半島にも匹敵すべき巨大な怪物
三人。三人いれば無事ではなくなる心理交錯の流れがある。それが何故か無事にいっているというのは、どこか三人の中で一人が素晴らしく賢い若しくは素晴らしく馬鹿かのどちらかであると私は考える。
となると、三人の中で私が一番図抜けて馬鹿なのは確かなのだ。Macと私とにいたってはことごとに私の方が馬鹿な成績を上げているのだ。もとを洗えば私達二人、同じアパートの上下に住むMacと私とは、同年で同級で専攻科目さえ同じだった。そこへ後にやって来た妻を、やがて我々は家の上と下とで彼女を迷わせることにかけて注意を払うことになる。
結晶学の実習でダイヤモンドの標本を学校から持って帰り、初めて妻に見せたのが思えば彼女が我々二人に対して迷い出したキッカケだった。つまり、妻の人生はダイヤモンドから始まったのだ。そのとき私達はMacの部屋で今私が下でして来たダイヤモンドの結晶面の測定について話していた。すると、妻は丁度お茶を持って這入って来ていつものように話し出し、そのダイヤモンドはどこの産かと質問した。ところが、私にはそのダイヤモンドの母岩との関係とか産出状態とか自然性の結晶面とかは分っていても、その少女の最も知りたい平凡なことだけは分らなかった。すると、Macは実に私も驚歎したのであるが、直ちにそれはミナスゲラスだといい切った。私にはミナスゲラスはどこの国にあるのかさえも分らないのに、妻――ようやく短大を出かかった彼女に、分かるはずもないことをいうMacの心理に、初めは私とて驚かざるを得ないのだが、しかし、私の驚きはすなわち彼への尊敬の念へ変り出して再び全く別の驚きに変り出したというのは他でもない。
Macは怪しい顔をしている私の表情に向って投げつけるように、そのダイヤモンドの母岩が礫岩であり削剥堆積の噴出状態の痕跡を表している所を見せると、オルドウィス紀の噴出にちがいなく、母岩が礫岩でオルドウィス紀の噴出なら、ミナスゲラス以外にはないではないかといい出した。私にはミナスゲラスさえ知らないのにどうしてMacがそのミナスゲラスとダイヤモンドとの関係を知っているのだろうか、これは全く驚く以外にはなくなって、ふと私は妻が傍にいることさえ忘れてしまい、君のいうミナスゲラスとはいったいどこだいと訊いてみた。すると、Macはこれ以上妻のいる前で私に辱い思いをさせるのを慎むかのように黙りながら、Minas Geraesと鉛筆で書いてコーヒーだといった。ははあブラジルかと私はいったがもうそのときには遅かった。
いつも二人の知識を比べたがる年齢の妻の前でのこの最初の敗北は、人生の半ばを敗北し続けたのと同じことだ。私はそれからはこの最初の敗北を取り返そうとして彼の下で一層激しく勉強をし始めたのだが、私がすればするほどMacも3階でそれだけ勉強をしているのだ。同じ量の勉強を二人がしているとするといつも私の方がはるかに彼より勉強しないといけないことになっていく。
しかし、それがあまりにかけ離れるともう私はただ彼を尊敬することだけが専門になり始めた。彼にとっては初めから私などは敵ではないのだ。それを愚かしくもこちらが敵だと思ってひとりくよくよしていた自分の格好を考えると、私は私自身が気の毒でならなくなった。殊にMacには彼を絶えず凌駕していた敵手のiOSがあったのだ。iOSとMacとは、Macと私との場合におけるがように何かにつけてiOSの方が上になった。ある日の研究報告会でMacがiOSに打ち負かされたときなどには私は私がMacであるかのように萎れてしまった。それは丁度私がMacからミナスゲラスで刺されたときのように。
私はMacよりはるかに劣っている自分を考え、そのMacよりもはるかに優れたiOSを考え、そのiOSと自分との比較すべくもなき素質の距離を考えると、もう自分の運命さえ判然となって眼の前に現れ出したのだ。私の頭はそれからいよいよ謙遜になる一方であった。Macに対しては勿論のこと、他の友人や隣人、長上や年少の者に対してさえも私は頭を上げることが出来なくなった。私が神のことを考え出したのもつまりはそのときからである。人の肉体が皆それぞれ尽く同数の筋肉と骨格とを持っているにも拘らず、この素質の不均衡は何事であろうか、と考えたのが神への一歩の私の近づきであった。今思えば私がこの探索の方向をもったということが、私達友人の中での特長ある素質であったことに気がつくのだが、そのときはそれが私の友人達からの敗北の結果だとばかりより思えなかった。それ以後の私の謙譲さは私とMacとの間を一層親しく接近せしめるばかりであった。Macは私にはことごとに助力を与え、私の性格を友人中並ぶものもなく高いといい、私の頭脳の速度の遅い原因を過度の頭の良さが常に逆に働くがためだと賞め、発見力や発明力はMacやiOSの頭の働きにはなく常に私の頭の逆廻転力にあるという。それのみならず彼は私と妻を近づけることに喜びを感じるかのように彼女と私とを労わるのだ。私はMacがそのようにも変り始めたことについては、それが彼の美徳の当然の現れだと思う以外には感じることが出来なかった。そうして、私と妻とはいつの間にかMacの寛大さに甘えて結婚する破目になった。それは私が彼女を最初に誘惑したのか彼女に私が誘惑されたのか分らぬのだが、その時家中に誰も人がいなかったということが二人の不幸の原因を造ったのだ。
ただ私はそのときいつものように噴火口から拾って来た粗面岩の吹管分析にかかっていると、突然妻が私の部屋に這入って来てデアザルバが壊れたようだから見て貰いたいという。私は彼女に何事かいわれると不思議に自分の勉強を投げ出す習慣がついていて、投げ出した瞬間これは失敗ったといつも思うのだ。そこへいくとMacは勉強の時となると誰が何をいっても横を向くことさえ稀である。私は私の勉強を投げ出して妻の後から従いていきながらもMacの豪さを考えさせられてひとり腹立たしささえ感じていた。それで私は他人の勉強をしているとき教養ある女性ともあろうものが何ぜ邪魔をするのだと怒りながら妻の部屋へ這入っていくと、あなただからこそいつでも何んでも頼めるのだ、デアザルバのように直接自分の皮膚へあてがう機械の狂ったのを直して貰うのもあなただからこそではないかという。しかし、私は私で自分の頭がだんだん悪くなるのも君が私の頭を使うからだ。同じ使うなら私の頭を引き摺り上げるように使ってくれ、そうでなくとも私の頭は君の方へ向き過ぎて困るのだというと、妻は急に黙ってしまって私の膝へ頭をつけたまま動かない。私は動かない妻を上から見ていると、私が妻にそういうことをいう資格もないにも拘らずいい出したので妻は困って泣いているのだと思い込んだ。それで私は直ぐ何かいい訳をしようと思い、あわてて彼女を起そうとすると、妻は妻で私が彼女をいよいよ事実的に愛し出したのだと思い込んだと見えて、ますますぴったり身体をひっつけて来て放れない。すると、私の頭は一層混乱を始めるばかりで何が何んだか分らなくなり、時間も場所も私達二人からだんだんと退いてしまったのだ。この過失をこれだけだとすると別にこの場の二人の行為は過失ではないのだが、この事件の最も最初に、二人の意志とは全く関係のないデアザルバの振動が妻の身体を振動させていたということが、二人の運命をひき裂く原因となって黙々と横たわっていたのである。後で気づいたのだがこの機械は私が妻の部屋へいく前から、妻は最早いくらかの腹痛を自分で癒すためにかけていたのだ。だから彼女がその途中で機械の狂いを直そうとして私を呼びに来た時には、もう彼女の身体は十分刺激を受けて既に過失に侵されていたのである。しかし、私は彼女のその時の興奮がただ私の為ばかりだと長い間思っていて、彼女がその時そのようにも私を愛した態度の中には、機械が恐らくその大半をこっそり占めていようなどとは思っていなかった。私はそれからというもの夜盗のように家人の隙を狙うと同時に妻と結婚する準備ばかりに急ぎ出した。
私はそのことをMacに話して良いものかどうかと初めしばらくの間は迷っていたのだが、とうとうそれを切り出した。すると、Macは暫く黙っていてから私の顔を見て、大丈夫かと一言いった。私はMacが黙っているのはMacが妻を愛していたからに違いないと思ってひやりとしていたところなので、Macがそういうと初めてMacは私の生活を心配していてくれたが故に黙っていたのだと気がついた。私はMacに感謝をし、Macにもいわず妻とそういう状態になったのも実は君があまり私を看視していてくれなかったからだというと、それなら看視をしなくて良かったといってMacは笑いながら、もしこれから二人の生活が困れば遠慮をせずにいうようとまで励ましてくれた。
私達は結婚すると同時に私は地質学協会に勤めMacは大学院に残るようになった。そうして私達はその後三年の間幸福であった。Macとの穏やかな交流も続けられた。私は第三紀層の調査にかかるとMacはますます深く層位学の方へ這入っていった。しかし、このわれわれの交友期間の静けさは河水を挟んで屹立している岩石のようなものであった。水は絶えず流れていたのだ。私をも感動せしめるMacの美徳と才能とは二人の間を昔から流れていた妻にだけ映らないはずはないのである。間もなく妻の心はMacの幻想の為に日々私を忘れ出した。これをいい換えると、その最初に私に身を与えた妻の中からデアザルバの効力がだんだん影を潜めて来始めたのだ。機械と一緒になって彼女を征服していた私が機械から去られると、それに代るべき何ものかを彼女に与えなければならなくなったのだ。しかし、私にはそれが何であるか分らなかった。初めの間は私は妻のそれが頭脳の成長だと思って忍んでいた。しかし彼女はだんだん私を突き除けるばかりではない。一言の争いにも彼女はしまいにMacの名を出し、独りいる時は絶えず紙の上へMacの名を書き、睡眠の時もMacの名を呼び始めた。私は彼女のそうすることには嫉妬を感じないばかりか良人の友人を愛することは最も良人を愛する証拠であり最も気品のある礼譲だとさえ思っていた。すると妻は私のこの快活な礼節に対して一層彼女のその礼節を適用させ、終いにはMacが自分を私が彼女を愛していたよりも愛していたといい始めた。そういわれると私は何もいうことが出来なくなり、妻から考えれば考えようによってはそれに違いないと思い出し、それがしばしば続けられるとあるいはそれはそうであったのかもしれないと思い、なお彼女にいわれるとそれほど彼女のいうところを見てもこれは必ずMacの方が私よりも愛していたのだと思うようにまで進んで来た。すると私は結婚する前Macに打ちあけた際のMacのしばらくの沈黙を思い出した。そのとき私はそれはMacが私のことを心配していたからだと喜んだことが実は反対で、Macは悲しみのあまり黙ってしまい、私に気づかれたと思うやいなや急に私への心配さを表したのではないかと思うようになった。そう思うともう私はにわかに妻がそのときから自分の妻だという気がしなくなった。私の生活は根柢から逆さまになり始めた。今まで私は妻が私を愛していたから結婚したのだと思っていたのもそれも私だけの考えで、実は妻もMacを愛しており、Macも妻を愛していたのだと分ってみると、私の狼狽の仕方はもう穴ばかり捜して隠れることよりなくなり出した。かつてのMacの美徳のためになされた私達の結婚が、これほども私に不幸を与えたことを私は嘆き続けた。結婚とは負けたことだと思いだしたのもそのときからだ。しかし、私はMacがひそかに愛していた妻をMacから最初に奪ったのだと思うと、私よりも日々嘆き続けていたにちがいないMacの忍耐に対して、再び私は今の私の小さい忍耐をもって対立させねばならなかった。この奇怪な忍悔の競争の中で、妻はますます私と結婚したことの後悔の重さのために縮んで来た。私は彼女との日々をもう見るに忍びなかったし、私自身ももうそれ以上このままの生活には耐えることが出来なくなった。ある日私は思いきって妻にMacの所へ行くようにとすすめてみた。一度人の妻になった身だとはいえ、人の妻などにさせたのはMacではないか、しかもおのれの負うべき石を私に負わしたのだ。私がその石を再びMacに返したとて彼が私に怒ることは出来ないであろうと私がいうと、妻は顔を赤らめながら「行く」といった。そこで私は妻をMacの家の門まで送ってゆきながら、途々、また私はMacとの「忍耐」の競争においても彼から敗かされたことに気がついた。
しかし、それからの私ひとりの生活の寂しさは彼女を負っていた日の「忍耐」とは比べものにならなかった。殊にときどき妻はひとり私の所へ遊びに来るのだ。私は妻に来るなといっても是非Macが私の所へゆけといってきかないという。それならなお来てはいけないではないかというと、でも私も来てみたいのだと彼女はいう。私が来るなといいMacが行けというこの慎ましやかな美徳の点においてさえも、行けとすすめるMacの方が私よりも優れているのだ。美徳の悪徳、私は妻の顔を見せられる度に、私とMacとの美徳を押し合う悪徳について考えずにはいられなかった。しかも妻は私を愛していないにも拘らず、私を憐れむ姿に愛情の大きさをさえ含めなければならぬのだ。私は私でMacと妻とから受けた過去の過度の恩愛に対しても彼女のしたいままなる行状を赦していなければならない。私は彼等二人のいかなる点に怒る必要があるのだろう。ただ私にとって惨酷なのはMacと妻との私を憐む愛情だけだ。それも彼等にとっては私を憐れまないより憐れむ方が私を尊重することになっているのは分っている。しかも、彼等にとって私を憐れみ続けることはなお一層の苦痛を続けていることになっているのだ。ここに不用なものが一つある。――私はある日それを妻に説明してMacにいうように彼女にいった。すると彼女のいうにはそんな取越苦労はあなたたちのすることではなくって、私ひとりでしていれば良いのだという。それならもう来て貰わない方が結構だというと、私はあなたがやはり好きなんだから仕方がない。もうしばらくすっかり嫌いになるまで逢っていてくれと頼むのだ。あまりに虫が良く、あまりにそれは勝手すぎるではないかと私がいっても、こんなにしたのはそれなら二人の中の誰だという。そういわれればそれはやはり私にちがいないのだし、私としても彼女に逢わない日が続くと、その間はほとんど妻の幻想ばかりで埋まってしまうのだ。これでは困る、どうかしようと思ってもそのうちにわれながら浅ましくなるほど元気がすっかりなくなってぼんやりする。私は妻に私の寂しさを告げることが出来ないばかりではない。彼女に逢うとただ一途に彼女に逢いたくないことばかりをいわねばならぬのだ。彼女もそれを知っていて、私に逢いに来ると逢いたくなったとはいわずにMacの美点ばかりをいうのである。私は彼女からMacの悪口を聞くよりも二人で認めた美点をなお持続させて喜ぶ方が良いのだが、しかしだんだんMacを賞めている妻の言葉が私に喜びを与えるためだけだと感じ出した。何か彼女のうちには私の思っていること以外の新しい変化が起っているのではないか。
そう私が思ってからしばらくしてからであった。地質学者の雑誌の上で続けていたMacとiOSとの介殻類の化石に関する論争が激しくなった。それは私のMacを怨む心が手伝わなくとも、差し詰めMacの敗北には同情せざるを得なかった。定めしMacは日々不快な日を続けていることであろうと思うとその傍にいる妻の顔色が眼に見えるのだ。彼女の様子はMacの日々の不快な心の波を伝えて私へ向って打ち寄せて来ているのだ。私は妻を見ているとMacの敗北した打撃の度合までも感じることが出来始めた。しかも妻はMacがiOSよりはるかに劣った人物だと知り出した動揺さえ私は彼女がMacを賞める言葉の裏から嗅ぎつけた。私は彼女の一番嫌いな所はそこだ。自分の良人の敗北に対して動揺する彼女の新しい醜悪さ、この醜悪さは女の最も野蛮な兇悪さにすぎない。しかし、あくまで妻のこの兇悪さと闘いながら、なお日々不断に逞しいiOSに打ち負かされ続けていかねばならぬであろうMacの生涯を考えると、私はMacが一番誰よりも悲惨な男に思われて来た。もう妻とMacの間には恐らく陽の目のさすことはないであろう。もしMacが妻をiOSに渡さぬ限り。
しかし、Macはそこが私と違っていた。彼は自身より弱者に対してはいくらでも自身を犠牲にすることの出来る善徳を持つ代りに、自身よりも強者に対しては死ぬまで身を引くことの出来ない男である。しかもiOSとMacとは、この二人の闘いならどこまでいってもiOSが勝ち続けるに定っているのだ。その度に妻がMacを軽蔑するなら、――私は妻をMacに返したことは彼と彼女とのためには最大の悪徳でさえあったことに気がついた。私は私の善行だと思ってしたことが悪行に変ったとて恐縮することではないと分っていても、それにしても妻が急にこの時から嫌いになったと同時に、私にはますますMacが親しく感じるようになって来たことも事実である。ある日私は妻にそれとなく地質学界の過去の大天才が次ぎ次ぎに現われる新しい天才に負かされていった歴史を話してやった。まことに過去一世紀の間に現われた新学説の興亡を私が思い出しても、個人の力の限界の小ささを感ぜざるを得ないのだ。一世を風靡した凡水論の主唱者エルナーを顛覆させた凡火論、その凡火論の主唱者ハットンを顛覆させた災異説、その災異説の主唱者セヂウィックを破った斉一説のライエルと、そうしてそれらの総てを綜合した進化説のダーウィンを思えば、私は一個人が他個に敗北することはそれは敗北することではなくして神への奉仕に思えてならないのだ。もしそれが敗北なら、勝ったものは必ず誰かに負けねばならぬ。iOSとMacとの闘いもそれは闘いではなくして次に現われる天才への贈物を製造しているにすぎないと私がいえば、今まで黙って私の饒舌を聞いていた妻は急に私の胸の上へ倒れて来た。
彼女のこの感情の転向がもしMacと彼女の上に、再び幸福をもたらすなら――と私が思っていると、それは意外にも妻が私へ転向して来たことを示していたのだ。なるほど個人の負けることが負けることでないなら、MacがiOSに負けたのではないがごとく私もまたMacに負けたことにはならぬのだ。私の今まで話していたことは誰のためでもない私のためだったのだ。妻が私の胸の上へ倒れたのも多分私が私のためにいったのだと思ったからでもあったろうが、それにしても彼女のその行為は、私が話している間、彼女がMacのことを考えずに私のことを考えていてくれた証拠にだけは十分になっているのだ。復活した愛――しかし、それは所詮私が捻向けたものではないか。私は私としてもう一度彼女をMacへ捻戻さねばならぬ。そう思った私は早速妻にお前はわれわれ二人で製作したMacの美徳の使用法を間違っているのだから、今日から心を入れ変えてMacに慰安を与えるよう、それでない限りお前には永久に幸福はもうないのだ、幸福というものは知識の上には絶対にあったためしがなく、ただ自身の頭を下げて同化することにあるばかりだというと、いった瞬間また私はこれもますます私自身のためのみにいっているにすぎないことだと気がついた。それで私は結局私の注告する言葉は私の心の中から出ていくにちがいないのだから、私が私のためにいっていると思わないで聞いてくれ、私のいうのは皆お前のためにいっているので、私のためだと思えば私は死んでもいわぬであろうくらいのことは長い二人の生活に対して敬意を表する意味でも思ってくれ、そうでない限り何のための二人の生活だったのか分らぬではないかというと、妻は、それはあなたが近頃の私について考え違いばかりをしているからだという。どういう考え違いかと聞くと、あなたは私の行いを私の醜い部分からばかりで見たがり、そのため折角の良い部分もあなたの私を愛して下さる心のために払い落してしまっている。だからもっと私から前のように良い所を探してくれ、そうでない限り自分にはもう幸福がないとまでいう。私は急に妻にそんなことをいわしたのはMacのどこがいわしめたのかともう一度考えたが、私の考えた以上にはもう考えることが出来なかった。それで私はお前はそれでMacを愛しているのかと訊くと、愛してはいるが前のようではない、私はやはりあなたの方を愛しているのだという、嘘にしてもそれは私には喜ばしいのだが、どうしてこういうことが喜ばしいのかもう私は自分が分らなくなって来た。いやそれよりあれほどもMacを慕いながら出ていった妻が、まだ一年ともたたない今頃どうしてこれほども変って来たのであろう。それは丁度私の家にいたときの彼女がデアザルバの醒めるに従って逃げ出たように、Macから逃げ出して来始めたのも、Macの中に潜んでいた新しいデアザルバの私が効力を失い出して来たからではなかろうか。私が妻と最初に結婚する破目になったのも、彼女の身体にデアザルバが火を点けたからにちがいないのだ。彼女がMacへ逃げ出したのも、私がデアザルバのように彼女に火を点けていたからにちがいないのだ。そうしていままた彼女が私へ舞い戻って来始めたのは、Macのデアザルバが彼女に火を点け返して来たのであろう。私はこの女がもう嫌いだ。出ていけ、畜生、そう私が黙って腹の中で叫んでいると、妻は私に考えを与えないかのように、急に今まで慎んで来たMacの悪口を切って落したようにいい始めた。彼女のいうにはあなたの悪口をいう、あなたがあれほどもMacをひそかに賞めているにも拘らずMacはそれが反対だ。Macのどこが豪いのかこの頃どこからも感じることが出来ない。あれは贋物で嘘つきで負けず嫌いでその癖威張ることだけが何より好きで、知っているのは女のことと人を軽蔑することだけだという。私は唖然として彼女の顔を見ていると妻は笑いながらもその笑う度にだんだん蒼ざめていきつつ涙を流していい出すのだ。私は擦りあったガラスの奥でまた別のガラスが擦り合っているのを見ているようで、どこからどこまでが私の喜ぶべき領分かどこでMacが蹴りつけられているのか朦朧とし始めた。すると妻は私に食いつくように、あなたは馬鹿でお人好しのように見える癖に猾くて隅に置けなくて、くよくよしている坊主みたいにめそめそしていてそれに説教ばかりしたがってとやっつけ出した。この妻の暴風のような暴れ出し方が今までMacの悪口を聞いて不快になっていた私の心を吹き払った。そればかりではない、私には妻のいっていることがいちいち胸に応えて来て、そうだ、そうだと首まで調子を合せて頷くのだ。全く私は今までMacと妻とから賞められすぎて来たのである。私は賞められれば賞められるままの姿に堅められ、ますます不幸な方向へばかり入り込んで来ていたのだ。その癖心は絶えず反対の幸福を望み、人に勝つことを心がけ、負けると人の急所を眺めて心を沈め、あらゆる凡人の長所を持ち、心静かに悟得し澄ましたような顔をし続けてひそかに歎き、闘いを好まず気品を貴んで下劣になり、――私は私自身でまだかまだかと私をやっつけ出すと、面前の妻と一緒に兇暴に笑い出した。Macが陰でひそかに私の悪口をいったことが、今は私に彼への尊敬の念を増さしめるだけとなった。しかし、それにしても私のこの心の動きは本当であろうか。私の物の見方は間違いであるとしても、おのれの痛さを痛さと感じて喜ぶ人間は私だけではないであろう。私の豪さ、もしそれがあるなら、私は私の弱さを強さと感じないことだけだ。私は妻にいった。お前はいつの間にやら私のびっくりするような女の知識を探して来たが、それはお前がお前とMacとを滅ぼしていく知識であるだけで、結果は私を一層救い上げていくにすぎないのだ。私はお前の落していくものをいつも拾ってばかりいるのを知らないのか。お前はお前の落しているものが何んであるのか知らないのか。しかし、いくらいっても妻はただ自身の投げた言葉のために蒼ざめているだけで、終いには私の膝の上で泣きながらもう再びMacの所へは戻らないといい出した。私はもう一度彼女をMacの所へ帰すために、また偽りを並べて苦心しなければならなかった。彼女は私を嘘つきといい、弱虫といい、それからなお私の悪口を探すために言葉が詰まると、私の手首に噛みついた。私は彼女を突き飛ばして、お前なんかを愛することは忘れているのだ。穢らわしい、帰れ、といっても妻は再び私の身体に飛びかかり、あなたは私を愛している。いくら嘘をいったって駄目だといって私から放れない。私は――私はそこで今まで惨憺たる姿をしてようやく崖の上まで這い上った私を、再び泥の中へ突き落してしまったのだ。妻は私の惨落した姿を見ると急に生き生きと子供のようになり始めた。それは喜ぶときの彼女の癖だ、しかし、それより彼女にひとり置かれたMacはこれからどうするだろう。彼女とまた一つの生活を続けていかねばならぬ私こそどうすれば良いのであろう。
妻へお前がMacから去った後のMacの寂しさが自分には一番胸に応えて分るからだというと、それではMacに今夜帰って謝罪ると彼女はいう。よしそれならと私はいったが彼女をMacの家の門前まで送っていって帰って来ると、また一層私は妻の処置に迷い出した。事実私はMacから妻を最初に奪るときも黙って奪り、返すときも黙って返し、そうして再び彼女を奪った今日もまた黙って奪り、いったい私のどこにそれだけの特権があるのだろう。いかに妻が私の妻だとはいえ今は他人ではないか、しかしそう考えた後から、不意に冷水を浴びたように負けたものはMacではないこの俺だと気がついた。彼女を奪ったものこそ負かされたのだ。何を好んで自分の敗北に罪の深さまですりつけて苦しむ奴があるだろう。するとそのときから私の心は掌を返すがように明るくなった。
私は先ず何より一切の過去の記憶から絶縁しなければならぬ。過去の生活を振り捨てねばならぬ。敗けたら敗けたでそれでも良い。先ず何よりも雲を突き抜けたような明るさだ。そう思った私は早速私と妻とのとりかかるべき最も新しい生活の手初めとして、地を蹴って疾走する飛行機に乗って旅行に出ようと決心した。翌朝妻が私の所へやって来ると、私はひと眼で彼女の喜びを見抜くことが出来た。私はもうMacがどんなことをいったかどうかは一切訊かぬことにして直ぐ私の計画を話し出した。私はいった。お前と私との関係は長い間もつれていたが私と一緒に今日という今日過去の総ての記憶や生活を振り落して貰いたい。二人は生れ変るのだ。もしそれがお前にとっても慶びなら私と一緒に今日これから飛行機で旅行に立ってもらいたい。しかしもし落ちて死んだらと彼女はいった。落ちて死んだら生活の始まりで終りなだけだ、それほど結構なことはないではないか。われわれの関係は他人とは違う。一度地上から足を洗わなければ古い生活の匂いはどこまでだってくっついてくるにちがいないのだ。もしこの上絶えずわれわれが古い生活に追われるようなら、そのときを限りとしてわれわれの生活を私から打ち切るだろう! そう私がいい切ると妻も初めて頷いた。頷くと私より彼女の方が乗り気になり出し、直ぐそれから航空会社へ電話をかけて二席を買った。間もなく二人は鳥になるのだ。鳥に。この喜びは地質学者の私にとってもこの上もなく大きいのだ。山と川と海と平野の上を飛び越える肉体、地を蹴る刹那、雲の上の感覚、私はもう今まさに飛ぼうとしている鷲のように空を見上げながら飛行場へ自動車を駈けさせた。――さてそのときになっていよいよ野の中で廻っているプロペラの音を聞き出すと、私は妻に耳へ綿を込ませ、良いかと訊いた。良いと答える。二人は機体の中の傾いた席に並んで腰を降ろした。飛行場の黒い人々は私達二人の最後の姿を見るかのように、まだ開いているドアの口から中を覗き込んだ。私は一刻も早くこの地を離れたくてならない。過去へ向って手袋を投げつけたい。長い間の萎びた過去に。すると、いきなりドアが閉まった。もう良い、さらばだ。機体が滑走を始め出した。私は足のような車輪の円弧が地を蹴る刹那を今か今かと待ち構えた。と私の身体に、羽根が生えた。車輪が空間で廻い停った。見る間に森が縮み出した。家が落ち込んだ。畑が波のように足の裏で浮き始めた。私は鳥になったのだ。鳥に。私の羽根は山を叩く。羽根の下から潰れた半島が現われる。乾いた街が皮膚病のように竦み出す。私は過去をどこへ落して来たのであろう。雲と雲との中で扇のように廻っている光りばかりを追っ駈けながら、私は浮き続けているのである。今や私には生活はどこにもない。心は光線のように地上を蹂躙しているだけだ。直っ二ツに割れていく時間の底から見えるのは、墓場ばかりだ。太古が私の周囲を取り包んで眠り出した。夢と夢とが大海のように拡がってはまた拡がる。私はその行衛を見守りながらいつの間にか砕けてしまう。ふと私は横にいる妻を見、自分の位置を取り戻した。しかし妻は――この半島とも匹敵すべき巨大な怪物は何物であろう。――私は彼女の身体に触ってみた。すると、私の指先は地上からつながっているただ一本の線のように長い間全く忘れていた地上の習慣や匂いや温度を私の体内へ送って来た。だが、それは隙間から吹き込む鋭い風のように、今はただ私の胸を新鮮にするだけだった。二人は新しい夫婦の生活の第一歩を雲の真中に置いた。微細な水粒が翼の裏へ溜ってはぶるぶる慄えながら腋の下へ流れていった。翼を支えた針金の結び目が虹の中で蝶々のように舞い続けた。私達は一つの虹を突き抜けるとまた新しい虹に襲われた。それは一つの連った虹であろうか、群生した虹であろうか、合戦するかのように煌めく虹の足もとにひれ伏した。
執筆の狙い
純文学神視点一万字縛り失敗動物メイン失敗