檸檬
巧(たくみ)は二十八歳だった。東京の大学を出て広告代理店でサラリーマンをしていた。特にそこで働こうと思った理由はなかった。行けたから行ったまでのことだった。最初は上手く行った。仕事もできたし、上司にも気に入られた。給料も良かった。都会の遊び場にも連れて行ってもらった。恋人もできた。親にも自慢できたし、巧の両親も近所に自慢の息子として触れ回った。
けれども二年三年と働くうちに、巧には自分の感情というものがわからなくなった。働いていても、恋人と一緒にいても、嬉しいのか楽しいのか、辛いのか悲しいのか、まったくわからなかった。最初、巧は疲れているのだと思った。有給休暇を使って休んでみても、その無感情は治らなかった。そのうち仕事で小さな失敗をするようになった。上司に叱られた。それでも巧は何も感じなかった。同じ失敗を繰り返した。上司に見限られた。無気力な様子を見て、恋人にフラれた。巧には重要な仕事が回って来なくなった。巧は何も感じないことに悩んだ。でも、親に相談しても、「せっかく良い会社に入ったんだから頑張りなさい」としか言われなかった。ある時、巧は上司から会社に迷惑をかけている、と叱責された。だから、誰にも相談しないで二十五歳の時に退職願を出した。
仕事を辞めて実家に帰った時、巧の母親は泣いた。父親は怒り出した。何も感じなかった巧でも、両親が悲しんでいるのは辛かった。でも、どうしようもなかったんだ、と自分に言い聞かせた。
それから一年二年と過ぎた。
「タクちゃんはやればできるんだから、ちょっと今は休んでるだけよ」
「そうだな。いつだってまた大きな会社に入れるさ」
両親は励ましてくれたが、巧にはそれが辛かった。巧は心療内科へ行ってみようと思っていることを両親に話した。
「それは大袈裟じゃないかしら。体はこんなに元気なんだから、きっとランニングでもすれば気分も晴れるはずよ。そういうことしてるの?」
「そうさ。ちょっと考えすぎているだけだよ。楽しいことでも、ぱあっとやれば、それくらいの気分すぐ晴れるさ」
そう言われると、巧はしょげてしまって、病院にも行かなかった。
そうして三年が経った。励ましてくれていた巧の両親も、我慢の限界に来ていた。
「あなた、もう三年よ。ご近所でもあのお宅の息子さん引き籠もりになってるって言われてるし、そろそろなんとかしないと」
「荒治療が必要なのかもな。元々精神が弱かったのかもしれない。そういうのを鍛えるところに預けるべきか」
襖越しにそのような会話を聞いた巧は、震え上がった。そんなの絶対に保つ訳がなかった。巧はそれから自室に鍵を閉めるようになった。
そんな折、自宅に叔父が訪ねて来た。叔父は巧の父親の弟で、今は県外で蜜柑農園をやっている。どうやら、父親が巧を施設に預ける話を叔父に相談したらしく、叔父は慌ててその計画を止めさせたのであった。
巧にとって、叔父は子どもの頃から良くしてくれる人で、その柔和な丸い蜜柑みたいな顔に親しみがあった。
「巧くん、叔父ちゃんやけど、ちょっと話がしたいんじゃけ、いいかな」
ドア越しに懐かしい声を聞いて、巧は鍵を開けた。
「久しぶりじゃ。入ってええかい」
巧は部屋に叔父を招き入れた。叔父は散らかった部屋の様子を見ても何も言わなかった。そして叔父は自分の話を始めた。今やっている農園のこと。農園を始めた頃のこと。売り上げのこと。最近障害のある人を雇い始めたこと。そしてこれからのこと。
「僕はね、今蜜柑やってんけど、次は檸檬やりたいと思ってんね。なるべく無農薬で。もう離島に土地買っとってね、そこで始めとるけん。それで提案なんやけど、うちで働かんかい?」
巧はハッと顔を上げた。それは巧には何か自分の人生を変えてくれる一言のような気がした。この機を逃せば、自分は施設に入れられてしまう。それに比べたら、願ってもない助け船だった。巧は悩むこともせずに、
「お願いします」
と頭を下げた。
*
四月の朝はまだ寒い。七時に起きて身支度をする。巧は檸檬農園の近くの安いアパートを借りて、そこから出勤した。農園には四十代の責任者の男性と、農業研修に来ている大学生の女の子、それと障害者の男性が働いていた。巧の叔父はたまに本島から様子を見に来て、責任者の男性に「あとは頼むよ」と笑顔で言って帰って行くのであった。檸檬の収穫は最盛期を迎えていて、責任者と女の子が収穫を頑張っている。巧はというと、障害者の男性と一緒に、果樹の周りの草取りや草刈り、あとは除草剤を撒く仕事を主にやった。草刈りは刃が回転する機械を使ったが、障害者の男性には危ないということで、巧に任せられた。巧は草刈り機なんて使ったことがなかったから、エンジンのかけ方もわからなかった。責任者の男性に教わった通りに、草刈り機の紐のようなものを引っ張ってエンジンをかけようとするのだが、かからない。見かねた女の子が「こうするんじゃ」と言って、一発でエンジンをかけて見せた。巧は十一時半まで草を刈った。腕がぱんぱんになった。障害者の男性は、ほとんど喋らなかった。ただ黙々と手で草を毟っていた。
休憩時間になって、皆でビール瓶のケースを椅子にしてお茶を飲んだ。
「本当は除草剤もなるべく使いたくないんじゃけど、この人数やからなあ。でも、香(か)月(つき)君が来てくれて助かったわい」
責任者の男性はこの島の出身だった。元々本島の農園で働いていたのだが、故郷で檸檬農園を開く話があることを聞き、ここで働き出したのだった。女の子もこの島の子で本島の大学に通っていたのだが、休学してここを手伝っている。障害者の男性は知的障害者で、あまり自分で考えたり、高度なことはできないが、単純なことなら愚直に働くことができた。
「香月さんって都会っぺって感じやね。さっぱりしとる。この辺の男と違う感じがするわ」
女の子が巧を見て笑った。
「それ俺らが汚えってことかい?」
「そやよ」
「あほう」
責任者の男性は笑った。
巧も笑って見せた。
障害者の男性は黙ってお茶を飲んでいた。
お茶が解散になり、一旦巧は昼食のためにアパートへ戻った。この離島にもコンビニがあって助かった、と巧は思った。会社員時代も巧は自炊をしたことがなかった。仕事の再開は十三時から。まだ一時間ちょっとあった。大抵皆昼寝をしていた。巧は寝られなかった。どうも人に会うと緊張してしまうのか、気分が落ち着かなかった。責任者の男性も、女の子も、障害者の男性も悪い人ではなかった。それでも巧には、三年間人と関わらなかった所為で、自分以外の誰かを警戒する癖がついていた。
巧は薬を飲もうか、と思った。実家から離れて暮らし始めて、叔父から心療内科にかかることを勧められた。
「お父ちゃんには内緒じゃけ」
そう言われて、巧も了承した。
あいにくこの島に心療内科はなかったから、本島までフェリーで向かった。心療内科は白が基調の小綺麗な感じの外観だった。あらかじめ予約をしていたから、すんなり診察をしてくれた。
「典型的な鬱病ですね。できれば仕事はお休みになって、投薬で様子を見たほうがいいと思います」
医師は都会から来た五十代の男性で、野暮ったいところがなかった。
「先生。薬は飲みたくないんです。調べたのですが、薬には副作用があるのでしょう。今せっかく実家から出て働き出したんです。これで副作用が出て寝込んでしまったら、また実家に連れ戻されてしまう。それは嫌なんです。それにここに連れて来てくれた叔父に申し訳が立たないんです」
医師は少し考えて、
「わかりました。でも寝られないのはよくないです。休息は回復の近道なので。では、睡眠導入剤だけ処方しましょう。それで様子を見てください」
医師は眠剤を出してくれた。
薬は確かによく眠れた。けれども、この短時間では効き目が長すぎる為に、昼休憩中に使うのはためらわれた。巧は部屋のなかをうろうろしながら、時間が過ぎるのを待った。
午後はまた草を刈り、除草剤を撒いた。責任者の男性に、
「選別もせんか?」
と言われて、檸檬の選別の作業に加わった。ただ黙々と傷や色や形を確かめながら箱詰めして行った。
同じことの繰り返しだった。最初こそ県外で働き出した新鮮さもあったが、仕事というのは広告代理店の時と同じで、繰り返すことだった。巧は何のために? と思った。そしてすぐ、そういう考えはよくない、と思った。巧は実家にいた時も、何度も働こうと思った。でも、そのたびに、何のために? と思うのだった。巧は自分は理由がなければ行動できない病気だと、思った。だから、何のために? とは思わないようにしていた。もしかしたら、それは広告代理店時代から、無意識的に思っていたことだったのかもしれなかった。でもやっぱり、毎日毎日草を刈り、檸檬の果実と格闘していると、何のために? が首をもたげるのである。何故巧は自分が理由を持てないかということも考えた。会社員時代、巧は上司に、何でお金を貯めるんですか? と訊いてみたことがあった。
「そりゃ老後の為だよ。年金で暮らせるかわからないし、病気になって治療費がかかるかもしれない。子どもの学費もあるし。だからお金を貯める必要があるんだよ。お前は変なことを訊く奴だな」
巧は老後とはいつだろう、と思った。もしかしたら今日病気になるかもしれないし、事故にでも遭うかもしれない。会社をクビになるかもしれない。死にたくなるかもしれない。それなら、今も老後と言えるのではないのか?
巧のような考えを持つ者は、会社にはいなかった。皆目的の為に働いていた。何か理由を持っていた。自分の為とか、家族の為とか、子どもの為とか、将来の為とか。
巧は黙々と草取りをする障害者の男性を見た。巧は知っていた。障害者の男性も疲れた時は、仮病を使ってずる休みをすることを。なら自分がずる休みをしてもいいのではないだろうか。そう思うと、もう仕事をする気力が湧かなかった。その日は何とか終業時間まで仕事をしたが、次の日はもう布団から起きられなかった。
数時間してから、巧はのそのそと布団から這い起きた。
机の上に便箋と封筒を並べた。本棚から『手紙の書き方』という本を取って、退職願の書き方の頁を開いた。巧がこの頁を開くのは初めてではなかった。三年前にも巧はこの本を参考にして退職願を書いたのだが、もうすっかり忘れていた。
でも今日の巧には、「私儀」だとか「一身上の都合」だとか「殿」だとかの漢字を読むと頭が痛くなって来て、机の上の封筒や紙は白いまま、その本と一緒に本棚に放り込んでしまった。
巧は携帯電話を取り出して、連絡先の欄から「叔父さん」を選んで電話をかけ、しばらく仕事を休みたい旨を話した。
「ええよ、ええよ。一ヶ月頑張って疲れが出て来たかもしれん。こっちのことは気にせんで、ちょっとリフレッシュして。本島の心療内科に通ってんねん? 相談してみたらどうや」
叔父さんは優しくそう言ってくれた。巧は嬉しかった。けれど、ひょっとしたら少し無理をすれば働けるのではないか、自分は怠けているだけなのではないか、と思った。
フェリーに客は数人だったが、巧は知り合いに会うかもしれない、と隅のほうの椅子に縮こまって坐っていた。本島まで三十分ほど、巧は自分はここにいないものと思った。
心療内科の診察まで時間があったから、巧は安く腹ごしらえをしようと、地元のスーパーへ入った。入るとすぐ野菜コーナーだった。巧は自然と果物を見つめた。するとあったのだ。檸檬が。巧の農園の檸檬が、スーパーに並んでいた。何故わかったかというと、生産者の名前と写真が貼ってあったから。そこには笑顔の叔父と責任者の男性、その前に女の子と障害者の男性と巧がしゃがんで写っていた。
写真を撮る時、巧は横のほうに立って見ていた。
「巧くん、そんなとこにおらんで、一緒に写真撮ろや」
叔父が巧を手招きした。
女の子が、
「はよう、はよう」
と言った。
巧は申し訳なさそうにしゃがんで写真に写った。
巧が陳列されている二個入りの檸檬を手にすると、側にいた女性の店員が話しかけて来た。
「この檸檬、めっちゃ人気なんよ。外国のは農薬とかワックスとか使ってるけど、こっちのはほとんど使ってないから」
巧は嬉しくなった。
「実はこの檸檬、僕が作ってるんです」
「ほんまに?」
「ええ、一つ買ってみます。作っててもなかなか食べる機会はないので」
巧は店員に会釈して、檸檬を買って、スーパーを出た。何だか惣菜で昼を済ますのがもったいない気持だった。
檸檬を袋から出して、そのうちの一つ手に取った。でこぼこしている。嗅いでみると、青臭くも爽やかな匂いがした。檸檬は有機栽培だから、形は不揃いだし、黒い点があったりした。尻は出臍のように出っ張っていて、頭には緑の蔕(へた)が小さな帽子のようにちょこんと乗っている。お世辞にも綺麗、とは言えなかった。けれどもその不格好さが、巧にはいっそうその檸檬を愛おしく思わせた。檸檬を頬にあててみた。冷たかった。檸檬をどけても、しばらくあてた頬の部分だけ冷たくて、巧は指で何度もそこを触った。その大きさも、大きすぎず、小さすぎず、巧の掌にちょうど収まった。歩いていると、ラジオからプロ野球のデイ・ゲームの中継が聞こえて来た。巧は檸檬をボールに見立てて、投手のように投げる真似をしてみた。自分でも何をやっているのか、と思って笑ってしまった。巧は幸せな気持だった。こんな気持になるのは久しぶりだった。それもこれも、叔父さんのおかげ、だと思った。自分が一ヶ月頑張ったおかげだとも思った。そう思うと一ヶ月頑張ったぶんの価値である、給料のことを思った。巧は今月の給料から、家賃や光熱費、医療費などを除いたらいくら残るか計算した。だいたい一万五千円だった。巧は郵便局まで歩いて行って、そこのATMから一万五千円を引き出した。巧はだんだん誰かに感謝したい気持になった。叔父さんはもちろんだけれど、この三年間、自分を家に置いてくれた両親に感謝したくなった。それに巧はこんな立派な仕事に就けていることが誇らしかった。両親も、近所に自慢できるかもしれない、と思った。巧は郵便局のなかに入って、現金書留を両親に送ることにした。下ろした一万五千円から一万円を抜いて、封筒に入れた。そして、一万円と一緒に短い手紙も入れることにした。
『父さん、母さん、お久しぶりです。手紙なんて書くのは、小学校の授業以来でしょうか。こちらは順調にやっています。叔父さんの立派な農園で働かせてもらって、感謝しかありません。今日本島のスーパーに、僕が作っている檸檬が置かれているのを見ました。店員さんに人気商品だと言われました。僕はこの仕事がとても特別な、立派なことのように思えます。まだ無理ですが、いつか箱いっぱいの檸檬をそちらに送りますね。あと、給料が思ったよりも多く出たので、少し入れておきます。何かの足しにしてください。くれぐれも貯金などしないように。また手紙出します。それでは。香月巧』
巧は受付の女性に、両親に送るんです、と笑顔で話した。
郵便局を出ると、巧の心は軽くなっていた。軽くなったと同時に、腹が減っていることに気がついた。巧の財布にはまだ五千円も残っている。巧は市役所のほうに向かって少し歩くことにした。
市役所の近くには、前から気になっていた鰻屋があった。こぢんまりとしていて、暖簾のかかる、黒を基調とした、いかにも通が通うような趣の店だった。いつもなら財布の中身を気にして、入りたくても入れなかったのだが、巧はそのような躊躇は今日はすることなく、鰻屋の軽い引き戸を開けた。
お昼時からはずれていて、あまりお客はいなかった。巧は席について、さっそくメニューを広げた。うな重の梅が二五〇〇円、竹が三〇〇〇円、松が四〇〇〇円、上が五八〇〇円、特上が六五〇〇円だった。巧は唸った。今は特上でもいい気分だが、さすがに六五〇〇円は痛い。財布にもそんなには入っていない。松だと残りが千円しか残らなくなる。まだこのあと診察代とフェリー代が必要になる。ということは、梅か竹だ。ならば今日は竹であろう。二千円もあればこのあと足りるはずだ。巧は店員を呼んで、うな重の竹を注文した。
巧はメニューをメニュー立てに戻して、おしぼりで手を拭いた。入口には鰻が入れられた水槽があって、ぽこぽこと空気を送る音がしている。こんなにも優雅な気分の食事も久しぶりだった。ここにいる数人のお客にも、何だか巧は愛着が湧いて来て、昼食に少し贅沢のできる仲間のような気がした。
しばらくして、うな重が運ばれて来た。黒い漆の重箱に、吸物と漬物がついていた。重箱の蓋を開けると、甘辛いタレの匂いと熱気が鼻腔をくすぐった。鰻が一尾、タレのかかった白飯にのっている。巧は鰻に箸を入れてみた。鰻の身はふっくらとしていて、箸で簡単に分けることができた。さっそく鰻と米をいい塩梅にして口に運ぶと、その柔らかさに驚いた。泥臭さが少しもない。だから山椒で誤魔化す必要もない。タレも鰻の味を邪魔することもなく、かといってまったく主張しないということもなかった。米は少し固めに炊かれているので、鰻の柔らかさと合っていた。巧は吸物の蓋を取った。澄まし汁であった。豆腐やわかめなどの最低限の具材で、これもうな重の邪魔をしない。すすってみると、口の甘辛いタレを洗い流してくれる繊細な味わいだった。胡瓜の漬物を頬張ると、ぽりぽりとした歯応えが心地よい。塩気もほどよく、巧はまたうな重に箸を入れた。
巧はこれこそご馳走というものだな、と思った。自然と笑顔になった。素早く全部食べてしまいそうになって、いかんいかん、と巧は思った。
「いらっしゃい」
大将の声が聞こえた。お客が入って来たのだ。それは家族連れで、父親と母親、小学校高学年くらいの男の子と低学年くらいの男の子が、サッカーのユニフォームを着ていた。兄弟だろうか。今日はサッカーの大会でもあって、その労いで父親が子どもたちをここに連れてきたのだろう、と巧は思った。父親も母親も小綺麗な格好をしていて、どこか都会的だった。
「ねえねえ、何頼んでいいの?」
小さな弟のほうが訊いた。
「どれでもいいよ」
父親は笑顔で言った。
「いくらまで?」
兄が心配そうに訊いた。
「何でもいいわよ。お父さん、二人が頑張ったから、お祝いがしたいんだって。気にしないで選びなさい」
母親が笑顔で言った。
兄弟は顔見合わせて、せえのでメニューに指を差した。
「特上!」
父親は笑い出して、
「いいよ、いいよ。遠慮なんかいらないんだ。せっかく県外まで来たんだし、いっぱい食べなさい」
「二人ともよかったわね」
「うん!」
「すみません。うな重の特上を四つ」
巧は口に持って来ていた箸を、そっと机に置いた。巧は自分が半分まで食べたものが何か考えた。うな重の竹だ。それに比べてあの家族は特上を四つも頼んだ。六五〇〇円が四つ。二万六千円だ。自分にはそんな大金は払えない。それにあの父親の、成功者のような出で立ち。綺麗な奥さんがいて、育ちの良さそうな子どもまでいる。何も勝てなかった。
家族にうな重の特上が運ばれて来た。
「わっ! お父さん、これご飯のなかにも鰻が入ってるよ!」
「そうだぞお。特上だもの」
巧は半分ほど残った、一尾だけ白飯にのった鰻を見た。鰻も米も表面が乾いてしまっている。途端に自分のうな重がつまらないものに見えた。自分はこんなものに子どもみたいに喜んでいたのか、と思った。
巧はもうそれ以上食べる気にならなかった。お勘定をして、出ようとした。
店員が、
「お口に合いませんでしたか?」
と心配そうに訊いて来た。巧は慌てて、
「いや、ちょっとお腹の調子が悪くて、また元気な時に食べに来ます」
そう引きつった笑顔をして、巧は引き戸を開けた。
巧の背中に家族の笑い声が聞こえた。
そのあとはもうわからなかった。巧は呆然としながらただ歩いた。歩いていると、白い建物が見えた。それが白々しかった。馬鹿にしているのか、と巧は思った。そしてじっと見ていると、それが心療内科であることがわかった。巧は、そうか、今日は診察日だったか、と独りごちた。
室内へ入ると、患者はあまりいなかった。坐って待った。三十分経っても、自分の名前が呼ばれなかった。巧は立ち上がった。
「あの、香月ですけれど、まだですか」
「すみません、前の患者さんが長引いているようで、もう少しお待ちいただけますか。ごめんなさいね」
巧はまた坐った。
また十分ほど待って、前の患者がようやく出て来た。年寄りの男性だった。その男性がよろよろと歩いて巧の前を通る時、男性の脚が巧のつま先にぶつかった。巧はすぐに足を引っ込めて男性を見遣ると、男性は謝りもしないで、受付の女性と楽しそうに話し始めた。
「香月さん」
医師に呼ばれて、巧は診察室へ入った。
「今日はどうされましたか」
「いえ、特に何もないです」
「よく眠れましたか?」
「まあまあです」
「便通は?」
「普通です」
「仕事は順調ですか?」
「ええ、何とか」
医師はパソコンの画面を見ている。キーボードを叩く音が部屋に響いている。
「ところで、香月さん」
「なんでしょう」
「何で檸檬を持っているんですか?」
巧はそう言われて、自分が檸檬を握っていることに気がついた。
巧は少し考えて、
「さあ、何ででしょう」
と言った。
巧は待合室に戻って、椅子に坐った。
掌の檸檬はとっくにぬるくなってしまって、もうあの瑞々しい冷たさはなかった。会計を前に財布を開けると、二千円しか残っていなかった。巧は今日自分行ったことが馬鹿らしく思えて来た。両親に書留を送ったのも、手紙を書いたのも、自分の見栄がさせたことのように思えた。立派な仕事に就いて、金が稼げる、そんな人間に自分はなれたものだと思った。でも、そんなことは一瞬の気の迷いであり、現実は家庭も持てない、底辺の労働者でしかなかった。それなのに、見栄を張って、大事な一万円を親に送り、鰻屋で食事までしてしまった。それはいったい何の所為か、と巧は考えた。
すると、巧はだんだんこの檸檬が憎たらしく思えて来た。今日自分がやったことは、全部この檸檬の所為だ、という気になって来た。自分がスーパーでこんな檸檬を見なければ、買わなければ、そもそも檸檬農園などで働かなければ、こんな惨めな思いをしなくてよかったのではないか。全部この檸檬の所為だ、と思った。こんなものこの世から消えてしまえばいい、と巧は思った。こんなものがなければ、自分は不幸になったりしなかったんだ。こんなもの、自分が消してやるんだ。
そう思うと、巧は檸檬にかぶりついた。
巧の歯が檸檬の皮に突き刺さって、なかの果肉を囓り取った。果汁が飛び散った。すぐさま巧の舌を檸檬の酸味が襲った。巧はお構いなしに、もうひと囓りした。果肉と共に種を噛み砕いた。すると強烈な苦みが巧の舌に広がった。涙が出た。巧は懸命にこの檸檬をこの世から消そうとした。泣きながら囓り続けた。巧は自分が何故泣いているのかわからなかった。誰かに教えてもらいたかった。巧は診察室の扉が目に入り、そこに駆け込んだ。
「先生!」
書類を書いていた医師は驚いた顔をした。
「口がすごく酸っぱいんです。すごく苦いんです。教えてください。私は泣いていますか? でもね先生、これはね、悲しくて泣いてるんじゃないんです。悔しくて泣いてるんじゃないんです。檸檬の所為なんです。檸檬が酸っぱいから、涙が出るんです。檸檬が苦いから、涙が出るんです。私が見栄を張ったのも、他人を羨んだのも、全部檸檬の所為なんです。檸檬が酸っぱいから、檸檬が苦いから、だから先生……」
巧はその場にへたり込んだ。巧はぐちゃぐちゃになった檸檬の手で両目をこすったから、それが目にしみて余計に涙が止まらなかった。嗚咽が漏れた。鼻をすすったから、檸檬の果汁が鼻から入って、鋭く痛んだ。口からは酸っぱさと苦さの所為で、涎が溢れた。巧の顔は檸檬と涙と鼻水と涎にまみれた。
医師はゆっくりと巧の横にしゃがんで、頷きながら巧の肩に手を乗せた。
「そうだ。檸檬が悪いんだ。君が悪いんじゃない。安心しなさい」
医師は微笑んだ。
巧は涙を流しながら何度も頷いた。
診察室と待合室には、しばらく巧の泣き声だけが響いた。
帰りのフェリーに乗った巧の心は空っぽだった。というもの悪い感覚ではなかった。ずっと背負っていた荷物が、やっと脱げたような、清々しい気持だった。空は青かった。海も青かった。あとは雲と波の白さと、島々の緑が巧の両目を満たした。
椅子に坐っていた巧は、前面の展望が見えるところに立った。フェリーは白い波をくの字に蹴立てて進んでいる。それは隊列を組む雁(かり)を思わせた。今の自分は白い雁だ、と巧は思った。フェリーは島々の間を縫うように進んで行く。巧は側面の展望台に出た。潮風が巧の何もかもを吹き飛ばすように吹いた。フェリーが三十分ほど進むと、離島が見えて来た。ずんぐりとした白い灯台が見える。さらに近づくと、島の人たちが使う醤油屋の蔵が見えた。巧が働く檸檬農園も見える。今も、責任者の男性や、女の子が、檸檬を収穫しているだろうか。障害者の男性は相変わらず黙々と草を毟っているのだろうか。
巧は携帯電話は取り出して、叔父に電話をかけた。そして明日からまた働かせてほしい、と頼んだ。
「そうか、そうか。皆心配しとったよ。巧くんは真面目に働くけえ、皆巧くんに期待してるけ。よかた、よかた。すぐ連絡しとくけえ」
叔父が嬉しそうだったことが、巧は嬉しかった。
責任者の男性――清さんに草刈り以外もさせてほしい、と頼もう。大学生の女の子――桃子ちゃんに草刈り機のエンジンをかけられるようになってびっくりさせよう。障害者の男性――正悟さんに今度話しかけてみよう、と巧は思った。
もうフェリーは五分もかからず接岸する。
巧は鞄から檸檬を取り出した。スーパーで買った片割れである。
それを太陽にかざしてみた。巧は指先で色々な角度に回して、光沢を放っている檸檬を眺めた。その先にまた明日から働く農園があるのだった。
フェリーが島に接岸した。
数人の客が荷物を持って立ち上がった。
巧も鞄を持ち上げた。そして檸檬を一口囓ってから、島に向かって歩き出した。
執筆の狙い
わかりやすい話を意識して書きました。その成果か普段小説など読まない人でも読めるものができたかと思いますが、読める人からすると物足りないものになってしまったかもしれません。