短編音楽小説"Peak time"
1
終電の一本前で街へ出た。
帰る電車のことは考えなかった。帰りは始発だ。始発まで、どこかにいる。どこか、というのはひとつしかない。
駅から十五分歩く。飲み屋の看板が消えはじめる時間で、道には客引きと、酔って座り込んでいる若い男と、タクシーを待つ女たちがいた。みんな、今日を終わらせようとしていた。僕はこれから始める。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。ナオヒトからだった。
「今日行く?」
和歌山からだ。ナオヒトは来られない。来られないのに、土曜の夜になると、こう送ってくる。返事はしなかった。返事をすると、ナオヒトはきっと、誰かいたか、と訊いてくる。まだ誰もいない。まだ扉も開けていない。
雑居ビルの前で立ち止まった。看板はない。一階は閉まったラーメン屋で、その脇に、地下へ降りる階段がある。階段の上から見ると、ただの暗闇だ。灯りは、暗闇の底の方で、ほんの少しだけ滲んでいた。
降りた。
金を払うと、手の甲にスタンプを押された。何の形かはわからない。暗いところで光る種類のインクだ。
階段を降りる。降りるにつれてキックが近づいてくる。まだ扉の向こうにあるのに、空気の振動が伝わってくる。扉は重い。押すと、音が身体に流れ込んできた。
灯りはなかった。
目が慣れるまで、しばらく立っていた。四つ打ちが空気を震わせていた。震えているのは空気なのか、自分の胸なのか、区別がつかない。だんだん、人の輪郭が見えてくる。誰かのスマートフォンが一瞬だけ光って、その光に照らされた顔が浮かんで、消える。誰の顔かはわからない。ただ、誰かがそこにいるということだけがわかる。
クラブ・アトモス。看板もない。雑居ビルの地下二階。いつも素敵な音楽が聴けた。
僕はひとりだった。
去年まではナオヒトと来ていた。ナオヒトは四月から和歌山で働いている。最後に来たのは十二月で、あの夜もナオヒトは女の子と帰った。僕はひとりで帰ることが多かった。ナオヒトの目的はSEXで、僕の目的は音楽だった。いや、僕だってSEXが嫌いなわけじゃない。ただ音楽が好きすぎるだけだ。
ロッカーに上着を入れた。フロアはもう温かかった。
2
ベースが来た。
うねるようなベースに、腰がうねった。腰から先に動く。頭は後からついてくる。そういうふうに踊る。
どこからがひとつの曲なのか、わからなかった。DJはひとつの曲を、次の曲の中にゆっくり沈めていく。キックはずっと同じ速さで打たれている。一曲が終わるということが、ここでは起こらない。ただリズムだけが続いていた。
DJブースには小さなランプがひとつだけあった。手元を照らすためのものだ。だから、DJの手だけが見えた。手がターンテーブルの上に置かれ、つまみを回し、また離れる。顔は見えない。手だけが、この夜を運転している。
フロアの真ん中まで行った。人と人の間に隙間がある。その隙間に身体を入れる。
前に、女が踊っていた。
後ろ姿だ。髪が肩のあたりで揺れている。肩が動く。腰が動く。動きは大きくない。ビートの中で、必要な分だけ揺れている。ビートを聴いているのがわかる。踊っているのではなくて、聴いている。その聴き方が、身体に出ている。
暗闇の中で、顔を想像した。
目を閉じているかもしれない。口を少しあけているかもしれない。額に汗が浮いているかもしれない。想像はどこまでも行ける。灯りがないから、止めるものがない。
彼女が時々、ふりかえった。
ふりかえって、何を見ているのかはわからない。僕を見ているのかもしれないし、僕の後ろのブースを見ているのかもしれない。顔は影だった。輪郭だけだった。
闇の中で伝わっている。何が伝わっているのかはわからない。わからないものだけが伝わっている。
耳元で囁き合う恋人たちがいた。左の方だ。男が女の耳に口を近づけ、女が笑う。声は聞こえない。ビートの下で、声は溶ける。ふたりのあいだで、ビートのうねりが恋を高めていく。それも見ていた。うらやましくはなかった。僕のところにも同じビートが来ている。
僕らも恋人同士になれるかもしれない。
そう思った。
3
喉が渇いて、バーへ行った。
バーには、レジの小さな液晶の光があった。店の中で、顔がはっきり見えるのはそこだけだ。店員の顔が、下から青白く照らされている。若い男で、眉のところにピアスがあった。この店に来て一年になるが、この男の顔を、僕は今日はじめて覚えた。フロアで会っても、わからないだろう。
水を頼んだ。店員は何も言わずに、氷の入ったプラスチックのカップを渡した。この店では、店員も客に話しかけない。それが好きだった。
隣に男が立った。酔っていて、僕の肩に肩をぶつけた。
「ひとり?」
うなずいた。男は笑って、それきり何も言わなかった。ひとりであることは、ここでは訊かれても答えなくていいことだった。答えても、続きがない。
水を飲むと、冷たさが胸の真ん中まで降りていった。
カウンターの脇に立って、フロアを見た。人の頭が並んで、ビートに合わせて上下している。
ナオヒトのことを思い出した。
ナオヒトはこのバーで、いつも女の子に声をかけた。声をかけるというより、隣に立つ。立って、音楽の話をする。この曲いいね。そうだね。それだけで、ナオヒトはうまくやれた。僕にはできなかった。曲がいいと思ったら、僕はフロアへ戻ってしまう。
「お前は音楽と帰るんだな」
ナオヒトが一度そう言った。笑っていた。馬鹿にしていたのではない。ナオヒトには僕が見えていた。
ナオヒトの理屈はこうだった。ここは暗い。顔が見えない。だから、誰でも選ばれる。昼の世界で選ばれない男が、ここでは選ばれる。だからナオヒトは来ていた。それは正しかった。ナオヒトはいつも選ばれた。
僕の理屈は少し違った。ここは暗い。顔が見えない。だから、誰でも聴ける。聴くことに顔はいらない。昼の世界では、僕は音楽を聴いているときの顔を、誰にも見せられない。目を閉じて。ここでは、顔を誰も見ない。誰も見ないから、僕はいくらでも音楽を聴ける。
十二月の夜のことを思い出した。
ナオヒトはこのバーで、ひとりの女の子の隣に立った。ショートカットで、耳に小さな石が光っていた。ナオヒトが何か言い、女の子が笑い、ナオヒトがまた何か言った。三曲ぶんくらいの時間だった。それから、ふたりはフロアの端で踊った。ナオヒトは踊りがうまくない。でも、うまくなくてもいい踊り方を知っていた。
僕は真ん中で、ひとりで踊っていた。
二時ごろ、ナオヒトがフロアを横切ってきて、僕の耳元で言った。
「帰る」
それだけだ。ナオヒトの後ろに、女の子が立っていた。暗くて顔は見えなかった。耳の石だけが、ブースのランプを拾って、一瞬光った。
僕はうなずいた。ナオヒトは僕の肩を叩いて、行った。
その夜、僕は五時まで踊った。翌日、ナオヒトから電話があった。何があったかは訊かなかった。ナオヒトも言わなかった。ナオヒトが言ったのは、別のことだった。
「お前、灯りがついたとこ見たことある?」
ないと言った。
「俺、前に一回だけある。電気がついたら、ただの倉庫だった」
コンクリートの床で、天井の配管が見えて、フロアには紙コップが散らばっていた。踊っていた女の子は、朝の顔をしていた。目の下が黒くて、口紅が落ちていた。ナオヒトはそれでも一緒に帰った。
「でも、あれ見て、俺、なんかわかった気がした」
何が、と訊くと、ナオヒトは笑って言わなかった。
ナオヒトは終わりを見る人間だった。倉庫を見て、朝の顔を見て、それでも帰る道を一緒に歩く人間だった。和歌山に行ったのも、たぶん、同じことだ。ナオヒトは、この街が終わるところまで見てから、出て行った。
僕は一度も見たことがなかった。アトモスの最後の曲を、僕は知らない。いつも、灯りがつく前に出た。
水を飲み干した。カップをカウンターに置いた。ベースが変わった。低いところから、さらに低いところへ落ちた。腰が先に動いた。フロアへ戻った。
4
彼女はまだ同じ場所にいた。
人が少し動いて、僕は彼女の斜め後ろに立った。さっきより近い。手を伸ばせば肩に触れる。伸ばさなかった。
髪から匂いがした。シャンプーと汗の匂いだ。それと、煙草。煙草を吸う人だ、と思った。それだけで、想像の顔が少し変わった。目を閉じているのではなくて、少し開けているかもしれない。口はあけているのではなくて、閉じているかもしれない。
DJの手が、つまみをゆっくり回した。ハイハットが遠くなった。キックだけが残った。四つ。四つ。四つ。
彼女がふりかえった。
輪郭がこちらを向いた。一秒か二秒。それから戻った。
その一秒か二秒のあいだに、僕は息を吸っていた。彼女も、吸っていたと思う。肩が上がって、下がった。
呼吸と呼吸。
そういうものが揃う瞬間がある。ここには、それがある。
DJの手が、次のレコードを置いた。
女の声が入ってきた。歌ではない。ひとつの言葉を、途中で切って、切ったところを繰り返している。何と言っているのかはわからない。英語だと思うが、単語になる前で切られている。母音だけが、キックの上で跳ねている。
その声が、フロアの上をぐるりと回った。左のスピーカーから右へ、右から後ろへ。声には身体がない。身体がないから、どこにでもいられる。
僕は目を閉じた。
高校のころ、部屋でヘッドフォンをして、こういう音楽を聴いていた。何を言っているのかわからない声が、頭の左から右へ動く。それだけで、部屋の壁が消えた気がした。学校では、僕は誰とも話さなかった。ヘッドフォンで音楽を聴いていた。
ここでも音楽が聴ける。
声が、少しずつ低くなっていった。ピッチを落としている。女の声が、男の声になっていく。それでも同じ言葉を繰り返している。何を言っているのかは、やっぱりわからない。
目を開けた。
彼女の肩が、その声に合わせて、小さく揺れていた。声が左へ行けば、肩は左へ傾く。右へ行けば、右へ。彼女も、声のあとを追っていた。
同じものを追っている、と思った。
それがわかったとき、胸の奥で、何かがひとつ、ほどけた。ほどけて、流れていった。ベースの中に。
5
煙草が吸いたくなって、外へ出た。
喫煙所は非常階段の踊り場だった。ビルとビルの隙間で、上を見上げると、細長い空が見えた。空はまだ暗かったが、隙間の向こうに街灯があって、その光がこちらまで届いていた。
顔が見えた。
みんなの顔が見えた。煙草を吸っている男の顔。壁に寄りかかって笑っている女の顔。スマートフォンを見ている男の顔。誰も、フロアで見た輪郭ではなかった。ふつうの顔だった。少し疲れて、少し酔って、汗で前髪が張りついている。昼の街ですれ違っても、覚えていられないような顔だった。
僕も、そういう顔をしているのだろうと思った。
煙草に火をつけた。煙が、街灯の光の中で、白く形になって消えた。
階段の下で、男と女が話していた。囁きではない。ここでは声が通る。女が、なんで、と言った。男が、だから、と言った。喧嘩のはじまりだった。ビートが声を溶かすから、喧嘩はできない。光があると顔ができて、顔ができると言葉ができて、言葉ができると、こういうことになる。
ふたりは、そのうち黙って、別々に扉の中へ戻った。中では、また、輪郭に戻る。輪郭同士なら、たぶん、もう一度踊れる。
扉が開いて、女が出てきた。髪が肩のあたりで揺れた。
僕は下を向いた。
見なかった。見れば、顔がわかる。わかれば、想像が終わる。ひとつの顔に固定される。その顔が好きかどうか、という別の問題が始まる。ナオヒトならその問題を始めただろう。ナオヒトはそれで、うまくやっていた。
僕は煙草を見ていた。
女は少し離れたところで煙草を吸った。煙の匂いがした。同じ煙草かもしれない。
女が先に扉の中へ戻った。扉が閉まると、キックがくぐもって聞こえた。壁の向こうで、心臓が打っているみたいだった。
煙草を消して、僕も戻った。
6
扉を開けると、また灯りがなかった。目が暗さに慣れるまで、立っていた。慣れるにつれて、輪郭が戻ってくる。
彼女は同じ場所にいた。
喫煙所で見た顔は、僕の中にない。下を向いていたからだ。だから彼女はまだ輪郭のままだ。かもしれないのままだ。
斜め後ろに立った。さっきよりも近い。
DJの手が、ゆっくり動いた。
ハイハットが消えた。ベースが消えた。キックが、消えた。
フロアが止まった。
何かの持続音だけが、天井の高いところで鳴っていた。パッドの音だ。長く伸びて、ゆっくりと上がっていく。誰も動かない。動く理由がない。キックがないと、身体は何をしていいかわからない。
その静けさの中で、呼吸が聞こえた。
自分の呼吸だと思った。それから、違う、と思った。前から聞こえる。肩が上がって、下がっている。彼女の呼吸だ。
僕も吸った。彼女が吐いた。僕が吐いた。彼女が吸った。ずれていた。それがだんだん、寄っていった。寄せたのではない。寄っていった。
服を着たまま、裸みたいだった。
暗闇の中で、顔は見えない。だから、顔がないところで、身体だけが向き合っている。呼吸は身体の一番奥から出てくる。一番奥のものを、僕らは互いに聞いていた。
パッドの音が、上がりきった。
一拍、何もなかった。
キックが戻った。
フロアが一斉に動いた。声が上がった。彼女の肩が跳ねた。僕の腰が動いた。呼吸は、もう聞こえなかった。ビートの下に沈んだ。でも、揃ったまま沈んだ。
彼女がふりかえった。輪郭がこちらを向いた。
僕は笑ったと思う。彼女も笑ったかもしれない。見えなかった。見えないことが、ここでは礼儀だった。
7
四時を過ぎると、人が減った。
フロアに隙間が増えた。恋人たちがいなくなった。囁き合っていたふたりは、どこかで囁きの続きをしているのだろう。ナオヒトも、いつもこのくらいの時間に帰った。
残っているのは、聴いている人間だけだった。
この時間のフロアが、僕はいちばん好きだった。ナオヒトは知らない。ナオヒトはいつも、この時間の前に帰った。
人が減ると、音が変わる。身体が音を吸わなくなるから、壁に当たって返ってくる。キックの後ろに、小さな反響がつく。DJもそれを知っている。この時間のために取っておいたレコードを、この時間に置く。三時までの曲より、遅い。遅くて、深い。ベースが床の下から来る。
汗が冷えて、また出た。シャツが背中に張りついている。喉が渇いているのに、バーへ行きたくなかった。行けば、戻ってきたときに、彼女がいないかもしれない。それだけは、いやだった。
彼女は残っていた。
隙間が増えたのに、僕と彼女のあいだの距離は変わらなかった。彼女が動くと、僕も動いた。僕が動くと、彼女も動いた。どちらが先かはわからなかった。ビートが先だ、と思うことにした。
一度、手の甲が触れた。
彼女の手の甲と、僕の手の甲だ。汗で少し湿っていた。触れて、離れた。謝らなかった。ここでは謝らない。ビートの中で起こることは、ビートのせいだ。
彼女が、少しだけ後ろに下がった。肩が僕の胸の近くまで来た。髪が顔にかかった。煙草と、シャンプーと、汗。
彼女が耳元で何か言った。
聞こえなかった。ビートの中で、声は溶ける。口が動いたのがわかっただけだ。息が耳にかかった。
僕も何か言った。何を言ったのか、自分でもわからない。声にしたのか、口を動かしただけなのか、それもわからない。
彼女が、うなずいた。
聞こえていないはずだ。僕も聞こえていない。それなのに、うなずいた。僕もうなずいた。
それでよかった。伝わったかどうかは、わからない。わからないことが、ここでは伝わったということだった。
顔は、まだ見ていない。
8
五時が近づくと、天井の高いところで、非常灯が少し明るくなった気がした。気のせいかもしれない。目が暗さに慣れすぎて、わずかな光を拾うようになっていただけかもしれない。
あと三十分もすれば、灯りがつく。
DJの手が、新しいレコードをターンテーブルに置いた。それが最後の曲なのかどうか、僕には判断がつかない。アトモスの最後の曲を、僕は知らない。
彼女の肩が、ビートに合わせて上がり、下がった。
ふりかえれば、と思った。
今ならもう、光はある。非常灯の、わずかな光。彼女がふりかえれば、僕は顔を見る。目が見える。口が見える。喫煙所で見なかったものを、ここで見る。見れば、名前を訊くことになる。名前を訊けば、番号を訊くことになる。ナオヒトがやっていたことを、僕がやることになる。それは、できないことではなかった。ここまで来れば、たぶん、できた。
でも、そうすると、この夜が終わる。
ふたりで階段を上がって、朝の光の中で顔を見て、駅で別れるか、別れないか。どちらにしても、終わる。今夜はいつかの夜になって、あの人はいつかの人になる。ナオヒトはそれを何度もやった。そのたびに、ナオヒトは何かをわかっていった。
僕は決めた。
いつも決めていたことを、また決めた。
肩から一歩、離れた。二歩、離れた。彼女は動かなかった。動かないことが、返事だったのかもしれない。ふりかえらなかった。ふりかえらないでいてくれた。
ロッカーから上着を取った。手の甲のスタンプが、ブラックライトの下で緑に光った。何の形かは、やっぱりわからなかった。
扉を押した。
キックが背中で遠くなった。階段を上がるにつれて、足の裏から抜けていった。二階分。地上に出ると、ビルとビルの隙間から、光が来ていた。
朝だった。
空気が冷えていた。汗が乾いていくのがわかった。鳥が鳴いていた。ここに鳥がいるということを、夜のあいだ、僕は忘れていた。
歩き出した。
胸の中で、まだキックが打っていた。四つ。四つ。四つ。身体はまだフロアにいる。足だけが、街を歩いている。
顔は見なかった。灯りがつくのも見なかった。最後の曲がどれだったのかも知らない。彼女がどんな顔をして、どんな朝の顔をして、あの倉庫を出ていくのかも、僕は知らない。
だから、終わっていない。
僕が出たとき、まだキックは打たれていた。彼女はまだ踊っていた。DJの手は、まだ動いていた。あの夜は、僕の知る限りではどこでも終わっていない。終わりを見なかったものは、僕の中で続いている。
ナオヒトは終わりを見る人間だった。倉庫を見て、朝の顔を見て、それでも一緒に帰った。それはそれで、ひとつの勇気だと思う。
僕は、見ない方を選んだ。選んだのだ。逃げたのではない。音楽が好きすぎるだけだ。音楽には、終わってほしくなかった。
ポケットのスマートフォンを出した。ナオヒトのメッセージが、まだそこにあった。
「今日行く?」
行った、と打った。それから、少し考えて、続けた。
「誰もいなかった」
嘘ではない。
「まだ終わってない」
ナオヒトは意味がわからないだろう。それでいい。ナオヒトはたぶん、あれを見てわかったことを、まだ僕に言っていない。僕も、これをナオヒトに言わない。言わないまま、ふたりとも、同じ場所に立っていたことだけが残る。
駅までの道で、一度だけふりかえった。
雑居ビルの、地下へ降りる階段の入口が見えた。何の看板もない。ただの暗闇だ。あの暗闇の底で、まだ四つ打ちが空気を震わせている。誰かの呼吸と、誰かの呼吸が、まだ揃っている。
かもしれない、のまま、僕は歩いた。
その夜は永遠だった。
執筆の狙い
ホームページで短編音楽小説という短編の連作を書いています。これはその94作品目になります。
20年以上前のクラブ体験を元に、claudeと共作してみました。
音楽を題材にしているのですが、リアルなクラブ体験ができたでしょうか?