マトンローガンジョシュ
埼玉県は北足立郡、伊奈町という田舎の町にそれはある。
茶の二階建ての民家がぽつぽつ並んでいる道々を抜け、古めかしい豆腐店「冨士屋」の角を曲がり、師走の寒風を背に受け自転車でえっちらこっちら登ると、車の通りの多い道に出る。どちらかと言うとそれで賑わうわけでもなく、ただ車が通り過ぎていく道。そのはずなのに、ひときわ異彩を放つ看板が飛び込んでくる。カラフルに彩られた茶褐色の女の子のアニメ絵。それが建物の入口屋根にどどんと看板として置かれているのだ。これまたカラフルな字で「SiestA」と店の名が隣に綴られている。
「カレーライス&バル しえすた」。カレー屋である。
建物はこれまた明るい水色のペンキで塗られ、なるほどここが秋葉原ならありふれた店なのかもしれないが、何せうらぶれた田舎町。すずめの群れの中にクジャクが紛れ込んだくらい目立つ。「大売出し」「カレーパンあります」というノボリさえ、心なし派手だ。
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開店の十二時ちょうど、一番乗りを狙っていたのだが、トラック運転手のように厳ついおっさんが先に陣取っていた。少し悔しかったりしながらスマホを片手に待つ。しばらくして小太りの店主のおじさんが出てきて、「準備中」の札を「営業中」に裏返す。カレータイムの始まりだ。
店内に入るとムードは一変する。暗めの照明にカウンター、バックにはスコッチウイスキーやジンなどの酒類の瓶、レジにはお洒落なクリスマスリーフが飾られ、往年のアメリカ映画、それもSF映画を中心としたポスターがずらり額に入れられ壁を彩っている。「猿の惑星」や「未知との遭遇」「ダーティハリー」。そして何よりもいささか大音量で、しかし高音質のスピーカーから、ピアノを中心としたジャズ音楽が流れ、ムードをインドやカレーとは程遠いものにさせる。
先のトラック運転手とおぼしきおっさんが、メニューとにらめっこして、次いで店主を呼ぶ。注文が決まったようだ。
「カニクリームコロッケ定食で」
いささかカレー屋での注文としてはずっこけるチョイスであるが、オススメとして書かれているのだから仕方ない。3個セットが980円、5個セットが1180円。
もちろん、わたしはこのような轍は踏まない。小太りの店主、カレーLifeとプリントされたシャツ、恐らく仕事着になっているのだろうを着た彼が、水を持ってきて注文を取りに来る。それに対しわたしは取って置きの魔法の言葉、それこそアラビアンナイトの「オープンセサミ!」(開けゴマ)を唱えるような笑みを浮かべこう答える。
「マトンローガンジョシュ、辛さは3」
マトンローガンジョシュとはインド北部カシミール地方のマトンカレーらしい。単純に「マトンカレー」とメニューにおいてないところが良い。そのような無駄な拘りこそ、この店に相応しい。と言ってもこの注文のチョイスは、ここら一帯を食い歩きしている会社の後輩からのオススメによるものだが。
「癖の強い店ですが、一度行ってみる価値ありです。そんで常連になってしまう可能性大ありです」
などとすすめられれば、出向かなければならんだろう。
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注文を待つ間、店内を物色してぎょっとした。コンピューターゲーム、しかし俗にいう任天堂やSONYなどの有名どころではなく、インディー、いや同人のゲームのような、濃い目のゲームが物販のように置かれているのだ。良く観るとグッズ関連のティシャツ、マグカップ。隅に色紙が一枚飾ってあるが「カレー最強」というまた癖が強いものだ。カレースパイスの瓶が商品として並んでいたが、むしろこちらの方が居心地が悪そうな佇まいだ。
何か予感がして、スマホで店名を検索すると、「ゲーム会社がカレー屋さんを……?」というこれまた濃い情報と出くわす。ゲーム会社がカレー屋をやるのが良くわからないし、その店を特に代わり映えのない田舎町で開店するという趣旨はもっと良くわからない。記事の中身に入る間もなく、店主からスープが運ばれてきた。どことなく恥ずかしくなり、手元のスマホを隠す。
「サンバルです」
どろっとした香辛料が香るスープだ。店主は笑みを絶えさず、調理に戻っている。ただ一連の濃さにたじろぎながら、今度は「サンバル スープ」と検索する。
南インドで食べられている、豆や野菜がたっぷり入ったカレーのようなスープです。とあった。ここでこの店は案外、本格的なインドカレーの店なのかと思い返す。だが、それにしても「カレーライス」というのは中途半端に思える。インド派を目指すなら、「ナン」ではないか。
そしてカニクリームコロッケをほおばるおっさんを見て、また考えがひらひら巡る。
しかし、全てはスープを飲むまでのものであった。
一口スプーンから口に入れると、強烈なスパイスが攻める。棘があるようでハーモニーがあるようなそれらが、唇をしびれさせつつ、大量に溶けた玉ねぎや人参が辛みを味として受け止めさせる。そのスパイスの使い方は明らかに本格を漂わせている。
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マトンローガンジョシュが来た。それを見て、驚いた。肉々しいマトンカレーなのだ。濃い焦げ茶のカレーには明らかにわかる大ぶりのマトン肉の塊が4,5個では済まない、8個はあるのではないか。明らかに近所のインド人経営のインドカレー屋のマトン、銀色の容器に2つほど申し訳程度に浮かべられているそれとは違う。その強烈な肉のビジュアルに、針ショウガとスジャータのようなミルクがかけられ、よりリッチなものにさせている。また皿には細かく刻まれたキャベツサラダ、ひよこ豆をカレー粉で炒めたもの、オクラを炒めたもの、パリパリとしてそうなインドの薄焼きおせんべいパパド、玉ねぎのピクルスであるアチャールまでもある。他に今まで見たこともない恐らくインドのお惣菜だろうものが二品ほど並んでいる。これで1150円。明らかにお買い得だ。下手な高級インド料理屋よりもリッチだ。
マトンカレーを食す。マトンがほろほろに柔らかく、しかし肉として主張していて、柔らかい脂部分がミルキーに広がる。それが辛めのカレーと合わさると何とも言えない味わいになる。頬が思わず緩む味だ。なるほど、このカレーの豊潤さはしっかりした米、ライスじゃないと受け止めきれないだろう。また玉ねぎのアチャールは口直しに最適な、少し甘みを残した酸味ですっきりとしている。インドおせんべいパパドも食感に変化を与える。食べている内に、こうした方が良いと直感したのだが、豆とオクラの炒め物は、単体だけでもいけるが、カレーに混ぜて食すと味わいそのものが変化して趣深い。スパイスが食欲を刺激し、マトン肉がそれを満たす。夢中になって食べていた。残ったサンバルを飲みながら、時に水でリフレッシュしながら。気付けば皿は空になっていた。
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会計の際に店主に「おいしかったです」と言ったのは何時以来だろう。カレーパンまで買ってしまった。聞くとカレーパンはカレーパンでも、「ポークビンダルーカレーパン」らしい。店の名物のカレーに、隣にあるパン屋のパンを使ったコラボ商品。辛さは抑えているから食べやすいですよ、とのことなので家で待つ嫁と息子へと余分に買ってしまった。
帰る際に振り返り、ふと疑問に思ったことを尋ねた。
「あのこの店、インドカレー屋だと思うんですけど、カニクリームコロッケって美味しいんですか?」
「もちろん、自信があります」
店主はにこりと笑った。
執筆の狙い
事実を素材にフィクションを混ぜ、作りたい加減に煮込みました。