恋文
この十年間、君のことを考えない日は一日もない。
君は今何をしているのだろう。いつ帰ってくるのだろう。
僕の夢は、タマを抱く君を車椅子にのせて、名所を巡り歩くことなのです。
覚えていますか。アンドルの谷間に咲く花々を。あの華やかな舞踏会を。
ずっと君を愛しつづける。この恋に終わりは無いのだから。
だめだ。恋文は本当に難しい。
もう十年も考えているのに、どう書けば良いか分からない。文学を彷徨ってみてもだめだった。文学なんて、結局なんの役にも立たないのだ。
私は名著をあさるような学生だった。文学は人生を豊かにすると信じていたが、それは悲しみを増やしてくれただけだった。
私の大学は福祉系で、介護施設などで実習する機会があった。
大学三年の春、私は仲間たちに難病患者の療養所での実習を提案し、大学から頼んでもらい許可をもらった。
大学前から電車を乗り継ぎ、無人駅の改札を出て、渓谷を眺めながら歩いていると、やがてその療養所が見えてきた。
三棟の四階建ての病棟と、食堂のような平屋の建物が、豊かな自然に囲まれて建っていた。
一見すると田舎の小学校に見えなくもないが、建物に入れば死の影を感じた。
職員の話を聞きながら重篤患者の病棟を歩いていると、私たちの横を車輪のついた担架が通りすぎた。
白布で覆われた「小さなもの」がのっていたが、それが何であるかは察しがついた。「かわいそうだな」、「気の毒ね」という仲間たちの声が聞こえた。
私たちは患者の話に耳を傾けながら、満開の桜の下で車椅子を押した。私が押したのは、やせた少女の車椅子だった。
事前に付き添いの職員から、彼女は目に障害があるが、中庭の散策を好むと聞いていた。
少女の髪についた桜の花びらを手に取り、彼女の手に握らせると、彼女はそれをずっと握りしめていた。
「して欲しいことは何でも言ってね」と話し掛けても、少女から返事はなく、私は聴覚の問題を疑った。
すると付き添いの職員が私の耳元でささやいた。
「全緘黙だから話せないのです」
「ぜんかんもく……」
職員がその珍しい症状について話し始めると、少女のこぶしが小刻みに震えた。
実習を終え、職員たちに挨拶をして帰途につくと、駅に向かう途中で仲間たちが提案をした。
「飲みながら検討会でもするか」
「郷土料理が食べれる小料理屋でもないかしら」
「こんな田舎にいい店なんて無いと思うよ」
私が店を検索しようとすると、携帯が鳴り、出てみると先ほどの職員だった。
「あなたに車椅子を押してもらった女性が、お礼を言いたいと言っているのですが」
「そんな。お礼なんていいですよ」
「ただ、彼女がどうしてもと」
「わかりました。まだ近くにいますので、すぐに行きます」
急用を理由に飲み会を断り、施設へ引き返すことにしたが、向かう途中でふと思ったのだ。
「お礼を言う? 話すことができないのに」
職員に案内されて三階の個室に入ると、キーボードを膝にのせた少女が介護ベッドの背にもたれていた。
ベッドの横の丸椅子に腰掛けて、「お礼なんていいのに」と声をかけると、少女は目を閉じたままキーボードを叩いた。
すると、すぐ横にある液晶に言葉が映ったのだ。
「冷たい花びらに触れたとき、白い桜が見えました。嬉しかった。感謝しています」
ベッドの横に小さな本棚があった。
「彼女は本を読めるのですか?」
「お母さんが読んでいたのです。でも去年亡くなりました。時間があれば読んであげたいのですが」
立ち並ぶ単行本の中に、バルザックやスタンダールの小説があった。
職員に少女の年齢を聞くと、意外にも私と同い年だった。
「僕が読みましょうか?」と言うと、「ありがとうございます」と液晶に文字が映った。
彼女の名は小百合。
私は週末になると療養所を訪ね、彼女に小説を読んであげた。でもいつの間にか、大学をさぼってまでも行くようになった。
奉仕は口実で、真の目的は彼女との密会だった。
彼女は小説から様々なことを学んでいたが、その思想はロマン主義ではなく、小説での経験に基づく現実主義だ。だから彼女はときに私を利用したが、それは好意の印とも受け取れるやり方だった。
小説の選択は私に任せられた。私が選べば彼女は何でも受け入れた。砂漠を彷徨う者が水を求めるように、彼女は経験を渇望していたのだ。
彼女の心は小説世界に入り込んだ。息づかいや仕草から心の動揺が読み取れた。彼女は体を震わせ、涙を流すことさえあったのだ。
小説と中庭の散策だけが彼女の楽しみであり、私にとって中庭の散策は、小説よりも新鮮な体験だった。
私が車椅子を押していると、彼女はよく手の平を前に向けた。それは止まれの合図なのだ。
だが何が起こるわけでもない。彼女は静かに風を楽しむだけだ。彼女と一緒に風を浴びていると、不思議なほど気持ちが安らぐのだ。
そして、こんなこともあった。
いつものように車椅子を押していたら、遠くで雷の音がして、ぱらぱらと雨が降り始めた。私はあわてて病棟に戻ろうとしたが、なぜか小百合が止まれの合図を出した。
「早く戻らないと、ずぶ濡れになるよ」
雨が本降りになっても、彼女は止まれの姿勢を崩さなかった。
彼女は空を見上げ、大粒の雨に顔を濡らすと、閉ざされた瞳から涙をこぼした。
病棟に戻ると、私は職員たちから強い口調で注意された。
「天候に注意して下さい!」
「風邪を引いたら大変です!」
ただの風邪でさえ、彼女にとっては命にかかわる病気なのだ。
散々注意されて部屋に戻ると、乾いた寝巻きを着せられた彼女がベッドの背にもたれており、液晶に文字が浮かんでいた。
「ごめんなさい。雨に打たれてみたかったのです」
私はまんまと利用されたわけだが、なぜかとても幸せだった。
秋が深まった頃のことである。
短編を読み終えると、また中庭を散策した。
石畳の上で車椅子を押していると、小百合が手の平を前に向けた。
風の音しか聞こえなかったが、やがてカサカサという音が聞こえた。それは段々と近づいてきて、私たちのそばでピタリとやんだ。
「誰かいるの?」
茶色い毛玉のような子猫が木陰から顔を出した。
子猫は落ち葉をかき分けながら近づいてきて、小百合の前で鳴き始めた。すると彼女も反応した。まるで心が通じ合っているかのように。
子猫が彼女のひざに登って丸くなると、私は再び車椅子を押した。彼女は子猫を撫でながら散策を楽しみ、病棟の入り口の前に着くと、子猫はひざから飛び降りて走り去った。
個室に戻ると、私は彼女に言った。
「人懐っこい子猫だね」
「お母さんがいないのです」
「なぜ分かるの?」
「触れていると分かるのです」
私たちはその子猫を「タマ」と名付けて可愛がった。
私たちは現実世界で穏やかな時を過ごしていたが、仮象の世界では果敢に冒険をした。『谷間の百合』や『赤と黒』の主人公たちと一緒に、十八世紀のフランスを楽しんだのだ。
フェリックスと一緒にアンドル川の谷間でブーケを作り、ジュリアン・ソレルとともに華やかな舞踏会に参加した。
私が小百合の腰に手をそえると、彼女は私の肩に手をおき、しなやかにダンスを踊った。彼女は美しかった。マチルド・ラ・モールでさえも色あせるほどに。
ただ、長編である『赤と黒』を一日で読み終えることは出来なかった。
面会時間は午後六時まで。
続きはまた明日と言うと、小百合は私の腕をつかんだ。
「でも、もう時間が……」
捕まえる手が震えていた。彼女は必死なのだ。
「なら、特別に許可をもらってくる」
面会時間の延長は厳禁であることを私は知っていた。
私は外の非常階段に出る扉を開錠してから受付に行き、職員に挨拶をして建物を出ると、そっと裏にまわって三階まで非常階段を上った。
小百合の元に戻ると、彼女はキーボードを叩いた。
「6時半から7時の間に夕食が運ばれます。食器を運ぶ音が響いたら隠れてください」
施設に忍び込むなんて、下手をすれば警察沙汰だ。彼女にそこまでの意識はなかったと思うが、規則違反であることは知っていたのだ。
それでも責める気にはなれなかった。彼女は「明日は来ない」という不安と常に戦っていたのだから。
私はベッドの下に隠れて晩飯時をやり過ごすと、彼女の枕元の明かりをつけて『赤と黒』の後半を読んだ。
雪が降っていたが、室内は暖かく、窓ガラスが曇っていた。
読み終えたときには帰る電車がなくなっていた。
「ごめんなさい」と彼女は文字を打った。
「気にしないで。駅のホームで野宿するから」
「この寒さで野宿なんて無理です。ボタンを押さなければ誰も来ないから、朝まで私の横で寝てください」
「それは出来ないから床で寝るよ」
「なら私の毛布を使ってください」
彼女の毛布を借りて、ベッドの足元で横になった。
彼女の温もりを感じながら眠りにつくと、夢の中でまた彼女との旅行が始まった。
二月の休日、『カストロの尼』という短編を朗読した。
それはスタンダールが古文書を調査して書いた恋愛小説の傑作で、16世紀イタリア屈指の貴族カンピレアーリ家の娘エレーナ・ダ・カンピレアーリと、勇敢な戦士であるジュリオ・ブランチフォルテの壮絶な恋物語である。
高貴な家柄の娘が、よりによって山賊に恋をしたのだ。
だだ山賊と言っても犯罪者ではない。それは「反対政党」や「革命勢力」という意味に近い。山賊は貧しい農民のために豪族と戦っていたのだ。
実際ジュリオは敬虔なキリスト教徒であり、勇気と教養を兼ね備えた高潔な若者だった。
しかし彼との恋を貴族である両親が許すはずもなく、エレーナは厳重に警護された修道院に幽閉されてしまう。
ジュリオはエレーナを修道院から奪還すべく一戦交えるが、鉄砲で反撃されて兵士を失い、自身も負傷して作戦は失敗に終わる。
それ以後、幽閉されているエレーナの元に、ジュリオの筆跡による「冷たい手紙」が届きはじめ、それが途絶えると、ジュリオは死んだとの知らせが届いた。
それでもエレーナはジュリオは生きていると信じ、十年以上も彼を待ち続けたのだ。
しかし三十路を過ぎたころ、エレーナはついにジュリオをあきらめ、好きでもない青年司教に操を与えてしまう。
純真な娘が十年以上も恋人を待ち続けたあげく、悲しみを肉体的快楽で癒すしかないとは、一体どんな苦行なのだ。私は読んでいて泣きそうになった。
しかし不幸はそれで終わらなかった。ある日エレーナは、ジュリオが生きており、再会を待ち望んでいると知らされるのだ。
ジュリオからの冷たい手紙や、彼の訃報は、すべてエレーナの母による術策だった。頭の切れる母ヴィットリアは、恋を断念させるために、娘のまわりを嘘でぬり固めたのだ。
エレーナはジュリオと再会できるのに、それを望まなかった。彼女は短剣で心臓を貫いて、死んでしまうのだ。
読み終えると、私は小百合に言った。
「やはり恋は盲目なんだ」
「いいえ。恋人たちは真実を見ている」
「真実を見てるのに、なぜ不幸になるの?」
「恋は、悲しくて愛しい真実だから」
彼女は美しいものを「美しい」と表現し、悲しいものを「愛しい」と表現した。
盲目でも彼女は真実をとらえていたし、死に裏打ちされた洞察は、哲人をも凌駕していたに違いない。
卒業が近づくにつれて忙しくなり、しばらく会うことができなかった。それでも彼女のことが常に頭の中にあった。寝ても覚めても彼女のことばかり考えていたのだ。
なんとか卒論を書き終えて提出すると、その足で彼女に会いにゆき告白をした。
「好きな人がいるんだ」
「私にもいる」
私はその言葉に動揺した。
会えない間ずっと恋心に悩まされていた。いっそのこと、彼女の個室で卒論を書こうとさえ思ったのだ。
「この施設の人?」
「いいえ」
「なら誰なの!」と声を荒らげると、「あなたなのよ。分からないの?」と液晶に文字が浮かんだ。
私は慌てた。文豪の言葉を借りるなんて馬鹿げた真似はできない。そんなものは彼女に通用しない。私は自分の言葉で語らねばならない。しかし私はそれを持ち合わせてはいない。
「愛してくれる?」と文字を打つ手が震えていた。私はその手をとっさに握りしめ、握りつづけた。
私の手は震えていたが、彼女は手をゆだねていた。彼女の手の甲に唇を押しつけると、閉ざされた瞳から涙がこぼれ落ちた。
卒業式が終わると、その足で小百合の元へ急いだ。
「帰郷はしない。ずっとそばにいる」と伝えるつもりだった。
施設の玄関を通りぬけ、早足で廊下を歩いていると、何かが横を通りすぎたような気がした。
振り返ると、裏口から一台の担架が運び出されていた。
階段を駆けあがり、息を切らして彼女の部屋に飛び込むと、紐のようなものがベッドの手すりにぶら下がっていた。
ベッドの横にキーボードが落ちていて、ひろいあげてキーを叩くと液晶に言葉が浮かび上がった。
「文字を打つことさえ辛くなってきました。もうすぐ私はチューブに繋がれて、ただ息だけをして生きることになります。もう一度風を浴びたい。雨に打たれてみたい。タマを膝にのせて、あなたに車椅子を押してもらって、一度でいいから旅行をしてみたかった。でも、あなたのお荷物になってまで生きようとは思いません。さようなら。あなたがいたから幸せでした。小百合」
一瞬なにが起こったか分からなかった。大きな叫び声が聞こえたが、自分の声だと気づいたのは少ししてからだった。
私は彼女の言葉の下に、「君を愛しつづける」と言葉を足して部屋を後にした。
病棟を出て中庭を歩いていると、タマが木陰から私を見ていた。
「タマ。こっちにおいで」
石畳に膝をつくと、タマは私に身をすりよせた。
「彼女は遠くへ出掛けたんだ。だから、しばらく僕と暮らそう」
おわり
執筆の狙い
約5600字の推敲作品です。よろしくお願いします。