旋律
都内の繁華街にあるビルのオフィスで、デスクに座りながら、請求書の束を眺めていた。窓からは午後の街の景色が広がり、ビルが立ち並んでいるのが見える。請求書に不備がないか一枚ずつ手に取って確認していた。一つだけ計算が間違っている請求書があったので、メールで担当者に連絡する。返事がしばらくすると返ってきて、来週までに修正したものを郵送するとのことだった。パソコンの画面を見ながら、請求書の金額を口座に振り込むための処理をするアプリケーションを開く。束になった請求書を見ながら、今日も残業をすることになりそうだと思う。
僕が勤めている会社は従業員が千人ほどの、業務を効率化する会社だった。私立大学の商学部を出た後、この会社に入り、財務部に配属された。大学生の頃に会計について学んでいて簿記二級を取ったのが理由だと思われる。同期はシステムエンジニアをしていたり、法人営業をしている人が多い。入社した年に財務部に配属されたのは僕だけだったので、周りはみんな年上だった。あれから年月が経ち、今では年下の社員の業務をサポートをするようになった。仕事にも慣れてきて、毎日があっと言う間に過ぎていく。
請求書を途中まで入力していたが、少し疲れたので、席を立って、カフェテリアに行くことにした。エレベーターに乗っていると、同期の営業をしている橋本がちょうど乗り合わせた。
エレベーターのボタンを押して、扉を閉めると、「休憩?」と彼は言った。
「コーヒーでも飲もうと思って」
僕がそう言うと橋本は微笑んだ。
「俺は煙草を吸うんだ。佐々木は吸わないんだっけ?」
「ほとんど吸わないな」
「その方がいいよ」
橋本はそう言って笑い、エレベーターが着くと降りた。カフェテリアはこのビルの最上階にあり、売店が入っている。喫煙所が端の方にあり、橋本は「じゃあまた」と言って歩いて行った。僕は店の自動レジで会計をして、コーヒーマシンでコーヒーを淹れた。席は半分くらいが空いていて、窓際の席に座りながら、アイスコーヒーを飲んだ。街の景色が一望できて、ビルや高層マンションなどの建物が遠くまで続いている。アイスコーヒーは苦かったが特に味にこだわっているわけでもなく、三百円という値段だったが、それなりに満足していた。スマートフォンを開くと、高校時代の友人の中村からメッセージが来ていた。内容を見ると、高校生の頃の友人の市川香織がピアニストとしてコンサートを行うようで、そのチケットがあるから一緒に行かないかとのことだった。今週の日曜日だったので、特に予定もなく、一緒に行けると連絡した。メッセージはすぐに返ってきて、今日の夜にバーで会うことになった。
僕は中村とやり取りをすると、アイスコーヒーを飲み干して、オフィスに戻った。約束しているのは九時なので、それまでに仕事を終わらせて夕食を食べようと思う。請求書の項目をひたすら入力しながら、市川のことを思い出していた。長い髪や大きな目が特徴で、同じクラスだった中村や僕と一緒に過ごすことが多かった。彼女は高校を卒業すると都内の私立の音大に入学した。検索すると名前と写真が出てきて、最近海外のピアノコンクールで入選して有名になったようだ。僕らは時々高校を卒業してから会うこともあったが、二年前に市川の妹が自殺してからは会っていなかった。僕らは何度か誘ったが彼女が来ることはなく、ただ時間が過ぎていった。
その日の仕事を終えると、駅前でラーメン屋に入り、醤油ラーメンと餃子を食べた。中村と約束をしているバーはここから電車で三十分ほどの場所にある。しばらく本屋で時間を潰してから、待ち合わせのバーに向かった。
バーに着くと店の前に中村は立っていた。スーツを着てビジネスバッグを持っている。
「久しぶりだな」と彼は僕に言った。
僕はその時、高校生の頃の地元の景色を思い出した。田園風景や遠くの山や川などが脳裏に蘇る。結局、中村も市川も僕も東京で暮らすことを選んだ。
僕らは店の中に入っていき、カウンターに座った。中村はポケットから煙草の箱を取り出して、さっそく吸い始めた。僕は店員にウォッカトニックを注文した。
「最近市川の評価が高まっているんだ。フランスの国際コンクールで入選したからさ」と彼は言った。
「そんなすごいピアニストになるとはね。確か前にコンサートに行った時は小規模だったし、国内のコンクールに入選したくらいだったよね」
「俺も最近になってまた連絡を取るようになったんだけどさ。妹が亡くなってから、変わった気がするんだ」
中村はライムのカクテルを飲みながらそう言った。灰皿には揉み消された煙草が増えていく。僕は酒に酔いながらぼんやりと店内を見ていた。カウンターには他にも数人の客が座っている。そんな光景を見ていると、いつの間にか自分も東京に慣れたのだと思う。
日曜日の夜にコンサートが行われることになっていた。僕はジャケットを羽織り、住んでいるマンションの部屋を出た。外は涼しい風が吹いていて、何処か懐かしい気持ちになる。駅まで歩いて行くと途中で家族連れの姿があった。いずれは僕も結婚するのだろうか。そんなことを考えながら駅のホームで電車を待った。電車はしばらくするとやってきて、中は空いていたので端の席に座った。
電車に揺られながら東京の住宅街を眺める。家々の窓の明かりが流れていく。中村と待ち合わせをしているコンサートが行われる劇場がある駅に着くと、改札の前に彼がいた。
「じゃあ行こうか」
彼はそう言って僕にチケットを渡した。コンサートが行われるのは日本でも有数の劇場で、多くの客が並んでいた。僕は高校生の頃の市川のことを思い出し、当時はこうなるとは思っていなかった。
チケットを切ってもらい、劇場の中に入って、指定された席に座る。劇場の舞台は光で照らされている。多くの客が席に座りながらコンサートが始まるのを待っていた。
開演の時間になると、白いドレスを着た市川が現れた。彼女は昔よりもずいぶん大人びていて、その顔は精悍に見える。
コンサートが始まると、ピアノの音が鳴り響く。一音目から今までとは違う印象がする。僕は旋律を聴きながら、体が痺れるような感覚を味わった。今日の演目は事前に動画で聴いていたが、彼女が弾くと、動画とは違った印象がする。コンサートの間、僕は彼女が響かせる旋律に感動していた。
コンサートが終わると僕らは劇場を後にした。
「明日の夜、空いている?」と彼は僕に聞く。
「急な仕事がなければ、大丈夫だけど」
「市川が飲み会に来るっていうから、三人で飲もうかと思って」
「わかった」
僕は市川にまた会えると思って、少し嬉しかった。外の繁華街を歩きながら、先程の演奏を思い出していた。
次の日になると、僕はオフィスで仕事をしていた。今度の月例会議で使う財務データの資料を作っていた。期日は水曜日までだったので、まだ余裕がある。パソコンを操作しながら、昨日のことを思い出していた。
その日の仕事が終わると、僕はカフェでコーヒーを飲みながら、スマートフォンで市川の演奏を聴いていた。今日会った時に音楽についての話もしようと思っている。待ち合わせの時間に間に合うように僕は電車に乗った。電車に揺られながら、僕は窓の外の景色を眺めていた。
待ち合わせの駅の改札に着くと、中村が少ししてやってきた。
「昨日の演奏はよかったよな」と彼は言った。
数分後に市川がやってきた。黄色のポロシャツと白いスカートを履いていて、昔よりも洗練された印象がする。
「久しぶりだね」
市川はそう言って微笑んで僕の目をじっと見つめた。
居酒屋に入ると、僕らはビールを注文した。ビールを飲みながらコースの料理を食べ始める。
「まさか市川がこんな風になるとは思っていなかったよ」と僕は言った。
「いろんなことがあったんだ。佐々木は知らないと思うけどね。二年前に妹を亡くしてさ。それからずいぶんと変わったように思う」
市川は少し悲しげにそう言うとビールを飲んでいた。
「俺は素人だからわからないけど、昨日の演奏も妹が亡くなったことと関係あるの?」
中村がそう言うと、市川は少し考えながら口を開く。
「私がやっているのは芸術だからね。妹が亡くなるまではただ美しさや懐かしさを表現しようと思っていたんだ。私って割と順調に人生を歩んできたからさ。でも、妹が亡くなってから、妹のような人を救いたいと思った。私の妹は亡くなったけれど、同じような境遇にある人には生きていてほしいからさ」
市川はそう言いながら目には涙が滲んでいた。そんな彼女を見ていると僕は酒に酔っているせいもあってか、彼女が魅力的に思えた。彼女は昔から変わらずにフランクな感じだった。僕は焼き鳥を食べながらビールを飲み、昨日の演奏を思い出していた。中村と市川は酒に酔ってきたようで饒舌になっている。
飲み会が終わると、僕らは店を後にした。会計を済ませると、店の前で、三人で写真を撮った。
「また飲もうよ。コンサートもあるから来て欲しいな」と市川は言った。
「わかった。またチケットを取って行くよ」と中村は言った。
僕らは駅の前で別れた。
「じゃあね。久しぶりに楽しかった」と市川は言った。
「昨日の演奏はよかったよ。これからも頑張って」と僕は言った。
駅のホームに着くと、スーツを着た人が並んでいる。僕は電車を待ちながら市川のことを考えていた。妹の死が彼女の演奏を重厚にしたのかもしれない。彼女にとって妹の死は苦難だったが、演奏という形でそれに報いることができたのだろう。
電車がやってくると乗り込んで、手すりに掴まりながら立っていた。電車は家の最寄り駅に着き、僕は降りた。帰り道は人通りが少なくて、僕は何かから解放されたような気持ちだった。途中に公園があったので、自動販売機でコーヒーを買い、ベンチに座った。心地よい風が吹いている。空には雲が風に乗って移動していて、星がまばらに輝いていた。
執筆の狙い
前回の課題だった文章を丁寧に描写をしたり推敲をすることで改善しました。