人の子、死の島
「人の子」
曇天を背景にして、男は立っていた。背後には灰色がかった海が、際涯なく広がっている。彼方に広がる水平線は、鈍いグレーの雲とその境界を混ぜ、果たしてどこまでが海でどこまでが空かを曖昧としていた
男は、低い煉瓦積みのパラペットの前に立っていた。姿勢は吊るされたようにまっすぐに伸び、両の手は身体の側面に下げられている。身を包むは、黒一色のコートに、白いきれいなシャツ。胸元はかっちりと締められ、赤いネクタイが唯一彩を見せている。頭には、コートと同色のボーラーハットを被っていた。
彼は、じっとこちらを見ている。否、正確には顔を向けているだけで、こちらを向いているかは分からない。彼の顔は、その表情は、ほとんどが青い果実によって隠されているのだから。
果実は、まだ未成熟の林檎のように見える。その芯からは葉が四枚伸び、天に向かって伸びている。決して顔のない男でないというのは、果実の隙間から見える目の端や眉から読み取ることができるが、その表情は知れない。ただ、男はこちら、あるいは林檎を見ている。顔色は、何も不自然ではない。
男は、ずっと変わらず、姿勢を崩すこともなく、ただ立っていた。雲は動かず、波は立たず、煉瓦が崩れることもない。男が動くこともない、林檎が落ちることもない。ただ、何もかもが変わらずにそこにあった。
やがて、海の輪郭と空の輪郭が、完全に融け切ったと錯覚するとき、男と林檎の境界さえも、徐々に曖昧になっていく。男が林檎に浸食されているのか、あるいはしているのか。どちらとも判別がつかない。むしろ、どちらでもないのだろう。空海の区別がごく自然に不明瞭となるように、男と若い林檎の差異もまた、当然の如くに溶けていくのだ。
次第に、煉瓦造りの塀が、その色を背後の海と混ぜる。白と黒と赤、きっちりと分かたれているはずの男の衣服は、ゆっくりと時間をかけて混ざり合っていく。
そうして、その全てが一つの存在へと収斂していく。それにおぞましさを感じるだろうか。あるいは、法悦を感じるだろうか。またあるいは、その全てが当然のことだと受け入れるだろうか。いずれにせよ、男と林檎と海と空と煉瓦とは、まるで最初から一体だったかのように、溶ける。融ける、熔ける、鎔ける。
はっと気づけば、周囲は昏く、全ては曖昧だった。黒一色が世界を形作り、それ以外には何もない。重い雲に覆われた空も、凪いだ海も、煉瓦造りのパラペットも、ボーラーハットの男も、未成熟の林檎も。何もなかった。
「死の島」
糸杉が天を衝くように、黒々とした葉を茂らせて生えている。幾本ものそれは、さながら大きな壁の如く、互い違いに不揃いな姿を見せながら暗い影を落としていた。
私は、キイキイと鳴る不愉快な音を聞いていた。オールが水面を叩き、その中をくぐってまた水面を今度は後ろから叩く音を聞いていた。凪いだ海にある音は、それくらいのものだった。
音を立てているのは、私の知らない男だ。髪が長く、黒い服を着ている。ずっと俯いていて、表情はよく分からない。否、顔ははっきりと見えるのだが、そこに浮かぶ感情の正体が掴めないのだ。まるで、無機質で心を持たない人形を見ているかのようだ。男は、規則的な動きでボートを漕いでいた。もう長い間、どのくらいかは分からないがとにかくあくびが出そうなほどに長い時間、オールを動かし続けているというのに、動作が鈍ることはない。それも相まって、矢張り機械仕掛けの人形のようだった。
漕ぎ手の男の前には、白い人間が立っていた。背筋を真っすぐ伸ばしたさまは、小さいながらも糸杉によく似ていた。黒く大きな糸杉、白く小さな人、まるで違うのにどこか同じように見える。不気味だった。白い人影は、ボートが陸を離れてから一度も身動きを取っていない。呼吸をしているのだけは確かだが、それ以外の動きはない。揺れる小舟の中心に立っているというのに、一度もよろめくこともなかった。不気味だった。
白い人間は、まっすぐに前を見ていた。その瞳は黒く、一切の光を宿していない。不気味でもあり、美しくもあった。その恐ろしい瞳に映るのは、糸杉だ。空を目掛けて生える糸杉の群れは、小さな島に根を生やしていた。
その島は、ボートで一周するのに三十分もいらないであろう、小島だった。しかし、その規模に似つかわしくない威圧感を放っていた。それはきっと、糸杉のせいでもあり、周囲を取り囲む岩のせいでもあっただろう。島は、到底人が足を踏み入れられるとは想像もつかない有様だった。糸杉を中心にして、手入れのされていない岩々が存在を主張し、さながら巨躯の怪物のように見えた。以前神話の本で読んだことのある、ゴーレムという異形に似ていた。
ボートは岩の隙間を抜けて、糸杉の茂る岸へと接岸した。そこで初めて、私は島の異様さを思い知った。まるで手つかずのように見えた岩壁に、無数の穴が空いているではないか。その穴は長方形に整えられ、明らかに人工物であることは疑いようがなかった。人ひとりがすっぽり入ることができるであろう穴は、巨大な口を開けて私を見下ろしていた。私はそこで初めて、恐怖を感じた。
漕ぎ手がオールを船上へ引き上げ、ボートを岸へと固定した。白い人間は、ボートが勝手に流れて行かないことを確認して船を降りた。呼吸以外のはじめての動作だった。白い人間は、ボートの船先に置かれていた、大きな箱に触れた。すると、漕ぎ手の男も立ち上がり、箱の前に立った。二人は、何の意思疎通もないまま、静かに箱を持ち上げた。
箱には白い布が掛けられていた。私はその中身を知っている。そして、彼らもその中身を知っているだろう。二人は無言で箱を運んだ。足場が悪い中を慣れた様子で歩き、岩の隙間を縫うように登り、辿り着いたのは大きな穴の前だった。長方形の奇妙な縦穴は、目の前で見るとさらに不気味で恐ろしい。私は、恐怖心から思わず後退りをした。そして、白い人影に「やめてくれ」と声をかけた。
しかし、当然何の意味もなかった。人影と男は、矢張り一言も発さずに、箱を穴の中へと押し込み始めた。私は抵抗が無意味だと悟り、大人しくその光景を見ていた。重い箱なのに、二人は平然とした様子を崩さない。何度もこんなことをしているのだというのは、容易に想像ができた。やがて、その時がやって来た。
箱は完全に穴の中へと押し込まれ、もはや外からでは見えなくなっていた。二人は、仕事を終えたと言わんばかりに息を吐いて、ボートへと戻っていく。二人が乗り込んだ小型の船は、箱がなくなったせいか、いくらか寂しく見えた。男はボートを岸から離し、オールを手にした。白い人影は船に乗り込み、行きと同じように中央に立った。
ふと、男が顔を上げた。
「座ったらどうですか」
私は、驚いて漕ぎ手をじっと見た。彼の顔には、変わらず感情というものが欠落して見えたが、じっと見ると精悍な顔立ちをしているのだと分かった。町を歩いていれば、きっと年頃の女性に思慕の視線を向けられることだろう。
白い人影は、男の言葉に返事をしなかった。しなかったが、男を振り向いて、ゆっくりと首を横に振った。漕ぎ手の男は肩を竦めて、オールを動かし始めた。私は、去っていくボートをただ見ていた。
振り返れば、糸杉があった。天を衝くように、黒々とした葉を茂らせて生えている。私は糸杉に近付き、そっと幹に触れてみた。ひんやりとしていた。その冷たさを感じながら、きっとこれは、死人の体温が移ったのだろうと思った。俗世間から打ち捨てられた、こんな恐ろしい墓場では、生命を持つ木々でさえも冷たくなっていくのだ。触れるうちに思った。私の体も、こんな温度をしていたのだろう、と。
執筆の狙い
絵画をモチーフに、SSを書くぞ! という試みです。タイトルがそのまま絵画の名前なので、それと比べて見てもおもしろいかもしれません。
単に絵画の描写をするだけにはとどまらず、なるべくストーリーを入れたいと思って書きました。できてるかはわかんない。
あと、情景描写とか、人の動作の表現とかが苦手なので、そこから逃げないようにしました。できてるかはわかんないけどね。
もしかしたら、「この絵はこんなんじゃねーよ!」とかあるかもしれませんし、絵の設定と矛盾する描写があるかもしれないんですけど、一応「絵に関する情報(作者とか、制作意図とか)はまったく見ないで、あるいは無視して書く」ことにしているので、ガチで許して下さい。
感想待ってます!