作家でごはん!伝言板

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人を愛せない人間が書く小説はつまらないですか?

小説を書こうとしている人

小説を書こうとしている人で名前を統一しました。

私自身、愛がない小説はつまらないと思っているんです。
他者への愛であふれている小説は読んでいて感動します。
しかし、何かへの愛情が感じられない小説は何かたりない気がします。

私が書いてよく批判される愚痴などは、その愛がたりないゆえだと思います。
愚痴は愚痴でも愛のある愚痴なら、文芸作品として受け入られるかもしれません。
しかし、どんなに体裁が整っていても、愛のない文章は面白くないのかもしれません。

しかし、私は心に愛の欠如した人間です。
愛がないわけではありませんが、愛を避けているところがあるのです。
私は現実に恋愛をしてもとにかく失敗続きで、恋愛をすること自体が嫌になってしまった人間です。
それでもそういう事を人に話すと、楽観的にとらえるみたいで、そんなことないよ~とか、いつかいい人が見つかるよ~などとアドバイスするのですが、
傷ついた本人としてしはそんなこと言われてもあんたら私がどういう思いしたか知ってんのかって逆切れしそうな有様でした。
確かにその人たちの言うことも間違ってはいなくて、次に会う人は自分に合う人かもしれません。
でも、そういう希望と挫折を繰り返して、結局問題はミスマッチにあるのではなく、自分自身にあるのだと悟ったんです。
自分が恋愛に向いていない星のもとに生まれたんです。

それでも生きて行かなければならないから、私は文学一筋で生きようと思って、しこしこと小説を書いて来ました。
書いて来たものの、批判も受け、自分の小説には何かが足りないと気付きました。
それは、他者への愛とかそういうものではないかと。
いろいろなプロの小説を読みましたが、どの作品にも他者への愛のようなものが感じられました。
それは、別に恋愛の話じゃなくても、露骨に性愛とかじゃなくても、何となく愛のようなものを感じると言うのを含めてです。
ところが私の小説はこの世に空気のようにそれとなく存在している愛を否定するような内容だなと気付いたんです。
それは、「何さ、愛なんて」という私のひねくれた気持ちをそのまま小説にしているような感じなんです。

それでも私に全く愛がないわけではありません。
人を愛せない分、ネコカフェに通って、猫たちをかわいがっています。
猫たちへの愛はあるんだなあと自分でも思います。
人が怖いです。
自分が傷つくのが怖いのかもしれません。

こんな私が書く小説はやはり、小説としては無意味なのでしょうか?
人を愛せない私が最後の砦として見つけた小説の世界で、私は成功を勝ち取ることは出来ないのでしょうか?

小説を書こうとしている人

書きたいものを書いてみることでしょうね

そうげん

小林秀雄「批評と批評家」
(適度に漢字をひらいています)

「僕は何故君は創作をやらずに批評を書き始めたかと聞かれたら、次の様に答える。自分のいいたい事が批評の形式を自然ととったのだ、と。批評と創作とどちらをやったらいいかと決定するものは、いいたい言葉がどちらの形式をとって流れ出すか、まずいいたい事をいって見るほかはない。批評文をいかに上手に作ろうかという事は先の話で、どんな批評を書くにせよ、おお根のところは、批評を書くのではなく、いいたい事が批評になるのだというはっきりした自信がなくてはならぬと思います。」


国内の近代批評をくみ上げた小林秀雄の言葉です。
全集の冒頭には習作で中高時代に書かれた短編小説も載っています。

はじめは小説を書くことを志したのか、途中で書きたいものを書くうちに批評になにか自身にあうものを見出したのか、とにかく、この言葉から見えるのは、ジャンルがどうのというより、巧拙がどうのというより、とにかくまずは書きたいものを文字の形式で綴ってみることかと思います。

それがほかの人に小説ととられるか、エッセイととられるか、随筆ととられるか、GMさんのことばにもありますが、まず、書いてみて、何度も読み直して検討して、書きたいものを定めていけばいいのじゃないかと思いますよ。

そうげん

林望さんの本のなかの言葉をあげておきます。

そうげん

●林望「文章術の千本ノック」(小学館)より

24ページ――「エッセイ」

エッセイと申しますのは、一言で言えば、「論理的文章」と定義をしたらいいと思います。だから、論理のない文章はエッセイとは言わないんです。いわゆる身辺雑記とか、そういうのは、ほんとは、エッセイとは言わないんです。
エッセイというのは、例えば私が生きている中で見聞きした現象だとか、また生き方の問題だとかいろいろなことについて、私はこう思う、こういうふうに観察したら、こんなことが見えてきた、またこの現象はこういう背景があるんじゃないかという文化論だとか、そういう何か一つの論理があって、その論理を読んでもらうのがエッセイです。

ところが、世の中では、例えば、テレビタレントなんかが少し売れてくると、すぐに滑った転んだなどという雑雑の瑣事をゴーストライターなんかに書かせて、それで「こんどエッセーを書きました!」なんて言ってる。ああいうのを読むと、エッセイというよりは「エセもの」とでもいうべきで、あんなのがエッセイとして通るから、エッセイというものが正当に評価されなくなるのだと、悲しくなります。


25ページ――「随筆」

概して言えば、随筆ってものは素人が書くものじゃないと思います。ああ、実に冷酷ですね、言い方が(笑)言い方は冷酷なんだけれども、これが天下の真実というもので、随筆というものは功なり名を遂げたプロの作家が、趣味で書くものです。あるいは松平定信のようなお殿さんが、日ごろの生活の中で心に浮かぶ「よしなしごと」をぽつぽつと書きつけたというようなものが随筆であって、これはよっぽど文章力があるとか、その人の人生がおもしろいとか、その人の観察眼が鋭いとか、描写力が秀逸だとか、そういう人生経験と筆力が物を言う世界なんです、随筆は。




日本語でエッセイというとき、モンテーニュの「エセー」が根本にあるでしょう。エセーの本文を読めば、論理的に話を進めながら書かれた比較的短めの文章であることはあきらかです。

2015年に30刷になった岩波文庫の「エセー(一)」でも、

各エセーのタイトルは、

第一巻
第一章 人はいろいろな方法によって同じ結果に到達する
第二章 悲しみについて
第三章 われわれの感情はわれわれを超えてゆくこと
第四章 心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向けること
第五章 包囲された軍の大将は談判のために城を出るべきか
第六章 講話のときは危険であること
第七章 われわれの行為は意図によって判断されること

という具合につづき、国内の雑誌などで見かける連載のエッセイとは趣が異なっています。



あと「「コラム」と「エッセイ」の違い」の記事はずいぶんひどい内容に思えます。

コラムは媒体への掲載形式の問題で、エッセイと等価に扱うべきものでないし、

モンテーニュをあげながら、

「発表する場が決まっているとは限らないもので、体験や見聞、
日ごろ感じていることなどを自由な形式で書き記した文章である。」

と書くこと自体、おかしな話でしょう。


わたしは林望さんの「エッセイ」と「随筆」のちがいこそ、

モンテーニュの「エセー」と、吉田兼好の「徒然草」のちがいをうまく表してますし、
自分のなかで整理をつけるのには、この考え方を採用するのが便利だと思っています。






あと、小説は、嘘を書くもの、というより、

作り話を仮構しながら、それが一種の寓意を孕むことによって、
現実をよりリアルに表現しうる文学の一種、

と、読みかえたいと思っています。

そうげん

エッセイ風の小説、でも別にいいんじゃね

GM91

何をもって小説と呼ぶのか、ってのは何かわかりやすい枠にキチンとハメなくてもいいんでないの?と思ってる派です。
てゆうか、カテゴライズはソレをやりたい人のもので、その基準なんてその人の都合でいくらでも変わるしそれでいいんですよ。

小説とはエッセイとは、なんて悩んでる間に自分の書きたいことを素直に書いてみりゃいいんじゃないかな、と。
で、まあそれが小説じゃなくてエッセイやんかコレって言われたとして、ああそうかもと思えば採用すればいいし、違うだろって思えば個別に反論とか質問とかすれば済むことです。
もちろん「定義」を突き詰めることで何か見えてくる可能性はなくもないけど、実際に書いたもんベースに話するほうが具体的でわかりやすいんじゃないかなって気がする。


※あと、ここで何か聞きたいことがあるならば、ハンドルは固定した方が良いかもね。

GM91

科学的な観察について

エッセイよりも小説を書きたがっていて、書こうとしている人

エッセイとは一人称で、作者の知識や体験についての感想や自由な発想を表現したものっていうことでいいでしょうか。

だから、エッセイにもエッセイの形式があって、
もしも一人称ではなく、エッセイを語っている人を観察している文章になると小説になるということでしょうか。

人物や物事について外側の視点から観察している文章は小説。
一人称で自由に思いを述べているのがエッセイ。

だから、ただ観察した事柄を記述するだけでも小説たりうるということかな。
でも、ただ自然界の記録だけだと小説じゃなんでしょうね。
でも、人間の日常を記録したものだと小説になるでしょうか。
そこに何か、人を楽しませるオチや要素のものが感じられれば小説なのかな。
すると読み手がそういう要素を感じなかったら小説じゃなくなるということなのかな。
ただの人間の記録ながら面白い要素があったと思えば小説になり、なければ小説じゃないと言われそう。
単なる科学的視点だけでは小説じゃないということか。
文学的視点がなければ。
すると、それを小説認定するかどうかというのは、形式もさることながら、読み手がそこに文学的要素を認めるかどうかにもかかってくるかもしれない。
もちろん、内容に文学的要素がなくても、とりあえず人物が複数出て来て、ストーリーがあれば小説として認められるかもしれない。
ただ、単なる科学的な観察という風にも見える時にそこに文学的要素が実はこめられていると発見できればその人の中で小説となり、はっけんできなければ小説でなくなるならば、
読み手にも委ねられているよね。
日常性が必要ということかな。
読者が体験しえない環境や事柄について書いていても、読者の日常と重なる部分があることで話の中の人物に自分を重ねるというか。
読者が部分的にでも疑似体験できれば、小説なのかな。
読者が登場人物に自分を重ねられず、事柄だけを記したものは小説じゃないのかな。
でも、事物を擬人化することで、あたかもそこに感情があるように描ければ小説なのかも。
人間の日常的な心理が描かれていれば小説なのかな。
描かれていなければ物事の記述なのかな。

エッセイよりも小説を書きたがっていて、書こうとしている人

小説を書こうとしている人さんなのか小説を書きたがっている人さんなのか、同一人物だよね。 てか、小説が書きたいのか、エッセイが書きたいのかどっち?

匿名希望者

エッセイはある事柄や体験したことについて自分の思っていることをストレートに書く。表現することで結果的に自分自身をPRすることにはなるけど、目的は事柄についての感想表明。

「コラム」と「エッセイ」の違い
違いの分かる辞典
http://chigai-allguide.com/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/

「随筆」と「エッセイ」の違い。
 隠居系男子さんのブログ
http://inkyodanshi21.com/books/8874/
これらからヒントを得てください。探せばまだまだ出てくるし、他人に意見を聞くよりは実際にエッセイを読んでみた方がいいと思います。

だんだん分かってきた、の①と②はおおむね私の考えと同じです。
小説に関していえば、大きく分けてエンターテインメントと文芸に分かれ、エンターテインメントは意外な出来事、事件、小説の舞台、ストーリが重要で、登場人物の心情(個性ではない)は+的要素。
設定やストーリーがぶっ飛んでいる分、心理描写は読者の想像の範囲内で共感を誘う。又は天才で能力が完璧なキャラはクターの場合はあまり心理描写をしない。又はどこか欠落した性格にする。

文芸に関していえば、日常的な誰でも経験しうることを題材として、主人公の心理を掘り下げる。
お題として”死” 家族が死んだ。妻が死んだ。恋人が死んだ。子供が死んだ。
エンターテインメントなら、天国で見守ってくれるだろう。となる。幽霊として出てくるも良くある。基本的にハッピーエンドになりやすい。しかし文芸は違う。チョー悲しいか、悲しくないか。悲しみのあまり食事ができず衰弱し自らも死に至る。とか、逆に悲しいはずなのにごはんも美味しく今までと変わらない生活の中で妻への罪悪感を抱く。ここで問題になるのが私小説。
本来人の心の中は分からない。よくあるんじゃないですか、悲しんでいる人を慰めても、「あなたには私の悲しみは分からないわ」と拒絶されること。同じ経験をしなければ悲しみも分からないし、たとえ同じ体験をしても、状況や性格で感じ方は違ってくる。(脳内ホルモンの分泌の個人差も)
私小説は実際に経験したこと感じたこと思ったことを書く小説でエッセイに近いとは思いますが、愛する人が死んで悲しいとだけ書いたのでは面白みがない。読者と多少は違う心情であることを書かなければならない。(掘り下げるという行為)
掘り下げた自分の心情を正確に書こうとすれば自分の置かれた環境も書く必要に迫られる。(度が過ぎれば読者から見た小説の領域を超えてエッセイになってしまう)
そういう具合で文芸えでは読者の共感を得るための心理描写ではないと思う。混沌とした主人公の心理。自分のこととして深く考えすぎるとノイローゼになるんじゃないかな。
つまるところ、文芸(純文学)と言えども想像や演出の入り込む余地があるのではないでしょうか。

匿名希望者

夜中にも、つられて

アフリカ

https://youtu.be/w5j5ayhfKAE

インドの映画って歌と躍りが……
それに、どれも3時間強あるサービス精神が……その……逆に……

それでも、観ないと完全に損してるワケでハリウッドだからと、偉そうにふんぞり返ってるとボリウッドに蹴り倒される。

同様に、エッセイがどんなもんなのか?

読めば分かるし
読まずに解る筈もない

インド映画の冒頭やフィルムの質を馬鹿にして、観たこともないのにこんな感じ?と出すと好きな方から決定的なダメ出しを喰らうことにもなる。


小説にリアリティを求めることも至極当然な行為で、嘘の世界だから曖昧に描けば良いってのは完全に叩かれる。

本当臭さのない物語?

例えるなら

のび太と出会わないドラえもんで
仲間と絡まないルフィで

それは必然的に登場するキャラクターのない、独りだけの物語。
悪人でも誰でもいい。とにかく誰かと向き合い、語り悩み、問題が起こり、解決の為に苦しみ怒り、笑う。そんなことが起こらない物語なんて、どう?

小説を書きたいと考えてる人が……そんなの、訊く?

だから、とりあえず観といた方が良いような気がするな~♪

技術云々を指摘するんじゃなくて、製作側が楽しそうなのが伝わってくると思う。

飲み過ぎました寝ます

アフリカ

さらに分かってきた

小説を書こうとしている人

エッセイは作者が生身の自分の内面の姿を表現するものであり、
小説は作者が自分の姿を隠して、仮に自分を描く場合でも、もう一人の自分がそれを観察しているという形をとる。
ということでいいと思えるんですが、どうでしょう。

小説を書こうとしている人

だんだん分かって来た

小説を書こうとしている人

①エッセイは作者が自分はこう思った、感じたということを書いたもの
②小説はある人物がいつどこで何をどんな風にしたかを描写するもの
興味深いのは、嘘の世界を小説に求めているはずなのに、嘘くさいと評価が下がり、リアリティがあると評価があがる。
嘘なのに本当臭さを求められているのが小説?
本当にあったことを本当のこととして書いたら小説じゃないのかな。
本当にあったことを題材にしてでも、いったんそれとは切り離して独立した世界としてそこに新たに描いたものが小説?
とりあえず、①と②は形式的な区別としてはかなり正しいんじゃないかと思う。
①は作者が主語だと分かり切っているので、ほとんど主語はいらないのでしょうね。
②は複数の人物が存在する可能性が含まれている前提で読まれるので、主語は重要となるのでしょうね。
エッセイは登場人物が作者一人であって、作者以外の人物が出た場合、それは作者の記憶の中にある人物のことである。
小説は登場人物に作者は含まれておらず、含まれているとしても、それは作者の頭の中の作者なのである。
こういう区別でいいでしょうか?

小説を書こうとしている人

つまり、こういうこと?

小説を書きたがっている人

小説とはつまり、誰が、いつ、何を、どんな風にしたかを描写するジャンルなんじゃないかって思いました

小説を書きたがっている人