作家でごはん!鍛練場
日程

命の名前(9400字)

 京極の屋敷へつづく坂の途中に、小さな公園がある。
 ベンチでは、三つばかりの男の子が新聞をたたみ直していた。通りかかった老人が株価を尋ねると、男の子は短く答え、ずり落ちかけた靴下を引っ張った。老人は丁寧に頭を下げた。
 この世界――『二』では、顔に合った話し方をする人のほうが少ない。

 『一』の世界で死んだ者は、こちらで生まれる。前の生を覚えたまま、別の親の子になる。前の命が終わった日が、こちらの誕生日になる。
 言葉を話せるようになると、たいてい最初に誰かの名を呼ぶ。
 私は、「雅人」と呼んだ。
 ブラジル人のこちらの母は、それを私の前の名だと思い、しばらくそう呼んでいた。違うと伝えられるまで、ずいぶんかかった。

 石段の三十七段目で、向こうの通学路が透けた。高校生が自転車で下っていく。口を大きく開けて、友達に何か言っている。声は届かない。
 四十一段目で消えた。
 一の世界の、私の家系には、ときどき別の景色や人影が視える者がいた。霊感と呼ばれるものだ。こちらへ来て、あれが二の世界だったと知った。
 私にも、その力は残った。ただ、いつ何が視えるか、自分では決められない。
 京極は、それを仕事にしている家だ。

 門には古い板が掛かっていた。
『一の世界への干渉は法律で固く禁止されています』

 待合で、若い男が膝の上の帽子をさすっていた。

「娘を探してるんです。もう二十年」

 目が合うと、男は帽子から手を離した。

「向こうじゃ、とっくに私より年上ですよ。どんな顔してるのかな」
「見つかったら、どうするんですか」
「どうもできません。こっちの声は聞こえないし」

 男は帽子の縁を撫でた。

「でも、見たいでしょう」

 私の順番が来た。
 稀代の霊能力者、京極晴信。障子の奥で帳面を開いていたのは、私と同じくらいの歳の少年だった。目が青く、肌が白い。袖口から細い手首が出ていた。

「お名前を」
「シルヴァ・ラウラ。前の世界では、宮本理央です」
「お探しの方は」
「後藤雅人。同じ高校でした」
「探したい理由は?」
「死ぬ前に付き合っていた恋人でした」

 筆が動いた。

「最後にお会いになったのは」
「十六年前の二月十日」
「あなたが亡くなったのは?」
「その四日後です。二月十四日」

 晴信は日付を二つ書き、先に書いたほうへ筆の先を戻した。

「十日で、間違いありませんか」
「はい」

 今の私は十六歳だ。もう少しで、前の生が終わったときの年齢を超える。
 十二のとき、こちらの両親に頼み、日本の寄宿学校へ移った。前の生の言葉が使えて、前の生の住所を知る人に会える国に来たかった。
 今日は土曜日なので学校は休みだ。道場で空手の稽古をしてから、ここへ来た。
 空手を始めた理由を、こちらの母は尋ねなかった。道着を二着送ってくれて、洗い替えは必要だから、と手紙に書いてあった。

「少なくとも数か月はかかります」

 少年は帳面を閉じた。

「途中でやめることもできます。毎週、土曜に来られますか。思い出していただきたいことがあります」
「何でも話します」

 言ったあとで、雅人の声がした気がした。

 ――おまえは、何でも大げさなんだよ。

 私は膝の上で手を重ねた。

「思い出せることなら」


 若様、と屋敷の人たちは少年を呼んだ。
 霊視の間で彼は、雅人の背丈や声、歩き方を尋ねた。私の記憶と、向こうに視える人物を照らし合わせるのだという。
 雅人は笑うと、片方の頬だけが上がる。私はその顔が可笑しくて、よくつられて一緒に笑った。考え事をすると、爪で机を二度叩く。私の話を聞きたくないときにも、同じことをした。

「雅人はもう、その話はいい、って言うんです」
「何の話をしていたんですか」

 晴信の筆を見た。
 あれを話したら、この人の帳面にも残る。雅人は嘘を言うなと怒った。本当に私の思い込みなのか、確かめることさえできなかった。

「よく覚えていません」

 筆は動かなかった。


 六月の雨の日、診立てのあとも帰れずにいると、廊下で何かが散らばる音がした。
 縁側の下に、将棋の駒が落ちていた。晴信がしゃがみ込んで拾っている。

「何してるの」
「片づけようとして」

 石の隙間に入った歩兵を拾うと、彼が手を差し出した。

「私が拾うので」
「もう取れたよ。誰とやってたの」
「従妹です。六歳の」
「勝った?」
「飛車角落ちで負けました」

 駒入れの底に、歩兵が乾いた音を立てた。

「前は将棋会館に入り浸っていたそうです。祖父は、一度やったことなら思い出せると言うんですが」
「やったことないんでしょう」

 晴信は顔を上げ、それから肯いた。

「力のこともです。前の生から持ってきたんだろうと。何も覚えていないのに」
「将棋、私でよければ教えるよ。前のお母さんに教わったから」
「本当に?」

 帳面を前にしているときとは、違う声だった。

 翌週、持っていった盤を広げると、彼は駒の名前を紙に書き始めた。銀の横に小さな矢印を五つ描き、角のところで紙の余白が足りなくなった。

「そこまで書かなくても、やってれば覚えるよ」
「先に覚えておかないと、途中で止めることになるので」
「止めていいんだよ」

 晴信は筆を置いた。
 最初の一局で、銀を横へ動かした。私が指で戻すと、彼はさっきの紙を見ようとした。

「今教えるから」

 盤の上で動かしてみせる。晴信は同じように動かし、元の位置へ戻した。

「学校でも、こうしてくれればよかったんですが」
「将棋?」
「字です。読めないと言っているのに、声に出せば思い出すから、と」

 二の学校では、前に習ったことを学び直す。国や言葉が変わっても、計算の仕方や文字を覚える要領までは変わらない、ということになっている。
 私はそれで困ったことがなかった。

「その先生、結局どうしたの」
「もう一度、声に出しなさいと言いました」

 晴信が筆を取り、銀の横に書き足そうとした。私はその手を盤へ戻した。

「もう一回やろう」

 昼の膳を運んできた女の人が、盤を見て笑った。

「晴信さん、午後にもお客様がおられますよ」

 晴信は背を伸ばした。女の人は彼の前に、煮豆の小鉢を一つ余計に置いた。

「お母さん?」

 足音が遠ざかってから訊くと、彼は肯いた。

「煮豆、好きなの?」
「母が好きなんです。自分が好きなものは、私も好きだと思ってる」
「残せば」
「明日も出ます」

 私は笑った。彼は小鉢をこちらへ押した。
 半分食べた。体にはいいんだなという味で、正直好きではなかった。


 夏祭りの日、屋敷の前を神輿が通った。
 晴信は筆を持ったまま障子を見た。私は帳面の隅の似顔絵を見ていた。自分で描いた雅人なのに、週を追うごとに知らない男に似てくる。

「外、見ないの」
「途中ですから」
「今日はもう何も思い出せないよ」

 盤を出す前に私が立つと、彼もついてきた。
 参道では、六十ほどの男が水飴を買おうとして、小さな女の子に、夕飯前だから、と止められていた。男は一度列を離れたが、女の子が金魚を見に行くと、また並び直した。
 晴信は呼び込みの声がするたびに足を止めた。射的の景品を見上げ、団扇を受け取り、持ち替えようとして落とした。慌てて拾い上げる。

「前見て歩きなよ」
「見ています」
「景品しか見てなかったよ」

 参道の端の肉まん屋も、店先に蒸し器を出していた。私は二個買い、一個を彼に差し出した。

「いいよ、奢る」
「払います」
「同い年なんでしょう。お母さんから聞いたよ。そんなに気を遣わなくていいって」
「将棋で負けて、そのうえ」
「奢られるのは嫌だって?」

 肯いた晴信は小銭を数えて、私の手に載せた。
 肉まんをかじると、口を閉じたまま動かなくなった。

「熱い?」

 目に涙が浮いている。私は笑わず、自分の肉まんを割って湯気を逃がした。彼も、少し遅れて同じようにした。

 人の少ない道へ出ると、太鼓がよく聞こえた。その拍子に合わない節を、私は口の中で歌っていた。
 一の世界にいた頃、自分で作った曲だった。歌詞もない、短い鼻歌。途中で続きが分からなくなり、最初へ戻ろうとした。

「今の歌」

 晴信が立ち止まっていた。

「うるさかった?」
「何という歌ですか」
「名前はないよ。私が勝手に作ったの」

 彼は肉まんの包み紙を握ったまま、こちらを見ている。

「もう一度」

 私は、今度は声を少し大きくした。
 同じところで分からなくなった。

「その先、忘れちゃった」

 晴信はまだ歌の続きを待つように立っていた。手の中で、包み紙が細くねじれていた。


 それから彼は、ときどき帳面に書かないことを訊いた。
 前の生で好きだった科目。家では誰と食事をしていたか。雅人と会う日は、家族に何と言って出ていたか。

「友達と出かけるって」
「お母様には話していなかったんですか」
「何を言われるか分かってたから。自分では、上手くやってるつもりだったし」

 晴信は帳面の端を押さえていた。

「雅人さんに会えたら、何を聞きたいですか」

 その問いには、答えを用意していなかった。
 会いたい理由なら、ここへ来るまでに何度も考えた。前の恋人だから。十六年も会っていないから。それで十分だと思っていた。

「私が間違ってたのか、聞きたい」
「何をですか」
「最後に、言い合いになったこと」

「雅人さんが、間違っていた場合は」
「あの人がそんなこと言うかな」

 自分で言って、少し笑った。
 晴信は笑わなかった。私は鞄から将棋盤を出した。


 九月、彼は診立ての途中で眠った。
 私が話し終えても返事がない。顔を覗くと、顎がかくっと落ちた。隣の部屋から屋敷の人が呼んでいたので、私は障子を細く開け、少し待ってください、と小声で言った。
 帳面の脇には別の紙があり、駅の名前と時刻が細かく並んでいた。折り目のところだけ、何度も擦ったように黒ずんでいた。
 十分ほどで、晴信は急に顔を上げた。

「大変申し訳ありません」
「夜も働いてるって聞いたよ」
「夜にしか会えない人もいます」
「雅人も?」

 晴信は時刻の書かれた紙を帳面に挟んだ。

「もう少し、確かめたいことがあります」


 十月になっても、答えは同じだった。
 私は診立ての途中で、来月から月に一度にすると伝えた。

「費用でしたら」
「違う。毎週、今日は何か分かるかもしれないと思って来るの、疲れた」
「調べることは、まだあります」
「それ、前にも聞いた」

 晴信の筆は止まったままだった。

「……会わないほうがいい人もいます」
「どういう意味」
「向こうで、別の暮らしをしている場合も」
「それでも見たいよ。最初からそう言ってる」

 彼が筆を置いた。
 置き方が慎重すぎて、私はその手を見た。

「見つかったの?」

 晴信は僅かに肯いた。

「いつ」
「九月です」
「九月の、いつ」
「最初の週に」

 私は立ち上がった。

「ラウラさん」
「どうして、あなたが決めるの?」

 晴信も立ちかけたが、私が鞄を取ると、腰を下ろした。

「私のことなら、私に言ってよ」

 廊下では晴信の母が、小鉢を載せた盆を持っていた。私は頭を下げる余裕もなく、その脇を通り過ぎた。


 次の土曜は、道場のあと寄宿舎へ帰った。
 濡れた道着を干し、課題を広げた。同室の子が、駅前の古着屋へ行こうと誘ってきた。先週、値札を見て戻した上着のことを思い出した。

「行く。課題終わらせるから、二時でいい?」

 約束してから、時計を見た。京極の家では昼の膳が出る時刻だった。煮豆は、あの小鉢いっぱいでは多いだろうと思った。
 教科書の、同じところを読み直した。

 手紙が来たのは、その五日後だった。
 見つけた日付と、次の待ち合わせ時刻。預けた費用のうち、九月以降の分も返されていた。
 最後に、こうあった。

『判断するのはあなたでした。土曜日に、お見せします。隠していた理由も話します』

 いつもと違う時刻に、二本の線が引かれていた。
 私はその土曜、道場を休んで屋敷へ行った。


 晴信は門の外で待っていた。

「申し訳ありませんでした」

 深々とお辞儀をする。

「今日は、見せてもらえるんだよね」
「はい」

 電車に乗り、三つ先の駅で降りた。晴信は先に立ち、ときどき時計を確かめた。

 着いたのは、なだらかな丘だった。一瞬だけ、私にも別の景色が視えた。人の多い道と、ガラス張りの建物。すぐに草の斜面へ戻る。
 晴信は丘の中腹で止まった。

「少し待ってください。まだ来ていません」

 誰もいない場所を、目で追っていた。
 やがて彼が息を整えると、世界が繋がった。草のあいだに白い線が現れる。横断歩道だった。斜面を無視して、平らな道が延びていく。
 次に音が来た。
 車の走る低い響き、靴底の擦れる音。駅前のスピーカーから、途切れがちな案内が流れていた。二の世界とは少し違う、懐かしい喧騒。

「聞こえる。こんなの初めて」
「普段視えているものとは違います。今は、私が視て、聞いているものをお渡ししています」

 自転車を押す女の人が、私の膝を通り抜けた。足を引いたが、靴は草を擦っただけだった。

「触れません。向こうには、私たちはいません」

 雅人は、駅の前にいた。
 髪が少し薄くなっていた。上着を片腕に掛け、携帯を見ている。爪が画面の縁を二度叩いた。
 私は息を吸った。
 十六年経っても、この癖は変わらない。
 雅人の肩越しに画面が見えた。

『パパ、今日は何時に帰る?』

 その上にも同じ相手から、帰りに買ってきてほしいものが送られていた。

『今日はなるべく早く帰るよ。帰り道でスーパー寄るね。お弁当美味しかったです』

 雅人が返信をしていると、駅ビルから女が一人出てきた。それを見た雅人はすぐに画面を閉じた。女は封筒を鞄へしまいながら、彼に手を振って隣に並んだ。
 雅人は女の鞄を受け取った。私の鞄も、ああして持った。頼んだことはなかった。

「で、どうだった?」
「うん。やっぱり、してるって」

 女が自分のお腹に手を置いた。
 雅人の口の片側が上がった。

「そっか」

 私はズボンの裾を握った。あのときも、雅人は同じ顔をした。

 覚えているのか、知りたかった。
 十六年経っても、たまには私を思い出すのか。あのときは悪かったと、誰も聞いていないところで言ったことがあるのか。

 妊娠したかもしれないと話す私に、想像だと言い切ったこと。私が何も言い返せなかったこと。その大きな手で、私のお腹を思い切り殴ったこと。
 三日後に、生理が来たと思った。重い生理で、組織の塊のようなものが出た。

「病院の費用は俺が払うからさ」

 目の前の雅人が言った。

「どうしても、産んじゃだめ?」
「俺、誰かと結婚できるタイプじゃなくてさ」

 女が何か言いかけた。雅人は、その声にかぶせて話し始めた。
 雅人の爪が、携帯の縁を二度叩いた。
 また、話を終わらせようとしている。
 今なら私の話を聞いてくれるかもしれない。そう思って、ここまで来たのに。

「殺しますか?」

 隣で晴信が静かに言った。

「強い能力を持つ者の中には、向こうへ干渉できる者もいます。私がそうです」
「でも、門に」
「禁じられているのは、できる者がいるからです」

 晴信は雅人から目を離さなかった。

「宮本理央が望むなら」

 雅人は女の肩を抱き、駅から離れようとしていた。

「死んだら、あの人もこっちに来るよ」
「知っています」
「それで、また探すの?」

 彼は答えなかった。
 雅人の、新しい顔。新しい名前。
 そんなものまで、私は知りたくなかった。

 晴信の青い目に血の糸が走っている。右手が震えていた。指を握り込み、何かを押さえるようにしている。
 私は彼の前へ回った。

「晴信さん」
「前を見ていてください」
「こっちを見て」

 彼の目が、私の肩越しに動いた。

「行ってしまいます」
「いい」
「でも」

 私はその手首に触れた。

「あなたがやることじゃない」

 彼は私の手を振りほどいて言った。

「それをラウラさんが決めるんですか!」

 私はもう一度晴信の腕をつかんだ。彼の前からは退かなかった。
 晴信は初めて、私をまっすぐに見た。目元が赤かった。

「私はラウラで、理央よ」

 返事はなかった。
 向こうで信号が変わる。雅人たちが横断歩道を渡り始めた。

「これは理央からのお願い。何もしないで」

 彼は動かなかった。
 やがて肩が下がり、横断歩道の白がほどけた。車の音が途切れた。
 晴信は、そのまま斜面に座り込んだ。


「……まだ、好きなんですか」

 しばらくして訊かれた。私は少し離れたところに座る。

「そんなわけ。ただあの人に、自分が間違ってたって言ってほしかった」

 晴信は靴の先で土を削っている。

「今日起こることは、知ってたの?」
「水曜に、あの二人の話を聞きました。土曜は病院へ行くから、そのあとで会いたいと」
「だから、この時間だったんだ」

 晴信は肯いた。

「私には、見せたくなかったんじゃないの」
「見せたくなかったです。あなたが、どんな顔をするかと思うと」

 彼は土の上につけた筋を、靴底で消した。

「でも、見れば、あなたも強い気持ちを持つと思いました」

 私は隣の顔を見た。

「私に、頼ませたかったの?」

 靴が止まった。

「宮本理央が望むなら」

「どうして、そこまで」

 晴信の唇が動いた。何か言っているのだと思って、私は顔を寄せた。

 歌だった。
 夏祭りの日に、私が歌った節。けれど、途中から違った。
 私はいつも短いところで折り返していた。その先を、彼は知っていた。
 最後の音が下がる前に、私の喉も同じ形を作った。

「誰に聞いたの」
「あなたに」
「そこは、歌ってない」
「前に」

 私は膝に置いた手を動かせなくなった。

「顔も、景色も知りません。耳もなかったはずなのに、あなたの声だけが、すぐ近くで響いていました」

 彼は一度、息を継いだ。

「言葉は分からなかった。でも、その歌は覚えていました」
「晴信さんの誕生日は」
「二月十日です」

 帳面の上で止まった筆。
 私が亡くなった日ではない。最後に雅人に会った日だった。

「日付だけでは、分かりませんでした。祭りで歌を聞いて、それで」

 私は口を開いた。

「いたんだ」

 晴信が顔を上げた。

「本当に、いたんだね」

 彼は私を見ていた。
 私の手が、お腹へ動いた。触れる前に、膝の上へ戻した。

「……俺のことは、覚えていなかったんですか」

 私は首を横に振った。

「いなかったと、思おうとしてた」

 彼は何も言わなかった。私は言い直そうとした。でも、言い直せる言葉がなかった。

「母親に会ったら、文句を言うつもりでした」

 晴信は私の膝のあたりを見ていた。

「みんなが分かる常識が、俺だけ何も分からないんです。どうして俺だけ、何も知らずにこっちへ来たのかって」

 銀の動き方を矢印で書き留めていた、あの紙を思い出した。

「でも、会ったら訊けなかった。雅人さんを見つけて、先に自分で確かめようと思いました」

 私は少しずつ、彼との距離を詰めた。
 彼は何か続けようとして、口を結んだ。伏せた顔のそばで、握った手が震えていた。

「苦しい」

 十六歳の少年の声だった。
 私は目を閉じた。

 誰にも聞かれていないと思っていた。
 部屋を暗くして、お腹に手を当てていた。いないのかもしれない。そう思いながら、声だけは出していた。
 もし、いたら。
 いたときに、何も聞こえなかったら嫌だった。
 名前も決めた。けれど、一度も声にしなかった。呼んで、誰もいなかったら、と思うと口にできなかった。

「あお」

 彼が顔を上げた。

「あお、辛かったね」

 目の前の顔が歪んだ。

「それが、俺の名前ですか」
「うん」
「決めてくれていたんですね」

 あおは、私の返事を待っていた。

「決めてた」

 私は肯いた。
 あおは何か言おうとしたが、息だけが漏れた。

「触ってもいい?」

 彼は肯いた。
 内側に抱えたことしかない子を、外側から抱いた。
 背中に手を回す。あおはしばらく腕を下ろしたままで、それから私の上着を掴んだ。
 彼の胸に耳を寄せた。
 心臓の音がした。
 私は、その音を聞いた。


 日が落ちる前に、丘を下りた。
 麓で、あおが立ち止まった。

「さっきは、すみませんでした」

 私は振り返った。

「俺がしたかったんです。それを、あなたの望みにしようとしました」
「うん。あれは、まだ怒ってる」

 あおは小さく肯いた。

 あおが隣に来てから、駅へ歩いた。
 途中で、彼の携帯が鳴った。

「はい。すみません、遅くなって」

 受話口から、名前を呼ぶ女の人の声が漏れた。
 晴信、と呼ばれて、彼は背を伸ばした。

「もう帰ります。帰ったら、少し話をさせてください」

 電話を切ってから、あおは深く呼吸をした。

「一緒に行く?」

 少し考えたあと、首を横に振った。

「どうなるかは分かりません。でも、今日のことは、一人で言います」
「分かった」

 少し歩くと、今度は私の携帯が震えた。
 こちらの母からだった。寄宿舎の先生に、最近電話が少ないと愚痴を言ったらしい。画面には、『元気ならいいけど』とあった。
 私は、あとで電話する、と返し、先週買った上着の写真も送った。すぐに『袖が長そう』と返ってきた。

 電車を降りるまで、私たちはあまり話さなかった。
 改札を出て、彼が足を緩めた。

「来週」
「うん」
「もう、調べることはないですけど」
「将棋、まだ一回も負けてないよ」
「今度は、勝ちます」
「そう簡単には勝たせないよ」

 参道の端で、肉まん屋が店先の蒸し器を片づけていた。まだ湯気が出ている。
 あおが足を止めたので、私は鞄を開けた。

「俺が買います」

 先に財布を出して、店の人に声をかけた。
 受け取った肉まんを二つに割り、湯気が薄くなるまで待ってから、片方を私に渡した。

 雅人の声は、まだ思い出せた。
 明日も、思い出すのだろうと思った。今日のことも、二人で笑い合った日のことも。
 私は肉まんを食べた。少し冷めても、甘かった。

 あおが、あの節を口の中で歌い始めた。
 私は合わせずに聞いた。
 途中で音を外すと、あおは眉を寄せ、少し前からやり直した。

 道の上に、向こうの世界の街灯が透けていた。
 自転車が一台、私たちを追い越した。ベルが揺れた。音は届かなかった。

 足音が、二つあった。

命の名前(9400字)

執筆の狙い

作者 日程
210.157.193.227

ジャンルは一般文芸のファンタジーです。
死者は記憶を持ったまま、もう一つの世界に生まれ直す。十六歳の少女は、前世で別れた恋人を探しはじめる。みたいな話です。

会話主体で内面は少なめ、動作と物に託す書き方にしていますが、文体がうまくハマっているかどうか。
起承転結が気持ちよく感じ取れたかどうかをお聞きしたいです。

コメント

いとぐるま
116.65.236.159

はじめまして。
うまく書けるかどうか。失礼を承知でいろいろ書きます。

一で死んだ者が、二の世界で生まれ変わる。前世の記憶は持っている。
なので、見た目と中身は伴っていないという前提の世界ですね。

私は現実世界の物語より、作者の世界観が反映されているものが好きで、自作でもそういうもの書いています。そういう本に、世界に、たくさん救われてきたので。
なので、あなたの書き出しで、おっ?と思いました。

ただ、
 >この世界――『二』では、顔に合った話し方をする人のほうが少ない。
の一文で、ん、と思いました。「顔」だけではないはず。風貌、外観。その語彙感。
読み手はその違和感を見逃さず、たぶんそこで手を止めます。


作中、そういうものがたくさんあります。粗というか。
文章云々の前に、作者のあなたがもっとこの世界に住んでほしいです。
見た目と中身が異なる世界、仕事、勉強、行きつけの店、生活の中での不便。
いろいろあるはずです。
せっかく『一』と分けている以上、その違い、幻惑感を納得させてほしいです。

主人公はここに生まれなおして、どう感じたのでしょう。
ブラジル人の母のもとに生まれ、日本?に来れて、空手を習っている主人公。
しかも、胴着を二着送ってもらって…外から見れば、満たされていますよね。
そのうえで、主人公は、前世の恋人が見たい。家族ではなく。
もちろん、命のからむ話です。気になるでしょう。そのうえで、葛藤は?


>六月の雨の日、診立てのあとも帰れずにいると、廊下で何かが散らばる音がした。
 縁側の下に、将棋の駒が落ちていた。晴信がしゃがみ込んで拾っている。
「何してるの」
「片づけようとして」


さっきまで敬語で話していた相手に、違う場所で会ったとたん、フランクすぎませんか。
若様と呼ばれる相手。知りたいことを頼んでいる相手。
将棋をおしえてーは、うん、関係性を深めるための時間軸ね、と理解できますが…
関係者で教えてくれる人いなかったのか、プロが顧客相手に…という個人的な気持ちがあります。


ここからは自分の感想ですが、
堕胎、殴ったらそんな簡単に…? しかも相手を何度も妊娠させて、避妊下手か?
相手がくそ野郎です。わかる。でも、すごく都合主義に感じてしまう。


長々と、嫌なことを書いたと思います。
ただ、現実ではない世界こそ生活感が必要なことは確かだと思っています。

あなたが書きたいもの、その世界観に共感する部分があったので、コメントを残しました。
肉まん、分け合うとおいしいですよね。
私も勉強中で、いろんな本を読んでいる最中です。
どうか、一緒に頑張れますように。

いとぐるま
116.65.236.159

追加で。

どうしてこんな端的な書き方にしたのか、意図を聞きたいです。
描写を避けていますよね。これは意図的だと思いますが
それってどんな効果を狙っているのでしょう。
違う世界こそ、適度な描写がないとメモ書きみたいになってしまいませんか。
読みやすくはある、けれど…もしよろしければ、お聞かせください

浮離
KD059132143202.au-net.ne.jp

主人公イコール語り手。
っていう体裁にあって、「〜た。」っていう文末処理をかなりセンシティブに蔑視する、っていうか体裁通りに受けて欠伸するタチの読者による感想なので、好みじゃない、動機にそぐわないスタイルを志す書き手であるなら読まなくていいです。

個人的には時制に寛容な一人称が大嫌いで、極端なことを言ってしまえば"一人称"って、時制による緊縛に昂る欲求こそが"一人称"たるダイナミクス、その根拠とすら思うタチなのでこのお話ってかなり緊張感に欠けるお話に受け取れてしまう気がしたんですよね。

"一"の世界、"二"の世界。
この構図ってオートマチックさながらに秀逸な舞台設計のはずで、まして都市伝説だとか怪談がバズコンテンツと見なされて久しい昨今においてはなおのこと、設計云々など思いもよらないズブな読者による都合理解を誘うにおあつらえ向きのお手軽便利なパラレルストーリーのはずかと思うんですよね。

先の感想の方が"二"の世界の描写の必要性に触れてるんですけど、あたしはわりと共感的ではなくて、むしろそれを必要としない"世界"を読み取れないのって、"お手軽"御用達みたいな読書にまんまとハマってるだけのような気がしてしまうんですよね。

わからない人向けに噛み砕きます。

"二"の世界って、"一"の世界の上位互換なんですか。
死んだ次の世界として、"一"を省みるような上位俯瞰的世界ですか?
あたしはそうは思わなかったし、むしろ"カルマ"だとか、意地悪な言い方をしてしまえばその総括もしくは審判だとか、それもすでに裁定済みとして与えられた舞台としての"二"でしかないはずじゃないのか? って当たり前に感じさせられたものなんです。

果たして書き手にそんなつもりがあったのかどうかは知る由もないですけど、とはいえそれってすでに"作品"として了を打たれているわけで、つまるところ個人的にはこのお話から概ねの人が受け取れる気がしがちなもの、そのものにもちろんの如く違和を嗅ぎつけてしまったはずなんですよね。

話のオチなり種明かしは予想を裏切るものではなかった人は少なくない気がします。
もう少し読める人なら、たかが並行世界だとか切り捨てたくなるような矛盾を思いつかないでもないはずで。

とはいえ勘違いしたらいけないのは、それって書き手の書き損じとかそう意味ではないんですよね。
"作為"ってつまりはそういうそれぞれのことのはずで、あたしはそれについてあまり正確な舞台の運用を見た気がしていないって言ってるだけなんですよね。

"一"と"二"の違いって、なんですか?
"一"の記憶を引き継いで臨む"二"の世界。

それって、上位互換なんですか。
PDCAサイクルみたいななんかですか。
そうじゃないですよね、だってラウラは理央を引きずって生きてるし、晴信は生まれることすらなかった"一"を宿命の如く恨んでる。
"あお"ってようやく出くわす話を"二"の贖いの如く受け取る顛末ってなんかヘンだな、ってあたしは思ってしまうし、なぜ晴信は特殊な能力を、受け継がれたらしい能力を無自覚に勤めさせられているのか。

伝わらないと思うんですけど、"一"と"二"の相関を誤解しているのは、もしくは都合よろしく鵜呑みにしているのは誰よりも書き手自身なんじゃないのかって、個人的には感じさせられないでもないわけなんです。
だって、このお話ってそれぞれの執着がパラレルを通じて偶然か謎解きみたいな邂逅に救われたかのような閉じじゃないですか。

もちろんこれは一読者としての解釈なんですけど、先に"カルマ"って言ったじゃないですか。
そんな意味において、あたしはラウラも晴信も"一"の留年組だと思ってるんですよね。
っていうか、それありきとした作品世界のはず、って思ってます。

そんなお話が時制に寛容な"一人称"で物語られる世界って、どう思いますか?
あたしは例えば"一" ≠ "二"とはいえそもそも、だとか。
ゆうて"並行世界"となればむしろそれが当然の"矛盾なき世界"ってことでも別に構いません。
っていうかその方が皮肉らしく"小説"的ってことでもいいです。
無意識に執着するものらしい価値観として古臭いなとは思いますけど。

それこそたかが個人の価値観でしかないですけど、例えばせめては体言止めだとか、そういう確たる疑いで当たり前に挑む覇気すら装備されてない寛容さで転生したらしい"二"の世界、ラウラは所詮馬鹿男好きの毒親育ちとして、晴信は怨みを自我に掛け替えるしかない不孝なガキのまま、それぞれにまたしても"三"に持ち越すばっかの無限ループ存在なんだろな、なんて身もふたもないこと思ってしまうだとか。

ベンチの三つ子と老人だとか秀逸な案内は寺尾さんのキリンと同じく常套として端正だと思うし、素人の嗜みとしてなら文章力も十分だと思いました。
でもお話世界は悪しく常套、みたいな答えありきっぽい結末なり引力に疑いがなさすぎる気が個人的にはしたのだと思います。

とはいえ上手には違いないはずなので好きに愉しんだらいいですよね。


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