作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

ちぎれ雲

「そんなヒョロヒョロの軟弱な体で国のお役にたつのか」
昭和十八年四月。五年生になってすぐに神戸の国民学校(現在は小学校)から園田村の国民学校に転校して最初の体操の時間に、室崎教師は健介の体を見て顔をしかめた。園田村は大阪市と神戸市との間の阪急電車沿線にあり、戦後に尼崎市に合併されたがその当時はまだ村であった。
 たしかに、農村の子供はがっちりとした体格が多い。小さい頃から農作業で鍛えられたのであろうと健介は思った。
「男は二十歳になれば徴兵検査を受けるんやぞ」
 室崎教師は健介の細い足と手を見ながら言った。
 徴兵検査は兵隊になれるかどうかの体格検査で、男子は二十歳になると全員受けることになっている。徴兵検査の甲種合格でなければ兵隊にはなれない。体格がやや劣れば、乙種合格で兵隊の予備となる。徴兵検査を受けるのはまだ十年ほど先だとしても、健介の体格では乙種合格も覚束ないだろう。身体が細いのは生まれつきであって、急に太い体格に変わるものではない。健介は健康であったが、その細い体のために神戸の学校では腺病質児童を収容する養護学級に入れられたこともある。細いだけで、活発に走り回っていた健介は母が学校と交渉して普通学級に戻された経緯があった。
 転校の初日から健介はお国の役に立たないという、いわば人間の屑としての烙印を担当教師に押されてしまったのである。ここから健介の悪夢のような苦難の生活が始まる。

(一) 転校

昭和十四年といえば、健介が生まれ故郷の広島県の松永小学校に入学した年であるが、この頃に国民精神総動員新展開の基本方針が閣議で決定された。支那事変はすでに硬直化しており、アメリカを始めとする日本に対する石油の禁輸に対して、日本は東南アジアに向けての新たな進展を模索し続けていた。
 谷山家の長男として祖父には溺愛され、近所の遊び友達である金平や康己などの友人に囲まれて、健介にとって生まれ故郷の松永町は安住の地であった。小学校一年の時に父親が神戸市にある山下汽船という船会社に勤めることになり、健介は神戸市の六甲山麓の学校に転校した。
 昭和十六年十二月に始まった大東亜戦争(現在は太平洋戦争と言う)は、破竹の勢いで日本軍が進撃を続けた。戦争が始まったのは健介が神戸市の灘区にある高羽国民学校の三年生になっていた時である。十二月八日、真珠湾の不意打ちと同時にマレーシアのコタバル、タイ領のシンゴラなどに上陸した日本軍は、予想外の速さでマレー半島南端の拠点、イギリス領のシンガポールへ進攻した。
 十二月二十三日には、日本軍がフィリピンのルソン島に上陸して進撃を続け、昭和十七年一月二日にはマニラ陥落。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーをマニラから追い出した。
十七年二月十五日、シンガポールのイギリス軍は降伏し、遂に不落の要塞と言われたシンガポールが陥落した。日本ではこの日を「戦勝第一次祝賀日」として、緒戦の勝利にわき立った。健介たちもアジアの地図を広げて、昭南島と改名されたシンガポールの位置に日の丸の小旗を貼り、提灯行列をしてお祝いをした。
五月七日には遂にフィリピン全土を制圧し、日本の勝利は間近であることを国民は信じて疑わなかった。しかし、緒戦の優勢もここまでで、昭和十七年の後半になると連合国側の反撃が始まり、日本軍はじりじりと後退を続けることになる。
 昭和十七年六月五日に、ミッドウェー沖で海戦が行われた。日米の本格的な激突の始まりである。軍の作戦本部である大本営は敵に多大の損害を与え、我が方の損害は若干なりと報じたが、戦後にわかったことだが、実は空母四隻を失うという日本海軍にとっては致命的な大損害を受けていたのだ。
 昭和十七年八月、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸した。翌年一月まで激戦が続いた後、日本軍はガダルカナル島から撤退し、他に転進すると報じられたが、撤退が敗退であることを日本国民は誰も信じようとはしなかった。
 戦争が熾烈になった昭和十八年四月、健介が五年生になったときに、神戸の高羽国民学校から神戸、大阪間の園田村にある園田第三国民学校へ転校したのである。園田村は、現在は尼崎市に編入されているが当時はまだ農村だった。神戸市内より農村の方が空襲の危険が少なかろうという父の判断だった。
 日本に初めて敵機が襲来したのは、昭和十七年四月十八日のことだった。このときは東京の荒川区が空爆の被害を受けている。この頃から、日本本土にも敵機が飛来し始めていた。
 村とはいっても、阪急電車塚口駅の近くの松原地区には非農家の住宅が散在していた。健介が住むことになったのは松原地区にある叔父の持ち家である。叔父は逓信省の官吏で、当時は支那の天津電話局長をしており、叔父の家は空家になっていたのだ。家の前に県道がはしり、道の向こうに畑が広がっている。畑の中に民家が点在しており、その隙間の向こうに阪急電車が走りすぎるのが見える。神戸の住宅街とは比較にならないが、村の中では都会に近い雰囲気が感じられた。松原地区から一歩踏み出すと田圃が連なり、農村であることを実感させる。
 文部省は、小学校を国民学校と改名し、小学生は小国民と称して、男子生徒は、大人になると軍人になるのが当然と考えられていた。海軍飛行学校予科練習生(予科練)の歌がラジオから流れ、戦意高揚に努めていた時代である。
 園田第三国民学校は、健介が通っていた神戸の学校に比べると小さく、五年生男子の組は一つだけであった。
「今度神戸から転校してきた谷山健介君や」
 転校当日、担当教師の室崎が健介を紹介した。室崎は色が浅黒く、顔の皺が深い中年の痩せた男だった。皆は値踏みするように健介を見た。農村の学校では都会から来た生徒が珍しかったのかも知れない。健介は不吉な予感がした。殆どが農家の子供である。都会育ちの生徒より粗暴な感じがしたからである。都会から来た健介が、農村の子供と馴染めるかどうかわからなかった。
 戦時下の国民皆兵の時代、兵隊になれない男子は、国のお役に立てない人間の屑として肩身の狭い思いをしなければならなかった。室崎教師によって、健介は都会から来た軟弱ものという烙印を捺されてしまったのである。今から思えば、室崎教師も若い頃に徴兵検査で甲種合格ではなかったのかも知れない。自分が感じていた劣等感のはけ口として健介に目を向けたのであろうが、健介にはそのようなことは想像も付かなかった。痩せて細いのは自分の責任ではない。親から受け継いだものだ。いくら細くても健介は病気ではない。神戸にいた頃は人一倍活発に飛び跳ねていたのだ。

(二)空中転回

初めての体操の時間、四段の跳び箱の前に生徒が並んだ。跳び箱なら神戸にいる頃はクラスで一番だった。健介が貰った神戸での通知表には体操のところには優がついている。
「谷山からやってみろ」
 室崎は健介を最初に指名した。健介がどれだけ飛べるのか見るつもりだろう。
 健介は四段の跳び箱に両手をついてうまく跳び越えた。どうだと言わんばかりに室崎教師の顔を見ると、室崎は不機嫌な顔で首を振った。うまく跳び越えたのにどうして。次の生徒は跳び箱に手をついて体を一回転させ、砂場に両手を広げて着地した。次々と生徒は回転して着地する。跳び箱の上で地上転回をするのである。宇田雄三の転回は見事であった。高い踏み切りからまっすぐ伸びた足が大きく弧を描いて砂場に着地する。島崎というずんぐりした生徒は転回が出来なかったが室崎は何も言わなかった。転回の出来ない生徒は四十人の男子組の中で、島崎のほか数人しか居ない。健介は呆然として転回を眺めた。都会の子供と農村の子供との運動神経の差をまざまざと見せ付けられた感じがした。島崎をはじめ、中に転回の出来ない生徒が数人居たのに、健介だけが叱られたのは、神戸での通知表で体操が優であった為かと思った。
「谷山、転回をやって見ろ」
 急に鼓動が早くなった。跳び箱は手をついて跳び越える物だと思っていたのだ。その上で転回をするなんて。これまで地上転回すらしたことはない。跳び箱を目の前にして足がすくんだ。
「やらんか」
 室崎の声が無情に飛ぶ。健介は跳び箱に向かって突進した。跳び越えるだけなら何でもない跳び箱が、目の前で急に大きくなったような気がした。踏み切板を蹴って跳び箱の上に両手をつく。頭を下げて下半身を跳ね上げなければならない。健介の両腕には体を支えるだけの力はなく、前のめりに体勢を崩しながら跳び越えてしまった。
「転回やぞ。誰が跳べと言うたんや。もう一回!」
 室崎が怒鳴る。
 健介は思いきって下半身を跳ね上げた。手が支えきれなくて、跳び箱の上を滑り、頭から砂場に突っ込む。見ていた級友が一斉に笑った。口に入った砂を吐き出すと、生臭い血の味がした。
「そんなことで予科練になれるんか」
 室崎は唇に冷笑を浮かべて言った。
 海軍飛行学校予科練習生は予科練と言われ、飛行機乗りの促成養成機関であった。少年達が、制服の七つボタンに憧れて志願していく。航空機の操縦には運動神経とバランス感覚が要求される。地上転回、空中転回はそのバランス感覚と敏捷性の訓練として重視されていた。
 跳び箱が終わると鉄棒の前に集まった。次々と逆上がりで鉄棒に乗り、前方回転や後方回転を繰り返す。健介の体は、鉄棒にぶら下がったままだった。
「お前は牛肉か」
 室崎が怒鳴った。逆上がりはおろか懸垂すらできない。握力が無くなって健介は鉄棒から落ちるようにして下りた。室崎が鼻を鳴らした。
 神戸に居たときは、体操の時間が一番好きで、真っ先になって走り回っていたものだった。転回も、鉄棒も、逆立ちすらもできないとなれば、園田村の学校では、健介は仲間から疎外されたはぐれ羊のようなものだった。
 健介は空を見上げた。晴れた空に大きい雲の塊りがあり、そこから追い出されてちぎれたように小さい雲が漂っている。そのちぎれ雲の間に赤い飛行機が浮かんでいた。動きは遅く空中に止まっているようだ。伊丹飛行場から飛び立った、赤トンボと呼ばれる軍の複葉練習機である。あの中には健介より少し年上の若い練習生が乗っているのだろうかと思った。きっと地上転回や鉄棒は上手だったに違いない。自分はとても飛行機乗りにはなれないだろう。健介は自分の細い腕を見つめた。この腕で何ができる?
 こうして園田第三国民学校の一日が始まった。次の日は運動場の片隅に防空壕を掘る作業が待っていた。鍬とスコップで深さ一メートル、長さ五メートルの穴を掘るのである。皆は器用に鍬を振り上げる。健介は鍬を握ったことはなかった。
「なんじゃ、そのへっぴり腰は」
 鍬を思い切り振り上げると、その重みでよろける。室崎が怒鳴って健介の尻を叩いた。農村の子供達は、農耕用の鍬を楽々と振り上げる。
「谷山は土運びをやれ」
 健介には鍬を使う事が出来ないとみて、教師は掘り出した土をバケツに入れて運び出す作業を命じた。バケツに入った土は重い。土がいっぱい詰まったバケツを健介が持ち上げかねていると、体格の良い生徒が健介の手からバケツを取り上げ楽々と運び去った。姜声培だった。汗の臭いが鼻をついた。
 姜はバケツの土を所定の場所に空けると、バケツを投げてよこした。
「土は半分入れたらええんや」
健介はバケツに半分の土を入れ、両手で引きずるようにして運んだ。
 なにをやってもあかん奴やな、という顔をして室崎教師が舌打ちをした。
 一人の生徒が寄ってきて、向こうに行った姜声培を顎で指して囁いた。
「あいつの家はな、大阪の生野区から逃げて来たんやて。あんまり付き合うたらあかんで」
 健介の従兄弟の家が大阪市の生野区にある。従兄弟の家に行ったとき、周りにはボロ長屋が連なっているのを見たことがある。
「朝鮮部落を歩いたらあかんで」
 従兄弟の哲夫が注意したことを思い出した。生野区でも朝鮮人と親しくすることは避けているようだった。
 姜声培の一家は、その生野区の朝鮮部落から夜逃げして園田村に隠れているのかと思った。

 谷山健介が生まれたのは、瀬戸内海に面した広島県東部の田舎町、松永町であった。
 健介の家の裏には川が流れている。家並みを抜けると、入り川に沿って道が伸びており、松永小学校に通う道筋になっている。この道の両側には黒々とした塩田が広がっていた。田圃のように畦で仕切られた塩田では、日焼けした労務者が半身裸で熊手を引いて日没まで歩き回る。粘土質の土の上に撒かれた砂を熊手で掻きならすのである。熊手の後ろに続く条痕は円い幾何学模様を描き、新たな条痕で絶え間なく書き改められる。満潮時に海水の水位が上がると、この砂には、畦に沿って引きこまれた海水溝から海水がしみ込み、炎天下では水分が蒸発して海水が濃縮される。この砂を集めて塩水をかけ、塩を洗い出す。この濃縮された塩水は天保山にある精製工場に運ばれ、煮詰められて塩が製造されるのである。瀬戸内海沿岸の遠浅は、日本で有数の食塩生産地であった。
 家の道向こうの山には承天寺と萬福寺がある。この寺の境内やその近くにある墓地が子供たちの絶好の遊び場であった。健介の家から数軒川下に下ると、山側に長い石段がある。その石段の頂上が承天寺の境内である。遊び仲間の金平、康巳と健介の三人はその石段を駆け登る。金平が先頭を走り、康巳がすぐ後に続く。健介が息を切らせて登ったころは、金平は墓地の方に姿を消している。墓地の墓石は戦争ごっこの陣地になるし、この山はとんぼや蝉など、昆虫を採集するには事欠かない。網やとりもち竿で金平や康巳が取った昆虫を、健介が持っている虫篭に入れる。その篭を持つだけでも健介には楽しかった。

健介が園田村に転校してきてまもなく、昭和十八年四月十八日に連合艦隊司令長官、山本五十六(やまもといそろく)大将が戦死した。一式陸上攻撃機に乗り前線視察中に、米国の戦闘機の待ち伏せにあいソロモン諸島で撃墜されたのである。山本大将は、日本が最後の頼みとしていた名将であった。山本大将の戦死は国民に大きな衝撃を与え、日本国中が悲しみに包まれた。
「山本大将の戦死は、日本軍にとっては大きな痛手や。これからは、お前らが一丸となって天皇陛下の為に戦わなあかんのや。これから山本大将の霊を弔って黙祷する。そして、かならず自分が敵を撃ちますと誓うんや」
 室崎は目に涙を浮かべて黙祷した。健介は室崎の涙を見て頭を垂れながら、日本は大変なことになっていくのだと思った。
 山本大将は戦死によって元帥になった。山本元帥の戦死に留まらず、悪いニュースはさらに続くことになる。大本営は五月三十日にアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕したことを発表した。玉砕とは聞こえがいいが、要するに全滅したことだと母から教えられた。南方の前線に戦力を投入するために、大本営は北にあるアッツ島を見捨てたのであるが、国民にはそのような事情は知らされていない。壮烈な戦いで敵に大損害を与えての名誉の戦死と報道されたのである。
 教室でこれを伝える室崎の顔の皺が急に増えたような気がした。日本の兵隊が次々と戦死していく。これからの日本を支えるのは、健介たち小国民である。最後の一人になっても敵と戦わねばならぬと室崎は言う。
 地上転回も鉄棒もできない健介には、小国民として何をしたらいいのか見当もつかなかった。
 肉体的能力では劣っていたが、都会の子供は農村の子供より学力は優れているらしい。神戸では中くらいを上下していたのに、園田村では成績は上位に上がっていた。特に健介は読み方(国語)と理科が得意だった。
 昼休みに室崎教師の前で教科書を音読する。間違ったり、詰まったりするとそこまでで、次の者と交代する。続きは次の日になる。こうして音読の進度を競わせていた。
 ある日、健介の朗読が長く続いて、それまでトップであった飯村実を抜いた。
「よし、そこまで」
 まだ間違わずに続いている朗読を室崎が止めた。健介は不満そうに教科書を閉じた。席に帰るとき、飯村が健介を睨んだような気がした。これまでの一番が、新参者に簡単に抜かれたのが悔しかったのかも知れない。
 理科が得意な健介は、軍人ではなく、発明家になろうと思った。母は健介を医者にしたがっていた。医者なら徴兵から逃れることができるし、徴兵されても軍医だから最前線に立つことは少ない。医者か、発明家かどちらがええかのうと健介は迷った。
 次の体操の時間には、皆は砂場の前に並んだ。室崎の合図で最初の生徒が砂場に突進する。健介は走り幅跳びだと思っていた。跳躍ならかなり自信がある。
 砂場に飛び込んだ生徒の動きを見て健介は目を疑った。幅跳びの姿勢から生徒の身体は空中で一回転して砂場に着地していたのだ。これが空中転回であった。跳び箱の地上転回さえできないのに、どうして空中転回のような難しい事ができるだろうか。
 驚いたことに、大半の生徒が転回して綺麗に着地するのである。中には島崎をはじめとして回転が不足して尻餅をつくのも居るが、室崎はなんとも言わない。
 健介は一番最後に砂場に向かった。飛び上がる事が出来ずに砂場を走りぬけた。
「空中転回やぞ」
 室崎が怒鳴った。
 健介は竦んだ足を無理に動かせるようにして砂場に向かう。頭から落ちることだけは免れて背中から砂に落ちた。砂とはいえ、息が止まるような衝撃が背中を貫いた。
 地上転回すらできない健介にどうして空中転回のような危険な技ができるだろうか。頭から落ちたら大怪我をするに違いない。
 健介は空を見上げた。大きい雲からはじき出されたちぎれ雲が寂しそうに漂っている。その雲に母の顔が重なった。健介が大怪我をしたら母がどんなに悲しむだろうか。
「谷山、もう一回」
 健介は首を振って運動場に座り込んだ。どんなに叱られても、いま空中転回をしてはならないと思った。地上転回が出来るようになってから練習しようと決心していた。

(三)夏休み

 日本の一般家庭の食糧は底をついていた。配給されるのは玄米や麦飯ならまだ良いところである。稗か粟か、健介の知らない混ぜ物がはいった飯が出る。配給される米はすべて玄米であった。家庭では、玄米を一升瓶の空き瓶に入れて、瓶の口から木の棒を玄米の中に突っ込む。何時間もこれを続けて玄米を精米するのである。いくら空き瓶利用の精米方法でも綺麗な白米にはならない。この仕事をするのは健介の役目であった。精米の仕方が悪くて、米が白くならなければ父に叱られていた。母は家の前にある空き地を勝手に畠にして野菜を作ろうとしていた。
 夏休みに入る前に、岡山の山奥にいる伯母から手紙が来た。子供たちをつれて夏休みに遊びに来いというのである。岡山県の川上郡高山村(こうやまむら)にいるのは母の年が離れた長姉である。
 手紙には白米が食べられると書いてあった。田舎に行けば白米が食える。それは大きな魅力だ。母は、大阪の生野区にいる従兄弟の哲夫も連れて行くことにした。その間、父は会社の寮から会社に通うことになった。
 健介の申し出に、室崎は登校日の予定表を突きだした。
「これが返事や」
 夏休みには何回かの登校日があった。岡山県に長期滞在するためには、登校日に休まなければならない。
 健介は途方に暮れた。従兄弟の哲夫も、一級上の姉も休みをもらっているのに、健介だけ休みが取れなければ行くことは出来ない。自分が一人で家に居るわけにはいかない。
「家中でみんなが行くんですけど」
「田舎へ行って何すんねん?」
「山で体を鍛えます」
 咄嗟に出た言葉だった。
 ふん、と室崎は鼻を鳴らした。
「どんだけ鍛えられるか見ものやな」
 やっと許しが出て喜んだが、何気なく言った健介の言葉が、その後に健介を苦しめることになろうとは。
 伯母の家は中国山脈のど真ん中、高梁川のほとりにあった。岡山から列車を乗り換えて数時間、列車は川沿いに坂を登り続ける。備中高梁で下りて、今度はバスが更に山奥へ入っていく。
 周りを山に取り囲まれ、戦国時代の落ち武者が潜んでいるような秘境の村。そこにあるただひとつの旅館が伯母の家である。こんな秘境を訪れる旅行者はほとんど居ない。
 この村にも健介と同じ位の年頃の従兄弟がいた。伯母の弟、つまり健介の母の兄の子供で、名前を弘という。弘の案内で健介たちは山に登り、川で魚を掬い、夜は縄をなって藁草履を作った。
 山遊びや川遊びに飽きると、旅館の大広間に弘を呼んで三人で相撲をとった。農作業で鍛えた弘と、柔道を習っているという哲夫がいい勝負だった。健介は何度も投げつけられては、手足にあざを作る。
「そんなとこで相撲をとると畳が傷むがな」
 健介の母が苦情を言うと、
「まあ、元気な子供のことじゃ。気にせんでもええで」
 暴れまわる子供たちを眺めながら伯母は笑みを浮かべていた。伯母には子供が居なかった。
「哲夫や弘、みんなして健介を投げ飛ばしたらいけんど。健介は細い子じゃけえな」
 健介が投げ飛ばされるのを見て、伯母は心配そうに哲夫に言った。
「大丈夫じゃ。わしは学校では地上転回でも出来るんじゃけえ」
「ほう、地上転回たあ、どげなことをするんね。そこでやって見せてやれ」
 健介は困った。見栄をはって出来もしないことを言ってしまったのだ。
「いまは足が痛うて出来んがのう。学校では出来るんじゃ」
 伯母は健介の細い手と足を労わるように眺めた。
 弘と哲夫が居なくなったのを見届けて、健介は伯母の耳元で囁いた。
「ほんとうは、地上転回は出来んのじゃ」
「どうして出来もせんことを言うたんね」
 健介は投げられてすりむいた肘を見つめた。
「哲夫や弘には力では敵わんけえな」
「ええとこを見せようと思うたんじゃろう。哲夫がやって見せろ言うたらどうするんじゃ」
 哲夫と室崎の顔が重なった。
「わしは転回が出来んで毎日先生に怒られとるんじゃ」
 健介は学校での出来事や、毎日室崎に責められていることを伯母に打ち明けた。それを思うと涙が落ちそうになる。
「そんな危ない芸当は出来んでもええ。健介は兵隊にならんと、お母ちゃんが言うように医者になりゃあええんじゃ」
「そういうてもな、男は二十歳になったら徴兵検査を受けるんじゃ。伯母ちゃんは知らんのか」
「徴兵検査のう。知っとるとも」
 伯母は遠くを見るように目をあげた。
「甲種合格にならにゃあいけんのんじゃ」
「健介は、甲種合格にならん方がええ」
 伯母の厳しい目を健介は初めてみた。
「どうして」
「伯母ちゃんには、今は子供がおらんけどな。一人いた子が死んだからじゃ。徴兵検査で甲種合格してすぐに召集された。支那で戦って戦死じゃ。あの子が甲種合格にならなかったら死なずに済んだものを」
 健介は痛ましそうに伯母を見つめた。
「伯母ちゃん、今はみんなが兵隊にならにゃあいけん時代じゃ」
「そうじゃ、そりゃあわかっとる。弘や哲夫は甲種合格して兵隊に取られるじゃう。伯母ちゃんは、せめて健介だけでも残って欲しいんじゃ」
 伯母は健介の細い腕を掴んだ。
「細うても、力が弱わくてもええ。生きていなきゃあ何にもならん。死んじゃあつまらん」
 健介は伯母が掴んでいる自分の細い腕を見つめながら言葉を失った。
 健介には伯母の悲しみが伝わってきたような気がした。もし健介が戦死したら、母も同じように悲しむだろう。
 夜は弘の家に行って藁草履を作る。作業小屋には藁が山のように積んであった。その中から弘は一掴みの藁を取り出し筵に座った。足の指に藁を挟み両手を擂り合わせると縄が魔法のように伸びていく。健介も同じようにやってみたが、でこぼこの縄になってしまう。
「この縄が肝心なんじゃ」
 弘は自分が綯った縄を健介と哲夫に渡し、縄の弧を足の指にかけて間を藁で埋めていく。見る見るうちに草履が形作られていく。哲夫は余り興味が無いらしく、すぐに放り出したが、健介は園田村に帰ったら自分で作ってみようと思って熱心に習った。
 夏休みが終わり、高山村を去る日、伯母は涙を浮かべていた。
「伯母ちゃん、どうしたの? 皆が帰るけえ、寂しいの?」
 健介が訊ねると、伯母は涙を指で拭いた。
「そりゃあ、とっても寂しいよ」
 健介にとってこの高山村はとても楽しいところであった。健介は自分の家に帰りたいとは思わなかった。しかし夏休みが終われば帰らなくてはならない。帰ればまた二学期が始まる。憂鬱なことだった。健介も泣きたい気持ちだった。
「わしもここが好きじゃのう」
「どうじゃ。健介はここへ残って伯母ちゃんの子になるか。ここでご飯を沢山たべて丈夫になりゃええがのう」
 健介はそっと母を見た。母は笑いながら首を振った。谷山家の長男が、山の子になるわけにはいかない。

(四)くノ一

 残暑の厳しい日、朝の朝礼で気分が悪くなった。暑い中で立っていると気分が悪くなる。虚弱児によく見られる起立性血圧調節障害であるが、当時は気持ちがたるんでいるからだと見られていた。
「田舎で鍛えてきたんと違うんか」
 室崎が皮肉っぽく言った。健介を見る皆の目が妙によそよそしかった。
 午後の体操の時間は跳び箱の転回であった。
「谷山、やって見ろ。田舎で鍛えたんやろ」
「そうや。田舎で鍛えたんやろ」
 皆も室崎の口まねをする。健介は血の気が引いていくのを感じた。
 田舎で鍛えただって? ただ田舎でのんびり遊んできただけだ。地上転回の練習をしたわけではない。いきなり転回が出来るようになる筈はないのだ。
 何度も失敗して砂を噛む。
「よし、来週はどんなことをしてもやって貰う」
 室崎はそう宣告した。
 教室に入ると、室崎教師は一人一人に将来の志望を述べさせた。皆は異口同音に軍人になりますと答える。
 島崎が指名された。
「父のような軍人になります」
「島崎のお父さんは海軍中佐だったな」
 島崎は得意そうに皆を見回して坐った。
「僕は陸軍士官学校に行きます」
 飯村だった。飯村に続いて、成績の良い者は陸軍士官学校や海軍兵学校へ進学すると述べて室崎を喜ばせた。
 健介の番が来た。自分のこの体で軍人になると言えば嘲笑されるに決まっている。
「僕は大学へ行きます」
「なんやと?」
 室崎が血相を変えた。
「大学へ行って医者になります」
 室崎が机を叩いて立ち上がった。
「このご時世に大学へ行くやと? 貴様、それでも日本人か」
 健介は慌てた。思った通りを言ったのに、なぜ室崎が怒るのか。
「ぼ、僕も軍人になります」
「ふん、その体でどんな軍人になるんや」
 兵士として国の役に立たない健介は、室崎から見ればただの穀潰しかも知れない。
「お母ちゃん。わし、陸軍士官学校へ行けるじゃろうか」
 家に帰って、健介は母に尋ねた。
「どうして陸軍士官学校へ行くんじゃ」
「わし、今日、大学へ行く言うたらえらい叱られてしもうた」
「大学へ行くのがどうして悪いんじゃろうね」
「軍人にならんとあかんのや」
「健介が軍人になれる訳がなかろうが」
 母は笑って言うが、母が健介の苦衷を知るはずもなかった。健介は恨めしそうに母を見た。健介の細い体は母から受け継いだものだ。もっとがっちりした体格に生まれたらよかったのにと思う。
 昭和十八年九月の終わり頃、大本営は絶対国防圏を設定、現戦線から一歩後退した線に大量の陸軍兵力を投入した。この防衛戦で踏みとどまろうというのだ。なかでもマリアナ諸島は中部太平洋正面における絶対国防圏の要衝であった。
「絶対国防圏ができれば日本軍は必ず勝つ」
 室崎は誇らしげに言った。健介たちはこれで敵の侵攻を食い止めることができると信じていた。しかし現実には、激戦地である南東戦線への危急に応じるため、マリアナ方面への兵力投入は非常に遅れていたのである。しかも、その防衛線はあまりにも広く、一カ所に配備される兵力は稀薄にならざるを得なかった。戦況は健介たちが知らぬ間に着実に不利となっていった。
 ある日の下校時に、松原地区から通っている島崎に呼ばれた。花火を持って来いと言う。島崎は太り気味の体型で動作は鈍重である。したがって地上転回のできない一人であるが、どうしたことか室崎は島崎にはなにも言わないでいる。きっと島崎の父が軍人だからだと思った。
「どんな花火でもええんやな」
「そら花火やったらかまへんわ」
 健介は承知した。みかんの皮を乾燥させると勢い良く燃えることを知っていた。ぱちぱちとはじくように燃える。この皮を粉末にすれば花火が作れるのではないかと考えて、その粉末を保管していたのだ。
 粉末を和紙の紙縒りに包んで燃やしてみた。よく燃えるが花火ほど火花は散らなかった。しかしどんな花火でもいいのだから、これを島崎にやることにした。
 翌日、島崎の取り巻き連中は、それぞれもってきた花火を差し出した。
「なんや、これ」
 島崎は健介が渡した紙縒りを目の前に持ち上げて眺めた。
「手製の花火や」
 マッチで火をつけると紙縒りは勢いよく燃えた。
「なんや、燃えるだけやんか」
「そうや、花火みたいに燃えるやろ」
「あほう」
 島崎は健介の頭に拳骨を飛ばした。
「ほんまの花火を持って来い」
 本物の花火は買わなければならない。健介はそんな金を持っていなかったし、母に言っても買ってもらえる筈はなかった。
「あした持ってこいよ」
 島崎は別れ際にもう一度健介の頭をこづいた。
「お母ちゃん、花火を買って」
 健介は思い切って言ってみた。
「そんなもんはあかん」
 案の定、母は取り合ってくれない。健介は小遣いを貰っていないので、自分で自由になる金は持っていなかった。母の財布から盗む勇気はない。
「持ってきたか」
 登校すると島崎とその仲間が取り囲んだ。
「持ってきてない」
「なんでや。約束したやろ」
 約束なんかしてはいない。一方的に島崎が言っただけである。
「買うお金があらへんのや」
「貰うたらええやんか」
 健介の両親は小遣いをくれないことを説明しても無駄だった。
 島崎が殴った。それにつられてその仲間も健介を殴る。そばで、健介の家の真裏に住んでいる飯村実がにやにや笑っていた。

 その日は朝から気が重かった。胃の辺りがきりりと痛む。
 午後には体操の時間があり、跳び箱で転回をしなければならないからだ。雨を望んだのに無情にも空は晴れ間が広がってきた。雲の塊から追い出されたようにちぎれ雲が流れていた。
 生徒は次々に鮮やかな転回を決めていく。島崎や飯村は転回ができなかったが何も言われなかった。
「谷山、やってみろ」
 跳び箱についた手が曲がり、体を支えることができない。ほとんどの生徒は逆立ちで歩けるのに、健介は逆立ちで立つことすらできなかった。逆立ちができない腕力で跳び箱転回は無理だった。砂に顔を突っ込んで立ち上がると、
「田舎で鍛えたんと違うんか」
 室崎の声が飛ぶ。
 唇を切り、血に濡れたハンカチで口を押さえ、捻挫した足を引きずりながら帰った。
「どうしたんね」
 あまりにひどい健介の姿を見て母が驚いた。健介は跳び箱転回ができないことを話した。
「跳び箱転回ができんと飛行兵になれんのやて」
「健介は軍人にならんでもええ。医者になりゃあええんじゃ」
 母は涙ぐんで健介を抱きしめた。母に抱かれて照れくさかったが心が晴れていくような気がした。
 学校の帰りに島崎の一味が健介を取り囲む。
「ほんなら、一人一回ずつやで。花火もってこんかった罰や」
 島崎がまず健介の頬を張る。次々と交替する。健介の頬が腫れ上がった。飯村だけは加わらない。健介は救いを求めるように飯村を見た。飯村は歯茎をむき出して笑った。
「今日はこれくらいにしとこうか。続きはまた明日や」
 島崎が声をかけた。
 健介は唇を噛み締めながら、今に見ておれと心の中で言いつづけた。

 ある日、学校で取り巻かれたとき、走って学校から飛び出した。走る早さには自信がある。島崎は追いかけることを諦めた。家に逃げ帰ると、会社に行っている筈の父が居た。
「もう学校が終わったんか」
 父は当直明けで休みだったのだ。いじめられて逃げ帰ったとは言えない。やられたらやりかえせと言うに決まっている。一人を相手でも勝てないのに、多人数を相手に勝てるはずはない。そんなことをすればあとの報復が怖い。
「ちょっと忘れ物を取りに帰ったんや」
「そうか、そんなら丁度ええ。これを学校へ持っていけ」
 父が出したのは蛇が脱皮した抜け殻であった。庭で見つけたという。頭から尻尾まで揃っているのは珍しい。これを理科の標本室に置いて貰えという。健介は嫌な予感がした。これを持っていくと島崎一味に取り上げられるに決まっている。また、室崎教師が素直に受け取ってくれるかどうかわからなかった。重い足取りで教室に戻ると、蛇の抜け殻を見つけられた。
「ええもん、あるやないか。これ貰うで」
 島崎が抜け殻に手を伸ばした。
「これはあかん」
 手にとって隠そうとするといきなり島崎が抜け殻を引っ張った。抜け殻は真中からちぎれて健介と島崎の手に残った。頭から尻尾まで揃っているからこそ、学校の理科室に標本として保管する価値がある。ちぎれた抜け殻を島崎はそばにいた者に投げた。
「これ半分やるわ」
「ほんならこれは俺が貰うわ」
 健介が持っていた抜け殻も他の生徒に取り上げられた。
 健介はとぼとぼ歩いた。家に帰りたくなかった。抜け殻を取られたと言えばどれだけ父に叱られるか想像がつく。
「なに? ひとにやった?」
 父は血相を変えて健介を殴った。元来、父は気短であった。ちょっとしたことでいつも殴られている。だから父が出張で家を留守にするときは清々したものだった。
 健介は家から逃げ出した。日が落ち、明かりがつくようになっても帰らなかった。そっと家の様子を窺がう。父はまだ起きているようだった。周りの民家の窓には明かりがともっている。皆はあの明かりの下で団欒していることだろう。
 あんな蛇の抜け殻なんて無ければ良かったのだ。健介は自分の運命を呪った。父なんぞに、健介が学校で受けている仕打ちが理解できるもんかと思う。それを言えばまた叱られるだけだ。学校では皆にいじめられ、家に帰れば父に殴られる。
 健介は空を見上げた。空の星にはこんな苦労は無いだろうにと思うと、自然に涙が出てきた。人間は死ねばきっと星になるのだろう。自分も星になりたい。しかし星になってしまえばきっと母が悲しむに違いない。夜が更けて、母が開けてくれていた裏口からそっと忍びこんだ。
 健介をいじめるのは、松原地区から通学しているものが多かった。その中心は島崎だと思っていたが、じつは裏に住む飯村の指図であることがわかって健介は驚いた。裏であれば隣同士のようなものである。仲良くして当然だ。

 昼の休憩時間に、島崎の一派が校庭の片隅で健介を取り囲んだ。
「谷山は女みたいに細いなあ」
 島崎が健介の腕を掴んで言う。
「くノ一やで」
 誰かが言った。女という字を分解すると、ひら仮名のくという字と、一に片仮名のノになる。だから女忍者をくノ一という。
「男か女か調べたれ」
 言ったのは飯村だった。今までニヤニヤして見ているだけだったのに、いじめの指図をするのは初めてだった。
 島崎が後ろから羽交い締めにした。一人が健介のベルトを緩めた。
「やめろ」
 健介は大声をあげて暴れた。
 飯村が顎をしゃくった。
 ベルトを緩めたやつがズボンを引き下ろした。
「なんや。金玉持ってるやんか」
 飯村が笑い、それに従って皆が笑った。健介は怒りと屈辱で涙を浮かべながらズボンを引き上げた。
 飯村がいじめの主犯だったとは。
 飯村実の父親は戦車を作る会社に勤めている。飯村のお父さんは、新しい戦車を作っているのだと室崎が紹介した事がある。飯村は成績が良かった。だからこれまで級長を続け、悪い子の役割を演じることはなかったのだ。
 飯村は健介の家の裏に住んでいる。いわば隣人である。隣同士なら仲良くして当然なのにどうして健介をいじめるのか。
 松永では金平や康己は弱い健介をいじめることはなかった。健介が他の腕白にいじめられそうになったときには、いつも健介を守ってくれていたのだ。
 健介はどうしたら飯村一味に復讐できるか考えてみた。誰か強い者に頼んで飯村をやっつけて貰う。しかし、誰も健介の頼みを聞いてくれる者はいないだろう。担任の室崎教師に言っても、健介を兵隊になれない穀潰しと思っているのだ。勉強をして、成績で一番になることは、この村では何の価値もないことだった。貧弱な体格で勉強だけできれば、余計にいじめられるに違いない。
 健介は無口になり、外で遊ばなくなった。家に閉じこもって父の蔵書である文学全集を読みふけった。志賀直哉を読んでいるときに父に見つかった。
「勉強もせんと、そんなものを読んで馬鹿者」
 父に殴られた。それからは決して父にばれるようなへまはやらなかった。家にあった文学全集を全部読んだが、この時に小説を読んだことは、のちに健介を助けることになる。大学受験の時、国語の勉強をほとんどしなかったのに国語の成績が良かったのは、この時の読書の賜物であったのだろう。
 暗い毎日の健介であったが、ひとつだけ楽しいことがあった。それは模型飛行機作りである。学校では模型飛行機作りを奨励していた。飛行機を作ることで航空機に対する関心と、科学への興味を呼び起こす国策であった。資源不足の中、動力のゴム紐だけは比較的のちまで供給されていた。
 健介の作った模型飛行機は滞空時間が長かった。よほどうまく作らなければ三十秒以上の滞空時間は得られない。子供たちは森永乳業の空き地で飛行機飛ばしに興じていた。健介は流体力学を習ったことはなかったが、翼の角度をどうすればどんな飛び方になるかを自然に会得していた。模型飛行機に自信を得て、将来は戦闘機を作る技術者になろうかと思った。飯村が室崎に良く思われているのは、父親が戦車を作っているからだとすれば、健介は戦闘機を作ればいい。健介の細い体でも、技術者にはなれる。兵隊にならなくても、優秀な戦闘機を発明すれば国のお役に立つことが出来るではないか。
 戦局が悪化するにつれて、模型飛行機の動力であるゴム紐が手に入らなくなって、模型飛行機熱も下火となっていく。

(五)乱暴者

 姜声培は乱暴者だった。名前から朝鮮人であることはわかるが、鉢の開いた大きい頭に潰れたような鼻。そばに来られると身震いするような威圧感がある。農作業で鍛えた体は逞しく、腕は健介の倍の太さがある。勉強は出来ないが喧嘩にはめっぽう強かった。
 姜は昼の弁当を持ってこない事が多かった。そんなときには誰かの弁当を取り上げる。健介は彼に近づかないようにしていた。弁当を取り上げられたら大変だからだ。もし昼弁当を食べなかったらもっと痩せて弱くなるだろう。
 姜は自習時間にも騒ぎ立て、誰彼となく喧嘩を吹きかけて泣かしてしまうと思っていた。
 弁当を姜に取り上げられたり、泣かされた子は宇田雄三に言いつける。宇田も大柄な体型であるが抜群の運動神経を持っていた。走るのはクラスで一番早く、鉄棒、地上転回、空中転回も鮮やかであった。そして何よりも喧嘩に強い。姜と宇田の喧嘩が始まると皆は宇田を応援する。最後は姜が宇田に殴られ、大声を上げて泣く。それを見て皆は溜飲を下げる。健介は宇田に負けると分かっているのに、なぜ姜が喧嘩するのか不思議に思っていた。体格では宇田に劣らないのに何時も宇田に負けている。
 健介たちは軍馬の飼料にするために草刈りを命じられた。模型飛行機を飛ばす場所を探していたときに、丈の高い草が密生している場所を見たことがある。健介は麦刈用の鎌を買ってもらってそこへ出かけてみた。一メートルほどの葦に似た草原が一面に広がっていた。一人が一貫目を刈らなければならない。
 翌日刈り取った草の束を学校に持っていくと、健介の束が一番大きかった。秤にのせると二貫目近くあった。
「今日は谷山が一番やな」
 珍しく室崎が健介を褒めた。
 健介は室崎教師の心証をよくするために、走り回って皆の倍近くの草を刈ってきた。その時だけは室崎の機嫌が良かった。島崎等は健介に迫り草刈り場を聞き出した。皆に荒らされて草はたちまち無くなった。室崎の機嫌を損ねない為には、クラスで一番沢山の草を刈り続けなければならない。新たな草刈り場を求めて健介は歩き回った。
「おい」
 という声で健介は振り返った。三人の同じくらいの年頃の子供に取り囲まれていた。三人とも強そうだった。知らぬ間に他校区へ入り込んでいたのだ。
「園田第三の奴やな」
 一人が前に回った。逃げようとして振り向くと後にも回られていた。前の奴がいきなり殴りかかってきた。それを避けようとしたが、後ろから羽交い締めにされた。健介はうっかり他校区に迷い込んだことを後悔した。健介は相手の拳を頬に受けてよろめいた。その時、後ろから羽交い締めにしようとした奴が突然倒れた。前の奴も健介から離れて身構えた。
 姜声培が健介をかばうように仁王立ちになっていた。姜は油断なく三人に目を配りながら、手で健介に離れるように合図した。
 殴りかかった相手を手で防ぎ、相手の顔に姜の拳が飛んだ。横から繰り出してきた拳がしたたか姜の頬を打った。と同時に姜の足が相手の股間を蹴り上げている。激しい殴り合いが続いた。三対一の決闘を健介は呆然と見つめていた。早く逃げなければと思うのに、足がすくんで動けない。姜の一撃が残りの一人を倒した。三人は逃げ出した。
「姜君……」
 健介は震える声で言った。姜が押さえている鼻から血が流れ落ちた。健介は慌ててちり紙を出して姜に渡した。姜はそれを丸めて鼻に詰め込む。姜のただでさえ不気味な顔が、鬼のように凶悪な人相に見えた。
 三人の相手を叩き伏せた姜を見て、宇田雄三より強いのではないかと思った。それなのに学校で喧嘩しているときはいつも負けている。
「そんなに強いのに、どうして宇田君に負けるの?」
 健介は聞かずにはいられなかった。
 姜は厳しい目つきで健介を睨んだ。健介は殴られると思って肩をすくめた。ふっと姜の目に悲しみが走ったように思った。
「おれ、朝鮮やからな」
 自嘲するように言って姜は去っていった。姜の目に浮かんだ悲しみが、在日朝鮮人が背負っていた悲しみであることを当時の健介は気がつかなかった。
 健介はいつもいじめられているのは、自分が弱いからだと思っていた。人間は弱いものをいじめることで自分が優越感を感じるのではなかろうか。では、これほど強い姜声培がいつも宇田に負けているのはなぜか。宇田はそんなに強いのだろうか。

 ある日、姜と宇田の喧嘩が始まっていた。宇田が姜を壁に押しつけて殴っている。姜は殴られた顔を押さえて泣いている。宇田が更に殴ろうとして手を振り上げた。
「やめろ!」
 気がついた時、健介は宇田に体当たりをしていた。宇田は不意をつかれて尻餅をつき、机の角に頭をぶっつけた。姜は泣くのを忘れて健介を見た。
 事もあろうに宇田に攻撃を仕掛けたのである。なぜそんな事をしたのか自分でもわからない。健介は蒼白になって立ちすくんだ。宇田に叩きのめされる。足が震えた。
 宇田がゆっくりと立ち上がり健介に近づいた。姜が健介の横に立って守るように身構えた。宇田は不思議そうな表情をしただけで、健介のそばを通り抜けて教室を出ていった。姜がふーと息を吐いて構えを解いた。見ていた連中は健介に哀れむような視線を投げかけて去ってしまった。
 気がつくと教室には姜も居なくなっていた。飯村の子分にいじめられるだけでなく、これからは宇田にもいじめられることになるだろう。健介は目の前が真っ暗になった。なんであんな馬鹿なことをしたのか。クラスで一番弱い健介が、一番強い宇田に挑むなんて馬鹿げている。宇田にいじめられたら唯一の味方と思われる姜声培が守ってくれるだろうか。
 しかし、宇田はその後も健介には何の報復もしなかった。本当に強い男は、弱い者をいじめないのかと思った。あるいは、宇田が健介をいじめたら姜声培が黙っていないと思ったからか。姜声培が本気で戦えばきっと宇田に勝つだろう。正義の味方である宇田が姜声培に負けるとなれば、日本人が朝鮮人に負けることである。若し姜声培が宇田雄三を叩きのめしたなら、おそらく姜声培の一家は職を失い、園田村にも住む事が出来なくなるかもしれないのだ。
 姜声培が負けるのは、朝鮮人が日本人に勝つことが許されないからではないのか。姜が泣いているのは負けたからではなくて、勝つわけにはいかない悔しさからではないか。姜が他校区で健介を守ってくれた時の強さを知っている。今日も、宇田が健介を殴ろうとしたなら、姜はきっと健介を守って本気で戦って、宇田を倒したに違いない。健介は自分が姜君くらい強かったら、と思った。飯村や島崎にいじめられることはない。いじめられている者がおれば守ってやるのに。
 その後も宇田は健介をいじめることは無かった。また、島崎一味の露骨な暴力は影を潜めるようになった。健介をいじめると姜声培に報復されると思ったのかも知れない。

(六)島津先生

 麦刈りの季節になった。健介たち六年生は、農繁期には農村の手伝いに駆り出される。殆どの働き手の男子を戦場に取られた農村では、国民学校の生徒でも有力な働き手となる。
 健介は覚束ない手で麦を刈った。一面の麦畑は、虎刈りの頭のようにでこぼこに刈り取られていく。健介が担当した畝はどうしても取り残されてしまう。
 自分の畝を刈り終えた姜声培が反対側から刈り進んできた。
「左手の持ち方があかんのや」
 と言いながら、姜声培は大きな手で麦の株を掴み、鎌を引いて鮮やかに刈り取って見せた。
「まあ、お前には無理やろうけどな」
 麦刈りなど初めての健介に出来るはずはない。
「手を切らんように気をつけなあかんで。遅れた分は俺が手伝うたるからな」
 健介に声をかけて姜声培は自分の持ち場に戻っていった。姜声培の助けによって健介は持ち場の作業を終えることが出来てほっとした。農作業手伝いの魅力は、昼食時に白米の飯が食えることだ。毎日雑穀、麦まじりの飯や外米ばかり食べていた健介には、白米の握り飯は労働のきつさを忘れさせる魅力だった。農村では毎日こんな白米を食べているのか。道理で農村の子供の力が強い筈だ。
 刈り取られた畑の畝の間を歩いているときに、この畝に手をついて地上転回をすればうまく出来るかも知れないと思った。跳び箱転回は跳び箱の高さが気になるし、平地ではどうしても回転が不足して、うまく着地できない。その度に叱られている。健介ははずみをつけて畝に手をついて地上転回をしてみた。手の位置より低い畝の間にうまく着地できた。この感じだと思った。手をつき、足を蹴上げて体をひねるタイミングがわかった様な気がした。もう一度やってみた。うまく着地できた。これで運動場でもうまく出来るのではないか。跳び箱転回でもこの要領でやれば出来るだろうと思った。遠くから飯村が見ていたことには気がつかなかった。
 学童の体位向上の為に、昼食としてパンが支給されることになった。姜声培のように、貧しくて昼弁当を持ってこられない学童がいたからである。
 コッペパンが一つずつ配られた。皆は喜んで食べようとした。
「谷山は職員室まで来い」
 室崎教師に言われて、健介はパンを机においたまま職員室へ行った。何を叱られるのか健介には心当たりがない。麦刈りの速度が遅かったとしても、健介には農作業の経験がないので仕方がない。姜声培が手伝ってくれたおかげで、なんとか遅れずに終わらせている。
「農作業に行ったとき、仕事をさぼって逆立ちして遊んでたやろ」
 健介は意外に思った。逆立ちして遊んだ覚えはない。
「ちゃんと見てた者がおるんや」
 畑の畝を利用して、歩く途中に地上転回を二回しただけである。仕事をさぼったとはとんでもない言いがかりだ。しかし健介は言い訳をしなかった。しても無駄であることはわかっている。言い訳すればするほど状況が悪くなることは、これまでいやというほど思い知らされている。
 最近、室崎先生が苛立っていることは健介にもわかっていた。その原因は日本軍の劣勢にあるのだろう。しかし、なぜ健介にばかり当り散らすのだろうかと思った。健介の体が細いのは母に似たのだから仕方がない。ひ弱な健介が、軍人の学校に行かずに、大学へ行くことがそんなに悪いことだろうか。
 島津先生ならと健介は思った。こんなに健介をいじめることはなかったのに。健介は島津先生のことを思い出した。
 神戸の学校で、島津先生は三年と四年の時の担任教師であった。
 ひ弱な健介が体操の時間に跳び箱を飛び越えると、島津先生が褒めてくれた。
「谷山、よう飛んだな。えらいぞ」
 それが嬉しくて、健介は熱心に跳び箱の練習をし、跳び箱では一番になったのだ。島津先生はそれを認めて通知表の体操には優をつけてくれたのである。
 高羽小学校三年生の二学期が始まると、にわかに世間が慌ただしくなった。人々は新聞やラジオのニュースに神経を尖らせた。大人たちのそのような反応は健介にもおぼろげながら伝わってくる。アメリカと戦争になるらしいという噂が飛び交った。街角のあちこちに出征兵士を送る光景が見られるようになった。
 島津先生は、日本の野村大使がアメリカとの戦争を避けるために交渉に行っているが、なかなかうまく話は進まないだろうと言った。
「ほんとにアメリカと戦争するの?」
 健介が聞くと、先生はうーんと首をかしげるだけだった。
「どうしても戦争せなあかんのですか?」
 島津先生は顔をきりりと光らせて教室の皆を見回した。
「もし戦争が始まったら、僕も出征することになるやろう。そしたら、多分生きては帰れないと思う。だから今のうちにみんなに頼んでおきたいんや。君たちはまだ子供やからようわからんやろうが、いま日本は重大な状況に置かれている。君たちが大人になった時、何で日本がアメリカという大国と戦わねばならなかったかが問われる時がきっとくると思う。日本の将来は、君たちの肩にかかっているんや。これをよく考えてほしいんや」
 島津先生はここで眼鏡を外してハンカチで拭いた。
「アメリカと戦争して日本は勝てるんですか」
 健介が聞いた。世界地図でみる日本はアメリカに比べるとあまりにも小さすぎる。
 島津先生の言葉は苦しそうだった。
「アメリカは、飛行機や軍艦や大砲など、日本より兵器をはるかに沢山持っている。だから戦争になると大変なことや。しかしな。日本人には大和魂がある。兵器の数は少なくても、大和魂があれば十倍の力が出せる。何としてでも勝たなあかんのや」
 昭和十六年十二月八日、朝のラジオが慌ただしく臨時ニュースを伝えた。ついに日本とアメリカとの戦争が始まったのである。
 朝の朝礼で校長先生がこのことを話した。
「今日、日本はアメリカに宣戦布告しました。神国日本は必ず勝ちます」
 校長先生は、天皇が神であることを述べ、神の国である日本が必ず勝つことをくどくどと説明した。健介はこの天皇が神であるという言い方が嫌いであった。天皇は人間であって神ではない。そんな分かりきった嘘をなぜ大人がつくのか不思議でならなかった。
 三学期になって、島津先生に召集礼状が来た。健介はこの日のことを忘れることは出来ない。
 皆を校庭に集めて校長先生がそのことを伝え、
「我が高羽国民学校の名誉であります」
 と言った。島津先生は、校長先生が話している間じっとうつむいた侭であった。
 島津先生は壇上に立ち、
「日本国民の為に命をかけて戦って参ります」
 と一言だけ言った。健介は不思議な気がした。これまで、出征兵士を送る会での挨拶は、必ず「天皇陛下のために」と言うのに、島津先生は「日本国民のために」と言ったのだ。
 廊下で島津先生とすれ違った。
「先生」
 健介が声をかけた。
「おお、谷山か」
「先生、戦争に行っても死んだらあかんで」
 島津先生の顔が泣きそうに歪んだ。
「これから日本は大変なことになるやろ。日本の将来をしっかり頼むぞ」
 と言って立ち去ろうとした。島津先生は足を止めて振り返った。
「谷山、どんなことがあっても命を大切にせなあかんぞ」
 はい、とうなずきながら、そんなことを言っても、島津先生は死ぬつもりやと思って自然に涙が出てきた。あれから二年以上は経っている。
 もうみんなにいじめられるのは嫌だ。島津先生はどうしているだろうか。もう戦死しているかもしれない。島津先生に会いたい。島津先生、生きているなら早く帰ってきて助けてください。
 楽しかった松永での思い出が頭をよぎった。松永に帰りたい。裏のウミで蟹を釣ったり、承天寺の山で金平や康己と遊びたい。うつむいた健介の目から涙がこぼれ落ちた。
 教室に帰ってみると健介の机からパンは消えていた。
 
(七)帰郷

 昭和十九年に入ると戦局は日増しに深刻となっていった。空の要塞といわれていたアメリカ空軍の重爆撃機、B29がしばしば飛来するようになっていた。この重爆撃機は航続距離が長く、重装備で支那の奥地である成都から飛んでくるのである。六月十五日、北九州の八幡製鉄所が空爆によって多大の被害を受けた。
 日本がだんだんと劣勢になっている。いくら大本営が我が方の損害は若干なりと取り繕っても、健介には日本が勝っているという実感はなかった。
「絶対国防圏ができれば日本軍は必ず勝つ」
 と断言した室崎の言葉も今はむなしく思えてきた。
「日本は本当に勝っているんか」
 ある日母に聞いてみた。
「そんなことを口に出して言うたらいけん」
 母は辺りを見回し、声を潜めた。
「どうしてじゃ」
「ひとに聞かれたら大変じゃが。日本が負ける訳はなかろうが」
 母は声を潜めたままで言った。
 その言葉とは裏腹に、悪いニュースが続く。
 七月六日にサイパン島守備隊の玉砕が報じられた。健介は母に教えられて、玉砕とは全滅であることを知っていた。各地で玉砕ばかりとは日本は負けているのではないかと思った。大本営発表は相変わらず、我が方の損害は若干なりと言っているが、本当だろうかと思った。
 サイパン玉砕の日、戦争を指導していた東条内閣が退陣し、陸軍の小磯、海軍の米内両将軍の連立内閣が成立した。東条内閣の退陣は国民に事態の重大さを予測させたが、この段階になっても健介たちはまだ神風の力を信じさせられていた。最後は神風が吹いて日本が勝つというのである。
 金属類は兵器を作る原料として供出させられ、日常生活物資も窮乏していた。健介たちが習字の練習に使う紙は古新聞である。
「欲しがりません、勝つまでは」
 隣組の合言葉だった。男は国民服、女はモンペをはいていた。登校にはかならず防空頭巾を腰にぶら下げる。これを被っていれば、爆弾や機銃掃射の直撃は防げないが、破片による負傷は防げるという。母は健介用に特別分厚い防空頭巾を作ってくれた。人より並外れて大きい頭巾を健介は押し隠すように腰にぶら下げた。
 サイパン島を基地として、大阪や神戸の大都市に敵機が頻々と飛来している。防空訓練や消火訓練が連日のように行なわれ、実際に空襲警報が発令されるようになった。空襲警報が発令されるとすぐに、防空頭巾をかぶって防空壕に避難しなければならない。園田村近辺は地盤が低く、穴を掘るとすぐに地下水がわいてくる。毎日が防空壕の水汲み作業であった。
 昭和十九年十月には、マッカーサーが十万の大軍でフィリピンのレイテ島に進攻し、これを迎え撃つ日本軍は僅かに二万人に過ぎなかった。激戦の末、十二月二十五日のレイテ島決戦で日本軍が敗退して終結した。
 日本軍は最後の切り札とも言うべき攻撃方法を実行した。神風特攻隊である。

 昭和十九年の年末に、父が「健介は松永に帰れ」と言った。子供達を松永に帰すというのは、祖父からの強い要求があったからだ。
 大阪や神戸が空襲されるような状態では、その間にある園田村も安全とは言えない。既に大都市の学童は田舎に疎開するように勧告されていた。田舎に縁故の無い学童は集団疎開が行なわれていた。
 姉は神戸の県立高等女学校に通っていたので、祖父は谷山家の跡継ぎである健介だけでも早く田舎に帰すように言ってきていた。
 健介は松永に帰ると聞いて喜んだ。これで室崎先生や飯村や島崎等からいじめられることはなくなる。祖父は健介には優しかったし、金平や康己など、小さい頃から遊んでいた友達がいる。裏のウミ、承天寺の山。遊び場には事欠かない。
 年末に健介だけ先に松永に帰った。父も尾道の会社に変わるつもりだから、いずれはみんなが帰るということだった。
「健介、帰ってきたか。良かった、良かった」
 迎えた祖父は涙を浮かべて喜んだ。
 故郷の松永町は、戦争を忘れたように平和だった。松永国民学校では、跳び箱転回や空中転回などを無理にさせることはなかった。健介の顔に笑顔が戻った。
 松永町に帰って次の年、健介は旧制尾道中学を受験した。
 入学試験の当日、堀校長による面接試験があった。
「敵は日本の本土に迫り、本土決戦になるといわれておりますが、これをどう思いますか」
 難しい質問である。まさか日本が負けて本土に追い詰められているとは言えない。
「アメリカは国土が広く、兵隊、武器の数も日本に勝っております。これに勝つためには、敵を日本本土にひきつけて、起死回生の攻撃をかけて、一網打尽に撃破するのが得策だと思います」
 破れかぶれの回答だったのだが、堀校長は「ほう、ほう」と笑みを浮かべて何度も頷いた。健介はなんかの本で起死回生とか一網打尽という言葉を読んでいて良かったと思った。

(八)暑い日

 旧制尾道中学一年の八月十五日の昼下がり。じりじりと肌を焦がす炎熱であった。遊び疲れて家に帰ると異様な雰囲気に包まれていた。祖父の握りしめた拳が震えている。唇は固く結ばれ、その目が潤んでいた。
 祖父が泣いている。これは健介にとっては衝撃であった。
「おじいちゃん、どうしたんね」
 祖父に声をかけることがはばかられて、健介は側にいた母にそっと尋ねた。
「戦争に負けたんじゃ」
 母は耳元で囁いた。
「負けちゃあおらん。そげな馬鹿なことがあるか」
 祖父が吐き捨てるように言った。
 母は健介の袖をひっぱり、奥へ連れていった。
「今日、天皇様の放送があってな。戦争は終わったいうことなんじゃ」
「そんなら日本が勝ったんじゃろうが」
「いや、それがなあ」
 母は口ごもった。
「どうも負けたらしいんじゃ」
 昼に重大放送があるから国民は謹んで放送を聞くようにと通達が為されていたらしい。健介はそれを知らずに遊びに出ていたのである。
 日本が負けたと言われても実感は湧かなかった。
 中学一年の健介には、戦争が日本にとっては日に日に不利に展開していることは理解できていた。戦線は撤退につぐ撤退で、連日の本土空襲。先日も近くの都市、福山が大空襲で壊滅したばかりであった。広島や長崎には新型爆弾が投下された。
 健介は外へ出てみた。下駄職人の駒吉おじさんが向いの家から出てきた。真っ赤な目をしている。
「戦争に負けたというとったが、本当なんね?」
 健介の問いに駒吉おじさんは腕を組んで唸り声をあげた。
 午後の陽射しが健介の影を伸ばしている。軒下に何人かの群れができはじめた。
 隣の左官屋から大工の憲さんが日本刀を片手に飛び出してきた。
「日本はまだ負けちゃあおらんで。アメリカ兵がきたらわしが殺してやる」
 憲さんは日本刀を抜きはなった。
「危にゃあで。健介、はよう戻れ」
 母が軒下から手招きした。
 夕方になった。皆は悄然と立ちすくんでいた。
「アメリカがきたら、わしらあみんな殺されるんじゃ」
 憲さんは刀を放り出して声をあげて泣いた。日本が負ける。ありえないことだった。小学校三年の時に大東亜戦争が始まり、神国日本は必ず勝つと教えられた。戦局は劣勢のように見えても、いつかは神風が吹いて日本は勝つ。多くの日本人が信じて疑わなかったことだ。
 日暮れとともに道に立つ人の群れは疎らになった。
「これから日本はどうなるんじゃろう」
「さあ、わからん」
 祖父と、帰ってきた父とが話し合っていた。
「皆殺されるんじゃろうか」
 隣の憲さんはそう言っていた。鬼畜米英である。アメリカ人は鬼なのだ。その鬼に負けたのだ。皆殺しになるか、奴隷になるか。ただで済むとは思えない。
 夜、健介は祖父の蚊帳の中に寝ころんで母が言った言葉を考えていた。母は祖父や父ほど日本が負けたことを悲しんでいるようには見えなかった。
「お母ちゃんは負けてもどうも思わんのか」
「そりゃあ日本が負けたのは悔しいで。それでもな、このままあと何年も戦争が続いてみい。健介も兵隊にとられるじゃろうが。兵隊にとられりゃあ戦死する。日本が負けても戦争が終わりゃあ兵隊にとられることはありゃーせん。わしら大人は殺されても、まさか子どもまでアメリカは殺しゃーせんじゃろう」
 健介は蚊帳の中にぽつんと点っている裸電球をみつめた。電球の周りの覆い布はまだ残されている。戦争が終わればこの灯火管制も必要ないだろうと思った。
 アメリカは本当に父や母を殺すのだろうか? 日本の大人が皆殺されるのなら、このまま戦争を続けて一人でもアメリカ兵を殺すべきではないか。
 祖父が寝返りをした。
「おじいちゃん」
「何じゃ。寝られんのか」
「アメリカは大人を殺すんじゃろうか」
「そりゃあ無かろう。それなら降参はせんはずじゃ。日本人を殺さんいう約束があったけえ降参したんじゃ思うな」
 祖父の言葉は健介の心を軽くした。きっと祖父の考えが正しいに違いない。母は噂話を信じているだけなのだ。
「お父ちゃんもお母ちゃんも殺されることはないんじゃな」
「ない。健介は心配せんでええ」
 祖父はそっと健介の肩に手を置いた。頑丈な大きい手だった。
 とにかく、これからは空襲で殺されることも戦死することもなかろう。神風特攻隊にならなくて済むのだ。健介の心に浮かんだのはこのことだった。
 昭和十九年十月、まだ園田村に居たときだ。戦況の不利を打開するために、飛行機に爆弾を積み込んで敵艦に体当たりをする作戦がとられた。戦死した隊員は軍神としてあがめられ、攻撃隊は「神風特攻隊」と名付けられた。この攻撃こそ、日本が最後の望みとしていた神風となるようにつけられた名前であろう。
 その隊員の多くは予科練の出身であった。戦後、特攻隊員の数は五千人ほどと推定されているが実数は明らかではない。
 その日、室崎教師は黙って健介に新聞を突きつけた。
 それがどういう意味かわからなかった。健介にも将来は特攻隊になって死ねというのか。健介は特攻隊にもなれない屑だというのか。
 健介は首を振った。特攻隊で死にたくない。戦争にも行きたくない。いくらお国の為だといっても嫌だと思った。
 園田村での室崎教師の訓練は、この特攻隊への訓練だったのだろう。健介よりすこし年上の少年たちが、少年航空兵として特攻隊で戦死している。特攻隊にならずに済む。戦争に負けた悔しさより、特攻隊で死なずに済むという安堵感の方が正直な気持ちだった。
 健介は辛かった園田村での二年間を思い起こした。室崎教師はこの敗戦をどう思っているだろうか。飯村、島崎はどうしている? 宇田は? そして姜声培は?
 園田村の二年間は健介にとって何であったのか。

(九)再会

 終戦によって五年制の旧制中学は三年制の新設中学と三年制の新制高校とに再編成された。さらに昭和二十四年に地区制がとられ、松永駅から尾道や福山の高校に汽車通学していた高校生は、旧制松永高等女学校を母体とした新制松永高校に編入されることになった。従って健介の学歴では、中学校卒業ではなく、尾道高校併設中学終了となっている。
 昭和二十六年、新制松永高校から健介は京都大学の工学部を受験した。当時の制度として、医者になる医学部医学科に進むには、ひとまず理系の学部に入学し、教養課程の二年間を終了した時点であらためて医学科を受験する制度であったからである。医学科に進むには京都大学内からだけでも数倍の競争率の難関である。もし医学科に受からなくても工学部を卒業すれば就職しやすいだろうとの考えだった。
父は京都大学のような超難関大学ではなく、近くの岡山大学を受験するように勧めた。しかし健介は京都大学に拘った。東京大学と共に日本で最難関といわれる京都大学。東京大学は遠方で交通費がかかるので駄目と言われ、近くの京都大学に決めたのである。
 これまでの園田村の国民学校での生活を考えると健介には意地があった。日本で最高と思われる大学に入ることが、園田村で受けたいじめに対する仕返しになると考えたのだ。
入学試験が終わって門を出ようとした時、一人の受験生に出会った。お互いに顔を見つめ合う。飯村だった。ずるそうな目つきを健介は忘れてはいない。
「谷山か」
 飯村が怪訝そうな顔で言った。もはや飯村を恐れる必要はない。健介は胸を張って訊ねた。
「何学部を受けたんや」
「経済学部。君は?」
 飯村は自信のなさそうな声で答えた。あまり出来が良くなかったのかも知れない。
「わしは工学部から医学科に行くつもりじゃ。子供の頃から医者になる言うとったからのう」
 戦時中の園田村で大学へ行くと言って教師から叱られたことを思い出す。
 この男は、と健介は思った。もうわしをいじめることはできないのだ。ここは園田村ではないし、島崎やその子分達も居ない。飯村に復讐したいとか飯村を憎いと思う気持ちは消えていた。むしろ哀れに思う気持ちの方が強かった。きっと試験の出来が悪かったに違いない。
 ふと思いついて健介は尋ねてみた。
「姜声培はどうしてる?」
「ああ、あいつな。北朝鮮へ帰ったという話を聞いたけど、どうなったかは知らんな」
 姜声培は故国へ帰ったのか。北朝鮮の冬は厳しいだろう。それで彼が幸せになるかどうかはわからない。ただこれだけは確かだと思った。これからは喧嘩をしても、負ける必要はないのだ。
「あいつ、いまでも喧嘩してるだろうな」
 健介は呟いて京都大学の時計台を見上げた。父の失業で経済的に困窮しており、浪人は許されないただ一回きりの、しかも滑り止めなしの受験だった。再びこの時計台を眺めることが出来るだろうか。時計台の向こうの空には大きい雲が重なっているだけで、園田村でいつも見ていたちぎれ雲は見当たらなかった。
 その年、健介は工学部に合格し、その後念願どおり医学科に進んだ。飯村は翌年もその翌年も受験したらしいが、ついに京都大学の学生になることはなかった。

                      了

ちぎれ雲

執筆の狙い

作者 大丘 忍
p4666134-ipxg00k01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

子供のいじめがよく問題になりますが、これは戦時中の小学生のいじめを主題にしたもので、わたしの実体験です。戦争の経過は文献によって確認しておりますから、歴史小説ともいえるでしょう。

コメント

中小路昌宏
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 読みました。

 何度聞いても、当時の日本の指導者たちはバカなことしたものだと、思わざるを得ません。戦争の記憶を持つ人たちが年々少なくなってきている今、朝鮮半島や台湾で戦争が始まった場合に日本はどういう立場をとるのでしょう。

 日本がウクライナのような、或いは中東ガザ地区のような戦乱の地とならないように、何としても今の平和を守り抜く政策をとって貰いたいものだと、つくづく思います。

 

大丘 忍
p3807081-ipxg00a01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

中小路様。

私が中学生の頃、日本では軍事教練で竹槍の訓練をさせたのですからね。
天皇が神様だとまじめに信じさせようとしましたね。私は信じていませんでしたが。神風が吹いて日本が勝つと信じさせられました。私はそれも信じてはいませんでしたが。
飛行機に爆弾をたくさん積んで敵に突っ込むという作戦がとられました。これに「神風特攻隊」と名付けられましたが、神風とはこの特攻隊を意味していたのでしょうか。今から考えれば馬鹿なことをしたもんだと思います。

中小路昌宏
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大丘先生、次回私は≪リセット≫という題名で60年若返った人のお話を投稿する予定です。奇想天外な物語ですが、医学的見地から、間違った用語の使い方など、おかしいところが無いか、見て頂けませんか?

水無瀬るり
FL1-125-194-8-120.kng.mesh.ad.jp

とてもお久しぶりです。
驚きました。これが、大丘忍先生の小さい頃の原体験とは…。本当に読みたかったのはこれです。
はだしのゲンの正式なドイツ語版が2005年か2015年に東京大学駒場キャンパス駒場博物館美術館に出ていました。はだしのゲンは好きです。しかし、日本教職員組合によってつぶされました。そして、今度は維新政党に令和政党に共産党とそしてその頂点が立憲民主党と「うつけん」宇都宮健児こと全日本弁護士連合会会長で東京都都知事に出るという、それも何もかも競争社会だと言い、NHK教育テレビで1990年から一番ケ瀬一族と日本女子大学そしてお茶の水女子大学と千葉の女子大学とフェミニズムジェンダーそしてヘルパーは神様で日本一世界一とNHK総合テレビで雄たけびを上げている現状、その連中が有限会社や株式会社他NPOを総じて株式会社にして、近所でなじられて不安になっていた母を二度誘拐してもよりの町田警察だと言って怖いだろう、そして今年警視庁警視総監になったもともと警察庁生活安全局サイバー対策課長と警視庁副総監そしてその上の次長をして堂々とNHK総合テレビ他のマスコミを使って、「警視庁は信頼されなければならないと」言って、第一にサイバー空間での対応、と言って、警視庁の公式ホームページを見てみたら、botというものがあり、質問その他を書いてクリックしてくださいと書いてあったので、母が質屋で騙されたことを、敵である犯人が専門は社会学と金融つまり日本女子大学と津田塾とお茶の水女子大ということでそこから書いたら、スピーカーから警視庁本庁から、「なんだ民法だけではないか、公法全くできないではないか」「一人でパソコンの向かっているマニアなおたくな女だ」と言われたので、以前パソコンばかりに向かっている高学歴男性を「ネット病」とTBSとテレビ朝日で言っていたのでそれをbotに書いてクリックしたら、警視庁本庁からものすごいハッキングが来て、わたしはNECのノートパソコンですが、パソコンの前とパソコンの中に渦を巻いてインターネットが切られに切られました。協力してくれる人と協力してなんとか今足を大けがして全く歩けないのですが、なんとかインターネットを

水無瀬るり
FL1-125-194-8-120.kng.mesh.ad.jp

つづきです。なんとかインターネットをつないでもらいました。ところが、警視庁や警察庁はいったい以前の警視総監婦女子いっぱいの静岡県立静岡高校卒の大石が富士通に天下りしているので、まさか富士通の富岳を使って堂々と違法なハッキングとリナックスで嫌がらせの広告をたくさん束ねて三方向にぶつけてきて、困り切っています。PDFファイルで現在の警視総監緒方がはりきってNPOとかヘルパーを活躍させて、誘拐させている現状を切り捨てると豪語しています。令和三年警察庁の何とかで検索してください。
とにかく、医学部医学科の前は京都大学工学部の前身大学出身の機械工学専攻の大丘忍先生だからこそ解ける、この1999年以降、現在2024年に至るこの警視庁の闇とオウム真理教が桜美林学園他に仕切っている困った現状とその連中が警視庁の警察官として採用されている現在、これは明治大学や法政大学でも同じです。後で共産党や令和政党や立憲民主党に行ったもともとは自由民主党の革新と言われ北欧に行ったからハイカラだろうという伊藤公介とその息子伊藤なにがし現在東京都立川市長と現在の東京都知事の女性で話になりません。しかし、板垣退助の名文句を考えると自由民主党はだめになって悲しいです。共産党にやられるなんて佐々淳行やその子孫佐々木兄弟とその母親で桜美林学園の非常勤講師をしながらわたしの自宅を嗅ぎまわっているのと全く同じです。あと長野県族が著しい。政治と慶應義塾大学と私立付属学校と電磁電気諏訪里香短期大学を公立大学にして恐ろしいことしています。それでお茶の水女子大学や聖心女子大学や津田塾大学は特別としています。東京女子大学や短期大学部そして東京女子医科大学も同じです、北里大学も東海大学も同様です。
それに、参考の漫画を記しておきます。
https://www.pixiv.net/artworks/115623579
これ、婦女子用とタグが出ていますが、黒髪の男性が黄色と黒髪を半分にした青年よりも10何歳も上です。わたし実は隣の丁目に自宅を持っているその次男の黒髪の男性から声をかけられて話を長くしたことがあります。この、pixivの短編漫画、よく見ると大丘忍先生はわかるはずですが、黄色と黒色の年下の青年により、10歳以上年上の黒髪の主人公に対する強姦です。年上だから「受け身になっているのであり」かえって、年下の黄色と黒髪の青年はぞっとしていたので、なぜかと思ったら、ああ、そういうことか。内気な彼を馬鹿にするからとんでもない彼の憎しみの末の絵とわかり、最後のコマが太い黒い文字だけだとわかりました。つまり、東邦大学薬学部あたりとあと東邦大学医学部と東京大学医学部医学科卒で国家公務員になって刑事をしていても兄離れができない。そして、女性に対する卑下とそこ黒い憎しみが警視庁全部と町田警察署と交番派出所と東京都二十三区以外と東京都と周囲の神奈川県に渦巻いています。あと、今から10年前に父から結納と婚約をすると言われてわかったと言いました。まだ、その後彼とは会っていません。とはいえ、数年前から彼の家、建て直しています。地味になじみのある道と場所なので知っています。さて、その末の弟ですが警視庁組織犯罪対策部で暴力団対策他刑事していました。そのわりには、上に載せた、金髪と黒髪で二つに染め分けた青年の絵をかいています。
とにかく、いくつかのまず、頑張って京都帝国大学工学部の前身大学工学部に合格して卒業してから医学部医学科に進学して医師になって長いですね。共産党のゲバ騒ぎにも冷静に対応してきた歴史がありますね。それを考えるとやはり大丘忍先生しかないと思い、作品を探したら、あった。その末の弟、航空自衛隊のジェット機に乗って奈良県の吉野国定公園を悠然と飛んでいました。それで2年間、全く無視です。この間、警視庁警視総監は斎藤実じじい、静岡と精神医療が大好きで佐々淳行佐々木一族が全て女が大好きという大石、そして大阪と関西の最初の大学で全て決める小島、そして久留米大学付設の凶器狂気目を見るとおかしい、あと朝日新聞とテレビ朝日が大嫌い(ただし静岡の朝日テレビは日本人をなじり北朝鮮で医師や医療針きゅうマッサージの違法国家免許を持つ男女を勧めるので要注意です。関西も同じですか)とにかく、母が自治体や自治労のエゴイズムで勝手に法人株式会社などの法人を用いて、あと社会福祉法人を用いて任意保佐人制度では憎い、成年補佐人制度を利用して母が騙されています。法務省と厚生労働省の犯罪です。そしてそれらの代々の大臣の犯罪です。
今助けてもらっている人が実は東京大学工学部機械学科で法律の基本を東京大学法学部で学んでから国家一種の技術職生産工学で合格して採用されていますが、お互いに早くわたしの父に申し上げたように早く結納婚約して私の母を東京都町田市の自宅に取り戻して見事法律上結婚して無理のない人生をすっきりと送りたい、わたしの自宅の相続についてもおおよそ考えているので安心できて人生を全うしたいと考えています。父の言葉を大切に活かしたいのです。
久しぶりですが、このあたり、権田先生シリーズを書いたりして他にも共産党医師団医療関係者と地味に戦い地味に離れることのできた大丘忍先生だからこそ、わかる。本当に頭が痛い。前向きなアドバイスをお願いします。お兄さんの彼には電話番号を間接的に教えているのですが、その病的なホモのアメリカのDSM三の同性愛がひどく病的であるというそれに相当してそれ以上です。ぜひ前向きなアドバイスをお願いします。父は神奈川県相模原市の暴力団が介護タクシーをしていてそれで殺されています。町田警察署も母に濡れ衣をしてそれからわたしに濡れ義務をして暴力地域です。前向きなアドバイスをお願いします。

大丘 忍
p4613017-ipxg00k01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

水無瀬るり様。
 
 私が若かった昭和30年代、日本の学生運動はいろいろな試練を迎えていたと思います。私は当時寄宿舎におりましたが、学生運動はノンポリの立場を貫きました。それが学生運動の連中には妨げになったそうで、「あいつを味方陣営に引き入れろ。それができなければ少なくとも敵に回すな」ということでいろいろの工作がなされました。今から思え懐かしい思い出となっております。
 大学を卒業して医者になってからは、もっぱら医師の仕事に専念し、政治的な運動からは全く離れております。
 
 還暦ごろから小説を書き始めましたが、思い出すのは若かった頃の思い出で、それを題材にした小説が多く、当時を懐かしんでおります。

 90歳を過ぎ、小説書く元気もなくなり、今はパソコンを広げては当時を懐かしむ生活になっております。あとしばら、このような人生を楽しみたいと思っております。

水無瀬るり
FL1-125-194-8-120.kng.mesh.ad.jp

大丘忍先生、お返事ありがとうございます。
あまりにも変な気がずっとテレビのニュースを見ていると、学歴への妬みがどろどろしく70年をたってもずっと少しだけ形を変えながらも良くなろうと思わずに周囲の政治的運動や活動を最重視している女性たちや男性たちばかりで、恐怖とあと、妙な気がします。
なので、現在は体力を少しずつつけて、体力が少しついたら温かいシップを貼って、肌の手入れや自分の部屋の掃除をしながら天候とテレビのニュースを見るようにしています。一応、東京都の自宅に父や母と一緒に三人一緒に家族で帰ってきたのが奇しくも予約できた日が4月8日という、お釈迦様の日、浅草の観音様の浅草寺では花会式がありお釈迦様をお祭りしますね。不思議な日にそもそものふるさと東京都に(父は東京府東京市中野区の国鉄中野駅の東側です。北に行くと、父の父や母がデートとお参りに行った本家新井薬師があります。なので、父の地声はものすごく澄んでいてよく声が通るのです。静岡県では住友を定年退職してから現場指導で自宅で本音の声を聴いてぞっとしました。ただ、実の子どもの私に対しては声が通っても地味に話してくれます。あと、俺が生きている間によく覚えておけ、お母さんがわがまま言っても俺がきちんと言っていたとお母さんに言え、としっかりと覚えております。なお、朝日新聞とテレビ朝日の東京版でありました。1998年ごろに、遺言書を書かなくても、本人が生前に話した内容は本人の死後も法律上特に民法かな、公法でも法律上有効になったという記事とニュースを聞きました。つまり、手伝いとか他人や遠縁が勝手に遺言書を改ざんするという、私文書偽造、公文書偽造が思ったよりも多い現状を考えての対策ということです。それを、女性介護助手や看護婦社会福祉士や精神社会福祉士の国家資格を持つ、どすを聞かせる一番ケ瀬一族の女性や社会福祉士の男性や警察官を名乗る男女や特に町田市役所や警視庁本庁組織犯罪対策部暴力団対策課の職員国家公務員もいます、あと警視庁本庁他町田警察署交番派出所の生活安全部は後でインターネットで見たら、警察庁の公式PDFファイルに警察庁生活安全部サイバー犯罪生活対策なんとか部署や課長、今の警視庁警視総監福岡県出身久留米大学付設高校出身の多分いや絶対大丘忍先生はわかる、両目がおかしい、つまり神経科学的内科的におかしいです。マイナーな医学領域はなおさらわかります、怖すぎる)ということで、東京都の自宅に家族親子三人で帰ってきてから、警視庁本庁にしか相談ができないので、その時に時々対応してくれた少し年上の男性警察官どう見てもこの辺りは東京大学法学部出身の方ですね、に相談しています。もう一人地味な方もいます。前に話した知人の人は総務庁総務省を主に勤務しているので(一度自宅の前で電気電線関係を見てもらいました)、上が欲深く変わろうが地味に自宅の自分の部屋の掃除をして、残りの貯金を数えて、数日前に住民税免除のための書類を町田市役所に送っています。睡眠をしっかりととらなければいけませんね。
もうお年が90歳を迎えていたとは思ってもみませんでした。お返事を読んで、ああ、それだな、と東京大学駒場キャンパス教養学部の変な現状結局慶應義塾や慶應義塾大学や日本大学理系や中央大学法学部出身者に実際には同化して買収されてどうしようもないし、便秘がひどくなるので、水分やできるだけ留守番をして体力をためておこうと思います。とにかく、自宅を留守にはできないので、体力を少しでもためときます。ありがとうございます。インフルエンザが流行っているらしいので、お互いに熱を測って水分をしっかりとって、便秘にはくれぐれも気をつけて毎日を過ごしましょう。そのあたりについては大丘忍先生の方が専門なので、人生の先輩だなあとこの今は観ることがなかなか難しいと思っていた内容を読んで見つけて、地味に体力をためて水分を取ろうと思います。ありがとうございます。

金木犀
sp49-97-44-233.mse.spmode.ne.jp

 拝読しました。
 いや読み応えがありました。面白かったです。
 この作品を読んでふと脈絡もありませんが岐阜の高山で生物学者をしていた友人のことを思い出しました。
 おそらく大丘さんと同じくらいの年齢の方でした。その人は戦時中のことを振り返って「日本は負けるとおれは思っていた」と笑って言ってましたが、当時の風潮はそんなことを言える雰囲気ではとてもなかったのでしょうね。道無き道の山奥にある小屋の中で、その人は嬉しそうに好きな生物の話(残念ながら今では理解が刷新された情報も含まれていますが)を僕にしてくれました。
 なんと言ってもぼろぼろになったノート、ごった返す数えきれない標本の数々を背景に語るものですから、ただただ敬服しました。当時熱心に行っていた研究の軌跡を語る姿は、その当時の研究にかけた熱量そのものみたいでした。圧倒されたことを良く覚えています。

 この作品からも、そんな「人生の重み」を感じました。

 思い通りにいかない自分という人間とそんな狭間に揺れて織りなされる人間模様。
 人間ドラマ。
 いつの時代も変わらないものですよね。

 それぞれの人間がふと放つ陽炎のような思いや葛藤をどう描いて見せるかに小説の神髄があると思います。
 本来、大丘さんが見てきた景色、経験は、大丘さんの命の火が消えると同時に跡形もなくなるものでしょう。
 しかしこうした小説があることで、大丘さんがかつて感じた一部の記憶を、なにも知らない読者が追体験することになる。
 くしくも一部受け継がれていくものになる。
 不思議な感覚ですね。たとえ、それがわずかの間で、一瞬だけついた火のように消えたら忘れられていくのだとしても。
 生物はDNAによって知らず知らずのうちに次の生物に情報を伝達しますよね。
 本来全くなくなったように見えた情報をそうやって知らず知らずのうちに伝達するというのは生物本来の性とも言えると思います。小説はそうした生物が少しでも多くの情報を受け継ぐように発達したものなのかもしれません。

 我らは情報生命体。
 どうしてそんなものを受け継いでいるのかわからなくても、そうできている。そうなっている。

>>そのちぎれ雲の間に赤い飛行機が浮かんでいた。動きは遅く空中に止まっているようだ。伊丹飛行場から飛び立った、赤トンボと呼ばれる軍の複葉練習機である。あの中には健介より少し年上の若い練習生が乗っているのだろうかと思った。きっと地上転回や鉄棒は上手だったに違いない。自分はとても飛行機乗りにはなれないだろう。健介は自分の細い腕を見つめた。この腕で何ができる?

 ここ、印象的でした。
 大きな雲から離れていくちぎれ雲……は、僕はこの世界の広さと大きさの前で戸惑う主観を意味すると捉えました。
 人間は考える葦と言いますが、いつだって、人間一人一人は世界の前ではちっぽけです。ちっぽけだけど、いっちょまえにもそんな世界とじぶんの主観を天秤にかける厚かましさが一人一人の本能に備わっているように見えます。そんな天上天下唯我独尊で、じつのところちっぽけではかない主観は、赤の他人からすればなに考えているかわかりません。行動は見えても、心は読めない。こうなんじゃないか、と想像して類型化するくらいが関の山。じつのところそんな単純じゃないのに。
 そんなんじゃ、つまらない。
 わからないから、人は知りたがるわけで。赤の他人がなにを思っているのか知りたくなっちゃうという不思議を大事にしたいし、果てはそんな赤の他人が集ってできる社会で自分という主人公はどうすればよいのかと真剣に考えること。それこそが人生でありそういう本能だと。そういう欲望こそ人間の面白さなのだと感じました。

 たとえ苦しくやるせなくなってお先真っ暗でもがくだけの人生でも、思うがまま生き通してみようと改めてこの作品を読んでおもいました。

 執筆お疲れさまでした。
 

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