旧妻
「離別」
その言葉が夫の口から出た時、私は私の耳が信じられなかった。その後も何が言葉を続けていた様だが、何も入ってこなかった。言葉どころか、全ての音が消えたかのようだった。
「失礼しまする。蔵人弁殿はお前になられますか!」
そんな私に音が戻ってきたのは、夫の客人が尋ねてきたからだった。その時には既に屋敷のどこにも夫は居なかった。
それから暫く私は、何にも取り組む気力がなくなっていた。私の何がいけなかったのか。そんな事ばかり考えていた。私の身分が低いからだろうか。夫の現在の妻は、源満仲の娘だと言う。私が夫を失った時は、御上が即位されてそれ程経っていない時であった。夫は今、御上の乳兄弟と言う事が幸してか、五位蔵人として御上を側近く支えている。本来なら私が、この私が、夫の側でそれを見ていたかった。そうできるものだと、思っていた。だが、今夫の側に居るのは別の女である。
「どうして……どうして、貴方は」
溢れた言葉は虚しく響く。その言葉に応えるものは誰もいない。
私は屋敷への帰路にあった。貴船の社を詣でた帰りであった。詣でた理由は、当然だが祈ることだ。では、何を祈ったのか。それは我が夫の不幸であった。とは言え、死んで欲しいわけではない。昔に戻したいのだ。その昔、私たち夫婦は貧しかった。だが、清貧であった。2人ともお互いを愛し合い、間違った行いなどしなかった。私は夫に恥をかくことがないように努めて来た。それだと言うのに、離別。突然である。突然私は、捨てられたのだ。最初は哀しみが私を支配していた。その哀しみは、いつまで経っても消えなかった。そして、その哀しみが私を毎日、貴船の社に行かせるのであった。そして、祈るのだ。
「我が夫の藤原惟成を、乞食に堕としてくだされ」
と。そうすれば夫が、全てが元に戻ると信じて。
ジリジリと暑い夜であった。私はふと目が覚めた。別に寝苦しさを感じたわけではない。いや、寝苦しいことは寝苦しい。が、態々起きる程でもない。ただ、目が覚めた。なら、また眠れば良い。だが、眠る気にもなれなかった。私は縁に出ると、空を見上げた。空には綺麗な満月が浮かんでいた。この月を夫も見たのだろうか。ふと、そんな事を思った。夫の事がとても気になった。今日は何を食べただろう。昨日は何をしていただろう。一昨日は、一昨昨日は、私が百ヶ日参詣をしていた時は。
「はぁ……」
思いがそこに至って、私は一つ息を吐いた。私は夫を呪う為に、貴船の社に百ヶ日参詣をした。理由は、夫に戻って来て欲しいから。私は戻って来ると信じて、祈り続けた。しかし、本当に戻って来る保証は何もない。私が勝手にそう思って、そう思う事で何んとか哀しみを振り払おうとしただけである。そもそも神は、私のこんな願いを叶えはしないのではないか。だとすれば、ただの徒労だ。私はもう一度月を見た。一片の曇りもない丸い月であった。
(私は何をしていたのだろう。夫が私を捨てて、新しい暮らしをしているのに如何して私は……)そろそろ、前を向かねばならないかも知れない。いや、前を向こう。私は満月を見て、そう決めた。
私は今、長楽寺へ行く道の途中で、座り込んでいる一人の僧を遠目に見ていた。その僧の衣服は土埃に汚れ、痩けている様に見えた。僧の前には、土器が一つ置かれている。どうやら、物乞いをしている様だ。
(話に聞いた通り……)
思わず手に力が入った。私は生唾を飲むと、一歩踏み出した。僧に一歩一歩近づいて行く。近づくにつれて、僧が目を瞑っている事が分かった。胸が大きく鳴っている。手に汗が溜まる。私が目の前に来ても、僧は顔を上げるどころか目すら開けなかった。身体中に鼓の様な音が響く。手に握りしめていた米の入った袋を、土器に置いた。そして、僧の名を読んだ。
「寂空殿……」
寂空はそこで漸く、目を開けた。そしてすこし視線を上げると、土器を見た。
「これは忝い……」
そう言って顔を上げた寂空は、動き止めた。私は寂空の顔を見て、何んとも言えない気持ちになった。色々な感情が、絡み合っている。
「お主……」
その口から出た言葉には、困惑の色が見えた。
「お久しゅうございます。この様なところに居られたのですね……」
私は出来るだけ静かに、感情を抑えて言葉を発音して行く。私の声が空気を震わせるたびに、体の奥底から迫り出してくるものがあった。
「貴方が、貴方が去ってから私は……ずっと、貴方を呪って、いたのです。そして今……それ、が叶ったのです」
そう。私の目の前にいるこの僧は、私の夫・藤原惟成だ。私が百ヶ日参詣をした甲斐が、あったのだ。私は目の前の僧体の夫を見た。
「でも、まさか……どうして……」
私が前を向くことを決意した夜、御上が出家した。密かに内裏を抜け出しての出家であった。夫はこれを受け、後を追う様に出家したのである。私の願いは確かに叶った。夫は乞食となって目の前にいる。しかし、いったい誰が、僧にしてくれと言ったのか。私は怒っているとも悲しんでいるとも言えない気持ちになっていた。そんな私を夫は、半ば唖然として見上げている。
「ねぇ、私と一緒に……暮らしましょ……還俗して私と……」
「な、何を言って……」
夫は当惑している様だった。それもそうだろう。突然現れて、呪っていたと言ったかと思うと一緒に暮らそうと言い出したのだ。何が何だか、分からないだろう。
「ねぇ、お願いですから……どうか」
私は膝を突くと、夫の手を取った。もう半ば哀願だった。夫はそんな私をじっと見ていた。そして、意を決した様に口を開いた。
「お主が……お主が私を怨みに思う事は、無理からぬ事であろう」
夫の声は優しかった。その事で私は、あり得ぬことが叶ったと思ってしまった。しかし、そんな事はなかった。
「しかし、しかしだ。御上と義懐様は出家なされたのだ。御上の乳母子と言う関わりを持って引き立てられた私が、還俗する訳にはいかない。それに、お主が私を呪ったとこで御上が出家されることになったのなら、到底許されるものではない」
夫の声には、力が籠っていた。夫の瞳には強い光が宿っていた。
今にして思えば、あの時の私はどうかしていた。私は幼い頃に母を失っていた。父は私を庶子だからか、あまり大事に思っていなかった様だった。それ故か愛が欲しかったのかも知れない。だから私は愛してもらえる様に、尽くして来た。そして夫は私を抱いた。それを私は愛故だと勘違いしてしまっていた。夫からして見れば身分が低く都合が良かっただけだった。それにどうして私は、自分を呪っていたと言う女の元に来ると思っていたのだろうか。嗚呼、惨めだ。本当に。自分で自分が嫌になる。嗚呼、何て愚かなのか。終わらせよう。私は床に置いていた刃物を手に取った。そして、そのまま首にやる。吐く息が震える。刃物がカタカタと音を立てた。一度息を大きく吐くと、力を込めて刃を引いた。
執筆の狙い
マイペースに気が向く時に書いている所為か、たまに自分が何を書いているのか分からなくなります。