恋文
小百合へ。
あの冬の夜、僕は君の温もりに包まれて眠っていた。夢の中で君は、悲しみさえ愛しいと言った。
君と別れて早十年。僕は三十を過ぎ、タマも老年に差し掛かる。タマは相変わらず散歩が好きだ。でも今朝から雪が降り続き、僕のそばで丸まっている。
僕はコーヒーを飲みながら、窓から雪を眺めている。
僕の夢は君とフランスを旅すること。覚えているかい。トゥーレーヌの谷間に咲く花々を。あの悲しくも美しい日々を。
だめだ。十年経っても恋文が書けない。文学を彷徨ってもだめだった。文学なんて役に立たない。でも手放すわけにはいかない。それは君の忘れ形見だから。
僕は名著を読み漁る学生だった。小説にかぶれ、文学は人を幸せにすると信じていた。
サークル仲間に加奈子という美人がいた。ある日、僕は彼女を食事に誘ってみた。
「その日は用事があって」
サークル仲間の男子との夕食だった。
「そうなんだ。残念だなあ」
そう言って笑うしかなかった。情熱なんてない。彼女がヒロインにちょうどいいと思っただけだ。
大学では介護施設などで実習ができた。三年の春、難病患者の療養所での実習計画が持ち上がった。でも加奈子の彼氏は乗り気ではなかった。
「別に難病患者じゃなくてもいいだろ」
「でも、いい経験になると思うわ」
加奈子がそう言うと彼は黙った。
僕の立ち位置は便利屋だった。大学に計画書を提出し、療養所と日程の調整をした。
当日は大学前から電車を乗り継ぎ、寂れた無人駅で降りた。渓谷に沿う県道の端を歩いた。淡い曇り空の下、桜の散る渓谷は儚げな景色だった。
車はほとんど通らない。途中にある店も看板が錆びつき、営業している様子はない。
やがて建物が見えてきた。四階建ての病棟が、人里離れた山間に建っていた。
正面玄関から入ると、微かに消毒液の匂いがした。事務室に案内され、そこで説明を受けてから実習に入った。
職員と一緒に重篤患者のフロアを歩いていると、キャスターのついた担架が通り過ぎた。白布で覆われた「小さなもの」が載っていたが、何であるかは察しがついた。仲間は顔を見合わせ、加奈子は「気の毒ね」と言った。
仲間たちは満開の桜の下で、患者の車椅子を押した。僕が押したのは、君の車椅子だった。付き添いの職員から、君は目が見えないが、中庭の散策を好むと聞いていた。
僕は君の髪についた花びらを取り、君の手にそっと握らせた。
「してほしいことは何でも言ってね」
君は何も言わない。僕が聴覚の問題を疑っていると、付き添いの職員が耳元でささやいた。
「ちょっといいですか」
職員は僕を少し離れた場所へ誘った。
「声帯には異常がありません。ただ病気が徐々に進行していて、筋肉が少しずつ動かなくなっています」
「治るんですか」
「今の医学では治療法がありません」
花びらを握る君の手が震えていた。
実習を終えると、玄関で挨拶をして帰途についた。来た道を歩いていると、加奈子の彼氏が隠れ家のような小料理屋を見つけた。
「反省会でもするか?」
みんな賛成した。でも僕は酒を呑む気にはなれなかった。携帯が鳴り、出ると先ほどの職員だった。
「あなたに車椅子を押してもらった患者が、お礼を言いたいと言っているのですが」
「お礼なんていいですよ」
「彼女がどうしてもと」
「わかりました。まだ近くにいますので、すぐに行きます」
急用を理由に飲み会を断り、引き返すことにした。施設へ向かう途中で気づいた。お礼を言う? 声を出せないのに。
職員に案内されて三階の個室に入ると、キーボードを腿に載せた君が、ベッドの背にもたれていた。
丸椅子に腰掛け、「お礼なんていいのに」と言うと、君は目を閉じたままキーを叩いた。
「冷たい花びらに触れたとき、白い桜が見えました。感謝しています」
液晶画面は本棚の上にあった。
「彼女は本を読めるのですか?」
「お母さんが読んでいたのですが、去年亡くなられました。読んであげたいのですが、私たち職員には時間がなくて」
ずらりと並ぶ単行本の中に、バルザックやスタンダールの小説があった。
君の年齢を聞いて驚いた。僕は四歳年上の君を、十代半ばの少女だと思っていたんだ。
「僕が読みましょうか」
君は素早くキーを叩いた。
「ありがとうございます」
僕は週末になると施設を訪ね、君の横で小説を読んだ。最初は奉仕のつもりだった。やがて大学をさぼってまで行くようになった。
僕が朗読していると、君は震え、涙をこぼした。まるで小説の世界にいるかのように。
君のそばにいると、現実が小説のように感じられ、僕は居場所を見つけたような気がした。
本棚の隅に一冊のノートがあった。
『今日も娘に小説を読んであげた。喜ぶ娘を見ていると、やはり産んで良かったと思う』
僕は無断で読んだことを君に謝った。
「いいんです。それより母の言葉を聞かせてください」
読んでいる途中で君はキーを叩いた。
「私は現実を知らないほうが幸せなんです。だから母は小説を読んでくれたのです。ただ」
「ただ?」
「現実を知りたいと思うときがあります。たとえ不幸になっても」
あえて次のページを読まなかった。
『どうしても産みたかった。こんな私でも、命を宿すことができたのだから。でも私が死んだら、あの子はひとりぼっちになってしまう』
君とよく中庭を散策した。車椅子を押していると、君は手のひらを前に向けた。それは止まれの合図。でも何が起こるわけでもない。
馬鹿げた空想だろうか。君は風を浴びながら、何かに耳を傾けていた。木には木の言葉がある。僕には君が木と会話しているように見えた。
急に雷の音がして、雨が降り始めたこともあった。慌てて病棟に戻ろうとすると、君が止まれの合図を出した。
「早く戻らないと、ずぶ濡れになる」
ごろごろと雷鳴が響き、雨脚が強まっても君は止まれの姿勢を崩さない。
君が顔を上げると、雨がぽたぽたと額を打ち、閉ざされた瞳から涙がこぼれた。
僕は職員に叱られた。個室に戻ると、寝巻きを着せられた君がいた。液晶には、こんな言葉が。
「ごめんなさい。雨に打たれてみたかったのです」
秋になると、僕たちは紅葉を迎えた中庭を散策した。青空が広がり、風が木の葉を散らしていた。
石畳の上で車椅子を押していると、君が手のひらを前に向けた。風の音しか聞こえない。しばらくすると、かさ、かさと、足音が近づいてきた。
「誰かいるの?」
子猫が木陰から顔を出した。ゆっくりと近づいてきて、君の前で鳴き始めた。君の唇が震えていた。まるで思いを伝えるかのように。
子猫が君の膝に登って丸くなると、僕はまた車椅子を押した。
君は子猫をなでながら散策を楽しみ、病棟の入り口に着くと、子猫は膝から降りて走り去った。
個室に戻ると僕は言った。
「人懐っこい子猫だね」
「お母さんが、いないからです」
「なぜわかるの」
「触れていると、わかるのです」
僕らは子猫をタマと名付け、穏やかな日々を共にした。でも、いったん小説の世界に入れば、『谷間の百合』や『赤と黒』の主人公たちのそばで、十九世紀のフランスを満喫した。
フェリックスとモルソフ伯爵夫人の後を歩き、トゥーレーヌの谷間で花を摘んだ。
バルザックに飽きれば、ジュリアン・ソレルと馬車に乗り込み、貴族の集いに紛れ込んだ。
豪華絢爛たる舞踏会。僕が君の腰に手を添えると、君は僕の肩に手を置き、ダンスを踊った。君は美しかった。あのマチルドでさえ色褪せるほどに。
ただ、長編である『赤と黒』を一日で読み終えることはできない。
面会時間は午後六時まで。続きはまた明日と言うと、君は懸命に僕の腕を探した。
「でも、もう時間が」
腕をつかむ手が震えていた。
「なら特別に許可をもらってくる」
でも面会時間の延長は厳禁だ。
僕は非常階段の扉を解錠し、受付に行って来訪者名簿に退出時間を書くと、裏に回って非常階段を上った。
僕が戻ると、君は素早くキーを叩いた。
「もうすぐ夕食が運ばれます。食器を運ぶ音がしたら隠れてください」
迷いはなかった。ベッドの下に隠れて夕食時をやり過ごす。やがて職員が食器の回収に来た。
「何かあったらボタンで呼んでください」
明かりが消えて部屋が静かになると、僕はベッドの下から這い出て、君の枕元の明かりをつけた。
「続きを読むよ」
君が頷くと、僕は『赤と黒』の後半を読んだ。
雪が降っていたが、室内は暖かく、窓ガラスが曇っていた。読み終えた時には帰りの電車はもうなかった。
「ごめんなさい」と液晶に。
「気にしないで。駅で野宿するから」
「この寒さで野宿なんて無理です。ボタンを押さなければ誰も来ません。私の横で寝てください」
「それはできない。床で寝るよ」
「私の毛布を使ってください」
君の温もりに包まれ、しばらく横になっていると、旅行の続きが始まった。
朝の五時。まだ星が輝いていて部屋は薄暗い。君はぐっすりと眠っていた。頬にそっと触れた。ほんのりと温かい。
「いつか旅行に行こう」
君の口元が微かに動いた。
大晦日は大雪で、中庭は雪に埋もれていた。
「雪が積もってますね。見えなくてもわかります。中庭に出していただけますか。雪に包まれてみたいのです」
「そんなことをしたら風邪を引く」
「構いません」
僕は声を荒らげた。
「だめだってば。凍えて死んでしまう」
年が明けても君の元へ通った。仲間は講義をさぼる僕を不審に思っていた。
一月半ばの休日。ラディゲの『肉体の悪魔』を朗読した。
舞台は第一次世界大戦中のフランス。十五歳の少年と、出征した夫を待つマルトの恋物語。
不倫は罪か。マルトの死は因果応報か。いや、君に聞きたかったのは、そんなことじゃない。
マルトは不幸なのか。
その答えを聞いていたら、次に読む小説は違っていたはずだ。
君が小説に没入していると、手元で携帯が鳴った。加奈子からだった。
「なぜ講義に出ないの。みんな心配しているのよ」
「大丈夫だよ。心配しないで」
適当に誤魔化して電話を切ると、君は素早くキーを叩いた。
「誰ですか?」
「大学の友達」
「女の人?」
「うん。それがどうかしたの」
「いえ、別に」
二月の休日。僕は『カストロの尼僧』を読んだ。スタンダールが古文書を調査して書いた短編だ。
小百合。覚えているよね。あの悲劇を。貴族の娘エレーナとジュリオ・ブランチフォルテの恋物語を。
二人の仲を許さない母ヴィットリアは、娘を修道院に幽閉し、ジュリオからの恋文を冷たく捏造する。ついには彼の訃報までも。
エレーナは十年以上もジュリオを待ち続けた。彼が生きていると知ったときには、すでに若い司教に身を任せていた。彼女は再会を望まず、短剣で自分の胸を貫いた。
「やはり恋は盲目なんだ」
「いいえ。恋人は真実を見ている」
「真実を見てるのに、なぜ不幸になるの」
キーを叩く音が静かに響いた。
「恋は悲しくて愛しい真実だから」
卒業が近づくにつれ忙しくなり、君に会うことが難しくなった。君の横で卒論を書こうとさえ考えた。
なんとか書き終えて提出すると、その足で君に会いに行き、告白をした。
「好きな人がいるんだ」
「私にもいる」と液晶に。
僕は動揺した。
「この施設の人?」
「いいえ」
思わず声が大きくなる。
「なら誰なの」
「あなたなのよ。わからないの」
僕は慌てた。文豪の言葉を借りるなんて馬鹿げた真似はできない。そんなものは君に通用しない。自分の言葉で語らねばならない。でも僕はそれを持ち合わせていない。
「愛してくれる?」と文字が浮かんだ。僕は咄嗟に君の手を握りしめた。僕の手の中で君の手が震えた。唇を押しつけると、閉ざされた瞳から涙がこぼれた。
卒業式が終わると、その足で君の元へ急いだ。ずっとそばにいると早く伝えたかった。
施設の玄関を通り抜け、早足で廊下を歩いていると、一台の担架が外に運び出されていた。
階段を駆け上がり、息を切らして君の部屋に飛び込んだ。誰もいなかった。ベッドが乱れ、床にキーボードが落ちていた。拾い上げてキーに触れると、液晶に言葉が浮かんだ。
「指が動かなくなってきました。文字を打つことも辛いです。あなたと旅行したかった。車椅子で。フランスへ」
叫び声が聞こえた。それは自分の声だった。
病棟を出て中庭を歩いていると、タマが木陰から見ていた。
「おいで」
石畳に膝をつくと、タマは身をすり寄せて何度も鳴いた。
「タマ。僕と暮らそう」
あれから十年。今日は朝から雪が降り続き、外は一面の銀世界。タマはずっと僕の横で丸まっている。
小百合。タマと一緒に帰りを待っているよ。僕の夢は、君の膝にタマを乗せて、フランスの名所を訪ねること。
覚えているかい。トゥーレーヌの谷間に咲く花々を。あの華やかな舞踏会を。僕は忘れない。悲しくも美しい日々を。
だめだ。やはり恋文は難しい。
「タマ。ちょっと公園に行ってくる」
着替えてドアを開けると、タマが隙間から出て僕を見つめた。
「一緒に行くの?」
タマは小さく鳴いた。
公園は雪に埋もれていた。ベンチに積もった雪を落とし、タマを懐に抱いてフードを被る。肩に雪が積もり、寒さが身に染みる。
小百合。教えて。マルトは不幸なの。
執筆の狙い
サナトリウム文学って、感動ポルノなんですか?
この作品の舞台はサナトリウムじゃないけど。約5000字の作品です。よろしくお願いします。