悲しみの河
綾香が合宿に出発する日の前夜、奈津子は地方に出向している夫と電話で口論をしていた。
奈津子は娘を林間学校に行かせたくないとずっと言ってきたが、夫は耳を貸さなかった。
担任は綾香が孤立していると言い、夫は奈津子の過保護が原因と考えていた。
「あの子に合宿なんて無理なのよ」
「やらせたこともないのに、なぜそんなことを言うんだ?」
「お願い。分かって。なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香が扉の横に立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡した。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。友達を作ることも大切なんだ」
「分かってる」
「母さんの過保護は困ったもんだ。とにかく林間学校には行ったほうがいい」
「だから、分かってるって」
「持ち物は用意したのか?」
「うん。もうできているわ」
翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。
紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場に隣接する宿泊施設で合宿する予定だった。
「みんなでカレーライスを作るのよ」と綾香は言っているが、彼女は香辛料にアレルギーがあるのだ。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけよ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
奈津子は不安をぬぐい切れなかった。
「綾香。やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫だってば。心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、白い皿に乗った目玉焼きを箸で食べ始めた。
奈津子の予感にはわけがあった。
集団を嫌う綾香が、自ら合宿に行きたいと言うこと自体不自然すぎた。
そして、奈津子は娘の絵に不穏な兆候を感じていたのだ。
幼稚園のころは明るい色調だったのに、小学生になると大人びた暗い色調に変わり、中学生になると冷たい輝きを放つようになった。
奈津子には、綾香が描いた景色が凍りついているように見えた。
奈津子は、綾香が描いた自画像にも不穏なものを感じていた。
「なぜ、こんなにも悲しい目をしているのだろう。イジメのせい? いや違う。そうだ……」
娘の目が、二十六年前、幼い奈津子に致命的な悲しみを与えた男の目と重なった。
「あの人の目に似ている。悲しみが氷結したようなあの目に。でも、なぜ似ているのだろう? まさか……」
担任が言うように、綾香はクラスで孤立しており、美術部でも浮いた存在だった。
綾香の絵はどれも異様なほど精密で、中学生のレベルを遥かに超えていた。
彼女は変人とみなされ、仲間外れにされていたが、元々一人が好きだったから、それを気にすることもなかった。
ただ、ある事件が、彼女の心に冷酷さを開花させる契機となった。
ある日、美術部の教室から綾香の絵が額縁ごと無くなった。
空想のみで描いたその花の絵は、彼女が産み落とした命とも言える作品だった。
数日後、一通の手紙と大きな箱が玄関の前に置いてあった。
『素敵な絵だね。楽しませてもらったから返してあげる』
箱の中には、切り刻まれた絵画が動物の糞と一緒に入っていた。
しかし、綾香は憎しみに燃えたわけではない。むしろ何も感じなかった。ただ心が氷のように冷たかった。
綾香は二学期が始まると同時に美術部をやめた。
退部してからは母の肖像画ばかり描いていた。
ある日、奈津子はスケッチブックに描かれた自分の顔に戦慄を覚えた。伏し目がちな顔に、救いようのない悲しみが滲み出ていたのだ。
そして、何よりも奈津子を驚愕させたのは、綾香が描いた奈津子自身の目だ。
綾香が描いた奈津子の目は、二十六年前、幼い奈津子に致命的な悲しみを与えた男の目にどことなく似ていた。
「あたしの目に、彼の影を感じているのかもしれない……」
その日から、さかのぼること二十六年。奈津子12歳の夏の日、彼女が身を寄せる田舎町で事件が起きようとしていた。
二人のチンピラが駐車場で煙草をふかしながら店内の様子をうかがっていた。拓哉と慎吾がコンビニを襲うタイミングをはかっていたのだ。
拓哉という青年は救いようのないクズだった。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入りびたり、春を売って酒代を稼いだりした。
彼女は赤ん坊の拓哉をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して「お酒と交換してよ」と言い、客にからんだりもした。
拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごした。
一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない少年に成長した。
彼は万引きや恐喝に日々邁進し、シンナーを吸って人を刺して、お決まりのレーンに乗った。
彼はどこまでもクズだったから、少年院でも慎吾以外に相手をする者はいなかったのだ。
かたや慎吾という青年は、相棒とは真逆な性質を有していた。
彼には物事の本質を見抜く洞察力があり、知能検査でも高い数値を示した。しかし彼はその知性を有益に使おうとはしなかった。
彼の父親は家庭をかえりみない遊び人だった。パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば幼い慎吾に玉拾いまでさせた。
「もっと集めてこい!」
殴られて顔をはらした慎吾は、ゴキブリのように店内をはいまわり、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父親は子供の愛し方が分からなかった。彼も親から虐待されていたのだ。
結局、慎吾の父はよそに女をつくって出て行ってしまった。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児放棄をしていたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。美咲はそんな兄のことが大好きだった。
彼は特に問題のない少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂った。
彼が中三のとき、美咲が河に身を投げたのだ。
いつも影でいじめられていた美咲は、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要された。
総勢十人ほどの少年少女が、笑いながら携帯をかざしていたのだ。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われた。
彼女は勇気をふり絞って警察に行ったが、学校で解決することだと言われて帰されてしまった。
しかし、学校での相談なんて無意味なのだ。教師は隠蔽しか考えていない。イジメを受けている生徒は皆そう感じていた。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも彼女は兄に相談をしなかった。いや、できなかったのだ。
慎吾は彼女が死んでから真相を知り、怒りと悲しみに打ち震えた。
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』だったのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした時を振り返っていた。自分も橋から身を投げて、河の流れに身を任せたいとさえ思った。
しかし、思いとどまった。やるべきことがあったのだ。
彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがった。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だった。
彼は平静を装いながら二人の一部始終を観察し、二人が美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止めた。
彼は二人は卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをした。
案の定二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめて絶好のタイミングをうかがった。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしていた。
男子が女子の腹に種をまき散らした瞬間、その後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
慎吾は男子がのた打ちまわっている間に女子を後ろ手に手錠で拘束し、ロープで作業台の脚に縛りつけた。
そして男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧をとり出して言った。
「おい。まだ死ぬなよ」
慎吾が男子を解体すると、床一面が血の海と化し、女子の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛みちぎったのだ。
慎吾は女の前髪をつかんで言った。
「どうだ? 気分は」
彼女は血の泡を吹きながら命乞いをした。
慎吾はナイフを彼女の首に刺して真横に動かすと、死にゆく姿を眺めながら煙草をふかした。
「俺がのんきに構えていたから美咲は死んだ。みんな俺のせいだ……」
彼は吸いかけの煙草をかたく握りしめた。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、拓哉と同じようにお決まりのレーンに乗った。
そんな過去を持つ二人のチンピラが、奈津子12歳の夏の日、彼女が身をよせる田舎町で事件を起こそうとしていた。
二人が狙っていたコンビニは、片田舎で競争相手が少ないからか中々繁盛していた。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていたのだ。
拓哉は慎吾に言った。
「あの変態は俺の穴に指を入れてモノを大きくしてやがったんだ。聞いた話じゃ検査はインチキで、そりゃ奴の趣味だってんだ」
慎吾はげらげらと笑った。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
彼らは煙草を投げ捨てると、目出し帽をかぶって店に入り、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」
「長生きはするもんだぜ」
拓哉がナイフで威嚇している間に慎吾がレジの金を奪った。
慎吾が「いくぞ!」と叫ぶと、拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ!」と若者を脅した。
二人がアクセルをふかすと、カラーボールが拓哉のバイクの横で弾け、彼のスニーカーを黄色い塗料でよごした。
拓哉はバイクから降りるとリュックからバールを出した。
慎吾は「ほっとけ!」と叫んだが、拓哉は完全に切れていた。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ! あの野郎。頭叩き割って脳味噌をふみつぶしてやる」
警察は間一髪のところで二人をとり逃がし、県下に緊急非常配備を敷いた。
その日の晩も、奈津子が身をよせる酪農家の食卓はにぎやかだった。
一年前の災害で家族を失った奈津子は、牧場を営む親類に保護されていたのだ。
土砂崩れの発生から二日後、奈津子は仮設された安置所で身元の確認をした。
家族の遺体が青いビニールシートの上に並べられていた。
両親の遺体は傷ついていたが、幼い妹の遺体には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えなかった。
「姉ちゃんだよ。おきて」
何度呼んでも、妹が目を覚ますことはなかった。
奈津子が身をよせる牧場は、叔母とその夫、それと祖父母の四人で営まれていた。
四人は奈津子のことを心配し、親以上に優しく接しようとしたが、奈津子は甘えようとはしなかった。
奈津子は箸をおくと祖父に言った。
「なんでもやります! 他人と思って下さい!」
祖父は笑みをこぼした。
「よし! 朝五時から牛舎で働け!」
すると四十路が近い娘が怒った。
「なっちゃんはまだ小学生よ。意地悪ね!」
すると婿が嫁をなだめた。
「お父さんは冗談を言ったんだよ」
子宝に恵まれない夫婦には、奈津子が我が子のように思えたのだ。
そのとき「バタン!」と扉の閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵かけるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし見てきます」
奈津子が玄関にゆくと、木の扉が風に揺れており、ノブを持って閉めようとすると、カサカサと草のすれる音が外から聞こえた。
外に出てあたりを見回していると、メリーの鳴き声が聞こえた。
「メリー。どうしたの?」
メリーとは、母牛と生き別れた雌の子牛である。
奈津子とメリーは出会った瞬間に心が通じ合った。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を許したのだ。
彼女がメリーの元に行こうとすると叔母の声が聞こえた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! でも、ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子の姿を見ると鳴きやんだ。
「大丈夫だよ。あたしが守ってあげるから」
奈津子はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをした。
奈津子が扉に鍵を掛けて居間にもどると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を伝えていた。
祖母は箸をとめると祖父に言った。
「あれ、あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねぇ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラがとらえた犯人たちの映像を流した。
そのとき牛たちの鳴き声が響いた。
「ちょっと見てくるから食べていてよ」
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だよ」
婿がそう言って食卓を離れると、叔母はまた自分の父に文句を言った。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だな」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、また牛たちの鳴き声が聞こえた。
「なにかしら? 見てくるわ」
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。御飯を食べていてね」
そう言い残し、彼女も食卓を離れた。
歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を勢いよく飲み干してお椀をおいた。
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい! 動物が好きなんです!」
「メリーか?」
「メリーも、ほかの牛たちも大好きです!」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます!」
そのとき木材のきしむ音が響き、居間の扉が少し開いた。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
扉の向こうから返事はなかった。
「なにしてるんだ? 早く入ってこいよ」
扉の向こうは暗く、明るい部屋からでは逆光で何も見えなかったが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。
二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
扉の向こうから不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん……」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木の扉が全開し、鬼畜どもが姿を現した。
「なんの用だ!」
拓哉が「めし食わせろよ」と言うと、慎吾が「ビールあるか?」と祖父に聞いた。
「娘たちに何をした!」
「さあな」
拓哉が料理をむさぼり、慎吾が缶ビールを飲んでいると、警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
二人の容疑者は少年だから氏名は公表できないとし、社会部の記者とやらがコメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。しかし、少年だから何をしても許されるわけではないのです」
正論である。しかし、憎しみに支配された者には何の効力もない。
拓哉は慎吾に聞いた。
「俺たち死刑かな?」
「だろうな」
「でも未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ。それに、長生きしても仕方ないぜ」
そのときパトカーのサイレンが遠くで鳴り響き、それを聞いた祖父が罵倒を始めた。
「人殺しめ! 少年だから許されると思うなよ!」
慎吾は老人に言った。
「許してくれなんて頼んでないよ」
「このクズどもめ!」
慎吾はため息をつくと奈津子に聞いた。
「なっちゃん。君はメリーが好きなんだよね?」
「メリーは、あたしの妹なの」
「お兄さんにも妹がいたんだ。死んじゃったけどね」
「死んじゃった?」
「誰も助けてくれなかった。先生も警察も見て見ぬふりさ」
奈津子は慎吾の目に深い悲しみを見た。
慎吾はしばらく黙り込むと、何かを思いついたようにまた奈津子に聞いた。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「そうか。やはり聞いてないのか」
慎吾の悲しみが憎しみに変わった。
「おい拓哉。納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾はメリーの運命をその場で再現して見せた。
奈津子は耳をふさいで目をつぶっていたが、鈍い振動が彼女の身に伝わってきた。
慎吾はことを終えると、奈津子の両肩に手を乗せて言った。
「もう目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開くと、慎吾が彼女を見つめていた。
「お兄さんの顔しか見ちゃダメだからね」
慎吾は奈津子の顔に散った血を、濡れタオルで丁寧にふき取ると言った。
「なっちゃん。君の試練が始まった。乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。お兄さんには出来なかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった……」
奈津子は悲惨な過去を背負いながらも、心優しい女性に成長した。
ただ、その優しさは常人では考えられないものだった。彼女は二人の死刑に反対したのだ。
奈津子は、慎吾の言葉が真実であることを見抜いていた。
試練を乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。でなければ自分も破滅してしまう。
奈津子の意志が死刑反対運動を盛り上げると、当局は刑の執行をためらい、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れた支援者たちに、よく愚痴っていたのだ。
「俺が殺したのはコンビニの店員だけだ。牧場で一家を皆殺しにしたのは慎吾なんだ。二人以上が死刑の相場だよな。なら、俺が死刑になるなんて、おかしいだろ」
慎吾は相棒とは真逆な意志を表明していた。彼は死刑反対運動に反対したのだ。
奈津子は幾度も刑務所に書簡を送り、自分の死刑を望むなんてことはやめて欲しいと頼んだ。
「私はあなたを憎んでいません。お願いだから生きてください」
しかし、彼からの返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。どうか死刑に反対しないで欲しい。俺は早く死にたいんだ。俺は妹を殺した奴らを殺した。だから俺も殺されるべきなんだ。でなければ公平じゃないよ」
やがて奈津子は結婚し、幸せな家庭を築いた。そして、その幸せが悲しみに変わることを恐れた。
彼女は、憎しみは悲しみにしかたどり着かないことを知っていた。だから、憎しみは自分の代で断つと、決意していたのだ。
彼女は結婚後も密かに慎吾の説得を続けた。
家族の目に触れないように、局留めで書簡のやりとりを続けていたが、ある者がその一部始終を観察していた。
ある日、慎吾の元にやけに薄い手紙が届いた。封筒を開けると、一枚の便箋に奈津子の字が書かれていた。
「一度だけ面会してください。それでもあなたが死を望むなら、私はあきらめます」
奈津子が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が目の前に現れた。
二人はアクリル板越しに互いを見つめ合った。
なぜか奈津子は薄いサングラスを掛けたまま黙っていた。だから慎吾から話し掛けたのだ。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでほしい」
すると奈津子はサングラスを外して小さな声で言った。
「あたしが誰か分かる?」
慎吾は奈津子の顔をはっきりと覚えていたから、化粧をしていても見間違えることはあり得なかった。
ただ不思議なことに、彼女の顔は少女のままだったのだ。
「君は誰だ?」
「やはり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「お願い。小さな声で話して。看守に聞こえるから。筆跡を真似して免許証を偽造したの。録音もされてないわ」
「なんの真似だ。看守を呼ぶぞ」
綾香は慎吾の目をじっと見つめた。
「呼べば。もう用事は済んだから」
「どういうことだ?」
「あなたの目が見たかった。気が狂うような悲しみのわけを、知りたかったから。あなたとお母さんは、目がそっくりね。まるで兄と妹みたい」
慎吾は絶望した。
自分の妹を救えなかった彼に残された希望は、奈津子の幸せだけだったのだ。
その面会から二ヶ月後、奈津子は綾香を林間学校に送り出そうとしていた。
その日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。
綾香はクラスメイトと仲良くなりたいと言うが、奈津子は疑念と不安をぬぐい切れなかった。集団を嫌う綾香が合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい。
担任は綾香がクラスで孤立していると言い、奈津子も娘を集団の中に置きたくはなかった。
「みんなでカレーライスを作るのよ」と綾香は言っていたが、彼女は香辛料にアレルギーがあるのだ。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけよ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
「綾香。やっぱり何か悪い予感がするの。お願いだから行かないで」
「大丈夫だってば。心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、白い皿に乗った目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた次の瞬間、奈津子はそれを手から落とした。
朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子はがっくりと床に崩れ落ちた。
床に手をついて泣いていると、娘の声が聞こえた。
「お母さん。どうしたの?」
顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
綾香は取り乱す母をじっと見つめた。
「そう。なら、あたしの思い過ごしね」
綾香はリュックを背負って部屋を出ていった。
その日の午後、奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校から緊急のメールが入った。
『林間学校で大規模な食中毒が発生し、警察と救急隊が現場に来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。
騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で状況を伝えていた。
「カレーを食べた生徒たちが救急搬送されました。すでに二名の生徒が亡くなっています。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話が繋がらなかったから、奈津子はメールを送った。
「綾香。大丈夫なの? カレーを食べたの?」
しばらくしてから返信が来た。
「あたしは作っただけだから、心配しないで」
目撃者はおらず、証拠になるような物も見つからなかった。
山奥のキャンプ場だから部外者の侵入は難しいとされ、学校関係者が調べられたが、誰にも動機がなかった。
イジメの報復という線でも捜査は進められたが、容疑者は多数にのぼり捜査は難航した。
事件から数ヶ月後、一人の男が奈津子の家のインターホンを鳴らした。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるんですが」
奈津子が扉を開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「ここではなんですから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「いや、綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですから」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです! だからカレーを食べなかったんです!」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周りの子と上手くいかなくて、辞めてしまったんです」
「そうなんですか。いや、それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは……」
「スケッチブックも見ていいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくった。
「これはお母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は地方に出向していて、たまにしか帰らないんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
彼は次のページを開いた。
「あっ! この人知ってますよ。確か俳優の……」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵があった。
「これは誰ですか?」
彼は暗い目をした男の肖像画を指差していた。
奈津子がその男と対面したのは二十六年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔つきは変わっていたが、目つきはそのままだった。
綾香は悲しみが氷結したような彼の目を、見事に描き切っていたのだ。
奈津子は急にめまいがして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「ちょっと貧血がひどくて」
「すみません。ずっと立たせたままで」
「その男の人。よく分かりません……」
「いいんですよ。きっと俳優か何かでしょう」
彼は奈津子をソファーに寝かせると、「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」と言って頭を下げた。
その日の就寝前に、奈津子が自分の過去を話すと綾香は言った。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
その夜、奈津子は娘と一緒に寝た。
朝まで眠れなかったが、娘を抱いていれば、わずかに幸せを感じることができた。
終わり
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