わらし
詩織がやってきたのは、店内に流れる音楽が映画タイタニックのメドレーに変わってしばらくしてからだった。約束の時間より早く入店した僕は、主人公とヒロインの出会いと、詩織との出会いを重ね合わせながら、すでに一杯目の珈琲を飲みほし二杯目を飲みはじめていた。
僕に気づき、俯きかげんに近づいてくる。襟元の広い黒のTシャツに、同色の水玉模様のフレアースカート。黒を基調としたいつも通りの服装だったが、なぜか醸しだす空気に以前とは違う重さも感じられる。式も直前に迫っているというのに不安に駆られなくもない。店内の曲は、僕の心情を映しだすよう緊迫度を高め、氷山へ近づく場面に突入した。
「遅れてごめんなさい。母のことで話し込んでいて」
「いいんだ。僕も来たばかりなんだし」
横を見ると、含み笑いを浮かべて店員が立っていた。気まずくなり「雨が降ってきそうだね。傘、持ってきた?」と、たわいのない会話ではぐらかす。けれど詩織はまったくの無反応。
もしかしたらマリッジブルーに陥ったのかもしれない。ふと、不安になった可能性もある。確かに僕は三十三歳で要職に就いているが、せんじ詰めれば斜陽の一途をたどる本屋の書店員でしかすぎないのだ。詩織が懸念を抱くのは当然だった。
「話というのは?」
「じつは、さとしに返したいものがあって……」
詩織は少し口ごもり、バッグから見覚えのある小箱を取りだした。それは半年前、僕がジュエリーショップで購入した指輪のようにも見える。
まさか……婚約解消? 困惑を隠せずに小箱を開けてみると、これっぽっちも疑いのない婚約指輪がそこにあった。
愕然とした。式は十日後だ。旅行のチケットだってとどいている。曲は氷山にぶつかり、船が沈没する場面に移った。詩織と映画、両方向からバイオリンの切ない哀愁が入り込んでくる。
「どうして……」
僕は訊いた。詩織は今にも泣きだしそうな目をさせ、「ごめん」とつぶやいた。バイオリンはさらに哀愁を掻き立てるよう哀しいパートを弾き続ける。
「反故にしてほしいの。わたしは、あなたに相応しくない女だから」
「相応しいさ。だからプロポーズをしたんじゃないか」
「それには感謝してる。でも幸せって脆すぎるのね。こんなに簡単に崩れるとは思ってもいなかった……」
詩織が言うにはマリッジブルーではなく、女手一つで育ててくれた母親が脳梗塞で倒れたことが理由らしい。かなり重症らしく、今後も介護なしでは生活がままならない状態だという。まして事情があって故郷を飛びだした母親には今現在身寄りが詩織しかいなかった。そのため短時間で高収入を得られる風俗の道を選択したようだ。
「別にそんなところで働かなくても、二人で、お母さんの面倒を見ればいいと思うけど」
詩織の母と初めて会ったときの印象は、北国育ちのせいなのかとにかく控え目で気弱そうな感じだった。でも何度か話をするうちに、ああ、この人は弱々しく見えても芯の強い女性なのだなと思い直した。だから殺伐とした都会で、誰の力も借りずに一人で詩織を育て上げられたのだ。
「そうはいっても二人で暮らせないのよ。障害を抱えた母と三人で暮らすの。そんなこと、あなたにさせられない」
「かまわない、家族になるんだから」
僕は失いたくない一心で食い下がったが、詩織は頑として応じなかった。
きっとぎすぎすした未来が見えていたのだ。家族に手のかかる病人がいれば、最初こそ親身になって介護の手伝いができても疲れてくれば面倒くさくなる。特に凡庸な僕にはそれが顕著だと映ったのだろう。だったら相手を嫌いになる前に別れる、それが詩織の導きだした答えだ。
出された珈琲に口も触れずに席を立つ。僕の目を見て何かを訴えかけるよう唇を噛み、去っていった。選んだ職種はたぶんキャバクラ、そしてこれから面談に行くのだ。詩織が唇を噛むのは、迷った末にする決意のサインなのだから。
扉の先に姿が消えると、店内のメロディはいつのまにかオーケストラによる漂流場面に変わり、寂しげに物語の終わりを告げていた。
やむ気配のない雨が静かに降っていた。僕は傘をさすことも忘れ、やりきれない思いで駅に向かって歩きだした。ロータリーに着いてもなぜかすぐに電車へ乗る気になれず、雨に濡れない場所を探して行き交う人々を眺めていた。
同じように傘もささずに歩いている人がいる。見ようによっては思いつめた表情ともいえるし、もしかしたらあの人も僕と同じで苦悩を抱えているのかもしれないとか。足取りがしっかりしているので傷は癒えかけているのだろうと、あっけなく消えてしまった負の感情を押しつけていた。
その後も三十分あまり人を観察していたら、雨で潤う紫陽花の横に、ひどく郷愁を誘う少女を見つけた。故郷でひと夏を共に過ごした同い年の奇妙な少女、クルミ。面影が酷似していたのだ、本人と見紛うばかりに。
でも他人の空似だとすぐに否定した。
なぜなら僕は中年の域に差しかかった三十三歳、とうぜんクルミも少女から大人の女性になっているはずだ。それなのに容姿が当時のままだというのは、いくら年齢にからくりがあるとはいえ腑に落ちない。やはり僕の思考回路は視覚も含めて相当異常をきたしているのだろう。
いずれにせよクルミと過ごしたのは、ここから四百キロも離れた、ひなびた山村といっても過言のない故郷の町。ことあるごとに騒々しい都会が好きになれないと言っていたクルミが、こんな場所にいるはずもなかった。
逡巡していると目が合った。一瞬、視線を宙に浮かせたものの、すぐにぎこちないというか不慣れな笑みを返してきた。その懐かしい仕草で、僕はそれまでの疑念をすて少女をクルミだと確信した。
いくら年月が記憶をうすめようと、クルミと過ごしたひと夏だけは鮮明な記憶が残っている。それほど鮮烈だったのだ。だからその夏、僕たちは僕の部屋で共に暮らし絶えず一緒にいた。
クルミが歩いてくる。雨をまったく気にせず、軽やかに赤いワンピースの裾をひるがえし近づいてきた。
「久しぶりだな、さとし」
相も変わらぬつっけんどんな口調に、懐かしさを募らせるなんておかしな感覚だと思う。けれど悪意の感じられないトーンに、今も妙な心地よさがある。見た目の違和感は消えそうもないが。
「どうして、ここに……」
「お前のテレパシーを察知したんだ」
「僕のテレパシー?」
クルミが奇妙な少女だというのは知っていたし、存在も人によっては必要だということも認識していた。けれど、結果として僕の家庭に不幸を招いた張本人であることは事実だ。だからこそ決別したのだし、そんな人間にテレパシーを送るわけがない。
「さっき、水玉模様のスカートをはいた女性が駅の中に消えたぞ。おそらく目的地は吉原だ」
吉原? だとすれば、職種は僕の想像の範疇を超えている。
「どうして、その女性のことを僕に言うんだ。水玉模様のスカートをはく人なんてざらにいる」
「だったら他人か」
答えられなかった。クルミは嘘をつかない女。普通の思考では理解できない不思議な力を持っていた。なら詩織が吉原に職を定めたのも事実なのかもしれない。となれば僕と詩織も、喫茶室で聴いたタイタニックのように悲恋としてピリオドを打たれてしまったのか。それを解明するには、クルミと出会った十三歳の夏の記憶をたぐり寄せることしかないと思った。
当時僕は、すし職人の父とパート勤めをする母、そして高校生の姉と裕福ではなかったが特にこれといった不満もなく暮らしていた。もちろん父と母が僕と姉のことを中心に考え、自らの贅沢を戒めていたからだ。のみならず、僕と姉がその貧乏な生活を受け入れ高望みをしなかったことも要因の一つだと思う。
それでも生活は困窮していた。姉の大学受験が迫っていたのだ。
僕と違ってできのいい姉は、進路指導の先生から県内のA大学を勧められていた。ただ、一応公立であっても入学金などで初年度の諸費用は百万円近くかかる。昨今のコロナ騒動で客足が激減し、その後も活気の戻らない店で働く父親の給料では、日々生活するのが精一杯で到底叶えられそうもない学費だった。そのため姉は飲食店でバイトをはじめ、帰宅するとそのまま夜遅くまで机に向かっていた。
そんな家族の苦労をよそに、ひとり僕は十三歳の夏を満喫していた。中学校の裏手にある広大な森の一角に、親友のミツルと秘密基地をつくり一日中遊び惚けていたのだ。
校舎の裏手には町を縦断する大きな川の支流が行く手を遮っており、森の先は小高い山々が連なっていた。周囲には学校以外に家もなく、森へ渡る橋もかなり遠回りしないとなかった。
また森にはクヌギの木が密生していて、僕らはカブト虫やクワガタ虫を捕まえては町へ売りに行った。その得たお金で木の上に砦をつくり、二人だけの秘密基地を完成させたのだ。枯れ枝と購入した板を麻縄で縛っただけの粗末な小屋ではあるが、僕たちは有頂天だった。森の番人気どりで双眼鏡を覗き、ときおり侵入してくる狸や野犬を、松ぼっくりを弾にした手製のパチンコで追い払っていた。
そんな折、川沿いの道を軽やかに歩く人の姿を見つけた。こんなところに誰だろう。そう思い双眼鏡を向けると、赤いワンピ姿の少女が何かを追いかけるよう手を伸ばしたり、小走りで跳ねたりしていた。ミツルも目にしたようだ。僕の袖をつかみながら、青ざめた顔をさせて話しだした。
「さとし、お前……この森に狐が住んでいるのを知ってるか」
「何だよ、いきなり」
「いいから答えろよ」
「見たことはないけど、山のほうにねぐらがあるって聞いたことはある」
「あいつがそうだぞ。だって俺たちと同じぐらいの年なのに、今まで見たことがないからな」
「でも人間だよ。しかも超可愛いときてる」
「ばかだな、狐が化ける人間は美人と相場が決まってるんだ。もし……」
「もし?」
「言わねえ。だけど近づかないほうがいいぞ。近づいたら最後、素っ裸にされて尻の毛までむしり取られるからな」
少しも説得力がなかったが、僕はミツルの話をちょっとだけ信じた。というのも、少し目を離した隙に少女の姿が忽然と消えていたからだ。
日が西へ傾きだした頃、ミツルが時計を気にして急にそわそわしだした。きっと塾の時間が迫っているのだ。
「あ~ぁ、行きたくねえな」
「行ってこいよ。もう少ししたら僕も帰るから」
ミツルの家は市営住宅暮らしの僕の家と違って、中流。だから常日頃成績の悪いミツルを何とかしようと思っていた母親は、移住してきた外国人夫婦が英会話塾を開いたことを知り、せめて語学力だけは身につけてほしいと入塾させたらしい。
「しょうがねえな。さぼると、おふくろ鬼だし、俺行くわ」
とたん僕は手もち無沙汰になった。行動力のあるミツルがいてこその番人であり、一人だと案外やることがないんだなと実感した。さがせば鳥や虫の観察とかいくらでもあるのだろうが、いかんせん凡庸すぎて気力がついてこない。
(そういえば、川沿いの道を歩いていた少女はどうしたろう)
ふと、忽然と姿を消した少女のことが気になりだした。
思い立ったが吉日。少し時間が経ってしまったけど行動することにした。もしかしたら、まだあの辺りにいるかもしれないのだ。木に縛りつけた梯子をするすると降り、川沿いの遊歩道へ急いだ。
川岸にはツル科とイネ科の水草が密生していて、幅一メートルほどの道を挟んだ森側には熊笹が覆っていた。しかもほとんど人の通らない道は遊歩道というより小径といったほうが近かった。僕は、遠慮知らずに伸びる雑草を足で踏みつけ進んだ。
一キロほど歩くと橋のある分岐点にたどり着いた。この橋を渡れば僕たちの暮らす町がある。でも僕は橋を渡らずに川沿いの道をもう少し行ってみようと思った。見つけるのはもう無理と半ばあきらめていたので、特に根拠はなかった。あるとすれば時間だけ。
そのうち西の空が真っ赤になると森は遠ざかり、名ばかりの遊歩道も熊笹も消えて畦道との境になった。百メートル先には見渡す限りの田園風景が広がっている。
そろそろ潮時かなと思ったそのとき、川岸から弱々しい気配を感じた。
(まさか、あの少女?)
僕は目を凝らして辺りを見まわした。すると背の高い葦が群生する川岸で、少女が身体を半分川に沈ませ倒れていた。
僕は駆けより、川の水に股下まで浸かって少女を押し上げた。たぶん足を滑らせて捻挫したのだろう。意識の混濁している少女の足首は、夕日と同じで真っ赤に腫れ上がっていた。
それにしても、間近で少女を見ると際立って美しいのに驚いた。睫が人形のように長いうえに鼻すじが通り、まるで何百年も前の時代に暮らすお姫様を見ているような気にさせられたのだ。そればかりかスタイルもよく、もしかしてほんとうに狐? と思うほどだった。
しばらくすると、少女が頭を左右に振って起き上がった。
「助けてくれたのか、ありがとう。夢中になって蝶々を追っていたら足を滑らせたんだ」
顔立ちからしっとりした口調を想像していただけに面喰ったが、トーンとリズムは不思議と心地よい。
「でも足を挫いてるみたいだし、歩けないよ。家の人に来てもらおうか」
「その必要はない」
「どうして」
「お前が、おぶればいいだけのことだ。助けた以上責任はある。それに服も濡れていることだし着替えも必要だろう」
なぜそういう発想になるのかわからなかったが、こんな場所に、怪我をしている少女を残して帰るわけにはいかない。
「いいけど、僕に背負られて恥ずかしくないの」
「恥ずかしいのは、お前だろう」
図星だった。おぶるというのは少女を背中に乗せて、両手でお尻を支えることだ。まだ異性の身体に手も触れたこともないのに同級生に見られたら何て言葉を返していいかわからない。そればかりか背中に異性の乳房が押しつけられるのだ。どぎまぎして歩けそうもなかった。
「肩を貸すだけじゃだめかな」
「同じことだ。わたしの身体を抱えるように支えなくてはいけないし、より顔が密着する」
「おぶることにする」
僕は即答した。背負うなら、しまりのなくなった僕の顔を見られないし少女の視線も浴びなくて済む。
背中に、やわらかい少女の乳房を感じながら立ち上がった。案外軽かった。でも手のひらでお尻を支えるのはさすがに気恥しく、裏返しにして手の甲で支えた。そして道すがら立て続けに質問した。
「君の名前はなんていうの、年齢は?」
「質問の多い奴だな。まあ恩人でもあるし答えるけど、名前はクルミだ。牛乳しか飲まないから自分でつけた。ちなみに年齢は不詳だ。年はわたしにとって大した意味がない」
年齢不詳で、自分で自分の名前をつけるなんて有りえないと思いつつ、僕はそれ以上何も聞かなった。言ったところでまたはぐらかされるだけだろうし、聞いて新たな謎が生まれるのなら聞かないほうがよっぽどいい。
「あそこだ、あの家に住んでいる」
クルミが指をさしたのは町いちばんの金持ちの家だった。家というより屋敷、それも大邸宅といったほうが相応しい建物だった。屋根は鈍い光沢の銅板が敷きつめられており、くすみながらも緑色に輝いていた。高い塀とがっしりした門の中にはきっと庭園がある。手入れのなされた松の木が至る所から姿を覗かせていた。
「君はお金持ちの子だったんだ」
「子ではない、客だ。わたしは天涯孤独、生まれたときにはすでに親はいなかった」
クルミが僕の耳に息を吹きかけながら続けた。「それとわたしを君と呼ぶのはよせ。クルミという名前がある」
「それって、もしかして牛乳からとったとは言わないよね」
「お前は、あながちばかではなさそうだ」
クルミが一瞬、笑ったような気がした。単に憶測かもしれないが映像として頭の中に入り込んできた。でもそれは、悲惨な戦争で笑うことを忘れた難民の子のような、奇妙というかぎこちない笑みに思えた。
近くまでくると、門の前に立っていた年配の男がクルミを見つけ慌てて駆けよってきた。僕はそっと膝をまげてクルミを降ろした。
「御帰宅が遅いので心配しましたぞ、クルミ様」
「申し訳ありません。川で足を滑らせて意識を失っていたらしく、この者に助けてもらわなければ、今頃どうなっていたか……」
(へぇ、普段はこんな上品な言葉遣いをするんだ)
と感心していたら、年配の男が僕に目を当ててきた。濡れて泥だらけのズボンと身なりを見て、すぐに視線を外した。
「それはそれは大変だったでしょう。さあ、爺が手を貸しますので中へお入りください。旦那様が大変心配しておりましたぞ」
年配の男は僕に礼も言わず、一瞥しただけでクルミを門の中に引き入れた。去り際にクルミが僕を見て、とても寂しそうな目をさせた。たぶんあのぎこちない気がした笑みは、この家のせいかもしれないと思った。
しばらくの間、僕は森へは行かなくなりクルミとの進展もなかった。なぜ行かなくなったといえば、ミツルの母親が僕と森で遊び惚けていることを知り、半ば強制的に図書館通いを命じたのだ。
最初の頃は一人で森へ行っていたけど、やはり一人だとすることもなく、そのうち飽きてしまった。だったら僕も図書館へ行こう。元々冒険小説好きで、本の世界へ入り込むと時間を忘れて読み耽るタイプだったし、そのほうが有効的に時間を使えると考えた。
ロビンソン・クルーソーやピーターパン、宝島といった少年ものは小学生のときに読んでいたので、映画だけを見て、まだ読んでいなかったハリーポッターを手に取ってミツルの横に坐った。ミツルはどこから持ってきたのかワンピースを読んでいた。
「こんなところに来て、森は大丈夫だろうな」
「鳥の糞だらけさ。一人じゃ掃除する気にもならないよ」
「隊長の命令でもか」
「無責任な隊長の命令は却下する」
「じゃ、これから行こう」
とミツルは威勢よく立ち上がったものの、すぐにお尻の穴を両手で押さえて座り込んだ。どうしたのかと周りを見渡すと、僕の後ろにクルミがいた。
「さとし、あのときは悪かったな」と謝り、続ける。「ところでこいつは、なぜお尻を押さえてるんだ。痔でも患ってるのか」
僕が笑いだすと、ミツルが顔を伏せたまま目だけをクルミに向けた。
「この子、狐じゃなかったのか」
「ああ人間だよ。奇妙だけど」
「奇妙とは失礼だな。不思議と言え、不思議と」
その二つに大した違いはないと思ったけど、クルミにはクルミのこだわりがあるのだろう。僕はミツルの肩を軽く叩いた。
「この子は不思議な少女、クルミだよ」
ミツルが頭を上げる。クルミの顔をまじまじと見つめだした。
「ほんとうに人間なのか、すっげえ美人だ」
その後、「どこで知り合ったんだ、どこに住んでるんだ、どういった男が好みなんだ」と、急にしつこくなったミツルを置いて、僕たちは図書館を出た。
「騒々しい場所は苦手だけど、思うことがあって来た」
僕がとつぜん現れたクルミの意図を聞かないので、焦れたのか、踏切の手前でぽつりとつぶやいた。
「思うこと?」
「まずは町を案内してくれるか。それから説明する」
さあ、どうしよう。案内しろといっても田舎町、こちら側にはあの金持ちが牛耳る町役場と図書館ぐらいしかない。駅の反対側にかろうじて数軒の商業施設があるだけだ。とりあえず踏切を渡って向こう側へ行くことにした。
真夏の昼下がり、役場の温度計は三十六度を指している。あまりに暑いせいかほとんど人が歩いていない。サマージャンボ発売中と書かれた宝くじ売り場も開店休業状態だった。それでも商業地区へ差しかかると、数軒の飲食店にパチンコ屋、そしてお目当てのゲームセンターが侘しい飾りつけで営業していた。
「あそこへ入る? でも十分ぐらいしか遊べないよ。僕は五百円しか持っていないんだ」
「お金ならあるぞ」
クルミが背負っていたリュックを下した。「大きな声を出すなよ」と意味深に言って中を見せた。
見たこともない大金が入っていた。「これは……」
「屋敷を飛びだしてきたんだ。ついでにくすねてきた」
「それって犯罪だよ」
「心配ない。元々はわたしの金だ。それもほんの一部でしかない」
リュックに入っていたのが二束二百万円として、それがほんの一部なのだとしたら、クルミの金は天文学的数字になる。天涯孤独の少女がそんな大金を持っているはずがない。どうもクルミの話は咀嚼できないことが多い。
「納得できたか」
「できそうもない」
「煮えきらない奴だな。しかしお前が入ろうと勧め、わたしが入ると決めたのだから従うしかないはずだ。あっ、その前に」と言って、クルミが僕のズボンのポケットに何やら押し込んだ。
「何これ?」
「助けてくれた御礼だ」
「いらないよ」
「どうしてだ」
「だって大人じゃあるまいし、御礼なんか必要ない」
「じゃ、キスのほうがよかったのか」
その言葉を聞いたとたん、僕は顔に熱を持って思考停止状態になった。煽るかに、クルミが顔を近づけてくる。目が黒く澄みきっていた。その中心にある瞳がとても眩しく神々しい光を放っていた。僕は抗うこともできずに、ただ呆然と立ちつくすことしかできなかった。
渋々受け取った。封筒に入っているので断定できないが、たぶんお金だ。それも感触からすれば十枚くらいの厚さ。
「さ、楽しめる場所へ行こう。強欲な人間どもに囲まれてきた憂さを晴らしたい」
少し抵抗があったが、ゲームセンターに入った。まず入口近くにあるクレーンゲームを指さして「やってみたら」と、うながした。クルミは「そうか」と言ってトライしたものの、最初はまったく取れなかった。けれど慣れてくるとコツをつかんだのか、立て続けにクマのぬいぐるみをゲットした。そのときだけはガッツポーズをし、あのぎこちない笑いではなく自然な笑みを浮かべていた。
「楽しそうでよかったね」
「ああ、愉快だ」
クルミはその後も、太鼓の達人やらポケモンで一喜一憂していた。なかでもチュウニズムにはまったみたいで、最高難度を選択しては夢中で興じていた。僕はやりたくてもできなかった太鼓の達人に時が経つのも忘れて没頭した。
ひと汗を掻いたので、ポケットをまさぐって小銭を取りだしコーラを買った。飲もうとすると、クルミが険しい目をさせて「気をつけろ、あいつの手下がいる」と囁いてきた。
コーラを口につけたまま視線を流すと、目つきの悪い男がクルミを凝視していた。
「誰なの、あの人?」
「屋敷の主が手引きした、ごろつきだ」
「でも、何かしようとしてきても、ここなら人が大勢いるし大丈夫だと思うけど」
「あたりまえだ。あいつは今じゃこの町の名士、それに人一倍体裁を気にする男だ。こんな場所で襲わせるわけがない。だがここまで登りつめたのは、何ごとにも用意周到だったからだ。おそらく外に数人待ち構えさせている。問題はこの店を出てからだ」
僕はぞくっとした。こんなときにスマホを持っていたら警察に電話できるのにと、このときばかりは貧乏な家庭を恨んだ。
「あいつらに囲まれたら、二人で戦うぞ」
「あの人たちと……」
勝てるわけがない。僕はもう一度、男を見た。短髪で顔が浅黒く、いかにもならず者という感じだった。シャツの上から筋肉が盛り上がっているし、そうとう喧嘩慣れしているのに違いない。
「戦う前から怖気づくな。お前は凡庸のせいにして、何事にも真剣に向き合ってこなかった。もっと強い気概を持て」
「どうやって」
「大切な人を守るために、覚悟を決めるんだ」
大切な人の定義はわからないけど、クルミが傍にいるだけでうれしいのは事実だし、どうでもいい人では絶対にない。
「うん、やるだけやってみる」
きっと負ける。いやそれだけでは絶対に済まないだろう。血だらけになって地べたに這いつくばるのだと思う。でも弱いのだからあたりまえだ。そう考え、少し覚悟した。けれど膝の震えはとまらない。
「よし、ならこの店に裏口はあるか」
「火事になったときの非常口だったら知ってる」
「そこを抜けて逃げよう」
「逃げるの? どこへ……」
「お前の家だ。ここをしのげば、こっちにも手の打ちようがある」
僕はクルミの打つ手がどんなものか聞かなかった。ただそれまでの言動から、なぜか安心できるものが感じられた。なら逃げることに全力を注げばいい。僕にとって逃げることはそんなに難しいことではないのだから。
「急ぐぞ、さとし」
その瞬間、膝の震えがとまり、クルミを守るために心の中で変化が起きたのを感じた。今まで何をするにも先頭に立って向き合ってきたことがないのに、そのときばかりは刑事ドラマの主人公のように勇敢になった気がした。クルミの手を強く握り「ついてくるんだ」と、これまでミツルの二番煎じで甘んじてきたのが信じられないほどの行動をとった。
そしてすぐに店のカウンターへ行き、「あの人は凶器を不法所持して、危険です。外にも仲間がいたし、襲ってくるかもしれません」と、話を誇張させて伝えた。もちろん肝心の非常口が開いているか、それを確認するのを忘れなかった。
その後、店の人がどう対応したか知りようもないが、僕とクルミはざわざわしだしたゲームセンターを無事脱けだした。
外は暗くなっていた。けれどまだ数人の仲間が闇の中に潜んでいる。店の騒ぎを知って、きっと追いかけてくるだろう。僕はクルミの手を握ったまま無我夢中で走った。足音が聞こえると速度を速め、車のライトが見えると物陰に身をひそめながら走り続けた。気がつくと家の近くまで来ていた。
「もういいだろう。いいかげん手を離してくれないか」
僕は慌てて手を離した。「ごめん、忘れてた。あっ、クマのぬいぐるみも……」
「そんなものより、手を打つから耳を塞いでろ」
クルミが辺りを見まわした。市営住宅までぽつんと外灯が一本立っているだけで、人は誰もいなかった。
「何をするつもり」
「雲を呼ぶ」
雲? 僕は拍子抜けがした。この切迫した状況と雲があまりにかけ離れていたからだ。呼べるのか、仮に呼びだしたとしてどうする。どう状況が好転するのだ。それよりも警察に連絡して事情を説明するほうが先決だと思っていた。
そんな僕の気持ちをよそに、クルミは両手を空にかかげて祈りだす。すると少し離れた上空に雷雲が発生し、たちまち星が消えた。稲妻も走り、夜空を切り裂いた。耳をつんざくほどの大音響が轟き落雷した。その間わずか十数秒、事象は跡形もなく消えた。
「終わった、お前の家へ行こう」
何が何だかわからなかった。確かに耳を塞がなくては痛くなるほどの雷の音はしたが、それは一瞬で、しかも数キロ離れた場所だった。ここには雲も雷も出現しなかった。
「これで?」
「そうだ、これで追ってこなくなる」
(やっぱりクルミは狐だ、いや狸かもしれない)
そう思いながら住宅の階段を上った。
「大丈夫かな、女の子を部屋に連れ込んで。僕の両親は生真面目だから、クルミを家出少女だと決めつけて警察に連絡するよ」
「心配するな、バリアーを張るから」
「バリアー? ということは見えなくなるんだよね。……僕にも」
「おそらく見えるはずだ。煮えきらない奴だと言ったが、足を挫いてまで目論んだわたしの都合もある。それにお前には誠実という武器が備わっている」
「それがバリアーとどんな関係があるの。だって両親は僕より誠実だよ」
「変わらなければな。お前が自慢していいのは、両親と違って変わらない誠実さだ。だからわたしがいくらバリアーを張ろうと、お前は永遠に見続けることができる」
「それって、凄いことなの」
「おそらく」
扉を開けて家に入った。案に違わず、母親は隣にいるクルミに気がつかなかった。僕は「これ、人を助けた御礼」と、クルミからもらった封筒を渡して部屋に消えた。
翌日、目を覚ました僕がリビングへ行くと、母親と姉がテレビの前で立ちつくしていた。
「どうしたの。何かあったの」
僕は、二人が真剣にテレビを見ているので気になった。
「町長の家に雷が落ちて、全焼したのよ」
姉が言った。母親も「不幸中の幸いね。一人も怪我人が出なかったから」と付け足してくる。
(まさか、これがあの拍子抜けする祈りの正体だったのか)
僕は部屋に戻ってクルミの姿をさがした。クルミはベッドの端に座って平然としていた。
その日は森を抜けて川の上流まで行った。山から染みでる澄んだ水の溜まる場所で、そこなら思う存分水浴びができるからだ。クルミは到着するなり着ている服を全部脱いで、惜しげもなく裸体をさらした。そして僕に「お前も脱げ、一緒に泳ごう」と誘う。けれど僕はクルミの裸身を興奮して見つめるだけで、服を脱ごうとも泳ごうともしなかった。その様子を見てクルミが言った。「ばかめ」
暗くなってからクルミと帰宅した。二日目も至って普通で、両親はまさか僕が女の子を部屋に隠し住まわせているなんて、これっぽっちも思っていないようだった。ただ、僕がコンビニの袋に牛乳を入れているのが不思議らしく、怪訝そうに首を傾げていた。
気がかりといえば、かろうじて四畳半の部屋を確保しているとはいえ夜遅くまで起きている姉の目だ。もしかしたら、ゲームセンターにいたごろつき以上の脅威を感じていたかもしれない。
僕は気をつかって声をひそめるのだけど、線が細くても豪胆なクルミの言葉は姉に筒抜けだった。ときどき部屋をノックしては「誰と話をしてるの。誰か来てるの」としつこく迫ってきた。朝食のときなどは「おかあさん、さとし女の子を部屋に連れ込んでるかも」と、大きな声で吹聴するしまつだ。母親は笑って本気にしなかったが冷や汗ものだったのは言うまでもない。
またクルミは夜明けと同時に起きた。畳で眠りこける僕の足をちょんちょんと蹴飛ばすと、しきりに森へ行こうと催促する。
「まだ早いし、朝食を食べてからにしようよ」
「じゃ、それまでかくれんぼでもするか」
と矢継ぎ早に、顔立ちと反比例するようなことを言いだす。見るとバリアーをとき、まったくの無警戒、まるで童心に帰ったような無邪気さで接してきた。
それでも「四畳半一間のどこにかくれんぼをするスペースがあるんだ」と僕が反論すると、「なら本を読んでくれないか」と、今度は無雑作に積み上げてあった本の中から遠野物語を引っ張りだしてきた。
僕は眠たい目をこすりながら受けとった。
遠野物語は、岩手県遠野地方に伝わる謎めいた昔話だ。けれどその話が生まれた背景には人が生き抜いていくのに厳しい現実があったと聞く。僕は地勢から静かに読みはじめていった。
クルミは目を瞑り、一つ一つ頷きながら聞いている。しかし十七話の座敷童という妖怪の話に入ったとたん、ぶるぶる唇を震わせ動揺しはじめた。でも、まだ座敷童が男の子だったからいいようなもの、山口孫左衛門という家の話になったときには目頭をうっすら赤くさせた。
「殺生なんかするからだ」
何のことかわからなかったが、読み進めていくと、神の使いである大蛇を家の者が総出で殺したらしい。それも面白半分で。
僕は、本から目を離してクルミに聞いた。
「その通りだったけど、以前に読んでもらったことがあるの」
クルミは首を横に振る。
「続きを読んでくれないか。以前、遠野に住んでいたことがあるんだ」
僕はふたたび本に目を移す。読み進めていくうちにオシラサマの話に入った。するとクルミがまた深刻な表情を浮かべた。
「遠野に限らず人はみな二心を持っている。そのオシラサマは福をもたらす存在であるがため、あいつと同じで、強欲になってしまった家の者にたびたび閉じ込められた」
へぇー、と僕は驚いた。
「けど、閉じ込められても逃げられないのかな。だってオシラサマなんだから」
「なかには結界を張る者もいるらしい。じつはわたしも、結界こそ張られなかったが幽閉されたことがある」
「それは、あの似非名士にだよね。それも親を亡くしてすぐの頃。あいつならやりかねない」
「そのどちらでもない。遠野に住んでいた頃だからずいぶん前の話だ。わたしが野原で花を摘んでいたら、純朴そうな少年が岩に腰かけて泣いていた。その少年はもの覚えが悪いせいで奉公先から叩きだされたらしく、途方に暮れていた。わたしは少年を慰めようと摘んでいた花をあげた。少年はそれがよほどうれしかったのか『お粥しか出せないけど、うちで飯を食べてくれ』と、自分の家にわたしを連れていった。土壁のひび割れが目立つ、とても貧しい家だった。それなのに家族はわたしを歓迎してくれた。気がつくと、そこの家の客として厄介になっていた。どうやらみながわたしのことを気に入ったらしい。そんなある日、わたしは少年を誘って川へ魚掬いに行った。世話になっていたので魚を捕ってくれば多少でも家計の足しになると考えたからだ。しかし掬えたのは小さな魚数匹だけ。でも代わりに大きな金の塊を数個見つけた。少年の家は一夜にして大金持ちになった」
「なんか、あの金持ちの話と似てるね」
クルミはその問いには答えず、話を続けた。
「金塊を拾ったことで、きっとわたしが福をもたらす存在だと勘違いしたのだろう。欲に取り憑かれた少年とその家族は、新たな座敷を離れに造り、わたしを閉じ込めた。頑丈な板壁で囲まれた薄暗い部屋で、わたしが発狂しないていどに日の光が漏れていた」
「食事は?」
「貧しい頃と違って豪華な食事を出されたが、わたしはいっさい手をつけなかった。ヤギの乳だけを飲んでいた。楽しみといえば小さな覗き穴から見える風景を眺めることだけ。そんなわたしに変化が起こったのは、満開だった桜の花が散って艶やかな花魁草が咲きはじめた頃だ。とつぜん顔じゅう皺だらけで、歩くのも覚束ない老人がやってきた。最初は誰だろうと思ったが、すぐにわかった。この家にわたしを連れてきた、あの純朴だった少年だ。どうやらわたしの一日は他の人の一年にあたるらしい。だからここで二ヶ月過ごしただけなのに、座敷の外では六十年という月日が流れ去っていたのだ」
「それが年齢不詳の答なんだね」
「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。実際わたしにもこのからくりがわからないのだ。それはそれとして、どうやって抜け出すことができたのか続きを話そう」
なぜかクルミが目を険しくさせる。「老人は衣類を手に持っていた。何の意図があるのか、わたしを入浴させるつもりらしい。不安はあったが、わたしとしては座敷の外の世界にずっと恋い焦がれていた。それで文句も言わずに、用心棒を配置させた長い廊下を老人の跡に従っていった。母屋へ入る途中に納屋が見えた。鳴き声も聞こえるし、きっと山羊の小屋なのだろうと思いながら素通りした。脱衣所に着くと、『お前は不思議だ。この顔、この肌、そのすべてが瑞々しいままだ』そう言って老人が一枚一枚わたしの服を脱がしていく。乳房を揉み、秘部にも手を伸ばしてきた。わたしは抗わなかった。ずっと一人で人恋しかったせいかもしれない。しかし入浴が済んで、また廊下を歩いているとき、使用人が面白半分に老いた山羊を殺している場面に遭遇した。そのときわたしの中で何かが弾けた。殺生もそうだが、それまで為すがままに生きてきて、自分の生と真剣に向き合ってこなかったのが恥ずかしくなったのだ。こんな場所にい続けてはいけない、ほかにやるべきことがある。わたしはそれを見つけるために屋敷を飛びだす覚悟をした。そう思ってすぐだ、老人と用心棒たちが騒ぎはじめた。きょろきょろ辺りを見まわして狼狽えだしたのだ」
「どうしたの」
「そういったものがあるとは知らずに、バリアーを使っていた」
「それで、無事に脱け出せたの」
「ああ」
「じゃ、その家は没落したね」
「そうかもしれない」
「ならクルミは、もしかして……」
「その先は言うな。わたしにもわからないんだ」
その日はそこで本読みを終えたが、僕の心には遠野物語の世界がずっと引っかかっていた。森へ行っても、森の先の水場に行っても、クルミを見る目が微妙に変わっていたのだ。もしかしたらクルミは歌を忘れたカナリヤのように、自分の本分が何であるか答を見つけていないのかもしれない。同時に何者であるかも。
すっかり恒例になった本読みを済ませ、森へ行こうとすると、クルミが新聞を見ろと言いだした。てっきり金だとばかり思っていた封筒の中身は、サマージャンボの宝くじだったのだ。その当選番号が発表されていた。
「一等が当たっていたらどうしよう」
冗談がてら母親と一緒に新聞を広げ、記号と数字を目で追うとまさかの二億円が当たっていた。
母親は寝ていた父親を起こして狂喜乱舞する。でも見たこともない大金を手にした二人は、それまでの質素な暮らしを忘れて派手に金を使いまくる。母親が散財した服や装飾品は許せても、父親が酒とギャンブルに狂ったのには辟易した。それだけで済めばいいが、結局若い愛人をつくり、母親とすったもんだのあげく離婚する羽目に陥った。
僕はそんな両親を見て、純朴だった少年が大金持ちになった話を思いだした。間違いなくクルミには、その家を金持ちにする力が備わっている。でも金は魔物だ。強欲になれば少年や両親のように人の心を失ってしまう。
僕はクルミに言った。「出ていってくれないか」
「いいのか、わたしといれば金に不自由しないぞ」
「代償が怖いんだ」
「裕福になれるのにか」
「裕福でなくとも幸せになれる」
「変わった奴だな。今までいろんな人間と何度も暮らしてきたが、初めてだ、お前みたいのは」
「貧乏に慣れているんだ」
「そうか。じゃ、お前の望むように消えよう」
クルミが僕の顔を見て、寂しそうに息を吐いた。
「ごめん」
「気にするな、お前と過ごして楽しかった」
この言葉がクルミとの別れになった。クルミはさよならも言わずに姿を消した。
これが思いだした回想の全容だ。
そして僕がどれだけのあいだ過去に思いを巡らせていたのかわからないが、クルミは雨に濡れながらずっと待っていた。黒い髪に小さな雨粒が無数に溜まり、長い睫からこぼれ落ちた滴も頬にたれていた。赤いワンピースも濡れて濃彩なエンジに変色している。
「どうだ、答を見つけたか。金が必要なら、幸運が舞い込むまでわたしと暮らせ」
クルミが値踏みするような目で僕を見る。
確かにお金があれば、詩織の母の介護費用が賄える。でも幸せはお金じゃないと十三歳の夏にクルミから教えてもらった。
「やめとくよ。問題は僕が真剣に詩織と向き合うことで、お金じゃない」
「それは本心か」
「本心だよ。二度と凡庸のせいにして逃げない。詩織を僕の力で幸せにする」
「彼女がその言葉を信用すると思うか。切羽つまってるんだぞ」
「させるよ。僕にはとっておきの武器がある」
「武器? それは何だ」
「クルミが言っていた変わらない誠実さ。だから、この先どんな困難が餅受けていようと乗り越えてみせる」
「合格だ、お前は成長した」
クルミが満足そうに僕を見つめ抱擁してきた。濡れた身体なのに、じわじわ温かさが伝わってくる。
しばらく抱き続けると、クルミは絡めた腕を離して背を向けた。
僕は「ちょっと待って」と引きとめた。
「何だ、もう心変わりをしたのか」
「そうじゃない。クルミは見つけたの?」
「何をだ」
「本分」
「ああ、それなら二十日前、いや二十年前に格好の居場所を失ったときに見つけた。今夜、お前に会ったのはその仕上げだ」
クルミが頬にとびっきりの笑みを浮かべた。「もう会うことはないだろう」と中指を突き上げ、名残惜しそうに踵を返した。
僕はその背に、小声で言った。「きみは、自分が何者であるか思いだしたんだね」
クルミへの未練を断ちきると、急いで改札口へ向かった。早足で階段を駆け下り時計を見た。午後七時三十分、詩織と別れてからすでに一時間以上経っている。向かった先が吉原と想定すると、今ごろ詩織は迷いながら浅草付近を歩いているはずだ。
僕は電車に飛び乗った。はやる心を、息を何度も吸って落ち着かせ、喫茶室の会話を思い起こした。
詩織は一度たりとて僕を嫌いになったとは言っていなかった。そればかりか唇を噛みしめて救いのサインを送っていた。僕はそれに気づきながらも行動に移そうとしなかった。
無理やりにでもやめさせる決意を示さなければいけなかったのにだ。ならクルミに教えてもらった強い気概を持つ。大切な人を守るために、覚悟を決める。
あのときクルミは、もしかしてこのことが見えて僕に告げたのかもしれない。間違いない、クルミにはこの事態がわかっていたのだ。だから僕に足りないものを、あの緊迫したゲームセンターの中で暗示した。
僕は詩織に電話した。けれどなかなか出ない。もしかして液晶画面の名前を見て、躊躇しているのだろうか。それともすでに過去の男になってしまったのか。時間だけが刻々と過ぎていく。
と、不意に呼び出し音がとまった。か細い声が聞こえた。僕は震える声を抑えながら言った。
「今、どこ?」
詩織が口ごもりながら答える。「浅草……」
「今、そこへ向かっているから待ってくれないか。僕は大切なものが何であるか思いだしたんだ。どんな状況になっても心は変わらない。式だって旅行だっていらない。詩織のそばにいて、詩織とお母さんを守れればそれでいいと思ってる」
なおも僕は懸命に訴えた。「詩織がいちばん大切な人なんだ。だから一人で詩織を育ててくれたお母さんを、二人で守ろう。恩返しをしよう」
スピーカーから詩織のすすり泣く声が聞こえてきた。いつのまにか雨がやんでいた。
了
執筆の狙い
80枚書いて50枚に削りました。特に冒頭は、ああでもないこうでもないといじりまくりました。
吸引力のない作品なので、最後まで読むのはつらいと思われますが、読めたところまでの感想を頂けると嬉しいです。
たぶん冒頭で挫折されるような気が……