在所下谷
一
ヱヱ、毎度マイド、馬鹿云々しい噺を一席。嫌な御時世ですねヱ昨今は。原因は、ってクチに出したくもねヱんですが、おしさまの廻りを覆う屁じゃなくガス、惡名は無名に勝るってもコンなのとイメージ想像されちゃあ敵わなヱ某ビールの銘柄や家電メイカーさんなどなどの、アレです。マサにもう戰爭、我々庶民もお医者さまも看護師さまも兵隊さんみてヱな在様です。國會に都道府縣、市町村の議員センセも戰っていらっしゃるとは想うんですがね、ドウも姿が、凄まじい戰場で見えないんですわ。マ、たれの責任でもねヱ、アレのせいですから無闇ヤタラにしとを色眼鏡で見て、しつ要以上の猜疑心を持つのはやめましょうね、はい。
二
本筋に入る前に雑マクラをば少し。
防疫亊務ってヱのは明治の御世では、警視廳が重要な担い手だったと聴いております。
明治の七年と八年にしつこく二十九年は天然痘、十五年から十九年おのれ小癪な二十三年にくどいよテメヱと二十八年はコレラ、もう嫌ンなるなあと三十年は赤痢。医療に携わっていらっしゃったとは考えられないので、當節で云う〈對人接触ノ規制〉でしょうかね。
当節では医療が進歩し庶民の衛生観念も髙まっておりますので、怖いと云やあ怖いんですが死病に非らず、との認識が一般的でしょう。
三
ではコホン、本筋に入りましょうか。ときは明治の二十四年、下谷もとい當節の台東區、〈東亰暗黑街〉と不名誉ながら呼ばれたしん困が巣窟、萬年甼です。日曜日が午後、って明治以前はドウだか知りませんが、西洋の風習で月火水木金土日、と週の概念が取り入れられたので、日曜は休む亊が奨励されたソウです。トモカクいい齢こいて嫁さんもいねヱが職人としての腕はグンバツなオトコが二人おりました。
「おいおい、てヱへんだよ!」でヱくの太助が左官の文六が部屋、棟割長屋ですから隣ですな、トモカク飛び込んで來ました。文六はカナ新聞に落としていた眼を太助に移しました。「ドウした?掏摸にやられてすってんてんになったのか?知らぬ遊女に〈アンタノ子ダヨ〉と赤ん坊を押しつけられたのかい?」
「ありゃ去年のこった。てて親が現れて助かったが。用はソレじゃねヱ、ヱ、ヱ、ヱ」太助は徳利に口をつけ、質がサゾ惡いであろう焼酎を呑みました。「圓朝が西甼の[他をレ亭]に出るらしいぜ!あの憧れ、しかし見た亊も聴いたこたねヱ」
「お前、トチ狂ったんじゃねえか?」文六が眼を剥きました。「髙橋泥舟センセや山岡鐡舟センセに惡黨の長閥ヤロー井上馨がしいきにしてる三代目・三遊亭圓朝師匠ともあろう噺家がアンな客の方に錢払わなくちゃならねヱような、ザケた寄席に出るはずがねヱだろうが」
「丙吉が小屋前の幟と行燈にソウ書かれてたってよ」
「俺も漢字は苦手だが、アイツはもっと駄目だろうが。お前もな」
「だからおれは、虎の子たるコレを見せたのよ」太助は懐から財布を取り出し、壱圓札を抜き文六にちらつかせました。「丙公は〈ソウソウ〉って頷いた」
札に手が伸びるテメヱのしだり手を、右手で叩く文六でした。「丙吉はちか眼だから、ドウも鵜呑みには出來ねヱなあ。チヨウ、の方は何と抜かしてた?」
「黙っちまった」
「俺も忘れちまったが、ナンだかなア。デモよ、三度のおまんまよりも噺好きの俺たちだ。贋者だとしてもよ、馬鹿にしたり罵ったりとマア、ソレなりに樂しめるだろうさ。ソウすりゃ知らせてくれた丙吉への云わば恩返しとなってよ、彼奴は成佛出來るさね」文六は兩手を合わせました。
「まだくたばっちゃいねヱよ」
「トモカクだな、竹甼の御隠居さまも誘おうじゃねヱか。あの爺は若ヱ頃から漢籍ってヱのを學んでるし、噺も好物だから聯れてったら正しく讀んでくれるだろ。冥土の土産に持たせてやろうぜ」
太助はこの節には殆ど見かけなくなった虚無僧が、下手糞な尺八を吹いて喜捨を受けているサマを目撃したときに浮かべるしょう情を浮かべました。「文六、おめヱ丙吉だけじゃなく御隠居さまも殺りてヱんだろ」
二人は長屋を出て、萬年甼が南、竹甼の御隠居さまが住まいに向かったのでありました。
四
下谷竹甼の御隠居が住まいです。
イエ住まいちゅうか、とくせん期、かの汚職老中、當節では清濁合わせ呑んだ英傑とのしょう価が髙い、田沼主殿頭意次さまが時分から續く老舗中の老舗が紙の大問屋です。御隠居さまはしゃく坪を在する敷地の隅に[愚庵]と稱した離れをこさえ、ソコで寝起きをしております。かつてはマア色々とありましたが、その節では手習いも僅かな寸志で行う仁徳あふるる御立派な方で、かつて太助も文六も御隠居さまが弟子でした。ユヱに勝手口から勝手に入り、愚庵の障子を輕く叩く文六でした。
「たれぞな?」
「文六ですよ、御隠居さま。太助もおりまする」
「おお、儂がモツトモ可愛がった弟子どもではないか。ともかくお入り」
「それでは失禮します」障子をしらき、中に入る頓馬の二人でした。
ソコでとんでもねヱ生き物を眼の當たりにしました。
けけ、毛唐・紅毛人、もとい白人です!
謎の黑衣を纏いし白人は微笑んで洋椅子から立ち上がり、文六と太助に挨拶しました。「はろーはうあーゆー」
「ぎゃあ!」しっくり返る太助でした。「くくく、喰われるう!」
「命だけは、何卒、ナニトゾお助けヱ!」文六は土下座してデコを牀に擦りつけました。
「相變わらずの頓珍漢じゃノウ」御隠居さまは溜息をつきました。「今の儂が英吉利語の師匠・デヴイツド・デイヴィッドスン神父さまじゃ。實に御立派な方で、野蛮な眞似をするかよ。だから我がにっぽんは遅れとる、と嘲られるのじゃぞ、マツタク」
「イヱ、ゴ老躰。確カニ亞細亞ノ皆サマカラ、我々白人ハ恐レラレテオリマス」デイヴィッドスン神父さまの笑みは崩れませんでした。「然シ、我々モ亞細亞ノ兄弟ヲ恐レテオリマス。眞ニ嘆カワシイ。デスガ、らゔ・アイ・愛!此レサエ在ラバ、人種宗敎ヲ超ヱ仲ヨクナレルノデス、ハイ」
「道理じゃがの、デイヴィッドスン神父さま。儂ら佛道そして禅の徒は〈愛コソ絶タネバ悟リハシラケヌ〉と幼少の頃から叩き込まれておってノウ。難しいモノじゃ」
五
にっぽん語が分かるとなりゃ恐れるこたねヱ、とイキった頓馬が二人ですが、亂暴狼藉に及びませんでした。長幼の序を御隠居さまからツネに説かれておったので。
「で、では切支丹のデイヴィッドスン神父さま」まず太助が發言しました。「おれらにっぽん人もとい佛道神道が徒は、他國へは長年に渡って脅したり攻め込んだりとかの暴擧には及びませんでしたぜ。ソコんトコロはドウ考えていらっしゃいますか?」
「其レハ我々、合衆國人民ガ傲慢デシタ。じーざす・くらいすと信ジナイ輩ドモハ野蛮人、敎化シテ文明人トスルノガ我ラガ使命ト。トンデモネヱ、ジヤパンニハ神社仏閣・禅・茶・浮世繪・刀・人情ナドナド、素晴ラシイ文化ヲ持ツテオツタンデヱ、コンチクシヨウ!イチ合衆國人民トシテ謝罪シマス」デイヴィッドスン神父さまはオツムを深く下げました。
「イヱイヱ、神聖なる、耶蘇敎ですが御坊、デイヴィッドスン神父さまが謝るしつ要はねヱですよ」文六はデコを起こしましたが、土下座のままでした。「あんた方が來てくれたお陰さまをもって、幕府は潰れたんですから。俺が爺さんのダチ公で、二本差しに因縁つけられバッサリ斬り捨て御免、煮ヱ湯を呑まされた聯中は多いんですよ。ソンな滅茶苦茶な世を直すきっかけが、件のペルリ閣下。マアね、關税とかイロイロと新政府の輩どもは四苦八苦してるソウですが、俺ら庶民には關わりねヱこってす」
「オーぶらざ!」デイヴィッドスン神父は文六に寄り、躰を抱きしめました。「ヤハリ、愛ソシテ敬、とれらんす!ドコノ國デモ腹ヲ割ツテ話セバ分カリ合ウツテモノヨ。テヤンデヱ、ベラボウメ」
「ダダ、ダ、駄目ですよデイヴィッドスン神父さま!俺には衆道の氣はねヱんですから!」文六は絶叫しました。
「おー、忘レテマシタ」デイヴィッドスン神父さまは文六の躰から離れました。「ジヤパンニハ同性ヘノ、はぎんぐ抱擁トはんどいんはんど握手、ノ習慣ガナイト云ウ亊ヲ。御免ナスツテ」
正確に云や、異性に對するより同性に對する愛こそが尊ばれたのが我が日本の風習だったのですが、細く言及するのは野暮天なので割愛します、はい。
六
太助と文六は手土産として、御隠居さまが大好物、老舗の[三岳屋]が大福を殊勝ながらも賈っておったので、デイヴィッドスン神父さまも交えての談笑となりました。
「ほっほっほ、圓朝だと?確かに彼奴は凄い。今はあまりにも大看板になり過ぎて、天邪鬼な儂には面白くはなく、滅多に聴きには行かぬ。昔から儂は、眞打となる寸前でもがいとる二つ目か、將來の成功を信じて疑わぬ生意氣で純粋な前座がしい屓でノウ。ほっほっほ」大福をほうばりながら笑う御隠居さまでした。
「エンチヨー?」大のにっぽんしい屓となりながらも正座が苦手なデイヴィッドスン神父さまは、洋椅子に腰掛けながらも極上の静岡玉露を嗜んでおりました。「私モ名前ダケハ聴イタ亊ガ在リマス。こめぢあん、デスネ」
「おお、メリケンがデイヴィッドスン神父さまもご存知たあ、圓朝もてヱしたモンだ」あぐらをかいてテメヱが亊じゃねヱのにヱラソーな顏の太助でした。
「いえーす。一度、聴イテミタイモノデス。是シトモ」
「けどデイヴィッドスン神父さま」文六は父祖代々受け継いだ、見亊な銀細工が煙管をふかしておりました。「畏れ多くも神聖なるご職業の方が、滑稽、英吉利語で云やあ、じ、じ」
「じょーく、デス」
「ソウ、其れソレ。じょーくを欲す、ちゅうモンは不敬・不謹慎てヱ奴では?」
「ノーノー、ぶらざ・ブンロク。主ハヱレヱ寛容ナノデ、多少ノ冗談ヲ云ウノハ大イナル慈愛ヲ以テ許サレルノデス。オトツイ來ヤガレツテンダヨ」
「ドウも信用出來ねヱな」太助は眼を細めました。「デイヴィッドスン神父さまは御隠居さまのお眼にかかったくれヱですから御立派な方だと想いますがね、異人どもはソウ甘言をロウしておれたち亞細亞人をだまくらかして來たんだから」
「言葉モナイツテンダ、コノトンチキメ」デイヴィッドスン神父さまは胸の前で十字をきりました。「主ヨ、コノ哀レナル迷エル仔シツジヲ救イタマヱツテンダ、スツトコドツコイ」
「マアマア太助に文六。その咎をデイヴィッドスン神父さましとりに押しつけるのは弱いモノ苛め、江戸っ子がする亊では無いぞな。であるが」御隠居さまは二十年に一度あるかないかの猛禽類が眼でデイヴィッドスン神父を見つめました。「し情じゃがノウ、かつて切支丹に行われておった〈踏ミ繪〉を科す。デイヴィッドスン神父さまがじょーく或いはゆーもあを云う亊が出來らば、儂が責任を持って西甼の[他をレ亭]にお聯れし、メリケンを恐れる庶民との閒に慶んで立とうぞ。此れでも下谷の顏だから、儂」
「ホ、ホ、本當デスカ。ドツチニセヨ、神ハ沈黙ヲ以テ答ヱルダケデス」
「眞の江戸っ子と云うモノは、大法螺は吹くが細かい嘘はつかないモノじゃ。儂を信じなされ。マア太助と文六が云う圓朝がモノホンかどうかは、今んとこナンとも云ヱぬが」
「デハ」再び十字をきるデイヴィッドスン神父さまでした。
七
「コホン。ゴ老躰、ぶらざ・タスケ、ぶらざ・ブンロクハ、合衆國デハ過去ワレワレ白人ガ、あっふりけーん即チ黑人ヲ奴隷トシテ賣リ賈イシ、コキ使ツテ居タ、チユウ反省スベキ歴史ガ在リマス。ゴ存知デスカ、テメヱラ?」
「ウム」お三方は頷きました。
「宜シイ、續ケルゼ、しぇきなべいべヱ。今ハ自由トナリマシタガ、悲シイ亊ニ黑人ハ支那人チヤンコロ同様、差別サレテオリマス。泣キタクナラア。アルシ、シトリノ白人ガ黑人ヲ罵倒シマシタ。
〈おい黑んぼ!手前らは俺たち白人さまの亊をサゾ恨んでるんだろうな!〉
〈恨みツラミは捨てましたぜ、白人の旦那〉
〈嘘こけニガ!そんなに我らの合衆國が憎いのなら、とっとと樂園のアツフリカに帰れってんだ、この野郞!〉
〈だったらよ、ソノ船賃、テメヱらが拂って呉れるんだろうな、このホンキー、白んぼ!〉
チユウ、オ粗末ナ噺デシタ、ハイ」
「ギヤハハハハハハハ、ハハハハハ!イヤア、虐げられとる民はいつの時代でも頓知があっていいや、グハハハははは!」マツタク以って危險、不謹慎な内容であるにも關わらず笑い轉げる國辱どもが二人でした。
「汚イ言葉ヲ使イシ我ヲ、本當ニ救ツテ下サルノデシヨウカ?」デイヴィッドスン神父さまは何度目かの十字をきりました。「地獄行キナラ、其処デモ永遠ニ恨ミ呪ウカラナ、主ヨ」
「合格じゃ」御隠居さまは拍手をしました。「差別は決して許してはならぬ。であるが、其れを聲髙に叫ぶだけが能では無い。いっその亊、自虐的な笑いに替えるのも手段じゃ。しとを憎み罵り合うのが不毛で馬鹿馬鹿しい亊であると悟る。デイヴィッドスン神父さまは確かに不謹慎なじょーくを苦痛ながらも仰られたが、互いを攻め會うのでは無く笑い會う、此れだけは獣には出來ぬ藝當であるからノウ」
「イヤア、おれたちにっぽん人だってメリケンだってアツフリケーンであってもニンゲンはニンゲン、話さなくとも音樂と笑いってモンは共に分かち合えるんでさア」
「これで俺も太助も、デイヴィッドスン神父さまが兄弟って寸法です。ウエルカム、伴天聯!」
「さんくす、コノ愛シキじゃっぷタチヨ」
抱擁するデイヴィッドスン神父さまを、今度は拒絶せず受け入れる太助と文六でした。
極東が地、この小さき下谷竹甼で行われた平和外交でしたが、ナンダカ閒違っちゃいねヱかと思わせなくもないしとときでした、はい。
八
御隠居さまがかの徳川権中納言光圀公ツマリ水戸黄門、太助が佐々木助三郞タダシクは佐々宗淳ツマリ助さん、文六が渥美角之進タダシクは安積澹泊ツマリ角さんとなり下谷を歩きましたがモロチン、庶民は頭を垂れました。
デイヴィッドスン神父は?ソリャモウ〈風車ノ弥七〉です。著作權侵害、申し譯あいもはん。
ソコでその節が下谷寄席亊情を簡單に述べましょうか。寄席がしゃく八十軒もあったソウです。遡ること明治の十八年頃ですが。
あたしは〈何カノ閒違イデ眞打トナツタ下手モン〉としょっちゅう面罵されとりますしソノ自覺もあります。當節では立派な一門に師匠の方々、見亊な藝の弟子筋揃いです。ツマリあたしが云いてヱこた、そうした玉石混交、ある意味戰國の世で勝ち抜いた噺家の方々が今でも大看板・大名跡となり、人氣噺家が呼べる小屋もとい寄席が殘った譯であり、敗けた噺家に寄席が淘汰されていった、ちゅう亊です。ではドウして、あたしみてヱなゲテモンが生きていけるんでしょうか、と何時もイツも自問しとります、はい。
九
マタモヤ脱線しました。元に戻します。
下谷西甼が[他をレ亭]前。夜んべの興行で、珍しくも長蛇の列でした。
「フム、澁谷のとん馬、悦樂亭の小十、珍鈍家の与太。夜逃げ寸前の小屋としては、ずいぶんと張り込んだモノよノウ」御隠居さまが眼は、孫を愛でるが如くのモノでした。「小屋主が代わったのであろうか」
「面白イノデスカ、ジジイ基ゴ老躰?」
「モロチンですぞ、デイヴィッドスン神父さま」御隠居さまは頷きました。「まだマダ未熟だが、彼奴らは必ずや大看板となり、江戸噺を背敗って立つ逸材ですワイ。ソウなりゃ儂が許を離れる。寂しいノウ」
「主ヨ、此ノ哀レナル老イボレニ、ドウカドウカ祝福ヲ」
「ソウさね、確かに与太は上手い。ありゃ生意氣だからって嫌われておりますがねヱ」太助は明るい聲を發しました。
「逆に氣が弱くておしと好しなのが、とん馬に小十」腕を組む文六でした。「で、トリが、ヱヱと、確かに圓。次が、ありゃあナンて讀むんです、御隠居さま?」
「殘酷な亊を抜かすが文六。あれは圓では無い」御隠居さまは溜息をつきました。「太助と文六、そして丙吉を儂は可愛がったが、此奴らに漢字を叩きこむは成長を阻害すると敎えなんだ。結果、職人としては大成したが今となっては痛恨の極みじゃワイ」
「御隠居さまを恨んじゃいませんよ」太助は圓朝らしき、看板を指差しました。「勿躰ぶってないで、讀んじゃって下さいな」
「では、不浄ながらも讀んでしんぜよう、コホン。大口に小口、ツマリ囘。〈クルクルマワル〉じゃ。續くは朝、では無い。魂消るなよ、虫ツマリ蝶々や蝗、あれが三つで蟲。從って圓朝の贋者ですら無くマツタクの別が噺家[囘蟲]カイチユウである」
「ゲゲゲ!」太助と文六はしっくり返りました。
デイヴィッドスン神父さまは初めて聲をたてて笑いました。「オウ、掴ミハ上々ジヤネヱカ、ハハハハ」
そりゃソウですよねえ、腸内で生ける寄生蟲ですから。あたしらの世代までは、用を足したあとでウネウネと動く其奴らを見て吃驚仰天し、フツーに蟲下しチヨコレートを配布されてたモノです、はい。
十
嬉々として列に並ぼうとするデイヴィッドスン神父さまが行く手を、太助は身を持って遮りました。「ダダ、ダ、駄目ですデイヴィッドスン神父さま!おれは囘蟲ナンて噺家は知りませんがね、ドウせ汚らわしい、人民の敵であるこた分かってまさア!デイヴィッドスン神父さまがソンなヤローが噺を聴いちゃったらマサに感染汚染、信徒の皆さまにおれはナンて云い譯すりゃいいんですか!ぶっ殺されるやも知れねヱんですよ!」
「心配ニハ及バネヱヨ、ぶらざ・タスケ。主ハ蟲ケラ一匹ニモ平等ノ愛ヲ注グンダヨ、コンニヤロメ」
「ど、道理だぜ太助」文六は太助の右手をしきました。「囘蟲ナンざどうでもいいけどよ、とん馬・小十・与太は云わずものがなの名人候補だ。デイヴィッドスン神父さまに圓朝を聴かせる亊が出來なかったのは無念だが、囘蟲の出番となったらトンズラしようじゃねヱか」
「のおのお、ぶらざ・ブンロク」デイヴィッドスン神父さまはまたもや十字をきりました。「私ニモ囘蟲ガ何ヲ意味スルカ分カツテイルンダヨ。ぶらざ同様、其ノ野郞ガ出番トナリヤ、皆逃ゲルデシヨウ、腰抜ケ腑抜ケドモガ。ソウトナリヤ、囘蟲ハ賃金ヲ得ル亊ガ出來ズ、干サレ飢エルデシヨウ。神ニ支ヱル身トシテ、ミスミスト見殺シニスル譯ニハ行カネヱンダヨナ。其処ガ神父稼業ノ辛ヱトコロヨ」
「サ、流石は神聖なる御身分」文六は太助の右手を離しました。「洋の東西、佛道だろうと耶蘇であろうと人情ってヱモンはおんなしですな。デイヴィッドスン神父さまの度量と慈愛の深さに感激したぜ。今度はありったけの錢を、是しとも敎會に献金させて頂きまさア。江戸っ子は宵越しの錢は持たねヱ、ってこたご存知ですよね、デイヴィッドスン神父さま?」
「アタボウヨ。矢デモ鐡砲デモ持ツテ來ヤガレツテンダ、カツチキネエ」
太助・御隠居さま・デイヴィッドスン神父さま、殿に文六と云った鹽梅で列に並ぶのでした。
圓朝師匠がお出にならなきゃこのバカ噺は打ち切るべきナノですが、デイヴィッドスン神父さまがモーレツに暴走、うんにゃノっていらっしゃるので、續けさせて頂きます、はい。
十一
「儂の脳味噌が働いたぞな。想い出したワイ」御隠居さまは右手をしだり掌に打ちつけました。「遡る亊五十年前であるから天保は十二年、儂が御店の若旦那として東奔西走が修行を積んでおった頃じゃ。三兇亭囘鳥、と云う下手物の噺家がおった。ソリヤ話にも噺にも歯無しにもならぬぼんくらでな。次第に噺だか講釈だか俄だか幇閒持ちだか分からん、ソモソモ藝とは呼べぬとして續々と寄席から出入り禁止を喰らい、辻で興行しても八丁堀や岡っ引きに番太どもから怒鳴られ、酒浸りとなり借財を繰り返し、女房子供から見放され出て行かれ、擧句は逐電し行方知れずとなった。おっ死んだのであろうと、好亊家の話題に出る亊もなくなり忘れておったが、儂は今も昔もモノ好きであったから、幾度も聴いたモンじゃて。寄席での客はすぐに出て行き、殘るは儂しとりと云った鹽梅でノウ」
「で、ではその囘鳥とヤラがくたばる亊もなく生きながらヱておったと?」
「ソウじゃ、儂の見立てでは。何処ぞの田舎で純朴な村民をだまくらかしておったのであろう。囘蟲は其の殘黨もとい弟子、閒違い無い。或いは曽孫か。とかくモノホンの囘蟲は藥草を幾ら服しても生き殘る、厄介な生き物でな」
「流石は御隠居さまですな。ではゲテモノちゅうのを前から分かっておらば、ソレほど腹は立たねヱと」
「巢ヲコサヱタ燕ハ戻ツテ來マスシ、囘蟲モ躰外ニ排出サレドモ、イズレハシトガ口ニ入ツテ來ヤガル。ドツチニセヨ、私ハ其ノ野郞ヲ見捨テルコタネヱンダナア」
十二
庶民がメリケンを怖がると懸念した御隠居さまですが意外や意外、みな黑衣の白人が耶蘇敎のお坊さんだと云う亊は分かっておりまして、デイヴィッドスン神父さまの前で〈神ノ祝福ヲ〉と傅きました。その度にデイヴィッドスン神父さまは十字をきり〈アーメン〉と唱えました。なけなしの錢を浄財として差し出したのですが、ソレを文六が巾着に入れました。
ソノ理由を語るのはチトやべヱんですが、かの〈廃佛毀釈〉にあります。明治初期に起こった集團システリーで、民衆が寺と云う寺をぶっ壊しまくりました。施政者どもはソコマデシロトハ云ツテハネヱノニナアと大いに嘆いたのが本當ナノですが、トモカクお寺と坊主の權威は形骸化し、あんまし表立った活動が出來なくなりました。ソコで解禁された耶蘇が布敎の傍ら、しん困に病を抱えた庶民の面倒を見ましてですな、改宗まではせんでも神父さまに牧師さま、修道女さん方を好意的に見ておったのでありました。
ソウコウして御隠居さま御一黨は最前列となりました。
十三
「オヤ、竹甼の御隠居さまじゃねヱですか。お見限りい」木戸番の勘助が甲髙い聲を發しました。「あんまし來てくれないんで、くたばった、もといこほん、病いで牀に伏せってるんじゃねヱかとしんぺヱしてたんでさア」
「すまんの勘助。最近は英吉利語を、こちらの偉大なるデイヴィッドスン神父さまに敎わっておってノウ。夷語を學ぶのはまっこと樂しいモノじゃ」
「ホウ。あたしゃ外語はサツパリ理解出來ねえけど、家族みな基督敎に改宗、洗禮を受けましたぜ。あたしゃ〈セルジオ〉女房は〈アガルタ〉倅は〈ユダ〉って在難ヱ聖名を授かっちゃりしてモウ。神田はニコライ堂に毎週通ってまさア」勘助は兩手を組み握りしめておりました。「しかしあすこはハリストス正敎會ですから、デイヴィッドスン神父さまンとことは宗派が違うでしょ」
「のおのお、ポン引キ野郞。確カニ私ハろーまん・おーそどっくすツマリかそりっくデス。然シ、主ハるたー派デアロウトめそじすとデアロウト聖公會デアロウト區別ナドセズ、總テノ人民ニ平等ノ愛ヲ注ガレルノデス、愚カ者メ。一度、私ントコノ下谷ハ坂本甼ガ貧乏敎會ニ、寄ツテラツシヤイ観テラツシャイツテンダ、ドサンピン」
「フーム。無知蒙昧で頑固一徹の勘助が趣旨替えするたあ驚きだ。一度おれも敎會で説法を聴こうかね」耶蘇もとい基督敎に懐疑的であった太助が、神妙な聲を發しました。「御隠居さまもおれも禅の徒である亊を誇りに想っておるから、改宗はしねヱけどな」
「しとに強いるこたねヱけど、すんばらしいぜ基督敎は。太助みてヱな抜け作でも主はお救いになられるんだ」勘助のお眼々はきらきらしておりました。「殊に〈爾ノ敵ヲ愛セ〉。いつまでも恨みツラミを抱えてたんじゃあ世の中は進まねヱんだからモウ」
十四
「ところで勘助」御隠居さまが鹽っぱい聲を發しました。「そなたが[他をレ亭]じゃが、小屋主が代わったのかノウ?とん馬・小十・与太と云った若手でも下谷はモロチン江戸もとい東亰でも指折りが實力の持ち主。儂が知っておる小屋主・甚太郞では、とても呼べぬと想ったので在るが」
「ヱヱ、代わりましたよ。甚太郞が手放そうとアチコチにナシをしてたんですがね、ウチのしょう判は最惡でしたでしょ。たれもがシカトしやがったんでさア。デモね、捨てる神ありゃしろう神あり、ってヱ奴で、甚太郞一家が首を括ろうとしてた一寸前に現れたんですよ」
「おー、其レハぶらざ・カンスケノ厚キ信仰ノ賜物デスネ。奇跡ツテヱシロモンダヨ。マダマダ人閒、捨テタモンジヤネヱヨナ」
「どんな御仁かの」
「ソリャああた、鎌田吾郞ちゅう若ヱのに御立派なお方でさア。もと下總國は關宿・久世さま家中の出自でしてね、尋常小學校はモロチン中學校の下等上等も卒業されまして、ソウなりゃ末は博士か大臣かって未來をシヨクボウされるでしょ。ところがどっこい志願で我が帝國陸軍の兵隊さんとなりまして、二年だか三年だか忘れちまいましたが見事に勤め上げました。マサに立身出世、末は大將元帥閣下と云う聲が上がるのは當然ですが野に下り、お國許が親族御一黨さまに慕うしとびとの支援、ソシて兵隊さんが時分にコツコツ貯めたおあし大枚を甚太郞に呉れてやりまして、見亊にウチの旦那となったんでござんす、はい」
「俺たちが青二歳の時分は、長男だからと兵役猶予だった。だから軍隊ナンて知らねヱが、兵隊さんってのはてヱしたモンだな」
「其ノ通リデス、ぶらざ・ブンロク」毎度の亊ですが、デイヴィッドスン神父さまは十字をきりました。「暴力ハモロチンイケマセンケド、其ノ眞ガ凄マジサト虚シサヲ説ク亊ガ出來ルノハ、暴力ニ身ヲ投ジタ不成者ドモナンダヨナ。哀シイ色ヤネン」
「デイヴィッドスン神父さまが仰る通りじゃ。ドウして徳川サムライどもが役立たずで落ちぶれたのか、其れは常に尚武と抜かしながらも眞の武藝を怠り其の魂を失っておったからじゃ。薩洲も長洲も、敵わなかったが夷狄と戰うだけの實力と氣概を在しておった。外様諸家は公儀にいつ因縁をつけられ取り潰しとなるやも知れぬから兵練は怠らなかった。新撰組や彰義隊に奥羽越列藩同盟を惡しく云いたくは無い、故に運が味方とならなかったと茶を濁しておくかノウ。ともかくコホン、常戰常兵の心づもり無く唱える和平と云うモノは繪空亊じゃよ。鎌田氏とヤラは暴力が日常茶飯亊の兵營生活で、其の無益さと平和の尊さを見出したのでは無いかと、デイヴィッドスン神父さまとおなしく儂は想う」
「御隠居さまが仰る通りで」勘助は深く頷きました。「鎌田の旦那があたしらを殴ったこたモロチンねヱし、怒鳴る亊もありません。微笑みを絶やさない、實に穏やかなお方でさア。遣り手の旦那が三兇亭の囘蟲ナンて下手物をしろってやって噺を打たせるのは、繁盛に溺れ續けらば風向きが變わったときに對処出來ねヱっちゅう戒めナンです、はい」
マア徴兵とか軍拡に軍縮ヤラにあたしみてヱなぼんくらが口を出そうモノならドンな恐ろしい目に遭うか分からねヱので是しは述べません、はい。
十五
モウ圓朝が登場されないこた分かっておるのですが、これは申し上げなけりゃあ噺家の名折れってヤツですから云わせて貰います。師匠の木戸錢は破格の五錢、その節が贅沢しんであったアンパン五つが賈えました、はい。
敬けんな基督敎徒が勘助の粋な計らいで御隠居さま御一黨の木戸錢はロハ、おまけに洋椅子を用意して貰ったので、流石に髙座前は傲慢ゆえ一番後ろに腰を下ろしました。
そして興行開始、開演です。
とん馬が〈粗忽長屋〉小十が〈火焔太鼓〉与太が〈猫久〉を演じました。ソレゾレを語ると別の噺となってしまうので殘念ながら割愛させて頂きますが、スデに眞打は閒違いなしの藝で、お客さま方は大笑い、おしねりの大洪水でした。
「素晴ラシイデス」デイヴィッドスン神父さまも大笑いでした。「厳格ダケジヤア信徒ハツイテコネヱヨナ、ヤツパシ。貧シキ者ドモガ笑ヱルノハ、心ニ余裕ガ在ルカラナノデス。來タル廿世紀、私タチハ伝統ヲ重ンジナガラモ、共ニ笑ヱル世界ヲ構築セネバナラネヱ。今更、他ノ稼業ニヤ鞍替ヱ出來ヱシヨ」
十六
サテ、囘蟲の出番です。
モロチンお客さま方は腰を上げ去ろうとしておったのですが、偉大なるデイヴィッドスン神父さまが御満悦なしょう情と威厳あふるるお姿を見て、ココデ逃ゲチヤア江戸ツ子モトイ日本男兒ジヤネヱヨナアと再び腰を下ろしました。
出囃子ですが、ベンベベベーン、ベンベベベーン、ベンベベベーン、ベンベンとしびき渡りました。モロチン三味です、はい。
「この音は」御隠居さまはお眼々をパチクリさせました。「聴いた亊があるぞ。山縣が有朋さんトコの園遊會にお呼ばれされた時じゃ。獨逸人の樂團が演奏しておったノウ」
ソレなる音とは一八七〇年、かの獨逸はリシヤルト・ヴアーグナーが作曲した〈ヴアルキユーレ〉でした。
小屋の若ヱ衆がめくりを捲りました。って、にっぽん語として正しいかどうかはトモカク、ソレには〈珍譯・饅頭コワイ 囘蟲〉と記されておりました。
囘蟲が登場しました。蓬髪に死神が如くの痩せこけた顏、黄八丈の上に黑でも継ぎ接ぎが見える羽織と云ったいで立ちで高座のおざぶに腰を下ろしました。
モロチンたれも手を叩きませんでしたが、罵声を浴びせる亊もありませんでした。
囘蟲は〈噺〉を始めました。「ヱヱ、毎度馬鹿馬鹿しい噺を一席。明治が御世となって二十數年、だいぶ世の中は落ちついて來ましたねヱ。ケチな泥棒はまだ居やがりますが、つけ火と云った重咎人はおりません。ご存知の通り〈火亊ト喧嘩ハ江戸ノ華〉でしたからね、勇猛カカンな我らのし消しが隣三軒のボロ家をぶっ壊しまくりました。庶民も何時なんどき必ずや住まいが燃えるナンざ分かっておりますから、しつ要最低限のモノしか賈わねヱ質素な生活をしておりました。それに喧嘩。江戸っ子は氣が違う、じゃねヱや氣が短いから辻のあっちゃこっちゃで足を踏まれた眼とばされた、女房に色眼を使ったナニの長さ太さ固さを馬鹿にされたナドナドの些細な理由で喧嘩がおっぱじまって、江戸っ子は仲裁に入る亊なくオトコなら、あゝオトコなら、トコトンやれや俺がついてるぞとやんやの聲を浴びせておりましたねヱ。あの頃はまっこと良かった。文句抜かす輩ナンざ田舎からやって來た田吾作ばっかしでしょ。マツタクこの野暮天どもが。で、その野暮天さんは今どん百姓どもじゃあありません。分かるでしょ?し消しは消防、喧嘩仲裁はポリスもといお巡り。ともに官憲であり、ドウせ聯中は江戸っ子の美徳を知らねヱトンチキですからー」
ソコで〈オツホン〉と云った野太い咳払いが囘蟲の聲よりも大きく小屋ん中にしびき渡りました。
御隠居さま御一黨が眼をやると、發した主は制帽を被り羅紗の制服を着たお巡りもとい警察官でした。
一七
ドウして庶民が娯楽の場に警察官ナンて堅物が居るのか。ソレには理由があります。
明治は十一年の太政官布告第二十九號〈國安ヲ妨害スル集會、結社禁止〉ちゅう、通称〈集會條怜〉って、亊實上の言論が自由の禁止以外のナニモノでもねヱ掟がありました。二十三年に消ヱたのですが、以降も親方しの丸や官憲のし判は面白くねヱと警察官が睨みをきかせておったのも亊實でした。ソコで寄席や芝居小屋には警察官席、と云うモノが用意されておってですな、常に巡査が座っておったソウです。
チナミにですね、かの〈自由民權運動〉とも關わりがあります。壮士が政府し判をします。スルと警察官が〈中止!中止!〉と止めに入ると壮士どもは〈官憲横暴!〉と怒鳴りしと悶着が起きます。ときには取っ組み合いを。ソレをし頃の憂さ晴らしと庶民は樂しんでおり、別に自由だの民權だのにはさほど興味ナンざなかったっちゅうのが當節の定説であります。その証拠に政府の規制が緩くなってくと、その類いが集會に足を運ぶ庶民はドンツクドンドン減少していきましたからね、はい。
十八
「―と、と、とまあ昨今が實情を抜かしたんですが、別にあたしゃ公僕の方々をコケにしとる譯じゃありませんぜ。あたしら庶民の生活と安全の為に躰を張って頑張っていらっしゃるんですから。では本筋に入りましょうか。此度あたし囘蟲がごし露させて頂くハナシは、かの古典中の古典〈饅頭コワイ〉をあたしなりに新しい解釈で換骨奪胎、ちゅうんですか、トモカクそれに着想を得た噺であります。
ヱヱ、酒を呑むときゃ別嬪で蓮っ葉ソレも年増の酌婦がつきものですが、ヤツパシね、数人のオトコが車座となり酌み交わす方が樂しいってヱモノです。とあるし、貧乏長屋の部屋で四人のむさ苦しいオトコ、丑寅と酉吉に巳助、加えて傳八ちゅう餓鬼の時分からの幼馴染が、沢庵と湯豆腐と云った貧しいもとい質素な肴で二等酒を樂しく呑んでおりました。ソシて宴も酣、互いのおっとろしいモンを正直に抜かす亊になりました。コンな鹽梅です。
〈おいらはかかアが怖ヱ。おなご遊びがバレたらもんのすげヱ折檻さね。酉吉は〉
〈ソリヤ丑寅おめヱ、俺っちはエレキよ。あれが躰に通らば鼻が黒焦げ團子となってポロリと落っこちるソウじゃねヱか。巳助はどうでヱ〉
〈うーん、オレは大家さんだなア。錢をちょくちょく借りているからよ。傳八、おめヱは馬鹿だから怖ヱモンなんざなかろう〉
〈そりゃ在るわさ。あたしゃコレラだわヱ。三日前に隣の仲作どんがおっ死んでねヱ〉
〈シイイ!オタスケヱ!〉
とマア、傳八を殘し丑寅と酉吉に巳助は腰を抜かしつつ逃げ去ったソウです。コレラだけにコリヤタマランと逃げた、とマアお粗末な噺で御座い候」囘蟲は深々とオツムを下げやがりました。
十九
「え?こ、これで終いですかい?」太助は呆氣に取られ御隠居さまに問いました。
「うんにゃ」御隠居さまは首を振りました。「ソレが三兇亭の、下手物と呼ばれたユエンじゃ。儂が覺えておる限りでは、死んだふりをしたり、厠に行くと髙座をおりたり〈時ソバ〉ではもり蕎麥を喰いながらとマア、掴みドコロが無かったモノじゃ。懐かしいノウ。ドウなる亊ヤラ」
「此レデハ主ノ救イ赦シ以前、困リマシタネ。コノオタンコナスガ」
御隠居さまが懐古とデイヴィッドスン神父さまが当惑とはモロチン正反對、アチコチから〈後モ先モネヱダロガ!〉〈其レガオチカヨ、トンチキ野朗!〉〈木戸錢カヱセ、イヤゼニ寄越セ!〉〈表ニ出ロイ!裏デ畳ンデヤル!〉〈ウンニヤ、半殺シダ!〉との怒號が飛び、小屋ん中は暴動寸前でした。
「こりゃあ!貴様の行爲はかの大警視・川路利良閣下がお記しになられた〈警察主眼〉の観点からイチ警察官として見逃す亊は出來ん、出來ぬ!」六尺、當節ではおよそしゃく八十センチの鋼が如き警察官は立ち上がり怒號を發しました。「内容について知りたいモノあらば下谷署に來たまえ!トモカクだな、本職らは人民を騙し陥れたる、或いは及ぼさんとする不逞な輩を排除するが爲に在り、人民の安寧と福利を守るが爲に奉職しておるのだ!貴様の行いは何じゃ!トリで髙座に上りながらも三分足らず!噺では無く世迷言、此れを詐欺と云わずしてナンと云う!どうせ鑑札も持っておらず、あるいは僞造したモノであり税金も納めていないであろう!叩けばホコリん出っ身であっ亊は本職ん勘により明らか、神妙に縛につき罰を受けじゃ!」
この節では薩州に長州出身の官憲は〈俺ラガ江戸ヲ踏ミ躙ツタ他所モン〉と嫌われておったソウですが、お客さん方の聲は違いました。
〈イカスネヱ!〉〈唐芋モトイ薩人ヲ俺ハ見直シタゼ!〉〈骨ノ髄マデ痛メツケテヤンナ!〉〈痺レチヤウ!〉などなどと云った鹽梅で拍手喝采、賛美のアメアラレを出自が薩州、もとい鹿児島縣が警察官に浴びせまくりました。
ソレには譯があるのですが、先に申し上げるとロハでさえツマンネエ噺がさらに面白くなくなるので後述します、はい。
二十
「べべ、別に終わりと申してはおりませんよ、警視廳の旦那」囘蟲は咳払いをしました「あたしゃ、かの〈五箇条ノ御誓文〉を畏れ多くも素ん晴らしいと想っておるんでさア」
「説明せじゃ!」
「ヱヱとね〈廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ〉と〈舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ〉。これはね、噺家だからって一方的に話を進めるってヱのは如何なモノかっちゅう、あたしなりの舊時代的な噺へのし判ナンでさア。やっぱし大衆がおってコソの娯楽ナンだから、あたしがナニかを云いお客さまが異を唱えたら、その聲に耳を傾けてナシを造りあげる。ソウして藝は磨かれていくんです」
「フム、一理ある」
「あたしゃコレでもメリケンの地を踏んでるんですよ、行きも帰りも密航でしたがねヱ。毛唐どもは口をしらきゃあデモクラシ、って抜かしますが、その實どでかく強ヱ英雄英傑が現れらばコロっと参っちまって、誤った亊を抜かしてもソレに從うだけの木偶の棒ですから。その点我らがニッポン人は判官贔屓、ってヱ美徳を持っとります。敗けたモノに對する同情の念は厚く、源検非違使少尉義經公、楠木河内判官正成公、新田左近衛中將義貞公を尊敬しております。吉良上野介義央公に對しても、口には出さなくとも可哀想と想っているんでさア。西郷南洲翁に對してはモロチン、かの〈シト斬リ半次郞〉こと桐野利秋少將閣下への再しょう価は始まりますぜ」
「嬉しかことを云うてくるっでは無かか」巡査は強面ながらも笑みを浮かべました。
「あと戰っても敗けてもおりませんがね、去年の土耳古がエルツールル號難破亊件。一錢にもならねヱのに、紀州もとい和哥山が人民は親身となって土左衛門寸前の土耳古人たちを救ったソウじゃあねヱですか。ソウ情け深くなきゃニツポン人じゃねヱってんだ」
文六はデイヴィッドスン神父さまに小声で囁きました。「囘蟲が抜かす亊にゃ一應筋が通っておりますがね、藝としてはドウ想われます?」
「概ネ、藝術トハ後世ノシヨウ価ニ依ルモノデス」デイヴィッドスン神父さまは毎度の十字きりでした。「カノ沙翁コトうゐりあむ・しぇいくすぴあハ現代藝術ニ多大ナル影響ヲ與ヱヤガリマシタガ、元々テメヱノヨウナ下郞ドモガゴロマク安酒場デ演ジラレテイタト、カツテ學ビマシタ。惡貨ハ良貨ヲ駆逐スルトモ云ウンダゼ。トモカク洋ノ東西問ワズ、人閒ノ根底ヲ支エルノハ、ド根性ト來タモンダコンチクシヨウ」
二十一
「とマア、あたしゃお客さま方からのごし判ご苦情は大歓迎ですぜ。別に名人や大看板になるって野望は持っちゃあいねヱし、本流からしてみたらあたしの噺ナンざ藝でもナンでもねヱと罵られておるのはしゃくも承知の助でさア。デモね、舊來の慣習はぶっ壊してヱって欲はあります。そこで」死神ヅラの囘蟲が濁ったお眼々はカツとしらきました。「警視廳の旦那はモツトモ建設的って云うんですかね、貴重なご意見を下さいました。ソコでですね、コチラに來て、あたしと共に噺を創って呉れませんかねヱ?」
「イヤソノ、おいは堅物でないん藝もなか、詰まらんオトコじゃ。困ったな」鋼の警察官は当惑しつつも辺りを見渡しました。
スルと〈俺ツチガ眼ハ節穴ジヤネヱ、旦那ニヤ見込ミガアリマスゼ〉〈能アル鷹ハ爪ヲ隠スデサア〉〈囘蟲ナンテ下手物ヨリハ上、極上〉〈見惚レル偉丈夫〉〈オシネリハズミマスカラオ願イ〉との聲がやんやと警察官に浴びせられました。
「そこまで賈われて拒んは薩摩隼人じゃなか」警察官は腹を決めたヨウでした。「マア身は東亰にあれどもココロは鹿児島にある。故に田舎くさじゃが、そこは許して呉れため」
警察官が高座に上がると囘蟲はおざぶを蹴っ飛ばし神妙に正座しました。「これはコレは、我らが庶民娯楽のしつじ飼いたる警察官どの、ああたのお名前は?」
「コホン。下谷警察署の木村眞左彦巡査である」
「ソウでいらっしゃいましたか。ではし頃がお役目の感謝を込めて、お客さまも拍手お願いします。ゆくゆくは警視廳の星となる、木村巡査どのへ!」
割れんばかりの拍手喝采と稱賛が嵐で、木村巡査の鬼瓦ヅラが恵比寿さまになりました。
「木村巡査どのはコレラでの防疫活動はされましたでげしょ?」
「無論である」
「でしたら、そん時の心構え心持ちを、多少の誇張は結構ですから演じてみてくれませんか?あたしゃご新造さまが役廻りを演じます。あたしには大藝は出來ませんが小手先の藝は得意中の得意ナノで、木村巡査どのがドウ演じようと臨機應変に應對出來ますんで」
二十二
「おりょう、おりょう。今帰ったぞ」野太いながらもワリカシ美聲な木村巡査でした。
對する囘蟲はおなごが聲色で、三つ指をついてオツムを下げました。「お帰りなさいませ、お前さま。お勤めご苦勞さまです」
「ウム。唐突であるが荷物をまとめ、倅ん眞佐近と娘ん桐子と共に東亰を離れるがじゃ」
「其れは離縁、と云う亊ですの?あたくしが何か粗相をしましたか?」
「そうでは無い。我が國許、鹿児島へ向かうが良か。おはんは江戸のおなごとは云ヱ出自は源家が筋の坂東武者、おいん親族は優しゅう面倒を見てくるっであろう」
「お前さまが命には從いますが、譯をお聴かせ下さいませ」
「本來であらば職務ん機密を漏らしてはならんのだが、おはんに嘘はつけぬ。實はの、これから大ゆっさ、戰さが始まるがじゃ」
「アラマア、戰さなど今となっては大昔、西郷征伐もとい西南ノ役で懲りたでしょうに。でしたら尚の亊、武人が妻として家を護らねばなりませぬ」
「イヤ、夷狄や反政府の輩であったら我が薬丸自顕流で一刀両斷じゃ。であっどん、眼に見えぬ故まこて恐ろしいがじゃ」
「薩摩隼人であるお前さまが恐ろしいなどと、ハ、もしやもしや、其れはコレラでは」
「そん通りじゃ。防疫活動に就き、一人でも多くの下谷區民を救わんなならんど。だがん、情を口にすったぁ薩摩隼人がすっ亊じゃ無かが、敢えて云う。愛しきおいん妻おりょうに倅の眞佐近、娘の桐子までが病に罹りけ死ん亊は無か。眞佐近と桐子は、おはんに似て逞しゅう賢か。見亊に田舎郷士であっが我が木村家ん嫡男として立派なオトコに成長し、桐子は三國が一ん花嫁として夫を支ゆっであろう。そいを見届く亊が出來ぬのが唯一ん悔いであっどん、おいは奉職した時に命は捨てちょ。罹患しけ死んたぁおい一人で良か。おりょう、眞佐近と桐子を立派に育て上げっとがおはんの役目じゃ。頼んだぞ」
「何を仰いますお前さま。あたくしがお前さまに嫁いだ時、近在の衆から裏切り者だの御公儀が大義を忘れたあばずれだの、らしゃめんより劣る賣女だのサンザ面罵されました。然し、あたくしは武家がおなごです。何が大義ですか。壱武人としてのお前さまが見亊なお姿に、惚れて惚れて惚れ抜いて、没落はしましたが實家に親族郞黨とは縁を切り嫁いだので御座います。死地へ赴く夫に困窮する民草を捨てて東亰を逃げ出す、其れこそ末代までが恥辱、木村家が妻そして嫡男娘は死を以って償わねばなりませぬ。存分にコレラなる黴菌と戰い、見亊にご本懐をお遂げなさいませ。あたくしは殿を務むる覺悟。眞佐近も桐子もお前さまが血をひいておりますから、武家の名に恥じぬ振る舞いをするでしょう」
「ウム、良うぞ申して呉れた。流石はおいが見染めたおなごじゃ。おいんサーベルが本身は官給品では無う、父祖代々と木村家に受け継がれて來た、備前國友成に替えておる。贋で在ろうと、魂は魂じゃ。おのれ見ちょれコレラ菌、心が刄で貴様を一刀兩斷一撃必殺、下谷區民が八万九千八佰三十二人、我々警察官が一人でも多く、あゝ、救って、み、せ、よ、う、ぞお」
木村巡査の眼ん玉は飛び出る程にギヨロリ、右腕を前に突き出てしだり腕はオツムの上と云った、イワユル大見得が姿でした。
囘蟲は上方噺で使われる小拍子で髙座が牀を打ち、カツカツカツカカカカカカカカカ、カコーンと鳴らしました。
二十三
賞賛の聲とおしねりが飛びまくりました。〈ヨツ、千兩役者!〉〈大棟梁!〉〈ニッポンイチ!〉などなど。
ドウしてもコンナに薩摩もとい鹿児島縣がサムライの出自である木村巡査に拍手喝采であったのか。ソレは、江戸っ子は總じて[成田屋]ツマリ團十郞しい屓ナノで、巨躯にでっかい眼ん玉の警察官にソレを見出したのでありました。
「確かに現場を知っておる人閒ならではの迫力。あの木村巡査ってのはてヱしたモンですな。でもコリヤ噺、と云ヱるんですかね、御隠居さま?」太助は御隠居さまにお伺いを立てました。
「噺と云うより安手も安手、三文歌舞伎と云うトコロかの。然し」御隠居さまの眼は鋭いモノでしたが柔和な笑みを浮かべておりました。「かつては圓朝でも他の噺家でも、團十郞や菊之助の役者に對する劣等の情または對抗心と云うモノを持っておっての、背景を描き道具を用意した芝居噺を行なっておったのじゃ。話藝スナワチ滑稽・怪談・人情噺・圓遊のステテコなど立派な藝と認められるようになったのは、わりかし近年が亊でノウ」
「デモゴ老躰、囘蟲ハ舊來ノ慣習ヲブチ壊シタルワイト抜カシヤガリマシタ。若造ガ。デモ此レツテ單ナル先祖還リツテ奴ジヤネエノ?」
「フム、流石は偉大なるデイヴィッドスン神父さま、慧眼じゃ。圓朝そして圓遊に圓生などの天才は新しい流れを創る亊が出來る。囘蟲のような三流五流ドコロが舊弊打破と云ったトコロで出來るのは、しょせん様式化した藝以前に立ち還るだけであるからノウ。無から在は生ぜず、じゃ。歌舞伎とて、何時迄も元禄・享保・化政期の亊ばかし演じておっては滅ぶ。歌舞伎の祖とされる、かの出雲阿國が〈ヲカシ藝〉を踊る際に言葉が用いられておったのかは定かでは無いからそこまで遡れとは云わぬ。であるから、必ずや當節事情を題材とした、新しい波が起こるに相違無い」
「サイデスネ。ゆーろぷデモ寫實ヲ排シ薄ボンヤリトシタ作風ノ〈印象派〉ト云ウ革新ノ流レガ起キタンダネヱ。私ハ繪畫ニ造詣ハネヱケド、所謂るねさんす、れおなるど・だ・ゔぃんち以前ノ繪ハソウデ在ツタト想ウンダヨナ。憎イネヱコンチクシヨウ」
二十四
「待て待て待つのだ!」外套マントに身を包み学ランに角帽、硬派の紺色が足袋に髙下駄を履いた、いかにも帝大か予備門の學生さんと思しき若造が、九郞判官義經公の八艘飛びさながら髙座に登場しました。その姿は蝙蝠ソノモノでした。「木村巡査どのも細君のおりょうどのも氣丈過ぎます!人民たれしもが強いから素晴らしいのでは無く、本當は弱いモノ、故に愛おしいのであり、人は人を助け立派な社會を造って行くのです」
「オヤ、學生さんと思しき颯爽としたお姿、憎いですねヱこの若獅子さん」囘蟲は腰を下ろし正座、兩手をついてオツムを深々と下げました。「あたしの小手先の藝はコケにされてもしゃあねヱですが、木村巡査どのが熱演はお客さまを大いに魅了させましたぜ。しかしですな、トモカク身分出自などナンざ、あたしゃ興味がねヱけど、仰りたいこたナンデモ仰ってください。取り敢えずお聴きしますが學生さん、ああたのお名前は?」
「僕は帝國大学が文科で學ぶ青二才、長谷川潤之介と申します。没落までは免れましたが、元は駿州に居を移した徳川家が数百石取りの旗本が出自。然し乍ら父祖が故郷は江戸東亰ゆえに〈ソナタガ眞ノ故郷ハ矢張リ駿州ニ非ズ。ヤツトウノ時代ハ終焉シタ。此レカラハ學問ガ時代、存分ニ學ビ我ガ長谷川家ノ名ヲ巷ニ知ラシメルノジヤ〉、これが父の最期が言葉、母も追うが如き亡くなった。そうして家督は弟に譲ったのち妹と帰亰、僕は帝大へ妹は女學校へ進んだのです」帝大生の潤之介くんが胸を張ってお客さま方に訴えました。
「ほう、大したもんじゃ。政亊や医學を撰んでおれば、より人民に奉仕出來たモノを。軍人でもよかが、兵役は國民男兒ん義務であっで、おいが口出す亊では無か」木村巡査が口を挟みました。
「イヱ木村巡査どのが如く、府民市民區民の安寧を躰で以って守る方々は立派だと、僕はツネヅネ想うのです」潤之介くんは木村巡査に曇り氣味ですが笑みを向けました。「其れに較べ政府のお偉方はナンですか。貧民に何をして呉れるのですか。あんの山縣有朋はおよそ千五佰圓も月に受け取っておる。十二時間も不眠不休で勤務する木村巡査どのが月棒は十圓足らず。我が大日本帝國の兵隊さんが日當は僅か四錢。あんましじゃありませんか」
「コラコラ、過激な政府批判はー」
潤之介くんは首を振りました。「僕は政府をただ批判し續けて注目を集め孰れは代議士、など俗物が立身出世を望むモノではありません。人民が眞の倖福は何ぞやと己に問うた結果、文學の道へ進む亊を決意したのです。文學は藩閥や學閥に門閥を超え、人民に自由と希望を與ヱるのです。此処に居るお客さんは實に素晴らしい。日々の生活が苦しくとも安くも無き木戸錢を拂い噺を聴き、共に笑いを共在している。諸君こそが地の鹽、一代二代、そして末代までが、我が大日本帝國の榮光をもたらす存在なのです!」
ナンだか譯が分からねヱ、當節で云うトコロのアジ演説でしたが、お客さん方は潤之介くんに大喝采を浴びせまくるのでした。
二十五
「オウ、上等ジヤネヱカ」偉大なるデイヴィッドスン神父さまは洋椅子から立ち上がりました。「シトツテヱモンハ、老イテモ若クトモ進取ノ氣概ガ無クチヤアナリマセン。私ガ如ク老イボレガ日本ノ地ヲ土足デスガ訪レタ理由。其レハ布敎ガ使命モサル亊ナガラ、若キシニ抱イテオツタ冒險ガ志ヲ満タスガ爲デモ在ツタンダヨナ。ゲロ塗レガ甲板、太平洋ヲ渡ル船中、幾度モ主ヲ裏切ツテ海中ニ身ヲ投ジヨウト想ツタ亊カ。デスガ、其処デ死ンジマツタラ、偉大ナル勝海舟ガ如キ下郞ニ敗北スル亊ニナル。壱やんきゐガ名誉ハ私ニ課セラレタト、主ヲ信ジテ横濱ニ辿リ着キマシタ。マア溺レル水夫ドモ數人ヲ足蹴ニシ難ヲ逃レマシタガ、其処ン所ハ大眼ニ見テネ」
「イヤア、偉大なるデイヴィッドスン神父さまがハマの地を踏めたのは、しと重に神さまがあなたを撰ばれたのですよ」あんだけ基督敎に懐疑的であった太助が十字をきりました。「海の藻屑と消ヱた水夫どもだって、デイヴィッドスン神父さまを恨んじゃいねヱと想いまさア」
「もはや噺だか芝居だか分かんなくなって來たが、次はドンな手ヱ打って來るか樂しみだぜ」文六は腹巻から南亰豆が詰まった袋を取り出し、豆をぽりぽり噛んでおりました。「御隠居さまはドウ想います?」
「ソウさの。あの若者は帝大の文科、そして小屋にも出入りする文學青年であるから、ソコソコ新しく面白いモノを観せて呉れるのでは無いかと儂は期待しておる。圓朝が噺を速記したモノが文科で研究材料となっておるらしいからノウ」
髙座では囘蟲・木村巡査・潤之介くんがシソシソと打ち合わせと云うのでしょうか、ナシをつけておりました。
上手からは濃茶が紬の着流しに角帯姿の、鼻筋が通っており背筋がぴんしゃんとした若いオトコが西洋樂器、所謂ヴアイオリンを持ってシヨツコリと現れました。
二十六
木村巡査は長谷川家が戸を開ける〈仕草〉をしました。「ウツオホン。ちょっと良かかね潤之介どん」
「此れは下谷警察署が木村眞佐彦巡査ではありませぬか」しざをつきオツムを下げる潤之介くんでした。「奈美、木村さんに茶を。それと「俵屋」の最中を」
「ハイ、お兄さま」さらにか細いおなごが聲色の囘蟲でした。「先日に里から届いた、特上の静岡玉露が御座います」
「おお奈美さん、久しゅう見らんうちにむぜ、もて気品溢るっおなごになりなさったモノよのう、うんうん」木村巡査の眼尻が先頃に大噴火した會津磐梯山が峰なみに下りました。「じゃっどん、茶はいかん」
「水臭いですよ、木村さん。何時も申して居るでは在りませんか、幾ら御一新前は僕らが幕府軍とあなた方が新政府軍とが死闘を演じたとは云えとうが昔の亊であります。下谷に居を定むると決めたモノの、右も左も分からぬ我らが兄妹の親身となり、住居の手配やその他モロモロが相談に乗って下さった御恩は忘れられるモノでは在りません」
「そうですわ木村さま。お兄さまにとってもわたくしにとっても、木村さまは偉大なる兄ソノモノで御座います。遠慮せずに是非。奥方さまがおりょうさま・お子さまが眞佐近さまに桐子さまは御息災ですか?」
「おお、元氣も元氣じゃ。おいも潤之介どんと奈美さんを、實の弟妹同然に想うちょる。故に」木村巡査は哀しげに首を振りました。「遠慮で茶を辭するんじゃ無か。我々巡査は率先して斷たねばならんがじゃ」
「ヱ、お酒は嗜みませんが茶とお菓子が大好きな木村さまが。ハ、もしや」
濃茶着流しオトコがヴアイオリンを、ギヤ、ギユ、ギヨギヨギヨーンと鳴らしました。當節で云うトコロの不協和音ですね、はい。
「奈美さんが察する通り。コレラの罹患者がこん近くで確認された」木村巡査は制帽を被り直しました。「確かにコレラはおじか病じゃ。じゃっどん、け死みいたる理由は、下痢と嘔吐によっ、いわゆ脱水症状であっで、衛生と對人接触に氣を拂うちょれば必ずや収ま。必要以上ん恐怖こそがもっともおじかで、ここは我々官憲を信じ、恐慌を起こさん様」
「ナンと云う亊だ!」潤之介くんは掔を髙座が牀に打ちつけました。「コレラ菌なる虫けらにも劣る存在に我ら人民が恐れおる。むろん僕もだ。かの坪内逍遥先輩が[小説神髄]や二葉亭四迷君が[浮雲]は僕に多大なる影響を與ヱたが、コレラと云う現實を遥かに超えた異常時を眼の當たりにすらば、單なる夢物語では無いかと疑念を抱くのが率直な想いだ」
「お、落ち着きため潤之介どん」木村巡査は潤之介くんの肩に手を乗せました。「上水は煮沸しナマ物は常に加熱を怠らんな、家中でん感染はー」
「そうですわお兄さま」奈美さんを演じても囘蟲は死神ヅラなので不氣味でした。「女學校に通うは世閒知らずで浮世離れしたお嬢さん、と殿方どもからは揶揄されておりますが、女子敎育が眞の目的は〈良妻賢母ガ育成〉です。わたくしがお兄さまの妻では無く妹なのが殘念ですが、此の長谷川家中に於いては木村さまがご命に從い、見亊に罹患を防いで見せまする」
「ソウじゃ、おいを信じて呉れため。消毒液は都合し、病院もおいが手配するがじゃ」
「其れナノだが奈美」潤之介くんは立ち上がりました。「實を云うと奈美、おまヱは亡き父が養女として迎え、母はモロチン、僕と弟の潤之丞が妹として育んだのだよ。ツマリ血の繋がりは無いのだ」
再び濃茶着流しオトコがヴアイオリンを、ギヤ、ギユ、ギヨギヨギヨーンと鳴らしました。
「ナナ、何じゃと!」
「お、お兄さま!」
ややダレ氣味であったお客さまは身を起こしました。〈ゴツクン〉と息を呑む音が不思議と小屋内にしびき渡りました。
二十七
ヴアイオリンが音はチロチロチロチロリーンと、哀愁を帯びたモノへと變わりました。
「今を去ること幾年前、秩禄債券を手放し商賣を始めたが失敗した、細君を亡くし赤子を聯れたもと御家人が亡き父を頼って來られた。名は田所源三郞どの。亡き父は源三郞どのに一反の地を託したのだ。源三郞どのは一念發起し、幼な子がヨチヨチ歩ける頃には、青々とした、立派な畑をこさえるまでに至ったのだ」
「ソウじゃ。おいん家も代々、お役無き郷士が故に芋造りと紙漉きで活計をたてていたモノじゃ。今想うと、兵農分離こそが眞のサムライが魂を奪ったと云える」木村巡査がしょう情は懐古の念に溢れておりました。
「木村さんが仰る通りです。亡き父・長谷川駿河守信仲、潤太郎は〈刄ヲ振ルウモ茶畑ニテ鍬鋤ヲ振ルウモオンナシ〉と説いたのだ。源三郞どのは見亊に農道を極める寸前であった。生を受けたる時代が三佰年も早けらば一角の大名或いは武將として、遅けらば新政府が農政官僚として名を馳せていたであろうと、亡き父は源三郞どのが尽力と己が慧眼を誉めていた矢先、悲劇が起きたのだ」
「悲劇?」奈美さんモトイ囘蟲は眼を見張りました。
「ある晴天であったが雷鳴が轟く日」潤之介くんはオツムを深く、見るからに鎮痛な様子で下げました。「源三郞どのは天文気候が知識も在しておられたので此れは危險、と近在のお百姓衆に早々と帰宅す可しと説いて廻られた。既にお百姓衆は田所どのが仁徳を認めておられたので早々と帰宅した。源三郞どのも我が貧乏邸宅にこさえた離れに帰られたが、娘の姿が見當たらぬ。モシヤ、と己が畑に向かったトコロ、樫の大木が下で犬と戯れるサマを眼の當たりにされたのだ。此れは行かぬと駆け寄った瞬時、雷が樫の木に落ちたのだ。源三郞どのは幼き奈美と犬を庇い、地に伏せた。然し、神佛が何処に在ろう!巨木は源三郞どのが躰に倒れたのだ」
「ないと云う亊じゃ!」木村巡査は脇腹を抉られたが如くのしょう情を浮かべました。「我が國許ん薩摩では、かん廃仏毀釈にて凡そ九千もん寺が廃されたげなが、やっぱいこん世には佛なぞは存在せんモノや」
ヴアイオリンは、かの西班牙はサラサーテが一八七八年に發表した〈チゴイネルワイゼン〉を奏でました。
二十八
「轟音を聴き戸外に出、源三郞どのが身を案ぜられたお百姓衆は、くだんの樫が大木の下敷きとなり、泣き喚く幼な子と犬を庇う源三郞どのを総出で引っ張り出し、戸板に乗せ我が貧乏屋敷にお運びした。亡き父は〈氣ヲ確カニ保ツノジヤ、源三郞ドノ!武士ガ時代ハ終焉シテモナオ、生キ殘ツタ我ラデハ無イカ!〉と、硬く源三郞どのが手を握りしめた。源三郞どのは息も絶え絶えに〈ソ、粗末ナモノデスガ、ナ、何トカ出荷ニ耐ヱウル茶ガ育ツ畑トナリマシタ。敗ケダラケガ拙者ノ人生ニ於ケル、唯一ノ勝チ戰サデシタワイ。オ、想イ殘ス亊ハ在リマセヌ、殿〉と仰った。亡き父は〈シ、死ンデハナラヌゾ源三郞ドノ!貴公ト私ハ主從ノ閒柄デハ無ク、激動ガ時代ヲ共ニ生キ抜イタ朋友、ハラカラゾ!此処デ命ヲ落トシテ何ト成ル!私ガ夢ハ、貴公ガ娘・奈美ノ仲人トシテ、文金髙島田ヲ見テ貴公ガ漢泣キスル様ヲ笑ツテ祝ウ亊デ在ルノダゾ!〉と絶叫した。して無常にも源三郞どのは絶命されたのだが末期のお言葉は〈ハ、母上、此ノ刀ヲ取リ上ゲテ下サレ。拙者ニハ最早振ルウ亊ガ出來ヌ。灰色ノ汽船ガ岡ヲ登ツテ來マシタ〉であった」
ヴアイオリンが西洋音階で云うトコロのゲーデーアーマイナー、ゲーアーツエーと云う哀愁溢るる音を奏でました。あっちこっちでシクシクシクとすすり泣く聲が聴こえ、てめヱのふんどしで涙を拭うお客さまもおりました、はい。
二十九
「養父母、いいヱ、わたくしにとっては實のお父さま・お母さま・潤之丞お兄さま、そして村のお百姓衆には感謝すると同時にお恨み致します」囘蟲は相変わらずの死神ヅラでしたが段々とおなごらしく見えて來たのが不氣味であるとおんなしく不思議でした。囘蟲の奈美さんは兩腕でしん相な躰を抱きました。「たれ一人わたくしを〈貰イツ子〉などと邪險には扱わず、慈愛を以って育て上げて下さいました。お祭の際には〈オ嬢サマモゴ一緒ニ〉と陽氣な踊りに加えて下さって、わたくしよりも齢若の娘さんたちは〈奈美オ姐サマ〉と懐いて下さいました。あゝ、眼を瞑ると鮮やかに浮かぶのは、樂しかった少女時代だけなのです。其れ以前の記憶はございませぬ。何故、何故〈零落シタ御家人娘〉と下女が扱いをされなかったのです!さすればわたくしは長谷川の家及びお百姓衆そして里を憎み逐電した擧句、お兄さまとー」
「其れ以上は云ってはならぬ、ならぬのだ!」潤之介くんはマントを脱ぎ角帽を投げ捨て、オツムを掻きむしりました。「我が弟・潤之丞は亡き祖父の相模守潤左衛門信定が如くの古武士然としたオトコで、一族が頭領となる器の持ち主。亡き父も御立派なお方ではあったが、御政道を批判するには家格は低く、困窮する庶民に憐れみを持つも何も出來なき己を恥じ、學問に没頭する日々であったと亡き母から聴いておった。從って、その血を濃く受け継いだ僕は学問を撰んだが、煩悶と煩悩は消えぬ日々であった。であるから、日月が立つに聯れおなごらしくなってゆく奈美に、禁忌たる邪な情を抱いていたのが亊實なのだ」
「お、お兄さまも、や、やはり!」
「いかん、いかんぞ!」木村巡査はツラには似合わねヱ暗い聲を發しました。「血ん繋がりが無かと云うてん、兄妹として育ち暮らしてんであっ以上、やっぱい肉親や。其ん秩序を亂すたぁ公序良俗に反すっ行爲。じゃっどん、おいは情を見捨つ亊が出來なか、弱きオトコじゃ。おお川路大警視閣下、いち巡査がないをすべきか、敎えたもんせ!」
潤之介くんは片しざをつきました。「かの獨逸はゲオルク・ヴイルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが云うトコロのテーゼ對アンチテーゼそしてジンテーゼに至る、などは單なる數式であり、人閒の縁そして情は簡單に割り切れるモノでは無いと、僕は此の生活で痛感した。僕は奈美、おまヱが愛おしくて愛おしくて愛おしくて、氣が狂いそうなのだ!」
「わたくしとておなし亊。でしたら」囘蟲がツラは死神となりました。「現世では叶わぬ恋慕ならば、いっそイツソの亊、彼の地でー」
ヴアイオリンがかのルードヴイシ・フアン・ベートフオーヘンの〈第五番ハ短調〉スナワチ〈運命〉を奏でました。ジヤジヤジャジャーン、って云う、アレです、はい。
「ム.コリヤいかぬ。あ奴らは安手であるが心中モノにしようとしておる。ナニも近松が時代まで遡る亊はないのじゃ。ならば江戸が舊幣として、儂も出ない譯にはいかんゾナ」御隠居さまは立ち上がりました。「太助も文六も、筋は叩き込んでおろうナ?」
「あたぼうでさア」
「合点承知の助」
「よし、儂と共に髙座に上がるゾ!ついて來るのじゃ」
「私モシト肌脱ゴウジヤネヱカ」
髙座に駆け寄る御一黨でした。
二十九
太助が髙座で澄み渡る聲を發しました。「ヱヱい、控ヱいしかヱい皆の衆!」
「このお方をどなたと心得る!しかヱおろう!」文六は好々爺然とした御隠居さまが前に立ちました。
「心得、と云うてん」木村巡査のしょう情が、前日に仕掛けた鰻の罠に入ってたのが鮒であったときに浮かべるモノとなりました。「市井ん職人二人に人生經驗豊富なご老躰、謎の基督敎が坊さまにしか、おいには見えんが」
「あ、ソウでしたね。俺らは單なる職人、しがねヱ平民にしか過ぎねヱや。デモ惡黨じゃあゴザせんぜ。ヤツパシ頓馬ですねヱ、俺は。續きは太助と御隠居さま、デイヴィッドスン神父さまに託しましたぜ」
「ほっほっほ、しょうがないノウ」御隠居さまは文六の袖をしっぱり前に立ちました。「潤之介どの。儂は甼民ながらも先々代が長谷川家の當主・相模守潤左衛門信定公とは、漢籍を共に學んだ仲ですワイ。信定公は敎上的な學門を嫌う、眞に天晴れなお方であらせられた。身分違いながらも信定公はこの爺に〈我ガ息子・潤太郎信仲ニ漢籍ガ奥義ヲ〉と託され、儂が覺ヱ知る限りの知識教養を潤太郎さまに叩き込む榮誉を與ヱられましてノウ。駿河守の官名を賜ってからはお會いする機會は無くなったが、ふみは絶やす亊無く交わしておったのですよ、ほっほっほ」
「ヱ、ヱ、其れでは」潤之介くんの躰が揺れました。「父の三囘忌でしたか、五十圓もの香典が東亰から送られて來たソウですがご老躰、若しやあなたさまが?」
「何の亊ですかノウ、ほっほっほ。俗世から離れた爺であるから、金錢ナゾ卑しく汚らわしいモノとは關わり合いを斷っておるので、儂は預かり知らずじゃよ。ほっほっほ」
「その代わり」愚鈍に見えながらもワリと聡明な太助が口を出しました。「御一新を迎えてからはイチ甼民平民となり申したが、おれもとい拙者と文六は父祖代々と續く公儀隠密が一族。とある筋からの依頼と御隠居さまが差配で、潤之介どのと奈美どのに大亊は無いかと常に見張らせて頂いておったのです。おっと、偉大なるデイヴィッドスン神父さまも我らがお仲閒です」
「其ノ通リナンダナ愚兄愚妹ドモメ。先々日、主ガ聲ヲ聴キマシタ。〈迷えるこしつじ達が下谷西甼に居る。救うは爾が役目ぞ〉と。其処デぶらざ・タスケ、ぶらざ・ブンロクヲ道案内トシテコキ使イ、ゴ老躰ニ出張ツテ貰ツタツテ寸法ヨ。魂ヲ救イニ來テヤツタンダ。在リ難ヱト想ヱ」デイヴィッドスン神父さまはヤヤ飽き氣味なサマで十字をきりました。「基督敎デ在ロウト佛道デ在ロウト、魂ニ色ハ無ヱシ、違イハネヱンダヨナ」
三十
「じゃっどんご老躰」木村巡査は御隠居さまをじろりと睨みました。「近親婚は昔より禁忌とされちょる。マア一握りん例外はあっじゃろうが、おいが實ん弟妹同然の長谷川兄妹に破らせっ譯には行かんとじゃ」
「確か安藤昌益先生であったかノウ、〈近親ノ交ワリコソガ平安ヲ齎ス〉と唱えたのは。學んだのは足腰が達者であった若い時分であるし、先生が敎えには懐疑的であったから忘れましたワイ。トモカクですな、コホン。此の世は複雑に出來ておりますがの、ドウしてかお分かりかな、潤之介どの?」
「其れは」潤之介くんは胸を張って應えました。「自然が摂理であるからです」
「ほっほっほ、帝大生らしいお應えじゃ。であるが、さにあらず。その實は」御隠居さまがしょう情が古狸のモノへと變わりました。「しとびとが複雑にモノを考えるからですぞ。もっと單純にモノゴトを捉えなされ。帝大生に脳病、洋語で云うトコロのノイローゼが多いと云うのは眞でしたワイ。罵る譯では無いが、世情にも疎いノウ」
「單純に考えらばこそ、わたくしは一つの道しか無いと想っておるのですが」奈美さんもとい囘蟲は御隠居さまにしざまつきつつ擦り寄りました。「ご老躰のお考えをお聴かせて下さいませ」
「ナアに、簡單も簡單。奈美どのが長谷川家から籍を抜き、他家が養女となり暮らせばいいのじゃ」
「な!」
「ん!」
「と!」
潤之介くんに囘蟲ツマリ奈美さん、木村巡査はしっくり返りました。
ヴアイオリンはチャンチャン、と云う滑稽な音を奏でました。
「マツタク日本人ツテエ奴ハ、シチヤイケネヱトコロデ暴擧ニ及ビ、スベキ時ニヤ何ニモシネヱ。主ヨ、此ノ愚カナル与太公ドモニ祝福ヲ」
三十一
「して、御一黨がナニを申すかは、古狸たる儂には手に取るが如く分かって居りますワイ。木村巡査どのは奈美どのを養女とする、と」
「ソ、ソ、其の通りでごわんど」木村巡査は口しげを撫でました。「其れこっが自然で單純がじゃ」
御隠居さまはご満悦なしょう情で語りました。「ほっほっほ、先刻は偉そうな亊を申し上げましたがの。おなご心こそが此の世で唯一、理解不能でむつかしいモノじゃ。〈總テノおなごハ皆役者〉とも云いますからノウ、ほっほっほ。儂も若い時分は〈下谷ガ哥右衛門〉とチヤホヤされ、大いに遊び廻ったモノじゃて。遊女と藝者に花魁と、浮名を流しまくりましたがの、亡き妻はいつも笑顏で儂を迎えて呉れました。今想い還すとですな、サゾ腑が煮え喰りかえっておったと想いますワイ。末期が言葉は〈旦那サマト夫婦ニナツテ幾年月、常ニアタクシハ倖セデ在リマシタ〉。お店を傾ける亊は無かったが、儂をサゾ恨んであの世へ行った筈。マア儂が亊はドウでも良いですがの、木村巡査どのが細君は、奈美どのを義理が娘として笑顏で迎えたとしてもじゃ、内心〈何時カ此ノ小娘ハ、愛シイ旦那サマヲ泥棒猫ガ如ク奪ウニ相違ナイ、女狐〉との疑念を持つは儂が観て來た〈人生シ喜劇〉の観点から云って間違い無し、と斷言出來ますぞ。其れだけおなごが情は深く、おっとろしいモノなのじゃよ、ほっほっほ」
「ム、ムグウ」木村巡査は黙っちまいました。
「で、ですが正直に申し上げます。僕には木村さん以外に心許せるお方は居ないのです」潤之介くんは天井を仰ぎました。「休日に奈美と外を歩けば同級生の〈オボコ娘ハ貴重ダゼ〉下衆な商人の〈オ、武家ガ娘ダ。一度抱イテ見テヱモンダ〉、成り上がりが官僚の〈ウム、愛イ娘御デ在ル。錢ハ仰山在ルノデ吾輩ガ権妻ニ〉などなどの、卑しき心の聲が聴こえるのです。脳病と云われらば其の通りなのですが、あゝ、どうすればいいのだ!」
「方策は二つ在りますぞ。まずしとつは、偉大なるデイヴィッドスン神父さまに御説明をお願いしようか。頼みましたぞ」
「デハコホン。其レハ、我ガ貧乏敎會ニテ修道女トナリ神ニ支ヱル亊デス。しすた・ナミハ私デスラ助兵衛親父ガ類イニ見ヱルカモ知レネヱガ、コチトラ正眞正銘ノ童貞ヨ。酒ハマア其ノアレダ、葡萄酒ハ嗜ムガ認メラレル範疇ダカラ置イトクトシテヨ、修道女ニ手ヱ出ソウトスル不届キナ奴ア居ネヱ。其レニヨ、尼サンニナツタカラト云ツテモ一生行カズ後家ツテ、堅苦シク考ヱルシツ要ハ無イノデス。オ宅ノ國、佛道ニモ在ルダロガ〈還俗〉ツテ娑婆ニ舞イ戻ル手段ガ。トモカクダナ、私ノ責任デ時ガ來タラ貧乏敎會カラ解放シテヤルカラヨ、考ヱテ見チヤ呉レネヱカ」
「基督敎徒となり神さまに支える亊に抵抗はございません。女學校では牧師さまから英語を學んでおりますから。然し」囘蟲の奈美さんか奈美さんの囘蟲だか分かんなくなって來ましたが、其奴は應えました。「亡き父と母は、わたくしが女學校を立派に卒業する亊を願っておりました。利己的で申し譯在りませぬが、修道生活に於いては通學が出來なくなるかと」
「アチヤア、此リヤ一本取ラレタゾナ、シヨボン」デイヴィッドスン神父さまは肩を落としました。
三十二
「ほっほっほ、やはり此の老獪な古狸が出番じゃの」御隠居さまは髙笑いをしました。「太助や、説明しておやり」
「は、御隠居さま」太助は一歩前に出ました。「ヤツパシ、こっちの方が現實的だよなア。其れはコホン、御隠居さまに養い親となって貰う亊でさア」
「いや、そっちん方が難しかんじゃ無かとかね?」木村巡査はごっつい腕を組みました。「ご老躰がないをしちょっとか、おいは知らん。然し見れば息子どん夫婦にお孫どんもおっじゃろう。故に〈小娘ガ老イボレヲ誑カシ後添ヱニ収マロウトシテ居ル〉と謂れも無き誹謗中傷が待っちょるんじゃね?」
「ところがどっこい、御隠居さまは見ての通り、枯れた爺もとい老人でげしょ?お内儀さまに先立たれて二十余年、浮いた噂しとつも無ヱ。おれは女色に飽きて衆道に鞍替えしたとさヱ想ったんですがね、おれと文六ちゅう粋で鯔背なオトコ衆にも指一本触れたこたねヱ。其れにお店は倅さんに譲り渡し僅かな小遣いを貰って生きておるので、相續だの財産だの、生臭ヱ亊で揉めるこたねヱんです。つけ加えて云うとですな、倅さん、今のお店が旦那さんは大の恐妻もとい愛妻家、吉原大門にすらおっかなくて近寄らねヱ。お孫さんもおんなじでさア。おれがオギヤーと産まれる前の亊でですから御隠居さまの好色ぶりは聴いただけですがね、アンな放蕩爺から良くぞコンな堅物が産まれ育ったモノだって、かつて甼衆はシソシソ噂してたんですよ。ありゃぜってヱ種違いだとー」
「此れ太助」御隠居さまは太助をぎろりと睨みました。「其処まで申せとは云ってはオラヌ」
「おっとコイツァ失礼しました。と云う譯でおれはしっ込みまさア」太助は御隠居さまの後ろに廻りました。
「と、云う譯ナノじゃが、ドウであろう?儂が養女にならぬかノウ」御隠居さまのしょう情は再び好々爺然としたモノになりました。
「是非も在りませぬわ」囘蟲奈美はきっぱりと應えました。「わたくし、御隠居さまが養女となりまする」
「僕からもお願いします」潤之介くんもオツムを下げました。「學費は里から送金されますが、卒業し職を得たら、弟に返しますので」
「イヤア、めでたかめでたか。此れでおいは、防疫活動に専念出來ますど。おいも區役所には顔が利っで、困った亊があったや是非とも聲をかけたもんせ」
「儂も微力ながらお手傳いさせて頂きますぞ。ナンセ下谷の顏ですからノウ」
「お兄、もとい潤之介さま!」
「奈美!」
潤之介くんと囘蟲は固い抱擁を交わしました。
「改宗マデハシナクテモ構ワネヱケド、式ハウチノ貧乏敎會デ擧ゲテネ。ゴ祝儀モトイ淨財ガタンマリ入ルツテ寸法ヨ。主ヨ、此ノ朴念仁ト生娘ニ祝福ヲ」デイヴィッドスン神父さま見るからに投げやりなサマで十字をきりました。
ヴアイオリンがベートフオーヘンの〈第九番二短調〉所謂〈歓喜ノ哥〉がイイトコだけを奏でました。
〈良カツタネヱ!〉〈繪ニ描イタガ如クノ大團圓!〉〈式ニハ神輿担イデ行クカラナ!〉と拍手喝采がお客さま方でした。モロチンおしねりもです。
御隠居さま・太助・文六・デイヴィッドスン神父さま・囘蟲・木村巡査・潤之介くんはおててを繋いで髙く揚げ、お客さま方が声援に應えました。
三十三
くだんのヴアイオリン野郞こと、濃茶が紬の着流しに角帯姿の、鼻筋が通っており背筋がぴんしゃんとした若ヱオトコが正座し深々とオツムを下げました。「ヱヱ、手前が本亭の主人・鎌田吾郞でございます。お樂しみ頂けたでしょうか?木戸番の勘助からお聴きしたお客さまは多いかと想いますが、囘蟲が如き下手物もとい噺の革命児、とまでは褒め過ぎですか、ともかく頓珍漢な輩を登場させたのは、ひとえに初心忘レル可ラズが氣概でしたが、マサカ飛び入りのお客さまがご登場されるとは想いませんでした。調子に乗り手前も兵隊が時分に覺ヱたヴアイオリンを手にしましたけどね。イヤア、御隠居さま・太助さん・文六さん、其して木村巡査どの・長谷川潤之介くん。手前も出自は武家で兵營生活も經驗しておるので、身贔屓だと想って下さっても結構ですが、お見亊でした。投げて頂いたおひねりですが、囘蟲は噺さえ出來れば充分と申しておりますので、甼會そして區に全額寄付させて頂きます。其れにしても演目は〈饅頭コワイ〉が元ネタと捲りに記しましたがねヱ、此れではまるでー」
偉大なるデイヴィッドスン神父さまが聲を張り上げました。「〈新約・士族ノ商法〉テヱンダ、ベラボウメ」
とマア、おあとが宜しいようで。
執筆の狙い
胃が痛い。入れ歯も入れなきゃホルモンも硬せんべいも食べられねえ。不幸だねえ。