作家でごはん!鍛練場
しまるこ

最近、大東流とかいう変な道場に通ってみたけど

さいきん、大東流とかいう、変な合気柔術みたいな道場に通っているが、これがなかなか面白い。

例えば、いちばん基礎的な技で、合気上げというものがある。

これは、自分の両手を、相手に掴まれて、その掴んでいる相手の手を挙げるというものだけど、これがどうしてなかなか挙がらない。筋力の力でもって、無理矢理グッと持ち上げて何十センチか挙げることはできるけれども、力感をまったく伴わずに、相手の力に逆らわずに挙げられる方向は一つしかない。一つしかない通り道を見つけるのである。これができるようになるまで、2、3年かかるという。

合気上げに関らず、ほとんどすべての動作、先を取ったり、押すと倒れるといった箇所は、一つしかない。いつも、正しい理合、正しい出口は一つしかない。それはこうやって文章を書くときにも感じるものであり、アウトプットの出口は一つしかないのではないかと思うのである。いろんな出口を探したり、いろんな壁をコツコツ叩いてみたりするが、結局のところ、いつも一つの出口に頼るほかない。

道場では、俺が二番目に若く、ほとんどが40代50代で構成されていて、60代が一人いる。全体で14、5人くらいだ。もともと空手や柔道など、他の武道をやってきた人が、合気柔術とかよくわからない理合を取り入れて、自分の武道に活かそうと考えてやってくるケースが半数を占めるが、なんら武道経験のない人、一介の主婦だったり、システムエンジニアだったり、自営業の鳶職、今話題のダイハツとトヨタの設計に関わっている人もいる。こんな古臭い趣味に今の人は興味を持たないのか、先生も宣伝しようと働きかけない人だから、新しい人は増えない。2年ぶりに入ってきた新参者が僕ティンというわけである。

毎週、日曜日の朝9時からやっている。バカである。上に挙げた通り、みんな、40代、50代、みんなちゃんと結婚しており、年頃の娘がいて、会社ではそれなりの役職を得ていて、人生でいちばんの繁忙期である。昔はこのような人たちのことを別の星の生き物だと思っていて、まさか一緒に汗を流す仲になるとは思わなかったが、人生とは分からないものである。人生の決算期にある彼らにとって、日曜日は孫の手より貴重なはずだ。彼らが週休二日か一日かわからないけれども、日曜日ほど貴重なものはないはずで、俺のように、ほとんど毎日が日曜日みたいな人間だったら構わないかもしれないけど、日曜日に加えて朝9時ときたら、そんなのは、会社での勤務日をもう一日増やしているような苦行に思えるけれども、物好きなものである。まぁそんなふうに、貴重な日曜日を犠牲にして、熱心に武道を追求していると思ったら、追いかけているのは他人の影である。

9時から10時は空手。10分休憩を挟み、10時10分から11時10分までは居合。また10分休憩を挟んで、11時20分から12時20分までは木刀による剣術。また10分休憩を挟み、12時30分から13時30分まで大東流合気柔術の時間になる。

9時から10時             空手

休憩

10時10分から11時10分        居合

休憩   

11時20分から12時20分       剣術

休憩

12時30分から13時30分      合気柔術

このように、一時間の稽古ごとに10分の休憩を挟み、4項目の稽古をすることになる。剣術をやるのは、柔術を理解するためには剣の理合を学ばなければ理解できないかららしい。そのために2万円の居合刀と6000円の木刀を買わされた。

まるで、学校のようにあてがわれた、可愛いらしい10分の休憩時間だが、これがあまり可愛くない時間なのである。この休憩時間になると、みんなゾロゾロと玄関に移動して、靴に履き替えて、道場の外に出ていき、外にある喫煙所に10人くらいが集まってタバコをふかしながら、悪口大会を開いている(武道をやる連中なのに、ほぼ全員タバコを吸っている、先生は吸わない)、10分の休憩時間、初めから終わりまで、ずっと悪口を言っている。悪口の対象は、その日に休んだ門下生だ(日曜日の朝9時ということもあって、必ず誰かしら欠席する)。

人は、悪口を言っているときがいちばん楽しそうである。稽古している時よりずっとイキイキしている。いい歳した大人でも、悪口を言っているときがいちばん楽しそうである。大人だからか。悪口の内容というのは、「この前の江石さんのみた? ここ、こんなふうになっちゃってさ、あれじゃあ斬れねえよなぁ(笑)」「木村さんは俺より二年も前からやってるのに全然だね」「本人は技で効かせてると思ってるけど、あの人のはウエイトに頼ってるだけだね」「高橋さん、岡田准一にジークンドー教えたことがあるってそればっか言ってるよね(笑)」「ジークンドーやってたかもしれないけどさぁ、何も武道やってない俺の方が、この武術に関してはわかってる気がするんだよねぇ」

こうして聞いていると、 いかに自分の方が秀でているかを交わしているように思う。しかし、よくよく観察してみると、そこには積極性と消極性が入り混じっている。というのも、2年なら2年、3年なら3年、その年数に応じた恥ずかしくない技量がちゃんと自分に備わっているかを気にしているように見える。皆さんにも覚えがあるだろうが、仕事が何年目だったら、これくらいができて当たり前、これくらいの技量を持ち合わせていなければならないといった、会社や組織のお約束ごと、会社でも後から入ってきた後輩に追い抜かれることは耐えがたいものであり、これが習い事でも同じような習性として働くらしい。他者を気にして、全体の中で自分はどれくらいなのか、長ければ長いほど、今度はそれに応じた技量を求められるものであり、あの人は何年やってるのにまだあれができない。あれがわからない。俺の方がうまい……、といった電波が、彼らが口に出さなくとも、休憩中だろうが稽古中だろうが、なんなら道場に入ってきて挨拶を交わす瞬間から、飛び交っている。

これは積極的なのか消極的なのかわからないけれども、趣味だったり、習い事だったり、自分から進んでやっていることですら、時間とその見返りが一致しているかということに最大の焦点が置かれている気がした。まるで中高生の部活動だ。ある一定の組織に、一定数の人間が集められると、競わずにはいられなくなる。仕事で同僚と競い合って、家で近所のお父さんと比べ合って、道場でもやっている。

基本的に俺は会話に参加せず、「私は敵じゃないですよ」と、天使のような顔をしながら、置物のように座っているだけだけれども、喫煙所のすぐ横に停めてある俺のバイクが、会話中に嫌でも視界に入るせいか、「そのバイクは何cc?」だとか、「125ccだと自動車専用道路は走れるの?」とか、俺と俺のバイクさえなかったら、発生しないで済んだ質問をされるのではあるが、たまに悪口を振られることもある。悪口を振られ、一度、「ああ、でも、○○さんの〇〇って、すごいですよね」と反射的に返してしまったら、嫌な顔をされたから、それすらも言わない方がいいということがわかり、沈黙を徹底するようになった。

俺が気になるのは、どうして40や50になって、禿げてるのに、まだ他人と競い合って、その見栄や欲がなくならないのだろうということだ。日曜の朝9時にやってくるくらいだから向上心はあるのだけど、やや薄汚なく、完全なクリーンなエネルギーというわけにはいかない。一つわかることは、人間は諦めが悪いということだ。もういい中年で、禿げて、肌も浅黒く、口の中も銀歯だらけで、それでも見栄というものはなくならないらしい。およそこの喫煙所の前に女子高生の集団が通りかかっても(日曜の朝9時に通りかかるわけがないけどね)、誰もこの人たちを見向きしない。この人たちの誰かが、Aさんより早く動いて先を取ろうが、Bさんを触れずに気合いだけで道場の端から端まで吹っ飛ばそうが、女子高生たちはインスタで韓流アイドルの映像を見るだけである。というか、朝の9時だから寝てる。

人は自分の悪口を言われていることに気づくものである。皆さんの知っての通り、悪口を言う人間は悪口を言われるという絶対の法則がある。不思議と、こうしたことは、裏で示し合わせたかのように、電波に乗って無事に届くかのように、悪口を言われた人は、先週自分が休んでいる間、たくさん悪口を言われたのだろうという顔をしながら出席してくる。悪口を言った人も、証拠はあるまい、という顔をしている。悪口を言われた人も、証拠、その証拠がいらない、自分の前で悪口を言わなければそれでいいといったような、はたから見ていると、明け透けに見えるというか、もう隠す必要あるのかな?というか、いっそ開き直ってしまっても問題ないというか、目の前で悪口を言っても同じというか、それでもみんな、細心の注意を払っている。本当に、日曜日の朝9時にきて、何をしているんだろうと思う。

やっぱり期待からきているのか。自分の人生に対する期待。奴隷の鎖自慢と言ったら言葉は悪いが、 環境がそうさせている気がする。彼らの意思ではない、彼らはただ環境に反応しているだけだ。絶対しかない世界から、地上という相対的な世界に降りてきて、ここには相対性しかないから、比べずにはいられなくなるのか。俺は道場というものは禅堂のようなものだと思っていたから、この狂態には驚いた。少しニケけた顔をしただけで警策で叩かれると思っていた。入門して、帯をもらい受けたら、心にも、”口にも”、帯を締めるものだと思っていたが、それはずいぶん古い考えらしい。

俺もほぼニート生活をしていて、社会と絶交してから早5年が経ち、どらどら、社会さんも少しは変わったかな?と思って、どんなものかと久しぶりに覗いてみたら、まだ汚れていた(^^;)  人が集まるところはいつも悪い電波が漂っている。古めかしい武術道場ですらこれだ。俺が前に勤めていたデイサービスや病院もダメだった。学校もダメ。インターネットはもっと酷い。この分だと、寺もダメだろう。教会もダメ。幸福の科学もダメ。インドのアシュラムもダメ。一体どこに安息の地はあるだろう? だからブッダは言ったのだろう。ブッダは、もし自分と同等か、それ以上の人間に出会うことに恵まれなければ、ただサイのツノのように一人で己の道を進めと言った。彼らとは決して関わらないようにと念を押して言っている。俺は社会に何一つ期待していないからいいけど、社会の中で生きなければならない人はかわいそうだ。

仕事をして金をもらえればいいわけじゃない。道場に行って強くなればいいわけじゃない。人と会って悪口を言わなければいいのだ。95%の人間はタマスで、4.9%の人間はラジャスで、0.1%の人間がサットヴァと聖者パパジが言っていたが。まぁ、確率で言うなら、仕方ないわな。

彼らが悪口大会を開いている間、俺はずっとこんなことを考えている。悪口を言わない人として認識してもらえているが、ご覧の通り、立派にこうやって悪口を書いている。俺が彼らの考えていることがわかり、彼らが俺の考えていることがわからないという利点に恵まれていなかったら、考えただけで恐ろしいことだ。そして俺は、いつも懇切丁寧に技を教えてくれる先輩たちに対して、どうしてこんなことを書いているんだろう。やっぱりアウトプットの出口は一つしかないからか。いつもその出口を、剣と柔術によって教えてくれているのは彼らではあるのだが。

最近、大東流とかいう変な道場に通ってみたけど

執筆の狙い

作者 しまるこ
133.106.55.60

お久しぶりです。小説というよりエッセイですね。もう少し、語りより描写の方が多い方が、格好もつくとは思いますが^^;

コメント

神楽堂
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読ませていただきました。
興味深い作品でした。

どうして人は他人と比べたがるのか。
いいテーマだと思いました。

そもそも「人間」という言葉からして、他人を意識していますもんね。
「人」の「間」が「人間」ですから。

以下、広辞苑からの引用
>人間とは、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた「ひと」のことである。また、その存在のありかた全体を指すこともある。関係性に着目するために「人間」という名称があてられたとされている。人間は「社会にあるひと」を指す言葉である。また「人間」と書いて「世の中」「世間」という意味にもなる。

とのことです。
人は社会的な生物なので、他人を意識し、比較するのですね^^;
仏教用語で「人間」とは、「世の中」という意味もあるらしいです。

「人」は「人間」であるがゆえに、悪口を言ったり人と比べたりするのかも知れませんね^^;

いろいろと考えさせられる、いいエッセイですね。
読ませていただきありがとうございました。

渡辺沙羅
114-134-212-157.fnnr.j-cnet.jp

一回読んでまた読みたくなる良い文章です。

私の友人に合気道をやっている人がいて、その人の生年月日と合気道開祖の亡くなった年月日が同じらしく、その人は確かに開祖の生まれ変わりのような風格と所作と言葉を持っています。私もその人を尊敬しているのですがもう高齢で最近会っていません。合気道は基礎体力がいるのでそこの鍛錬で落ちこぼれる人がいるみたいです。
私は入門しようとして電話したらもう道場はないみたいで残念でした。

しまるこ
133.106.49.5

神楽堂さん

初めまして。 こちらこそ、考えさせるさせられるコメントをありがとうございます。本当になんで、「人」で良いはずなのに、「間」なんてものが一緒についているのか。今更ながらハッとさせられましたよ。まるで、個人として存在していないみたいです。

ありがとうございます。

しまるこ
133.106.49.5

渡辺沙羅さん

植芝盛平先生や、先生の生まれ変わりだと思えるような方のもとで、修行できたら、これほど幸福なことはないでしょうね。今ではおそらく、あのような神業の使い手はいないと思われますから。開祖自身も、合気道は私が死んだらなくなるだろうみたいなことを言っていたように思います。作家もまたその人に始まってその人に終わるものだと思います。何を言いたかったのかわからなくなってしまいましたが、とにかく、コメントありがとうございました!

ラピス
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私も習い事してるけど、皆さん私より優れているし勉強家なので、悪口言いようがない。だけど、これが小説書きの集まりなら、陰で、あの人の作品の欠点は〜なんて言いそう。苦笑。
昔勤めてたデイの同僚はシャレにならんくらい、悪口きつかった。つか直に言われてた。それで辞めたから、直もねー。
言われる人にも原因ある時あるから、一概に悪口ダメとも言えないし。考えてしまう。

しまるこさんの作品はいつも人間観察のヒントになります。

しまるこ
133.106.49.19

ラピスさん

こんばんはラピスさん。 私も本当のところは彼らのことが大好きだし、いつも懇切丁寧に教えてくれて大好きなんですよ(笑) しかしまぁ、そういった諸々の感情を包括的に記述できる器量に達していないせいか、一感情を膨らませてそれで終了とまぁそんな具合ですな(笑)。ラピスさんの習い事の件、興味深いです。気が向いたら、作品の休憩みたいな感じで、書き上げてもらいたいものです^^

金木犀
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お疲れ様です

今カクヨムで黒歴史放出祭なるものが開かれてるみたいです

参加してみたらいかがかなぁと。

https://kakuyomu.jp/contests/8th_anniv_kurorekishi/detail

しまるこ
133.106.48.131

金木犀さん

こんばんは、金木犀さん、ありがとうございます。文学賞とかいったものより、そういったものの方が投稿しやすく感じます(笑) 試しに一作探してみようと思いました。お声掛けいただきありがとうございます^^

夜の雨
ai249101.d.west.v6connect.net

「最近、大東流とかいう変な道場に通ってみたけど」読みました。

>エッセイと随筆のちがいは、カタカナ(英語)と漢字(日本語)の違いだけですかね?<
という質問をAIに尋ねてみると、比較検討が多かったので省きます。

次に「違い比較辞典」に目を通せば、下記のとおりです。
「随筆」と「エッセイ」の違い
「随筆」と「エッセイ」の違いを、分かりやすく解説します。

何らかの出来事などを書き記す上で自分の抱いた感情や考えを加えたものが「随筆」です

それに対して「エッセイ」は自分の感情や考えなどを文章で表現する上で、自分の内面の動きをわかりやすくするための一例としてなんらかの出来事を描写します。

「随筆」は出来事の割合が比較的多くなりますが、「エッセイ」は筆者の内面の割合が多い作品です。

まとめ
「随筆」と「エッセイ」は同じものやカタカナ語と和訳として扱われますがニュアンス的には違いがあります。
ただしどこからどこまでが「随筆」か「エッセイ」かは線引が曖昧なので、「随筆」のような「エッセイ」やその逆も多く、書いている人からして一緒くたに扱っていることもあるでしょう。


ということで、「エッセイ」と「随筆」は似たもの同士という事になりますね。
まあ、気持ちの上、微妙に違うところが面白い。

で、御作の内容についてですが。
作者のしまるこさんが書いている内容はよく伝わりました。

「大東流という、合気柔術の道場に通っている」というところから、そこで何を教えているのかという基本的なところから始まり、そのあとに作者が伝えたい本質の部分が書かれています。

つまり「人間とは何であるのか」というようなところが、書かれているのではないかと。
なので道場に通っている生徒の種類分けなどから具体的に描かれている。
世代がどのように構成されているのかとか、職業等はどうかとか、そのなかで作者(主人公)は、どの位置にいるのかとか。
そして仕事を持っている者なら休日は貴重なはずなのに日曜の半日(4時間)を使っている、これは仕事が週に一日増えたようなものだとかで「バカである。」と書かれているのが、面白い。
作者は彼らを「昔はこのような人たちのことを別の星の生き物だと思っていて」とあるが、ラストまで読んでみても、彼らとは、距離を取っているような描き方になっていましたが、肝心な「出口」は彼らに教えてもらっているようです。

>俺は社会に何一つ期待していないからいいけど、社会の中で生きなければならない人はかわいそうだ。<
が、ラスト近くの内容。

そこに至るところに「社会と絶交してから早5年が経ち」とあり、作者がニート生活をしていることが書いてあるが、「古めかしい武術道場ですらこれだ。」ということで、彼らが武術の休憩時間に庭で車座になり本日来ていない者の悪口を言っているエピソードの中に加わらないで観察している主人公が「社会と距離を取っているところが面白い」。
主人公が通っている「武術道場」が社会の窓の一つという事です。
>古めかしい武術道場ですらこれだ。俺が前に勤めていたデイサービスや病院もダメだった。学校もダメ。インターネットはもっと酷い。この分だと、寺もダメだろう。教会もダメ。幸福の科学もダメ。インドのアシュラムもダメ。一体どこに安息の地はあるだろう?<
このあたりが凄い説得力を持って語られていていいですね。
そこから「ブッタ」お釈迦様のお言葉が語られるので、説得力がある。
>もし自分と同等か、それ以上の人間に出会うことに恵まれなければ、ただサイのツノのように一人で己の道を進めと言った。彼らとは決して関わらないようにと念を押して言っている。<

で、主人公と言えば「俺は社会に何一つ期待していないからいいけど、社会の中で生きなければならない人はかわいそうだ。」と、締めているので、主人公はすでに悟りを開いている。

それでどこに「オチ」るのかと思っていると。
>人と会って悪口を言わなければいいのだ。<
であり、その主人公が言っている悪口の対象になっている先輩たちが「いつも懇切丁寧に技を教えてくれる」とあり、「どうしてそんな親切な方の悪口を書いているのだろうか」ときました。
「出口」を「剣と柔術によって教えてくれているのは彼らではあるのだが。」

「アウトプットの出口は一つしかない」について。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合気上げに関らず、ほとんどすべての動作、先を取ったり、押すと倒れるといった箇所は、一つしかない。いつも、正しい理合、正しい出口は一つしかない。それはこうやって文章を書くときにも感じるものであり、アウトプットの出口は一つしかないのではないかと思うのである。いろんな出口を探したり、いろんな壁をコツコツ叩いてみたりするが、結局のところ、いつも一つの出口に頼るほかない。
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冒頭付近にあるこの文章が、ラストにも関わっています。
そして主人公はこの出口を「ひごろ武道の休憩時間に他人の悪口を言っている先輩方が教えてくれた」と、敬意を表しています。
ここに、すべてが要約されているのだと思いますね。
御作の中に描かれている悪口は、日常の雑談の一部程度なので参加者同士のコミュニケーションといったところだと思います。
この先輩方も自宅に帰れば良きご主人であり、主婦であり奥さんである。
主人公も社会と一定の距離を取っているといっても、社会の中で生活をしている限りは、その中の一部という事でしょう。
つまり世論調査でよくある政党支持率と似たようなもの。
「支持政党なし」の部類に作者さんは入るのでは、それが社会に参加していないとも、思われがちですが、実のところ、そういった支持政党なしが、最大の社会での党派という事なのではありませんかね。

御作は、なかなかのものでした。
御作に手を加えると文学小説にも、もちろんなると思います。

お疲れさまでした。

しまるこ
133.106.204.82

夜の雨さん

夜の雨さん、こんばんは。いつもながら、ご丁寧に、そして解説付きのコメントをいただけて嬉しく思います。 自分でも、そういうことだったのかと、納得させられたといいますか、私も考えずに書いたのですが、でも、ご指摘いただいた内容は全部その通りだなぁと思えて、こんなふうに解説してくれたことが本当に嬉しかったですね。

冒頭とラストの文章は、ハッと浮かんで紐付けたのですが、偶然でした。最初から狙ってやると滑ってしまうかもしれませんね。私の気に入っていた部分でもあったので、夜の雨さんにご指摘いただけて嬉しかったですよ。

面白いという言葉が何度か聞けてよかったです。自分が体験したことをそのまま考えずに書いただけで、工夫もなく、これだけ登場人物がいるのに、登場人物を使った織りなす人間ドラマというものが描けたらよかったんですけれども、作中にある通り、アウトプットの出口は一つしかないと。一つひとつ、今書けるものをそのままアウトプットするのがいいかなと思いましてね(笑) 夜の雨さんも、私だけでなく、いろんな人に長文で丁寧に解説のコメントをして、頭が下がる思いです。いつも、ありがとうございます。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

しまるこさんのカラッとした語りが良いですね。

途中からこの文章こそ愚痴、悪口なんだろうなと思いつつ、それでもストレスなく読め、最終的には自覚していたというオチをつける。

具体性とゴシップ性、客観性と少しのユーモアが混じり、ちょっと面白いです。
ただ、そこまで深みを感じませんでした。

剣術で身を打たれるとか合気道のコツをつかみ超常現象のような技をする、とかそういう描写があったら、また独自性が出そうですけど、それは、たぶん、書いている時から、焦点には置かなかったのはわかります。

ただ合気道教室の日課の具体的な描写は個人的には見たかったです。


ぎりぎりのゴシップ性ですね。どこら辺が快感で、どこら辺が不快になるのかは自分にはわかりませんが、話が進むにつて、かなりゴシップに傾いてきて話を閉じざるを得なかった感じがします。

しまるこ
133.106.222.66

えんがわさん

ですね。

私自身も、表面を撫でただけといいますか、いや、ここからだろう、という思いがありまして。 道場の様子が具体的に書かれていると感想をつけてくれた方もいるけれども、やっぱり読者が擬似体験できるかといったら足りないですね。こんな日曜日の朝9時に、誰も道場なんて通いたくないですが、でも何をやっているのか気になりはするから、それを擬似体験できるところに読書の面白みはありますからね。 私も皆さんや、えんがわさんが、ふだん何をやっているのかとても気になります。そういうところも書きながら、ドラマ性も書いていきたいですね。

この後、さらに、世の中を斜めに見て、人々を馬鹿にしたような文面が続くのですが、ここに載せようと思った瞬間、嫌気がさして、載せたくなくなってしまったので、前半部だけでいいかなと思って削除したのですが、わかる人にはわかってしまうのかなと思った次第です。

そういえば、このコメント返しで言うのもあれなんですが(笑)、えんがわさんの、アスキーアートのノベルゲームでしたか。私もノベルゲーム作ったりしてますが[https://www.youtube.com/watch?v=lbnAb6Tiu70]、私はティラノビルダーとかいうやつを使っています。えんがわさんの、アスキーアート、あれは職人芸ですよ。本当にすごいと思いました。一見、地味かもしれないけど、AIにとって代わられてしまうものなのか、素人にはわからないけど、すごいと思わずにはいられませんでしたよ。何かに繋がるといいですね。 文章だけで相手してもらえる時代は終わったように思いますから、何かいい手はないかなぁとは思っているんですがね(笑) まぁ、私みたいに、表現方法を探している者もいるから、えんがわさんの方で、新しい発見とかあったら、また見せてほしいなと思います。

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