作家でごはん!鍛練場
m.s

作中作小品α

 その夜、枕もとにあらわれたコミチは胃液のにおいがした。酸のつよい、水けしかはいっていない吐瀉物のそれだ。きっと何度もなんども戻してきたのだろう。そうして目を伏せたまま、恐るおそると伸ばした指さきで布団ごしの僕のかたにちょん、と触れた。

 それで僕は引っ越すこととなる、ふしぎな引力のようなものでもって新居にいざなわれる。かくして呑気にもみしらぬ地に散歩をしてみたのだ。みしらぬ通りをずっとあるき、とちゅうでわき道にはいるとその奥には、茶褐色の砂利に、白の横木の林道がつづいていた。うっそうとした樹々のきれめのその向こうにあるいえもまた、漆喰の塗られたしろい建屋で、ギリシャやイスタンブールなど地中海沿岸によくあるように、簡素でしかしうつくしい二階建てであった。それで次のすまいを定めるのかいなか、そこに一日泊まることにきめた。

 その海沿いのいえから、商店街のある街路まではあるいて二十分はかかった。ずっと浜辺のわきを歩くのでとくに夕暮れなど、映画のエンドロールのシーンをスタッフロールを背景に進んでいるようなきぶんになった。

 商店街についても、まえに住んでいた街にあったようなテイクアウトを実施している飲食店はほとんどない。ただ唯一、肉屋と喫茶店だけがそれぞれに、コロッケとケーキをもち帰りようにパッケージングしてくれるサービスを提供してくれていた。
 かえり路に公園のベンチにすわって大口をひらき、ショートケーキをあぐあぐとしているとまるでじぶんが化け物のようなきぶんになり、それですこしだけ満足ができる。まだこのあしは動くのだ、としてしまうことが出来たのだ。
 そうして危険な岐路をおえた僕はあの白いいえでドラッグストアに袋詰めで売っていたキャベツの千切りを皿にぶちまけたあとにコロッケを乗せて、そこにたっぷりとウスターソースをかけて晩飯のあてとした。
 それで夕食をおえたあと、モンブランをちみちみとフォークで刻みながら、それをあてにウイスキーを舐める。なにしろテレビもないので畳の座卓から手をのばして触れた、棚のうえに置いてあったトーマス・マンの魔の山を読んでいる。まったく、ぼくは何世紀のじんぶつなのだろう。
 だんだんとまぶたが重くなってくる。もちろん引っ越しに先だって、暮らしはずいぶんと不便になるだろうと想像をしていた。なにしろすこし前までは、いえを出てすこし行けばコンビニも飲食店もそこに開いていたのだから。だけど、夜いえで一人くらすときのこの静けさは、あの頃には望むべくもなかった。
 そう、不便はかくごしていたのだでも、たいくつは予想がいだった。それで僕は、遅ればせな冒険をはじめる。というのも、もう僕のじんせいは凍ってしまったので、最期にたどりついたこの場所についての探索をしようとおもったのだ。
 想像してみてほしい。エンドロールの終わったあともせかいが続くとしたら、プレイヤーキャラクターをじゆうに操作できるままであったとしたら。僕はどうなってしまうだろう。じぶんのコトをどうしてしまうのだろう。だからコミチは、おそらくは、コミチは。
 そうして僕のからだはムクリと起きあがった。まだ死んでいないので、なんでもできる。それで死なないためならなんでもしてしまえる。ねえコミチ、僕はもう死んだかれもしくは彼女にそう問いかける。「これはきっと、そういうコトなんだよね?」

 ゆめの中でさらに目をさます。目が開く。無知なフリなどもう出来はしない。
 天井はくらい、くらい。だが、仔細はみえる。梁が平面てきに張りわたらされている、典型てきな日本家屋のつくりだ。
 僕の眠っている部屋が二階建てであることに気づいたのはそのときのことだ。リビングのてんじょう角にメンテ用には大きすぎる、一畳ほどの穴が空いており、そこからシャンデリアの一房のように、金属製の柱群がぶら下がっている。おそらくは折りたたみ式のハシゴだろう。けれどそれを展開するすべを知らないので僕は二階にはいけないし二階にいるかもしれないだれかも此方には降りてこれない。ならばまあ、しかたがないか。

 そうして引っ越しまえには、電車でその新居に足しげくかよった。本を持っていくためだ。引っ越し会社のロゴのはいったダンボールにつめた本はたいてい死蔵されもう二度と開かれることはない。なのでこの先に読まれる可能性がある本をみつくろってリュックと紙袋で新居へと運んだ。そこにいたるまでの堤防沿いの道は相変わらず、いつも映画のワンシーンのように美しかった、じっさい、それが雨降りであったときにでも、其れはそれで絵になったのだ。

 何度めか、ついに本を運びおえたとき、ようやくその海辺のいえが新居であるのだと確認ができた気がした。旧宅とおなじく、本のやまに埋もれた布団のなかで僕は眠った。この、すこしく重みや寝がえりに不自由さのある環境でないと僕はうまくあんしんして眠れないのだ。使い途のない二階とそこへ続かないハシゴとか。そうした意味のないムダがなければ。
 それでゆめのなかで更に眠ろうとしたときふいに、地震が起こり寝床から撥ねあがる。それはひどく遠くはなれており何らじつがいは生じないのだけれど、僕はひどく、不安になった。
『どこから、どこまで?』まぶたの裏でコミチがいう。『どれが美しくて、どれがそうではないのですか』
 それで、僕のあしは立ちすくんでしまう。漸く、それらすべてがゆめであることに思いいたったのだ。だけどいつの間にかもう、天井からゆかに向けてまっすぐにピカピカの梯子が降りてきており、天井をきしませる足おとが頭上へあゆみ近づいている。やがて金属のハシゴにさいしょの一歩をのせるかちん、というおとがリビングに響いた。

作中作小品α

執筆の狙い

作者 m.s
104.28.83.166

いま書いている長編小説のなかに作中作のような小編が出てきて、これは単品でも完成しているべきではないかと思ったので、そのような視点から推敲して出させていただきました。
忌憚のないご意見を頂ければさいわいです。

コメント

金木犀
sp49-96-243-92.msd.spmode.ne.jp

非常に難解な作品だと思います。
観念的な文章なので、いちいち何を意味している文章なのかを考えないと、頭に入ってこないですね。

以前の作品を知っているからなのか、最初枕元に現れたコミチは生きている現実の存在だと思っていましたが、どうも違うようですね。もう死んでいるか、主人公の頭の中のコミチでしかない。

『どこから、どこまで?』まぶたの裏でコミチがいう。『どれが美しくて、どれがそうではないのですか』。

どの死が美しくて、どれが美しくないのか……みたいな意味ですかね。浅いですかそうですか。はん、わからんってなって読了しました。

とりま、こんな感想ですが、最後まで書ききったらまた読ませてください。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読ませていただきました。

元の作品を読んでいないので、トンチンカンな感想を書いてしまうと思いますがご容赦ください。

>その夜、枕もとにあらわれたコミチは胃液のにおいがした。

いきなり出てきたコミチが何なのか、まったく分からず、これは本編を読まないといけないでしょうか。
吐くということは人間? あるいは、動物?

>指さきで布団ごしの僕のかたにちょん、と触れた。

指があり、物理的に触れることができる存在なのですね。

>それで僕は引っ越すこととなる

それで、とあるので、コミチが枕元に現れるのが引っ越しの理由、ということでよろしいでしょうか?
引っ越しで解決するのであれば、コミチとは地縛霊みたいなもの?
夜に枕元に現れるのですから、やはり超自然的な存在なのかな、と思いました。

あと、読んでいて非常に気になったのが、漢字表記とひらがな表記の区別の基準です。
>危険な岐路
など、小学校高学年の漢字は普通に使われているのに対し、
>いえ
>じんぶつ
>じんせい
>じぶん
は、ひらがな表記ですよね。
これには何か、狙いがあるのだろうかと、探りながら読んでしまいました。
実は自分は人間ではない、という伏線なのかと思いました。
一応、読書はしているわけですから、「僕」「ぼく」は人間ですよね?

「僕」「ぼく」の両方が使われているのは、意図的なものですか?
それとも、推敲で見落したものですか?

>そうして僕のからだはムクリと起きあがった。

自分の意思ではない、ということでしょうか?
なぜ、体が起き上がったのでしょうか?

>ねえコミチ、僕はもう死んだかれもしくは彼女にそう問いかける。「これはきっと、そういうコトなんだよね?」

あれ?
コミチから離れるために引っ越したというわけではなかったのですね。
では、引っ越しの理由は何だったのでしょう?
コミチって、死んだ人の魂だったのでしょうか?
あるいは、主人公が作り出した、イマジナリーフレンドみたいなものでしょうか?

>かれもしくは彼女
とあるので、生前のコミチについてはよく知らないということですよね。
性別不明、あるいは、性別がない存在?

>ゆめの中でさらに目をさます。

これを読んだ瞬間、どこからが夢だろう? と思わず読み返してしまいました^^;

>そうして引っ越しまえには、電車でその新居に足しげくかよった。本を持っていくためだ。
>何度めか、ついに本を運びおえたとき、ようやくその海辺のいえが新居であるのだと確認ができた気がした。

意味が分かりませんでした。
新居が海辺にあることに気がついた、という解釈でよろしいでしょうか?

地震の後、
>『どこから、どこまで?』まぶたの裏でコミチがいう。『どれが美しくて、どれがそうではないのですか』

ここで、美しさの話になっているのがよく分かりませんでした。
主人公的には違和感はないのかも知れませんが。
夢だから脈絡のない展開、ということでしょうか?
どこからどこまで、も主人公は分かっていても読者は分からないかと。

ラストは、天井裏に住んでいる者が、はしごを下ろして主人公へ近づこうとしている
という場面でしょうか?
いったい何が降りてくるのか。
続きがとても気になります。


さて、ここからは誤字の指摘です。

>それで次のすまいを定めるのかいなか

いなか  は 否か でしょうか?
するやいなや という感じですか?
ちょっと使い方が違うかな。
ここは「否か」以外の表現に変えた方がよいかと。

誤字ではないのですが
>あて
は近畿地方の方言です。
人によっては意味が通じない可能性も。

>トーマス・マンの魔の山
作品の題名は『』で囲みます。
(校正案)
トーマス・マンの『魔の山』

>遅ればせな冒険をはじめる。
(校正案)
遅ればせながら冒険を始めた。

>この場所についての探索をしようとおもったのだ。
(校正案)
この場所を探索しようと思ったのだ。

>僕の眠っている部屋が二階建てであることに
(校正案)
この家が二階建てであることに
あるいは、
この部屋から二階に行けることに

作中作ということで、原作を知らずに感想を書いてしまいました。
的外れなことを書いていましたら、どうかご容赦願いたいです。

とても気になるラストで、おもしろい作品でした。
読ませていただきまして、ありがとうございました。

浮離
KD111239168108.au-net.ne.jp

世の中、こういう反射を意図的に貪って浸りに浸って所詮無自覚、みたいな思考形態に寛容な呑気な人って多いよね。

みたいな、読み手によってはあからさまであってこそみたいなミスリードをそそのかすべく仕込まれるらしい“作中作“ってことではないのかと個人的には。


“夢“と語りながらその実は所詮“願望“でしかなくて、これって依存や執着や他責、言うなれば“すがりたいばっか“みたいなひ弱さのことをちっとも認めたくないみたいな回り道をしないと素直に認められない、認めるけど認める前にちょっとだけ格好つけさせてよ、格好悪いってことくらいわかってるから勘弁してよお願い、ね、ね? みたいなお話なんだと個人的には思ってます。

>エンドロール

なんちゃって、そんなのは所詮言い方で自分への言い訳みたいな呪文か、呪詛ならまだまし、“引っ越し“なんて言い草に化かしたいなりには儀式が必要で、そんな建前すらも滅法他責か依存的、“きみのせいで“とかなんとかでもただ言いたいんじゃなくて格好よく言わせてほしい自分ばっかへのご奉仕の一環、コロッケもケーキもトーマス・マンも差し出す上でのお慰み、このくらいで負けといてよ、なんてどうせ懲りないか腐った自惚れか、所詮ギリシャかイスタンブールなんちゃってちっとも往生際もへったくれもないくせに。

>旧宅とおなじく、本のやまに埋もれた布団のなかで僕は眠った。この、すこしく重みや寝がえりに不自由さのある環境でないと僕はうまくあんしんして眠れないのだ。

ほらほらやっぱり減らず口はますます嵩を増す有り様なんだし隠す気もないんだし、ちっとも懲りるつもりこそないらしんだし安心だとかってどの口が言うのやら、

>本のやま

って自分のことなんだよね大丈夫わかってるわかってるって心配すんな、なんてあたしはさ、そうしてさ、

>すこしく重みや寝がえりに不自由さのある環境でないと僕はうまくあんしんして眠れない

って自ら白状して憚らないその図々しさこそ思うんですよ、コミチの不毛さ思うと心痛いなんて優しくないですか実際。

なんてすみません冗談ですから。



どんな長編になることか思いもよらないところなんですけど、こういう心の弱さをそれとして了解して書く必要があるってことは楽なことじゃないですよね、単純に、書いてる自分の心も腐ってくるっていうか。
まあ、それも込みで楽しまないと“動機“は答えてくれないし、書きたいから書くんでしょうとも、ってことなんですけど。

天井にぽっかり口開けた梯子なんてそりゃシカトしますよね、とんでもないエエ格好しいとして自らそれに手を伸ばすなんてそんな惨めはつまらんプライドが許さなかろうですよわかりみ万全ですこちとら。

>だけどいつの間にかもう、天井からゆかに向けてまっすぐにピカピカの梯子が降りてきており、天井をきしませる足おとが頭上へあゆみ近づいている。やがて金属のハシゴにさいしょの一歩をのせるかちん、というおとがリビングに響いた。

すべてはオートマチックにおいて神の思し召し。
ぼくちゃん一切なにもしないもんねしてたまるか、みたいな閉じですよもう。
“頑張れコミチ! お前間違ってるから“
なんて、どんな共感刺激するんですかおっかな。
なんてな。



ものすごい誤解、誤読でしょうか。

わかんないですけど、もしこれがあたしの誤読ってことなら、長編にするのやめた方がいいと思うんですよね、ただの勘ですけど無駄骨だとか。
あたしの腹立つ言い草が腹立つつもりなら、そんな奴が書くものなんて所詮下手くそなんだろなって、当たり前に察するものなんですよね。

っていうか、これ読んで真に受けてる人、つまりおまえ、おまえみたいなやつのことだかんな。
なんてな。



どうして“作中作“が必要なのか。

あたしにはこれはこの語り手の“逡巡“っていうたかが一瞬として吐き捨てられるものであってほしいっていうまったく前向きな理解を思い付きたくさせられるものなんですね。
だって、ちゃんとダサいじゃないですか。
“それ“を書かなければままならないお話であってほしい、ってことだと思うんですよね。

これを真に受けて、一文一文、パーツやセンテンスをかいつまんでわからないだのバラしてその意味を考えたがるだとか、まぬけの読書もどきも甚だしいと思うんですよ、そういう理解にとどまるばっかの“ボロセンス“ってことなんですけど。


逆説的に唱える景色があったっていいじゃないか、って、それって何も特別なことなんかじゃないし、たかが設計として、デザインとして画策できない読み取れない“小説“なんて書いても読んでもつまんないに決まってると思うんですよね個人的には。


勝手なこと言ってばっかですか。

そんなはずないと思ってるんですけど。




どんな作品になることやら。
したたかにお嗜みくださいませです。

偏差値45
KD106180000249.au-net.ne.jp

>これは単品でも完成しているべきではないかと思ったので、そのような視点から推敲して出させていただきました。

本当に推敲したのか、疑わしいかな。
総じて言葉のセンスにずれがあるようです。
それが原因で読みにくさを感じますので「どうかな?」と思いましたね。

例えば、
>みしらぬ通りを >とちゅうでわき道にはいる
>予想がいだった。

まあ、ひらがなは良いとしても、同時に
>吐瀉物
こんな文字を使ったらアカンと感じますね。

>モンブランをちみちみとフォークで刻みながら、
このみちみちと、、、どういう意味か。分からない。

で、物語を読んで楽しむというレベルではなくて
言葉の理解の負担が大きいので、むしろストレスの方が大きいですね。

一平
119-171-161-10.rev.home.ne.jp

想像力の搔き立てられる作品だと思います。こういった文体も好きですし、主人公も嫌いじゃない。
でも、この作中作が単体で完結しているのかと思う。
 
二階から降りてくる音で完結させるには、少し強引すぎる気がします。
この落としどころで謎だらけだった部分が解明されるのだったらいいのですが、相変わらず謎のままですし、予告編としか感じられませんでした。
ただ、死に至る何かをしでかして最後にたどり着いたこの場所には興味を惹かれます。コミチにも。

けれどコミチの嘔吐が死んだ彼と彼女によるものだったら、主人公とコミチに共感できないでしょうね。死んだ彼と彼女が同胞で、主人公とコミチを残して旅立ったのなら違う感情も生まれるとは思いますが。
 
どちらにせよどれが伏線なのが最後まで探せませんでしたし、後味はすっきりしないまま。できるのであれば本編を読んでもやもやを晴らしたいです。
 
読解力のない感想でごめんなさい。

夜の雨
ai225105.d.west.v6connect.net

「作中作小品α」読みました。

引っ越しと「コミチ」という「モノ」とは、関係があるのですかね。
>その夜、枕もとにあらわれたコミチは胃液のにおいがした。酸のつよい、水けしかはいっていない吐瀉物のそれだ。きっと何度もなんども戻してきたのだろう。そうして目を伏せたまま、恐るおそると伸ばした指さきで布団ごしの僕のかたにちょん、と触れた。<
とあるので、コミチと引っ越しが関係あるのかと思いましたが。

 >それで僕は引っ越すこととなる、ふしぎな引力のようなものでもって新居にいざなわれる。<
行間を開けた、次の文章で引っ越しのことが書かれているので。
●要するに、コミチにストレスがあり胃酸を出しているようなので、それを心配した主人公が引っ越しを決意したという事ですか。
どうしてコミチが胃酸を出すほどのストレスがあるのかというと、引っ越し前の家に原因があるという事になりますが。

この冒頭のところで「コミチ」が「何者なのか」わかるように書いてくれないと、話が理解しにくいのですが。

それでのんきに歩いていると「簡素でしかしうつくしい二階建てであった。」ということで、そこに一泊することになり、「引っ越し先」になるわけですよね。
この歩いているときの風景の描写が結構うまく描かれていました。そのあたりも引っ越し先を決めた理由だと思います。

あと
>唯一、肉屋と喫茶店だけがそれぞれに、コロッケとケーキをもち帰りようにパッケージングしてくれるサービスを提供してくれていた。<
ということで、公園で食べたりします。これなども引っ越し先を選ぶことの重要な案件です。
要するに、この町が主人公は気に入ったというような意味にとれます。

あと新居の二階建てですが、何度も通い主人公は小説などを持ち込む。主人公の個性がわかり良いですね。
その新居には二階から宙づりの梯子(はしご)があるが、主人公がいる下からは上がれない。
したがって上に何があるのか、だれがいるのか、いないのか、がわからない。
そんなある夜、地震で飛び起きたりするが。
『どこから、どこまで?』まぶたの裏でコミチがいう。『どれが美しくて、どれがそうではないのですか』
しかしこれらが「夢である」という事になっているのですよね、起きて。
その起きた後に、二階からの梯子を誰かが下りてきた。
ということで、その誰かの正体が描けていないところで終わっています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
要するに「コミチ」が原因で引っ越しすることになるが、その「コミチ」がなんであるのかを作者さんは書いていません。
コミチがなんであるのかわかるように書いてください。

●たぶん、主人公の精神的なものであるとは思うのですが。
なので、冒頭のコミチの胃酸も主人公のストレスからの胃酸だと思います。●

前の家の引っ越す理由も書く必要があると思います。

それで引っ越し先の街の風景とかを描き、結構住み心地がよさそうな世界という事になりましたが、新居の二階建てに上からの梯子があり、下からは上がれない。

そして深夜地震で起こされたりして不安になるけれども、寝ていると梯子を下りてくる第三者がいた、ということで、気弱な主人公に不安がのしかかるというようなところでラストになりました。

読み終わってみると、結構味がある作品で、「コミチ」が可愛いのですが、正体は早い段階で書いておいた方が良いですね。
オチの二階から梯子で降りてくる誰か。
というところなどは、ちょっと緊迫感がありよいですね。

お疲れさまでした。

m.s
104.28.83.169

金木犀さま

小説を創作するにあたり『こういう風に書きたい』と、『どう読まれるか』という視点が折衷しているべきだと思うのですが。私はえてして長いものを書いているさいちゅうに後者の仮想読者の視点が死んで、書いている私と書かれている小説というひどく狭いせかいに漂泊をしてしだしてしまいます。
今回もそのような予兆があり、『読まれねば』という危機感があり、上げさせていただきました。
けっか、そこそこは正気に戻ることができた(たぶん)。
これは本編をぬきに掌編として成立するたぐいのものでは無いと、いまではそう認識できますーー

私にとって小説を書くというのは孤独な営為であり、だが裏腹にどうしようもなく、他者をひつようとします。

お読み頂きましてありがとうございました。

m.s
104.28.83.158

神楽堂さま

漢字のひらきに関してはいつも指摘をいただくところでして、深い意図があれば良いのですが主には単に趣味としてひらがなが好きなだけです。また漢字とひらがなでは同じ文でも視覚てきな容量とそしゃくの速度が異なるようにおもうため、そのようなリズムの観点からの作為はあります。一人称の「ぼく」は推敲漏れです。
なるほど、私は近畿地方の出身ではないのですが「あて」が方言ということは知りませんでした。どこの人間関係から私に伝播したものか。

お読み頂けましてありがとうございました。

m.s
104.28.83.166

浮離さん

おっしゃるとおりプライドのたかい一人称なのです。文体は(私なりにであるが)格調だかく、固有名詞も気取ったものばかり。でもかれはその虚勢を意識するコトすらできないわけで、そんな人物に自覚すらできない己の内面をかたらせるための手法としての作中作を企図しました。
しかしいざ書いてみたらこれは、鏡を覗きこむ姿であり、その向こうにうつっているのは私じしんであるかのような気分にもなってきた。むやみに気位のたかい孤独でおろかな人物。だけど、それでは現実となにが異なるのか。現実どおりではいみがない、救いがない。なら創作が現実よりも勝るためのプラスワンとしてなにを其所に付与できるのか。創作の意義がただ、現実に得られていないだけの救いのイミテーションなのだとしたらそのような現実にはなおさら意味がない。
もちろん物語に酔いはじめるのは良い兆候ではない。このたびの皆さまの感想にていまいちど、小説を身から突き放すことができたように思います。しかしかたや、創作なんて作品と自身についての境めがあいまいに狂いはじめてからが本質だろう、という思いもある。
もうちょっと、やってみます。

m.s
104.28.83.166

偏差値45さま

いつもお気にそぐわないものを読ませてしまって申し訳ありません。
しかしいつもお読み頂けているので、私の小説には偏差値45さまにとって『読まずにはいられない要素があるのでは』と誤解をしかけております。

個人てきに創作物の享受の価値基準が『分かりやすく』『楽しく』ばかりでなくてもべつに良いのでは無いかと考えております。

m.s
104.28.83.166

一平さま

ハイまったく掌編として完結しておりません。 
しかし皆さまに感想をいただくことで漸くそれに気づくことの出来た鈍さなのです。本心から感謝をしています。

お読み頂けましてありがとうございます。

クレヨン
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 m.sさん、拝読しました。

 ありきたりな感想になってしまいますが、前の作品を読んでいた僕としては「コミチ、死んじゃったのかあ」ってなってショックを受けてました。普通に読者としてショックを受けてます。

 僕は作品を読んでいて全部を理解できたわけじゃありません。でも全部を理解する必要ないかなって思っています。僕らって結構わからないことをわからないまま放置してるじゃないですか。飛行機がなんで飛ぶのかわからないし、なんなら自分の使ってる水道の配管がどうなってるのかすらわからない人がほとんどじゃないですか。それでも勝手に時間は進んでいって、なんだかんだ平気じゃんって気づいてそのまま放置しちゃうわけじゃないですか。

 わからないって別に悪いことではないと思うんです。わからないっていうのは、人間の知覚能力に限界があるっていう事実を示しているだけなんです。言い換えれば、自分が別に全能の存在じゃないってことが露見しただけです。

 ここで話をコミチに戻しますが、この作中では主人公と接触してきたコミチはなんなのかってところがわからないと思うんです。

 水道とかの話で言えば、わからないっていうこと出てきた空白は結果が埋めていました。水道から水が出るんだからとにかくちゃんと動くんだよねじゃあいいかって。

 じゃあここでコミチにまつわる空白を埋めるのはなにか。それは感情と想像だと思います。誰もがコミチになんらかの印象を抱くし、なんらかの想像をします。そうしてその想像を元に読み進めていくわけです。まるで昔の風呂場がぬめぬめしてたのをあかなめって妖怪のせいにしてたみたいに。

 単純明快なストーリーが書けて、文章のわかりやすい小説家のほうが売れるだろうっていうのはわかります。でも別にこの作品を売るわけでもなし、そんなに利益に走らなくてもいいなら全部懇切丁寧に説明しなくてもいいんじゃないかって気がします。鍛錬場だからって、別にそれがビジネスの鍛錬とは限らないわけですし。

 ただ誤解しないでほしいのは、わからないことがあるからいい小説ってわけでもないです。ようは空白を無粋に埋めるとかえって悪いから空白のまま放置してるだけだと思うので。だってコミチの正体が幽霊でした現れたのはこういう理由で、とか幽霊は魂であり魂とは、とか説明されてもだるいですよね。そもそも誰視点で説明するんだって話です。主人公をさしおいていきなり神様が幽霊の説明とかしてきたらびっくりしちゃいます。

 結局、この小説がお金を得るための小説なのかそれとも文学研究のための小説なのかで評価はわかれると思います。お金を払う人がいないからこそ好き勝手やれるって状態でしか試せないものもあります。

 それじゃあこの小説が仮に文学研究だとして(ビジネスとしては多分やっていけない気がするので)よしあしをどこで決めるのかって話ですが、それはだめだ、ありえないって言葉で判断するところだと思ってます。そういう言葉が多ければ多いほどいいんじゃないでしょうか。

 この小説が理解できない、とかよくわからないとか、こんな小説はだめだって言葉って言い換えると「私はこんなの考えもしなかった」ってことなんですよ。誰もやらなかったことを調べるのが研究なんだからそれを進めるのはむしろいいことですよね。人間の能力ってみんな大体一緒ぐらいだから誰もやらないことを一人だけやってその道の専門家になるのがいいんじゃないでしょうか。

ポキ星人
sp49-97-9-226.msc.spmode.ne.jp

>それで僕は引っ越すこととなる、ふしぎな引力のようなものでもって新居にいざなわれる。かくして呑気にもみしらぬ地に散歩をしてみたのだ。

>いざなわれる。から、>かくして〜 と受け身から能動的に変化するわりには >呑気 なのがなんとも言えない不思議さを醸し出しています。作者にはこういった、読み手が文字を追うのを自然に断絶する(裏切る)文体の特異性がみられます。僭越ながら短編に向いていると私は思っていますが、ぜひ長編でも頑張ってほしいところです。

m.s
104.28.83.155

夜の雨さま

>コミチと引っ越しが関係ある
はい。あるという想定でした。しかし具体てきな説明を行えない抽象的/無意識下のトリガーとして。

> この冒頭のところで「コミチ」が「何者なのか」わかるように書いてくれないと、話が理解しにくいのですが。
おっしゃる通りと思います。また、
>「コミチ」が「何者なのか」
物語じょうの役割について要約してせつめいできるような存在ではなかったので、そもそも単独の掌編としては成立できないものであったのだと、みなさまの感想により漸くそれを客観視できました。やっぱり「呑まれかけて」いた。

長いものを書いているとそのあたりの、何が説明不要で何がそうでは無いのか、という価値基準が不確かになるので、夜の雨さまのご感想もふくめ、たいへんに助かっております。

ありがとうございました。

m.s
104.28.83.169

クレヨンさま
実は。みな本当にわかりやすいものを求めているのだろうか。という疑念があります。
私はあんまり同時代の小説を読まない不勉強な書き手なのですが、さいきんに近ごろ売れた小説を何冊か読みました。
村上春樹の色彩ーーと騎士団長ーーなど。
ほんとうに重要なせかい認識とは個々人が得る象徴的な理解であって、真に客観的な事実などは存在しない。というさほうについて『世界の終わりとーー』でやっていた事をより強化してやっているのだな、と感じました。クロニクルでもカフカでも似たようなことをやっていましたけど。あちらではまだ象徴性よりもリアリズムがまさっていた。
宮崎駿の『君どう』でもやはり、同様の傾向を感じました。受け手なりに種々の解釈をすることはできても一意な意味を解読するすることはできない。
『ハンチバック』も読みました。障害を持つ作者が書いたということで注目されていましたが。これ、作中内作品というメタ構造を二重でウロボロスてきに結合するというなかなかに野心的な作品で、そこをうまく了解できないとラストの閉じかた納得できないだろう、とか。
どれも推し並べて決してわかりやすい作品ではない。情報が十全に提供されず、想像の余地のあそびが物語全体像を一変させるほどの『空白』として残されている。
たぶん、消費者が物語にもとめる価値は二分化されている。

ライトノベルではその商品が生き残りつづけるに生き残るために、情報が増殖をしつづける。いつまでも物語がつづいて登場人物は増え続け、中核のじんぶつには続刊マンガ化アニメ化で随時情報が付加されつづける。
もちろん後者が、市場においては圧倒的なのですが。

m.s
104.28.83.163

ポキ星人さま

お読み頂けましてありがとうございます。
あの、私の記憶に違えがなければ、たぶん好意的な傾向のご感想をいただけたのは初めてなのではないかと。

> 僭越ながら短編に向いていると私は思っていますが

はい。私じしんも、ときどき思うところです。しかし私のみるところ、現状の日本には中編いじょうの文量の小説しかまっとうな市場がそんざいしておりません。

こんな作風をしてなんなのですが、やはりそちらを志向したいと考えております。
激励をはげみにさせて頂きます。

金木犀
sp49-96-228-159.msd.spmode.ne.jp

>>エンドロールの終わったあともせかいが続くとしたら、プレイヤーキャラクターをじゆうに操作できるままであったとしたら。僕はどうなってしまうだろう。じぶんのコトをどうしてしまうのだろう。だからコミチは、おそらくは、コミチは。

この作品を読み解く鍵はおそらくここに集約されているとは思ってました。

もしかしたら、冒頭にこの文章を加えるだけで、印象は違ったかもしれないなと思います。
そういう世界の話なんだ、という方向が明確になって、それを元に読者は読むと思いますから。

人が死んでも残された者は終わらない。終わったあと、どうするか、どうしようか。
悩むお話なんだとは思いました。

m.s
104.28.83.163

金木犀

はい、書いております。ひとまず書かねば。

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