優しい母
ノックの音がした。
電気の落ちて暗い室内に響く、やけに陽気なリズムだった。万年床の中からもそもそと這い出て、部屋の主の中村という男はドアの方を見て不審に思った。ここは、ある都会の外れにあるごく普通の団地の一室。今年四十になる中村は母親と二人暮らしで、仕事をせず、かといって家事もせず、ただいたずらに時間を浪費している毎日。母親とも全く会話せず、顔もあわせず、いわゆる、どうしようもない引きこもりという種類の人間だった。
「どうも、『ピザ・アンダーソン』です。いつもご贔屓ありがとうございます。ご注文の品をお届けに参りました」
再びノックの音がし、続けてはきはきとした、若い女の声が部屋の中に差し込んできた。中村は布団の上で上半身だけ起こして、しばし無言で考える。確かに四十分ほど前にピザを二枚ほど携帯電話で頼んだが、いつもなら、それは母親を通して中村の部屋に届けられる。中村個人の金でなく、毎回母親の金で買ったピザである。それを部屋まで届けさせ、ドアの隙間から受け取って、すぐ鍵をかけて閉じこもる……いつもの流れなら、そうだ。
しかし、今回は明らかに様子が違う。母親は在宅しているはずだし、玄関を超えて部屋まで届けに来るピザ屋などあるものか。中村はすこし警戒しつつドアに近づき、外にいるピザ屋に話しかけた。
「俺が『ピザ・アンダーソン』にピザを頼んだのは確かだが、なぜこんなところまで来た。ここまで来れたということは、玄関を通ったはずだ。さらに、玄関を通ったのなら、鍵を開けたババアがいたはずだぞ。どうしてそいつにピザを渡さなかった」
「あいにく、その方はご夕飯をお作りになる途中で、手が離せないらしいのです。片手に泡立て器、片手にボウルを持って、なにかを一心不乱に混ぜていらっしゃいました。一時も止めることなく、混ぜ続けなければいけないようなのです」
「だから、ここまで来るのを許されたってことか」
「そのようですね。寛大なお母様でございます。ああ、代金はすでにいただいてますよ」
外にいるピザ屋の女は微笑んだような、柔らかい雰囲気で言った。中村は謎が解け、一応は理屈の通るピザ屋の説明に渋々納得し、ドアの方へ歩み寄った。暗く、床に沢山の本やゲーム機が放置されているため、何度かつまづきながらドアにたどり着く。腹も減ったし、背に腹は代えられない。中村は鍵を開け、小さくドアを開き、隙間からそっと顔を覗かせた。角度が悪いのか、女の顔は見えず、影がちらと見える程度である。
「さあ、ピザを渡してもらおうか。俺はあいにく、引きこもりでね。本当ならドアを開ける作業だって億劫なんだ」
「ええ、知ってます。そのようにお母様から相談されていましたから」
中村が驚くや否や、ドアの開いた隙間にしなやかな両手が滑り込み、ぎぎぎ、と開き始めた。中村は咄嗟に抵抗し、内側からノブを握って開いていくのを阻止する。押して引いて、力は拮抗する。その戦いで更に少しドアが開き、中村は隙間から女の姿を見ることができた。更に開いていくのを見るに、引きこもりの体力が祟って、どうやら力は女のほうが強いらしい。
どんどん開いていくドアの隙間に現れた女は、腕っぷしの強さに見合わず、穏やかな笑みを浮かべる美人であった。そしてピザ屋というよりも、どこかOLのようなスーツを着ていた。傍らに置かれた鞄もピザが入りそうな箱状のものでなく、ノートパソコンや紙の資料を入れておくのに適しそうな手持ちタイプだ。
「お前、ピザ屋じゃないな。いったい何者だ」
「申し遅れました。私、引きこもり支援センターの斉藤です。ちょっと、あなたにお話を伺いたくて、少しだけ騙させていただきました」
言うや否や、斉藤と名乗った女はするりと部屋の中に滑り込み、中村はその勢いで尻もちをついてしまった。斉藤は暗い室内をぐるりと見渡して電気のスイッチを探り当て、明かりを灯す。手つきは慣れたもので、表情も常に笑みを絶やさないところが逆に中村に底知れない恐怖を覚えさせる。
「お前、なんなんだ。どういう了見で俺の部屋に入りやがる」
「了見なら、お母様にもらいました。あなたをどうにか部屋の外に連れ出して、何かしら社会の役に立つようにしてほしいと」
「なんだと。あのババア、まだ俺に期待してるってのか」
「お優しいお母様ですね」
斉藤はついにドアの前に座り込み、中村の脱出する術を封じてしまった。長い間居座るつもりのようだ。これから延々と支援センター職員の説教を念仏のように聞かされるのかと思うと、中村は憂鬱でたまらなかった。ただピザが食べたくて、注文しただけだというのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。もちろん引きこもりが世間的に愚かな行為だと認識してはいるが、いつまで経ってもこんな愚息に手を差し伸べる母親も母親だと中村は思った。
「まあ、アンタも仕事で来たんだ。同情するよ。俺はそのドアと違って、押そうが引こうが、テコでもこの部屋から出ることはないぜ。アンタの仕事は永遠に終わらないか、失敗する運命なんだ」
「同情しているのはこっちです。私は、私の使命感でこの仕事を選びました……この家を救いたいと心から願っています。だからこそ、ピザ屋に扮するという奇抜な手段を用いてでも、あなたに会いたかった。どうか、少しだけでも私のことを信じていただけませんか。必ず明るい外の世界へお連れいたします。私も友達になってあげますから」
斉藤は笑顔を絶やさず、淡々と、しかし確かな重みのある言葉で中村に語りかけた。中村は尻もちをついたままだったが、そんな優しい女の声に耳を傾けるうち、いつの間にかその場で正座になって、穏やかな心持ちで次の言葉を待つようになった。最初はあれほど恐怖を感じた笑顔に、ときめいてしまっている自分がいることに驚く。こんなに優しくされたのは、生まれて初めてだと中村は思った。彼を十年以上の引きこもりにした学校のいじめとは、天と地ほどもかけ離れた対応である。
「実は、私ももともとは引きこもりだったのです」
「なんだって。それは本当か」
「あなたの気持ちは痛いほどわかります。外で痛めつけられるのが、怖いんですよね。でも、そんなことはめったにありません。人って、基本的に優しい生き物です。それに、もし痛いことがあっても、友達第一号の私が慰められます。ほら、ちょっと希望が出てきたでしょう」
中村は思わず頷いてしまい、直後にはっとさせられた。この女は、どうやら本心からこう言っているらしいと悟り、途端に人生が楽しく、かつ楽しみになってきた。
「外の世界には面白いことがたくさんありますよ」
「俺は……外に出たら、人の目を気にせず思いっきり歌える……カラオケに行ってみたいんだ。それに、修学旅行に行きそびれたから、友達と遊園地にも行きたい。ああ、でも、だとするとお金がいるよな。そうすると、働くしかないのか」
「ご安心ください。我々支援センターは、そのあたりのサポートも万全に用意しております。あなたには、この家にいながらでもできるお仕事を紹介したいと考えていました」
斉藤がしてきた提案に、中村はちょうど都合が良いと思って目を輝かせる。斉藤の言葉で勇気を持ち、自室を出て人生を楽しむことにしたのはいいが、さすがに外にいる時間が長いとストレスがかかってまた引きこもりに逆戻り、元の木阿弥だろう。だから、人生の半分を費やすことになる仕事は自宅内でできるものがいいと、先程の話の途中から考えていたのだ。
「そりゃいい。こっちにとっても好都合だ。ぜひ紹介してくれないか」
斉藤は「はい、もちろん」と笑って頷き、持ってきていた鞄から何枚かの書類を出してきて、中村に見えるように床に並べた。
「あなたのお母様を、介護して差し上げてください。もちろん、心構えや技術は私が手取り足取りお教えしますから、安心してください。自宅で自分の肉親を介護して、お金が貰える時代なんです。これほど人生の満足度が高くなる仕事も、そうそうありませんよ」
「おい、ちょっと、待ってくれ。介護ってなんのことだ。ババアに介護が必要だってのか」
「あら、息子には悟らせなかったのね……本当に優しいお母様です。あなたのお母様は、認知症が始まっているのですよ。普段よくここに来ているピザ屋の配達員から、私たち支援センターに通報があったんです――『配達頻度が高すぎて、頼む内容も判で押したように同じ。実際届けてみると、毎回めちゃくちゃなことを言いながら一万円札を渡してきて、お釣りも受け取らず家の中に消えていく老人がいる。他に家族がいるのかすらわからない』――と。センターとしても、調査に乗り出さざるを得ませんでした」
中村はさっき湧いてきた希望と、斉藤から叩きつけられた事実で頭の中がぐちゃぐちゃになって、ろくな事を言うことができなかった。混乱と驚愕が思考を邪魔して、斉藤の顔すら見続けることができず、正座のまま斉藤の膝を見ている。それも、目に映っているというだけで、膝を見ているという認識すら中村にはなかった。
「アンタ……引きこもり支援センターの人間だったはずじゃあ」
「すみません、それも嘘です。最初にそう言っておいたほうが、部屋の外に出る勇気をより与えやすいと思いまして。本当は私、老人支援センターの職員なんです」
「老人支援センターだって」
「ご高齢の方の介護と、その斡旋が仕事です。私の信念にとても合っていて、我ながらいい職に就けたと満足しています。それと、介護士のスカウトも、私のお仕事の内なのです……私たちのセンターに雇われませんか。契約していただければ技術と、友達をお付けしますよ」
友達、の部分を特別明るく言って、斉藤は最初からずっとそうしているように笑っている。もう恐怖を感じれば良いのか、安堵を覚えれば良いのかを判別することもできない。中村の心は、ある意味、引きこもりを始めた当時よりも怯えていた。
「……なら、毎日俺が食べていた食事はどうなる。着た服の洗濯は。ゴミ出しだって。すべて、認知症の母さんがやっていたとでも言うのか……」
「あなたが引きこもっている間、ずっとお母様の病状は進行していたと思われます。もう少しあなたか、我々が気づくのが早ければ、ましな状況になっていたかもしれません……でも、大丈夫です。まだ、かろうじて意思疎通はできる段階ですから」
中村は思わず斉藤を乱暴にドア前から引き剥がし、部屋から飛び出した。彼は、ついに引きこもりを卒業した。その足のまま遠い記憶にある通り廊下を進み、リビングの繋がるドアをノックもせず開け放つ。すると、併設のキッチンに、彼の記憶よりもずいぶん萎れた印象の母親がいた。
「母さん……母さん。今まで、気づかなくて、ごめん。誕生日にピザなんかとって、ごめん……」
母親が一心不乱にかき混ぜていたボウルの中に入っていたのは、洋菓子に使うための生クリームだ。生クリームは混ぜられすぎて、なんだか色味が落ちているような気もする。スポンジの焼けた匂いがしないから、もう、彼女は、誕生日ケーキを作る手順を忘れてしまったのだろう。去年まで食べられたあのケーキは、もう、二度と食べられない。
「あなたのお母様は、ケーキの作り方を忘れても、あなたの誕生日は忘れませんでしたよ。今の、今まで」
後ろからやってきた斉藤は、今度は笑わずに、真剣な声音で中村の背中につぶやいた。
「なんで……なんでそんな状態で、毎日メシは美味かったんだよ。なんで、美味かったんだよ……なんで、美味いって、今まで一言すら言えなかったんだ……」
母親は中村に気づくと、生クリームを混ぜるのをやめて、彼を見た。そのまま、優しく微笑み、さっき届いたらしいピザの箱を指さして、ゆっくり言った。
「誕生日、おめでとう。ピザたべよ、ようすけ」
中村洋介は膝から崩れ落ち、顔を両の手で覆い、赤ん坊のように泣き始めた。
執筆の狙い
大学の課題で執筆したショートショートです。
星新一の『ノックの音が』というショートショート集における縛り【冒頭が「ノックの音がした」で始まる】を適用しています。
普段の、情報量をたくさん入れる賑やかな文体を意識して封印し書きました。ショートショートとして予想を裏切るオチを用意したつもりではありますが、いかがでしょうか。