SPNY様、ご回答ありがとうございました。
さっそくのご回答ありがとうございます。
つまりは、現実世界における本人の状況とは全く無関係に、ネット上で「悪」を演じる事が出来るか、と言うことですね。
理解した上で、先の書き込みを見れば、十分納得できる文章でしたので、私の読解力不足ですね。スミマセン。
理解した上で、それが可能かどうかと言う事ですが、表面上、あるいは演じている本人が、「現実で起こった事に左右されずにやっている」と自認する事は可能ではないかと思います。
ネット上で発揮される「悪」すなわち「悪意」と言うのは、「誰かを誹謗中傷する」「からかう」と言った事になると思うのですが、それは書き込みされた文面と言う表面上において、首尾一貫して行われていれば、現実世界の状況に左右されているかはわからないと思うからです。また演じている本人も、たとえ現実世界で良い事があった後も、悪意をばら撒き続ければ、「自分は左右されていない」と認識できると思うのです。
ただ実際には、現実世界で悪いことが起こったために、その書き込みがより辛辣さを増したり、良い事があった日に限っては書き込みをしなかったり、あるいは僅かでも語調が穏やかになったりと、演じている本人ですら認識できない、無意識による変化と言うのは、やはり避けられないと思うので、実質的には無理ではないかとも思います。
ちなみに、「私がそうだから」と言う思い込みかもしれませんが、少なくともこのサイトの正規利用者においては、本当の意味においての「全く異なる人格」を演じておられる方はいないと思っています。
もちろん、私を含めて、表面的な部分、例えば口調(文体)を変えていたり(私も関西人なので、実際にはこんな話し方はしません)、表現方法(実際は大人しい性格だけれども、ネット上では明るい性格を表現している。現実ではまずしないような、表現方法を取る。など)を変えたりと言うことは、当然あると思うのですが、その底にある「思考方法(物事に対する考え方、善悪の基準、常識など)」について演じている方というのは、まずいないと思っています。
ですから、HNを使って発言していたとしても、あくまで正規利用者に限ってですが、その発言はモニターの向こうにいる本人によって考えられたり、善悪を推し量ったり、常識と照らしあわされた発言であると思うのです。それに対して誹謗中傷を受けたり、完全に否定されると言う事は、「ネット世界における架空の人物」だけに向けられているのではなく、「HNを持った本人」に向けられていると思います。
当然ながら、その誹謗中傷などが現実世界に影響を及ぼし、本人が現実世界においても同様の内容で誹謗中傷などを受ける事はありませんが、それでもネット世界で受けた心の傷だけは、現実世界の本人に確実に影響を及ぼしていると思うのです。
映画「マトリックス」をご存知でしょうか。
映画では、現実世界の人間が、プラグを通して電脳世界に入り込んで、敵と戦います。
当然電脳世界(架空の世界)ですから、本来ならばそこで戦うことによって受けた傷によるダメージは、現実世界になんら影響を及ぼしません。
ですが、映画の設定と言ってしまってはそれまでですが、実際には電脳世界で受けたダメージは現実世界の本人にも影響を及ぼし、それが原因で死に至る事もあります。
劇中ではそれを「心が痛み(ダメージ)を認識して、影響を与える」と表現しています。
これは今のネット社会によって引き起こされる事件に対する、製作者からの警告ではないかと思います。
架空世界の住人(HNによって表現される架空の人物)とは言え、それは完全ではないにしてもモニターの向こうにいる本人とイコールで結ばれていると思うのです。
受けた誹謗中傷で心を痛めるのは、間違いなく本人であり、それによって死に至ったり(自殺に追い込まれたり)、犯罪行為に走ってしまったりする事件がその現実を如実に物語っているように思えてなりません。
特に文章でしか表現できない掲示板などの媒体では、その言葉の重みに対して正確に表現することが、非常に難しいと思うのです。
現実世界であれば、お互いの人となりを、それまでの付き合いなどからある程度事前に知っていたり、相手の口調、声のトーン、表情などから、発言者の真意を有る程度推し量ることは可能だと思いますが、ネットの文字だけを見て判断することは難しいと思います。自分では気さくな感じで冗談半分に表現したつもりでも、人によっては「小馬鹿にしている」と取ってしまう人もいるでしょう。
ゆえに私は、たとえ架空の世界であっても、人の意見を完全に否定したり、意見や作品、感想を罵ったりする行為は避けるべきであり、それらによって引き起こされる「誰かが誰かを排除する」と言う行為が好きではないのです。
長々と失礼いたしました。
もちろんあくまで私見です。
また、気をつけたつもりですが、気分を害される表現などがありましたら、悪しからず、ご容赦ください。
まだまだ僕らの脳味噌は
いや、僕の脳味噌は、かな? きっと悪であれ善であれ、ネット内に於いて現実世界の自分と“全く異なった人格を持つ”分身(=アバター)を作りなおかつ自由自在に操れるほどには、進化していないでしょうね。それこそたとえば作家が自己の作品内で凄まじい悪人像を描いたり、凶悪犯や異常性格者役に扮した俳優がカメラのまわっている間だけ完璧な悪・狂気を演じるのとはずいぶん勝手が違うだろう、と。何故なら、僕らは皆、小説や映画の内部があくまでも架空の世界、非現実だとすでにじゅうぶん認識済みだし、別人格をわざわざ生み出した創造主の意図も容易く理解しうるから。
しかし、ネット上の世界と云うのは開拓スピードがあまりにも速いせいか、その世界内に相応しい“住民(某国でいうところの「ネチズン」)”として、お互い匿名性を保持したままどう正しく振る舞い、実体の見えない他の住民達とどう友好的に接すればいいのか? あるいは、現実世界の自分との折り合いを如何に上手くつけてゆくべきか? 等に関して、殆どの者が今なお明快な答え乃至処方箋を持っていないように、僕は思います。つまり、此処(ネット内空間)が一体どれくらい現実世界と離れているor繋がっているのか、また、双方を隔てる境界線があるのかないのか、ユーザー各自認識度にまだかなりばらつきがある状態、なのではないでしょうか。
でなければ、ネット上のみで存在しているアバター間に生まれた怒りや憎悪といった感情の爆発がまるごと現実世界へ飛び火し、結果、創造主本人や実存する組織・集団等にまで実害の及ぶ問題へと発展してしまうことなど、本来ありえないはずですよね。にもかかわらず、現実世界の至る所でそういった事例は後を絶たないばかりか、現に、とうとうこんなささやかなコミュニティでさえ、それが起こってしまった。とても怖く、そして悲しいことです。
で、騒動後こちらへ寄せられた皆様の書き込みを読ませていただき、自省を兼ね再度自らの「(意図された)悪意」について考えてみると、かく言う僕自身、この“石野モアイ”なる悪意に満ちた分身がどれくらい別人格なのか? との問いには、やはり明快な答えは出てこない。そのため、“石野”がいくらこっぴどく叩かれようと嘲笑されようとはたまた粘着されていようと、PC画面から離れれば一旦終わりとなって実生活に何ら支障がないのも事実である反面、しばしば当所周辺で見られる「石野は単に実社会で溜まったストレスのはけ口として当所を利用しているだけ」との批判に対し、「だからその意見は大間違い。石野は石野、俺は俺、全く別モノ」ときっぱり言いきれる自信も、正直今はありません。
ゆえに、恐らく僕はこの先もとうぶん、ネット内世界と現実世界との境界線を、(あるのかどうかもわからないけれど)石野といういけ好かない分身と二人三脚で探し続けてゆくはめになりそうです。
駿 慶三郎様
おかしなこと言い出してすいませんw
完全なる悪、っていうのは俺にも想像できなくて、読んで頂いた方の数だけ
あるんだろうなとだけは思いました。
述べたのは、単純に悪という真球から何も引かれない人格が、ネットでなら構築
出来るのかという疑問でした。
あのレクター博士ですら、不幸な実体験が子供の頃にあったらしいですしw
単純に「バカ」と罵った場合、実は今朝食べたサンドイッチが痛んでいて
腹が痛いとかいう要素が付けば、もう完全な悪では無くなってしまうのじゃないかと。
その行為だけをなんの付随要素も無く純粋に楽しめる人格が構築されて、快楽を
得るためにだけに反社会的な行動をとれる人物を完全な悪と位置づけ、そういう
立場を取れる人は、即ち完全な反撃を受けても、プラスマイナスゼロになるのではないか?
と考えた訳です。
でも、人間が意識下で制御できるその人自身の範囲なんて狭いものだし
特に若い人は、先日「アルマゲドン」の台詞にもありましたがwホルモンの
分泌で、他者との競争を助長されたり、様々な感情の変異が強く表れたりもします。
そんなことを考えて人格を精神力で演じ続けるのは非常に難しいだろうなとも思い
そもそも完全はこの世に少ししか存在しないので、完全を目指す近似値的な悪の存在を
有りえると仮定して、書かせて頂いたのが下の文でした。
困ったことに、ネット上現実問わずに俺には
「付随要素は問題にしなくても良い。悪行は完全な悪とイコールで結ばれる」
と思えてしまう時もあります。今にやばいことしだすんじゃないかと思えて
ちょっと恐ろしいw
SPNY様へ
はじめまして。
ネット上で完全なる悪を再現(演じる)することが出来るか?と言う興味深い疑問を前に、自分なりにあれこれと「完全なる悪」について考えて見ましたが、SPNY様が頭の中で思い描く「悪人」と言うのが、残念ながら想像出来ませんでした。
と言いますか、思い描くどれもが、しっくりいかないような気がして、このままでは、的外れな私見になってしまいそうなので、お時間が許せば、教えて下さい。
因みに、思い描いた一つを披露します。
誰にも自分の悪意を垣間見せず、つまりは誰にも悟られないうちに、何時の間にか誰もが望んでもいない結末へと導く事の出来る人物。よって、悪人であると気付いた時には結末を迎えてしまっているか、殆ど不可避な状態になっている。
です。
ただ、これを「演じる」と言うことは、つまりは演じている本人すら、その結末を望んでいないという事になるので、そもそも演じる動機が見つからないような気がしています。
回答は、本当にお時間が許せばで結構です。
面白い題材で、すでに十分な程楽しめましたので(笑)
ネット上の人格と一般のそれ
戦時中に、言論を統制された人々や、遠い西で行われた人種隔離を
ネット上のHNを使った場に持ち込んで議論するのって正解なのかなあ?
という疑問が俺には結構昔からあります。
つまり、ネット上の人格はまるで小説のように自らが作り上げることができるし、望むなら
名前を変えることすら―つまりはリセット―することもできる。虐げる側にも、そうされる側にも
一瞬で移れるという可能性を秘めている場合が多い。
学校裏サイトみたいな、現実と直結してる場合は違いますが。
そうした場合、先鋭な態度を取った責任は、ほぼ100%その個人に集約されるのではないかと。
ここで、一つ俺が興味を持つところは、ネット上でなら完全な悪が存在しうるのかどうかということです。
リアルでは、よく凶悪犯のニュースなどで分析される「幼少期に不幸な身の上で」などの、逃れられない
現実がその人格に付随して、ああ親が悪かったんだとかいう責任の分散が起こり、完全な悪とは言い切れな
い状況が出現しますが、ネット上では、それこそ芸術が標榜する完全性のように、純粋に近い悪が自作できて
しまうんじゃないかという疑問です。
いやいや、人格を作り上げて破綻なく生活し、面白がるなんてことは人間の能力的に不可能だ。
否々ここにいるような小説脳を持った人々なら、完全に近づくことは可能なのじゃないか?
と、昨今はちょっと考えたりしました。
排除するしないの問題にこういう仮説を当てはめた場合、言論の自由という観点と、そもそも言論に到達して
居ない反社会的行動をする者は刑務所にという現実の間で、そのネット人格がどこにプロットされるのか。
それが重要であり、どちらにしても全否定では無く、個々人の判断によるものなのかもと思いました。
あくまで、ネット人格とは人工的に作り得る人格であり、それをどの方向に振るのかは個人の嗜好によるという
前提ですが。
解決されない壮大な疑問に、現状到達していると思われる一つの言葉。
「最大多数の最大幸福」
これに則って判断するのが、最良なのかなあとも思います。
暇な時間に戯言を書いてみましたw
そうですか。
済みません、しつこくしてしまって。
感想欄の方にも書きましたけど、やはり、セキュリティ上、古いバージョンのものは危ないので……それで、ちょっと気になっていたのです。
上手く、バージョンアップ出来ると良いですね。
返答、ありがとうございました。
バージョンアップ
自分らしく様。
バージョンアップに関してお気づかい頂きありがとうございます。職場の若い者に頼んでやってもらいましたが、何故か上手くいきませんでした。別の方法があるそうですが、仕事中の手を休めさせる訳にはいかないので、暇なときで良いと言ってあります。番号が見えなくても、支障がある訳ではありませんので。
私は自室に戻れば、何をしていても自由ですから、作家でごはんなどを随時閲覧していますが、他の職員は多忙なので、暇ができた時にと頼んであります。
私も反省。
駿 慶三郎様のコメントを見て、自分も反省しなくてはと思いました。
事実と思った事を素直に述べているだけ……とは思っているものの、文章としてそれを表現した際、相手がどう感じるかという事を、ちょっと、頭の隅に追いやってしまっていた、と思うから。
何から何まで気を遣い、人の目を気にし続けるのは疲れる事だけど、でも、どこの世界に身を置こうと忘れてはいけない事、ですよね。
ポコチ様。
そうだったんですか。『大丘 忍』というHNよりは、当たりが柔らかいような感じがして、ちょっと好きかも知れません。
それと、まだ引っ張ってしまって悪いんですが、どうなりましたか? バージョンアップ。
発言番号なんて、見えても見えなくても、閲覧するだけなら問題は無いと個人的には思うんですけど、やっぱり、見えた方が良いですよね。
コメントの中で、番号が指摘されてる事って良くありますから、番号が分からないと、『?』って、なりますものね。
ハンドルネーム変更
「作家でごはん」に登場して以来、大丘 忍のハンドルネームを使っておりましたが、「作家でごはん」では、「夜の山小屋」という作品から、「ポコチ」というハンドルを使う事にしました。ポコチとは、本人はまじめにやっているつもりだが、どこか間が抜けているという、学生時代によく使われていた学生用語です。今の私にはぴったりかなと思います。これからもポコチな作品や感想を書くと思いますがよろしくお願いいたします。
ポコチ問題をすり替えてはダメです
「自分のケツは自分で拭きなさい」と言っているのです。
トラブルの原因になった御仁が開き直っているすぎません。
未来に何が起こるか分からなくとも、過去の落とし前はつけてもらわないと。
落とし前、つけてないですよね。石野モアイさん。今までずっと。
