作中作小品α
その夜、枕もとにあらわれたコミチは胃液のにおいがした。酸のつよい、水けしかはいっていない吐瀉物のそれだ。きっと何度もなんども戻してきたのだろう。そうして目を伏せたまま、恐るおそると伸ばした指さきで布団ごしの僕のかたにちょん、と触れた。
それで僕は引っ越すこととなる、ふしぎな引力のようなものでもって新居にいざなわれる。かくして呑気にもみしらぬ地に散歩をしてみたのだ。みしらぬ通りをずっとあるき、とちゅうでわき道にはいるとその奥には、茶褐色の砂利に、白の横木の林道がつづいていた。うっそうとした樹々のきれめのその向こうにあるいえもまた、漆喰の塗られたしろい建屋で、ギリシャやイスタンブールなど地中海沿岸によくあるように、簡素でしかしうつくしい二階建てであった。それで次のすまいを定めるのかいなか、そこに一日泊まることにきめた。
その海沿いのいえから、商店街のある街路まではあるいて二十分はかかった。ずっと浜辺のわきを歩くのでとくに夕暮れなど、映画のエンドロールのシーンをスタッフロールを背景に進んでいるようなきぶんになった。
商店街についても、まえに住んでいた街にあったようなテイクアウトを実施している飲食店はほとんどない。ただ唯一、肉屋と喫茶店だけがそれぞれに、コロッケとケーキをもち帰りようにパッケージングしてくれるサービスを提供してくれていた。
かえり路に公園のベンチにすわって大口をひらき、ショートケーキをあぐあぐとしているとまるでじぶんが化け物のようなきぶんになり、それですこしだけ満足ができる。まだこのあしは動くのだ、としてしまうことが出来たのだ。
そうして危険な岐路をおえた僕はあの白いいえでドラッグストアに袋詰めで売っていたキャベツの千切りを皿にぶちまけたあとにコロッケを乗せて、そこにたっぷりとウスターソースをかけて晩飯のあてとした。
それで夕食をおえたあと、モンブランをちみちみとフォークで刻みながら、それをあてにウイスキーを舐める。なにしろテレビもないので畳の座卓から手をのばして触れた、棚のうえに置いてあったトーマス・マンの魔の山を読んでいる。まったく、ぼくは何世紀のじんぶつなのだろう。
だんだんとまぶたが重くなってくる。もちろん引っ越しに先だって、暮らしはずいぶんと不便になるだろうと想像をしていた。なにしろすこし前までは、いえを出てすこし行けばコンビニも飲食店もそこに開いていたのだから。だけど、夜いえで一人くらすときのこの静けさは、あの頃には望むべくもなかった。
そう、不便はかくごしていたのだでも、たいくつは予想がいだった。それで僕は、遅ればせな冒険をはじめる。というのも、もう僕のじんせいは凍ってしまったので、最期にたどりついたこの場所についての探索をしようとおもったのだ。
想像してみてほしい。エンドロールの終わったあともせかいが続くとしたら、プレイヤーキャラクターをじゆうに操作できるままであったとしたら。僕はどうなってしまうだろう。じぶんのコトをどうしてしまうのだろう。だからコミチは、おそらくは、コミチは。
そうして僕のからだはムクリと起きあがった。まだ死んでいないので、なんでもできる。それで死なないためならなんでもしてしまえる。ねえコミチ、僕はもう死んだかれもしくは彼女にそう問いかける。「これはきっと、そういうコトなんだよね?」
ゆめの中でさらに目をさます。目が開く。無知なフリなどもう出来はしない。
天井はくらい、くらい。だが、仔細はみえる。梁が平面てきに張りわたらされている、典型てきな日本家屋のつくりだ。
僕の眠っている部屋が二階建てであることに気づいたのはそのときのことだ。リビングのてんじょう角にメンテ用には大きすぎる、一畳ほどの穴が空いており、そこからシャンデリアの一房のように、金属製の柱群がぶら下がっている。おそらくは折りたたみ式のハシゴだろう。けれどそれを展開するすべを知らないので僕は二階にはいけないし二階にいるかもしれないだれかも此方には降りてこれない。ならばまあ、しかたがないか。
そうして引っ越しまえには、電車でその新居に足しげくかよった。本を持っていくためだ。引っ越し会社のロゴのはいったダンボールにつめた本はたいてい死蔵されもう二度と開かれることはない。なのでこの先に読まれる可能性がある本をみつくろってリュックと紙袋で新居へと運んだ。そこにいたるまでの堤防沿いの道は相変わらず、いつも映画のワンシーンのように美しかった、じっさい、それが雨降りであったときにでも、其れはそれで絵になったのだ。
何度めか、ついに本を運びおえたとき、ようやくその海辺のいえが新居であるのだと確認ができた気がした。旧宅とおなじく、本のやまに埋もれた布団のなかで僕は眠った。この、すこしく重みや寝がえりに不自由さのある環境でないと僕はうまくあんしんして眠れないのだ。使い途のない二階とそこへ続かないハシゴとか。そうした意味のないムダがなければ。
それでゆめのなかで更に眠ろうとしたときふいに、地震が起こり寝床から撥ねあがる。それはひどく遠くはなれており何らじつがいは生じないのだけれど、僕はひどく、不安になった。
『どこから、どこまで?』まぶたの裏でコミチがいう。『どれが美しくて、どれがそうではないのですか』
それで、僕のあしは立ちすくんでしまう。漸く、それらすべてがゆめであることに思いいたったのだ。だけどいつの間にかもう、天井からゆかに向けてまっすぐにピカピカの梯子が降りてきており、天井をきしませる足おとが頭上へあゆみ近づいている。やがて金属のハシゴにさいしょの一歩をのせるかちん、というおとがリビングに響いた。
執筆の狙い
いま書いている長編小説のなかに作中作のような小編が出てきて、これは単品でも完成しているべきではないかと思ったので、そのような視点から推敲して出させていただきました。
忌憚のないご意見を頂ければさいわいです。