遺留品
ここは地球なのか? いやちがう、月がやけに近い。瞬く星たち、見たことのない星座、天の川は、無い。ずいぶんと遠くに来てしまったようだ。が、自らの意思ではない。歪んだ時空から落とされたのだ。
雑居ビルが連なる細い路地。消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、地面から五十センチくらい上にそれは浮かんでいた。最初は見えていなかった、透明なのだ。灯に照らされながら、陽炎のように背景がくらくらと歪んでいる物体がある。近づくとそれは、九十センチほどの楕円をしていた。目を凝らしながらさらに近づいたとき、全身を貫く強い衝撃とともに頭からその中に引き込まれた。
呼吸は出来ている、気温も湿度も変わらない。ただ、重力が大きいのか、歩みが重い。地球よりも時間は、ゆっくり流れているのだろうか。月明かりに照らされた地平線まで広がる大地、サバンナのような荒涼とした空間。私は独りなのか? ふいに孤独感が襲ってきた、慣れているだろうに。三年前 、妻と娘を交通事故で亡くしたあの日から。
ありふれた日曜の午後、庭で草むしりをしていた。「だいぶ怠けてしまったな」。咲き始めた白、ピンク、薄紫のカンパニュラ・メディウム。周りには雑草が目立ちはじめている。「お父さん、買い物に行ってくるからお留守番お願いね」。娘の呼び掛けに振り返ると、トートバッグを肩からさげた妻と、小さな麦わら帽子をかぶった娘が手をつなぎ、私に微笑んでいた。私はピンクのカンパニュラを一輪切って帽子に差してあげたあと「気を付けて行って来るんだよ」と、妻と娘を見上げ声を掛けた。それが最後の会話だった。買い物の帰り道、ふたりは交通事故に巻き込まれ、二度と再び、あの笑顔に応えることができなくなってしまった。
地平線に沈む月明かりを頼りにどれほど歩いたのか。宙のかなたに閃光が走り、星たちの光が増したと思った次の瞬間、真っ白に輝く物体が目の前に現れた。どこから来たんだ? 直径三メートルほどの球体。しばらく眺めていると、音もなく、中央から左右に割れるように入口らしき空間が出現し、その中は表面と同じで白く発光している。入れということか? なぜか恐れは感じない。なかに入ると、それを望んでいたかのように、ゆっくりと音もなく入口は閉じられた。閉じるとすぐに視界がひらけ、球全体が透明なガラス質の物体に変化した。私を乗せたそれは、地表すれすれで月方向に移動したかと思うといきなり舞い上がり、一気に月を通り越した。光速に近いスピードなのだろうがほとんどGは感じられない。視界は徐々に狭まり、前方は、七色のグラデーションが永遠に続くトンネルのように見える。側面からうしろは、速度が増すにつれ、背後から暗闇に呑み込まれていくようだ。
どれだけの星々の間を駆け巡ったのか、少しずつ視界が広がり始め、外の景色を認識できるようになった。目の前には漆黒の巨大な球体が広がり、その周りには時空の歪みのような光の帯が輝いている。それが、以前本で読んだことのあるブラックホールだと躊躇もなく認識した。すでに事象の地平線を越えているのか、或いは、特異点に向かって引きずり込まれているのかはわからない。
事象の地平線……
物理学における相対性理論に基づいた概念の一つ。ブラックホール周辺において、光が重力に囚われ、外部に逃れられない範囲の境界面。また、膨張する宇宙で、観測者から遠ざかる速度が、光速を超えている領域との境界面。その先は無尽の深淵、無限の闇。
時間が故意に引き伸ばされている感覚のなかで、スクリーンを観るかのように懐かしい映像が目の前に現れた。この場所を知っている。既に手放した自宅の二階、かつての私の書斎だ。大きな窓の向こうには南東の陽に照らされた富士山と、裾野に山々が連なっている。私を乗せた透明の球体はその役目を終えたかのように、ゆっくりと存在を消しながらその場に立たせてくれた。ふらつく脚を進ませ窓際に立ち、下を眺めた。すぐに理解出来た、あの日に戻ったのだと。三年前のあの日に。庭の手入れをしているわたし。玄関のドアをあけ、わたしに近づく妻と娘。ああ、なんと美しい人。なんて愛らしい娘。知らせなければ、とどまるようにと、早く! 両手で何度も窓を叩いた。妻がこちらを見たがすぐに目を逸らした。私が見えていない、なぜだ。実存する時空が違うのか、ここでは私は幽霊の様な存在? あぁ、世界線が違うのだ。違う世界線であれば現象と結果は多少なりとも異なるはず、ふたりの身に降りかかるものは変わってくるかも知れない。しかし、その結果を明らかなものにしなければ。この世界では、私たち家族が悲劇で終わってはいけない。渾身の力を振り絞り椅子を窓に叩きつけた。窓硝子がガシャンと悲鳴をあげ破片が飛び散ると、三人が一斉にこちらを仰いだ。そこにいるわたしは訝しげな表情でこちらを凝視したあと、妻と娘を諭してから玄関に向かった。妻は娘を抱きしめたまま座りこんでいる。ふと、どこからか微かに、鐘の音が聞こえた。「よかった、これでなんとか」。安堵に浸った刹那、全身を貫く強い衝撃が私を襲い、視界は暗黒に包まれた。
雑居ビルが連なる細い路地。 消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、'Keep Out'と囲われたエリアで二人の男が話している。
「お疲れ。どうなんだ」
「救急搬送された病院で死亡が確認されました」
「屋上からではな。で?」
「はい、スーツの胸ボケットに免許証と遺書が。このビルの五階に部屋を借りています。三年前、奥さんと娘さんを交通事故で亡くされ、その後ここに移り住んだようです」
「……そうか」
「遺書には亡くなった二人への想いが綴られていました。この路地を行った表通りが交通事故の現場になります」
「事件性は無しだな。ではそれで報告書を」
「承知しました。あっ主任、それと遺留品なのか、すぐ脇にカンパニュラの花が一輪落ちていたそうです。これも報告しておきますか?」
「ん、どんな花だ」
「少々お待ちを。……出ました、これですが」
「鐘に似た可愛らしい花だな」
「花言葉は、誠実な愛、思いを告げる……」
「どれほど時間を要しても、悲愴には抗えぬか。一応、上げといてくれ」
世界の全てはものではなく、できごとで出来ている。かけがえのない今は、全宇宙が共通であるとはいえない。
この作品を、アンブローズ・ビアスに捧ぐ。
――――了
《参考音楽》
ショパン『バラード第一番ト短調』
https://youtu.be/gTRFctKct2M?si=epuDtNu_IftxWp0S
執筆の狙い
SF(と言えるかはちと不安💦)掌編です。浮離さんの企画の、前奏程度に読んでいただければ幸いです。
外野がうるさいようだが、作品を読ませて貰えればと。