夜
十七歳のときだった。夜中に繁華街を一人で歩いていたら白い車が脇に停まった。窓が開き、男が声をかけてきた。誘われて私は助手席に乗った。
遊びに行こうという話だったのに車はどんどん街から離れていき、真っ暗な山道をのぼりはじめた。「どこに行くん」と訊ねたが、どこでもいいやろとまともな返答はなかった。車は停まらず暗い山道を進んでいく。
「降りる」と私は言った。
こんなところで降りて帰れるわけがないと笑われたが、本気で歩いて帰るつもりだったので、ドアを開け、外に出た。
夜道は怖くなかった。ひたすら道を下っていけばどこかに着くのだからと考えていた。
歩いているとうしろから車が追いかけてきて横に停まった。男は、悪かった悪かった、このまま引き返す、下で降ろすから車に乗ってくれという。
「いやいい、一人で帰るから」と断り、再び歩きはじめた。
車を徐行させて男はしつこく付いてきた。そして、歩いて帰るのは絶対に無理やぞ、と言う。どうするんやこんな所で、凍死する、はよう車に乗れ、心配になるわ、と言ってくる。
外は寒かったので男の様子からほんとうに心配して言っているのだとおもい、下まで行ってくれるのならと車に乗った。
いま思えば男を無視してそのまま一人で山を下ればよかったのかもしれないとおもう。ただ向こうは車だったのでどちらにしても徒歩でいく自分は追いつかれていただろう。逃れるのは無理だったようにもおもう。今のようにスマートフォンがあれば違っていたかもしれない。当時そのような連絡手段はなかった。
車は山道を下り始めた。男は、びっくりした、ほんとに歩いて帰ろうとするなんてそんな女は見たことがないとか何かぺらぺらといろいろ喋っていたとおもう。
しばらくして山道の中継点のような駐車場があって車はそこに入っていった。駐車している車は一台もなかった。「ちがうやん、おりるんやないの」と抗議したが、いいやろ、ここで話そうやと男は言った。
停車した車の中で男が迫ってきたので拒絶した。やめてと言った。抵抗してもみ合いになった。
ガツンと顔面に衝撃があって手を当てると血が出ていた。拳で殴られたとわかった。強烈な痛みに涙が噴き出た。唇が痛くてぶ厚くなったみたいで、口の中が変でおかしくて、鼻がじんじん痛くて、自分は泣きながら「ごめんね、ごめんね」と言っていた。「言う通りにするけ、もう殴らんで。お願い」と頼んだ。うわごとのように言った。
四つん這いになって後ろを向けと言われ助手席に膝をつきその通りにした。つい手が出てしまった殴ってごめんというようなことを男が言ったような気がする。スカートを捲って男は挿入しようとした。何度も試している。入らない、と文句を言った。濡れていない、と言っている。乱暴に唾を付けているようだった。むりやり挿入して腰を何度もぶつけてくる。尻を叩かれた。
ずっと私は泣いていた。痛みをずっと我慢していたが、痛みよりも恐怖のほうが何倍も何倍も大きかった。再び殴られるかもしれないということが恐ろしくてたまらず早く終わってほしいと祈った。少しでも男の気に障るようなことはしてはいけないと緊張でがちがちになっていた。もし男が機嫌を損ねてまた豹変したらとおもうと怖かった。
事が終わると男は機嫌が良かった。服を着たあとに私の顔を見て初めて気づいたように、血が、と言った。ティッシュペーパーを渡された。痛かった? と言っている。ティッシュを受けとって拭っていると、そのことはもう忘れたように男はまた何か別のことを話しはじめた。殴ったときの形相とはまったく違っていて、まるで何もなかったかのように笑いながら上機嫌でしゃべっている。何にも、一切、なかったんだという空気だった。
車は繁華街に戻った。真夜中で車はほとんど走っていない。人通りも少なかった。
また会いたいと言われたが、唇や鼻がずきずきとまだ痛かったし口がうまく開かずしゃべりづらかったし体全体も緊張していたので、私はただ愛想笑いをしてあいまいに応えた。
繁華街近くの車道を通っていたとき男が急にブレーキをかけて停車した。
窓をあけ、おい! まりえ! と外に向かって大きな声を出した。対向車線を挟んだ向かう側の歩道に人が立っているようだった。助手席からは暗くてよく見えなかった。
こんな所におったんか、と男が言っている。女の声が何か応えているが何と言っているのか遠くて聴き取れなかった。
××の店で待っとけよ、おう、あとで行くからな、すぐ行く、絶対に待っとるんやぞ、よしっ、と言ったあと男は私をふり返った。興奮した面持ちで、元カノがいた! と言う。
いまの女、おれの前の彼女やったんよ、まりえっていう女なんやけど×ヶ月前に別れたんや、けどおれはまだ好きで忘れられんかった、より戻したかったんや、とハイテンションの早口で説明された。
凄い偶然や、こんなところで会えると思わんかった、いま、あいつが会うって言ってくれたんや、な? もっかい会ってくれるって。いやあ××ちゃん、ありがとな! ××ちゃんのおかげや! ああ、まりえに会えるとはなあ! おれ、やっぱりまりえが好きや。
興奮した様子で男はエンジンをかけはじめた。
行くわ、おれ、早く行かんとこれ逃したらもう会えんかもしれん、悪い、急ぐんで××ちゃん送っていけんわ、××ちゃんここで下りてもらっていい? あいつが待ってるんで。
「うん」と私はうなずいて「よかったやん。彼女さんとうまくいくといいね」と笑ってみせた。おう、ありがとな、と言いながら男が左手をあげた。それに、ばいばい、と手を振り返して私はすぐさま車から降りた。
派手な音を立てて猛スピードで走り去っていく車を見送って、それとは逆の方向へ私は歩きはじめた。
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え? それからどうしたか、ですか。このあと、どうしたのかなあ。
ええ、思いだそうとしているんですけど。……車が走っていくのを見届けた。そこで記憶が途絶えていて、いくら思いだそうとしてもわからないのです。
はい。そこからぷっつりと。そうです。どうしてもその先を思いだせません。
そうですか……? 無理に思いだそうとしなくてもいいのですね。おそらく家に帰ったのだと思います。
傷は自然に治りました。病院には行っていません。
警察、ですか? 警察。そうですねえ。当時その足で警察に行ったら外傷もあったことですしどうにかなったのかもしれないですね。――いえ、どうでしょうね。考えたこともなかった。名前も知らない相手でした。それにナンパされてついて行ったその結果だったので自分が悪かったのだとずっと思っていました。こんなことたいしたことじゃないって。なによりもそういうときには警察へ行くという発想がまずありませんでした。
いえ、逆です。人に話すほどのことではないと考えていました。だからいま先生にお伝えしたこのできごとについてこれまで人に話したことはありません。はい、誰にも。友だちにも、親にも、話していないのです。話すっていうことを思いつきもしなかった。
なぜ? なぜって――。いま言ったじゃないですか、話すほどのことじゃないとおもっていたからです。そんな大げさなことには感じていなかった。
そんなはずはない? いいえ、ありますよ。むしろ忘れていたような気がします。あんまり思いだすようなことでもないですしね。それよりも他のことがいろいろ大変で、ほんとうにね、もう、それどころではなかったですし。え。いろいろです。なんだか……なんだかよくわからないんですけどあのころは、たとえばずっと薄いフィルターが目の前にかかっているみたいな感じで周りがぜんぶ灰色に見えて。
どのくらいって、どうだったかな。長かったですよ……。何年もそんな感じだった。周りの風景だけじゃなくて人も、ですね。何もかもぜんぶが遠くてぼんやりしていて虚しいみたいなことばかりで。今おもいだしたけれどそういえばいちど自殺未遂をしたことが――。
それは違いますよ、先生。いいえ、関係ないんです。このこととそれとは別です。
ああ。そのことは後悔していません。反省もいたしません。あんな人は殺されてとうぜんでしょう。
執筆の狙い
少女の抱いた恐怖や相手の男の不気味さが少しでも伝わればとおもいます。
よろしくお願いいたします。