メフィストフェレスの巻き戻し
チャイムが鳴ったとき、坂井は布団の中にいた。目は覚めていたが、起きて動く気にならず、起きてからもずっと布団の中にいたのだ。坂井は頭を動かしたが、布団から出ようとはしなかった。そしてインターフォンを見ることすらせず、再び寝ようとした。
ところがチャイムが二度、三度、四度と鳴り続けるうちに怒りが募ってきた。六回目のチャイムで坂井は布団をはねのけて起き上がった。
坂井はインターフォンの前に来た。画面には黒いスーツを着た外国人が映っていた。髪が真っ黒で目の色は茶色い。顔のほりが深い中年の男だった。口の上にひげを生やしており、髪の毛には整髪料をべったりとつけて七三分けにしていた。
坂井はその男に向けてインターフォン越しに怒鳴りつけた。
「うるせえなあ! 帰れよ!」
その声は男の耳に届いたようで、男はそれまで下に向けていた目線をインターフォンのほうに向けなおした。だが男は坂井に怒鳴りつけられたにも関わらずにっこりとした。
「ご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません。私、藤原美香様のことでお話がしたくてご訪問させていただいたのですが、坂井様でよろしいでしょうか?」
坂井は目を見開いた。坂井は過去の記憶を必死に探りはじめた。美香の葬式に参加したとき、こんな男はいなかったはずだった。もしいたら絶対にわかったはずだった。今時、こんな風に髪の毛をぴったり七三に分けている男など滅多にいない。
「えっと、どちら様ですか?」
男のことを怪しいと思いつつも、坂井はそう聞かずにはいられなかった。美香に関することならどんな情報でも欲しかった。死ぬ前に自分に言い遺した言葉が聞けるかもしれない、などと淡い期待を抱いたりもしていた。
「私はメフィストフェレス、と申します」
メフィストフェレス、という名前に坂井はどこか聞き覚えがあるような気がしたものの、どこで聞いたか思い出すことができなかった。なんとなく邪悪な響きをもつ名前だ、という気はしたものの、次のメフィストフェレスの言葉でその思いは霧散した。
「美香様のことでお話したいことがあるのですが、ここで立ったまま話すのは、なんといいますか……」
坂井はメフィストフェレスを外に立たせたままにしていたことを思い出した。美香のことに夢中にあるあまり外にいる相手とインターフォン越しに話しているということを忘れていたのだ。
「ああ、すいません! 今開けますね」
坂井は玄関のほうへ走っていくと、ドアを開けた。
「どうぞ、あがってください」
「お邪魔します」
メフィストフェレスは笑みを浮かべると滑り込むように中へ入り込んできた。坂井へ会釈してから靴を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。そのあいだずっと、メフィストフェレスはにやにやしていた。
「すいません。部屋がちょっと散らかっていて。ついさっきまで寝ていたもので」
坂井の言う通り、部屋の中はひどく散らかっていた。机の上には空になったカップ麺容器や空のペットボトルなどが置きっぱなしになっており、着た後の服が床に散乱していた。
「おやおや、本当に散らかっていますね。しかし付き合っていた女性が事故で死んだとなればこうなるのも無理はないと思いますよ。それはつらいことだったはずですからね」
坂井は胸がずきりと痛むのを感じた。美香の死からまだ一週間しか経っていない。悲しみはまだ心に大きな傷を残していた。
坂井はソファの周りにあったものをソファの後ろに放り出してソファの上を片付けた。そのあと、メフィストフェレスへソファに座るよう勧めた。
メフィストフェレスがソファに腰かけると、坂井は机をはさんで反対側のソファの上に腰かけた。
「それで、話というのはなんでしょうか?」
坂井は尋ねた。
「私はあなたを藤原様が死ぬ前の時間へ戻してさしあげることができます」
「……え?」
とっさに、メフィストフェレスは気が狂っているのではないか、と坂井は思った。正気で漫画の世界で起こるような話をするとはとても思えなかった。その坂井の気持ちはどうやら表情に現れていたらしくメフィストフェレスは、信じていませんねと言った。
「坂井様はスマホをお持ちでしょうが、それを持ってきていただけませんか?」
坂井はすぐには動き出さなかった。メフィストフェレスを追い出そうかどうか考えていたからだ。それから坂井は部屋から出ると枕元に置いてあったスマホを取りに行った。その際、スマホの画面を110番に連絡できるようセットした状態にしておいて、坂井は戻ってきた。
「持ってきましたよ」
坂井はなにくわぬ顔でソファに座った。親指はいつでも押せるように電源にかけておいてあった。
「スマホをつけてみて、今日が三月十五日九時三十一分であることを確認してください」
坂井は、メフィストフェレスが突然詳細な時間をそらで言い出したことに対して気味悪さを感じつつも電源を付けた。しかし日にちを実際に確認しようとはしなかった。日時はスマホをつけただけでわかるのに何か操作をしたら変に思われるからだ。それに操作している間に110番に通報したくなってもできなくなってしまう。
「見ました」
「では、今から時を三月十三日十八時二十四分に戻します」
メフィストフェレスは二回手を打ち鳴らした。そのときに一瞬だが、メフィストフェレスの目が燃えるような赤色になったように見えた。だがメフィストフェレスが手を降ろしたころには元の茶色に戻っていた。
「スマホをつけてごらんなさい」
そう言われても坂井はしばらくの間スマホの電源を付けられなかった。もしつけたときに三月十三日が本当に表示されたら、と思うと怖かったのだ。だがふいに、こうして怯えている自分が馬鹿らしくなってきた。時が戻るなど科学的にありえなかった。自分はそんなことを信じる馬鹿ではないはずだ、と坂井は自分に言い聞かせた。
坂井はスマホの電源をつけた。表示されたのは十八時二十四分、という時間と三月十三日水曜日、という文字だった。
坂井はぶるぶると震え始めた。それから青い顔でメフィストフェレスの顔を見た。
「あなたは、誰ですか?」
「私はメフィストフェレス、悪魔です」
坂井はその場で崩れ落ちそうになった。クッションに座っていなければ本当に崩れ落ちていただろう。
まさか悪魔を家に招き入れてしまうとは。それも時間を巻き戻せてしまうような恐ろしい悪魔を。
そこで坂井はメフィストフェレスという名前をどこで聞いたか思い出した。メフィストフェレスは十六世紀生まれの作家ゲーテによって書かれた小説『ファウスト』に登場する悪魔の名前だ。
テレビドラマでメフィストフェレスの存在に言及するシーンがあって、それで坂井は知っていたのだ。だが架空の存在であるはずのメフィストフェレスが目の前にいるとは坂井には信じられなかった。もっともそれを言うなら悪魔も架空の存在なのだが。
「坂井様、怯えてばかりいては始まりませんよ。あなたがしゃきっとしなくちゃ藤原様を救うことはできないんですからね」
美香の名前を出されたことで、坂井は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
「あ、悪魔がどうして俺を助けてくれるんです?」
「それはもちろん、あなたの魂が欲しいからですよ。悪魔が人の魂を集めることは人の間でもよく知られていることです」
「帰ってください。魂なんてあげるわけにはいきません」
「あなたの魂と引き換えにあなたの大切な藤原様がよみがえることができるんですよ? それが嫌なのですか?」
「無理です。魂なんて。俺が死んじゃうじゃないですか。いや、ひょっとしたら死ぬよりもひどいかもしれない」
「なにか誤解されているようですが、魂をいただくのは坂井様が死んでから、です」
「死んでから?」
願いがかなったその場で魂が持っていかれるわけではないのか、と坂井は驚いた。
「はい。あなたは生き延びた美香様と一緒に幸せに人生を過ごし、天寿を全うして自然に死んだあと、その魂を私がいただくのです。あなたはあなたの人生を過ごすことができるのですから、実質ただで願いをかなえられるようなものです」
それだけ聞くと、いいことしかないように思える。しかし実際はそんなことなどないはずだ。相手は悪魔なのだ。絶対に何か裏があるはずだ、と坂井は考えた。
「いや、でも魂を取られたら転生できないんじゃ」
「無宗教なのに転生は信じているんですか? ああ、それとも私が魂の話をしたから信じる気になったんでしょうか。ええ、確かに転生はできなくなります。ですが転生したとしていいことがあるとは限りませんよ。ちなみにあなたの来世はもう決まっています。あなたは来世で妻にDVを働く男と育児放棄する女との間に生まれます。そのクソみたいな両親に散々虐待されながらあなたは生きていくことになるんです」
「嘘だ!」
とっさに坂井はそう叫んでいた。自分の未来がすでに決まっているとは信じたくなかったし、その未来がそこまでひどいものだということはもっと信じられなかった。
「嘘ではありません。神があなたのためにそう定めたのです。神の試練、いわゆる神による愛の鞭ってやつですよ」
「あなたが本当のことを言っている根拠はありません」
「信じないのは勝手ですが、来世でもお金持ちの両親の元に生まれられる確率はどれくらいでしょうかね」
「どういうことですか?」
「日本で上位数パーセントと言っても過言ではないようなお金持ちの両親よりもいい両親に巡り合える確率がどれくらいあるかっていったら、それはもう低いといわざるを得ません。普通はその他の九十数パーセントに当たるものですからね。次にひどい親の元に生まれるくらいなら、いい人生のところで終わらせてしまったほうがいいと私は思うんですがね」
メフィストフェレスの言っていることは数学的に正しかった。しかもこの願いをかなえるために犠牲にするのはたった一つ、毒親の元に生まれる来世だけだ。そんなものはどぶに捨ててもいいようなものだ。
「それも、そうですね。わかりました。あなたの言う通り、死んだあとは魂を差し上げましょう。だから、俺に美香を助けさせてもらえませんか?」
「わかりました。では行きましょう」
メフィストフェレスは手を二回打ち鳴らした。
坂井はスマホの電源をつけた。三月八日の午前五時十三分になっていた。
「戻ってる。やった、戻ったぞ!」
「喜んでいる場合ではありませんよ。藤原様が事故に遭われるのは十時一分のことです。それまでにあと一時間もありませんよ」
「美香を助けるのを手伝ってくれるんじゃないんですか?」
「そんなことは一言も言ってませんよ」
メフィストフェレスはそう言ったきりソファの上から腰をあげようとしなかった。
坂井は裏切られたような気持になった。本当ならメフィストフェレスを引っ張って連れていきたいほどだったが、今は言い争う時間も惜しいほどだった。メフィストフェレスを説得している暇があるなら自分一人で美香を救う方がはるかに確実だった。
「もし美香が助からなかったらもう一度時を戻してもらうからな!」
坂井はそう言い捨てて部屋から慌てて出て行った。坂井はメフィストフェレスの返事を聞くことなく出て行った。だがメフィストフェレスは坂井の言葉に答えたりはしなかったのでどちらにせよ返事は得られなかっただろう。
坂井は美香がいる場所に関して必死に思いをはせた。美香が事故にあったのは、大学前の横断歩道だった。大学までは歩いて十五分ほどだった。
実際は走って行ったため十分ほどで着いた。坂井は大学の校門前で美香が出てくるのを待った。
しばらくして美香の姿が見えたとき、坂井は美香に向かって手を振った。美香は坂井の姿を見て驚いた様子を見せた。
「なんでここにいるの? 旅行に行ってるんじゃなかったの?」
坂井のそばまで来ると、美香は尋ねた。
「旅行? ああ旅行か。あれはいいんだ」
「いいって何が?」
美香は怪訝そうな表情を浮かべた。
「途中で行く気が失せたからやめたんだよ」
「なんで?」
「なんとなくだよ。それよりどっか店に行こう。おごってあげるからさ」
坂井は美香の手を引いて歩き始めた。一刻も早くあの危険な横断歩道から距離を取りたかったのだ。
「それはうれしいけど……夜はちょっと用事があるから」
「そうなの? 今は大丈夫そう? 出発の時間とかは平気?」
「それは大丈夫。ありがとう、行こう」
美香と別れた後、坂井はマンションにある自分の部屋へ戻ってきた。
「本当にありがとうございました。あなたのおかげで美香を助けることができました」
坂井はメフィストフェレスに向かって深々と頭を下げた。
「あなたのお役に立ててよかったです。では戻りましょうか」
「あの、この時間の俺は旅行に行ってるんですけど、さっき俺旅行には行かなかったって嘘ついちゃったんですけど大丈夫ですかね?」
「問題ありません。それに関しては藤原さんが自分で勝手に解釈をつけるでしょう。多少混乱することはあってもそれ以上のことはないでしょう」
「そうですか。じゃあよかったです。じゃあ時を戻してもらえますか?」
「いいでしょう」
メフィストフェレスは手を二回打ち鳴らした。
坂井はスマホを見た。三月十五日九時三十一分になっていた。
「美香、美香!」
坂井は美香へ会いに部屋を出て行った。その坂井が帰って来たのは昼頃だった。戻ってきたとき、坂井の表情は怒りに満ちていた。
「メフィストフェレス! どういうことだ!」
玄関を開けてそうそう、坂井は怒鳴った。
「お帰りになられましたか」
坂井はメフィストフェレスのそばまで来てつめよった。坂井のものすごい剣幕を目の当たりにしてもメフィストフェレスは顔色ひとつ変えなかった。
「美香が死んでいる! なぜだ!」
「それはあなたの世界の美香様は死んだからです」
「でも俺は美香を助けたぞ!」
「そう、助けました。助けたことで世界が分岐したのです」
「分岐? 世界が分岐したって、なんだそれ? なんでそんなことになるんだよ?」
「シンプルに説明しましょう。この世には二つの世界があります。あなたが過去に来て藤原様を助けた場合と、そうでない場合です。あなたが過去に来たその段階で、二つの世界は別々の道を歩んでいくことになります。そしてあなたの過去では、藤原様はすでに死んでいます。つまりあなたの世界はあなたが藤原様を助けなかった世界なのです」
「過去を変えられるって言ったじゃないか!」
「そんなことは言っていません。決定したことだから過去なのです。それが変えられるわけがないでしょう」
坂井はメフィストフェレスの言葉を信じられなかった。しかし現に過去は変わっていなかった。坂井の記憶には美香の葬式に出た記憶が残っていた。それはつまり、美香の死を自分が体験したことになる。そのことがメフィストフェレスの言葉を裏付けていた。
この世界の坂井と、美香が助かった世界の坂井は限りなく違う世界を生きている。なぜ分岐するか、などという理屈は関係ない。ただ世界が違う、という事実だけがそこにはあった。
「こんなことが……こんなので魂を失うなんて納得できない」
「私としても困っているのですよ。どうしてあなたはここに帰ってきてしまったのですか? 帰らなければ藤原様と一緒にいられたのに」
「そんなの」
あの世界に自分がいるからだ、と坂井は言おうとした。確かにあの世界に坂井が二人いたらおかしい。あの世界に存在していい坂井は一人だけだ。だがその坂井は、どちらでも構わない。過去の経験、知識を共有できていたならばどちらでも問題はないはずなのだ。
「すいません、俺をもう一度過去に戻してくれませんか?」
坂井は言った。坂井の言葉を聞いて、メフィストフェレスは笑みを浮かべ、目が燃えるような赤色になった。
「いいでしょう。言っておきますが、あなたがあなたを殺しても絶対捕まりません。その世界からあなたが消えていなければ警察はなにもできません」
メフィストフェレスは二回手を打ち鳴らした。
執筆の狙い
SFをテーマに書いたつもりですが、いつの間にかファンタジーになってたかんじです。でも時間に関して書けたのでよしとします。
過去改変のさいに起こったことに関しては多世界解釈に基づいてます。多世界解釈の説明は長くなるので省きます。
なんでドイツの悪魔が日本にいるのか、という話ですがそもそもメフィストフェレスじゃないかもしれません。悪魔は自身の本名を知られてはいけないので嘘を言ってるかもしれないのです。