紫煙と私見
ソファに寝そべって漫然と目で活字を追っていると、ふと愚かな欲求が兆した。
さっきまで意識にも上らなかったものが、急に思考を占領し始めている。
藪から棒になんだと我ながら呆れるが、一度知覚してしまったものをなかったことにはできない。
表紙の折り返しを栞代わりに挟んで、文庫本をソファへ放り投げる。
あれはどこにあったか。
目を宙へ投げ室内をせかせかと歩き回った。
煙草。煙草が吸いたい。他ではどうしても代用が効かないくらいに。
あの紫煙という極めて不合理で有害な物質が、脳の報酬系から要求されている。
自室のデスク周り、ベッドの下、レターケースの中、鍵やら何やらが雑多に置かれた玄関の棚、リビングのキャビネット。
挙句の果てに洗面台下の収納まで探しても見つからない。
いや、でも──あるはずだ。
確かに以前、季節外れに気温の上がった5月の夜、平伏したいほど見事な稲妻が夜空を縦横に引き裂いていたのを、ベランダで飽きもせず一時間も眺めていた時に吸っていたのだから。
思いつく、探す、見つからない。
繰り返すにつれ、残された選択肢の減少に反比例して焦燥感は跳ね上がっていく。
しまいには、記憶の限りでは開けたことの無い、絶対に煙草など入るはずのない丸い缶の固く閉まった蓋を、爪を立てて必死で開けようとしていた。
無意味な試行錯誤に没頭している間は、「もう探す場所が無い」という結論を確定させずに済むからだ。
そろそろ病名がつくのではないかと冷めかけた頭で考えながら、同時に冷蔵庫の野菜室か? などと支離滅裂な思考を走らせる。
突然、あそこだと脳内で小さな火花が散った。
あってくれ、と柄にもなく祈るような心地で木製の開戸を開ける。
シューズボックスの奥、冠婚葬祭用パンプスの箱の中に。
ソフトケースの中身が半分ほどになったあの男と同じ銘柄が、場を弁えない様子で収まっていた。
ベランダに出る。素足に触れるサンダルがひんやりと心地よい。
背筋を小さな寒気が走り抜けたが、無視して足を踏み出した。
ベランダの隅に置かれた、木製の蓋がついた黒い金属箱を引き寄せる。
朝方から降っていた雨はあがったが、空にはまだ一面どんよりとした雲が垂れこめている。
Tシャツの裾を引っ張り上げ、手すりをおざなりに拭って寄りかかる。
ひしゃげたケースの中から水色の使い捨てライターを取り出し、煙草を咥えて火をつけた。
眼下の緑道には秋の気配が混ざり始めていた。数メートル下まで枝を伸ばす木々はまだ青々としているが、既にいくつかの葉は乾燥して落ち始めている。
この夏は蝉がうるさく、朝は目覚ましよりも先にその叫び声で起こされたものだった。
流石にもう蝉声は聞こえない。
あの虫は5年だか7年だかも土の中で樹液だけを吸って生き、地上に出てわずか二週間たらずで死ぬらしい。
小さな脳味噌には、求愛のために大きな音を出せとか、雨が降ったら翅を濡らすなとか、そんな単純なプログラムしか入っていないのだろう。
求愛されたら何の疑問も抱かずに愛され、本能に従って生きて死ぬ。
「私は何のために生まれてきたのか」
そんな余計なロジックをこね繰り回す必要もない。
少し前に、素数ゼミが話題にあがった。
隣の研究室の院生が「その蝉を現地で見たい」とアメリカへ行ったと聞いたことがあった。
うっかり数を掛け違えて、周囲に誰も仲間がいない年に地上へ出てきてしまった個体は、どんな一生を送るのだろう。
番う相手もいない世界と知らずに、健気に発音膜を震わせるのだろうか。
生物の本能を人に準えて理解した気になるのは、傲慢か怠慢のどちらかだ。
小さく舌打ちをして、乱暴にかきあげた髪のもつれに指が引っ掛かる。力任せに引っ張るとブチっといやな音がして、頭皮が不快にひきつれた。
まとわりついた長い髪をベランダから落とす。
指先が、自然に次の煙草を探った。
あのときも、私は指に煙草を挟んでいた。城沢のジャケットから抜き取った時だ。
つまんだ煙草の先端をライターの炎で炙っていた私に、ベランダへ出てきた男は低く喉で笑った。
教室でも研究室でも、乱れたことのない城沢の髪は、湿った束になって目元に落ちていた。
ウエストにするりと腕が回され、抗うのが馬鹿らしいほど恭しく男の胸に抱き寄せられる。
湯上りの湿度が男の全身から漂ってくる。
たしなめる声色に優越を忍ばせて、城沢が耳元で囁いた。
『吸わないくせになにを悪戯してるの? 咥えて吸わないと、火は上手くつかないよ』
台詞の語尾が吐息になって直接私の唇へと流し込まれる。
歯列の隙間に入りこんだ舌にはミントの香気がかすかに残っている。
目を閉じて男の舌を吸った。
火をつけるのは城沢の方が上手だ。
今の私にとって、火をつけることなど造作もない。
灰皿の中には、半分以上も吸い殻が溜まっている。
もう一本吸ったら、まとめて捨ててしまおう。
今度はどこに残りの煙草を隠しておこうか、と考える。
絶対にあの人に見つからない場所。
でも、本気で探したら、見つけることもできる場所。
よれよれになったケースの中を覗き込む。
──見つけられたい。
──見つけられたくない。
煙草はフィルターの近くまで灰になっていた。指先にじわじわと熱が伝わってくる。
首を少し鳴らして、火を消した吸殻を金属の箱に放り込む。
表面のざらついた無骨な鋳物の枡に、木製蓋の飴色がシックな印象を添えている。
城沢が気に入って買った灰皿は、不快なほどに重い。
出先で偶然目にして、その場で購入したものだった。
目的地に着く前にそんな重い鋳物を買い込むなど、私は「鈍器にでもするつもり?」と鼻で笑ったが、男はただ面白そうに笑っていた。
温泉宿の広縁で、それを取り出して満足そうに眺める城沢へ「どこがそんなに気に入ったの?」と呆れた声が出た。
「ベランダに置いても、風で飛ばされなさそうなところ」
男の自宅は区内なのに庭付きの平屋だと聞いていた。自宅で紙巻を吸うのを禁じられているのだとも。
ミチオさんは、煙草をゆるしてくれないんだ、と妻の名をさらりと口にする男の目にかすかなしわが寄せられた。
城沢から顔をそらして、窓の外へ目を預ける。
ガラスの向こうは宵闇が満ち、道路沿いの乏しい街路灯を映した湖面がぽつりぽつりとわずかに光っているだけだった。
ミチオ、という漢字も知らない音だけが耳の奥に残った。
自宅では決して紙巻を吸わない男。
私の前でさも美味そうに煙を吐く男。
愛を乞うために、啼くのはどちらだろう。
ふと、さっきまで煙草を挟んでいた指先を鼻先に近づけると、案の定、嫌になるほどあの匂いが染みついていた。
城沢が海外の学会から帰国するのは、まだ4日も先だ。
「……そろそろ会いたいです」
大嫌いな城沢さん。
執筆の狙い
文体と可読性向上のための練習をしています。一場面型の心理描写短編です。(2,878文字)
以前に投稿した「Wadi―水の分かれるところ」の続きとして読めるように書いたものですが、単独でもなんとか読めるかと思われます。
Show don't tellを意識しながら、必要十分なタイトな文体にならんか? ならんか?? と試行錯誤しています。
具体的なご指摘をいただけたら、大変ありがたいです!