小さな居場所
さっき降りだした雨は、もう止んでいた。屋根にぶつかる音が聞こえなくなって、窓を開けたときにわかった。音がしなくなった代わりに湿気を含んだ匂いが網戸の細かいたくさんの穴から入ってきた。
二階の僕の部屋の小さな窓から見える風景は、五線譜のように上から一、二、三、四、五、六と均等に黒い電線が並んでいる。全部で六本。空の色は毎日変わっていて、きれいな水色だけの時もあるし、そこに白い雲が、形を変えて左から右に流れているときもある。雲の流れはゆっくりだったり、速かったりする。魚の形をした雲を見たこともある。テレビドラマで作られたようなものを見たことがあるが、実際に生で見たときは感動した。今は、青い色が少しも無い。濃い灰色だけが一面に広がっていて、雀が一羽、上から四本目の右端にとまってこっちを見ている。音符みたいだ。でも線は六本あるから、「ド」なのか、「ラ」の音なのか、わからない。昨日見た時は、上から三本目に二羽寄り添うようにしてとまっていた。八分音符がくっついていると思ったので、「タタ」と言った。僕は最高で十三羽までしか見たことがない。もしかしたら、見ていないときに、百羽とまったこともあるかもしれない。何羽とまっていようが、決まっていることは必ずこっち側を見ているということだ。
雀は位置を変える。今度は一番下の線の真ん中くらいにとまった。やっぱり何の音なのかはわからない。飛んで行った。目を離すと、空の譜面はすぐに変わる。だからこの窓が好きでいつもぼんやりと眺めてしまうんだ。
しばらく眺めていたけれど、もう雀は来なかった。灰色の空に黒い電線が並んでいるだけ。つまらなくなって、一階の台所に行った。冷蔵庫を開けると、ぴったりとラップに包まれた三角のスイカがあった。ラップをとって、べとつかないように内側をしっかり内側にして、ぐちゃぐちゃに丸めてごみ箱に放り投げた。見事にラップはゴミ箱におさまったけれど、手に少しスイカの汁がついたのでペロッと舐めた。それからすぐにスイカを食べることはせずに、いつも愛用しているガラスのコップを戸棚から持ってきた。カレーを食べるときの大きいスプーンでスイカを上から削って、そのままコップに入れた。コップの半分くらいがスイカになった。そしてぐちゃぐちゃと潰した。学校の帰り道で、大きめの亀が道端で車に轢かれて潰れていたことを思い出しながら、黒い種を潰してしまわないようにだけ気をつかった。スイカのジュースのできあがりだ。飲むと、種もいっしょに口の中へ入ってきた。コップには汁をしぼりだされたスイカのカスが残った。口の中の種とコップの中のスイカのカスを、まだ一切れスイカが残っているお皿に戻した。意外においしかった。残りも同じようにして飲んだ。
外に出た。さっき窓から見ていた空は、ものすごく大きく広がって見えた。ゲームの世界に飛び込んだみたいだ。現実からゲームの世界へ。でも、それは違うってことぐらいわかっている。これは現実の世界。雨上がりの空気は、やっぱり雨上がりの匂いがした。二階の部屋の窓を見て雀がいつも見ている僕の部屋の窓はこういう風に見えるのか、と思った。何がおもしろくてあの窓を見ているのだろう。なんにもおもしろくない。ただの窓だ。屋根の上にはアンテナが立っている。隣の家もそのまた隣の家も、周りの家には決まり事のようにアンテナが立っていた。あれのおかげでテレビが見れるのか、と不思議に思った。なんだか怖くなって、慌てて部屋に戻った。
やっぱりここは落ち着く。自分だけの空間。自由な場所。僕の部屋は三畳だが、大きい箪笥が二つ置かれていて、実際には一畳半ほどになっている。これでちょうどいい。これ以上広いと、どうしていいかわからなくなる。
ゲームをしていたら喉が渇いてきた。また台所に向かった。オレンジジュースがあった。その横に牛乳もあった。コップに半分ずつ入れて混ぜた。初めての組み合わせだったけれど、勇気をだして恐る恐る口をつけた。これも意外にうまい。そのままコップを持って、また玄関を出た。風景は何も変わっていなかった。二階の窓を見た。本当に何がおもしろくて雀はあの窓を見ているのだろう。家の前の道のずっと向こうから車が走ってきた。亀の姿が浮かんできた。怖くなって慌てて部屋に戻った。
部屋でゲームをして、食糧を取りに台所へ行って、玄関を出る。そしてまた部屋へ……。
そんな幼少期を過ごしてきた僕は、二十年経って大人になった現在、婿養子として結婚をし、妻の両親と同居している。与えられている部屋は、あの頃とまったく同じ広さだ。
これでちょうどいい。これ以上広いと、どうしていいかわからなくなる。
執筆の狙い
難しいことはわかりません。よろしくお願いします。