水色の女
新緑の香りがむせるような気持のよい朝だった。舗装されたばかりのアスファルトに水玉が弾く道路はさわやかだった。聴きなれているはずの鳥の声も、譲治にとっては自分を祝福してくれているように聞こえた。
レストランへ近づくにつれ、雨上がりの山の水を集めた明神滝の轟音が響いてきた。
ホテルヤマザキが高田村とレストラン建設の契約を取り決めたのは平成二十年八月だった。それから工事業者を選定し、進入路の拡張工事が始まり、舗装工事と並行してレストランの建設資材が搬入され、翌二十一年四月、雪解けとともにレストラン建設工事が始まった。そして一年あまり経った二十二年五月十日に竣工し、建設業者からホテルヤマザキへの引き渡しが行われた。
その後厨房設備や家具什器類を搬入し。カーテンも取り付けを終えたので、開発部長の山崎譲治は最後の点検のためその日、五月二十日に、レストランへ向かったのである。
五月二十五日を開店予定とし、その前日に関係者を集め落慶記念のパーティーが開かれることになっていた。レストランは≪高田村明神ガーデン≫と名付けられた。
レストランへの進入路は村の幹線道路から分かれて約四キロ。たったこれだけの距離だが、この進入路が出来るまでは、車は通れず、滝を見るためには、森の中の細い道を一時間以上も歩かなければならなかった。
福井市中央部より南東方向にある高田村は戸数百二十ほどの小さな集落である。距離は福井市から十五キロほどだったが、集落全体が、周囲から百五十メートルほど高い位置にあり、隣の村へ行くにも急斜面の曲がりくねった道路を登り下りしながら二時間近くも歩く必要があったため、周囲から孤立した陸の孤島のような集落だった。
この村に最初に人が住み着いたのは七百年以上も前で、内山九郎左衛門という北面の武士が一族を率いて入植したという言い伝えがあった。承久の乱で敗北した兵たちが追っ手を逃れて各地を迷走し、最後に辿り着いたところが、この周囲から孤立した地であったという訳だ。
小さい集落ではあったが村長としての内山家を中心に、村の団結心は強く、狭い畑を耕し、狩猟や林業、炭焼きや山菜取りなどして、長年、自給自足に近い暮らしを営んできた。村で行われる冠婚葬祭、祭りや宗教行事、他村との交渉事など、村の行事は何事も内山家に諮り、その屋敷内の大広間で村長の承認を得て決められることが慣例となっていた。
だが、昭和になり、周囲からの人の出入りも多くなって来てからは、内山家もその役割を終えたので、これまでの慣例を廃止し、民主的な選挙で、正式な村長を選ぶようにという内山家当主の意向ではあったが、村の人々は長年慣れ親しんだ習慣を急には変えることは出来なかった。
しかし昭和十八年と十九年に内山家の二人の息子に相次いで召集令状が来て村を去ってから、病気がちだった村長夫婦は不便な村の暮らしを捨て、福井市内の便利な場所に移り住んだため村の様子は大きく変わった。これまで村の中心だった屋敷が無人となってしまったのである。
現在も残るその屋敷は四百年ぐらい前に建てられた茅葺き屋根の豪壮な邸宅であったが、家人が不在となってからは放置されていた。だが、昭和の終わりごろになってその希少価値が見直され、村では保存を図るべく、昔の姿で修復されることになった。そして昭和四十年代には国指定の重要文化財となったため、内山家住宅」という名で管理人を置いて見学者に開放することとなった。
昭和五十年に、村へ入る幹線道路が拡張整備され国道三百六十四号線となって、福井市からも車なら三十分ほどで来られるようになったため村の様子は更に変わり、急速な発展が見込まれるようになってきた。
村ではこの内山家住宅に加え、村外れにある明神滝という美しい滝の周辺を、観光の拠点として開発する計画が検討されていた。
それは村の悲願として長年検討されていたのだが、内山家という支柱を失った古い体質の村議会では意見をまとめることが出来なくて、計画は伸び伸びとなっていた。平成二十年になってようやく、古い議員が去り、計画を前向きに進めることになった。
滝までの進入路を整備して、滝の全体を眺望におさめる台地に駐車場を整備し、レストランを誘致しようというものである。
業者に対する説明会が行われた。
十社ほど集まったその説明会で選ばれたのが、資金も潤沢で客席数百人という大規模な計画を発表した永平寺町のホテルヤマザキであった。
ホテルヤマザキと村との間で綿密な取り決めが交わされた。社屋の建設工事入札に関しては村の業者を必ず参加させ、同一価格なら村の業者を優先する事、従業員のうち、七十パーセントは村民を採用する事、進入路の工事は村で行うが、駐車場の舗装はホテルヤマザキが費用を負担する事、などなどが決められた。村としてはこのホテルヤマザキから入ると見込まれる村民税にも大きな期待を寄せていた。
山崎は早朝より店舗内に入り、厨房や客席などを念入りに見て回った。
ところが、誰もいない筈の店内に一歩入った時、なにか不思議な感覚に襲われた。戸を開けた瞬間に水色の女の姿を見たような気がしたのである。だがそれは一瞬のことで、目を凝らしてみると何も見えなかったので、疲れているのかなと思っただけで気に留めることは無かった。
山崎は一時間ほどで帰り、入れ替わりに経理担当の安藤玲子が通用口の戸を押して入ってきた。部長とは、今、すれ違ったばかりなので中には誰もいない筈だと思っていたのに、開けた瞬間に水色の影が見えた。それはすぐに消えてしまったが、見えたのは確かだった。若い女性のようだった。まさか、いまどき、幽霊など? と思ったが、暗い感じではなく、玲子には恐怖感は無かった。事務所内を点検し、事務用品で不足している物がないかを慎重に確認した。レジが正しく作動するかどうかも確認した。
午後、今度は料理長の大木哲郎がやってきた。先に客席を見ておこうと思って、通用口から左へ進み、のれんをまくったとたんに、部屋の中央付近に立つ水色の女性の姿を見た。だがそれも一瞬のことで、目を凝らしてみると、もう何も見えなかった。
永平寺町のホテルヤマザキへ戻った時、大木は早速、玲子に聞いた。
「なんか幽霊のようなものが見えなかったか?」
「あら、間違いない。私も見ました。でも全然怖くなくて綺麗な人でした」
大木と玲子は部長も見たかもしれないと思って部長室を訪ねて聞いてみると、
「そうか?疲れていたので、気のせいかと思ったのだが、君たちも見たというのなら、やはり幽霊なのかもしれない。・・・で、それは若い女の子で、水色の着物を着ていたのだな」
「はい。間違いありません」
二人は同時に答えた。
「昔の、たぶん明治の頃の、身分のあるお嬢さんの服装のように見えました」
と答えた。
「そうか?・・・不思議なこともあるものだな?
しかし、いいか。このことは私達三人だけの秘密だ。こんなことが知られると気味が悪いといってお客さんが誰も来なくなる。
いずれ知られることになるかも分からないが、それまでに料理の腕で信用を付け、そんな不安を吹き飛ばすようにしてくれ。いいな」
「はい。わかりました。誰にも言いません」
料理長は答えた。
開店に必要な備品、道具類はほとんど揃っていた。翌日からは食材の搬入と料理の下準備、そして二十四日は関係者を呼んで落慶記念パーティー、二十五日はオープンの運びとなっていた。幽霊のことなどにかまっている暇はなかった。
そしていよいよ落慶記念パーティーとなった。
当日、主賓席には村長、村議会議長や、内山家住宅の代表、そして県の代表を迎えてホテルヤマザキの社長が誇らし気な顔をして座っていた。
挨拶に立った村長は感慨を込めて、ゆっくり話し始めた。
「本日はご多用中お集まり頂きまして有難うございます。陸の孤島のようだった高田村には豊かな森があり、このような美しい滝もありましたが、長年ほとんど知られることも無く、私たちは寂しい思いをしていました。
高田村の歴史は古く、村長の内山家を中心におよそ七百年もの長きにわたりひっそりと自給自足のような暮らしを続けて参りましたが、昭和に入り、内山家が村を離れる頃になってから、このままではいけない。何とかこの美しい滝を観光の拠点として開発しなければならないと考えるようになりました。それは村の悲願と言っても良かったのですが、皆さまご承知の通り、内山家の存在が大きすぎてなかなか考えを纏めることが出来ず、延び延びになっていたのでございます。そしてようやく一昨年になって・・・・・」
と続けた。
村にとっては発展への大きな一歩となると思われた。これまでは内山家住宅や明神滝などを訪れる人はあってもその数は少なく、交通の便も悪く、休憩する場所も無いので、長くとどまる人はいなかった。
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レストラン明神ガーデンは開店初日から客が順番待ちをする賑わいだった。村内や永平寺町からはもちろん、福井市内や近隣の町からも噂を聞きつけて大勢の人がやってきた。ほとんどの席から美しい滝の姿を見ることが出来た。
以前は村の中心部から一時間も歩かなければ行けなかったのだが、今は大通りから車で七分の距離になり、明神滝を初めて見ようという人が押し寄せてきた。そのうちの多くはレストランにもたちよって見たが、待ち時間が長すぎたので、滝を見ただけで諦めて帰る人も多かった。レストランは二階建てになっていて二階部分は、当初、無料休憩所にする予定だったのだが、一階が満席になると二階部分もレストランの客席として利用するようになっていった。
開店して一か月以上経っても客足は一向に衰えることは無かった。
滝を見ることが第一の目的ではあったが、料理長の作る絶品の豆腐料理が評判になり、口コミで県外からも多くのお客さんが訪れるようになっていた。
六月下旬頃になって、何処からともなく、幽霊が出る、といううわさが出始めた。朝、夕の比較的空いている時間にトイレへ行こうとして通路へ出たら美しい女性の姿を見た、という人が何人も現れたのである。また、滝の淵に立って滝つぼの方を眺めたときに見えたという人も現れた。しかも誰もが、見たのは水色の洋服を着た若い女性だというので、幽霊見たさに訪れる客まで増えてきたので毎日、予約客だけで一日中満席になってしまうという状況だった。
部長たちの予想とは裏腹に、怖がるどころか幽霊までが客寄せに一役買ってくれるという、予想外の展開に明神ガーデンのスタッフはもちろん、村長を始め村役場の人たちは嬉しくはあったが、なにかしらの不安を覚えるのであった。
当然ながら、そこで、あの幽霊の正体は一体何だろう?この場所で不運な死を遂げた娘がいたのではなかろうか?という疑問が湧きあがった。
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良く晴れた、まさに五月晴れという言葉がぴったりのその日、権太(ごんた)と加代は村外れの明神滝への急坂を登っていた。
時は明治四十二年、日清、日露戦争に勝利して翌年には韓国を併合しようとする激動期だったが、高田村はそういう時勢から取り残された陸の孤島のような土地だった。
権太は、村長の娘、内山加代が、自分に関心を持ってくれていたとは全く思っていなかった。だから高田村から五里ほど離れた永平寺町で旅館を営む山崎家の跡取り息子との婚姻が決まったと聞いても、あくまでそれは他人事であり。特別の感情は持っていなかった。
もちろん、加代とは幼馴染であり、子供時代にはいつも一緒に遊んでいた仲ではあるが、歴然とした身分の違いもあり、高嶺の花でしかなかった。
しかし、加代の気持ちは少し違っていたようである。年頃になってからは一緒に遊ぶ事は無くなっていたが、逞しく、いつも自分を守ってくれた心優しい権太は彼女にとっては特別の存在だった。
山崎家との婚姻は加代には何の相談も無く、親同士の間で勝手に進められていた。明治四十二年、この時代にはそれが普通のことではあったが、婚姻が決まったという話は権太側にも伝わっていた筈なのに、権太がどう思っているのか、加代の所には何も伝わってこない事に、彼女はいらだっていた。
思い余った加代は、親に言えば反対されるのに決まっていたので、その日、爺やに、こっそり権太を呼び出してもらって、こうして、明神滝へ向かっているのであった。
内山家の爺やから呼び出しがあった時、権太はたぶん、嫁入り道具を運ぶ手伝いを言いつけられるのだろうと思って爺やのあとに従ったのだが、村長宅に向かう道の辻で待っていたのは涼しそうな水色の洋服を来た村長の娘・加代だった。
加代としても、今さら婚姻が取り消されることは無く、権太と結ばれることは出来ないと分かっていたが、権太に自分の気持ちだけは伝えておきたかった。
二人は滝の流れ落ちる上までの急坂を登っていた。権太が、控えめに手を伸ばして引っ張ってくれるのが加代には嬉しかった。
滝の上には広い岩場があった。この滝の上までは登ってくる子供たちも少なかったので、何度か二人だけでここへ来たことがある、加代にとっては思い出の場所だった。二人はもう、あまり話すことも無かったが、逢うのはこれが最後になるかも知れなかったので、子供時代の思い出に浸っているだけで幸せだった。
ただじっと並んで座っているだけで、加代は幸せだった。だが、加代が作ってきたおにぎりとお茶だけのお弁当を食べようとしたその時、誰かが近づいてきたのが分かった。
それは何と、山崎家の惣領息子の壮一郎だった。まさかここへやって来るとは思ってもいなかったので加代は困惑した。加代と壮一郎とは見合いの席で一度会っただけだったので、その人の妻になるというより、山崎旅館のおかみさんになる、という気持ちだけだった。
権太はもちろん、壮一郎とは初対面だが、いかにも惣領息子と言った服装を見ただけで、即座にその人が加代の婚約者であると理解した。
壮一郎は予告なしに内山家を訪れたのだが、加代が不在と聞いて何処へ行ったのかと問いただし、爺やが、仕方なしに、権太と二人で明神滝へ向かったと答えたため、怒りに燃えてここまでやってきたのだった。
「お前たち何でここにいる?その男は誰だ?ここで何をしている?」
矢継ぎ早の問いに加代が答えようとしても、聞こうとはせず、いきなり権太の胸ぐらをつかみ、殴り掛かってきたのである。
権太は心から後悔していた。加代はもう、他家への嫁入りの決まっている娘だった。彼女からの誘いは、心を鬼にしてでも断るべきだった。
権太はほとんど無抵抗で、ただ、げんこつの痛みを和らげようと顔の向きを変えるだけだった。しかしそれでも壮一郎の怒りを抑えることは出来なかった。彼はつかんでいた胸ぐらを外し、権太を滝の下に突き落とそうとした。しかしこれには加代も黙っていなかった。もう、婚約などどうでもよかった。加代には権太を助けようという思いだけで勝手に体が動いて権太と壮一郎との間に立った。その加代を、壮一郎は避けることは出来ず、その手は加代を滝の下へと押しやることになってしまった。
加代は着ていた水色の着物をひらひらさせながら四十メートル下の冷たい滝つぼに落ちて行った。
はっとした壮一郎は我に返った。
「お、お前が加代を突き落としたのだぞ。俺との婚約をねたんで、加代を呼び出し、縁談をぶち壊そうとしたがうまく行かず、嫉妬に狂って加代を突き落としたのだ。分かっているな」
無茶苦茶な話だったが、権太は言い返すことが出来なかった。彼は罪の呵責に心を痛めていた。
裁判は一方的に進められた。村の人たちは誰もが、権太が、壮一郎の主張するような罪深い若者ではないと分かっていたが、嫁入り先の決まった娘と一緒だったことは紛れもない事実であった。内山家の爺やが、誘ったのは加代の方からだと証言しても聞き入れられることは無かった。権太は一切弁明しなかった。弁明しないことがせめてもの罪の償いのように感じていた。山崎家が土地の有力者であったことも、この時代には圧倒的に有利だった。
壮一郎は無罪、権太には過失致死罪で懲役十年が言い渡された。
明神ガーデンの店長山崎譲治は幽霊の正体を確かめるため、村の古老を訪ねて若い女性の死亡事故が無かったかを聞いて回った。服装から見て、明治時代、百年ぐらい前の事件ではないかと思われた。すると、数人の古老が祖父や曽祖父の代に起きた事件のことを伝え聞いていたことが分かった。
詳しく調べて見ると、事件が起きたのは、奇しくもちょうど百年前、明治四十二年であることが分かった。
そして、驚いたことには、この事件に深く関わっていたのが自分の曽祖父であった事が分かり、愕然としたのであった。百年も昔の事件ではあるが、レストランの店長が自分でなかったら、この娘が幽霊となって出て来ることも無かったのではないかと山崎は思ったのである。
山崎店長は社長や村長とも相談の上、東京在住の、内山家の子孫の了解を取って、転落した娘、内山加代の百回忌法要を営むとともに、滝の全景が見通せる駐車場脇に慰霊碑を建立しようという事になった。
レストラン明神ガーデンの賑わいは続いていた。幽霊を見たという人はその後少なくなっていたが幽霊伝説はますます人々の関心を呼び、訪れる人は増加の一途を辿った。
執筆の狙い
これは2年ほど前に書いて、その後何度も何度も書き直したものですが、どうも、納得がいきません。私が感じている問題点と皆様の疑問点が一致するかどうか分からないので、あえて、私から先に問題点を申し上げることをしません。
今年最後になりますが、皆様のご指導よろしくお願いします。