていたかもしれない。船中に名前が回ってしまっているのだから、注目を浴びる可能性は大いにある。
 私はいつも通りBプレートを注文した。班長はかけうどんだけだった。それだけでは足りないのではないか? と私は班長に聞いた。食堂でうどんを注文する人は、それだけでは足りないので、おにぎりやお惣菜を追加する場合が多かった。いや、今日は食欲が出ないから、と班長は笑った。確かにそれはそうなのかもしれない、と私は悪いことを聞いてしまったと思った。そう言われてみると、私にしても何となくBプレートを注文したが、あまり食欲は無かった。
 昨日、あの後どうなったの? と聞かれたので、竹刀で何度も打たれました、と私は正直に話した。班長はえっ、竹刀で? と驚いていた。
「班長はあの後どうなったんですか?」
「始末書を書かされたよ」
 班長はうどんを啜りながら言った。
「監査部の幹部が二人と受付部の幹部が一人いたんだけど、私が始末書を書くと、それを目の前で三人で読むんだ。そして、ここが書けていないとか、こういう場合はどうするんだとか、指摘を受けて書き直したり加えたりするんだけど、それが何度も何度も続く。正直、まとめて言ってほしいと思ったけど、怒られている身だからもちろんそんなことは言えないよ。だんだん指摘は業務のことだけでなく、私個人のことにまで及んできた。それは別に始末書に書いたりはしないんだけど、私に離婚歴があることだとか、リーダーやオペレーターの時に起こした問題なんかを蒸し返されて、どう思っているんだ? 反省しているのか? と問い詰められた。正直参ったよ。ただ、彼等は別に私のことを虐めようとしている感じではなかった。船員に対して当たり前のことを求めているという感じだった。当たり前のことを当たり前にやるのがプロだということは、私だって分かるよ。人はどこまでいっても完璧になんてなれない。それを理解したうえで仕組みでそれをフォローするだなんて言うけど、けっきょくは個人としての完璧さはそれはそれで求められる。何だかんだ言って経歴に泥の付いていない人間が上に好まれる。けっきょく開放されたのは午前三時だったよ」
 私はすみませんでした、と謝った。班長は別に君が謝ることじゃないよ、と笑った。私は班長の話を聞いて、班長が受けたような精神を追い込む再教育に比べたら、私が受けた肉体的苦痛による再教育の方がマシだったかもしれないと思った。監査部は私のそのような心を見透かしてあのような手段を選んだのだろうか。
「実は始末書を書くのは今回が初めてじゃないんだ。十年ちょっと前くらいにも一度書いたことがある」
 私は頷いた。
「私は当時は封入部にいた。ちょうど班長になった頃だった。問題を起こしてしまったのは、新しくできる大型ショッピングモールの案内を事前会員登録をしていた顧客に対して発送するという業務だった。ショッピングモールに入っているショップが各々チラシを作り、それをまとめて角2の封筒に封入して送るのだけど、私の指示ミスで一つのショップのチラシを入れ忘れてしまったんだ。それがまた悪いことに、ショッピングモールの上層部が政治的な絡みで入れていた特別なショップだったようで、大問題になった。今回と同じように呼び出しを受けて、再教育として始末書を書いた。あの時も何度も書き直した。同じように個人的なことに対してもいろいろ言われた。言いづらいことだけど、私は学校に通っていた頃に一度傷害事件を起こしてしまったことがある。酒に酔って喧嘩をして、相手に怪我をさせてしまったんだ。今の私の姿からは想像できないかもしれないけど、若い頃はボクシングをやっていたんだ。だから、あれは喧嘩というよりほとんど一方的に私が殴っているようなものだった。相手の男は知り合いでも何でもない、その日飲み屋で絡んできたただの酔っ払いだった。その後、会うことは無かったが、喧嘩の後遺症で片目を失明したと聞いた。何故だか分からないが監査部はそのことを知っていた。人を殴った過去をどう思うか? 反省しているのか? もう絶対にやらないと誓えるのか? としつこく問い詰められた。私はその頃は結婚もしていて、子供もいた。更生している、という言い方が正しいのかは分からないが、ちゃんと真っ当に生きているつもりだった。傷害事件については、本当に反省をしていた。あれ以来酒を飲むことも止めた。今でも一滴も飲んでいない。もちろん事件のことを忘れてはいない。忘れられる訳がない。しかし、知られているとは思わなかった。私が話したことも無い人間が私の犯した罪のことを知っているというのは辛かった。その時私は、罪は罪で、何をどうしようと永久に消えることの無いものだと思った。取り繕っても隠しても、全てバレてしまうんだ。私みたいな人間が幸せになんてなれるはずがないと思った。それでも頑張った。頑張るしかなかった。でも、やがていろいろなことが上手くいかなくなって、けっきょく妻と子供も出て行った。また再教育になった。やっぱりダメだった。さっきは言わなかったが、今回の再教育でもまた傷害事件のことを言われた。人を殴った過去をどう思うか? 反省しているのか? もう絶対にやらないと誓えるのか? 前の時とまったく同じだった。私は何も変わっていないと思われていた。いや、実際何も変わっていないのかもしれない。罪は消えはしないのだから、それは多分当たり前のことなんだ」
 話を進めるうちに、班長の呼吸がだんだんと荒くなっていた。箸を持つ手が震えて、麺を掴むことができていなかった。私は、落ち着いてください、と言って、それが正しいのかは分からないが、水を飲むように勧めた。班長は、そうだね、と言って震える手でグラスの水を飲んだ。落としてしまうのではないかと思うくらいに震えていたが、こぼすことはなく半分ほど飲んだ。
「ありがとう。少し落ち着いた」
 今はまだ、深く考え過ぎない方がいいと思います、と私は言った。そうだね、ありがとう、と班長は言ってまたうどんの続きを食べ出した。しかしけっきょく半分くらい食べ残していた。
「今回の問題は決して君のせいではない」
 食堂から作業場に戻る途中で班長が言った。
「誰にもどうすることもできなかった。君は運が悪かっただけだ。個人の問題ではない。しかし、かと言って仕組みの問題だとも私は思わない。むしろ今回のことを問題だとすら思っていない。そういう日がたまたまあった。ただそれだけだよ」
 私は、業務に戻りましょう、と言ったのだが、それが班長の耳に届いたのかは分からなかった。


 班長が海に身を投げたのはその日の夜だった。甲板から飛び降りたところを何人かが見ていたらしい。
 私はそれを翌日の朝礼で聞いた。驚きはしたが、納得できる部分もあった。昼休みに食堂で一緒にいたことを誰かが報告したらしく、私は監査部に呼ばれた。班長と最後にちゃんと言葉を交わしたのは私のようだった。
 呼ばれた部屋はこの前再教育を受けた会議室Bだった。それで私は少し身構えたのだが、部屋に入ると今日は普通に机も椅子も並べられていた。あの試験官の女(確か清水と名乗っていた気がする)と通達に署名をしていた受付部の幹部、そしてもう一人知らない男がいた。この男は紙とペンを持って構えており、おそらく書記担当としてこの場にいるのだろうなと思った。そこに座りなさい、と言った受付部の幹部は、数日前に私達を呼び出した男と同じとは思えないくらいに憔悴していた。一方、女の方は変わらず堂々としていた。
「昨日の昼、あなたが伊藤班長と食堂にいたと一部船員から報告を受けています。間違いありませんか?」
 間違いありません、と私は答えた。女はまた私と初めて会ったかのような話し方をした。選別のことも、ここで私を竹刀で打ったことも、彼女は忘れてしまったのだろうか。それともそのような話し方をするのがこういう場ではベストなのだろうか。
「その時、普段と何か違うようなところはありましたか? 彼はどのような話をあなたにしていましたか?」
「もともと業務以外で特別親しくさせていただいていたわけではないので、普段と違うところというのは分かりません。食堂では先日受けた再教育のことを話していました。班長は再教育を受けたことで、酷くショックを受けているようでした」
 私がそう言うと、受付部の幹部は両手で頭を抱えた。再教育が原因で身を投げたとなると、おそらく実施責任者として責任を問われることになるのだろう。
「話していた内容について、もう少し具体的にお聞かせいただけますか」
「基本的には今回受けた再教育の内容についてでした。お互い再教育として、どのようなことを行ったのかを話していました。また、班長は過去にも一度再教育を受けたことがあるようで、その話もされていました」
「先程、伊藤班長は酷くショックを受けているようだったとおっしゃいましたが、それは彼が直接的にそのようなことを言ったのですか? それとも彼の言動からあなたがそう感じたのですか?」
「記憶が曖昧で、間違いなくとは言えませんが、直接的には言っていなかったと思います。ただ、言動から再教育に対してショックを受けていることは伝わりました。話しながら手が震えていました。まともに食事を取れるような状態ではありませんでした」
 書記の男は私の言葉を聞きながら滑らかにペンを滑らせていた。感情というものが一切感じられず、まるでそういうロボットのようだった。
 正直言ってどこまで話すべきか迷っていたが、傷害事件のことは話さないでおこうと思った。とは言え監査部は事件のことを知っているのだから、話しても話さなくても同じだったのかもしれない。それでも私の口からは言いたくなかった。
 長時間の拘束を覚悟していたのだが、意外にも一時間程度で開放された。
 翌日、班長の訃報とそれに対する説明が船内通達で配信された。
 通達には、班長がストレスが原因で胃を病んでいたこと、診療所にて治療を行っていたが上手くいっていなかったこと、そこにタイミング悪く再教育が重なり、精神が一時的に不安定になってしまったことが身投げの原因として記載されていた。
 班長が胃を病んでいたという話は聞いたことがなかった。そんな素振りも思い当たるところがなかった。
 これが真実なのだろうか? と思った。もし班長が本当に胃を病んでいたのであれば、あの時食堂で私にそのことを話したのではないかと思った。しかし、そんなことは考えても仕方がないことだった。班長はもう亡くなってしまっているのだし、船内の全てを把握している監査部がそう通達したのだから、それを真実として受け止めるのがどう考えても自然だった。しかし、私の中で何かが落ちなかった。
 私は、問題が起きたこと、再教育を受けたこと、そして班長の身投げまで、全てを明美に話した。
『辛いね』
 明美にそう言われて、確かに辛いと思った。他人に言われて初めて気付いた(そういえば、試験官の女達はそのような言葉を一切口にしなかった)。決して親しかったわけではない。でも私は班長のことを嫌いではなかった。死んでしまったのだと思うと胸が詰まった。
『あなたの方は大丈夫? 私はそれが心配』
『大丈夫、死のうと思うようなことなんて今のところ一つも無い。嫌なことはあるけど、我慢できないほどではない』
『良かった。でも、我慢をしないと人は普通には生きていけないって、それもまた辛いね。生まれながらに重荷を背負っているみたい』
『明美こそ、そんな心配になるようなこと言うなよ』
『ごめん。私だって大丈夫。だけど、本当に気にしたらダメだよ。できれば忘れた方がいいと思う。班長さんのことをじゃなくて今回のこと自体を』
『忘れられないよ』
『そうだよね。難しいことだよね』
 その時は明美が何を言いたかったのか、私にはよく分からなかった。その意味を理解したのは寝付けぬ夜中のベッドの中だった。
 明美は私が、自分のせいで班長は身投げした、と考えてしまうことについてを言っていたのだ。どうしようもないことではあったとはいえ、再教育の原因となった問題に私は大きく関係している。明美は、私がそのことを気に病んでしまうのではないかと考えたのだ。だから今回のこと自体を忘れた方がいいと言ったのだ。
 しかし実際、私はそんな考えを持っていなかった。何故か。それは班長の最後の言葉があったからだと思う。「今回の問題は決して君のせいではない」という班長の言葉に私は救われていた。それをそこまで意識していた訳では無いが、今考えてみると強く思う。あの言葉が無ければ、おそらく私は自分を強く責めただろう。
 班長は、私と話していた時にはもう身を投げることを決めていたのではないか。それで残される私のことを思ってあのようなことを言ったのではないか。あの時の班長にそんな余裕があったのか? と問われると、それは分からない。だからもちろん絶対の自信は無い。けっきょく真実は永久に分からないのだ。
 しばらくすると、やっと訪れた眠気が私の精神を溶かし始めた。私は深い海の底を思った。そこはただ暗かった。暗くて何も無い場所だった。


 翌日、緊急の選別が行われ、廣瀬という男が新しい班長に選ばれた。これは私としては意外な結果だった。絶対に田丸さんが選ばれると思っていたからだ。
 廣瀬は少し前に私の班にやってきた男で、年齢は前の班長と同じくらいだった。ランクはリーダーだったので、班長に選ばれてもおかしくないポジションではあったのだが、業務遂行能力においても、コミュニケーション能力においても、班内で同じランクである田丸さんと比べると、どう考えても見劣りしていた(というより私は彼の良いところを一つとして挙げることができなかった)。
 監査部はいったい彼のどこを評価して班長に選出したのか。選別の場での回答がよっぽど秀逸だったのだろうか。しかし、そこには田丸さんもいたはずだ。私は廣瀬が田丸さんより秀逸な回答をしているところを想像できなかった。
 廣瀬は班長になっても以前と変わらぬ様子だった。取り立ててリーダーシップを発揮するわけでもなく、何となく班長の椅子に座っているだけ、という感じだった。
 ある日の業務終了後、田丸さんに声をかけられた。
「よう、ちょっとは元気出たか?」
「そうですね」
 とは言ってみたものの、今が平常なのか、それともまだ気持ちが下がっているのか、自分でもよく分からなかった。とりあえず日々の業務は通常通りに遂行できていた。気付けば班長の身投げからすでに何週間かが経っていた。もしかすると一月以上が経っているかもしれない。何も考えずに業務を繰り返していると、相変わらず時間の感覚がぼやける。
「田丸さんは大丈夫ですか?」
「俺? 大丈夫って何が?」
「いや、選別のことですよ。廣瀬さんがリーダーに選ばれたから」
「お前は相変わらず真面目だなぁ」
 そう言って田丸さんは笑った。
「なぁ、今夜時間空いてるか?」
 私は特に予定はありません、と答えた。明美にメッセージを送ろうと思っていたくらいだった。そしたら、甲板の喫煙所に二十時半に集合な、と言われた。特に断る理由も無かったので、私は頷いた。
 部屋に戻って作業着を脱ぐ。時計を見るとまだ十八時過ぎだった。田丸さんに言われた集合時間まではまだ少し時間があったので、私は浴場に行って汗を流すことにした。浴場は三階と一階にあるのだが、私はいつも三階の浴場を利用していた。
 浴場には業務終わりの船員がたくさんいたが、まだピーク時間には達していなかった。この後、食堂に行っていた人が一気に来る十九時半頃からが浴場のピーク時間になる。
 私はシャワーで汗を流して頭を洗った。持参したタオルで身体も洗い、湯船に浸かる。浴場の湯はいつも少し熱い。長く浸かることができないし、すぐに身体が赤くなった。それは私の身体が熱さに弱いからなのか、それとも利用者の回転率を上げるための船側の戦略なのか、いつも考えはするのだが、誰かに意見を求めるほどではなかった。
 浴場を出てもまだ十九時前だった。さっぱりしたからか急激に空腹を感じた。それもそのはずで、いつもならもう食堂で夕食を食べている時間だった。生活リズムが一定過ぎると身体の融通が利かなくなる。
 しかし改めて考えてみると、二十時半集合というのは実に微妙な時間だなと思った。夕食の時間にしては少し遅いので、集まってから何かを食べるというわけではないのだろうか。となると、サロンでコーヒーでも飲むつもりなのだろうか。
 いずれにせよ、あと一時間半我慢できる空腹状態ではなかった。私は購買部へ行って菓子パンを一つ買って食べた。このくらいであればもし後で何かを食べることになったとしても大丈夫だ。
 二十時半に喫煙所に行くと、田丸さんはすでに来ていて煙草を吸っていた。時間通りではあったが、すみません、遅くなりましたと一応謝った。
 行こうか、と田丸さんは煙草を消して歩き出す。倉庫の角を曲がってすぐの階段を降りたので、サロンに行くのではないのだなと思った。私は黙って田丸さんの背中を追った。田丸さんはどんどん階段を降りていき、一階の機関部の前まで出た。どこへ行く気なのかまったく分からなかった。
 機関部の横には立ち入り禁止区域の「地下」と呼ばれている場所に続く階段がある。まさかとは思ったが、田丸さんは「関係者以外立ち入り禁止」とプレートがかけられたチェーンをくぐり、地下へと続く階段を降り始めた。
「ちょっと、田丸さん」
 私は躊躇ったが、心配するなよ、大丈夫だ、と田丸さんが言うので仕方なく続いた。地下は薄暗く、プリント部で出た印字のヤレや、廃棄待ちの受付部の過去の通話記録が段ボールに入れられて通路の端に積まれていた。こんな場所に何があるのか、と思い歩いていると、ここだよ、と言って不意に田丸さんが指を差したのは「孔雀」とプレートが掛けられたドアだった。田丸さんは腕時計を確認した後、そのドアを五回ノックした。すると、ガチャリと掛かっていた鍵が開く音がした。
 中に入ると、そこには木彫りのバーカウンターがあった。何人かが談笑する声が聞こえ、煙草の匂いがした。薄暗くはあったが地下自体の薄暗さとはまた違った薄暗さだった。
 カウンターの中に立つ女が私達を見て、いらっしゃいませ、と笑顔で言った。美しい人だった。赤とピンクのスパンコールが散りばめられたワンピースを着て、頭の上で茶色の長い髪を結っていた。
 どうもお久しぶり、と田丸さんが言うと、女も、お久しぶりです、と微笑んだ。カウンターには私達以外にも何人か人がいた。空いている席に腰を下ろすと、女は私達の前に丸い紙のコースターを置いた。カウンターの中の棚にはたくさんのボトルが並べられていて、女はその中から一つのボトルを選んで栓を開けた。よく見るとそのボトルには田丸さんの名前がマジックで書かれていた。
 水割りでいい? と女は田丸さんに聞いた。田丸さんは、うん、水割りで、と答えた。氷の間を縫って注がれていくその琥珀色の液体が酒だということは、私でもすぐに分かった。じゃ、と言われて田丸さんと乾杯をする。飲酒は船の規定で禁止されている行為なので躊躇いはあったが、けっきょく私はそれを口にした。何年ぶりなのか分からないくらいに久しぶりの酒だった。しかし特別な感動は無かった。私は学校に通っていた頃から酒を美味いと思ったことは無かった。
「こんな公然と酒を振る舞う場所が船の中にあるなんて知りませんでした」
「まぁ、いろいろあるんだよ。そりゃ規定違反は規定違反だけどさ、人間なんだから息抜きは必要だよ。それで業務効率が上がるのなら俺は全然悪いことだとは思わない」
「でも、公然とはまずいんじゃないですか」
「それはもちろんそうだけど。おい、お前何か勘違いしてるだろ。ここはまったく公然の店じゃないぞ。本来は会員じゃないと入れないんだからな。お前が入れてるのは俺が特別に予約を入れておいたからなんだぞ」
「そうなんですか」
 そこまでしてくれていたとは思わなかったので、私は少し驚いた。田丸さんはどうやってそんな特別な会員になったのですか? と不思議に思ったので聞いたが、そこは秘密だよ、と笑って教えてくれなかった。
 その時、少し離れたところに座っていた男が、おい田丸、と田丸さんに声をかけた。田丸さんも、あっ、お疲れ様です、と返したので知り合いなのだろうと思ったのだが、その男の顔を見て驚いた。選別の時にいた若い試験官の男だった。男は当たり前のように煙草をふかしていた。服装や髪型は選別の時と同様に整っていたが、表情は緩み切っていて、相当酔っているようだった。男は三人で来ていた。全員監査部の人間なのだろうか、他の二人は知らない顔だった。
 田丸さんは私のことを同じ班の後輩だと男に紹介した。私は緊張しつつも挨拶をした。監査部の幹部と業務以外で話すなど、普通はあり得ないことだ。男は、どうも杉岡です、と手を差し出して握手を求めてきた。握手には応えたが、どうもこの男も私のことを覚えていないようだった。もちろん敢えてこちらから選別のことを口にすることもなかった。
 あの人、知り合いなんですか? と、私は田丸さんの耳元で小声で聞いた。おう、そうだよ、と田丸さんの返事はあっさりとしていた。
「監査部の幹部の人ですよね?」
「なんだ、知ってたのか」
「この前の選別で試験官でした」
「あぁ、そういうことか」
 と言って田丸さんは酒に口を付けた。
「どうやって監査部の幹部と知り合いになったんですか?」
「別に。ここで何回か顔を合わせるうちに仲良くなっただけだよ。お互い一人なら一緒に飲むこともある。いろいろな人と積極的にコミュニケーションを取っていたらいつかは偉い人にも当たるさ。そういう繋がりは大事だぞ。分かるか? 船の中で生きていくにあたって一番大事なのはコミュニケーションだ。どうも、それを分かっていない奴が多い」
 私は、そうですね、と言って頭を掻いた。私だって田丸さん以外の船員とはコミュニケーションが取れていないので耳が痛い。コミュニケーションを取ることが大事なのは分かる。しかし、分かっていてもできないのか、分かっているがやらないのか、そこは自分としてもよく分からなかった。田丸さんのそういうところは本当に凄いと思う。リーダークラスでありながらこんな店の会員になっていることも、田丸さんならば納得ができた。
 グラスの酒が残り半分になったら、女は何も言わずに酒を継ぎ足した。だから私は自分がどのくらいの量の酒を飲んでいるのか分からなくなっていた。
 アルコールが回っているということが自分でも分かった。だんだん田丸さんの話が上手く頭に入って来なくなっていた。お水飲まれますか? と女に言われ、お願いしますと頼んだ。しかし水を飲んでも状況は好転しなかった。
 試験官の男達はいつの間にかいなくなっていた。私は彼等の帰り際にちゃんと挨拶をしたのだろうかと不安になった。
「ここだけの話だけどな、この船けっこう危ないらしいぜ。近々沈むかもしれないって噂だよ」
 田丸さんは私の耳元でクスクスと可笑しそうに言った。何が面白いのかまったく分からなかったが、そこを指摘する余裕は残っていなかった。私の思考は泥水のように濁っていた。何故なんですか? と私は力無く聞いた。
「基本的には人手が足りていない。こんな大きな船に乗ること自体がもう時代遅れなんだよ。若い奴が全然入って来ない。昔は黙っていてもたくさん入ってきたのに。世間の価値感が変わってきている。大きな船より小回りが利く小さな船の方がだんだん有利になってきてるんだよ。昔はみんな大きな船の方が安定しているから良いと考えていたけど、今や大きな船でも沈む。何が起こるか分からない世の中になってきている。そうなると、小回りを優先する奴が増えてくる。当たり前だよな。何かあった時にはちゃんと逃げないといけないからな。けっきょく自分の身は自分で守らなければならないんだ。実力主義だよ。大きな船に身を委ねているより小さな船で自らオールを漕ぐ方がずっと力が付く」
 酒に酔いながらも私は田丸さんの話を理解することができた。それは私自身も思っていたことだったからだ。気付いてはいたけれど敢えて深く考えないようにしていたことだった。
「上層部はどう考えているんですか?」
「上層部? 役員や幹部クラスのことか? あいつ等は何も考えてないよ。奴等が考えているのは、ただ船を自分達の住み良い場所にしたいということだけだ。収益だとか、損益分岐点だとか、カッコつけていろいろ言ったりはするけど、本当はそんなことはどうでもいいんだよ。あいつ等は十分な報酬をもらっている。そんな奴等が無理をしてまで何かを動かす必要なんて一つも無いだろ。よっぽど前衛的な天才なら違うのかもしれないが、船に乗っている時点で凡人なんだよ。ただ何事も無く今の良い時間が続いてくれればいいと思っているだけだよ」
 上がそんなんじゃ破綻してしまう、と私は言った。何故だか少し笑っていた。
「そう思うか? でもそれがそうでもない。上がそんな状態なのは何も今に始まったことじゃない。ずっと昔から続いていたことだ。でも、見ろ。俺達はちゃんとこうやってここにいる。船は毎日海原を進んでいる。要はバランスだよ。誰かがやるなら誰かはやらない。誰かが考えるなら誰かは考えない。大きな船はそうやってバランスを取ることができる。船は一つの生命体なんだ。そして、そうやってバランスを取って生きていくことこそが船が本当に望んでいることなんだよ。発展でも進化でもない。ただ生きていくことこそが目的なんだ」
「本当に沈むかもしれないんですか?」
 私がそう言うと田丸さんは吹き出すように笑った。お前は本当に真面目だな、と私の肩に手を置いた。
「状況が良くないのは事実だよ。人手は足りていないし、売上も差益もここしばらくはずっと右肩下がりだ。でもな、やはりまだ生命体としては強いんだよ。そりゃあ、いろいろなものを取り込んだ生命体だからな。簡単には沈まない。ただ、絶対に沈まないかと言われるとそうとも言えない。この世に一度存在した以上はいつかは無くなる。どんなものだってそうだ。それは来月かもしれないし明日かもしれない。そういう前提で、船の中での自分の行動を考えろということだよ」
 バランス、と私は頭の中に残っていた言葉を呟いた。それは今お前が考えることじゃないけどな、と言って田丸さんは煙草に火をつけた。
「本当に船が発展も進化も求めていないとしたら、選別はいったい何のためにあるのですか。私達はより良いものになるために日々業務に励んでいて、それを形にできるのが選別なのではないですか。バランスという言葉で片付けられてしまったら、全てのことに意味が無くなってしまう」
「その、意味を持たせることこそが選別の意義なんだよ」
 廣瀬が今回班長に選ばれたことなんて、俺にとってはまったく問題じゃない、と田丸さんは私の耳元で言った。静かながらも強い言葉だった。私はもう一度酒を飲んだ。止めておけばいいのに不思議と飲もうという気持ちになった。嫌なことは飲んで忘れればいい、人生なんてそんなものだよ、と田丸さんが笑った。そうよ、そうよ、とカウンターの向こうで女も言った。私の頭の中でその全てが回った。考えることを続けるのはもう限界だった。私は、もう一度水が飲みたいと言った。無理はしちゃだめよ、と女が言った時にドアが五回ノックされた。
 女は壁に掛けられた時計を見てカウンターの下のボタンを押した。ガチャリと鍵が開く音を背中で聞いて、指定された時間にドアを五回ノックすることがこの店に入る合図なのだと、私はその時初めて気付いた。
 部屋に入って来たのは二人組の派手な女だった。こんばんわぁ、と言って周りの人間に愛想を振り撒いていた。田丸さんはにやにや笑いながら、お前、せっかくだから一回どうだ? と私に言った。何を言っているのかよく分からなかった。私は何とかして頭の中の回転を止めようと必死だった。
 よう、こいつ、ちょっと可愛がってやってよ、と田丸さんが女の一人に何かを渡した。二人は、きゃあ男前、と田丸さんの肩を叩いてはしゃいだ。田丸さん、と私は途切れ途切れの意識の中で言った。ちょっと遊んでこい、とそんな私の背中を田丸さんが強めに叩く。私は押し出されるように椅子から降りた。
 一人の女が私の腕に自分の腕を絡めた。私は目線で田丸さんに助けを求めたが、田丸さんはすでにもう一人の女の乳房に手を回していた。世界が回る。とても不気味な回り方だった。田丸さん、ともう一度声をかけたが、その頃にはもう田丸さんは女とキスをしていた。
「場所を変えようよ」と腕を絡めた女が私の耳元で囁いた。甘美な声だった。
 私は女に誘われるがままに部屋を出た。頑張れよぅ、と言う田丸さんの声と、他に何人かいた人々の笑い声が背中に響いたが、ドアが閉まると何事もかも無かったかのように消えた。
「行こうよ」
 静寂の中、改めて聞いた女の声はさっきよりずっと現実的なものだった。店の中で聞いた声とは印象が違っていた。女は私の手を引いて地下のさらに奥の方へと歩いて行った。どこへ行くの? と聞いたが返事は無かった。
 進めば進むほど埃っぽさが増した。カビ臭かった。思考は相変わらずぼんやりとしていて、何度も足がもつれた。女が支えてくれていなかったらおそらく真っ直ぐ歩くこともできなかっただろう。
 やがて女は立ち止まり、一つの部屋のドアノブを回した。しかし鍵がかかっているようで、ガチャガチャと音がするだけで開かなかった。中から、ノックくらいしろよ! と女の怒鳴り声が聞こえた。
「強気ねぇ。よっぽど偉いさんを相手してるんだわ」
 と、女は溜息をついて言った。私はとりあえず頷いた。そしてさらに歩みを進めた。
 次にあった部屋も、女はまたノックをせずにドアノブを回した。今度は鍵がかかっておらずドアが開いた。女が壁のスイッチを入れて電気をつけると、暗室のように部屋が赤く染まった。部屋には簡易ベッドとサイドテーブルしかなかった。女は鍵をかけ、どうぞ、と私にベッドを勧めた。それで私はとりあえずベッドに腰掛けた。止まると世界の回転を感じる。身体は止まっているのに世界が動いているという感覚がどうにも気持ち悪くて、私はベッドに横になった。何? だいぶ酔ってる感じ? と、女は私に言った。私は頷く。大丈夫? 水ならあるけど、飲む? と言われ、私は欲しいと行った。サイドテーブルの下が小さな冷蔵庫になっているようで、女はそこからペットボトルの水を出して私に渡した。
 ウイスキーってけっこうアルコール度数が高いからね、慣れない人が考えずに飲んだらそうなるよ、と女は言った。私は初めて女の顔をちゃんと見た。化粧は濃いが、おそらく私よりもだいぶ若いと思われる。店のカウンターにいた女と同じく、派手なワンピースを着て、頭の上で茶髪を結っていたが、幼さからか同様の色気はなかった。
 いけそうになったら言ってね、と言うと、女はするするとワンピースを脱いだ。その下には白色の下着を付けているだけだった。ちょっと待ってくれ、と私は言った。だから落ち着くまで待つって言ったじゃん、と女は笑う。
「あなた、もしかして初めて?」
 私は首を横に振った。嘘ではなかった。学校に通っている時に何度か経験はある。しかしもうずっと昔の話だ。船に乗ってからは一度も無い。成り行きで誰かと関係を持つことは今までに無かった。だから、それが正しいことなのか正しくないことなのか判断がつかなかった。でも身体は正直だった。いつの間にか世界の回転も気にならなかった。
 女はふうん、と言いながらズボンの上から私の局部を撫でた。そこには誤魔化しようのない欲望が形になって存在していた。準備オーケーと言うことね、と女は笑った。女は私の上に跨り、大丈夫、先にもらっているから安心して、と耳元で囁いた。そういえば、田丸さんがこの女に何かを渡していたことを思い出した。
 女は手際良く私の服を脱がした。私はこれから実験に使われるモルモットのように裸でベッドに横たわっていた。女が下着を外しているのが見える。白く、柔らかそうな肌だった。インターネット以外で女性の裸を見るのは酒を飲むこと以上に久しぶりだった。不思議な高揚感が身体を熱くさせた。酒の酔いもまだ残っていて、私の精神状態はぐちゃぐちゃになっていた。
 気付いたら私は女をベッドに押し倒していた。悪いんだけど、始める前に煙草を一本吸ってもいい? と女に言われ、はっとした。一瞬の間、獣になっていた自分を恥ずかしく思った。
 君は、ずっとこの業務をしてるの? と、煙草を吸う女に私は聞いた。見たことの無い細長い煙草だった。
「業務っていうか、ただのバイトよ。ずっとってほどでもないけど、まぁ、慣れるくらいにはやったわね。でも、あなたほど若い人は初めてよ」
「基本的には上層部の人達を相手してるの?」
「さぁ、どうかな。そういうことは言っちゃダメな約束になってるから。あなたもあまり聞かない方が身のためだと思うわよ」
 そう言って女は煙を吐いた。裸の女が煙草を吸うところを私は初めて見た。何とも不思議な光景に思えた。私は混乱しながらも、早く女の肌に触りたいと思っていた。そして、そんな自分をどうしようもなく恥ずかしく、情け無く思っていた。上層部の連中は、何も感じずにこんなことができるのだろうか? だとしたら狂っていると思った。規定を作って、それを破る楽しみを容認しているとは、いったいどういうことなのだろうか。少なくとも、この部屋には正しさなんてものは一つも無い。
 バランス、という言葉をまた呟いていた。誰かがやるなら誰かはやらない。誰かが考えるなら誰かは考えない。ということは、誰かが正しいならば誰かは正しくないことになる。私は少し笑った。とんだ茶番だと思った。
 難しく考えなくていいよ、と言って女は煙草を消した。静かに私をベッドに倒してキスをした。女のキスは生き物の匂いがした。船を降りたい、と私は言った。今までそんなことを考えたことはなかったし、口にした今でもどこまで本気なのかは分からなかった。船を降りてあなたに何ができるの? と、女が言った。私は何も言い返すことができなかった。女の肩を強く抱きしめた。


『お世話になります。私は某メーカーで営業担当をしている者です。年齢は三十代後半です。正確なところは忘れました。もう十年以上同じ業務に携わっており、気付けば後輩(部下という言葉はあまり好きではないので、敢えて後輩と言います)も増え、いつしか彼等の指導が自身の業務の中心となっていました。それ自体には何のストレスもありません。若い子は皆真面目で、自分としても見習うところがたくさんあります。人間関係も極めて良好です。最近では、休日にみんなで一緒に競馬を観に行くこともあります。晴れた日の競馬場は本当に爽やかで気持ちが良いです。お酒も飲めて、これで予想が当たれば最高です。さて、問題は上司です。後輩という言葉の対義にするならば、先輩ですね。私が先輩と呼べる人達は今やもうほとんどが管理側の人間になっています。この人達が良くない。全然仕事をしません。管理側にいるので実務をやらないことは納得ができます。しかし彼等は管理すらやらない。自分に与えられた業務すらしていないのです。つまりは何もしない。たまにちょっとそれらしいことを言って体裁を保つだけです。これは明らかにおかしい。彼等はそれなりの報酬をもらっている。少なくとも私よりはずっと多いはずです。それなのに何もしないというのはもはや狂気の沙汰です。これは、組織論の破綻だと思います。管理側に行くためには昇格試験に合格する必要があります。これはケーススタディの筆記問題です。解答例は毎年受け継がれているので、正直言って文章力があれば誰でも通ります。ちょっとした進学校レベルであれば、高校生でも通ると思います。そんな試験に受かっただけの人間が組織の管理を任されるというのもおかしな話だと思います。本当に組織のことを考えなければ、管理なんてものはできません。何故、彼等が何もしないのか。それは彼等が自分のポジションに満足をしているからだと私は思います。私の属する組織では、昇格制度はありますが、降格制度は無い。つまり上がったら上がりっぱなしなのです。よっぽど、法に触れるような事件を起こしたりしたら別ですが、普通に生きていれば降格はありません。だから彼等からしたら管理側に行くことがゴールとなってしまっているのです。それでこの先ずっと安定した報酬を得られる、と考えるからです。腐っている。それが人間の本質であることは理解しますが、そんなものは組織の中で出すべきではない。私は上司達の行動を後輩達に説明することができません。説明できないこと、というのは実に気持ちが悪いものです。中身が分からない生ゴミのようだ。私は、昇格試験の撤廃と降格制度の導入を強く求めます。ご意見をいただけますでしょうか』
 私は返信ボタンを押した。しかしすぐに回答の言葉が出てこなかった。そういう場合はリーダーか班長に相談することになっている。田丸さんは応対中だったので、廣瀬に相談した。廣瀬は面倒そうな顔をしてメールの内容を見た後、分かった返しておく、と言ってその相談を預かった。私は自席に戻り、また別のメールを読んだ。


 明美からの返信が急に途絶えた。今までも、一日くらいは空くことはあったが、今回はもう既に四日も返信が無い。こんなことは今までに無かった。
『大丈夫? 何かあった?』
 私はベッドに寝転がり、もう一度明美へメッセージを送った。もし、明美が単純に返信を忘れているだけであれば、このメッセージを見て返信ができていないことに気付くだろうと思った。しかし、このメッセージに対しても明美からの返信はなかった。既読のマークも付かなかった。
 私は部屋を出て船首の方へ目的も無く廊下を歩いた。図書室の前を通ると中はもう真っ暗で、ドアには「閉館中」とプレートが掛かっていた。時計を見ると二十二時半だった。
 明美は友達と食事に行っているのかもしれない。急な事情で親元に帰っているのかもしれない。仕事で問題が起きて手が離せない状態なのかもしれない。もしくはただ単に風呂に入っているだけなのかもしれない。だから私のメッセージに気付いていないのだと、頭の中で様々なストーリーがシャボン玉のように浮かんでは消えた。そのどれもが現実に有り得る話ではあるのだが、いずれも確証には至らなかった。確かなことは今もまだ明美からの返信が無いということだけだった。
 四階の船首近くまで出た。受付部の作業場も図書室と同様に真っ暗だった。プリント部や封入部と違い受付部には夜勤が無い。残業も比較的少なく、こんな時間まで人がいることはほぼ無かった。階段で三階まで降りた。ジムは閉まっていたが、食堂は二十四時間開いているので明るかった。さすがにこの時間になるとコック服を着た男はいない。彼は毎日二十一時頃に業務を終了して帰っていく。夜勤の休憩時間等、深夜に食事を取る必要がある場合は皆予め購買部で弁当を買っておき、食堂でそれを食べていた。
 私は自動販売機でお茶を買って窓際の席に腰掛けた。真っ暗な窓にぼんやりとした私の顔が映っていた。情け無い顔だと思った。地下で女と関係を持って以来、どうも心のバランスが崩れている。それに加えて明美の返信まで途絶え、私の精神状態は最悪だった。
 私が違う女とあのようなことをしたから明美はメッセージを返してくれないのではないか、と私は考えた。しかし、明美があの夜のことを知り得るはずは無い。そんなことはあり得ないのだ。
 ただ、罪悪感は確かにここに有り、私の心を締め付けていた。私は何故あのようなことをしてしまったのだろうと後悔した。私には明美がいるではないか。どんな理由があろうと女の誘いを断るべきだった。あんなもの、所詮は一時の快楽ではないか。後に何が残るわけでもない。
 そう後悔しつつも、あの時の自分ではそれができなかったということも分かっていた。私はあの時、確かに獣になっていた。自分が自分ではないようだった。その矛盾がまた悔しかった。
 私はあのような世界を見たく無かった。地下になど連れて行ってほしくなかった。
 正しいことを正しくやるだけでいいではないか。捻じ曲げて、ぐちゃぐちゃに丸めて、噛み砕いて、そんなことにいったい何の意味があると言うのだ。バランス、と私はまた呟いた。この言葉が頭から離れなかった。船にいる限り、私はもはや私ではないのかもしれない。田丸さんの言う通り、船という巨大な生命体の一部なのかもしれない。そのことは私を激しく混乱させた。自分の年齢も忘れ、ただ毎日船の規則に従って業務に従事するだけの存在。器官で言ったら毎日毎日生真面目に全身に血を巡らす心臓のようなものだろうか。でもそれは人間の持つ心臓とはまた違っていて、船は私以外にもたくさんの心臓を持っている。私一人が潰れたくらいでは当然死なない。すぐに新しい心臓が補充される。班長がそうだったように、代わりなんていくらでも利く。船はそうやって生きてきた。正しさも汚さも抱えて海を渡ってきた。
 明美に会いたい、と今までに無いくらいに強く思った。しかし明美はどこにもいなかった。今画面にあるメッセージの記録は、あくまで明美との過去でしかなかった。そこに明美はいない。私はアイコンをタップして明美のホーム画面に飛んだ。変わらずショートカットの女性が笑っていた。たまらなく愛おしかった。
 もう一度明美にメッセージを送ろうか迷ったが、それは止めておいた。しつこい人間だと思われたくなかった。心の通じた飼い猫のように、自然と私の元に帰ってきてほしかった。食堂を出て部屋に戻ったが、やはりすぐには眠れなかった。


 廣瀬のマネジメントは相変わらずいまいちではあったが、大きな問題は起こらなかった。それはリーダーである田丸さんが全面的に廣瀬をフォローしていたからだ。基本的には班で起きた問題の責任は班長が負うことになるのだが、場合によってはこの前の私のように、リーダーやオペレーターも責任を負う可能性がある。私達の班は先日の一件で注目をされていたので、今は特に失敗の許されない時期だった。
 しかし、結果として班の運用はちゃんと回っているということを考えると、廣瀬を選んだ選別の判断は正しかったのかもしれないと思った。少し強引なようにも思えるが、ここまで考えての判断だったのかもしれない。
 応対記録をシステムに入力していると、廣瀬班長、先程の相談の件なのですが、と田丸さんが廣瀬に何かを報告する声が聞こえた。廣瀬が班長になってから、田丸さんの廣瀬に対する接し方が明らかに変わった。尊敬というか、敬うような感じで接しているのが見ていて伝わってきた。ついこの前までは同ランクだったとはいえ、現実的に今は班長とリーダーの関係なのだから、それが当たり前だと言われれば当たり前なのだが、私はどこか違和感を覚えていた。
 廣瀬が今回班長に選ばれたことなんて、自分にとってはまったく問題じゃない、と田丸さんは言っていた。田丸さんはおそらく、本心で廣瀬のことを敬っているわけではない。それが私の感じる違和感の原因だった。
 業務修了時間になったら廣瀬は毎日他の誰よりも早く作業場を出て行く。まだ応対記録を入力しきれていないオペレーターがいてもお構いなしだった。一部のオペレーターはそれに対して、自分のことしか考えていない、と不満を言った。不満が出るのも分かる。当然だと思う。むしろ廣瀬は、そんなことをして不満が出ないとでも思っているのだろうか。そのような廣瀬に対する不満はそれ以外にもあった。運用は回っていたが、潜在的な問題があることは誰の目から見ても明らかだった。
 業務終わり、今日は食堂で夕飯を食べるかサロンで食べるかを迷っていたら、ちょっといいか? と田丸さんに声をかけられた。この前のことがあるので少し身構えたが、行き先はサロンだった。外は雨が降っていた。
 サンドイッチでいいか? と言われ、頷く。田丸さんは夕飯を奢ってくれた。そういえばこの前の地下でも私は一度も支払いをしていない。田丸さんがご馳走様をしてくれたのだと今になって気づいた。私はそのことも含めて田丸さんにお礼を言った。田丸さんは、おう、と言うだけだった。
「今日、班のオペレーターから異動をさせてほしいと相談を受けたよ。あくまで個人的にだけど」
「誰ですか?」
 と聞くと、田丸さんはここだけの話だぞ、と言って小声で個人名を言った。私より一回り近く歳上の女性のオペレーターだった。名前を聞いて、原因は廣瀬だろうなと思った。彼女は廣瀬のことをかなり嫌っていた。
 部署や班について、自分から異動を申し出ることもできる。しかし基本的に異動は選別によって生じるものとされているので、自己都合の場合はそれ相応の理由が必要となる。ネガティブな理由での異動となると、以降の選別にも響く可能性もあった。彼女も若くはない。そういったことも理解した上で田丸さんに相談をしているはずだ。それだけに状況は極めて深刻だった。
「参るよなぁ。俺としてはリーダーとして、彼女の異動は認められないよ」
「かなりベテランですしね。班の戦力的にちょっと厳しいですね」
「それもあるし、精神的なところもあるよ。若い女性陣はあの人を慕ってるし、抜けるってなったらハレーションが起きるぜ」
「確かにそれはありますね」
 私はそう言ってサンドイッチを齧った。サロンのサンドイッチは購買部のサンドイッチよりも中身がしっかりと入っていて美味い。その分値段は高いのだが。
「廣瀬は想像以上だったなぁ」
「田丸さんが班長をやるべきだったんですよ」
「選別の結果だからな」
 と田丸さんは笑った。どうリアクションをしたらいいのか分からなかった。田丸さんの本心が読めなかった。今日の話にしても、どこまでが計算なのだろうかと勘繰ってしまう。田丸さんは私が思っている以上に頭が良い。
 今日は無理だけど、また落ち着いたら酒でも行こうか、と田丸さんは言った。ただの社交辞令かもしれないが私は少し緊張した。そうですね、と返したが、ぎこちない声だった。この前酒を飲んだ日の翌日は、ひどい二日酔いになって吐き気と頭痛がなかなか治らなかった。地下に行く行かない以前に、正直言って今は酒なんて飲みたくなかった。
 だんだんと雨が強まってきて、サロンの窓をバチバチと音を立てて打った。波も立ってきているようで、船の揺れも大きくなっていた。船内放送で、危険なので甲板には出ないようにしてください、各自可能な限り自室に戻るようにしてください、と注意勧告が流れた。
 サロンのマスターが、すみませんが、お聞きになった通りの状況なので、ここも一旦締めさせていただきます、と私達に言いに来た。周りを見回すと、いつの間にか私達以外には誰もいなくなっていた。
 帰ろうか、と田丸さんが言った。普段ならサロンのある甲板棟からエレベーターで下の居住区域まで降りることができるのだが、雨の影響かエレベーターが止まっていた。ボタンを押しても何の反応が無かった。
「仕方がない。倉庫の裏の階段から降りよう」
「そうするしかなさそうですね」
 注意勧告はたまにあるが、エレベーターが止まるほどの雨というのは珍しかった。甲板棟を出ると、滝のような凄まじい雨が私達を襲った。風も強く、目を開けることができなかった。
 姿勢を低くしろ! と田丸さんが声を張った。私は言われた通り姿勢を低くし、目の周りを手で覆ってなんとか足元を見た。田丸さんが私の腕を掴んだ。ゆっくりと一歩ずつ前に進む。間違っても海になど落ちたら命は無い。私は田丸さんを頼りにして歩いた。本当に凄い雨だった。
 時間はかかったが、私達は何とか倉庫の裏の階段まで辿り着き室内へと逃れた。
 運が悪かったな、と田丸さんが笑う。二人ともびしょ濡れだった。
「浴場は、やっぱり空いてないですよね」
「注意勧告が出ているからな。多分どこの施設も閉まってるだろ」
「こういう時、プリント部や封入部の夜勤ってどうしているんでしょうね」
「さぁ、でも危ないから作業は止めてるだろうな。かと言って帰るわけにも行かないから、とりあえず全員作業場で待機してるんじゃないかな」
 それはそれで可哀想な話だと思った。私だったら自室に帰りたい。試しに見に行ってみるか? と聞かれたが、私は断った。濡れた服を早く脱ぎたかったし、そもそも注意勧告が出ているのだからふらふら出歩くべきではない。
 じゃあまた明日な、と言って田丸さんは帰って行く。田丸さんの部屋は一階下の浴場のすぐそばだった。前に一度物を取りに行ったことがある。
 何だかんだで、話は断ち切れになってしまった。けっきょく何も解決していない。しかし、あのまま話していたとしても何か具体的な解決策が生まれたとも思えなかった。私にそんな解決策を見い出せる管理能力は無い。そう考えると、何故田丸さんはわざわざ私にあんな相談をしたのだろうかと思った。もしかしたら、本当は相談をしたかったのではなく、何かあった時に自分の味方になってもらうよう根回しがしたかっただけなのではないか。そんなことを考えた。
 私はびしょ濡れの作業着を脱いで頭を振った。何だか暗い考え方をする人間になってしまったなと思った。濡れた作業着はとりあえず洗濯カゴに入れた。雨の嫌な匂いが部屋の中に広がった。注意勧告が消えたらすぐにランドリーに行こうと思った。濡れた身体のまま、しばらく床に横たわった。私は疲れていた。


 明美からの連絡が途絶えてから三十日が経った。机の上に置いたメモに一から三十の数字が並んでいる。私は正確な日数を忘れないように毎日メモに記していた。三十日と言うと、だいたい一月になる。
 三十三日目の夜のことだった。アプリを開き今日も返信がないかを見に行くと、明美との過去のメッセージのやり取りは表示されているのだが、アイコンの写真が灰色に塗りつぶされていた。タップしてホーム画面に行くと「ユーザーが見つかりませんでした」と出てきた。あのショートカットの女性はどこにもいなかった。アカウント自体が削除されているようだった。
 私は机の上のメモを丸めてゴミ箱に捨てた。ベッドに倒れ込み、真っ白な天井を眺める。何か飲みたいと思ったが、身体に力が入らなかった。何をする気も起こらなかった。
 私と明美の関係とはいったい何だったのだろう、と思った。会ったことも、顔を見たことすらもない。でもメッセージ上ではたくさんの話をした。そこに肉体が無いというだけで、私は私なりに明美という人間のことをたくさん知っている。それは精神的には大きな繋がりだと思うが、側から見ればゼロと同じなのかもしれない。私が明美の肉体を何も知らないからである。私は、私の知る明美が本物の明美なのかどうかすら分からない。そもそも明美という名前が本当なのか、極論を言えば女性なのかどうかすら確証は無い。そう考えると、この前地下で関係を持った女との方が深い関係のような気もして嫌になった。肉体が絶対的なものだとは思いたくない。目に見えるものが全てだという考え方は間違っている。私は明美を愛していた。例えそれが本当の明美ではなくとも愛していたのだ。
 帰ってきてほしかった。それが叶わないことだということも分かっていた。


 最近のお前の応対は精細さに欠ける、と業務終わりに廣瀬に注意された。廣瀬はひどく苛立っていた。反論の余地は無く、私は素直に謝った。問題になっていないのが不思議なくらいだ、と廣瀬は怒鳴った。残っていたオペレーター達が哀れそうに私を横目で見て作業場から出て行った。私はもう一度廣瀬に謝った。
 この前の選別から、もうそれなりに時間も経っている、お前は今選ばれていない状態にあるのだ、と廣瀬ははっきりと言った。自分でもそれは分かっていた。
 廣瀬が帰った後、私は一人作業場に残ってまだ終わっていない応対記録の続きを入力した。今日の応対は電話が十五件、メールが四件だった。これは今日の班の中では下から二番目の応対数だった。最近はこのような低空飛行の成績が続いていた。また、精細さに欠けると言われるように、初歩的な応対ミスも多かった。入力のためにメモを見返しても、要点が掴めておらずボロボロだった。
 明美がいない今をどう生きればいいのかが分からなかった。それでもやらなければならないから業務を遂行しているだけだった。しかし、何故私はそれをやらなければならないのかは分からなかった。もはや、ただ何となくとしか言えなかった。生きる目的も見えないのに生きているから、ただ何となく業務を遂行した。それだけ、と言ってしまっていいのかは分からないが、それだけだ。「生きている」ということと「生きなければならない」ということはセットなのだろうか。そんなことまで考えた。もちろんそんな考えに答えなどない。そうだとも言えるし、そうでは無いとも言える。感情はメビウスの輪のように同じところをぐるぐると回った。
 休みの日の午後、いつものように図書室で恐竜図鑑を読んだ後、何気なく甲板に出てみるといつかのプリント部の男がいた。彼はベンチに座って、スケッチブックに色鉛筆で何かを描いていた。
 お久しぶりです、と私は男に声を掛けた。業務以外で誰かに声を掛けるなど、私にとってはかなり珍しいことだった。男は一瞬戸惑ったが、すぐに私だと気付いたようだった。
「また、絵を描き始めたんですか?」
「インターネットで買ったんだ」
「良いじゃないですか」
「別に、ただの気休めだよ。生活の根本は変わっていない」
「見せてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
 それは、たくさんの建物が建ち並んだ島の絵だった。美しい島だった。私ははっとして前を見たが、そこにあるのはいつもと変わらない水平線だった。島なんて無かった。
「この島は本当にあるんですか?」
「さぁ? 分からないな。まぁ、世界中のどこかにあると信じたいね」
 男はそう言って少し笑った。私は男の横に座って一緒に海を見た。男は真剣な目つきで水平線を見つめ、そこには無い島をスケッチブックに描いていた。その目は、気休めという言葉にはあまりに似つかない目だった。
 船を降りる人を見たことがある? と男は私に聞いた。私は見たことが無いと答えた。そうか、と言いつつ彼は絵を描く手は止めなかった。
「私は二回見たことがある」
 男の言葉に私は頷いた。
「夜中にこっそりと非常用の小舟で海に出て行くんだよ。誰に祝福をされるわけでもなく、見送られもしない。個人的に親しくしていた人にくらいは別れの言葉を伝えているのかもしれないが、基本的に船は出て行く船員には良い顔をしない。だから皆、船を降りるということに対して否定的になる。船を降りる理由は様々だと思う。良い理由もあれば悪い理由もあるのだろうが、そんなことは船にとっては関係ない。船を降りるという行動だけを見ると、良いも悪いも変わらないのだ。馬鹿なことをする、と笑う人もいるだろう。こんな大きな船だとだいたいの人がそうかもしれない。しかし、私は船を降りることを勇敢な行動だとも思う。もちろん理由は大切だ。結果がどうなろうとも、考えの無い行動を肯定することはできない。ただ、船に乗っている限り本当の海を知ることはないというのも事実で、深く暗く、得体の知れない海に一人小舟で漕ぎ出すという行動は、称賛に値するという考え方もあるのではないかと思う。無謀な人もいれば、考え抜いた末の人もいるだろう。共通して言えることは、彼等は皆、私達にはできないことをやってのけたということだ」
 スケッチブックの上、男の描く青が綺麗だった。海は紺に近い濃い青で、空は水色に近い薄い青だった。幾つかの色を重ねてこのような色を出しているのだろうか。
 船を降りる気なんですか? と私は聞いた。男はすぐには答えなかった。集中して絵を描いているようだった。冷たい風が私達の間を抜けて行く。季節がまた変わろうとしているようだった。
「船のことを嫌いなわけじゃないんだ」
 しばらくして男が言った。作業が一区切りしたのだろうか、男はスケッチブックを閉じて色鉛筆のケースと重ねて横に置いた。
「決して上手くいったとは言えないが、私をこの歳まで生かせてくれたのは間違いなくこの船だ。本当に感謝をしてる」
「もう決めたんですか?」
「いや、そんな覚悟はまだ固まってない。あくまでまだ可能性の一つだよ。ただ、そういうことも考えているというだけだ」
「それは、また本気で絵を描くということですか?」
「全てはまだ可能性の話だよ。夢を追う自分も死んではいない。ただ、もはや自分でもよく分からない。さっきも言ったけど、船のことを嫌いなわけではないんだ。そりゃ、納得できないこともたくさんある。それに、いつまで経っても捨てきれない夢も。でも、地に足を付けて自分の周りを見回してみると、実は理想と現実なんてものは微かにしかズレていないような気もするんだ。どうしようもないくらいにズレているように思える時もあった。今でもたまにある。だから実際のところはどうなのか分からない。私の中には、何人もの私がいるのかもしれない。もしくは幾つもの理想が点在しているのかもしれない」
 夢のことはよく分からない、でも今、自分の理想と現実は確実にズレている、と私は言った。君の班もいろいろあったみたいだね、と男は言った。もちろんそのこともある、と私は言葉を濁した。
「悩んでも、正しい答えなんて多分出ない。さっき私は、考えの無い行動を肯定することはできない、と言ったけど、どこまで考えたらその範囲を抜けたと言えるのかなんて、そもそも誰にも分からない。私はさっきから少し、分からない、と言い過ぎているかもしれない。そう思う。いい歳してそんな言葉を何度も口に出すべきではないね」
 そう言って男は笑った。
「絵は、あとどれくらいで完成するのですか?」
「だいぶできたからなぁ。あとは微修正を少し。まぁ、二、三日というところじゃないかな」
「完成したらまた見せてください」
 私は何故かその男の絵に好意を持っていた。男はうん、分かった、と言って少し恥ずかしそうに笑った。
 しかし、けっきょく私が完成したその絵を見ることはなかった。それ以来あの男に会うこともなかった。
 彼は本当に船を降りたのだろうか? いずれにせよ、もうあの男と会うことは無いような気がした。私は彼の名前すら聞いていなかった。ただ、あの日男が書いていたあの絵だけは、ずっと私の脳裏に焼き付いて離れなかった。鮮やかな色鉛筆で彩られた、水平線の上に浮かぶ美しい島。


 その後も私の業務の調子は上がらなかった。応答数も班内で下から三番以内の状況が続き、三日に一回くらいは廣瀬に注意をされた。そんな私を周りは腫物に触るような目で見た。変わらず接してくれるのは田丸さんくらいだった。
 心のバランスが崩れているという自覚はあった。とは言え周りに迷惑は掛けたくなかったので、何とかこの状況を改善しようと私なりに頑張った。しかしどうにも思うようなパフォーマンスができなかった。ついこの前までは普通にやっていたことなのに、何故だか今はできなかった。水の中でもがくように私の手足は物事を捉えることができず、ただただ空回りの毎日だった。
 毎日の業務終了時間も遅くなっていた。応対数は少ないのに、何故だか応対記録の入力が追いつかないのだ。一人だけ作業場に残って入力を行う日々が続いた。
 その日も作業場を出る頃にはもう二十時前になっていた。多少の空腹感はあったが、とりあえず先に浴場でシャワーを浴びた。夕食は購買部でパンか何かを買って食堂で食べようと思った。最近は食欲が無く、プレートを注文しても全部食べ切ることができない。空腹感はあっても、食べ出すとすぐに身体に入らなくなってしまうのだ。鏡に映る私は以前より明らかに痩せていた。見るからに不健康そうだった。
 購買部に入る時、女とすれ違った。最初は何とも思わなかった。でも心の中で何かが引っかかった。顔に見覚えがあると思ったのだ。そして思い出した。
 私は打たれたように購買部を飛び出して女を追った。女は作業着のポケットに手を突っ込んで浴場の前の廊下を歩いていた。私は彼女を呼び止めた。
 振り向いた女は私が誰だか分からない様子だった。でも私は覚えていた。身なりも化粧もまったく違うが、間違いなくあの日地下で関係を持った女だった。
 この前地下で、と私が言うと女は目に見えて身構えた。あれはどう考えても船の規定外のサービスだ。後日船の中で顔を合わせても声を掛けないのが暗黙のルールなのかもしれない。それでも私は彼女と話したかった。女は最初は不審そうな目で私をみていたが、だんだんと私のことを思い出して来たようだった。もしかして、あの酔い潰れてた人? と言われ、私は頷いた。
「よく私のことが分かったわね」
 と女は驚いていた。自分でもそう思う。今の彼女は化粧もしておらず、髪も黒髪のショートで、おまけに銀縁の眼鏡をかけていた。服も作業着で、地下にいた彼女とはどう見ても別人だった。それでも私には分かった。
「君は選別で違う部署に異動になったのか?」
「違うわよ。あれはただのバイトで、別にちゃんと正規の所属があるの。この前も言わなかったっけ?」
 そう言われると言っていたような気もする。
「あなた、あの時のこと覚えてるの? 本当に酷く酔っ払ってたのよ」
 断片的ではあるが覚えている、だから君の顔も分かった、と私は言った。彼女は、まぁ、それもそうね、と肩をすくめた。今日の彼女は地下で会った時よりもさらに若く見えた。もしかするとまだ十代かもしれない。
 私の部屋に来ないか? それは自分でも信じられない一言だった。はぁ? と女は訝しげな顔をした。それはそうだと思う。ほとんど面識の無い男に部屋に誘われているのだ。
「あなたの部屋に何があるの?」
 別に、何か特別なものがあるわけではない、と私は言った。本当に取り立てて話に出すようなものなど何も無い。何も無いのに何故誘うの? と女は小馬鹿にするような笑みを浮かべた。そう言われると、私は何も言えなかった。でも女に部屋に来てほしかった。
 別にいいよ、特に予定も無いし、暇と言えば暇だし、と女は言った。私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。取り返しのつかないことをしたような気になった。
 私は女を連れて自分の部屋に戻った。通り過ぎる何人かが私達のことを見ているような気がした。気がしただけで本当のところはどうなのか分からない。神経が異常なくらい過敏になっていた。幸運なことに、知り合いには会わなかった。ドアを開けて中に入るまで、私はずっと周囲を気にしていた。
 本当に何も無いじゃない、と女は私の部屋を見て笑った。恥ずかしい気持ちもあったが、笑ってくれたことで張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。私はクッションを女に渡した。何か飲み物を出さなければと思いコーヒーを淹れた。
「でも場所は良いじゃない。ここなら静かでしょう」
「ごくたまに甲板で電圧関係の工事がある時以外は静かだね。食堂や作業場からはちょっと遠いけど」
「私の部屋は二階の会議室Cの横なのよ。真上がジムだから毎日ドスドスうるさいわ。おまけに奥には演習室もあるから人通りも多くて最悪よ」
 確かにそれは良くない場所だと思った。部屋移動を希望した方がいいのではないか? と私は言ったが、それもそれで面倒なのよ、と彼女は溜息をついた。
「何年くらいこの部屋に住んでるの?」
 もう十年弱になる、と私は答えた。すると、思ってたより歳上なんだ、と彼女は驚いた。幾つくらいに見えていたのか、と聞くと、彼女は二十四歳くらいだと言った。はっきりとした年齢は分からないながらも、さすがに二十四歳ではないことは分かった。あなた、ちょっと童顔なのよね、と彼女はコーヒーを一口飲んだ後に言った。そんなことを言われたのは初めてだった。
 これは何なの? と彼女は机の上に置いていたしわくちゃになったメモを見て言った。メモには一から七十五までの数字が書かれていた。けっきょく私は明美がアカウントを削除してからも日数のメモを続けていたのだ。
 私は女に明美とのことを話した。こんなことを誰かに話すのはこれが初めてだった。しかし不思議と抵抗感は無かった。
「まぁ、多分男でもできたんでしょうね。そうとしか思えないもん」
 私の話を聞いた後、女はあっさりとそう言った。私だってそれは薄々気付いていた。明美はおそらく何かしらの肉を手に入れたのだ。だから私との繋がりが不要になった。
 君には恋人はいないのか? 私は女に聞いた。自分でも話の流れに疑問を感じた。私は女にいったい何を求めているのだろうか。
「恋人がいるならあんなバイトやらないよ」と女は笑った。
「今でもまだバイトを続けているのか?」
「たまにだけどね」
「何故身体を売るような真似をする?」
「そんなの、報酬が欲しいからに決まってるじゃない」
「報酬を得て何がしたいんだ?」
「何でそんなことをあなたに言わなければならないのよ」
 それは確かにその通りだと思った。行き過ぎた質問だったと反省して、私は女に非礼を詫びた。機嫌を損なわせてしまったのではないかと思ったが、彼女は別に怒ったわけではないようだった。
 父親が病気で治療費が必要なの、と女がぽつりとこぼした。悪いのか? と私が聞くと、かなりね、と女は肩をすくめた。
「元々うちは父親と私と妹の三人家族だった。まぁ、もっと元を辿ればもちろん母親もいたはずなんだけどね。私は顔も知らない。物心がついた頃にはもういなかった。死んだとか離婚したとか、父親は聞く度に適当なことを言って誤魔化した。そもそも父親は家にいる時はいつもお酒を飲んでいるような人だったから、話していることの何が本当で何が嘘なのか、まったく判断がつかなかった。だからもう、私の中では勝手に母親は死んでしまったことにしたの。だって、その方が楽なんだもん。もうこの世にいないのであれば余計なことを考えずに済むから。父親が完全に仕事をしなくなったのは、私が十四で、妹が十二の時だった。何か考えるところがあってこのタイミングだったのかは分からない。偶然なのか、狙ってなのか、私はぎりぎり何とか働くことのできる年齢だった。仕方がないから、私が様々なバイトを掛け持ちして家計を支えた。部活も進学も恋も、全部諦めた。だって仕方ないじゃない? その時、三人揃って野垂れ死ぬ以外にはそれしか選択肢は無かったんだから。特に、妹のことだけは何とか守ってやりたいと思った。仕事をしなくなった父親は一日中家にいて朝から晩までお酒を飲んでいた。妹は幼いながらもそれが間違ったことだと理解していた。だから次第に父親に対して怒りをぶつけるようになって、家の中ではしょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩が起こった。状況は悪くなるばかりで、やがて父親はそんな妹に手を上げるようになった。妹は同年代の中では大柄な方ではあったけど、それでも十代前半の女の子が中年男性に力で勝てるわけがない。妹はいつもぼこぼこに殴られて、私はそれを庇った。父親は私のことは殴らなかった。理由は分かってた。万が一怪我をさせて私が働けなくなってしまったら自分が困るから。妹が父親に殴られた日は、必ず一緒の布団で眠るようにしていた。妹は父親にどんなに殴られても決して泣かずに向かって行くのに、私の腕の中では声を上げて泣いた。この暮らしを何とかしなければならないと思った。でもその時の私には最低限の生活を維持すること以上を考える余裕はなかった。そんな生活が数年続き、やがて妹も働くことができる歳になった。その頃、私は学校を辞めて水商売をしていた。妹を学校へ行かせるためにはそれなりの報酬が必要だったから。妹も学校へ通いながらバイトを始めた。私としては、学校に集中して普通に生きて欲しいという思いはあったのだけど、収入源が増えることは正直言ってありがたかった。父親は相変わらず働きもせず毎日お酒を飲んでいた。その頃にはほとんどアルコール中毒と言ってしまっていいくらいの状態だった。どれだけ私達姉妹が報酬をもらっても、暮らしぶりは良くならなかった」
 私は時折相槌を打ちながら女の話を真剣に聞いた。女は残ったコーヒーを一気に飲み干した。もう一杯淹れようか? と聞いたが、彼女はそれを断った。
「ある日、私が働いていた歓楽街で偶然妹に会ったの。驚いた。こんなところで何をしてるの? と声をかけると、私も明日からここで働くと言うから、さらに驚いた。もちろん私は反対した。妹にはちゃんと学校を出てちゃんと働いてほしかった。別に水商売をしている人を否定する気はないけど、その時私は強くそう思ったの。今にして思えば、それは多分、妹に私のようになってほしくなかったからだと思う。生活の犠牲になるのは私だけで十分だと思っていた。でも妹の決意は固かった。私の反対に対して断固として引かなかった。妹は父親にも決して引かなかったり、昔からそういう頑固なところがあった。妹は、もう全ての話はまとまっていると言った。話を聞くと、私との共通の知人、彼はうだつが上がらないスカウトマンだったのだけど、その男が彼女に歓楽街のお店を紹介したようだった。それは、私も名前を知っているお店だった。そのお店は、ただお酒を提供するだけではなく、性的なサービスも行っているところだった。私は街の真ん中で妹の頬を思いっきり打った。でも妹は折れなかった。私は、本当はまた、妹に昔みたいに私の胸の中で泣いて欲しかった。でも彼女は強い目で私のことを見返すだけだった。逆にこちらの方が泣きそうになってしまったくらいだった。それから妹とは何となく疎遠になってしまった。同じ家に住んではいたけど、ほとんど話すこともなかった。徐々に変わっていく容姿や生活習慣から、歓楽街での仕事が続いていることは分かった。半年くらい経った頃、ポストに入っていた通知物を見て、随分前に学校を辞めていたことを知った。ショックだった。私は何のために今まで頑張って来たんだろうと思ったし、今まで感じたことの無いくらいの怒りを覚えた。その怒りは妹ではなく父親に向いた。全ての元凶はこの男だと思った。実際、怒りのあまり包丁に手を掛けたことも何度もあった。それから一年ほど経った頃、妹が唐突に家に帰らなくなった。最初のうちは誰かの家に寝泊まりをしているのだろうと思った。妹は何だかんだまだ子供だったし、こんな家に帰りたくないだろうなという気持ちは私にだって分かった。でもあまりにも帰らない日が続くから、不安になり妹が勤めていたお店に問い合わせてみた。すると、そのお店の支配人なのか、やたらと高圧的な男が電話に出てきて、少し前に妹は辞めたと言った。苛立ちを含んだ声だった。学校を辞めた時と同じ展開に呆れはしたものの、まぁ、何処かで幸せに暮らしているのであればもうそれでいいと思った。私は私で自分の生活が忙しかったからね。でも妹は幸せになれてはいなかった。それから半年が経った頃、警察が家に訪ねて来て、妹の水死体が聞いたこともない街にある貯水湖から見つかったと私に告げた。腐敗が激しい状態ではあったが、縄のような物で首を強く締められた痕が見つかり、殺人事件と断定されたと警察は言った。目の前が真っ暗になった。殺人だろうと自殺だろうと、妹がこの世にもういないという事実が私には重かった。犯人はやがて捕まった。共通の知人だったあのスカウトマンの男だった。ニュースで見た男の顔は私が知っていた男の顔とだいぶ違った。でも間違いなくあの男だった。母親も妹も死んでしまい、ついに私は父親と二人きりになってしまった。父親は相変わらずお酒を飲み続けた。妹のお葬式にも出なかった。私はそんな父親を心から軽蔑した。でもとりあえず働いて生かした。ある日、仕事から帰るとキッチンで父が血を吐いて倒れていた。コップに酒を注ごうとしていたところだったのか、床に酒瓶が転がっていて、部屋中にアルコールの匂いが漂っていた。私はすぐに救急車を呼んだ。上手く受け入れ先が見つかり、とりあえず大事には至らなかったけど、発見が遅れたら命も危なかったと医者に言われた。私は、良かったと思った。不思議だった。殺したいと思うほど憎んでいた男の命を救えて安心している自分がいる。矛盾していると思った。情けなくて泣けてきた。私は一人になるのが怖かった。どんなに最低な人間でも、家族として私の側に残っていてほしかった。その後の検査で父の身体に悪性の腫瘍が見つかった。状況はかなり悪い、でも治療する方法が無いわけではないと言われた。それには莫大な治療費がかかることも、医者は淡々と説明した。私が何とかするしかないと思った。父親が仕事をしなくなった時と同じだった。それで水商売時代のお客さんの伝手で今はこの船に乗ってる。でも船の報酬だけでは足りないからバイトもしてる。どう? 分かった? これで理解してもらえた?」
 私は頷いた。大変だったんだな、と言った。本当はもっと気の利いたことが言いたかったのだが、これしか言えなかった。ずっと人とのコミュニケーションをサボり続けてきた所為だと思った。業務ではマニュアル通りの上辺の言葉でコミュニケーションを取ることができる。でも、それ以外の人と人との純粋な繋がりは、もっと重いものでできているのだ。
 身体を壊さないように気をつけて、それにああいうバイトは病気にも注意した方がいい、と私は言った。我ながら何を言っているのだと思った。女はしばらく黙って私のことを見つめていた。やはり、まずいことを言ってしまったのかと思い、謝ろうとしたその時に女は急に笑い出した。堪え切れなくて笑う、という感じの笑い方だった。私は何故彼女が笑うのかが分からなかった。何が可笑しい? と聞くと女は、今の話を本気で信じたの? と笑いながら言った。
「嘘なのか?」
「嘘よ、嘘。そもそも私に妹なんていないし。とっさに考えた話にしては上出来よね。でもまさか本気で信じるとは思わなかったわ」
「何でそんな嘘をついた?」
「だって、そういう話が欲しかったんでしょう? そう顔に書いてあったもの」
 そう言われて、ぐっと息が詰まった。部屋の空気が薄くなる感覚を覚えた。だとしても、と私の言葉は歯切れが悪かった。女の言う通りだった。私は無意識のうちにそこに美談を求めていた。女の行動を正当化したかったのだ。何故か? それは私が女に救いを求めていたからだ。明美のように正しく私のことを包んでほしいと思ったからだ。
 しばらく二人とも黙っていた。部屋の中は無音だった。不自然なくらい何の音も聞こえなかった。まるで、何もかもがそこに無いようだった。例え目に見えていても物体はそこには無いようだった。私の額を生温い汗が伝っていく。実に気持ちの悪い感触だった。やがて、そろそろ帰る、と言って女は立ち上がった。引き止める言葉は出なかった。
「あのね、そんなに落ち込まないでよ」
 女は呆れたように言った。
「世の中そんなに美しいことばかりじゃないんだよ? 報酬は、美しいことのためだけにあるものじゃない。私はただ自分のために報酬をたくさんもらいたいだけ。それだけよ」
 嘘だ、と私は言った。かすれていて、情け無い声だった。女は私を見て、蔑むようにまた笑った。そしてそのまま部屋を出て行った。女がいなくなってからもその笑みはしばらく私の心に中に残った。
 何故、嘘だなんて言ったのだろう? 考えてみれば私はあの女のことを何も知らないのだ。勝手に女に幻想を見て、そして勝手に失望した。明美のことだってそうだ。幻想。世界の九十九パーセントは幻想でできている。真実なんてものは幻想に比べたらほんの一握りのものなのだ。私は机の上のメモを今度こそ捨てた。二度と修復できないようにびりびりに破いて捨てた。


「私は地元の地域会の会長をやっています。もう随分と長いです。十五、もしかすると二十年近いかもしれません。あなたがどこにお住まいなのかは存じ上げませんが、地域会とは、その地域で暮らしていくにあたって非常に重要な組織なのです。それを最近の若い連中はまったく分かっていない。彼等は道で目が合ってもロクに挨拶もしないし、酷い奴は隣に住む人の顔すら知らないなんて言う。これではいけない。暮らしとは、自分一人だけで成り立っているものではない。自分がいて、他人がいて、道端に草木があって、花が咲いていて、歩くためのアスファルトが舗装されていて、ちゃんとゴミを捨てる場所があり、種別によって捨てるべき曜日が定められていて、そういったもの達が揃って初めて成り立つものなのです。当たり前にあるものなんて何も無い。何もかも、誰かしらが定めてそれを維持しているからこそここにあるのです。つまり、何が言いたいかというと、地域にとって地域会が無ければそれらは成り立たない、ということです。しかし、最近の若い連中はそれを理解せず、会費を払うのに何もサービスを受けられていない、などと言って地域会を脱会しようとする。その会費があなた達の暮らしの当たり前を作っているということを分かっていないのです。しかも会費なんて、そんなに大した額ではない。地域で暮らしていくのであれば、それくらいは黙って払えと思います。回覧板を回すのが面倒だと言う奴もいる。では、回覧板以外でどうやって必要な情報を地域内にタイムリーに連携できるというのか。回覧板が回ってきたら確認して速やかに次の家に回す。そんなことは基本中の基本だ。文句を言わずにやれと思う。文句。そうだ、それでいて彼等は文句も多いのです。この前、私に何も言わずにゴミを捨てる場所を勝手に変えた奴がいました。三十歳手前くらいの主婦でした。これはあり得ないことです。まずは会長である私の許可を取ってから行動すべきでしょう。それを隣人同士で勝手に話し合って決めてしまうなど、言語道断です。当然本人達には厳重注意をしましたよ。めちゃくちゃに怒鳴ってやった。そしたらどうしたと思います? その主婦は、休日に旦那を連れて私のところまで文句を言いに来たんですよ。信じられますか? 私は呆れてものも言えなかった。いや、言ったんですけどね、またけっこう怒鳴って、腹が立って旦那の方をちょっと突き飛ばしたんです。そしたら今度は騒いで警察を呼んだんですよ。大袈裟にパトカーまで来て。もはやその思考についていけませんでした。みんながみんな好き勝手なことをし出すと、必ず綻びが出るんです。だから、ちゃんと管理をしなければ全体が崩れてしまう。正直言って、そんなことも分からないのかと思います。いったい学校で何を習ってきたのかと問いたいところです。私はこれからも会長として地域のために戦っていきますよ。代替わりなんて絶対にしない。誰に何を言われようと続けていきますからね。それが一番地域のためなんですから。ねぇ、あなた、ちゃんと聞いてますか?」
 私はすみません、申し訳ないですと謝った。謝っていると楽だった。謝るだけだったら考えずにできた。


 部屋のドアがノックされ、開けると知らない男が二人立っていた。一人は年配で、もう一人は私と同じくらいの年頃に見えた。
 年配の男の方が、我々は監査部の人間であり、自分は班長の井原でもう一人は担当の鈴木だと言った。何故そんな人間が私の部屋を訪ねて来たのかは分からなかったが、私はとりあえず頭を下げた。
 目の下のクマが酷いですね、と井原と名乗った男が私を見て言った。最近あまり眠れない日が続いていて、おそらくその所為だと思う、と私は答えた。もう一人の男はポケットからメモを取り出して何かを書いていた。おそらく私の言葉を記録してやいるのだろうと思った。
 眠れないというのは、寝付きが悪いということですか? それとも一度は眠れるが、変な時間に目が覚めてしまいその後眠れなくなってしまうのですか? と、井原は続けた。私はどちらもあると答えた。もう一人の男はやはり私の言葉を聞いた後にペンを動かしていた。さすがに耐え切れず、これは何のための訪問なのですか? と聞いた。
 気を悪くされたなら申し訳ない、と言って井原はもう一人の男を見た。確か、鈴木だと言っていた。この歳で監査部の担当ということはそれなりのエリートなのだろうと思った。女からも人気が出そうな、賢そうな顔をした男だった。
「突然の訪問、申し訳ございません。実は少し前から、図書室の持ち出し禁止書物である図鑑シリーズの中から恐竜図鑑だけが失くなっているのです。我々は、他の棚に間違って戻されていたり、机の下に落ちてそのままになっていたりする可能性もあると思い、図書室内をくまなく探したのですが、発見には至りませんでした」
 そうですか、と私は言った。
「図書室の係への聞き取りも行いました。そこであなたがよくこの恐竜図鑑を読みに図書室に来ていたという情報を聞きました。それでお話を伺いたく思いお部屋まで訪問させていただいた次第です。率直にお聞きします。恐竜図鑑について、何か知っていることはありませんか?」
 私は、何も知らない、と答えた。男達二人は示し合わせたかのようにお互いを見た。私の回答と反応から何かを感じ取ったのだろうか。すると今度は井原の方が話し出した。
「失礼なことをお聞きしますが、船を降りたいなどというお考えではありませんでしょうか」
 何故そんなことをお聞きになるのですか、と私は言った。
「最近のあなたの勤務態度について、多少なりとも我々の耳にも入ってきています。問題にならないまでも、あまり良い結果を残せていないということも知っています。過去の傾向からすると、そういった業務に対する不安要素を抱えた船員は、どうしても船を降りることを考えがちになってしまいます。誰しも隣の芝は青く見えるものです。心が弱くなっている時などは特にそうです。それを否定する気はありません。でも、今一度自分の足元を見てみてください。船の待遇は世間の基準から見ても決して悪いものではありません。よく考えて行動してください。失ってしまってからでは遅いのです。一度船を降りた人間は二度と船には戻れません」
 何をおっしゃっているのかよく分からない、と私は言った。苛立ちを含んだ声になっていた。
 何か悩んでいることがあったらここに相談してください、と鈴木は私に名刺大の厚紙を一枚渡した。緑色の文字で「にこにこ悩み相談センター」と書いてあった。船での業務や生活において悩みがある方はこちらまでご連絡ください、とあり、その下に太字で電話番号が書かれていた。電話番号の横に括弧書きで監査部内と書いてあった。私はこんな機関があることすら知らなかった。しかしそもそも監査部が運営をしている時点でどこまで信用していい機関なのか疑問だと思った。少なくとも私は連絡してみようとはまったく思わなかった。平気で竹刀で人を打つような部署に自分の心を預けることなどできるはずがない。
 案内を受け取り礼を言うと、意外にも男達はあっさりと帰っていった。私は部屋の中に戻り、受け取った案内をすぐにゴミ箱に捨てた。本当は燃やしてやりたいくらいの気持ちだったが、火を起こすものなど何も持っていなかった。
 椅子に座り、机の上に置いていた恐竜図鑑を開く。スピノサウルスのページだった。スピノサウルス、後期白亜紀セノマニアン期のアフリカ大陸に生息していたと言われるスピノサウルス科の恐竜。全長は約十二~十八メートル、体重は約七~八トン、歯の形から魚を主食にしていたと考えられている。
 挿絵のスピノサウルスは大口を開けてこちらに向かって吠えていた。邪悪な顔付きだった。身体全体セメントで塗り固められたような灰色で、目元やひれの先などの幾つかの部分だけ肉らしい赤色だった。
 私はスピノサウルスの群れが大地の上を駆けていくところを想像した。確かな地響きが聞こえ、大きな地震のように大地が揺れる。私は立っていることができずに地面に手をつく。スピノサウルスの群れは私のことなど視界にも入っていないかのように、ただただ前だけを見て駆け抜けて行った。想像を超える世界がそこにはあった。
 現実に戻り窓の外を見る。水平線は相変わらず霞んで、果てしなく遠かった。船は今日も淡々と進んでいる。そこに昨日との違いは無かった。


 次の選別で田丸さんが私達の班の班長になった。廣瀬は違う部署に異動になり、受付部から姿を消した。
 田丸さんが班長になったことで班が抱えていた潜在的な問題は大方解決した。異動を申し出ていたオペレーターもけっきょくそのまま留まった。廣瀬が酷かった分、田丸さんの班長としての手腕を感動するほど素晴らしく思えた。多分それは私だけではなかったと思う。
「とりあえず、おめでとうございます」
 おう、と田丸さんの返事は相変わらずだった。特別嬉しそうな素振りは見せなかった。それも田丸さんらしいなと思った。
 昼食、田丸さんはAプレートを食べていた。私は未だに食欲が戻らず、かけうどんだけだった。
「思っていたより早く廣瀬さんの時代は終わりましたね」
 廣瀬が班長だった期間は他の班長の在籍期間と比べると格段に短かった。
「あれ以上続いたらちょっとやばかった」
 田丸さんはそう言ってタルタルソースがしっかりとかかった海老フライを齧った。私はかけうどんの出汁を飲んだ。多少味気なくはあるが、嫌いな味ではなかった。
「田丸さんは、こうなることが分かっていたんでしょう?」
 私がそう言うと、面白いこと言うね、と田丸さんは笑った。私はその笑みから確信めいたものを感じた。でもそれ以上は何も聞かなかった。
 食後、煙草付き合えよ、と言われて二人で甲板の喫煙所まで行く。喫煙所には男が三人いたが、私達と入れ違いに出て行った。田丸さんは慣れた手つきで煙草に火をつけた。
「班長が煙草なんて吸っていていいんですか?」
 田丸さんはその質問には答えなかった。煙草の匂いを嗅ぐとあの地下の夜のことを思い出す。もうかなり前のことではあるが、私の心に落ちないシミを残していた。
 次の選別でお前をリーダー候補に推薦してやるよ、と田丸さんは言った。冗談だと思い、何言ってるんですか、と私は笑った。でも田丸さんは笑っていなかった。
「推薦って何ですか?」
「推薦は推薦だよ」
 私の心はぐらついた。
 私は、現状オペレーターの業務すらまともに遂行できていない、確かに一時期に比べたらマシになった、でもまだまだ安定した実力は無い、そんな人間がリーダーにはなるべきではない、リーダーにはリーダーになるべきだと選別で判断された人間がなるべきだ、そしてそれは私ではない、と私は言った。声が詰まって何度も言い直した。田丸さんは少し笑って、最低限があれば何でもいいんだよ、と言った。
「リーダーになったら報酬も上がるぞ」
 田丸さんはそう言って煙を吐いた後、具体的な額を口にした。確かにそれは魅力的な数字だった。
「他人の上に立つのは気持ちの良いことだぞ」
 でも私はリーダーとしてやっていける自信は無い、と言った。今は何に対しても自信を持てなかった。田丸さんは私の言葉を聞いて笑っていた。
「やっぱりお前は真面目過ぎるよ。もっと簡単に考えろよ。お前は何のために業務を遂行しているんだ? そんなの、突き詰めたら報酬のためしかないだろ。綺麗事を並べたってけっきょくはそこなんだよ。どんなに素晴らしくて有益な業務だろうと、報酬が無いのなら誰もやらないよ。いいか? 最終的には報酬なんだ。そしてそれを得るために必要なのは実力なんかじゃない。報酬を受け取る権利なんだ。そりゃ、実力があるに越したことはないよ。でもそれが必須条件ではない。そんなものは最低限あればいい。実力がある人間がイコール高額な報酬を受け取る人間なわけではない。大事なのはどうやってより高額な報酬を受け取る権利を得るかだ。業務の遂行や生活態度なんてものは全てそのために踏むポイントであり、物事の本質ではない。権利だよ、それだけあればとりあえずは幸せに暮らしていける」
 私は何も言えなかった。何も言わなかった。


 夕食時、食堂のピーク時間の混雑の中、あの地下で関係を持った女に会った。確かに目が合ったが今度は話しかけなかった。お互い気付かないふりをして通り過ぎた。


「では、これより選別を始めます。あなた達は船の規定に基づいて監査を行った中で、それぞれ一定の要件を満たしていると判断されたため、今回選別対象者となりました。これから私達からいくつかの質問を投げかけます。それに対して各々の考え、意見、思想を回答してください」
 本当に久しぶりの選別だった。試験官は前回左端に座っていた白髪混じりの男だけが違う人に変わっていて、あとの二人はあの女と若い男で、前回と同じだった。
 私の業務遂行レベルは相変わらず安定していない。明美のことや船に対する疑問を抱えたまま日々を何となくやり過ごしていただけだった。本来、そんな中途半端な人間が選別対象者になれるはずがない。しかし、一方で本人のモチベーションを維持、または上げるためにとりあえずのステップとして選別を受けさせることがある、という説もあった。今回の私はそれに該当するのではないかと思った。
 今回も選別対象者は四人で、私は一番入り口に近い椅子に座っていた。前回同様に奥から座っている順に回答をするのであれば、私が最後に回答することになる。今回の選別対象者は全員男だった。分かってはいたが、もちろんあのプリント部の男はいなかった。前回の選別からどのくらいの時間が流れたのだろう。やはりはっきりとしたことは分からなかったが、相当長い時間が経ったような気がした。
「あなた達はバナナは好きですか? 好きか、嫌いか、またその理由を教えてください」
 前回同様、女からの質問だった。いきなり変化球から来るとは思っていなかったのか、他の選別対象者達が動揺しているのが分かった。無理も無いと思った。皆、張り詰めているのだ。しかし私はまったく動揺しなかった。こんな質問にまともに答える必要は無いのだ。
 権利を得ることこそが最も重要なことだと田丸さんは言っていた。しかし私はそうは思わなかった。何故なら、その権利はあくまで船の上だけでの話だからだ。海の向こうにはたくさんの世界が広がっている。鳥は遠くの空を飛んでいるし、インターネット上には様々な情報が溢れている。あの、プリント部の男が書いた島だってどこかに本当に存在するかもしれない。大事なことは権利なんかではない。そんなものは外の世界では何の役にも立たない。大事なことは、自分は今どのような人間で、何をしてこれからどのような人間になりたいかだと思う。私はあの、恐竜の世界へ行きたい。わけの分からない化け物に囲まれて、自分の小ささと一から向き合いたい。私はそれを試験官達に伝えるべきだと思った。
 奥から二番目の男は、多くの食物繊維を摂れるので好きです、と答えていた。考えた末のありきたりな回答だと思った。今回も奥から順に回答を求められた。隣に座る男は、ビタミンB6を上手に取り入れられ、効率よくアンチエイジングができるので好きです、私は夜に食べることが多いです、と言った。よく見ると、この男は前回の選別でも私の隣にいた男だった。
 やがて私の番が来た。恐竜の、と言葉を出そうとした時に、真ん中に座る試験官の女と目があった。再教育で私を打った時の、あの目だった。
 その瞬間、船を降りてあなたに何ができるの? と、誰かが私の耳元で囁きかけた。私は驚いた。しかし周りにいる誰かが私にその言葉を囁きかけた様子はなかった。これはあの時、地下で関係を持った女が私に言った言葉だ。もちろん、あの女は今ここにはいない。それに今囁いた声はあの女の声ではなかった。しかし私にははっきりとその言葉が聞こえたのだ。
 船の声だ、と私は思った。私は今、船に問われたのだ。
 若い試験官の男が何も答えない私の顔を覗き込んだ。男はまた私のことを忘れているのだろうか。前回の選別のことも、あの地下の夜のことも。そんなことはどうでもいい。だが、権利のことを考えると覚えていてほしくもある。彼に顔を覚えてもらうことは必ず私にとってプラスになると思う。いや違う、そうじゃない。私とは、そうじゃない。争うように、恐竜の世界へ行きたい、と心の中で言った。しかし心の中はあくまで心の中に過ぎなかった。私は、生きたいと思った。
 果肉がやわらかく食べやすいので好きです、と私は言った。

選別

執筆の狙い

作者
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太宰治賞一次通過、二次落選
得意ジャンルではないにしろ、ダメな部分を知りたいです

コメント

平山文人
zaq31fb1c44.rev.zaq.ne.jp

羊様、作品を拝読させていただきました。

作中で描かれる主人公の船上生活が現実の生活のメタファーと呼べばいいのでしょうか、正確な表現が難しいのですが、そのような構造の一種の前衛小説と捉えて読み終わりました。まず一読して思い出したのは安部工房の「砂の女」でした。人生を、その不条理を砂に埋もれていく一軒家に例えた作品でしたが、本作にも通じる部分があるかもと感じて思いだしたのでしょうか。

本作の主人公が悩むことは昇進と恋愛ですね。どちらにも意欲を見せない、いわゆる欲の少ない、我の弱いタイプの人間ですが、悪い表現だと活気や勇気が足りない。最後に主人公が辿り着く「生きたい」という意志が、恐竜の世界という「強大な力」「野蛮ともいえるダイナミズム」「弱肉強食のなかの生命そのもの」の中に飛び込むことを拒否し、小さな、弱い自分のままで生きたい、というところに落ち着いてしまったところで、読者は「主人公が体験した様々な出来事は彼を変えなかったのか」と思ってしまうわけです。勿論そういう主人公のような人物は幾らでもいるでしょうし、読者自身が「ああ、俺もこういうところあるな」と感情移入出来る部分もあると思います。
 が、Bildungsromanというジャンル、ありますよね。日本の近代文学なら井上靖の「あすなろ物語」ですとか。漱石の「三四郎」「それから」「門」もそうでしょう。必ずしもある小説作品の中で主人公なり登場人物が成長しなければならないとは思いませんが、誰であれ20歳の時と40歳の時には変わる部分があって、それは「経験」によって変わるもの、つまり価値観だと思うのですが、それが本作では描けていないというか、羊様はそれは最初から考えていなかった、と仰られるかもしれませんが、徹底したシニスムを貫いているわけでもないですし、その辺りの主人公をどうしたかったのか、が、敢えて言えばダメな部分なのではないかと私個人は思います。
 冒頭から「選別」をかなり気にしている様子が描かれている割には、ほとんど選別による出世昇進のための努力を主人公はしていませんよね。それならそれで、努力できない自分を嘆くなどの記述があれば辻褄は合う気がしますが、それもなくただ淡々と日々働いて生きている。この辺りかな、と私個人は思いました。

文章力、表現、語彙などはプロの作家のレベルにあると感じました。文学界や文藝にこのレベルの作品がたくさん載っていると思います。得意なジャンルがあるとのことで、それを書かれればよいのではと思います。お疲れさまでした。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

最初の場面だけ読ませていただきました。

感想に入る前に……
太宰治賞一次通過、おめでとうございます!
二次で落ちたとなると、やはりその理由が気になりますよね^^;
私もささやかな賞は取れるのですが、書籍化まではいかなくて、それは自分の実力不足が原因なのですけど、二次落ちの悔しさは少しは分かるつもりでおります^^;

では、冒頭部分の感想です。
この物語はどんな場面でどんな人が出てくるのか、読者は文章から情報を得て脳内で描いていくわけですが、
この作品、やたらと「選別」という単語がとても多く出てきて、それに引っ張られます。
私は船については詳しくないのですが、「選別」って何のことなのか、まったくわからないまま読み進めました。

>選別前はやはり物事に過敏になってしまう。

と書いてあるので、よほど大事なことなのかな? と思いました。
私は「選別」とは何かを知りたくて読み進めましたが、これは作者様が意図的に狙ってこのように書いたということでしょうか?

>ダメな部分を知りたい

とのことですが、冒頭で読者が「選別」に興味を持たなければ離脱されてしまう作品のように思いました。
実際、私も読んでいてだんだんもどかしくなり、最初の段落だけ読んで離脱しました^^;

一次に通るということは、作品の書き方としてはその賞の趣旨に合っているということだと思います。
ですが、読者受けしないとなると、やはり二次落ちになるのかな、とも思いました。
などと偉そうなことを書いてしまいましたが^^;
私も二次に通るような作品を書けるよう、精進したいと思います。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

面接官とのやりとり辺りまで読みました。

「選別」って何?
という疑問だけでここまで読みました(読まされた)。が、なんでしょうか、時系列に情景描写を書く『練習文』のような感じで、伝わるものがありませんでした。全てが説明文を読まされているかのようで、果たして主人公は「選別」に挑むにあたり、どのような心情であったのかが全くわかりません。
心情描写の技法として、天候になぞられて描かれる場合がありますが、この情景描写では読者に伝わってきませんね。
また、途中でコックが登場しますが、彼とのやりとりを会話文で構成し、心情を入れながら物語を構成した方が説明のくどさを回避できて良かったのではないかと思いますし、時系列で語るなかで、回想を入れ込みながら構成するのも読者を飽きさせない手法かとも。
とにかく、早い段階で「選別」が何なのかを、読者に明らかにした方が良かったのでは?

ぷりも
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拝読しました。
最初はリアルに船乗りの話なのかと思っていました。苦情受付センターの業務を担当しているところで、大きな船というのは大企業という例えなのかなと考えながら読み進めました。
本来規律を誰よりも遵守しなければならない上層部がそれをすり抜けたり、体罰をわからないように行うというのはパワハラ隠蔽、中には自ら命を絶つ者も現れるが、上層部は亡くなった方よりも自分達の責任問題に頭を悩ますのは現代社会の闇といった風刺なのかなと思いました。
登場人物が人間味豊かに描かれているのが良いかと思いましたが、私的に脳内で色々行間を埋めたり、伏線かと思って頭の片隅に一時保存する情報がありすぎて負担を感じました。

ラピス
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手法としては文藝賞「水と礫」みたいだと感じました。異なる世界なんだけど現実と似ている、技法名がありそうですけど、どうでしょう?
個人的に参考になりました。私は一昨年、挑戦して駄目でしたので。
ごはんで羊さんに物申せるのは大丘さんくらいですよ。(同じ太宰治賞一次通過者なので)他にもおられるかも知れませんが。
しかし、私も果敢に意見してみます。正しいかどうか怪しいやつです。汗。

着地点が決まらなかったかな、と。終わり方でテーマが迷走したというか。いっそ船を降りようとしてしまえば、失敗したとしても何かしら得るのでは、などと思いました。

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平山文人様

コメントありがとうございます。いろいろな作品をご存知なんですね。安部工房の「砂の女」も井上靖の「あすなろ物語」も私は読んだことがありませんでした。
コメントで書かれている方がいらっしゃいましたが、本作のテーマは「大企業の中で生きる」ということでした。主人公は悩みつつも、けっきょく変われない、安定した生活から抜け出せない、という話でした。そういう意味では「主人公が体験した様々な出来事は彼を変えなかったのか」は変えなかったという話です。主人公の成長は0です(0に戻ってくるという方が正しいですね)。
ただ、選別に対しての葛藤はもう少し書くべきだったことは反省点だなと思いました。選別という存在をもっと持ち上げても良かったかと。
また頑張ります。次回もよろしくお願いいたします。

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神楽堂様

コメントありがとうございます。
選別という言葉は序盤から存分に匂わせていきました。ただ、選別の本質を説明するタイミングが少し遅くなってしまったことは、ご指摘の通り反省点です(あるいは本質を明かし切れていたのかとも思います)。
本題に入るタイミングというのは、いつも考えます。早すぎても遅すぎても、書きすぎてもだめだと、プロットを考える段階でかなり重要視しています。選別は自分のイメージがはっきりしていた分、読者を置き去りにしてしまった感があります。反省点として次回に生かしたいと思います。

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凪様

コメントありがとうございます。
選別の説明をするタイミングは遅かったですね。そこは狙ったところではありません。無意識のうちに遅くなってしまっていました(それで最後まで引っ張っていける実力があれば良かったのですが・・・)。
選別に挑む心情はもう少し書くべきでした。全体を通して、肝心の選別のシーンが短いことは気づいていました。これでも少し文章を足したのですが、曖昧にしておきたい部分もあり、悩みました。選別のシーンが一番書いていて難しかったです。
コックとの会話は台詞にはしたくなかったですね。ここはちょっと記号的にいきたかった部分でした・・・。
いろいろ課題が見えました。ありがたいです。

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ぷりも様

コメントありがとうございます。
伝わって嬉しいです。大企業で働くことの葛藤と安定性がテーマでした。やる人がいたらやらない人もいる、正しい人がいたら間違えた人もいる、組織が求めているのは発展ではなく持続、そんな考えから書きました。
伏線というものはほとんどなかったですね。事象の連続でした。伏線的なものが必要だったでしょうか? 淡々と語る感じで行くイメージで書いていました。そういう意味で、作者としてこの小説で強く伝えたいことはなかったと思います。ニヒリズムというか、空気感勝負なところはありました。

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ラピス様

コメントありがとうございます。
半現実・半空想という意味では「水と礫」というのも確かに分かります。ただ、あの話はあのリピート技法が斬新だったので、あまり意識はしていませんでした。私は本作を書くにあたって、遠野遥さんの「教育」を強く意識していました。意識しすぎて引っ張られ過ぎたなと、少し後悔をするくらいです。
終わり方はあれで最初から決まっていました。船を降りれない人の話なので、船を降りないことは絶対でした。なので、訴えかけるものは少なかったかなと思います。基本的は空気感重視の作品でした(実力不足でしたね・・・)。
一次まで残っても二次まで残っても最終受賞ができなければ0だと、ここ数年本当に痛感しています。お互い頑張りましょう。

ぷりも
p4200062-ipxg00p01tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp

文学ということで、伏線はなくても良いかと。私は何でも伏線と考えてしまう病なので、相談内容に伏線が張られているのかと考えてしまいました。
あと、私は文学不得手なので
気の利いたコメントできなくてすいません。

小次郎
121-85-75-244f1.hyg1.eonet.ne.jp

勝手な想像力が働きながら読みました。僕は船っていうのは、何らかの生命体で、選別されると、別の船、つまり別の生命体にいけるのかななんて思いました。主人公はこの船にいたくなくて、選別されようとしてるのかなって。たぶん、違うでしょうけど。ただ、いろいろ想像力が刺激されますね。悪いところといえば、ストーリーがよくわからない事でしょうか。あと、いろんな人がいろいろ気持ちの吐露をしてきますが、吐露に対する主人公の心理描写が薄いかもしれませんね。でも、心理描写薄いって、感じるのは僕の主観であって、これぐらいでいいと思う人もいるかもしれません。選別されたい心理は、しかしながら、もっと、書いた方がよいかもです。主人公がぼやけるからです。
とりあえず、主人公には選別されたいという気持ちはあると伝わってきますが。

京王J
M106073002160.v4.enabler.ne.jp

>>大企業で働くことの葛藤と安定性がテーマでした。やる人がいたらやらない人もいる、正しい人がいたら間違えた人もいる、組織が求めているのは発展ではなく持続、そんな考えから書きました。

たぶんこのテーマが、文学の人たちにとってあまり面白くなかった、のでしょうね。
文学の人たちに刺さらなかったのです。

高橋源一郎(この人は文学の人で、群像の選考委員だった人)が言ってましたが、まず書く前に、

・自分の書こうしていることは、今、この時代に、必要とされているか考えよう

・他の人は、どんな作品を応募してきそうか考えよう 

上記の2つを考えることが大切らしいです。

文学は常に新しい問題を扱わないといけないのと、また、選考では他作品よりも目立つ必要があるからです。

文章がどうこう、と言う前に、まずは書き出す前の段階について見直したほうがいいかもしれません。

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小次郎様

コメントありがとうございます。返信が遅くなってしまい申し訳ございません。
選別という概念についてぼやっとさせたいというのはありました。


「変動無しっていうのは、つまりは変わらなくてそのままでいいって意味だからな。今の班 の今のポジションが合ってると判断されたから変動無しってこともある。ちょっとポジテ ィブに考えてみろよ」
「でもけっきょくは選ばれなかったということじゃないですか」
田丸さんは私を慰めようとしてそんなことを言っているのだと思った。選ばれた船員に は「変動無し」ではなく「選出」の通知が来る。「選出」こそが選別における絶対的な成功 ではないのか。
「選ばれることが必ず良いことだなんて誰が決めた?知ってるか?選別で選ばれて降 格した奴もいるって話だぜ」
「本当ですか?」私は驚いた。


上記のような会話でそれぞれの選別に対しての認識をぶつけ合うだけで、本質は謎なままにしておきたかったです。
そういう意味では心理描写は薄かったですね。ただ、濃くしてしまうと作品のバランスが崩れてしまったとも思います。難しいところです。

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京王J様

コメントありがとうございます。
テーマの選定、なかなか難しいですね。勢いのあるベンチャーの方が大企業よりも小回りが利いて実際のところは必要とされ、それでも安定を求めて大企業に残るかどうかという葛藤は、ある意味現代的でおもしろいかと思ったのですが、文学の人が興味を持つかと言われると確かに微妙ですね。貴重なご意見ありがとうございました。

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