声に出して読んで欲しい作品二編
「潮騒~流氷が着く街で~」
一
海の碧を背景に、エゾスカシユリのオレンジが鮮やかに映える頃、羅臼昆布のかぎおろしが例年通り始まると、知床の短い夏もようやく活気付く。天然昆布漁はウニ漁と同じく、たったひとりで箱めがねを口にくわえ、足で櫂をあやつり、カギでひっかけて掬いあげる漁法だ。
「今年も良い出来だ」
初日の漁を終えた漁師仲間と共に、水崎裕一が潮騒で酒を呑む。いつもは午後二時に終う港の食堂は、短い夏のあいだだけ漁師の為にと開けていた。競り場から、せいろが干された細い路地を行った突き当たり。傾いた赤提灯は、昭和の時代から変わらない、優しい灯りをともしていた。
明日も朝一番には船を出すので控えるつもりでいたが、どういう訳だか酒を盛る手が止まらない。カウンターには、客達に酌をする進藤彩美が居た。
「裕ちゃん久しぶりだね~」
「あぁ、久しぶり。いつこっちに帰ったんだ」
幼なじみの彩美から酌を受けながら、自身の言葉に後悔し、一口でコップ酒を呷った。最果ての小さな町での噂は、一晩で流氷が辿り着くよりも速く、裕一の耳にも届いていた。
「誰も、知らんわけないべさ……」
彩美は一瞬、冷めた目で裕一を見た後に、そんなことはいいから飲みんさと、何も無かったかの体で空いたコップに酒を注いだ。
「もう、十五年ね」
高校卒業後、逃げるように羅臼を捨て札幌に出て行った初な娘は、見違えるほどあか抜けていた。
「裕ちゃんは結婚したの」
「あん、まだだ。こげな男に嫁さんなんかこねぇべ」
「あら、そうぉ」
くるんと丸まったまつ毛の奥の瞳が潤んでいる。子供を生んだとは思えないほど、体のラインは美しかった。
(やべえ、やべぇ)
知らずと、酒のペースが速くなる。
札幌での彩美の生活はよくは知らないが、十年ほど前に結婚し、子供が生まれたと、風の噂で聞いていた。出戻った彩美に連れ子はなかった。
「夏のあいだだけの雇われ店長、夜だけね。はい、裕ちゃんもう一杯」
「い、いや、もう止めとく。明日も早いべな」
掌でコップに蓋をすると、彩美は少し寂しそうな顔をした。
「ああ今度、泰三でも連れてくんべ、そんときまたゆっくりと」
場を取り繕おうと、つい泰三の名前を出してしまった。
「泰三……小林泰三……、泰ちゃんか、こっちにいるんだ」
「交番で、お巡りしとるよ」
「……そうなんだ」
一瞬、彩美の横顔が凍りついたのを裕一は見逃さなかった。
「そこの港派出所だ。俺と一緒でまだ独りもんだで、こんどゆっくりな」
「いいね! 楽しみ~」
はしゃいだ言葉の語尾が少しだけ震えたか、と裕一は思った。なぜだか彩美に、泰三を会わせてはいけない気がした。
「また、今度な」
外に出ると夜風が気持ち良かった。いつもの潮の香りがいとおしい。降って来そうな満天の星空に、下弦の月が輝いていた。
「エンヤヤレコノ ド~ットコセ~……かっ!」
疑念はすっかり忘れていた。
二
天然羅臼昆布漁は午前六時に一斉に始まり、終了は午前十一時までと決められている。正味五時間の内に、二回から三回ほど船を出し、ぶっ通しで昆布採りに集中する。終了とともに急いで帰り、洗いが終わると干しの工程に移る。三回ほど干す作業があり、それぞれ生昆布干し、湿り干し、日入れ干しと呼ぶ。生昆布干しとは字のごとく、採りたての生の状態の昆布を天日にあてて乾燥させる作業で、これにより昆布の旨味が一気に増す。次に湿り干しという作業が待っている。日中に天日干しされ乾いた昆布を、夕方、日が落ちてから干しなおす。一度乾いた昆布を夜露や霧に晒し、湿らせるという作業である。柔らかくしてから、巻き・のばしをした後に、最後の昆布干し作業となる日入れ干しに移る。これは二度目の天日干しで、湿らせた昆布をまた天日でカラカラに乾かすものである。
裕一は、子供の頃から祖父に連れられ漁に出た。父親は海で死んだ。代わりに育ててくれた祖父の背中が誇りだった。
八月迄の昆布漁が終わると、乾燥、ひれ刈り、選別などの手が掛かる作業は、家族総出でやっつける。十一月、市場の倉庫にも、白箱に納められた天然の羅臼昆布が高くそびえ立ち、正月用にと瞬く間に売れて行く。年が明けるとウニ漁が始まる。ウニ漁は一般に夏が旬のイメージがあるが、知床羅臼のウニは冬から初夏までである。流氷の間を縫って一月から始まる。贅沢にも知床羅臼昆布を食べて育った、最高級品といわれるエゾバフンウニだ。棘が短く、やや平べったいまんじゅう型の殻の形から名付けられた。濃厚なうま味が特徴で、利尻、礼文と共に道内での人気は群を抜いている。
「ちっ、今日もかい。これで三日目だ」
今にも一雨来そうな曇天を睨み付けながら、裕一が地団駄を踏む。
「おーい、裕一あぎらめろ。今日はこっちさ手伝えや」
「あん、今行くさ」
「おめんとこは、昔っから天日だからの」
「おう、いつもすまんのう」
「いいさ、持ちつ持たれつ。舫いじゃ、もやい!」
(ありがてぇこった)
裕一は仲間の底引船に乗り込んだ。
天日にこだわる裕一に、乾燥工程を機械に頼る漁師達は皆、一目置いていた。裕一の作る天日干し羅臼昆布は旨味が抜群に良い。価格は機械ものに比べ倍の高値で取引きされ、上等な客がつく。それに肖り、市場が活気付き、全体の相場が上昇するのだ。雨天で漁に出られない日は、漁師仲間の手伝いをして、日銭を稼がせて貰っていた。
底引き漁を一仕事終え漁港に向かう船の中で、漁師仲間の治夫から、妙な話を耳にした。
「裕一よおまえ、ここんとこ、潮騒さ入り浸ってるべ」
「いや、そんなこともねぇべさ」
「そうけ、いやな、彩美のことなんだがよ」
「ん、彩美がどうかしたか」
「ウトロに嫁さ行った妹の涼子から聞いたんだが」
「おぅ涼子ちゃんけ、懐かしいのぅ元気にしとるか」
「涼子は今、グランドホテルに勤めとるんじゃがな、先週そこで、彩美を見たと……」
羅臼からウトロ町へは路線バスが出ている。阿寒バス羅臼営業所を出発し、終点のウトロ温泉バスターミナル迄は約一時間の行程だ。羅臼温泉から羅臼湖を通過し峠を目指す。知床峠を越え知床自然センターを過ぎると、グランドホテル北こぶし迄は五十分程で着く。一般に言われる山コースであるが、それとは別に知床半島の海岸線を走る海コースもある。どちらも、知床夏観光の担い手だ。
「それがな、ホテルのロビーでな、男と一緒だったとさ」
「へぇ」
「涼子はフロントの拭き掃除をしながら見ていたそうだがな、ふたりして、エレベーターに乗って男の泊まる部屋に行ったらしいと」
「……そうなんだ」
「前の旦那かのぅ、彩美の顔つきからして、相当訳ありな感じがしたそうじゃ」
「…………」
「なんじゃお前、黙っちまって。彩美に惚れたんけ」
「バカこくでねぇよ、そんなことあるけ」
「札幌じゃ、けっこう派手な暮らしをしとったそうじゃがな。旦那はこれもんらしいがじゃ」
治夫は頬に当てた指先を、すっと下に落とした。
「あまり、関わらんほうがええぞ」
「そんなんじゃねえ!」
治夫の首を抱え、軽く捻る。
「おう、おう悪かった。勘弁してけろ」
「はははぁ、わかったけ」
裕一は笑って腕を解きながら、前方に迫る漁港を見詰めた。
「潮騒……」
どういう訳だか、あの日の彩美の表情が目に浮かぶ。横殴りの雨は、夜半過ぎまで止まなかった。
三
翌日からは晴れ日が続いた。
「こうでなくちゃいかん」
裕一は、今までの収穫の遅れを取り戻そうと漁に精をだす。治夫の話を聞いた後、潮騒からは足が遠退いていた。
午後の照りつける日差しの中、ひとり乾いた昆布を倉庫に納めていると、港の方から、麦わら帽子を被り、白地のワンピースを着た女が歩いて来るのが見えた。
(彩美じゃないか……)
穏やかな潮風に、後ろ髪が緩やかになびいていた。ヒール高いサンダルの、紐を結んだ足首はキュッと引き締まり、サワサワとワンピースの裾が風に踊ると、ときおり膝頭が顔をのぞかせる。ノースリーブの肩からのびるしなやかな腕。白く艶やかな顔肌は、遠目からでもきらきらと輝いていた。
暫く裕一は、仕事の手を止め彼女を見詰めた。見詰めると言うよりは、見惚れていた。
(俺に用事か……)
目が合うと彩美は、裕一を凝視したまま少し歩幅を広げ、早歩きで砂利道を一直線にこちらに向かって来た。彩美のむくれ顔に気付いた裕一は、ハッとして空を仰ぐ。ジリジリと照りつける日差しのせいか、額から垂れ落ちた汗が目に染みる。慌てて瞼を閉じ、首のタオルで汗を拭っていると、抑揚の無い低い声で、「裕ちゃん」と背中に声を掛けられた。片目にタオルを当てたままチラと見る。
「おぉ、彩美か……」
頬を膨らませ、咎めるような視線を投げる彩美と目が合うと、無意識に裕一は、地面に顔を逸らした。額の汗が止まらない。ふと渇いた砂に巣食う、蟻地獄が見えた気がした。
(勘弁してけろや……)
裕一は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
『思えばあの人の、素朴な優しさ、温かさにすがっていたのかも知れません』
「裕ちゃんあんた、何か聞いたんでしょう」
顔を上げると、仁王立ちの彩美がそこにいた。
「あること、ないこと聞かされて、だから潮騒に来てくれないのよね」
裕一は、彩美の剣幕に圧倒され一歩たじろいだ。
「どうなのよ」
「は、治夫からは何も聞いてねえよ。……あっ!」
慌てて両手で口をふさいだ。
「ぷっ……ハハッ」
しまったという顔をする裕一に、彩美は思わず吹き出してしまった。
「ハハッハハハ……」
「そんなに、笑うことねぇべや」
彩美はひとしきり笑った後に、
「なんだか、怒ってたこと忘れちゃったよ。何を聞いたかなんてどうでもいいわ」
遠くを見つめ呟いた。
根室海峡の先には、蒼天を背にした国後島の爺爺《ちゃちゃ》岳が、いつになく鮮やかに見えていた。
「とにかく、今夜は店に来てちょうだいね」
「あ、あぁ、わかったよ。湿り干しさ終わったら寄らせてもらうべ」
「うん、ありがとう。待ってるよ」
彩美の上目遣いの頬に、少し赤みが差していた。
(なんも、心配する事ないべさ)
午後の作業は、思いのほか捗った。
四
『凍えるほどの寒さと云うものは、温度計で計るものとはまた、違った意味をもつのだと、札幌の地で思い知らされたのです』
「遅くなった。もう終いか」
裕一が、すまなそうにのれんをくぐると、
「いらっしゃい。大丈夫よ」
彩美はにこっと笑顔を向けた。
「ここに、かけて」
見るとカウンターには、コップとお通しが用意されている。
「裕ちゃんお疲れ様。はい、どうぞ」
「あつあつだのう、ありがとう」
手渡されたおしぼりを広げ、パンパンと軽くはたいた後、おもむろに顔を拭う。
「今日はごめんね、おしかけたりして」
ビールをつぎながら彩美が舌を出す。
「あぁええよ、気にしとらん」
「出戻り女の噂話。尾ひれがいっぱい付いちゃったみたい」
彩美はそう言った後、邪念を払うかのように首を左右に振り笑い掛けた。
「お詫びに今日は私のおごり。どんどんやってちょうだいね」
ぽーんぽーん……
座敷に掛かった古びた手巻きの柱時計が、優しく棒鈴《ぼうりん》を鳴らした。午後八時、港の夜は退けるのが早い。店内に二人きりだと気が付くと、裕一は少し緊張した。
「おごりだなんて気を遣わんでもいいよ。俺だってすまんかったと思ってる」
「ううん、今日は私に。一緒に飲みたい気分なの」
昔話に花が咲き、暫くは楽しいひとときが過ぎて行った。彩美も裕一もよく喋り、よく笑った。
「彩美んとこの父ちゃんと母ちゃん、この前、道の駅で見かけたが、二人とも仲がええのう」
両親の話が出た途端、彩美は真顔になった。
「うちの親ね、赦してくれんのよ」
「んっ」
「離婚を、失敗としてしか見てくれないのね。……身内ほど真実を容赦なく追求する、あの厳しさ」
裕一はコップを置き、静かに聞いた。
「ふとしたことで意見や価値観の違いを感じてしまう。あっ、ごめんね。こんな話、裕ちゃんにしか聞いて貰えないのよ」
「いやいいさ、はきだしちまえば」
「ありがとう。ふふ、今まで勝手してきた罰ね。いちど戸籍を離れてしまったもの同士は、肉親といえども思い知ったよ」
「いろいろ、辛かったんだな」
「出戻りか……」
裕一に注いでいたビールの先が、傾けたコップの縁をカチカチと鳴らした。こぼれ出た泡が煤けたカウンターにぽたりと丸い染みをつくる。
見ると、彩美は泣いていた。
『本当は離婚したからといって実家に戻るのではなく、新しい生活を築くのが一番よい方法なのでしょうが』
「なして、我慢出来なかったんだろう、ばかだよねぇ。子供をとられたあげく、男にも捨てられてさ」
「生きてりゃいろいろあるべ、悪いことばかりではねえっしょ」
「ふふ、優しいんだね」
彩美の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そっちへ行っていい?」
彩美はゆっくりと裕一の隣に座った。
裕一は黙って彩美に酌をする。
彩美は背中を向け、人差し指で涙を掬いながら、
「この前ね、グランドホテルに行って来たの」
と、静かに話し始めた。
(あの日の治夫の話か……)
裕一は煙草に火をつける。
「着の身着のままこっちに来ちゃったもんだから、別れた亭主が私の荷物を持ってきてくれたのよ」
「そうだったんけ」
「それと最後に、娘に会わせてくれた」
「そうか……」
煙草の煙をゆっくり吐き出す。
「亭主はね、強面だけど仕事一筋の真面目な人だった。泰ちゃんと一緒で警察官」
「えっ」
泰三の話をした時の表情を思い出した。噂話に尾ひれがついたか、と裕一は思った。
「別れた理由は、私の浮気なの」
「…………」
吸いかけの煙草をもみ消し、手酌で自分のコップにビールを注いだ。
「悪いのは私。すべて、わたしのせい……」
『ふと、羅臼の懐かしい海が目に浮かび、気が付くと夜行バスに飛び乗っていたのです』
「私も仕事をしていて、いつの間にやらすれ違いの夫婦生活。寂しかったのね」
「子供はどうしてたんだい」
「義理の両親がみていてくれてた。住まいは亭主の実家なのよ。お義母さんともうまくいかなくて、魔が差したのね。相手は私の仕事先の上司、三つ年上のね」
「男の方から誘ったのか?」
「どうだったろう、……私が夢中になってしまったのかな。同じ気持ちでいると、勘違いをしてしまった」
「その男とも、別れたのけ」
「家族に知られた途端に、なしのつぶて。……奧さんが、強い人でね」
「まだ、忘れられんのか」
裕一はビールを呷った後、天井を見上げたまま、ボソッと尋ねた。
「…………」
彩美はその問いには答えず、煙草に火を点け深く吸い込んでから、細い煙の行方を目で追うかのようにゆっくりとはき出す。
「この話はもうやめにしよ。こんなしめぼったい話をするつもりはなかったの」
視線を落とし、ため息まじりに呟いた。
「おぅ、わかった。終いにしよう」
「それより裕ちゃん今度、羅臼湖に連れてってくれない」
『ふるさとは遠きにありて思ふものとは、よく云ったものでございますね』
「あぁええよ。いつにする」
「嬉しい! そうねぇ、いつにしようかしら」
頬を伝った涙の跡を拭いながら、上目遣いで微笑んだ。
「でも裕ちゃん、八月中は漁で忙しいでしょ」
「そうだな」
「じゃあ九月だね。都合のよい日を教えて、裕ちゃんに合わせるよ」
彩美はたおやかに笑ってみせた。
『羅臼湖の初夏の湿地を彩るミズバショウやワタスゲ、冬に降り積もる雪の重みで地を這うように、クネクネとうねりながら広がるダケカンバやハイマツは、秋の紅葉ではしっとりと色付いて』
「わかったよ。なんだか明日からもまた、頑張れそうだ」
「ありがとう」
ぽーんぽーん……
彩美が座敷に視線を移す。裕一は心の中で静かに棒鈴の数をかぞえた。
「もうこんな時間か……」
十回鳴った鐘の音が、裕一の張りつめていた胸懐を解いた気がした。
彩美の肩を抱き、優しく引き寄せる。
潤んだ瞳に吸い込まれるかのように裕一は、そっと唇を重ねた。
五
九月も十日を過ぎると、高い空を鱗雲が覆うようになり、時折ひんやりとした風が吹く。すでに大雪山には例年より早い初雪が舞った。
「ほれ、ぬかるみがあるから」
後ろを歩く彩美に裕一が左手を伸ばす。足下にはダケカンバの黄色く色づいた葉が落ち、見渡す景色の彩りからも、秋が近づいてきたことを感じる。
「うん、ありがとう」
彩美はしっかりと右手で掴んだ。
「着いたぞ、三の沼だ。今日は羅臼岳が見えとる」
「ほんとだきれいねぇ、涙が出そうなほどに」
知床の秘境といわれる三の沼にもそのうち、紅《いろ》に染まった羅臼岳が映ることになる。
標高七百メートル以上の雲上に位置する羅臼湖はといえば、エゾリンドウが点々と咲く中を、遊歩道ではすでに草紅葉が見頃を迎えていた。
知床は、秋本番へと着実に足を進めている。
「裕ちゃん今日はありがとね」
「いや、もうちっと早く来たかったんだけどな。仕事が溜まっちまって、すまんかった」
「ううん、嬉しいよ」
彩美は笑いながら、両手で掴んだ裕一の腕に胸元をぎゅうと押し付けた。
(おいおい……)
「今日はちと、あれだな、蒸し暑いかの」
裕一が顔を赤らめ呟く。
彩美は聞こえていないかのように、すれ違う観光客に挨拶をしながら裕一に歩調を合わせた。
あの夜からふたりは、深い仲になっていた。
『理由ですか。苦しみから逃れるため、過去を忘れたかったから、確かに最初はそうだったのかも知れませんね』
「裕ちゃん焼けたね、昆布の収穫はどうだったの」
ベンチに座ると、半袖から伸びる浅黒い腕に体を預けながら彩美が尋ねた。
「例年通りかの」
「それは良かったね。今年は雨が続いたから、ちょっと心配してたんだ」
「おぉありがとな。それよりも、ひねものの根昆布が片付いてくれたのにはほっとしとるよ。倉庫が空いて作業が捗っとる」
「ひねものって、去年の残りでしょ」
「残りものではないよ、それなりに需要がある。袋詰めにして、一年かけて売んのさ、結構手間のかかる作業での。そいつがな、七月の終り頃にまとめて買われてさ」
「どうりで、それで裕ちゃん羽振りがよかったのね。八月は一日置きにお店に来てくれてたもんね」
「い、いや。会いたかったからさ」
「裕ちゃん……」
「……今日はこれからウトロさ下りて、旅館に泊まるべ、明日は海岸線さ走ってさ」
「いいねぇ。あーっ、でも裕ちゃん」
「なによ」
「日帰りのつもりで、明日着る服がないよ」
「そりゃ、どっかに寄って買えばいいだけのはなしさ、俺が出してやる」
「裕ちゃん、いいの」
「あぁ、ええよ。実はの、その客から予約注文も受けての。また根昆布が欲しいとさ、それと一緒に赤葉も買うとさ」
「あかはってなぁに」
「赤葉昆布と言っての。日入れ干しが終わった後にひれ刈り、ほれ、昆布をハサミで整形するじゃろ、その時に出る半端もんじゃ。だしとりで使われる。だいぶ値を叩かれたがの」
「凄いじゃない。昆布は捨てるところがないのね。さすがに天日干しは人気がある!」
「ばか言うでないよ。俺がつくるからさ」
「はいはい、そうでした。ふふっ」
「はっはー。そうだ彩美、潮騒の仕事も終わったじゃろ。なら今度、ひれ刈りを手伝ってくれんかのぅ。婆っちゃんの目がよう見えんようになっての、人手が足らん」
「えっ、裕ちゃん……いいの?」
「ああ、しっかり教えるから」
「ううん、違う……」
彩美は真顔で返した。
裕一は、彼女の不安げな瞳の奥に微かな眩耀を見た。何かを確かめたいという思いが込められている。
「……わたしで、いいの?」
「あぁ」
南西から差す陽がキラキラと水面を照らし、彩美の頬をほんのり秋色に染めた。
『あの人が教えてくれた故郷の温もり、知らずと気が付いたらそこにおりました。暖かくて、嬉しくて、ただ幸せで』
夕食後、温泉でひと風呂浴び部屋に戻ると、床《とこ》の準備が出来ていた。一足早く戻った彩美が、テーブルでビールの支度をして待っている。
「いいお風呂だったね」
「おお、でも今夜は、ちぃとばかり冷えるのぅ」
「そぅ、出たばかりだっていうのに寒がりね」
笑いながら裕一のコップにビールを傾ける。
「この時期寒いと、今期は暖冬かも知れん。流氷も遅れるべな」
裕一は、広縁の籐椅子にゆっくり腰を下ろすと目を瞑り、窓越しから微かに届く、忍び音のような潮騒の響きを虚心に聴いた。
「そういうもんなんだ……」
彩美もまた目を閉じ、鈍色に耀く極寒の海に想いを馳せる。
「でも流氷が来たら、知床羅臼にほんとの冬が訪れるね」
「あぁ、そしたら、本格的にウニ漁が始まる」
「……ねぇ裕ちゃん」
「ん、なんだ」
「流氷が着いたら海岸で火を焚いて、裕ちゃんと一晩中、ずっと見ていたいなぁ」
「ばかこくでねぇ、こごえちまうべや」
「もぅ、漁師のくせに寒がりで」
「…………」
注がれたビールを一口で呷った。
「ふふっ、裕ちゃんこっち来て」
「なんさ」
「……暖めてあげる」
六
「裕ちゃんとこにお邪魔するのは小学校以来ね。わたしに、出来るかしら」
昆布倉庫の前に立ち、彩美は少し不安な顔で裕一に尋ねる。
「大丈夫だよ」
「……うん」
裕一の日焼け顔からこぼれる白い歯が、なんだかやたらと頼もしく思えた。
「昆布の見栄えを良くする為に、形を整えていくのさ」
言いながら裕一は、二畳程ある鉄製の引き戸を両手でガラガラと開けた。
「こんなにたくさん出るんだ!」
彩美は、倉庫の隅にうず高く積まれた赤葉の山に驚きの声を上げる。
「あれ、誰かいるね」
昆布山の横でダンボール詰めをしている老婆が、目を細め、怪訝な表情でふたりを見ているのに気が付いた。
「ふふっ」
視線はこちらにあるのに、手は休めず、せっせと作業を続ける姿に愛嬌がある。
「婆っちゃんだ」
裕一は彩美の手をひき老婆の側まで行くと、耳元に少し大きめな声で、
「ひれ刈りをしてくれる進藤 彩美さんじゃ、よう教えてやってけろ」
と、彼女を紹介した。
「んっなに、裕一よ、嫁っこさ連れてきたのけ」
「何を、違うよ婆っちゃん、幼なじみの彩美だよ。今日は仕事を手伝ってくれるのよ」
「進藤とこの彩美です。お婆ちゃんお久しぶり」
きょとんとする老婆に、少し照れた様子で優しく話しかけた。
――――‐…
「昆布の頭から尾までの、両側全体についてる実の薄い箇所、ヒレのように見えるじゃろ、ここを耳と言うんじゃが、これをハサミで切り落としていくんじゃ」
「こうですか……」
「おうそうじゃ、あんた筋がええのう。嫁っこさ来たらええのに、ワシが手取り足取り教えちゃる」
「婆っちゃん、まだそれを言うか」
裕一が彩美に目をやり苦笑いをすると、彩美は口に掌を置き、プフッと笑顔で返した。
「何を呑気に……」
「えっ」
裕一が驚いた様子で振り返る。
「いいかい、このひれ刈り作業の良し悪しで、製品の等級にも大きな違いが出てくるのさ。ベテラン昆布漁師でも、この作業は慎重に行うんだよ!」
「おお、母さん。いつ入ってきたのさ、気が付かんかった。……ほれ、彩美じゃ、知っとるじゃろ」
「お、おばちゃん、ご無沙汰しています」
彩美は立ち上がると、無表情でそっぽを向く母親に、緊張しながら挨拶をした。
「あぁ、知子ちゃんからは聞いてるわ。戻ったんだってね」
母親はチラと見、嫌み混じりに含みを持たせながら、彩美の母の名を口にした。
「ま、まぁ、そんなことはええから」
咄嗟に裕一は、下を向いたまま肩を震わす彩美の前に割って入る。母親は裕一の肩越しにうつ向く彩美に目をやり、ふんと鼻を鳴らしきびすを返すと、そのまま倉庫の出口に向かった。
「おばちゃん、わたしのこと嫌いみたい」
「いんや……」
消沈する彩美に、出口を見ながら老婆がボソリ言う。
「そんなこともねえべさ」
グオオオオ……
突然倉庫の高い屋根から低い音が鳴り響いた。見ると、換気の為の大きな扇《せん》が回り始めている。
「ファンも回さんで、こんじゃ熱中症になっちまうよっ!」
母親はそう言い放つとスイッチから手を離した。
「ほらな、浜っ娘は言葉が足りんと、しょうがねぇ」
老婆は皺だらけの顔を、よりいっそうしわくちゃにして笑った。
「ばあちゃん聞こえてるよっ! まったく。出荷までの日取りに先が詰まってるんだ、のんびりやられたらたまったもんじゃないよ……」
母親は他にも何やらぶつぶつ言うと、そそくさと倉庫から出て行った。
「ハハハッ、ああは言っても彩美さん。あんたをあてにしとるんじゃよ」
「えっ……」
「作業はもちろん速さが大事。が、それ以上に正確さも大切だ、焦ることはねえべさ」
「お婆ちゃん……」
彩美はほっとし、泣き笑いしながら裕一の太い腕を掴んだ。
「赤葉のダシ昆布は、大量に使う飲食店などでは重宝されているんじゃ。今日は午後に出荷があるから、母さん気が立っているようだ。気にすることはない」
「うん、ありがとう。……頑張るね」
彩美は、精一杯の笑顔を裕一に向けた。
『今ならわかる気がします。羅臼の、ふるさとの海は温かかったのだと』
了
※以下、作中の彩美の独白(『 』部分)全文を綴りました。
思えばあの人の、素朴な優しさ、温かさにすがっていたのかも知れません。
凍えるほどの寒さと云うものは、温度計で計るものとはまた、違った意味をもつのだと、札幌の地で思い知らされたのです。本当は離婚したからといって実家に戻るのではなく、新しい生活を築くのが一番よい方法なのでしょうが、ふと、羅臼の懐かしい海が目に浮かび、気が付くと夜行バスに飛び乗っていたのです。ふるさとは遠きにありて思ふものとは、よく云ったものでございますね。羅臼湖の初夏の湿地を彩るミズバショウやワタスゲ、冬に降り積もる雪の重みで地を這うように、クネクネとうねりながら広がるダケカンバやハイマツは、秋の紅葉ではしっとりと色付いて。
理由ですか。苦しみから逃れるため、過去を忘れたかったから、確かに最初はそうだったのかも知れませんね。あの人が教えてくれた故郷の温もり、知らずと気が付いたらそこにおりました。暖かくて、嬉しくて、ただ幸せで。
今ならわかる気がします。羅臼の、ふるさとの海は温かかったのだと。
作品イメージ曲
ショパン ワルツ10番
演奏 アリス=紗良・オット
https://youtu.be/ubEdpFfDqmU
・・・・・・・・
「彼岸桜より咲き出でて」
楽しげに響く子供たちの笑い声に揺り起こされて、少しばかり遅い朝をむかえた。長い夢を観ていた。夢だとわかっていても、そこから脱け出すことができないイヤな夢だった。外が賑やかなのはきっと花のせいだろう、桜並木が見頃をむかえているはずだ。遮光カーテンの隙間から射し込む光に目を細め、その向こうにある世界に思いを馳せる。
麗らかな春の陽を浴びながら、桜の花弁を追って燥ぐ子供たち。弥生、三月、江戸彼岸。はらりはらりと舞う欠片たちが、私の指からすり抜けるようにおちていく。うすべに色の一重咲き。貌を無くしてしまいそうなそれを、果たして私は、美しいと感じることが出きるだろうか。
厭人たる自身の気質を見出だし形成されたのは、幼少期ではなかったか。私は、喜怒哀楽を表に出すのが苦手だった。両親の顔は遺影でしか知らなかったし、思い出などもない。幼稚園や保育園に通わなかった為、同じ年頃の子供と遊んだことがなかった。人との関わりが希薄だと目を合わせるのが怖くなり、いつしか下ばかり見るのが癖になった。たまに口角を上げぎこちない笑顔をみせたようだが、思えばそれは、不安を隠す本能的な対応術で心などなかった。
そんな、少女時代を過ごした。
こぼれ桜の花ひとひら、揺蕩う君は嫋やかにしたたか。……ふと、遠い記憶がよみがえった。高校生のとき、私は地獄の中で恋をしたことがある。告白どころか会話も交わさず、名前も知らなかった。でも確かにあれは、恋というものに違いなかろう。
彼はよく、中庭の木陰のベンチで目を瞑り、すらっとした足を組んで腰かけていた。夏でも冬でも、彼を見かける時にはいつだってそこにいた。たまに女子が話しかけてきて、きっと告白か何かをして振られたのか、その娘が泣きながら走って行ってしまうという場面を、遠くから見ることもあった。彼はどんな女の子が来ても、泰然な態度で、彼女が見えなくなるまで視線を向けていた。見えなくなると、スウッと深呼吸をしてから、また瞼を閉じて空を仰ぐ。そんな男だった。
卒業式の締めのあいさつが終わり、私はそそくさと教室に戻って、家に逃げる準備をしていた。暗く慵げな高校生活にピリオドを打つために。ざわつく教室の中で私はひとり、卒業証書がはいった筒と、寄せ書きのない卒業アルバムを淡々とバッグに入れる。
……哀歓を共にする者などいないのだ、さっさと帰ってしまおう。
渡り廊下を歩いているとき、ひとつだけ強い風が吹いた。吃驚して体を小さくかがめると、中庭のあの木から桜の花弁が舞い散って、風に身を任せて飛んでいくのがうっすらと見えた。そこにやはり彼はいた。ボタンがひとつもない学ランを肩に引っ掛け、癖のない柔らかな黒髪を靡かせながらベンチの前で立っていた。なんだか切なそうな顔をして桜の木を見上げていた。あまりにもそれが感動的で、見入ってしまった。すると彼は視線に気づいたのか、私のほうを向いて軽く手を振ってくれた。そして彼は儚い笑顔をした。今にも泣き出しそうな顔で微笑むものだから、私は咄嗟に目を瞑り動けなくなった。けれども瞼には、鮮明に彼の顔が映った。刹那、私の頬を一粒の雫が伝った。
――どれ程の時間が経ったのか、気が付くと彼はもうそこにいなかった。青い空はオレンジ色に染まりかけていて、時計を見ると17時に迫っている。
……もう帰ろう。
空気のように軽いバッグと、いろんな感情で溢れかえっている重い心を抱えて、急いで家に帰った。
翌日の新聞で、名を知りました。
入水したのは君だったのですね。
さようなら。
たぶん、初恋だった……
彼の表情を忘れていない。私は今も、その時間で生きている。あのときの私でいる。なにも変わっていない、変わろうとさえしなかった。瀉血した血をインクにして、心魂という原稿用紙に、名も知らぬ、いや、名前すら聞くことが出来なかった彼のことを毎日、毎時間、毎分、毎秒、綴り続けていたあの頃と。
思いきってカーテンを開けると、眩しい日差しと、ピンク色の絨毯が敷かれたアスファルトが窓ガラスを通して瞳に入り、こっちへおいでと誘う。
――彼岸桜より咲き出でて――
あぁ、そうだ……
私は窓を開け、空を仰いで身を投げ出し、うんと唸ってまっすぐ手を伸ばした。 揺蕩うひとひらを掬おうと、子供のように、ただ、一心に。
『彼岸桜より咲き出でて、一重、八重追々に咲き続き、弥生の末まで花のたゆることなし』※
変わろう、変わらなくちゃいけない。
きっと、変われるはずだ。
了
参考文献
※『江戸名所花暦(1827)』より引用 しました。
参考音源
「まちがいさがし」より、作品のヒントをいただきました。 https://youtu.be/dDozwyvLzBM
執筆の狙い
文章のリズム感に注力しましたので、一気に読んでいただけたら幸いです。また、朗読アプリに入力して、聴いて貰っても楽しめると思います。
・「潮騒~流氷が着く街で~」
一万文字以内という規定の中で起承転結を意識いました。情景、心情描写ともに、解像度の高い作品に仕上げたつもりです。
※カクヨム2022Web小説短編特別賞受賞、及び、ご当地短編小説入選作品。
参考動画
羅臼昆布漁解禁初日「かぎおろし」の風景
https://youtu.be/IjPFM9JeYGQ
・「彼岸桜より咲き出でて」
二千文字の純文掌編です。以前にラピスさんの企画で投稿したものを推敲した作品です。
※二編とも、ルビは最小限にとどめています。ご容赦ください。