鉄騎レガリア①&②
――歴史とは、一本の道なのだろうか。
暗闇の中で、誰かがそう尋ねた。
そこには何もない。
空も、大地も、時間さえも。
ただ、声だけがあった。
「君たちは、自分たちの世界しか知らない。だから、歴史は一つしかないと思っている」
暗闇に小さな光が生まれる。
一本の線が、枝分かれしていく。
同じ大地から違う国が生まれ、同じ戦争から違う勝者が生まれる。
「では、もし――大航海時代が五百年遅れていたら?」
光が弾けた。
「もし、近代国家への移行が進まず、王朝と帝国が二十一世紀まで生き残っていたら?」
一つの世界が、こちらへ近づいてくる。
「もし、その世界でハプスブルク家がドイツを統一していたら?」
最後の言葉だけが、暗闇に残った。
「――その世界で、人は何を求める?」
光が消える。
そして、歴史は始まる。
ーーー
二〇七〇年。
大航海時代が五百年遅れた世界では、いまだ王朝と帝国が世界を支配していた。
ドイツでは、ハプスブルクの君主が二〇三九年に国家を統一。
その勢いのまま軍備を拡張し、海外へ進出した。
だが、その膨張は周囲の列強との対立を生んだ。
西にはフランスとオランダ。
海にはイギリス。
南にはスペイン。
そして東には、巨大な陸軍を擁するロシア帝国。
やがて欧州を覆った緊張は、一つの戦争へと変わった。
その年、二〇七〇年。
最初に戦争の足音を聞いたのは、帝都でも軍司令部でもなかった。
シュレージェン地方、ブリュンハルト村。
山と森に囲まれた、どこにでもある小さな農村だった。
村の中央には教会が一つ。
そこから少し離れた場所には酒場があり、夕方になれば農民たちが仕事を終えて集まる。
帝都ベルリンから遠く離れたこの村で、帝国の運命を左右するような政治が行われることはない。
新聞に載る戦争や外交の話も、村人たちにとっては遠い世界の出来事だった。
ところが春から、村では一つの噂が繰り返し囁かれるようになっていた。
「ロシア軍が東部国境へ集結している」
「いや、侵攻準備じゃないか?」
「嘘つけ。すでに国境を越えたらしいぞ」
噂は日に日に形を変えながら村を駆け巡った。
誰も確かなことは知らない。
だからこそ、誰も本気にはしなかった。
夜も、酒場には明かりが灯り、村人たちは酒を飲みながら声を上げて笑っている。
外は静かだった。春の夜風が黒髪を撫で、木々の葉を揺らしている。
エリアス・ヴァルクは、静かな夜の中で、村の外れに立っていた。
十八歳。 帝国陸軍士官学校に通う士官候補生。
休暇を利用して故郷へ戻ってきたばかりだった。
だが、
「どうしよう、早く逃げなきゃ・・・・・・」
青年は、汗だくで震えていた。
最初に聞こえたのは、馬の蹄だった。
暗闇の向こうから、次々と人影が現れる。
馬に乗った兵士。
荷馬車。
砲兵。
そして、その後ろから姿を現したのは、巨大な鉄製馬車だった。
二頭の馬と車輪に引かれた鉄製の箱に、数人の兵士が乗っている。
ドイツ帝国が誇る機動戦力である。
その鉄製馬車が今、猛烈な勢いで西へ向かっている。
士官候補生であるエリアスは、その光景を見た瞬間に理解した。
前進ではない。
後退している。
しかも整然とした撤退ではなかった。
兵士たちの顔には余裕がない。
馬は汗で濡れ、何頭かは足を引きずっている。
その姿は、エリアスが軍学校で聞いていた「神聖たるドイツ魂の精鋭」とはかけ離れていた。
さらにその後ろから、無数のドイツ兵が続いていた。
一つの部隊が通り過ぎる。
また一つ。
誰も村人に説明しない。
誰も立ち止まらない。
ただ、西へ。
エリアスはその光景を見つめたまま動けなかった。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
ーー帝国軍が逃げている
「……そんな、嘘だろ」
声が漏れた。
誰に向けた言葉でもなかった。
エリアスは村の東側を見る。
そして、西を見やった。
「よし、僕も逃げるぞ…」
エリアスが地面を蹴った、そのとき。
「エリアス?」
エリアスはビクッとした。
声のほうを振り返ると、そこにはエリアスの母が立っていた。
「母さん…?」
彼女はエリアスの顔を見るなり、優しく微笑んだ。
「こんなところで、どうしたの?」
そう言い、彼女はきれいな金色の髪をくるくると丸めた。
「いやぁ、その…」
エリアスは微笑み返したが、それ以上言えなかった。
ロシア軍に怯え、村から逃げようとした。
士官候補生ともあろう者が、果たしてそんなことを言えるだろうか。
「エリアス」
「…なに?」
母の声が低くなった。目が据わっていることに、エリアスは微かな疑問を抱いた。
「……ここから逃げなさい」
言われて、エリアスは思わず目を見開いた。
「なんで?」
「ドイツ兵が西へ逃げてる」
「母さんも、知ってたのか?」
「さっき見たわ」
母の声は、不思議なほど落ち着いていた。
エリアスはその落ち着きが逆に怖かった。
「母さん…」
口に出してみる。
「一緒に軍学校に戻れば、帝国軍が受け入れてくれる。安全な場所まで行けば……」
そこまで言って、自分でも嫌になった。
自分達だけ助かろうとしている。
それは分かっていた。
でも怖かった。
(だって、まだ十八歳じゃないか)
士官候補生とはいえ、戦場に立ったことは一度もない。
死ぬのが怖い。
当たり前のことだった。
「……逃げるの?」
母が静かに聞いた。
「うん」
「そう」
母は少しだけ笑った。
その笑顔が、なぜかエリアスには苦しかった。
「なら、一人で逃げなさい」
「え?」
「あなたは軍人になるのでしょう?」
「候補生だよ」
「同じでしょう」
「違うって」
思わず言い返す。
「母さんも一緒に…」
母は再び、少し笑う。遠くを見つめるような、全てを見抜くような、儚い眼だった。
「あなたが生まれた時も、この村だった」
母が言った。
「あなたが熱を出した時もここだった。初めて歩いた時も、転んで泣いた時も、ここだった」
「……」
「だから、たぶん私はここを離れられないのよ」
「……何それ」
いつもの母だった。
それなのに、エリアスにはその言葉が妙に引っかかった。
「分かったよ」
エリアスは遠くを見た。
「分かった、分かった。僕は逃げるよ。だから」
少しずつ、歩き始める。
「死んだりしちゃだめーー」
エリアスが言い終わる、背後から声が聞こえた。
「エリアス!」
クレールだった。肩にぎりぎり触れる程度の、無造作な黒髪。
幼い頃から村で暮らしてきた、エリアスの幼馴染。
彼女は駆け寄るなり、エリアスの顔を見る。
「あなたも逃げるの?」
彼女は遠くに見える敗残兵の列を指さした。
「……そのつもりだ」
「そう」
クレールも、母と同じように静かに答えた。
エリアスは嫌な予感がした。
クレールもか、と。
「二人とも、その反応やめてくれない?」
「何が?」
「なんか……俺が逃げるのを責めてるみたいだ」
「責めてないわよ」
クレールは少し考えるように視線を伏せた。
そして、
「だって、私たちはここに残るから」
と言った。
「……クレール。お前もか?」
エリアスの頭が止まる。
「ロシア軍が来るんだぞ」
「知ってる」
「軍隊ですら逃げてるんだぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで……」
クレールは答えなかった。
母が代わりに口を開く。
「あなたは逃げなさい」
エリアスは母を見る。
「私たちは大丈夫よ」
その言葉が、ひどく嘘っぽく聞こえた。
大丈夫なわけがない。
軍隊が逃げている。
それなのに、この村が無事で済むはずがない。
エリアスは椅子から立ち上がった。
「……僕も残る」
「逃げるんじゃなかったの?」
「気が変わった」
「さっきまで逃げるって言ってたじゃない」
「僕だって、怖いよ。死にたくない」
一度、言葉を切る。
「でも、二人を置いて逃げたら、たぶん……ずっと後悔する」
エリアスは拳を握った。
「だから残る。怖いけど」
母とクレールが顔を見合わせる。
そして、ほんの少しだけ笑う。
エリアスはその笑顔を見て、さらに腹が立った。
自分だけが怯えているような気がした。
だが本当は違った。
二人とも怖いのだ。
怖いのに、ここに残ろうとしている。
その事実だけが、エリアスの逃げたいという気持ちを少しずつ削っていった。
遠くでは、まだ軍馬の蹄が鳴っていた。
神聖不可侵のドイツ帝国軍は西へ逃げている。
そして東から、何かが近づいているのだろう。
いつもなら暗いだけの東の空を見つめながら、エリアスは初めて、自分が逃げる先を想像した。
そして同時に、
自分だけ生き残ることも想像してしまった。
ーーー
エリアスは酒場に行った。
扉を開けると、客は一人もいなかった。
カウンターでバーテンダーが黙ってコップを拭いている。
エリアスは窓際の席に適当に腰掛ける。
頬づえを突きながら 窓の外へ目を向けた。
暗闇の向こうには何も見えない。
ただ、遠くで軍馬の足音がしている。
母とクレールの姿が目に浮かんだ。
「……逃げられないな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
翌朝まで村に残る。
それくらいならできる。
そう思った。
そこから先のことは、その時考えればいい。
――そして。
「飲むか!」
誰かの声がした。
エリアスは振り返った。
酒場の扉が開き、村の男たちが酒瓶を掲げている。
「戦争なんだろ!だから飲むんだよ!」
「明日には飲めなくなるかもしれんぞ!」
「だったら今夜飲もうじゃねぇか!」
「縁起でもねえ!」
笑い声が起こる。
エリアスはそれらを睨んだ。
「……何なんだよ、お前ら」
「お前も来い、士官候補生!」
「嫌だよ」
「軍人なんだろ!」
「候補生だって言ってるだろ!」
「細けえ!」
集まってきた男たちに引っ張られるように、エリアスも輪に加わった。
慣れ親しんだ村人。
いつの間にかほとんどの顔が揃っていた。
酒が回り始める。
誰かが昔の失敗を話し、誰かがそれを大笑いする。
ロシア軍の噂は何度も出たが、最後にはどうでもいい話へ変わった。
「俺は昔、熊を倒したことがある」
「嘘つけ。熊に追いかけられて納屋に逃げ込んだだけだろ」
「細かいな!」
「全然違うだろ!」
笑い声が起きる。
エリアスも笑った。
こんなに馬鹿馬鹿しくて、安心できる時間が、これからも続くような気がした。
酒を飲みながら、エリアスは何度も思った。
(ここにいて、よかったのかもしれない)
少なくとも今は。
逃げることは、やめた。
理由なんて、まだよく分からない。
母がいるから。
クレールがいるから。
皆がいるから。
この村が自分の故郷だから。
たぶん、それだけだった。
夜が深くなる。
酒瓶が一本、また一本と空になっていく。
最後には、誰かが卓に突っ伏して眠り始めた。
エリアスも眠気を覚えながら、ぼんやりと酒瓶を眺めていた。
――朝になったら、何か考えよう。
それでいい。
そう思っていた。
そして、朝が来た。
最初に異変に気づいたのは、教会の鐘だった。
ただし、いつもの朝の鐘ではなかった。
乱暴に鳴らされている。
一度。
二度。
三度。
酒場にいた人々が顔を上げる。
エリアスは眠気の残った目を擦りながら立ち上がった。
「……何だ?」
外へ出る。
村人たちも次々と外へ集まってくる。
教会の前に人が集まり始めた。
誰かが叫ぶ。
「隣村だ!」
エリアスはそちらを見る。
村の東側。
森の向こうにある小さな集落。
普段なら、煙が一筋上がっている程度しか見えない。
だが今朝は違った。
高い場所に、一本の旗が立っている。
風に煽られ、布が大きく翻っていた。
遠くからでも、その色と紋章ははっきりと分かった。
エリアスの酔いが、一瞬で覚める。
誰も声を発さなかった。
昨日まで冗談を言っていた村人たちも、ただ東を見つめている。
旗が、もう一度大きく翻った。
黒・黄・白の三色旗。
――ロシア帝国の旗だった。
エリアスは息を呑んだ。
噂ではなかった。
演習でもなかった。
逃げてきたドイツ軍が恐れていたものが、ついに、自分たちの目に見えるところまで来ていた。
ーーー
誰も動かなかった。
ブリュンハルト村の東に見える丘。その頂に立つ旗は、朝風を受けるたびに大きく膨らみ、白い布地を何度も翻していた。
ロシア帝国の旗。
昨日までなら、教科書の片隅に載っているだけの国だった。
今、それが目の前にある。
「……あれ、本物なのか?」
誰かが呟いた。
「旗だけだ。兵隊は見えない」
「だから何だっていうんだ」
「隣村にロシアの旗があるんだぞ!」
少しずつ声が大きくなっていく。
老人の一人が震える手で胸元の十字架を握った。
別の男は家へ駆け戻り、戸締まりを始める。
昨日まで酒を飲んで笑っていた村人たちは、もう誰も笑っていなかった。
エリアスは東を見つめ続けた。
あまりにも静かだった。
砲声も聞こえない。
銃声もない。
だからこそ恐ろしかった。
敵が見えない。
ただ旗だけが、そこにある。
「エリアス」
クレールの声がした。
「どうするの?」
「分からない」
正直な答えだった。
士官学校では、こういう時にどうするかを教えられている。
敵情を確認し、司令部へ報告し、部隊を整え、退路を確保する。
しかし今、自分がいるのは士官学校の演習場ではない。
手元に部隊はない。
命令もない。
あるのは、家族と村人だけだ。
エリアスは旗を見たまま、唇を噛んだ。
逃げるなら、まだ間に合うかもしれない。
だが、村はどうなる。母さんは。
エリアスはとっさに踵を返し、家の方角へと歩き出した。
「待ってよ……軍隊は?」
クレールが必死についてくる。
「西に消えた」
「昨夜通った軍は?」
「もういない」
「全部?」
「西へ行った」
クレールの顔が引きつる。
つまり、村に残っているのは村人だけ。
帝国軍は、この場所を守るつもりがない。
そう理解した時だった。
道の向こうから、再び馬の音がした。
今度は昨日のような大勢ではない。
二頭。
それだけだった。
エリアスとクレールは身構えた。
現れたのは、二人の騎兵だった。
どちらも帝国軍の制服を着ている。
先頭の男は、馬上でも妙に姿勢が良かった。
珍しい、爽やかな黒髪。エリアスと同じだった。
年齢は二十代前半だろう。
若い。
それなのに、肩には明らかに士官の階級章がある。
もう一人は整った銀髪だった。先頭の男より少しだけ小柄で、馬を降りるなり大きく息を吐いた。
「……やっと着いた」
その言葉に、隣の男が振り返る。
「何を安心している」
「安心したっていいでしょう。俺は二十キロも馬を走らせたんですよ」
「私も走らせた」
「閣下は馬に乗ってただけでしょう」
「お前も乗っていただろう」
「精神的には走ったんです」
エリアスは呆然と二人を見ていた。
黒髪の士官がこちらへ歩いてくる。
「ここがブリュンハルトか?」
エリアスは反射的に姿勢を正した。
「はい」
「名前は?」
「エリアス・ヴァルク。士官候補生です」
「そうか」
男はそれ以上興味を示さなかった。
そして、なぜか自然な動作で道端の家へ向かった。
そこは、エリアスの家だった。
「……え?」
エリアスが間の抜けた声を漏らす。
男は玄関を開ける。
「邪魔するぞ」
「ちょっと待ってください!」
エリアスとクレールが追いかける。
だが男は当然のように家の中へ入り、暖炉の前に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
そのまま手を暖炉へかざす。
「ああ、暖かいな」
「いや、ちょっと……」
「何だ?」
「ここ、僕の家です」
「そうみたいだな」
「初対面ですよね?」
「そうだな」
「だったら、なぜそんな当然みたいにくつろいでるんですか?」
男は少し考えた。
「疲れたからだ」
「そういう問題じゃない!」
後ろから、銀髪の士官が飛び込んできた。
「閣下!」
「何だ」
「勝手に民家へ上がらないでください!」
「座りたかった」
「だからといって!」
その男は頭を抱えた。
エリアスは二人を交互に見た。
片方は暖炉の前で完全にくつろいでいる。
もう片方は、その相手に対して今にも頭を抱えて倒れそうになっている。
母も台所から顔を出した。
「……お客様?」
「そうらしい」
エリアスが答える。
「お茶を出しましょうか?」
「お願いします」
ファルケと呼ばれた士官が即答した。
「お前も自然に頼むな!」
エリアスが叫ぶ。
母が急いで台所へと向かう。
黒髪は、まるで自分の家のように椅子へ深く腰掛けたまま、エリアスを見上げた。
「エリアス」
「……はい」
「思ったより若い」
「士官候補生ですから」
「そうだったな」
彼はわずかに笑った。
「私はアーデル。彼はファルケだ」
アーデルは銀髪の士官を指さした。
「……それだけですか?」
「それ以上必要か?」
「階級は?」
「大将」
エリアスは黙った。そして乾いた笑みを浮かべる。
暖炉がぱちりと鳴った。
「……はい?」
「大将だ」
「いや、聞き間違えました。大尉ですね」
「大将だ」
「こんなところに?」
「いる」
「一人で?」
「二人いるだろう」
「そういう意味じゃなくて!」
ファルケが頭を抱えた。
「すまんが、本当に大将なんだ」
「信じられない」
「俺だって信じたくないさ」
「貴方は何なんだ?」
「中佐。アーデル閣下の副官だ」
アーデルは暖炉を見ながら言った。
「私は一応、ハプスブルク直属の大将なのさ」
「……」
エリアスはしばらく何も言えなかった。
なんだ、コイツは。
ロシア軍が隣村まで来ている。
帝国軍は敗走している。
村人たちは怯えている。
自分は逃げるか残るかで悩んで、朝から胃が痛くなりそうなのに。
大将は、人の家の暖炉の前で暖まっている。
「ハプスブルクの大将なら……」
エリアスがようやく口を開く。
「ロシア軍にどう対処するか、何か考えているんですよね?」
アーデルは黙った。
「……」
「閣下?」
「……まだ考えてない」
エリアスの顔が固まった。
「は?」
「敵が近くにいることは知っている」
「それだけですか?」
「うん」
「うん、じゃないでしょう!」
ファルケが割り込む。
「いや、エリアス。俺には一応案があるぞ」
「本当ですか?」
ファルケはエリアスを向いた。
「敵は我々が夜間に急襲すれば混乱する。その混乱に乗じて、村の北側から――」
ファルケは真剣な顔で、ポケットから小さな地図を広げた。
「……こちらへ回り込み、さらに東へ迂回して、敵の背後を――」
エリアスは地図を見た。
そして、窓の外を見る。
「この村、完全に平地ですよ」
「ああ」
「敵に気づかれずに背後へ回れる道は?」
「それは…」
「兵力差は?」
「分からん」
「敵の数は?」
「分からん」
「こちらの手勢は?」
「……黙秘する」
「では、どうしてその作戦が成功すると思うんですか?」
ファルケは黙った。
「……成功してほしいからだ」
「願望じゃないですか!」
家の中に、妙な静寂が落ちた。
クレールがため息を漏らした。
アーデルだけが何事もなかったように暖炉を眺めている。
エリアスは頭を抱えた。
こんな連中に、どうしろというのだ。
ロシア軍の旗は、まだ隣村に翻っている。
エリアスは窓からそれを見た。
背中に冷たい汗が流れた。
逃げるべきだ。
今度こそ、本当に。
軍人でもない村人と一緒に、こんな場所に残る理由はない。
母には逃げてもらえばいい。
クレールにも。
自分は学校へ戻る。
そうすれば――。
しかし、奥から母の声が紅茶を台にのせてやってきた。
彼女はアーデルを見やり、アーデルはニコニコ微笑む。
そして母の視線が、アーデルに向いた。
「エリアス」
「……何?」
「今夜、村のみんなで話し合うわ」
「何を?」
「決まっているでしょう」
母は少しだけ微笑んだ。
「どうやって、この村を守るかよ」
エリアスは答えられなかった。
窓の外では、ロシアの旗が風に揺れていた。
【歴史断片・2039年】
ハプスブルク家はプロシア軍閥と同盟を結び、分裂状態にあったドイツへ進軍。
ベルリン入城を果たした翌年、ドイツへの影響力を維持していたフランス軍を撃破し、ドイツ統一を宣言した。
2
ーーー
「じゃあ、どうやってロシア軍を倒すか考えましょう」
村長の言葉を皮切りに、教会にいる村人たちは騒ぎ始めた。
並べられている長椅子を囲み、ああでもない、こうでもないと意見をぶつけ合う。
エリアスの母も、クレールも混ざっていた。
「森に火を放つべきだ」
「仕掛けるのは夜だ。そうじゃなきゃ勝ち目はねぇ」
「帝国軍が戻ってくるまで耐えれれば…」
どれも現実味があるようで、どこか現実味がなかった。
エリアスは扉の前で様子を眺めながら、ため息をついた。
敵が何人いるのかさえ分からない。
それなのに、村人たちは「どうやって倒すか」を話している。
だが、それを笑うこともできなかった。
エリアスは、螺旋階段を静かに登った。
教会の鐘楼、そのさらに上にある小さな展望台には、アーデルとファルケがいた。
二人がいる所には、古びた木製の望遠鏡が、石造りの台座に固定されている。
「これは使えるのかな?」
アーデルは飄々としている。
エリアスは望遠鏡の覗き穴に目を当て、隣村を見つめた。
家々が並び、道が伸び、畑が広がり、ロシアの旗がある。
だが、妙だった。
「……静かすぎないか」
エリアスが呟く。
ファルケもその横から望遠鏡を覗く。
「確かに。村人はおろか、ロシア兵も見えん」
「避難したとか?」
「それなら、それでいいんだが……」
ファルケの言葉が途中で止まった。
「……待て」
「何ですか?」
「道の端を見てください」
エリアスがもう一度、望遠鏡を覗く。
道の脇。
何か黒いものが倒れている。
最初は荷物かと思った。
だが、倍率を調整すると、人間の身体だと分かった。
「は……」
エリアスは言葉を失った。
村人だった。
服装も、この地方の農民が身につけるものと同じだ。
一人。
そして、その少し先にも、もう一人。
さらにその奥にも――。
「……嘘だろ」
エリアスは望遠鏡から顔を離した。
手が震えている。
「どうした?」
アーデルが、相変わらず気の抜けた声で尋ねる。
「人が……倒れてます」
「何人?」
「待って……三人……いや、もっといる」
ファルケが再び望遠鏡を覗いた。
しばらく黙っていたが、やがて低い声を漏らした。
「……六人」
エリアスが振り向く。
「いや……」
ファルケは望遠鏡を動かした。
「向こうの家の裏に、さらに二人」
沈黙が落ちた。
風が鐘楼を抜けていく。
エリアスは再び望遠鏡を覗いた。
今まで気づかなかったものが、次々に目に入ってくる。
倒れた荷車。
開け放たれた家の扉。
道に散らばった農具。
そして、道端に横たわる人影。
「……何があったんだ」
声が震える。
その時だった。
「待て」
アーデルが言った。
珍しく、その声には軽さがなかった。
「もう少し右だ」
エリアスが言われた通りに望遠鏡を動かす。
村の外れ。
何かが動いた。
一頭。
二頭。
馬だった。
その上に、人が乗っている。
銃を背負い、長い外套を身につけた兵士たち。
旗が翻る。
白、青、赤。
「……ロシア軍」
ファルケの声が掠れた。
エリアスは息を呑んだ。
ロシア兵が、隣村を歩いている。
しかも歩兵ではない。
複数の騎兵が、村の中をゆっくりと進んでいる。
エリアスの顔から血の気が引いた。
「騎兵……?」
それだけではない。
騎兵たちは隊列を整えるでもなく、好き勝手に村の中を移動している。
ある者は馬から降り、家の中へ入る。
別の者は道路の真ん中で談笑している。
まるで、戦場にいる兵士には見えなかった。
「やっぱり、来てるんだ……」
エリアスは望遠鏡から目を離した。
そのまま踵を返す。
「待て、どこに行く」
ファルケが言った。
「皆に知らせないと…」
「しかし…」
「このままじゃ、皆殺しだ!」
エリアスはファルケには目もくれずに駆け出した。
そのまま螺旋階段を急いで降りる。
(ロシア兵がずっと隣村に居座っていたのは、村を最大限楽しむため)
(物を略奪し、村人を襲い、そして最後に全員殺す気だ…)
エリアスは唇を嚙んだ。
村人たちに、隣村で何が起きているのかを伝えなくては。
一方、エリアスがいなくなった展望台では。
アーデルは望遠鏡をとり、ロシア騎兵を追っている。
「閣下、とりあえずなにか策をーー」
「しっ」
その一言だけで、アーデルはファルケを制した。
しばらく経って、ようやく望遠鏡から目を離す。
その顔には、先ほどまでの気の抜けた表情がなかった。
「……なるほどな」
ポツリと呟く。
「は?」
「これは、思っていたより面白い」
アーデルは手摺壁に体を預け、夕陽に照らされた家々を見やる。
風が頬をなで、黒髪を揺らす。
その向こうで、今もロシアの騎兵が動いていた。
ーーー
茜色の空が深い群青色へと染まり、影が村を包み込むにつれて、夜の静寂へと移り変わる。
教会には、異質な空気が漂っていた。
机の上には、村の簡素な地図が広げられている。
そして東側にある隣村。
その位置には、赤い印がつけられていた。
「夜のうちに行く」
村人の一人が言った。
「敵はまだ村に入っていない。今なら向こうも油断しているはずだ」
「何人いるか分からんぞ」
「だからこそだ。朝まで待てば、もっと増える」
別の男が頷く。
村人たちは怯えていた。
それでも何かしなければならないという気持ちだけは強かった。
「待ってください」
扉を勢いよく開き、エリアスが講堂に躍り出る。
村人たちの視線が集まる。
「夜襲なんて無理です」
「軍人さんがそんなこと言ってどうする」
「軍人じゃありません。士官候補生です」
エリアスは続ける。
「敵の数が分からない。どこにいるかも分からない。こちらはまともな訓練を受けた部隊でもない。夜襲したところで、皆殺される」
最後の言葉だけ、教会に静かに降り下りた。
地形を見て、敵の進路を推測する。
部隊を配置する。
退路を確保する。
だが、今ここで決められている作戦には、何よりも重要なものが欠けていた。
敵の正確な兵力と装備。
「じゃあどうする、候補生さんよ」
誰かが言った。
「軍人になるんだろ?だったら部隊連れてきてくれよ。村を守るのが、軍隊の仕事だろうが」
「それは……」
「何もしないで、村が踏まれるのを見ていろってか?」
次は、別の誰かによって発せられた。
エリアスは言葉を失った。
それを言われると、何も返せない。
何もしなければロシア軍は村へ来る。
その時、どうなる。
エリアスは答えを知っていた。
隣村の風景が、わずかに脳裏に霞む。
だが逃げようとは言えなかった。
全員で逃げたとしても、今更逃げ切れる保証がないからだ。
「儂は行くぞ」
年配の村人が立ち上がった。
「家族だけでも逃がせばいい」
「俺もだ」
「だったら俺も」
一人一人、手が上がっていく。
エリアスは、その光景を見ながら胸の奥が重くなるのを感じていた。
彼らは勇敢なのだろうか。
それとも、恐怖で正常な判断ができなくなっているのだろうか。
分からなかった。
ただ一つ分かることがある。
自分も、怖い。
エリアスは母の方を見る。
母は黙って話を聞いていた。
そして、隣にはクレールもいた。
「……母さん」
エリアスが呼ぶ。
「何?」
「行かないでくれ」
母は少しだけ目を丸くした。
「どうして?」
「夜襲なんて無茶だ。敵は軍隊だぞ」
「分かってる」
「だったら――」
「エリアス」
母は穏やかに遮った。
「あなたは逃げて」
エリアスは黙った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
「やっぱり、母さんも逃げよう」
「私は残るわ」
「そんなに村が大事なのか?」
「それもあるけど、一番はあなたを逃がすため」
「意味分かんないよ」
エリアスの声が大きくなる。
「逃げるなら一緒に逃げればいいだろ!」
「それはできない」
「どうして!」
母は答えなかった。
その代わり、クレールが口を開いた。
「エリアス」
「何だよ」
「ここを誰かが守らないと」
「守れないだろ!」
思わず叫んだ。
教会が静まり返った。
エリアスは自分の声に驚いた。
「本当に無理なんだ。君たちじゃ勝てない。騎兵だっているんだ」
クレールは静かに彼を見ていたが、不意に少しだけ笑った。
「勝たなくてもいいよ。時間を稼げればいい。」
その言葉に、エリアスは何も言えなくなった。
自分が逃げるための時間を稼ぐ。
他の誰かが死ぬことで作る時間。
母もこちらを見ている。
その目は、昨日の夜と同じで穏やかだった。
母も自分を逃がすために、ここに残るつもりなのだ。
「……嘘だろ」
小さく呟く。
「そんな顔するんじゃないの」
「できるわけないだろ」
「あなたはまだ若いもの」
「母さんだって若いだろ」
「そんなことないわよ」
場違いなやり取りに、何人かの村人が苦笑した。
だがエリアスには笑えなかった。
目の前にあるものを理解した瞬間、頭の中が真っ白になっていた。
自分一人で逃げれば、生き残れる。
ドイツ軍の後を追い、ベルリンの士官学校に戻る。
そこで正式に軍人になればいい。
そして、ある考えが頭の中を駆け巡った。
「母さん」
「なに?」
「決めたよ。僕は逃げる。そして……」
母とクレールは顔を見合わせた。
「生き残って、いつかこの村を取り戻す」
そう言って、エリアスははにかんで見せた。
そして、ゆっくりと扉へ向かった。
「エリアス」
扉に手をかけた時、母の声がした。
振り返らない。
「……何?」
「気をつけてね」
その一言が、あまりにも普通だった。
まるで明日も帰ってくるかのように。
エリアスは唇を噛んだ。眼が潤んだのを自覚した。
扉を開け、廊下を歩く。
外へ出、村の暗い道を歩く。
一歩進むごとに、胸が痛くなった。
これでいい。 これでいいんだ。
自分は軍人じゃない。
十八歳だ。
母を助ける力なんてない。
そう言い聞かせる。
それでも足取りは重い。
村の出口まで来た。
エリアスは一度だけ振り返った。
暗闇の中に、自分の家がある。
そこに母がいる。
クレールもいる。
村人たちもいる。
そして、その向こうにはロシア軍がいる。
エリアスは目を閉じた。
その瞬間、背後から声がした。
「どこへ行く?」
振り返ると、アーデルの顔が闇から現れた。
「……逃げます」
「そうか」
「止めるんじゃないんですか」
「いや」
アーデルは少しだけ首を傾けた。
「逃げたいなら逃げればいい」
それから、エリアスの横を通り過ぎる。
村の外ではなく、村の中へ。
「ただし」
アーデルは振り返った。
「君は一人では逃げない」
「はっ?」
エリアスは意味が分からなかった。
アーデルはそれ以上説明せず、ただ村の奥を見る。
その目だけが、先ほどまでとは違っていた。
この男は、もしかすると――
自分が思っていたほど何も考えていないわけではないのかもしれない。
(大将、だもんな……)
だが、その答えを知る時間はなかった。
東の闇の向こうから、地鳴りが聞こえてきたのだ。
無数の音が重なり始める。
馬蹄だった。
そして、村が騒がしくなった。
村人たちが一斉に教会を出たのだ。
夜襲の準備をしていた男たちが、武器を握り列を作る。
アーデルは気にすることもなく、そのまま歩き続けた。
「ちょ、アーデル大将?」
エリアスは息を呑んだ。
「どこへ行くんですか?」
返答はない。
エリアスは、居ても立っても居られなくなった。
戦が始まる。軍の要人は一人で戦場をうろつく。
このまま放っておいていいのか。
エリアスは駆け出した。
そしてアーデルの腕をつかむ。
「危険です!死ぬつもりですか!?」
その瞬間、エリアスの目に映ったのは見知った村人たちだった。
男たちは、それぞれ銃や農具を握りしめている。錆びついた猟銃を抱える者もいれば、古い軍用銃を握る者もいた。
そして東の街道の先から、最初の人影が現れた。
馬に乗っている。
その後ろにも、さらにその後ろにも馬。
暗闇の中から、次々と騎兵が姿を現していく。
エリアスは唖然とした。
(こんなに早く…)
ロシア兵はすぐそこまで迫ってきている。
村人たちの間に、震えが走った。
「今だ」
誰かが叫び、呼応するように男たちが一斉に走り出した。
「待て!」
アーデルの隣で、エリアスが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
数発の銃声が轟いた。
闇の中で閃光が走り、人が倒れていく。
それでも村人たちは前へ進んだ。
「撃て!」
「進め!」
「村を守れ!」
整った陣形など存在しなかった。
人間が、それぞれの恐怖を振り払うように前へ走っている。
エリアスは歯を食いしばった。
無茶だ。
こんなものは戦闘ではない。
母もいる。
クレールもいる。
村人たちもいる。
それでも、止めることができない。
エリアスは一歩踏み出したが、隣にいたアーデルが、突然エリアスの肩を掴んだ。
「なんです!?」
「行くな」
「でも!」
「まだだ」
アーデルの声は静かだった。
「……何を待ってるんですか?」
「見れば分かる」
エリアスは再び戦場を見た。
村人たちがロシア騎兵へ向かっていく。
村人らが囲んで数人の騎兵を突き落とした。
村人たちは勢いづき、次々と後続に銃撃を浴びせる。
ロシア騎兵が一斉に方向を変えた。
馬を反転させ、銃撃をかわすように退いていく。
そして左右へ散り、中央が大きく開いた。
「……あれは、誘いだ」
エリアスは呟いたが、村人たちの勢いは前へ進む。
その先には、敵の後続部隊がいた。
しかも、こちらへ向かってくる騎兵の数が、さっきまでとは比べものにならない。
「戻れ!」
だが、前へ出ていた村人たちには届かない。
ロシア騎兵が瞬く間に殺到し、村人の列が崩れる。
叫び声が上がり、銃を捨てて逃げる者で道は溢れかえった。
エリアスを通り過ぎ、逃げ出していく。
転んで起き上がれない者、仲間を引きずろうとする者もいる。
一瞬だった。さっきまで勇ましく叫んでいた人間たちが、今はただ生き延びようとしている。
エリアスは思わず後ずさった。
「うわぁ!」
眼の前で、村人が背後から騎兵に斬られた。。
鮮やかな赤や青の外套を羽織った、ロシア軍の指揮官だった。
馬上から戦場を見渡し、笑っている。
「……あいつ」
指揮官が、こちらを見た。
目が合い、エリアスの身体が強張る。
男は笑い、馬をこちらへ向ける。
「オラァ!」
男が叫んだ。
その声には、異様な昂揚があった。
逃げる村人を追いかける。
倒れた者を見下ろす。
そして、また次の獲物を探す。
まるで戦場そのものを楽しんでいるようだった。
エリアスの背筋が凍る。
「エリアス!」
脇から、母の声がした。
指揮官に並走して、母が走ってくる。
「逃げて!」
「母さん!」
エリアスは動けなかった。
足が震えている。
何もできない。
母が自分の前へ出る。
指揮官が剣を振り上げ、エリアスは目を見開いた。
「母さん――!」
母と確かに眼が合った。
その顔には、不思議なほど穏やかな表情が浮かんでいた。
母が、膝を落とす。
「エリアス……」
母の声が、震えていた。
「約束……」
母が地面に突っ伏したと、ようやく分かった。
体の震えが、なぜか止まった。
指揮官の口元が歪み、大声で嗤った。
不愉快な嗤いだけが、エリアスの脳に染み込む。
足音が、微かに聞こえたような気がする。
「そこまでだ」
次は、綺麗な男の声。
アーデルが腰に手をかけ、指揮官の目の前に立っている。
「こうなることは、予想できていたよ」
「あぁ?」
指揮官がアーデルを睨みつける。
「失礼ながら、望遠鏡であなた方の姿を観察させていただいたよ」
アーデルはまったく怯まなかった。
「君たちは村に一日滞在し、思う存分満喫していたね。家を略奪し、女を犯し、男をさらし、子供を殺した」
彼は淡々と述べる。
「でも、軍規が厳しいロシアの正規兵はそんなことはしない。つまり君たちはロシアの正規軍ではない。じゃあ一体誰なのか」
アーデルはゆっくりを指揮官の周りを歩く。
「足の速い騎馬隊。それで最前線を押し付けられる。そう、答えはコサックの騎兵隊だ」
アーデルは奥を見やる。
「でも、村でのんびりしている隊の統制が取れてるわけがない。案の定、村人を追いかけ簡単に陣形は乱れた」
「どういうことだ…」
エリアスは黙って聞いていた。
頭の中で、さっきまでの戦場が繋がっていく。
村人たちが突撃した。
ロシア騎兵が追った。
陣形が乱れた。
そして今、指揮官まで前へ出てきた。
(まさか、今この瞬間を――)
アーデルは待っていたのか。
「君たちは実に私の思い描いた通りに動いてくれたよ。陣形も乱れ、しかも相手は弱い村人。勇猛なコサックの指揮官が出てこないはずがない」
異国語の長話に飽きたのか、指揮官が馬を引き、アーデルに突進した。
指揮官の剣がアーデルの首筋に達しようとしている。それなのに、アーデルの口角が上がった。
「君はすでに、負けているよ」
次の瞬間、銃声が響いた。
乾いた、一発の音だった。
ロシア軍指揮官の身体が大きく揺れる。
剣が地面へ落ち、馬が暴れた。
男はそのまま馬上から崩れ落ちる。
エリアスには、何が起きたのか分からなかった。
ただ、すぐ横にいたアーデルが銃を構えていた。
「彼らは追いすぎた。指揮官も、あまりに簡単に前へ出た」
アーデルが言葉を継ぐ。
「最初から、村人を……利用した?」
エリアスの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「じゃなきゃ勝てない」
あまりにも簡単に言われた。
エリアスは唇を震わせる。
「人を使い捨てにしたんですか」
「違う」
アーデルは淡々と答え、踵を返した。
「逃げるぞ」
背後から、一人の男が二頭の馬のたづなを引いて歩いてくる。
「閣下!」
ファルケだった。
「ご無事ですか?」
「全部上手くいったよ」
エリアスはアーデルに駆け寄ろうとした。
だが、足が動かない。
目の前の現実を受け入れたくなかった。
アーデルがエリアスの身体を掴んだ。
「エリアス」
強引に引き寄せる。
「離してください。母さんを……置いていけない」
「彼女の意思を無駄にする気か?」
エリアスは必死に抵抗した。
「でも!」
「乗れ」
アーデルが馬へ飛び乗る。
エリアスを無理やり引き上げ、そのまま自分の前へ抱える。
「ファルケ!」
「はい!」
ファルケもすぐに馬へ乗った。
「行きますよ!」
二頭の馬が一斉に駆け出す。
エリアスは振り返る。
ブリュンハルトの村が遠ざかっていく。
そして――母も。
「母さん……」
声が震えた。
エリアスはアーデルの腕を振りほどこうとする。
「離してください!」
「暴れるな」
「戻って!」
「戻れば死ぬ」
「それでも!」
アーデルは何も答えなかった。
馬を走らせ、ファルケもその横についてくる。
母を置いてきた。
全部、あの村に残してきた。
胸の奥が締めつけられる。
自分は逃げた。
結局、逃げた。
アーデルの腕の中に捕まったまま、エリアスは何も言えなかった。
やがてアーデルが、前を向いたまま呟く。
「士官候補生」
「……何ですか」
「覚えておけ」
「何を」
「戦場では、勇気のある奴から死ぬとは限らない」
風がエリアスの頬を打った。
「一番危ないのは、自分が何をしているのか分からない奴だ」
エリアスは答えなかった。
ただ、遠ざかっていく故郷を見つめ続けた。
その日。
十八歳の士官候補生エリアス・ヴァルクは、初めて戦場を知った。
そして同時に、
戦争とは、敵を倒すことだけではない。
誰かを救うために、誰かを置き去りにしなければならないことすらある。
その残酷な現実を、嫌というほど思い知らされた。
【歴史断片】
ドイツ帝国の東方拡張と軍備増強に対し、ロシア帝国は国境地帯への兵力集中を開始。フランス・オランダもドイツへの警戒を強め、欧州諸国の対立は決定的となった。
執筆の狙い
あまり小説を書いたことがありません。語彙の使い方、説明の重複、省略の是非など細かな内容から、面白いかつまらないか、その理由、何を感じたか、テーマ性含めて自由でクリエイティブな感想をお待ちしています。
また、もしなろうなどに投稿するさいのアドバイスや注意点についてもお待ちしております。