命の名前(9400字)
京極の屋敷へつづく坂の途中に、小さな公園がある。
ベンチでは、三つばかりの男の子が新聞をたたみ直していた。通りかかった老人が株価を尋ねると、男の子は短く答え、ずり落ちかけた靴下を引っ張った。老人は丁寧に頭を下げた。
この世界――『二』では、顔に合った話し方をする人のほうが少ない。
『一』の世界で死んだ者は、こちらで生まれる。前の生を覚えたまま、別の親の子になる。前の命が終わった日が、こちらの誕生日になる。
言葉を話せるようになると、たいてい最初に誰かの名を呼ぶ。
私は、「雅人」と呼んだ。
ブラジル人のこちらの母は、それを私の前の名だと思い、しばらくそう呼んでいた。違うと伝えられるまで、ずいぶんかかった。
石段の三十七段目で、向こうの通学路が透けた。高校生が自転車で下っていく。口を大きく開けて、友達に何か言っている。声は届かない。
四十一段目で消えた。
一の世界の、私の家系には、ときどき別の景色や人影が視える者がいた。霊感と呼ばれるものだ。こちらへ来て、あれが二の世界だったと知った。
私にも、その力は残った。ただ、いつ何が視えるか、自分では決められない。
京極は、それを仕事にしている家だ。
門には古い板が掛かっていた。
『一の世界への干渉は法律で固く禁止されています』
待合で、若い男が膝の上の帽子をさすっていた。
「娘を探してるんです。もう二十年」
目が合うと、男は帽子から手を離した。
「向こうじゃ、とっくに私より年上ですよ。どんな顔してるのかな」
「見つかったら、どうするんですか」
「どうもできません。こっちの声は聞こえないし」
男は帽子の縁を撫でた。
「でも、見たいでしょう」
私の順番が来た。
稀代の霊能力者、京極晴信。障子の奥で帳面を開いていたのは、私と同じくらいの歳の少年だった。目が青く、肌が白い。袖口から細い手首が出ていた。
「お名前を」
「シルヴァ・ラウラ。前の世界では、宮本理央です」
「お探しの方は」
「後藤雅人。同じ高校でした」
「探したい理由は?」
「死ぬ前に付き合っていた恋人でした」
筆が動いた。
「最後にお会いになったのは」
「十六年前の二月十日」
「あなたが亡くなったのは?」
「その四日後です。二月十四日」
晴信は日付を二つ書き、先に書いたほうへ筆の先を戻した。
「十日で、間違いありませんか」
「はい」
今の私は十六歳だ。もう少しで、前の生が終わったときの年齢を超える。
十二のとき、こちらの両親に頼み、日本の寄宿学校へ移った。前の生の言葉が使えて、前の生の住所を知る人に会える国に来たかった。
今日は土曜日なので学校は休みだ。道場で空手の稽古をしてから、ここへ来た。
空手を始めた理由を、こちらの母は尋ねなかった。道着を二着送ってくれて、洗い替えは必要だから、と手紙に書いてあった。
「少なくとも数か月はかかります」
少年は帳面を閉じた。
「途中でやめることもできます。毎週、土曜に来られますか。思い出していただきたいことがあります」
「何でも話します」
言ったあとで、雅人の声がした気がした。
――おまえは、何でも大げさなんだよ。
私は膝の上で手を重ねた。
「思い出せることなら」
若様、と屋敷の人たちは少年を呼んだ。
霊視の間で彼は、雅人の背丈や声、歩き方を尋ねた。私の記憶と、向こうに視える人物を照らし合わせるのだという。
雅人は笑うと、片方の頬だけが上がる。私はその顔が可笑しくて、よくつられて一緒に笑った。考え事をすると、爪で机を二度叩く。私の話を聞きたくないときにも、同じことをした。
「雅人はもう、その話はいい、って言うんです」
「何の話をしていたんですか」
晴信の筆を見た。
あれを話したら、この人の帳面にも残る。雅人は嘘を言うなと怒った。本当に私の思い込みなのか、確かめることさえできなかった。
「よく覚えていません」
筆は動かなかった。
六月の雨の日、診立てのあとも帰れずにいると、廊下で何かが散らばる音がした。
縁側の下に、将棋の駒が落ちていた。晴信がしゃがみ込んで拾っている。
「何してるの」
「片づけようとして」
石の隙間に入った歩兵を拾うと、彼が手を差し出した。
「私が拾うので」
「もう取れたよ。誰とやってたの」
「従妹です。六歳の」
「勝った?」
「飛車角落ちで負けました」
駒入れの底に、歩兵が乾いた音を立てた。
「前は将棋会館に入り浸っていたそうです。祖父は、一度やったことなら思い出せると言うんですが」
「やったことないんでしょう」
晴信は顔を上げ、それから肯いた。
「力のこともです。前の生から持ってきたんだろうと。何も覚えていないのに」
「将棋、私でよければ教えるよ。前のお母さんに教わったから」
「本当に?」
帳面を前にしているときとは、違う声だった。
翌週、持っていった盤を広げると、彼は駒の名前を紙に書き始めた。銀の横に小さな矢印を五つ描き、角のところで紙の余白が足りなくなった。
「そこまで書かなくても、やってれば覚えるよ」
「先に覚えておかないと、途中で止めることになるので」
「止めていいんだよ」
晴信は筆を置いた。
最初の一局で、銀を横へ動かした。私が指で戻すと、彼はさっきの紙を見ようとした。
「今教えるから」
盤の上で動かしてみせる。晴信は同じように動かし、元の位置へ戻した。
「学校でも、こうしてくれればよかったんですが」
「将棋?」
「字です。読めないと言っているのに、声に出せば思い出すから、と」
二の学校では、前に習ったことを学び直す。国や言葉が変わっても、計算の仕方や文字を覚える要領までは変わらない、ということになっている。
私はそれで困ったことがなかった。
「その先生、結局どうしたの」
「もう一度、声に出しなさいと言いました」
晴信が筆を取り、銀の横に書き足そうとした。私はその手を盤へ戻した。
「もう一回やろう」
昼の膳を運んできた女の人が、盤を見て笑った。
「晴信さん、午後にもお客様がおられますよ」
晴信は背を伸ばした。女の人は彼の前に、煮豆の小鉢を一つ余計に置いた。
「お母さん?」
足音が遠ざかってから訊くと、彼は肯いた。
「煮豆、好きなの?」
「母が好きなんです。自分が好きなものは、私も好きだと思ってる」
「残せば」
「明日も出ます」
私は笑った。彼は小鉢をこちらへ押した。
半分食べた。体にはいいんだなという味で、正直好きではなかった。
夏祭りの日、屋敷の前を神輿が通った。
晴信は筆を持ったまま障子を見た。私は帳面の隅の似顔絵を見ていた。自分で描いた雅人なのに、週を追うごとに知らない男に似てくる。
「外、見ないの」
「途中ですから」
「今日はもう何も思い出せないよ」
盤を出す前に私が立つと、彼もついてきた。
参道では、六十ほどの男が水飴を買おうとして、小さな女の子に、夕飯前だから、と止められていた。男は一度列を離れたが、女の子が金魚を見に行くと、また並び直した。
晴信は呼び込みの声がするたびに足を止めた。射的の景品を見上げ、団扇を受け取り、持ち替えようとして落とした。慌てて拾い上げる。
「前見て歩きなよ」
「見ています」
「景品しか見てなかったよ」
参道の端の肉まん屋も、店先に蒸し器を出していた。私は二個買い、一個を彼に差し出した。
「いいよ、奢る」
「払います」
「同い年なんでしょう。お母さんから聞いたよ。そんなに気を遣わなくていいって」
「将棋で負けて、そのうえ」
「奢られるのは嫌だって?」
肯いた晴信は小銭を数えて、私の手に載せた。
肉まんをかじると、口を閉じたまま動かなくなった。
「熱い?」
目に涙が浮いている。私は笑わず、自分の肉まんを割って湯気を逃がした。彼も、少し遅れて同じようにした。
人の少ない道へ出ると、太鼓がよく聞こえた。その拍子に合わない節を、私は口の中で歌っていた。
一の世界にいた頃、自分で作った曲だった。歌詞もない、短い鼻歌。途中で続きが分からなくなり、最初へ戻ろうとした。
「今の歌」
晴信が立ち止まっていた。
「うるさかった?」
「何という歌ですか」
「名前はないよ。私が勝手に作ったの」
彼は肉まんの包み紙を握ったまま、こちらを見ている。
「もう一度」
私は、今度は声を少し大きくした。
同じところで分からなくなった。
「その先、忘れちゃった」
晴信はまだ歌の続きを待つように立っていた。手の中で、包み紙が細くねじれていた。
それから彼は、ときどき帳面に書かないことを訊いた。
前の生で好きだった科目。家では誰と食事をしていたか。雅人と会う日は、家族に何と言って出ていたか。
「友達と出かけるって」
「お母様には話していなかったんですか」
「何を言われるか分かってたから。自分では、上手くやってるつもりだったし」
晴信は帳面の端を押さえていた。
「雅人さんに会えたら、何を聞きたいですか」
その問いには、答えを用意していなかった。
会いたい理由なら、ここへ来るまでに何度も考えた。前の恋人だから。十六年も会っていないから。それで十分だと思っていた。
「私が間違ってたのか、聞きたい」
「何をですか」
「最後に、言い合いになったこと」
「雅人さんが、間違っていた場合は」
「あの人がそんなこと言うかな」
自分で言って、少し笑った。
晴信は笑わなかった。私は鞄から将棋盤を出した。
九月、彼は診立ての途中で眠った。
私が話し終えても返事がない。顔を覗くと、顎がかくっと落ちた。隣の部屋から屋敷の人が呼んでいたので、私は障子を細く開け、少し待ってください、と小声で言った。
帳面の脇には別の紙があり、駅の名前と時刻が細かく並んでいた。折り目のところだけ、何度も擦ったように黒ずんでいた。
十分ほどで、晴信は急に顔を上げた。
「大変申し訳ありません」
「夜も働いてるって聞いたよ」
「夜にしか会えない人もいます」
「雅人も?」
晴信は時刻の書かれた紙を帳面に挟んだ。
「もう少し、確かめたいことがあります」
十月になっても、答えは同じだった。
私は診立ての途中で、来月から月に一度にすると伝えた。
「費用でしたら」
「違う。毎週、今日は何か分かるかもしれないと思って来るの、疲れた」
「調べることは、まだあります」
「それ、前にも聞いた」
晴信の筆は止まったままだった。
「……会わないほうがいい人もいます」
「どういう意味」
「向こうで、別の暮らしをしている場合も」
「それでも見たいよ。最初からそう言ってる」
彼が筆を置いた。
置き方が慎重すぎて、私はその手を見た。
「見つかったの?」
晴信は僅かに肯いた。
「いつ」
「九月です」
「九月の、いつ」
「最初の週に」
私は立ち上がった。
「ラウラさん」
「どうして、あなたが決めるの?」
晴信も立ちかけたが、私が鞄を取ると、腰を下ろした。
「私のことなら、私に言ってよ」
廊下では晴信の母が、小鉢を載せた盆を持っていた。私は頭を下げる余裕もなく、その脇を通り過ぎた。
次の土曜は、道場のあと寄宿舎へ帰った。
濡れた道着を干し、課題を広げた。同室の子が、駅前の古着屋へ行こうと誘ってきた。先週、値札を見て戻した上着のことを思い出した。
「行く。課題終わらせるから、二時でいい?」
約束してから、時計を見た。京極の家では昼の膳が出る時刻だった。煮豆は、あの小鉢いっぱいでは多いだろうと思った。
教科書の、同じところを読み直した。
手紙が来たのは、その五日後だった。
見つけた日付と、次の待ち合わせ時刻。預けた費用のうち、九月以降の分も返されていた。
最後に、こうあった。
『判断するのはあなたでした。土曜日に、お見せします。隠していた理由も話します』
いつもと違う時刻に、二本の線が引かれていた。
私はその土曜、道場を休んで屋敷へ行った。
晴信は門の外で待っていた。
「申し訳ありませんでした」
深々とお辞儀をする。
「今日は、見せてもらえるんだよね」
「はい」
電車に乗り、三つ先の駅で降りた。晴信は先に立ち、ときどき時計を確かめた。
着いたのは、なだらかな丘だった。一瞬だけ、私にも別の景色が視えた。人の多い道と、ガラス張りの建物。すぐに草の斜面へ戻る。
晴信は丘の中腹で止まった。
「少し待ってください。まだ来ていません」
誰もいない場所を、目で追っていた。
やがて彼が息を整えると、世界が繋がった。草のあいだに白い線が現れる。横断歩道だった。斜面を無視して、平らな道が延びていく。
次に音が来た。
車の走る低い響き、靴底の擦れる音。駅前のスピーカーから、途切れがちな案内が流れていた。二の世界とは少し違う、懐かしい喧騒。
「聞こえる。こんなの初めて」
「普段視えているものとは違います。今は、私が視て、聞いているものをお渡ししています」
自転車を押す女の人が、私の膝を通り抜けた。足を引いたが、靴は草を擦っただけだった。
「触れません。向こうには、私たちはいません」
雅人は、駅の前にいた。
髪が少し薄くなっていた。上着を片腕に掛け、携帯を見ている。爪が画面の縁を二度叩いた。
私は息を吸った。
十六年経っても、この癖は変わらない。
雅人の肩越しに画面が見えた。
『パパ、今日は何時に帰る?』
その上にも同じ相手から、帰りに買ってきてほしいものが送られていた。
『今日はなるべく早く帰るよ。帰り道でスーパー寄るね。お弁当美味しかったです』
雅人が返信をしていると、駅ビルから女が一人出てきた。それを見た雅人はすぐに画面を閉じた。女は封筒を鞄へしまいながら、彼に手を振って隣に並んだ。
雅人は女の鞄を受け取った。私の鞄も、ああして持った。頼んだことはなかった。
「で、どうだった?」
「うん。やっぱり、してるって」
女が自分のお腹に手を置いた。
雅人の口の片側が上がった。
「そっか」
私はズボンの裾を握った。あのときも、雅人は同じ顔をした。
覚えているのか、知りたかった。
十六年経っても、たまには私を思い出すのか。あのときは悪かったと、誰も聞いていないところで言ったことがあるのか。
妊娠したかもしれないと話す私に、想像だと言い切ったこと。私が何も言い返せなかったこと。その大きな手で、私のお腹を思い切り殴ったこと。
三日後に、生理が来たと思った。重い生理で、組織の塊のようなものが出た。
「病院の費用は俺が払うからさ」
目の前の雅人が言った。
「どうしても、産んじゃだめ?」
「俺、誰かと結婚できるタイプじゃなくてさ」
女が何か言いかけた。雅人は、その声にかぶせて話し始めた。
雅人の爪が、携帯の縁を二度叩いた。
また、話を終わらせようとしている。
今なら私の話を聞いてくれるかもしれない。そう思って、ここまで来たのに。
「殺しますか?」
隣で晴信が静かに言った。
「強い能力を持つ者の中には、向こうへ干渉できる者もいます。私がそうです」
「でも、門に」
「禁じられているのは、できる者がいるからです」
晴信は雅人から目を離さなかった。
「宮本理央が望むなら」
雅人は女の肩を抱き、駅から離れようとしていた。
「死んだら、あの人もこっちに来るよ」
「知っています」
「それで、また探すの?」
彼は答えなかった。
雅人の、新しい顔。新しい名前。
そんなものまで、私は知りたくなかった。
晴信の青い目に血の糸が走っている。右手が震えていた。指を握り込み、何かを押さえるようにしている。
私は彼の前へ回った。
「晴信さん」
「前を見ていてください」
「こっちを見て」
彼の目が、私の肩越しに動いた。
「行ってしまいます」
「いい」
「でも」
私はその手首に触れた。
「あなたがやることじゃない」
彼は私の手を振りほどいて言った。
「それをラウラさんが決めるんですか!」
私はもう一度晴信の腕をつかんだ。彼の前からは退かなかった。
晴信は初めて、私をまっすぐに見た。目元が赤かった。
「私はラウラで、理央よ」
返事はなかった。
向こうで信号が変わる。雅人たちが横断歩道を渡り始めた。
「これは理央からのお願い。何もしないで」
彼は動かなかった。
やがて肩が下がり、横断歩道の白がほどけた。車の音が途切れた。
晴信は、そのまま斜面に座り込んだ。
「……まだ、好きなんですか」
しばらくして訊かれた。私は少し離れたところに座る。
「そんなわけ。ただあの人に、自分が間違ってたって言ってほしかった」
晴信は靴の先で土を削っている。
「今日起こることは、知ってたの?」
「水曜に、あの二人の話を聞きました。土曜は病院へ行くから、そのあとで会いたいと」
「だから、この時間だったんだ」
晴信は肯いた。
「私には、見せたくなかったんじゃないの」
「見せたくなかったです。あなたが、どんな顔をするかと思うと」
彼は土の上につけた筋を、靴底で消した。
「でも、見れば、あなたも強い気持ちを持つと思いました」
私は隣の顔を見た。
「私に、頼ませたかったの?」
靴が止まった。
「宮本理央が望むなら」
「どうして、そこまで」
晴信の唇が動いた。何か言っているのだと思って、私は顔を寄せた。
歌だった。
夏祭りの日に、私が歌った節。けれど、途中から違った。
私はいつも短いところで折り返していた。その先を、彼は知っていた。
最後の音が下がる前に、私の喉も同じ形を作った。
「誰に聞いたの」
「あなたに」
「そこは、歌ってない」
「前に」
私は膝に置いた手を動かせなくなった。
「顔も、景色も知りません。耳もなかったはずなのに、あなたの声だけが、すぐ近くで響いていました」
彼は一度、息を継いだ。
「言葉は分からなかった。でも、その歌は覚えていました」
「晴信さんの誕生日は」
「二月十日です」
帳面の上で止まった筆。
私が亡くなった日ではない。最後に雅人に会った日だった。
「日付だけでは、分かりませんでした。祭りで歌を聞いて、それで」
私は口を開いた。
「いたんだ」
晴信が顔を上げた。
「本当に、いたんだね」
彼は私を見ていた。
私の手が、お腹へ動いた。触れる前に、膝の上へ戻した。
「……俺のことは、覚えていなかったんですか」
私は首を横に振った。
「いなかったと、思おうとしてた」
彼は何も言わなかった。私は言い直そうとした。でも、言い直せる言葉がなかった。
「母親に会ったら、文句を言うつもりでした」
晴信は私の膝のあたりを見ていた。
「みんなが分かる常識が、俺だけ何も分からないんです。どうして俺だけ、何も知らずにこっちへ来たのかって」
銀の動き方を矢印で書き留めていた、あの紙を思い出した。
「でも、会ったら訊けなかった。雅人さんを見つけて、先に自分で確かめようと思いました」
私は少しずつ、彼との距離を詰めた。
彼は何か続けようとして、口を結んだ。伏せた顔のそばで、握った手が震えていた。
「苦しい」
十六歳の少年の声だった。
私は目を閉じた。
誰にも聞かれていないと思っていた。
部屋を暗くして、お腹に手を当てていた。いないのかもしれない。そう思いながら、声だけは出していた。
もし、いたら。
いたときに、何も聞こえなかったら嫌だった。
名前も決めた。けれど、一度も声にしなかった。呼んで、誰もいなかったら、と思うと口にできなかった。
「あお」
彼が顔を上げた。
「あお、辛かったね」
目の前の顔が歪んだ。
「それが、俺の名前ですか」
「うん」
「決めてくれていたんですね」
あおは、私の返事を待っていた。
「決めてた」
私は肯いた。
あおは何か言おうとしたが、息だけが漏れた。
「触ってもいい?」
彼は肯いた。
内側に抱えたことしかない子を、外側から抱いた。
背中に手を回す。あおはしばらく腕を下ろしたままで、それから私の上着を掴んだ。
彼の胸に耳を寄せた。
心臓の音がした。
私は、その音を聞いた。
日が落ちる前に、丘を下りた。
麓で、あおが立ち止まった。
「さっきは、すみませんでした」
私は振り返った。
「俺がしたかったんです。それを、あなたの望みにしようとしました」
「うん。あれは、まだ怒ってる」
あおは小さく肯いた。
あおが隣に来てから、駅へ歩いた。
途中で、彼の携帯が鳴った。
「はい。すみません、遅くなって」
受話口から、名前を呼ぶ女の人の声が漏れた。
晴信、と呼ばれて、彼は背を伸ばした。
「もう帰ります。帰ったら、少し話をさせてください」
電話を切ってから、あおは深く呼吸をした。
「一緒に行く?」
少し考えたあと、首を横に振った。
「どうなるかは分かりません。でも、今日のことは、一人で言います」
「分かった」
少し歩くと、今度は私の携帯が震えた。
こちらの母からだった。寄宿舎の先生に、最近電話が少ないと愚痴を言ったらしい。画面には、『元気ならいいけど』とあった。
私は、あとで電話する、と返し、先週買った上着の写真も送った。すぐに『袖が長そう』と返ってきた。
電車を降りるまで、私たちはあまり話さなかった。
改札を出て、彼が足を緩めた。
「来週」
「うん」
「もう、調べることはないですけど」
「将棋、まだ一回も負けてないよ」
「今度は、勝ちます」
「そう簡単には勝たせないよ」
参道の端で、肉まん屋が店先の蒸し器を片づけていた。まだ湯気が出ている。
あおが足を止めたので、私は鞄を開けた。
「俺が買います」
先に財布を出して、店の人に声をかけた。
受け取った肉まんを二つに割り、湯気が薄くなるまで待ってから、片方を私に渡した。
雅人の声は、まだ思い出せた。
明日も、思い出すのだろうと思った。今日のことも、二人で笑い合った日のことも。
私は肉まんを食べた。少し冷めても、甘かった。
あおが、あの節を口の中で歌い始めた。
私は合わせずに聞いた。
途中で音を外すと、あおは眉を寄せ、少し前からやり直した。
道の上に、向こうの世界の街灯が透けていた。
自転車が一台、私たちを追い越した。ベルが揺れた。音は届かなかった。
足音が、二つあった。
執筆の狙い
ジャンルは一般文芸のファンタジーです。
死者は記憶を持ったまま、もう一つの世界に生まれ直す。十六歳の少女は、前世で別れた恋人を探しはじめる。みたいな話です。
会話主体で内面は少なめ、動作と物に託す書き方にしていますが、文体がうまくハマっているかどうか。
起承転結が気持ちよく感じ取れたかどうかをお聞きしたいです。