石ころの詩
私は子供のころ、鉄筋の四階建てが六十棟もある団地に住んでいた。
団地は子供であふれていた。公園やグラウンドもあったが、子供たちは団地中を駆け回って遊んだ。夕暮れに豆腐屋のラッパが響いても、子供たちの声は絶えなかった。
団地の周りには未開発の土地がたくさんあった。鬱蒼とした茂みはありふれた風景であり、団地のそばには薄暗い森もあった。クヌギにしたたる樹液に、クワガタやカブトムシがよく群がっていた。
小学校までは徒歩で三十分の道のり。集団下校と決まっていたが、ほとんどの子供が下校中に道草をしていた。
通学路の途中の茂みの奥に、水の澄んだ池があり、ミズカマキリやタガメが当たり前に泳いでいた。
小学校の校庭の周りには桜のほかにポプラや杉も立っていた。
六年のときの教室は四階で、私の席は一番後ろの窓側だった。先生の話も聞かず、外ばかり眺めていた。
秋の日の午後、窓の外をぼんやりと見ていた。ポプラが左右に揺れていた。大木は振り子のように、ゆっくりと時を刻んでいた。
ポプラにはポプラの言葉があるんだろう。昼は雲を眺め、夜は星たちと会話をしているのかも。
教科書を読む声がした。
「そういう者に私はなりたい」
私はクラスの木偶の坊だった。
「おい。聞いているのか」
先生が私を睨んでいた。
「僕は石ころ! いや、木偶の坊になりたいです!」
直立して黙っていると、くすくすと笑い声が聞こえた。
クラスにはもう一人木偶の坊がいた。
知恵子は保育園からの幼馴染みで、私と同じ棟に住んでいた。ふたりとも一人っ子で、いつも一緒に遊んでいた。
彼女には母親がいなかった。父親の姿も見たことがなかった。
通学路の途中に『新海池』という池があった。湖のように広く、よく石を投げて遊んだ。石が水面を跳ねると、私は「三段跳びだよ」などと知恵子に自慢した。
彼女は「あたしもやる」と言って石を投げた。でも、ぽちゃんと音を響かせて沈むだけだった。私は平らな石を探した。
「知恵ちゃん。これを投げてみて」
「うん。わかった」
やっと石が跳ねた。
「知恵ちゃん。二段跳びだ」
「やったあ」
彼女は目を輝かせて喜んでいた。
曇り空の広がる十月の午後。ふたりで石のベンチから池を眺めていると、知恵子がしくしくと泣き始めた。
「知恵ちゃん。またいじめられたの」
「みんなが、あたしはいない方がいいって」
運動会が数日後に迫っていた。でも知恵子は組体操についていけず、知恵遅れの学校に行けと言われていた。
いくら慰めても泣きやまないから、私は作り話で笑わせようとした。
「ねえ、知恵ちゃん」
「なあに」
「この前、パンツ一枚でここを泳いだんだ。気持ち良かった。知恵ちゃんも泳ぐ?」
「やだあ!」
彼女は涙をふきながら、けらけらと笑っていた。
運動会が終わって解散すると、大半の生徒が親と帰っていった。でも一部の生徒が校庭で遊んでいた。
そこに一匹の子猫が現れた。烏にでも襲われたのか、生々しい傷跡があった。
女子は悲鳴を上げて逃げ回り、男子が「こっちにくるな」と言って小石をぶつけていた。子猫は助けを求めているのか、何度も近づいていき、そのたびに小石をぶつけられた。
結局、知恵子だけが子猫を可愛がり、他の生徒たちは「似た者同士だ」と言って馬鹿にしていた。
知恵子は子猫をタマと名付け、校舎の裏の物置の陰で世話をすることにした。段ボールで家を作り、ぼろ切れを敷き詰めた。
放課後になると、彼女は自分の牛乳を持ってタマの元へ急いだ。
「タマ。牛乳だよ」
タマが出てきて膝に飛び乗ると、彼女は抱きしめて頬ずりをした。
「あたしも、お母さんがいないの」
「ニャ」とタマは小さく鳴いた。
「あたし、タマのお母さんになってあげる」
タマはごろごろと喉を鳴らした。
当時は朝の牛乳配達は当たり前の風景だった。多くの家の玄関先には、牛乳瓶が収まる木箱が据えられていた。
休日になると、私たちは牛乳を持ち寄り、タマの元へ向かった。
「タマ。牛乳持ってきたよ」
知恵子がそう言うと、タマは物置の裏から出てきて背伸びをした。
タマが牛乳に満足すると、私たちは校舎の裏を散策した。タマと知恵子は紅葉の小道を歩いた。
校舎の裏には岩に囲まれた池があった。タマが池の縁から身を乗り出すと、大きな錦鯉が寄ってくる。水鏡に映る紅葉に鯉が重なり、水面はガラス細工のようだった。
鯉が離れていくと、三つの顔が水面に浮かび上がった。
冬休みに入る前のことだ。教室の掃除を済ませて校舎の裏へ行くと、知恵子がクラスメイトに取り囲まれていた。
「掃除しないで猫と遊んでいたんだ」
「鯉が猫に襲われたって、先生が言ってたろ」
「また襲われたらどーすんだよ」
「知恵ちゃんは、みんなに迷惑をかけているのよ。わかった?」
知恵子は何も言わない。
「知恵遅れだから、わからないんだ」
嘲笑するクラスメイトの真ん中で、知恵子はタマを抱いて泣いていた。
そこに一人の女子が現れた。彼女の名は「みーちゃん」こと美代子。彼女も保育園からの幼馴染みだが、私や知恵子とは全く違う性格をしていた。運動も勉強もよくできる彼女は、クラスのリーダー的存在だった。
「子猫くらい飼ってもいいじゃん」
すると男子が食ってかかった。
「先生がだめって言ってるんだぞ」
「鯉が襲われたらどーすんだよ」
「ばーか。そんなこと子猫にできるわけないでしょ」
美代子相手では男子もたじたじだ。彼女は団地の商店街にある米屋の長女。商売人気質なのか、頭の回転が速く、口も達者だった。
知恵子を慰めることしかできない私に、彼女はよく言ったものだ。
「かずくん男でしょ。しっかりしなよ」
「でも」
「かずくんが守らなきゃ誰が守るのよ」
私はいつも、いじめっ子が立ち去ってから知恵子を慰めていた。
終業式の日は朝から粉雪が舞っていた。知恵子は家から持ってきた牛乳を、クラスメイトに気づかれぬよう、服の内側で温めていた。
通知表が配られ、最後の授業が終わると、知恵子は牛乳を手にタマの元へ急いだ。
「タマ。牛乳持ってきたよ」
タマは出てこない。彼女は物置の裏を覗き込むと叫んだ。
「かずくん、タマがいない」
裏はきれいに掃除され、段ボールの家も消えていた。
ふたりで校庭を駆け回った。でもタマは見つからない。
私たちは学校の周囲を走った。灰色の寒空の下、白い息を吐きながらタマを探し続けた。
タマは学校のそばのゴミ捨て場で見つかった。段ボールとぼろ切れも捨ててあった。
彼女はタマに駆け寄って雪をはらい、その口に牛乳を垂らした。すべて外にこぼれた。タマは動かない。でも彼女の涙が顔に落ちると、その口が微かに動いた。
彼女は胸をはだけ、タマの口に乳房をあてた。すると下校中のクラスメイトが驚いた。
「知恵ちゃん、なにしてるの」
「知恵子が狂ったあ」
「早く先生に知らせて」
担任は大慌てで走って来た。
「その猫を離しなさい。もう死んでるのよ」
学級委員の男子が言った。
「知恵ちゃんには、わからないと思います」
するとタマの目が開いた。タマは知恵子の乳房を吸いつづけ、やがて静かに目を閉じた。彼女は泣き叫んだ。
「ごめんね。あたし、お乳出ないの。あたし、お母さんじゃないの」
担任は知恵子とタマを引き離そうとしたが、彼女は激しく抵抗した。ついに他の先生までやってきた。クラスメイトは帰らされ、私だけが残った。
知恵子は目を閉じてタマを抱いている。私は腕を組んでいる男の先生に言った。
「タマを桜の根元に埋めてもいいですか」
「でも保健所がなあ」
「校内のことだから、別にいいんじゃないですか」と担任が言った。
私は知恵子の隣に座った。
「知恵ちゃん。タマを桜の下に埋めようよ」
彼女は泣き腫らした目で私を見つめた。
私は卒業とともに遠方に引っ越し、それ以来、知恵子とは会っていない。
私は引っ越し先の中学校でも周囲に馴染めず、いつも一人ぼっちだった。
やがて不思議な夢を見るようになり、高校に入っても、たまにその夢を見た。
夢の中の私たちは、いつも小さな石ころだった。一緒に池のそばに転がっていたが、なぜか知恵子だけが蹴飛ばされ、池に落ちてしまう。
高校を卒業して町の職員になると、その夢を見ることはなくなった。
私の部署は土地開発を担当していた。公園や駐車場などを整備する仕事だ。私の作った計画書に従い、たくさんの池や森が消えていった。
係長になったころ、酔った勢いで課長にこぼしたことがある。
「子供の頃、よく池で遊んでいたんです」
「そうか。でも今の子は池では遊ばないぞ」
先輩の係長も言った。
「池で事故があったら、責任問題になるしな」
春に採用された女の子が言った。
「私、池で遊んだことないです」
私は皿の上の海老に目を落とした。
「大きなザリガニがいたんだ」
「やだあ」
彼女は無邪気に笑った。
親の介護を終えると、定年まで五年を残して退職した。
それからというもの、ノワールという喫茶店によく自転車で行くようになった。店は町外れの大きな池のそばに建っていた。
爽やかな秋の日の午後。窓際の席に座り、雑誌をめくっていると、小川に浮かぶ女の絵に目が留まった。絵画の名は『オフィーリア』だった。
その夜、久しぶりに知恵子の夢を見た。
夢の中の私は湖の石ころ。
水底(みなそこ)は光の世界。水面がステンドグラスのように輝いている。
少女の姿が映っていた。ベンチに座っていたが、やがて湖岸の縁に立った。波が揺れ、顔が見えたり消えたりした。
次の瞬間、水面が激しく揺れた。光の中に知恵子が浮かんでいた。気づくと彼女は私の隣で眠っていた。
「知恵ちゃん。どうしたの」
胸元からタマが見ていた。
「タマ。何があったの」
目が覚めると朝日が差し込んでいて、カーテンの間から青空が見えた。その空を知恵子も見ているような気がした。
しばらく特急に乗り、在来線に乗り継ぐと、やがて懐かしい駅名がアナウンスされた。
改札を出ると街並みは一変していた。古い家屋は一掃され、駅前の商店街は近代的なスーパーマーケットになっていた。
駅のロータリーから巡回バスに乗った。やがて建て替えられた団地が見えてきた。まるでマンションみたいで、私がいたころの面影は微塵もない。
団地の商店街でバスを降りると、『リカーショップ石川』という看板が目に入った。飲み物を買おうと店に入ると、一匹の三毛猫と出くわした。
棚には地元の米で造った酒が並べられていた。
缶ビールを持ってレジへ行き、呼び鈴を鳴らすと、「ちょっと待ってください」と声がした。
レジのそばに立っていると、「お待たせしました」と言って年配の女性が現れた。その顔はどこか懐かしく、目を丸くして見つめ合った。
「かずくん。かずくんでしょ」
「みーちゃん。みーちゃんだよね」
「あら久しぶり! 元気にしてた」
「まあね。みーちゃんは」
「あたしは見てのとおり絶好調よ」
「米屋はやめたんだ」
「やめてないわよ。でも今はお酒に力を入れているの」
彼女の薬指に指輪が輝いていた。
「旦那さんは?」
「あたしを置いて逝っちゃったわよ。今は、あの子と暮らしているの」
三毛がこちらを見ていた。
「ごめん。悲しいこと聞いて」
「いいのよ。ところで、かずくんは今なにしてるの」
美代子は矢継ぎ早に質問をした。私は一通り答えると、知恵子のことを尋ねた。
「そういえば知恵ちゃんって、まだ団地にいるの」
「あの子と仲良かったもんね……」
「今朝、彼女の夢を見てね」
「あの子は中学を卒業すると、いつの間にか、いなくなっていたの」
「そっかあ。じゃあ、そろそろ行くよ」
「もう帰るの」
「ちょっと散歩してからね」
「かずくん。体に気をつけてね」
「みーちゃんもね」
「そうだ。ちょっと待って」
彼女は商品棚の前に行くと、酒のつまみをレジ袋に詰めてくれた。
私は新海池を見て帰ることにした。知恵子と石投げをした思い出の場所だ。
昔の通学路を歩いていると、やがて湖のような池が見えてきた。新海池は当時のままの姿で残っていた。石のベンチも同じ場所にあった。
ベンチに座り、ビールをひと口飲むと、ふっとため息が漏れた。
池の周囲は紅葉に色づき、爽やかな秋の空が広がっている。冷たい風が吹き、細波がきらきらと輝いている。
そのとき後から声がした。
「やっぱり、ここだったのね」
振り向くと美代子が立っていた。
「みーちゃん。どうしたの」
「あの子と、よくここで遊んでいたでしょ」
彼女の目から涙がこぼれた。
「なにがあったの」
彼女は目頭を押さえて黙っていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「あの子は、中学を卒業してすぐ、お父さんを亡くしたの」
彼女は池を見つめた。
「ある日ね、ボートが浮かんでいたの。乗っていたのは、警察の人たちだった」
しばしの沈黙が訪れた。風の音しか聞こえなかった。
「団地の人も集まっていてね。何があったのって聞いたら、小さな靴が、池の縁にあったんだって」
彼女は顔を伏せ、肩で息をしていた。私は何も言わず、ただそばに立っていた。
団地の商店街まで一緒に歩き、米屋の前のバス停で昔話をしていると、やがて巡回バスが到着した。美代子は私に向かって手を振り、私も窓から手を振った。
やがてバスが池沿いの道に差し掛かった。水面に渡り鳥の群れが浮かんでいた。
水底の 石の思ひの消たれねば 千歳ののちに 星となるらむ
『慕尼黑歌集』
執筆の狙い
ようやく秋らしくなりました。
5400字の作品です。よろしくお願いします。