昼と夜
昼の少し前、輝くような金髪の娘と同じ髪色のでっぷりとした娘の父が隣あって歩いていた。アンの父トマスはアンが馬車を降りて歩き始めてからずっと、アンに作戦を伝授し続けていた。
「とにかく静かに、ヘンリー様の話にうなずいて、決して自分の意見など言わないことだ。とにかくそれさえやっておけば機嫌を損ねることはないだろう」
王妃の弟であるヘンリーにアンが気に入られるかどうかだけしか、トマスは考えていないようだった。アンがヘンリーに会ってみて気に入るかどうかなどはまったくどうでもいいらしい。それはアンがヘンリーを絶対気に入るはずだと確信しているからなのか、それともアンの気持ちなどどうでもいいと思っているからなのかはアンにはわからなかった。どちらの答えであっても慰めにならないので聞く気にもならなかった。
「わかったわ、お父様」
いちいち反論すると話が長引くので、アンは素直に返事をした。
「もし何か聞かれたらそのときは答えろ。わからないときは黙ってにこにこしてごまかすんだ。そうしたら隣にいる誰かが代わりに答えるから」
ドアの前に立ったところでトマスは話をやめた。トマスがドアをノックすると、召使がドアを開けてくれた。アンが屋敷の中に入ると、ヘンリーのいる部屋に通された。そこでアンは初めてヘンリーの姿を目にした。
ヘンリーは噂通り、燃えるような色の赤毛だった。それでいて目は青かった。武術にたけていて馬に乗ることもしょっちゅうあるというが、その影響かたくましい顔つきをしていた。ヘンリーが緊張しているのかどうかはわからなかったが、アンを見ても笑顔を見せることはなかった。
挨拶やお互いの紹介を終えて軽く会話を交わした後、ヘンリーはアンと散歩に出たいと申し出た。しかも二人きりで。
「二人きり、とは」
「大丈夫だトマス、別に取って食ったりはしない」
「いえ、そのようなことは。ただ、いきなり二人きりですとアンも緊張しておりますから」
トマスは二人きりの散歩を避けたがっているが、それはアンの身を心配しているわけではない。トマスが心配しているのは、アンがヘンリーの機嫌を損ねないかということである。馬車を降りた直後くらいにアンはそういう風に父から聞かされていた。
「安心しろ。アンが困らないよう、きちんと俺がエスコートする」
その一言でトマスは折れた。
「いえ、決して反対しているわけではないのです。若い二人だけで話してみるのも大切なことだと思います」
ヘンリーはアンと連れ立って外に出た。ドアから出て、すぐ右にある庭園に二人は入っていった。
「合格だ」
ヘンリーは言った。
「合格とはなんのことでしょうか?」
「君は人に見せられるだけの美人だし、見られて恥ずかしくない程度には礼儀作法も身についている。さすがはトマスの娘だ」
「ありがとうございます」
アンは笑みを浮かべた。たとえここでヘンリーの頬を張り飛ばしたくなったとしても、絶対にやってはならない。ヘンリーの反感を買ったら、家族が破滅してもおかしくない。
アンはこの散歩を少しも楽しんでいない。成り上がりのチャンスとも思っていない。アンにとってヘンリーに接することは薄氷の上を歩くこととなんら変わりがなかった。彼の機嫌がいつどういう理由で変わるのかわからないような状況では花を楽しむ余裕もなかった。
「わかっているとは思うが俺と結婚したら一生楽して暮らせる。お金に困ることはなくなり、みんな君を敬うようになる。しかも君がやることはたった一つ、子供を産むことだけだ」
「それは、素晴らしいですね」
「おいおい素晴らしいですね、じゃないだろう。君はちゃんとした子供を産めるよう努力するんだ。いざというときに怯えて動けなくなったり、体調を崩したりなどしないように。できるよね?」
誰もこの男に女との話し方を教えようとはしなかったらしい。それとも、女の口説き方は心得ているもののそれをアンに使う必要はないと思い込んでいるのか。アンのことを権力に吸い寄せられたネズミのようなものとでも思っているのか。
とにかく静かに、うなずいて、自分の意見は言わない。アンは三つの言葉を胸の中で何度も繰り返した。そうでもしないと自分を制御できそうになかった。
夜、誰もかれもが寝静まった頃にリチャードは裏口にやってきた。それからリチャードは裏口の戸を三回たたいた。すると裏口の鍵の開く音がして、それからドアが開いた。
裏口のドアを開けたのは侍女のメアリだった。
「こんばんは。いつもすまないね」
リチャードのその言葉には答えず、メアリはリチャードに伝えようと思っていたことを伝えた。
「アン様とヘンリー様が今日、見合いをされましたよ」
その知らせを聞いてリチャードは一瞬、身を震わせた。
「見合いの結果はどうだったの?」
「私ははっきりとしたことを聞かされていません。でもアン様は失敗したわけではないみたいですよ。多分このまま結婚なさるんじゃないかしら」
「そうか。そしたら今は会うべきではないかもしれないね。これを彼女に」
リチャードは手紙をポケットから取り出そうとした。
「申し訳ありませんが詩を受け取ることはできません。前も言いましたがアン様はあなたから直接、詩をお受け取りになりたがっているのです。もしあなたを連れて行かなかったら私が怒られるんですよ」
「今日になっても?」
「今日も、です。ほら、来てください」
リチャードはメアリに袖を引かれて歩いて行った。屋敷の中を明かりなしで進むには、屋敷の間取りを知っているメアリにこうしてもらう必要があった。
やがてリチャードはアンの部屋の前にたどりついた。部屋のドアを開けると、例のごとく部屋の中はろうそくの明かりで明るくなっていた。
リチャードは部屋の中へ入っていった。メアリは中に入らずそっとドアを閉じた。そしていつものようにドアのすぐ横で見張りを始めた。
「リチャード、今日もありがとう。早速詩を見せてくださる?」
リチャードはポケットから手紙を取り出してアンに渡した。アンはそれを受け取ると、椅子に座って読み始めた。
前は、こんなことをしなくても済んだ。リチャードは白昼堂々、この屋敷の中を出入りし、詩をアンに渡したあとで少し談笑し時にはお茶を飲んだりもしてそれから帰ったものだった。
それが変わったのは、ヘンリーとアンが結婚するという話が持ち上がってからだった。そのときからアンの両親は神経質になった。アンの処女を誰かが奪わないよう男という男をなるべく遠ざけるようにした。それはリチャードも例外ではなかった。
だがアンはリチャードの詩を読めなくなり話ができなくなるのは嫌だと言った。そこで取られた策が、メアリに手引きしてもらって夜にアンの元を訪れる、というものだった。
「今回の詩もとてもいいわね。女の人と離れ離れになってしまう男のセンチメンタルな心情が、読んでいると自分が世界に一人きりになってしまったみたいに切なくなってきて……ああ、だめね。私じゃとてもこの詩のよさを表現できないわ」
「そんなことないよ。その感想が聞けて僕はとてもうれしい」
リチャードは顔を赤らめて言った。
「私は真逆の立場だけどね。このままだとヘンリーと結婚することになりそう」
「そうらしいね。ヘンリー様はどういう人だった? いい人だった?」
「様なんてつけなくていいわ、ヘンリーがここにいるわけでもないし」
「君がそう言うならヘンリーとだけ呼ぶけれども」
「それで十分よ。で、ヘンリー様のことだけど向こうは私のことをそんなに好きじゃないみたい」
リチャードには、アンが好かれない理由が思い当たらなかった。美人で気さくで、気立てもよくそれでいて上品。完璧な女性を体現したような人だとリチャードは思っていた。
ヘンリーほどの男ならきれいな女など見慣れているのかもしれない。だが気に入られなかったというのはさすがにアンの勘違いだと思った。
「そんなことないと思うけど」
「ありがとう。でも別にヘンリーに好かれていなくても傷ついたりなんかしてないわ。だって結婚ってそういうものでしょ? お互いに好きだから、とかじゃなくお互いの家のために結婚するものでしょ」
「君は強いね。結婚をそんな風に割り切れるなんて」
「ううん、割り切ってなんかいない。ただ両親に言われた通りにしてるだけで、それに逆らう勇気がないだけなのよ」
アンは恋愛結婚ができる男女が心底うらやましかった。特にリチャードなどは愛する女性と結婚できるだろう。リチャードは素晴らしい詩人でしかも顔もいい。望むなら誰とでも結婚できるはずだった。
「時々逃げ出したくなる?」
リチャードは尋ねた。
「今すぐにでも逃げ出したいわ」
「でも逃げ出さないんだね」
「逃げ出す手段がないのよ」
「だったら手伝ってあげようか?」
リチャードはほんの冗談のつもりで言った。ところがアンははっとしたような目でリチャードを見た。冗談を聞いた人の表情ではなかった。
リチャードはひやりとした。アンが本気にしているような気がした。だが本当に逃げ出したりしてしまったらアンの人生が壊れてしまう。一度壊れたら取り返しがつかない。後悔したときには手遅れだ。
「ごめん、つまらない冗談だったみたいだね」
「あ、ううん。いいの」
「もう帰るよ。楽しかった、ありがとう」
リチャードは席を立った。
「こっちこそお礼を言いたいわ。あなたのおかげでなんかすっきりした」
アンは笑みを浮かべてリチャードを見送った。
昼を少し過ぎた頃、アンの屋敷をヘンリーが訪れた。なんでもたまたまそばを通りがかったようでそのついでに寄ったらしかった。
「ところで最近、リチャードとかいう詩人と会ったんだがね、君知ってるかい?」
アンはその名前を聞いてひやりとしたが表情には出さなかった。そしてヘンリーに嘘をつくべきでないことぐらいということをアンはわかっていた。ヘンリーがその気になれば、アンが昨日飲んだお茶の種類まで知ることができる。
「私のお気に入りの詩人ですわ。その人がどうかしたのでしょうか?」
「そうか、君のお気に入りとはね。彼はそんなにいい詩を書くのかい?」
「ええ、それはもう」
アンの評価は決してひいきしているわけではなかった。リチャードは国内でも名の知れた詩人である。しかもそれだけでなく、語学も堪能で、二か国語で詩を書くことができて自分の詩を自分で翻訳することもしていた。
「そうか。もっとも俺は詩人という人種があまり好きではないがね。あいつらはふらふらして言葉をこねくり回して遊んでいるだけの連中だ。なんていうか、腰が据わってないし根性なしだ」
「そうですか」
アンは笑みを浮かべて受け流した。
「君の好きな詩人ならあまり悪く言うのはよくないかもしれないが、あいつはやめたほうがいい」
「やめたほうがいいとは?」
アンは無邪気な女を演じてみせた。それが功を奏したのかはわからないが、ヘンリーは語りだした。
「あいつは俺に話しかけてきたと思ったらいきなり愛について説教を垂れてきた。この俺が愛を知らないと思ったらしい。むろん愛なら知っている。俺だって女に恋したことぐらいある。とにかく失礼なやつだった」
アンは青ざめた。リチャードがそんなことをするはずがないとアンは思っていた。昨日の話を聞いてリチャードがアンに同情したとまでは考えられる。しかしリチャードは決して馬鹿ではない。戦ってはいけない相手のことぐらいわかっているはずだ。
「だが所詮は詩人の言うことだと俺は思った。もちろん許してやったさ。だが、アン、あんなやつの詩は読まないほうがいい。君に悪い影響を与えかねない。というか俺の妻になるかもしれない女が詩など読まないでほしいね」
まだ結婚すらしていないのに、詩やリチャードのことで指図されたくはなかった。だがそう言わないだけの分別がアンにはあった。
「そうですね」
アンはニコニコしながら両手を体の前で組み合わせた。左手で右手を隠して、右手でスカートの布地をぎゅっとつねった。
「ところで結婚のことだけど、もうだいぶ話は進めてある。君の父親とも話をしていてね。来月のはじめくらいには式を挙げられないかと思っているんだ。まだはっきり決まったわけじゃないけどね」
「そうですか」
もう帰ってくれ、とアンは頭の中で強く念じていた。今はこんな男との結婚の話なんてしたくなかった。
だがその後もヘンリーはだらだらと詩の悪影響とリチャードという人間の本性について語り続けた。アンの父親と同じようにヘンリーはアンをバカだと思っているみたいだった。アンがそのように見せかけていたのだから当然の結果ではあったが、それでもかなり屈辱的だった。
夜、リチャードに会ってアンは青ざめることになった。リチャードの頬は赤く腫れて、右目の周りには青あざができていた。歩き方もなんだかぎこちなくて、左足を引きずっていた。
「ちょっと路上で喧嘩してしまって」
リチャードはけがの理由をそう説明した。
「ヘンリーにやられたのね?」
アンにはわかっていた。ヘンリーの仕業以外にありえなかった。リチャードは路上で喧嘩したりしない。リチャードの人柄のよさを知っている人は多いし、初めて会った人でもすぐにリチャードのよさに気づく。リチャードを嫌っているのはアンの知る限り、一人しかいなかった。
「いや」
「私に嘘をつかないでちょうだい、リチャード。私はヘンリーからすべて聞いているのよ」
アンはかまをかけた。
リチャードはアンの言葉を信じたようだった。リチャードはその言葉にショックを受けたみたいに口を閉ざした。それから少ししてリチャードは謝った。
「嘘をついてごめん。心配をかけたくなくて」
「どうしてこんな、ひどすぎる。あの人、あなたになんてことを」
アンはリチャードの両頬に手を添えた。アンはリチャードのけがを見ていて泣きそうになった。これほどひどい怪我をするほど暴行するなんて信じられなかった。ヘンリーは許した、などと言っていたがあれは嘘だったのだ。
「ヘンリーは僕が君に詩を書いて渡していることを知っていたみたいだった。さすがに夜にこうして夜に来てることまでは知らなかったみたいだけど」
「ヘンリーはあなたが彼に愛について説教したって言ってたけど」
それを聞いたリチャードはきょとんとしていた。
「そんなことしてないけど」
「でも彼はあなたが失礼な態度をとったって。それじゃあなんであなたがそんな目に遭うの?」
「それは、彼がちょっと勘違いというか、僕が君のことを狙っていると思ったらしい。彼には身分が違うから諦めろそれとこれは身の程知らずへの罰だ、と言われてこんな風に。実は二度と会うなとも言われてたけど、彼も夜は寝てるだろうと思って来ちゃった」
アンは言葉に詰まった。つまりヘンリーはリチャードとアンが男と女の関係になっていると勘違いしたのだ。実際はそんなことなどなかったというのに。ろくに事実も確認せずにリチャードを暴行したのだ。
「彼を悪く思わないでほしい」
それなのにあろうことかリチャードはヘンリーをかばいだした。
「なに言ってるの?」
アンは信じられないものを見るような目でリチャードを見た。
「彼がこんなことをしたのも、結局は君のことを大切に思ってのことなんだと思う。君を僕から守ろうとしたんだと思う」
「だとしてもこんなこと許されないわ。私は乱暴な人は嫌い」
アンは改めてリチャードの姿を見た。もし結婚したとして、ヘンリーの機嫌を損ねたりしたら自分も同じ目に遭わされるのだろうか? それとも女だからと加減してもらえるのか。だが子供が産めなかったら手加減なしで殴られるかもしれない。
「もういや」
アンは涙を流し始めた。
「結婚なんかしたくない。絶対いや」
リチャードはアンの涙を見てうろたえた。リチャードにはアンの気持ちが痛いほどよくわかった。男の自分でも、ヘンリーに襲われている間は恐怖を感じた。このひどい姿を見たアンが怖がるのも当然だと思えた。
ヘンリーに襲われている間、リチャードはこの男とアンを結婚させてはいけない、と思った。この男は絶対にアンを殴る、リチャードは暴行を受けたときにそう直感したのだ。
「僕と一緒に逃げないか?」
アンは涙でぐしょぐしょになった顔でリチャードを見た。
「本気なの?」
「今度は冗談じゃない。あのときはごめん。君のために身を引くべきだと思ったけど、間違いだって気づいた。かなり遅くなっちゃったけど聞いてほしい、僕と結婚してくれ」
「本気にしてもいいのね?」
「ああ。俺にはお金もないし詩を書くぐらいしか能がないけど、それでもよければ」
「それはいいけど、こっちこそヘンリーとうちの両親に一生追われることになるけどいいの?」
「大丈夫。それはなんとかなると思う」
ヘンリーは朝早くに自宅を出発して、昼の手前頃にはトマスの家でトマスを問い詰めていた。
「アンがいないっていうのはどういうことなんだ? いつからいないんだ?」
「私は娘がメアリの実家に行ったということしか聞いていないのですが、そこで急に姿が見えなくなったそうで。今も必死に探しているのですがなかなか見つからず」
「もう一度聞くぞ、いつの話なんだそれは?」
トマスは少しためらったあとに答えた。
「三週間ほど前のことです」
ヘンリーは唖然とした。ついで怒りで顔を紅潮させた。
「三週間もの間、何も言わなかったのか? なぜすぐに報告しなかった?」
「私たちはてっきり、娘がどこかで事故に遭ったりしたものと思っていまして。報告は姿を見つけてから、と。それに娘を心配するあまりパニックになってしまい正常な判断もできなかったのです」
「アンはどこにいる? まさか詩人と一緒に逃げたんじゃあるまいな」
トマスは手紙のことを頭に思い浮かべた。
「いや、娘はあなたとの結婚を楽しみにしていたように見えました。絶対ありえません。ありえませんが、もし仮に娘が駆け落ちしていたとするならば、そのときは娘を娘とも思わないでしょうな」
「結婚まであと五日だぞ。式の準備はもう進み始めている。それなのに花嫁がいないとは。俺の立場も考えてみろ。花嫁が三週間も前に姿を消したとも知らず、結婚直前まで結婚式の準備を進めていた俺の立場を! 周囲から笑いものにされてしまうぞ」
「それは大変お気の毒ですがしかし、私の心中もお察しください。娘がいなくなったのです。もしかしたら死んでいるかもしれない。そう思うともう胸が張り裂けそうで」
トマスは娘が死んでなどいないことを知っていた。一週間前に送られた手紙には、海の向こうにある外国でリチャードと暮らすということが書かれていた。
最初はトマスも驚きかつ落胆したが、あとになると、これでよかったかもしれない、と思い始めた。ヘンリーからアンと結婚したいと言われたから話を進めてはいたが、正直娘婿になってほしい人間ではなかった。王妃の弟ではあるものの、それ以外にいいところがない。ヘンリーは乱暴な性格で付き合いにくい人間だった。
いずれはアンとリチャードのことが周囲に知れ渡るかもしれない。しかしそうなったとしてもトマスが責められるいわれはない。駆け落ちはアンが勝手にしたことだ。
それにヘンリーも海外にいるアンを追いかけてまで連れ戻すことなどできはしない。仕事を放っておいて花嫁を連れ戻すことなど認められるはずがなかった。王から、他の女を見つけろと言われるのがおちだ。
トマスの家にはまだ片付けなければならない子供たちが三人ほどいるが、高望みしなければ縁があるだろう、というのがトマスの予想だった。
朝、この国を出る船の上にアンとリチャードは乗っていた。
アンは周囲をきょろきょろと見渡していた。ヘンリーが追ってきてはいないかと不安になっているのだとリチャードにはわかった。
「大丈夫。絶対来てないよ」
「でももし来ていたら?」
今のアンはメアリの両親から借りた庶民の服を着ているからだいぶ気づかれにくくなっているはずだった。しかも今頃ヘンリーは王宮などで王か仕事をこなしているはずだった。王宮からだいぶ離れた港に来る理由はほぼないはずだった。
ヘンリーどころか、アンの家族ですら二人が駆け落ちしたことには気づいていないはずだった。それもこれもメアリのおかげだった。
メアリが実家の両親に手紙を書いてくれて、実家にアンが遊びに行くというアリバイを作ることができた。メアリの実家は港から少し離れたところにある。そこから家を出て、外でリチャードと合流し、アンを変装させて今ここにいるわけだ。
アンが家から出てもメアリの両親はアンを探さないことになっている。アンが、急遽家に帰らなくてはならなくなったと言って家を出たことになっているからだ。誰に聞かれても、アンが家を出てからどうなったかは知らない、と答えるてはずになっている。
「大丈夫。絶対ばれない。それよりメアリとメアリの両親に感謝しよう」
船が動き出した。二人は船の後ろから港が遠ざかっていく様子を眺めた。リチャードは港に目を向けたまま、アンの腰に手をやった。するとアンはリチャードの体に身を寄せた。
執筆の狙い
腕試しのために習作として書きました。自由な恋愛というものを表現してみようとしました。狙いとしては、昼に嫌な相手と会い、夜に好きな相手と会うという組み合わせをしてみました。