ありがたいねえ(8枚)
一
「無料だってんだからな。ありがたいなあ」
夫がそう言って手を合わせたとき、妻は笑いながら箸を持たせてやった。
テーブルの上には、湯気の立つ煮魚と、彩りのいい野菜の炊き合わせ、つややかに炊かれた白いご飯。
週に三度、役所の車が運んでくるこの「老人給食」は、二人にとって、ここ数年でいちばん豊かな食卓だった。
「年金だけじゃ、こんなおかず作れないもんね」
「行政も、たまにはいいことするじゃないか」
夫は七十九、妻は七十五。子供はいない。
品数が増えたことよりも、二人は、「今日はどんなご飯かな」と語り合う時間が増えたことを喜んでいた。会話の少なくなった老夫婦にとって、それは思いがけない贈り物だった。
二
半年が過ぎた頃、町内で妙な噂が立ち始めた。
「三丁目のばあさん、ぽっくり逝っちまったんだって」
「へえ、また? 先月は角の魚屋さんとこも、じいさんが眠るように逝ったってねえ」
「苦しまなかったっていうから、まあ、よかったじゃないの」
首をかしげながらも、どこかその逝き方を羨むような口ぶりだった。管につながれ、迷惑をかけながら逝くよりずっといい。そう思っているふしがあった。
誰も、それが給食と関係があるとは考えなかった。考える理由がなかった。
役所の地下では、若い職員が、対象地域のグラフを前に黙り込んでいた。
「年金財政の逼迫を食い止める事業」の説明を、上司から一度だけ聞かされたことがある。給食に含まれる、遅効性の、ごくわずかな作用を持つ成分。何年もかけて、静かに、苦痛を与えずに――。
彼の祖母もまた、給食を受け取る一人だった。
三
夫は若い頃、薬局に勤めていた。だから味噌汁の奥にある違和感と、つややかに光る白いご飯を噛みしめたときの、舌の奥に残るわずかなエグみに気がついた。
それが何であるかまでは分からない。だが体の奥のほうで、何かが少しずつ変わってゆく感覚には覚えがあった。
妻には言わなかった。
代わりに夫は、自分の椀を、妻より多めに満たし始めた。
「俺は大盛りがいい。お前は少なめでいいだろう」と笑いながら。
妻は特に疑わなかった。
隣人が一人、また一人と眠るように逝く。夫はその度に、答え合わせをするかのように静かに頷いた。
怖くはなかった。痛みも孤独も伴わずに逝けるなら、それは思っていたよりずっと悪くない終わり方に思えた。
ただ一つだけ、気がかりがあった。妻を遺して逝きたくない――。
四
ある晩、夫は珍しく、自分の椀を妻の前に押しやった。
「今日はお前が多めに食べな。俺は満腹だ」
妻は箸を止め、夫の顔を見つめた。それから、なにも聞かずに椀を受け取った。
五十年も連れ添えば、聞かなくとも分かることがある。妻もまた、近頃の自分の体の奇妙な軽さに、うすうす気がついていたのだ。
二人はきっと、同じ日に、同じ食卓で、同じことに気づいていた。ただ、どちらも口には出さなかった。
「あのさ」
夫が独り言のように言った。
「なに?」
「俺たち、いい人生だったよな」
「なによ急に」
「いや、なんとなく」
妻は笑って、味噌汁をすすり、ご飯を口に運んだ。
窓の外はもう暗く、台所の灯りだけがあたたかく二人を照らしていた。
五
数週間後、若い職員は、二人の家を訪れた。安否確認という名目だったが、実際には「そろそろ」の家を回る仕事だった。
引き戸を開けると、二人は炬燵にいた。
テレビがついていて、音は消してあった。妻の肩に、夫の手が乗っていた。二人とも眠っているように見えた。
食卓の上に書き置きがあった。
《おかげさまで、美味しくいただけました。ありがとう。》
職員は、二人を見つめた。彼らを騙した張本人であるはずの自分が、なぜか、悲しみよりも先にある種の安堵を感じている。それが恐ろしくもあった。
六
その夜職員は、祖母の家を訪ねた。
給食の椀を前にして祖母は、「いつもありがたいねえ」と言って手を合わせていた。
職員は口を開きかけたが、なにも言わなかった。
代わりに祖母の隣に座った。
「あなた、最近痩せたんじゃないの?」
祖母がそう尋ねた。
「そうかな」
「ちゃんと食べるの?」
「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」
冗談のつもりだったが、言ってからその響きにはっとした。人は誰かに生かされ、また誰かを生かしながら生きている。システムがどれほど残酷な意図を隠し持っていたとしても、食卓に流れた「ありがたいなあ」という言葉だけは、誰にも奪えない本物だった。老夫婦が最後に交わした沈黙も、きっと――。
職員は、祖母の茶碗に、もう一杯ご飯をよそった。
「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」
言葉は、深い響き方をした。
祖母は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
高台から景色を、見晴らしているかのように。
その笑顔も、誰にも計算できないものだった。
了
執筆の狙い
多義的な話を書いてみたいと思いました。