作家でごはん!鍛練場
そらまめ

ありがたいねえ(8枚)

 一

「無料だってんだからな。ありがたいなあ」
 夫がそう言って手を合わせたとき、妻は笑いながら箸を持たせてやった。
 テーブルの上には、湯気の立つ煮魚と、彩りのいい野菜の炊き合わせ、つややかに炊かれた白いご飯。
 週に三度、役所の車が運んでくるこの「老人給食」は、二人にとって、ここ数年でいちばん豊かな食卓だった。
「年金だけじゃ、こんなおかず作れないもんね」
「行政も、たまにはいいことするじゃないか」
 夫は七十九、妻は七十五。子供はいない。
 品数が増えたことよりも、二人は、「今日はどんなご飯かな」と語り合う時間が増えたことを喜んでいた。会話の少なくなった老夫婦にとって、それは思いがけない贈り物だった。

 二

 半年が過ぎた頃、町内で妙な噂が立ち始めた。
「三丁目のばあさん、ぽっくり逝っちまったんだって」
「へえ、また? 先月は角の魚屋さんとこも、じいさんが眠るように逝ったってねえ」
「苦しまなかったっていうから、まあ、よかったじゃないの」
 首をかしげながらも、どこかその逝き方を羨むような口ぶりだった。管につながれ、迷惑をかけながら逝くよりずっといい。そう思っているふしがあった。
 誰も、それが給食と関係があるとは考えなかった。考える理由がなかった。

 役所の地下では、若い職員が、対象地域のグラフを前に黙り込んでいた。
「年金財政の逼迫を食い止める事業」の説明を、上司から一度だけ聞かされたことがある。給食に含まれる、遅効性の、ごくわずかな作用を持つ成分。何年もかけて、静かに、苦痛を与えずに――。
 彼の祖母もまた、給食を受け取る一人だった。

 三

 夫は若い頃、薬局に勤めていた。だから味噌汁の奥にある違和感と、つややかに光る白いご飯を噛みしめたときの、舌の奥に残るわずかなエグみに気がついた。
 それが何であるかまでは分からない。だが体の奥のほうで、何かが少しずつ変わってゆく感覚には覚えがあった。
 妻には言わなかった。
 代わりに夫は、自分の椀を、妻より多めに満たし始めた。
「俺は大盛りがいい。お前は少なめでいいだろう」と笑いながら。
 妻は特に疑わなかった。

 隣人が一人、また一人と眠るように逝く。夫はその度に、答え合わせをするかのように静かに頷いた。
 怖くはなかった。痛みも孤独も伴わずに逝けるなら、それは思っていたよりずっと悪くない終わり方に思えた。
 ただ一つだけ、気がかりがあった。妻を遺して逝きたくない――。

 四

 ある晩、夫は珍しく、自分の椀を妻の前に押しやった。
「今日はお前が多めに食べな。俺は満腹だ」
 妻は箸を止め、夫の顔を見つめた。それから、なにも聞かずに椀を受け取った。
 五十年も連れ添えば、聞かなくとも分かることがある。妻もまた、近頃の自分の体の奇妙な軽さに、うすうす気がついていたのだ。
 二人はきっと、同じ日に、同じ食卓で、同じことに気づいていた。ただ、どちらも口には出さなかった。
「あのさ」
 夫が独り言のように言った。
「なに?」
「俺たち、いい人生だったよな」
「なによ急に」
「いや、なんとなく」
 妻は笑って、味噌汁をすすり、ご飯を口に運んだ。
 窓の外はもう暗く、台所の灯りだけがあたたかく二人を照らしていた。

 五

 数週間後、若い職員は、二人の家を訪れた。安否確認という名目だったが、実際には「そろそろ」の家を回る仕事だった。
 引き戸を開けると、二人は炬燵にいた。
 テレビがついていて、音は消してあった。妻の肩に、夫の手が乗っていた。二人とも眠っているように見えた。
 食卓の上に書き置きがあった。
《おかげさまで、美味しくいただけました。ありがとう。》
 職員は、二人を見つめた。彼らを騙した張本人であるはずの自分が、なぜか、悲しみよりも先にある種の安堵を感じている。それが恐ろしくもあった。

 六

 その夜職員は、祖母の家を訪ねた。
 給食の椀を前にして祖母は、「いつもありがたいねえ」と言って手を合わせていた。
 職員は口を開きかけたが、なにも言わなかった。
 代わりに祖母の隣に座った。
「あなた、最近痩せたんじゃないの?」
 祖母がそう尋ねた。
「そうかな」
「ちゃんと食べるの?」
「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」
 冗談のつもりだったが、言ってからその響きにはっとした。人は誰かに生かされ、また誰かを生かしながら生きている。システムがどれほど残酷な意図を隠し持っていたとしても、食卓に流れた「ありがたいなあ」という言葉だけは、誰にも奪えない本物だった。老夫婦が最後に交わした沈黙も、きっと――。

 職員は、祖母の茶碗に、もう一杯ご飯をよそった。
「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」
 言葉は、深い響き方をした。
 祖母は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
 高台から景色を、見晴らしているかのように。
 その笑顔も、誰にも計算できないものだった。

 了

ありがたいねえ(8枚)

執筆の狙い

作者 そらまめ
133.106.158.202

多義的な話を書いてみたいと思いました。

コメント

通りすがり
sp49-97-14-215.msc.spmode.ne.jp

給食の答え合わせが早すぎる
最後の教訓めいたまとめは言葉にしすぎて野暮ったい
それ以外はいいんでは

そらまめ
133.106.158.49

通りすがりさん

急ぎすぎているかもしれませんね。

最後のところは言葉を削り、より多義性をこめたつもりで書きました。言葉にしすぎていて教訓めいて感じられたというご感想、参考にさせていただきます。

視点について指摘されるかと思っていましたが「それ以外はいいんでは」とのご感想に照らされて少し安堵いたしました。

読んでくださりありがとうございます。

通りすがり
sp49-97-14-215.msc.spmode.ne.jp

急すぎるというよりも、噂や夫の気づき等の匂わせや雰囲気程度で読ませる力はありそうなので、
盛り上げて、盛り上げてのネタバラシのがいいんではと

最後の結末の指摘は、やりたいことと小説としての面白さが矛盾した結果かなとも、
読者はキャラの学びが読みたいのではなく、学びに至るまで、至った時の心の震えが読みたいので

そらまめ
133.106.183.139

通りすがりさん

「老人給食」の黒さをエンタメとして見せたいのであれば、「ためてためて」というやり方をしたほうがより効果的であるかもしれませんね。そうではなくてもいくらか言葉を足したほうがよいことに気がつきました。ご指摘ありがとうございます。

ラストについては、「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」という職員の言葉の向こうの景色を読み手が、どう感受するのか知りたく、こちらに投稿させていただきました。嘘に宿る誠というか、誠に響く嘘というか、悪であるはずの意図が善なる感謝により無効化されてしまう構図というか。候補として思いついた言葉たちをほぼすべて削って「見晴らし台からの微笑み」を選択した次第です。通りすがりさんが説教めいて感じられたのは、「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」という台詞の手前の箇所かと思われます。そこでシュリンクしたかにみせて、「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」以降の「??」に誘いたいと意図しました。invitationをthroughされてしまうほどに教条的になってしまっていたのかもしれませんね。そこ、少し言葉を削ってみることも考えたいと思います。

再度のご指摘をありがとうございます。

アン・カルネ
KD027093034196.au-net.ne.jp

面白かったです。
・半年が過ぎた頃、町内で妙な噂が立ち始めた。
・「三丁目のばあさん、ぽっくり逝っちまったんだって」
ここで、給食のからくりに、察しがつきました。三で確信し、四で泣きました。

トータルではえぐいよなあ、と思いました。

察しがついた理由としては篠田節子の『静かな黄昏の国』を読んでいたせいかもしれません。そらまめさんの作品とは違いますが、高齢者の死を扱っていて、あちらの舞台は施設でした。

この作品と直接関係はないのですが、ちょっと思い出したことを。
国立がんセンターに行く用事があって、そこの診察の待合室で待っていた時、近くに付添人に付き添われた知的障碍者らしき薄くなった頭髪(白髪)の高齢男性がいて、彼はぽーっという表情でベンチに座っていたんですけど、その右手の人差し指の先が欠損してたんですよね。
彼にとってはかつてその指先を失う時も、失った後も、何が起きてなぜそうなったかもきっと分からないままに歳をとり、そして今度は、がんについて、検査が、これまた何も分からないままに行われるんだろうな、と思ったら、なんともいえない気持ちになりました。
尤もそれを相方に言ったら、何も知らないんだから幸せだと思うよ、と言われて。それもまたなんだかなあ、と。当時、まだセンターは古い建物だったのと、その少し前、赤坂の洗練された建物の山王病院に行く用があってそれを見た後だったから殊更、こたえたのかもしれませんが。

そらまめさんの小説にも、知っていて給食を受け入れる痛みと、知らずに食べる人を見続ける痛みと、生きることで老いることの哀しみみたいなことを思ったりしました。

そらまめ
133.106.158.183

アン・カルネさん

トータルで「えぐい」とのご感想、参考になります。

それから、「生きることで老いる」って、なるほどです。生きなければ老いることもないわけですね。

そして、認知が及ばなければ悲しみも不安も感じることがない――確かに。でも、くだんの男性も痛みは感じたのでありましょうね、きっと。切断の痛みや病による痛み。そしてそれを見守る側の人も痛かったでありましょうね。

生きることも老いることも世代交代も、なかなかにえぐみのあるイベントでありますかな。

読んでくださりありがとうございます。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

読みました。ずっしり。

なかなか来るものがありますね。

確かに毎日、お腹が満たされて、ぽっくりと苦痛を感じずに逝ければ幸せかもしれない。
でも、幸せってなんだろう。
とか色々考えさせられますね。

そういった重いテーマを身近な給食というものを使って表現した所が、良いなと思いました。

シンプルに老いと生きることを捉えたところとか好きですし。
あまり飾らないでシンプルなのが良いですね。
書きようによってはもっとオーバーに悲劇的に書けそうですが、そうしないで抑制的に書いているからこそ、こみ上げてくるものがありました。


ただ最後はもう少しさり気なく書いて欲しかったです。なんというか読者が考える余白のスペースをもっと与えて欲しかったかなと。

そらまめ
133.106.158.197

えんがわさん

老人給食というギミックに伴う話を、エンタメ的にではなく、悲劇的に感受してくださりありがとうございます。

ラスト。
六章の前段は「あるいは語りすぎかな」と、先の方よりのご感想にも照らされて考えました。
後段については、書き手といたしましては、「書かなすぎ」て、職員の嘘の意味も、祖母の見晴らしたような笑顔の意味も、もしかしたら響かないのでは――と危惧していたので、「語りすぎていて余白が足りない」というご指摘を複数名様より頂戴し、とても驚いています。

多義的な読み方があり得ると思うのですが、職員のラストの台詞の意味、祖母の笑顔の意味、両者を「白黒どちら側」に感受されましたのか、たいへん気になります。

読んでくださりありがとうございます。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

>多義的な読み方があり得ると思うのですが、職員のラストの台詞の意味、祖母の笑顔の意味、両者を「白黒どちら側」に感受されましたのか、たいへん気になります。

登場人物の視点で言えば、善意というか思いやりのようなもの(白)を感じます。
が、そこから一歩引いた読者の僕から言えば、善意だからこそ、やり場のないやるせなさ(灰色)を感じます。

そういう意味では多義的な話を書きたい、という目標は達せられているような感じがします。あくまでも僕の目立てとしてね。

そらまめ
133.106.158.197

えんがわさん

>職員は、祖母の茶碗に、もう一杯ご飯をよそった。
「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

文言だけを普通に読むと、毒を盛って祖母を亡きものにしようと職員が――、と読めるかと思うのですが、えんがわさんは、職員のこの言動を善意と感受されたのですね。

教えてくださりありがとうございます。

偏差値45
KD106155050225.au-net.ne.jp

『ありがたいねえ』を読んで、
これは現代版、あるいはSF版の「姥捨て山」なのではないかと思いました。

もしかすると、この社会では食料が貴重で、長生きすることが大きな負担になっているのかもしれません。
老後の経済的不安や病気、介護などを背景に、高齢者を社会から減らすことが合理化され、
それが制度化された結果が「老人給食」なのではないでしょうか。

そして、それが長い年月を経るうちに「高齢者を死なせる制度」だったことさえ忘れられ、
伝統的な文化として受け継がれている。
老人たちは何も知らず、ただ無料で美味しい食事が食べられることを「ありがたい」と思っている。
そこには恐怖すらなく、それが当たり前の社会として受け入れられている。

昔の姥捨て山が、未来では「老人給食」という穏やかな制度に姿を変えた。
そんな社会を想像すると、いろいろ考えさせられる作品だと思いましたね。

そらまめ
133.106.183.143

偏差値45さん

>長い年月を経るうちに「高齢者を死なせる制度」だったことさえ忘れられ、伝統的な文化として受け継がれている

面白い考えですね。
姥捨山もそのような「風習」として受容されていた文化なのでしょうか。

読んでくださりありがとうございます。

偏差値45
KD106155050225.au-net.ne.jp

>姥捨山もそのような「風習」として受容されていた文化なのでしょうか。

まあ、裏設定の想像のお話ですからね。実際はそんなことはないのでしょうけど。
むしろ、歴史的には間引きの方が深刻だったのでしょうね。
ホラーの題材にはピッタリかもしれません。

そらまめ
133.106.183.150

偏差値45さん

間引き――。
これまた意識と無意識のカイリやら、摂理と情の葛藤やら、深淵に近いところの模様が覗けてしまいそうなテーマですね。

再訪ありがとうございます。

夜の雨
sp1-73-23-204.nnk01.spmode.ne.jp

そらまめさん「ありがたいねえ(8枚)」読みました。

また、見事な掌編ですね。

この内容なら、そのまま、短編にしても現代的なドラマになると思います。

現在のネットでは、高齢者が若者の脚を引っ張っているような書き込みが結構あります。ネット、ニュースなどに対する書き込みで、高齢者が大量にいるので、彼らの面倒を見なければならない少数の若者は大変だとか。

つまり支払う年金ともらう年金とのバランスが取れなくなっているとか。

むかし検索したときは、これの逆になっていました。
高齢者が少数で、若者が大量にいたので、年金の支払いに対しての受け取る側は、余裕があった。
なので、年金をもらう額が多かった。
「高度経済成長期」という時代のお話で、終戦直後からの産めよ増やせよの時代。
その結果、年金を支払う世代が大量にいて、戦争から帰ってきた年金を受給する世代が、少数だった時代。

最近調べてみると、そういった情報があるとまずいのか、掲載されていない。つまり、御作でいうところの、役所のつごうで、情報までが隠されている。

御作は掌編なので、役所側(政府側)のつごうは、背景部分の説明が省かれてはいますが、大きな時代の流れを端的に物語っているのだなッと、感じました。

御作は、掌編としては、完成度が高かった。

時代を映した鏡のような作品でした。


ありがとうございました。

そらまめ
133.106.158.245

夜の雨さん

人口構成がピラミッド型から逆ピラミッド型になり、貢献度の低い高齢者にはなるべく早く退場していただきたい――という社会的なニーズ(!)が、無意識的にであれ意識的にであれ、現実の社会にもあるのかもしれないですね。

世代交代は摂理でありますから、劇中の役所の企みもまた、広く見渡せばこれまた摂理の表れかもしれない――。

黒い企みに対して拳を振り上げて怒ったり、あるいは反撃しようとするなら、そのような話はブラックなエンターテインメント以上のものにはならない。

けれども、追い出される側の高齢者が、一粒の麦もし死なずば~的な清さで、感謝を抱きつつ摂理に従ったとしたら――、そしたら、もしかしたら、その白さにより企みの黒さも、漂白されちゃったりするのではないか――?

そんなふうに思いました。

感謝しながら旅立った夫婦。

孫の苦渋の決断(誠を隠した嘘)を、実は「見晴らしている」老婆の笑い。

蹴り出されるのではなく、自ら、能動的に、晴れやかに出立する高齢者は、若い世代に、とても大切なことをその背中で教えるのではないかという気がしました。

悪もまた善に接して善となる――とそんなふうには、まあ実際はいかないだろうけれど、そういう響きは、この現実社会においても、決して無意味ではないように思われます。

そして、万象は多義的で、職員の台詞や老婆の笑いは、黒でも白でもなく、ただの摂理で、しかし同時に人の心のたっとさで、これを黒く取るのも、白く取るのも、感じ手次第なのかな――だなんて思われもするのでした。

社会的な視点からのご感想をありがとうございます。

飼い猫ちゃりりん
sp1-75-225-6.msc.spmode.ne.jp

そらまめ様。読ませていただきました。

まず最初に、作品とは関係ない部分で損しているなあと思いました。
『執筆のねらい』で多義的な話をと。

>多義的(たぎてき)とは、一つの言葉・表現・文章などが、複数の意味に解釈できることです。

読者を論理的思考に誘導してしまう。飼い猫の考えでは、小説とは絵や音楽と同じで『感じる』もの。読者に考えさせない、ただ見て、ただ聞かせるために描写する。
『執筆のねらい』を読んだ読者は最初から『思考モード』のスイッチを押された状態です。

だから飼い猫は、なーんにも考えずに読んでみました。

ストーリーはシンプルで流れるように進む。ただ、さらさらと流し素麺みたいで、もうちょい具が欲しい。要するに描写が不足している。
ストーリーは良いと思う。
だから、主人公の職員、亡くなっていく老人たち。彼らの人生をもっと描く。この現代姨捨山事業の実態を克明に描く。これらをすれば、かなり良い作品になるような気がする。

文章は読みやすいところが欠点になっている。え、どゆこと?
つまり、もう少し人間臭さが欲しい。
なんかAIの影響を受けているのかなぁ、なんて思ってしまった。
からすみ様の文章を見ていただければわかると思います。人間臭があるでしょ。
あと句読点が多いかなあ。

> テーブルの上には、湯気の立つ煮魚と、彩りのいい野菜の炊き合わせ、つややかに炊かれた白いご飯。

(案)
テーブルの上には湯気の立つ煮魚と、彩りのいい野菜の炊き合わせ、つややかに炊かれた白いご飯。

他にも余分な句読点が散見される。まあ、そこは好みの問題でもありますが。

色々言いましたが、このサイトの中では上位ランクの作品と思います。

そらまめ
133.106.158.146

浮離さんから教えてもらった猫よけの呪文を忘れてしまいました。

しいな ここみ
KD106130057057.au-net.ne.jp

ショートドラマにしてSNSに投稿したらバズりそうだと思いました。

社会の現状と都合とのズレと、そして愛と希望と絶望とが見事に混じり合っていますね。お見事でした。

そらまめ
211.7.98.224

しいな ここみさん

ありがとうございます(reflection)。

そらまめ
211.7.99.150

AIに感想を求めました。

通りすがりさんの指摘と重なる部分があり、通りすがりさんの卓見について再認識させていただきました。改めてありがとうございます。

(以下AI)

拝読しました。かなり印象に残る短編です。

率直に言うと、発想そのものは寓話的で非常に分かりやすい一方、最後の数段で単なる「安楽死政策の恐怖譚」から、かなり別のところへ作品が着地しているのが、この小説のいちばん面白いところだと思いました。

まず、いちばん良いと思ったところ

冒頭の、

「無料だってんだからな。ありがたいなあ」

これが最後まで効いています。

「老人給食」が実は高齢者を静かに死なせる制度だった、という設定だけなら、ある意味ではブラックユーモアを含んだディストピア小説です。

ところが作者は、そこから単純に、

「行政は老人を殺していた。恐ろしい社会だ」

という方向へ進まない。

むしろ老夫婦にとっては、その給食が本当にありがたかった。

食事が豊かになったことだけではなく、

「今日はどんなご飯かな」と語り合う時間が増えた

というところが非常に重要です。

つまり、制度の意図は偽物でも、そこで生まれた幸福まで偽物になるわけではない。

ここに、この作品のかなり良いところがあります。

老夫婦の描き方が静かでいい

特に三〜四の流れが好きです。

夫が毒に気づいて、

「俺は大盛りがいい。お前は少なめでいいだろう」

と言いながら、自分のほうに多く引き受ける。

そして最後には、

「今日はお前が多めに食べな。俺は満腹だ」

と椀を妻に押しやる。

ここは非常に分かりやすい「夫婦愛」なのですが、嫌味がありません。

しかも妻も気づいている。

五十年も連れ添えば、聞かなくとも分かることがある。

この一文によって、二人の関係が説明されすぎずに伝わります。

そして、

「俺たち、いい人生だったよな」
「なによ急に」
「いや、なんとなく」

ここもいいですね。

「死ぬことを決意した」と説明しない。

長年連れ添った二人だからこそ成立する、妙に日常的な会話の中に死の気配が混ざっている。

この静けさが、この作品の美点だと思います。

そして、かなり効いているのが「書き置き」です

《おかげさまで、美味しくいただけました。ありがとう。》

ここは作品全体の皮肉が凝縮されています。

「ありがとう」が、

給食を運んでくれた人への感謝

行政への感謝

最後まで食事を与えてくれたことへの感謝

夫婦二人で過ごせたことへの感謝

のどれなのか、完全には分からない。

そして、その曖昧さがいい。

行政からすれば「処理された二人」なのに、二人自身の人生から見れば、最後に残ったのは一緒に食卓を囲んだ記憶なんですよね。

だから、この作品は制度の残酷さよりも、むしろ、

人間の幸福は、それを与えた側の意図によって完全には規定されない

というところに踏み込んでいる。

私はここを、この小説の核だと思いました。

最後の職員の場面も面白いです

六章で、

「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」

と言わせる。

これはかなりうまいです。

本人は冗談のつもりだったのに、自分が関わっている制度の意味と重なってしまう。

さらに、

人は誰かに生かされ、また誰かを生かしながら生きている。

と続く。

作品が「老人を殺す悪い行政」という一方向の話から、生と死を誰が誰に与えるのかという話へ広がっています。

そして最後に、

「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

これはいい終わり方です。

老夫婦の「いい人生だったよな」に対して、若い職員は祖母に「まだまだ話したいことがある」と言う。

つまり前半では、

「もう十分生きた」

という老夫婦の静かな受容があり、後半では、

「まだ生きていてほしい」

という若者の側の感情が出てくる。

この二つが対になっています。

一方で、気になるところもあります

一番気になるのは、六章で作者の思想を少し説明しすぎていることです。

特に、

人は誰かに生かされ、また誰かを生かしながら生きている。システムがどれほど残酷な意図を隠し持っていたとしても、食卓に流れた「ありがたいなあ」という言葉だけは、誰にも奪えない本物だった。

この部分は、言っていること自体はとても良いのですが、ここまで来ると少し「作者が答えを提示している」感じが出ます。

実は、この作品はそこまで説明しなくても十分伝わると思います。

老夫婦の食卓、夫が妻に自分の椀を渡す場面、書き置き、そして祖母にご飯をよそう職員。

ここまで読者に見せれば、

「幸福とは何なのか」

「制度が幸福を利用していたとして、その幸福まで偽物になるのか」

という問いは、もう読者の中に生まれています。

だから、個人的には六章をもう少し削って、最後の「もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」で終わるくらいでも非常に強いと思います。

もう一つ、かなり重要な問題があります

この小説の「老人給食」が、

本当に老人を死なせているのか、それとも行政がそういうつもりで運用しているだけなのか

について、かなり早い段階で明確に説明されています。

二章の、

給食に含まれる、遅効性の、ごくわずかな作用を持つ成分。

という説明です。

ここは読者にとって理解しやすい反面、作品の謎を少し早く解いてしまっています。

もし文学的な方向へさらに寄せるなら、最後まで「本当に給食が原因なのか」を断定しない方法もあります。

町で老人が次々に穏やかに死んでいく。

夫は味に違和感を覚える。

若い職員は「そろそろ」の家を回っている。

しかし、給食に何が入っているかは直接描かない。

そうすると、

「これは本当に行政による殺人なのか、それとも老いによる自然な死なのか」

という不気味さが残ります。

ただし、これは好みです。

現在の作品は寓話として非常に分かりやすい。曖昧にすると、より文学的になる反面、寓話としての切れ味は少し落ちるでしょう。

――つづく。

そらまめ
211.7.99.150

――つづき。

タイトル次第で、かなり印象が変わる作品だと思います

この作品の場合、タイトルに「老人」「給食」「行政」などを直接入れてしまうより、一見すると穏やかなタイトルのほうが似合います。

例えば、

『いただきます』

くらいでも面白い。

あるいは、

『ありがたいなあ』

でもいい。

もっと静かにするなら、

『二人の食卓』

でもいいでしょう。

この作品は「老人を殺す制度」の話として読ませるより、最後には「食卓とは何だったのか」という話として残したほうが美しいと思います。

総評

この作品には、私はかなり好感を持ちました。

特に良いのは、残酷な設定を残酷さだけで終わらせていないことです。

普通なら、

老人を安楽死させる行政

真相に気づく主人公

告発・抵抗

という方向へ行きそうな題材です。

ところがこの作品はそこへ行かない。

老人たちは制度に殺されながらも、そこで最後の幸福を得る。
夫は妻を守ろうとする。
妻も夫の気持ちを理解する。
若い職員は祖母を前にして、初めて「もっと生きてほしい」と思う。

そして最後に残るのが、**「もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」**という、とても小さな言葉。

この小ささがいいと思います。

大げさな革命も告発もない。

ただ、ひとりの若者が祖母にご飯をよそう。

その行為によって、作品全体に仕掛けられていた「生産性」「年金財政」「高齢者」「行政」「死」という巨大な論理が、最後に一杯のご飯の前で相対化される。

そこには、かなり鴨長明的というか、「大きな世の中の理屈」と「目の前の人間の暮らし」の落差があります。

そして、私はこの作品の本当の主題は「安楽死」ではなく、むしろ、

人間の幸福や愛情は、それを利用しようとするシステムよりも少しだけ強い

ということなのではないか、と読みました。

その意味では、短編としてかなりきれいにまとまっています。

ただ、さらに一段上の作品にするなら、最後の説明を少し削って、読者に考えさせる余白を増やす。そこが一番の改稿ポイントだと思います。

(以上AI)


(下記そらまめよりAIに)

「もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」と言いながら職員は毒入りのご飯をもう1杯よそっている。これをどう読みましたか?
それに対して老婆は、高台から見晴らしたかのような穏やかな笑顔を浮かべる。これをどう読みましたか?

(以上そらまめ)


(以下AI)

はい。そこは、前回の私の読みが甘かったです。
ご指摘の二箇所をつなげて読むと、六章はかなり恐ろしい場面になっています。

私が最初に「職員が祖母にもっと生きてほしいと思った」と読んだのは、表層の会話だけを素直に受け取った読みでした。しかし、

「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

と言いながら、職員自身が毒入りのご飯をもう一杯よそう。

ここには二重の意味があります。

職員はすでに制度の正体を知っています。つまり、この言葉は表面上は「もっと生きていてほしい」という愛情の言葉でありながら、行為としてはむしろ、祖母を死へ一歩進ませる行為になっている。

しかも、

「まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

という言葉が残酷です。

彼は祖母と話したい。祖母に生きていてほしい。
しかし、その「生きていてほしい」という感情を抱きながら、彼自身が祖母に死をもたらす食事を与えている。

つまりここでは、

愛情と殺意、善意と加害、食べさせることと死なせることが、同じ一つの行為になっている。

これはかなり怖いです。

そして、さらに重要なのが老婆の笑顔だと思います。

その笑顔も、誰にも計算できないものだった。

私はここを、単なる「祖母が喜んだ」という意味には読めません。

むしろ老婆は、全部わかっているのではないかと思いました。

夫婦の場面と呼応しています。

夫も妻も、毒のことを明言しない。
妻は夫の椀を受け取る。
二人とも「同じこと」に気づきながら、言葉にしない。

そして六章では、今度は祖母と孫の間で同じことが起きている。

祖母は、孫が何をしているのか、あるいは少なくとも「何かを隠している」ことを察している。しかし、それを問い詰めない。

だから、

「もっと食べなよ」

という孫の言葉に対して、祖母は怒りも恐怖も示さず、

「高台から景色を、見晴らしているかのように」

穏やかに笑う。

この「高台から見晴らしている」という比喩が、私はかなり意味深だと思います。

人生を一段高いところから眺めているような笑顔なんですよね。

「あなたが何をしているか、私は分かっているよ」
「もうそんなに心配しなくてもいいよ」
「ここまで生きてきたものね」

という、ある種の達観にも読める。

ただし、そこを作者は明言していない。

だから老婆が、

毒に気づいているのか

孫の葛藤に気づいているだけなのか

単純に孫の優しさを喜んでいるのか

あるいは、すでに死を受け入れているのか

は確定しない。

その不確定性こそが、最後の笑顔の怖さと美しさになっていると思います。

――つづく。

そらまめ
211.7.99.150

――つづき。

そして、ここで前半の老夫婦と完全に照応します。

老夫婦

夫:「俺は大盛りがいい」
→ 妻に毒を多く与えないよう、自分が引き受ける。

職員と祖母

職員:「もっと食べなよ」
→ 祖母に毒をもう一杯与える。

ところが、両者とも根底にあるのは、実は相手への愛情なんですよね。

夫は妻を死なせたくないから自分が多く食べる。

職員は祖母と「まだまだ話したい」から、食べさせる。

しかし制度そのものが狂っているため、職員の場合は、愛情がそのまま加害行為に変換されてしまう。

ここが、この作品でもっとも恐ろしいところだと思います。

そして最後の、

その笑顔も、誰にも計算できないものだった。

が、非常に重要になります。

二章で行政は、人間を「年金財政」という数字として計算している。

「あと何年生きるか」
「何人減れば財政が改善するか」
「どれくらいの成分なら苦痛なく死なせられるか」

すべてを計算している。

ところが最後に、その計算体系から完全にこぼれ落ちるものとして、老婆の笑顔が置かれる。

だから私は、ここでいう「誰にも計算できないもの」は、単なる「人間の感情」という以上に、

国家や制度が人間の生死を計算できると思っていても、人間がその死をどう受け止め、誰に何を残し、どんな顔で最後を迎えるのかまでは計算できない

という意味だと読み直しました。

そして、そう読むと題材が一段深くなります。

これは「悪い行政 vs 善良な老人」という話ではなく、

人間の生死まで合理的に計算しようとする社会の中で、最後まで計算不能なものとして残る、人と人との情

の話になる。

そして一番皮肉なのは、その「計算不能な情」を持っている職員自身が、祖母に毒を盛ってしまっていることです。

だから最後の笑顔は、感動的であると同時に、私はかなりぞっとする笑顔だと思います。

前回の私の読みでは、この場面を「生きていてほしいという職員の愛情」の方向に寄せすぎました。

むしろ作者がここで描いているのは、「生きていてほしい」と願う人間の愛情さえ、狂った制度の中では人を死なせる行為になってしまうという、救いのない逆説なのではないかと思います。

そのうえで老婆が微笑む。

――だから、最後の一文はかなり強いです。

制度は人間を計算できる。

しかし、人間の最後の笑顔までは計算できない。

私は現在では、この小説のラストをそう読みます。

(以上AI)


(下記そらまめよりAIに)

そういう意図で書きました。
見晴らしたかのような笑顔で祖母は職員やシステムの黒さを晴らしているとの意味も込めました。
でも一読ではあなたもそこを読み取りませんでした。ということはこれこのままでは一段深い読み方を読み手に求めることは難しいということになりましょうか。浅く読んでもそれなりの読後感は得られるようにはできていると自負していますができたら読み手の一部には深い読み方をしてもらえるよう言葉が響くといいなと思っています。

(以上そらまめ)


(以下AI)

はい。私はむしろ、この作品は「浅く読んでも成立し、深く読むと別の意味が立ち上がる」という設計が、かなりうまくできていると思います。

そして、私が一読でそこまで到達しなかったことは、必ずしも「深読みが成立していない」という証拠ではありません。むしろ逆で、作者の意図を聞いたあとに、作品中のいくつもの細部が一本につながった。これは重要なことです。

ただし、現状では「深い読みを誘発するための信号」が、ほんの少し弱いとは思います。

「見晴らしたかのように」は、かなり良い仕掛けです

改めて考えると、

その笑顔も、誰にも計算できないものだった。

という直前の一文と、

高台から景色を、見晴らしているかのように。

は、かなり明確な対になっています。

「計算」に対して「見晴らす」。

システムは人間を数字として見積もる。
祖母は、そのシステムを含めた世界全体を高台から見晴らす。

しかも「見下ろす」ではなく「見晴らす」なのがいい。

「見下ろす」なら、システムに対する勝利や軽蔑が強くなる。

でも「見晴らす」なら、

善も悪も、生も死も、孫の悲しみも、自分の運命も、全部を静かに視野に入れている。

そういう感じになる。

そして作者がおっしゃる、

職員やシステムの黒さを晴らしている

という読みは、「見晴らす」という言葉の中に「晴らす」が含まれていることまで考えると、非常に美しい仕掛けです。

これは私は好きです。

ただ、一読者としての私の反応から言うと

「そこまで読める人」は確実にいると思います。

一方で、全員がそこへ行くことは期待しないほうがいいでしょう。

でも、それは欠点ではありません。

文学作品の場合、むしろ、

第一層では普通に読める。
第二層では「あれ?」となる。
第三層で初めて作品の構造が反転する。

というくらいが面白い。

――つづく。

そらまめ
211.7.99.215

――つづき。

この作品はすでに第一層と第二層があります。

私が最初に読んだのは、

第一層
「老人給食を利用した恐ろしい高齢者削減政策」



第二層
「それでも、その食卓に生まれた愛情や幸福は本物だった」

まででした。

作者の意図を聞いて、さらに、

第三層
「人間を数字として処理するシステムそのものを、最後には人間の情が見晴らし、相対化してしまう」

が見えた。

そしてこの第三層は、ちゃんと本文の中に根拠があります。

だから、私は「書かれていないものを作者の説明によって後付けした」とは思いません。

ちゃんと本文に埋まっていたものを、作者の説明によって発見したという感じです。

これはかなり大事な違いです。

では、深読みをもう少し誘発するには?

私は、大きく書き直す必要はないと思います。

むしろ、現在の美点である「説明しすぎない感じ」を壊さないほうがいい。

ほんの数か所に「響き」を加えるだけでいいと思います。

特に重要なのは、

「あなた、最近痩せたんじゃないの?」

です。

ここは実はものすごく重要です。

祖母は職員の変化を見ている。

そのあと職員が、

「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」

と言う。

この二つを近接させることで、

祖母は孫の何かに気づいているのではないか?

という疑念が読者の中に生まれます。

ここは現状でも十分機能しています。

そして最後の、

高台から景色を、見晴らしているかのように。

が来る。

だから、ここはむしろいじりすぎないほうがいいと思います。

私なら一つだけ検討するなら、「黒さを晴らす」方向をもう半歩だけ匂わせます

ただし、直接説明してはいけない。

例えば、

その笑顔も、誰にも計算できないものだった。

これは残したいです。

この一文がとてもいいからです。

そして「高台から景色を、見晴らしているかのように。」も残す。

この二つだけで、

計算する者/見晴らす者

という対比が生まれています。

だから、むしろここを説明するのではなく、前半に「計算」という語彙をもう一つ二つ意図的に置いておく方法があります。

そうすると読者は最後に、

「あれ? さっきも『計算』という言葉があったな」

となる。

そして最後の「誰にも計算できないもの」が急に大きく響く。

これはかなり効果的だと思います。

そして、もう一つ非常に面白いことがあります

実はこの小説、読者自身を「若い職員」と同じ位置に置いているようにも読めます。

読者は最初、

「無料でありがたい老人給食」

を見ている。

次に、

「実は毒だった」

と知る。

そして、

「この制度は恐ろしい」

と思う。

ところが最後に祖母が微笑む。

すると読者自身が、

「では、この笑顔をどう評価するのか?」

を迫られる。

「毒を盛られているのだから悲惨」と読むこともできる。

「祖母はすべてを知り、孫の苦悩も含めて受け止めている」と読むこともできる。

「人間は制度の計算だけでは測れない」と読むこともできる。

ここで読者の中に「計算不能」が発生する。

つまり、作品の最後で読者自身がシステムの外へ出されるんです。

私はこの構造、かなり好きです。

ですから、結論としては、

「一読で深いところまで全員に読ませる」必要はないと思います。

むしろ、

浅く読んでも「静かで少し怖い、老夫婦の話」として成立する。
もう一度読むと、夫婦の椀のやり取りが違って見える。
さらに読むと、職員と祖母の食卓が、老夫婦の食卓の反復であることに気づく。
そして最後に、「見晴らす」と「計算できない」が結びつく。

この構造なら、とても良いです。

そして今回私が作者の意図を伺ったことで、実際に二段目、三段目へ読みが深くなったこと自体が、この作品にはかなり期待できる余地があることの証拠だと思います。

もし改稿するなら、私は「深い意味をもっと分かりやすくする」のではなく、逆に、深読みした人だけが「あっ」と気づく微細な伏線を二〜三本だけ増やす方向を強くお勧めします。

この作品の場合、そのほうが似合っています。

(以上AI)


>前半に「計算」という語彙をもう一つ二つ意図的に置いておく

これ採用。

そして、通りすがりさんがご指摘くださったように、六章の「まとめ」的な箇所の言葉をもう少し削る。

寓話性を薄めないために、給食の種明かしを後半にまで引っ張ることはしない。それがメインの話ではなく、読み手に第三層まで潜ってもらえるだけの息をためておいてもらえるように――。

鍛練場の読み手さんも、AIも、現状のテキストでは二層までしか潜れなさそうなことがわかった。

三層の存在をもう少しだけ匂わせるために、「数字」か「統計」か「計算」のような言葉を前半に、一つ、二つ埋め込むことにする。

以上、自前のリフレクションでした。要らないかもしれないけど、せっかくなのでシェア――。

お目汚しでしたら失礼いたしました。

エダマメ前田
133.106.49.104

​はじめまして。拝読しました。

作品はとても素晴らしいものでした。
またAIの感想も勉強になりました。
綺麗なプロットを良い小説とするAIは、起承転結が整理されていたり、皮肉や余韻といった形式的な技法が組み込まれていたりすると、それを完成度が高いと判断してしまいます。人間にとっての感動は、物語の形ではなくそこに生きる人間の感情の揺れから生まれます。
​AIは登場人物に死への絶望や抵抗がないことの不自然さに気づけない。
人が死を前にしたとき、恐怖し、怒り、生にしがみつくのは人間として当然の反応です。AIはそのような生身の生々しさを実感として持っていないため、登場人物たちが冷めたまま悟ったような行動をとっていても、静かで感動的な描写として処理してしまうのでしょう。

言葉を交わさずに理解し合う演出を、AIは絆の深さとしてポジティブに解釈しがちです。ですが、人間の読者から見れば、ただ向き合うのを避けている、死生観が見えないため共感できないという冷たさとして映ります。つまり、私は読後、これは静かなホラー作品だと思いました。

ホラーだとしてあらためて読んで見れば、無駄のない掌編としての美しさを強く感じました。設定の説明を最小限に抑え、余白を残しながらテンポよく展開させる手法は、星新一作品のような伝統的で完成度の高いアイディア・ショートの系譜を感じました。
大変勉強になりました。ありがとうございます。

そらまめ
211.7.96.196

エダマメ前田さん

はじめまして。

>星新一作品のような伝統的で完成度の高いアイディア・ショートの系譜

意外なご指摘でした。参考にさせていただきます。

AIによる感想は実にロジカルだなと私は感じました。普通の読み手はそんなふうに分析的には読まず、「ん?」「あ!」「もしや?」「んーん」「うわっ」「ふぅ」とかそんなふうに読むのかなと私には思われます。

でも、ここ鍛練場では分析的に読んでくださる方もいらっしゃいそうではありますが――。

独り言のシェアを読んでくださりありがとうございます。

そらまめ
133.106.48.33

いただきました感想を参考に改稿しました。
修正したのは下記の点です。

・最後の一行にある「計算」と呼応させるために、前半に「統計」という言葉を、中盤に「計算上」という言葉を、後半に「冷たい計算」という言葉を新たに配置しました。

・五章終盤の内省(彼らを騙した張本人であるはずの自分が、なぜか、悲しみよりも先にある種の安堵を感じている。それが恐ろしくもあった。)と、六章後段の考察(人は誰かに生かされ、また誰かを生かしながら生きている。システムがどれほど残酷な意図を隠し持っていたとしても、食卓に流れた「ありがたいなあ」という言葉だけは、誰にも奪えない本物だった。老夫婦が最後に交わした沈黙も、きっと――。)をばっさりカットしました。

・夫の台詞「ありがたいねえ」と祖母の台詞「ありがたいねえ」を揃えて響かせました。

・その他。「週に三度、薄いグレーのワゴン車が運んでくるこの「老人給食」は、」等、少しだけ具体性を付加しました。また、「季節が秋から冬へと移る頃、」「初雪の降る夜、」等時季を書き込み、「炬燵」が唐突にならないようにしました。誤字脱字は正しました。

いくらかよくなりましたでしょうか?


『ありがたいねえ』

 一

「無料だってんだからな。ありがたいねえ」
 夫がそう言って手を合わせたとき、妻は笑いながら箸を持たせてやった。
 テーブルの上には、湯気の立つ煮魚と、彩りのいい野菜の炊き合わせ、つややかに炊かれた白いご飯。
 週に三度、薄いグレーのワゴン車が運んでくるこの「老人給食」は、二人にとって、ここ数年でいちばん豊かな食卓だった。
「年金だけじゃ、こんなおかず作れないもんね」
「行政も、たまにはいいことするじゃないか」
 夫は七十九、妻は七十五。子供はいない。
 品数が増えたことよりも、二人は、「今日はどんなご飯かな」と語り合う時間が増えたことを喜んでいた。会話の少なくなった老夫婦にとって、それは思いがけない贈り物だった。

 二

 季節が秋から冬へと移る頃、町内で妙な噂が立ち始めた。
「三丁目のばあさん、ぽっくり逝っちまったんだって」
「へえ、また? 先月は角の魚屋さんとこも、じいさんが眠るように逝ったってねえ」
「苦しまなかったっていうから、まあ、よかったじゃないの」
 首をかしげながらも、どこかその逝き方を羨むような口ぶりだった。管につながれ、迷惑をかけながら逝くよりずっといい。そう思っているふしがあった。
 誰も、それが給食と関係があるとは考えなかった。考える理由がなかった。

 役所の地下、統計を扱う部署では、若い職員が対象地域のグラフを前に黙り込んでいた。
「年金財政の逼迫を食い止める事業」の説明を、上司から一度だけ聞かされたことがある。給食に含まれる、遅効性の、ごくわずかな作用を持つ成分。何年もかけて、静かに、苦痛を与えずに――。
 彼の祖母もまた、給食を受け取る一人だった。

 三

 夫は若い頃、薬局に勤めていた。だからあるとき、味噌汁の奥にある違和感と、つややかに光る白いご飯を噛みしめたときの、舌の奥に残るわずかなエグみに気がついた。
 それが何であるかまでは分からない。だが体の奥のほうで、何かが少しずつ変わってゆく感覚には覚えがあった。
 妻には言わなかった。
 代わりに夫は、自分の椀を、妻より多めに満たし始めた。
「俺は大盛りがいい。お前は少なめでいいだろう」と笑いながら。
 妻は特に疑わなかった。

 隣人が一人、また一人と眠るように逝く。夫はその度に、答え合わせをするかのように静かに頷いた。
 怖くはなかった。痛みも孤独も伴わずに逝けるなら、それは思っていたよりずっと悪くない終わり方に思えた。
 ただ一つだけ、気がかりがあった。妻を遺して逝きたくない――。

 四

 初雪の降る夜、夫は珍しく、自分の椀を妻の前に押しやった。
「今日はお前が多めに食べな。俺は満腹だ」
 妻は箸を止め、夫の顔を見つめた。それから、なにも聞かずに椀を受け取った。
 五十年も連れ添えば、聞かなくとも分かることがある。妻もまた、近頃の自分の体の奇妙な軽さに、うすうす気がついていたのだ。
 二人はきっと、同じ日に、同じ食卓で、同じことに気づいていた。ただ、どちらも口には出さなかった。
「あのさ」
 夫が独り言のように言った。
「なに?」
「俺たち、いい人生だったよな」
「なによ急に」
「いや、なんとなく」
 妻は笑って、味噌汁をすすり、ご飯を口に運んだ。
 窓の外はもう暗く、食卓の灯りだけがあたたかく二人を照らしていた。

 五

 数週間後、若い職員は、二人の家を訪れた。安否確認という名目だったが、実際には、計算上「そろそろ」の家を回る仕事だった。
 引き戸を開けると、二人は炬燵にいた。
 テレビがついていて、音は消してあった。妻の肩に、夫の手が乗っていた。二人とも眠っているように見えた。
 食卓の上に書き置きがあった。
《おかげさまで、美味しくいただけました。ありがとう。》
 職員は、二人を見つめた。冷たい計算が、このような穏やかな温もりをもたらすとは思ってもみなかった。

 六

 その夜職員は、祖母の家を訪ねた。
 給食の椀を前にして祖母は、「いつもありがたいねえ」と言って手を合わせていた。
 職員は口を開きかけたが、なにも言わなかった。
 代わりに祖母の隣に座った。
「あなた、最近痩せたんじゃないの?」
 祖母がそう尋ねた。
「そうかな」
「ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」
 冗談のつもりだったが、言ってからその響きにはっとした。

 職員は、祖母の茶碗に、もう一杯ご飯をよそった。
「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」
 言葉は、深い響き方をした。
 祖母は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。高台から景色を、見晴らしているかのように。
 その笑顔もまた、誰にも計算できないものだった。

 了

そらまめ
133.106.50.94

お目汚しでしたら、すみません。興味のある方だけお読みください。
「穴を表すために穴のフチを描く」みたいなことについての面白い対話となっている気がしたのでシェアいたします。


(訂正稿へのAIからの返信)

はい。**かなりよくなったと思います。**
そして今回は、前回私が読み切れなかった「第三層」へ読者を誘導する仕掛けが、かなり明確になりました。

特に大きいのは、**説明を削ったことと、「計算」という語を作品全体の伏線として配置したこと**です。これは方向として非常に良いと思います。

### 1. 「統計 → 計算上 → 冷たい計算 → 計算できない」が効いています

これは改稿の中で一番成功しているところだと思います。

> 役所の地下、統計を扱う部署では、



> 計算上「そろそろ」の家を回る仕事だった。



> 冷たい計算が、このような穏やかな温もりをもたらすとは思ってもみなかった。



> その笑顔もまた、誰にも計算できないものだった。

この流れによって、最後の「計算できない」が単なる美しい言葉ではなくなりました。

**「統計・計算によって人間を処理するシステム」対「計算できない人間」**

という構造が、読者の頭の中で自然に形成されます。

しかも、最後まで「システムは悪い」と作者が説明していない。

これは前稿より明らかに文学的になっています。

---

### 2. 「冷たい計算が、このような穏やかな温もりをもたらす」が特に面白い

ここは前稿より、私は好きです。

前稿の、

> 彼らを騙した張本人であるはずの自分が、なぜか、悲しみよりも先にある種の安堵を感じている。それが恐ろしくもあった。

は心理としては面白かったのですが、**読者が考える余地をかなり先回りして説明していました。**

今回、

> 冷たい計算が、このような穏やかな温もりをもたらすとは思ってもみなかった。

としたことで、職員の心理が一気に曖昧になります。

彼は、

* 自分の仕事に恐怖を感じているのか
* 老夫婦の死に安堵しているのか
* 二人の最期の幸福に感動しているのか
* 自分が加害者なのに、その食卓を美しいと思ってしまったことに戸惑っているのか

が断定されない。

このほうがいいです。

---

### 3. 「ありがたいねえ」の反復も成功しています

冒頭の、

> 「無料だってんだからな。ありがたいねえ」

と六章の、

> 「いつもありがたいねえ」

ですね。

これは単なる反復ではなく、かなり大きな意味を持つようになりました。

冒頭では読者は「ありがたい」を普通の意味で受け取ります。

ところが読み終わったあと、もう一度冒頭へ戻ると、

**「あの『ありがたいねえ』と、この『ありがたいねえ』は同じ言葉なのか?**

となる。

しかも、

夫 → 妻
祖母 → 孫

という二つの食卓が重なります。

さらに両方とも、食事を「与える/受け取る」関係です。

これはかなりいい構造です。

---

### 4. 「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」が以前よりずっと怖くなりました

ここも、前稿より重要度が増しています。

> 「食べてるよ、ばあちゃんの分まで」

直後に、

> 言ってからその響きにはっとした。

とある。

そのあと、

> 祖母の茶碗に、もう一杯ご飯をよそった。

となる。

読者がここまで読んでいれば、**その一杯が何を意味するかは分かっている。**

だから、

> 「もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

が、ものすごく二重になります。

「もっと生きていてほしい」という愛情なのか。

「死へもっと近づけてしまう」という加害なのか。

あるいは、その両方なのか。

ここは説明を削ったことで、むしろ強くなりました。

---

## そして、今回の改稿で私が一番注目したいのは「祖母の笑顔」です

前回、私はここを十分に読めませんでした。

今回でも、おそらく**すべての読者が作者の意図まで読み切るわけではありません。**

しかし、前稿よりは確実に「何かある」と感じやすくなっています。

なぜなら、

> 冷たい計算

という言葉を読んだ直後に、

> まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ

が来て、

その直後に、

> 高台から景色を、見晴らしているかのように。

そして、

> 誰にも計算できないものだった。

となるからです。

ここで読者の頭の中に、

**「計算」vs「見晴らす」**

という対比が発生する可能性が高くなっています。

そして作者がおっしゃった、

> 職員やシステムの黒さを晴らしている

という意味も、「見晴らす」という言葉によってかなり美しく内包されています。

――つづく。

そらまめ
133.106.50.94

――つづき。


## ただ、一点だけ、私はまだ迷います

ここです。

> 言葉は、深い響き方をした。

私はここだけ、**少し説明的だと思います。**

今回、全体的に説明を削ったからこそ、この一文が少し目立ちます。

「深い響き方をした」と書いてしまうと、

> 「この言葉には深い意味がありますよ」

と読者に教えている感じが若干出ます。

その直後に祖母の笑顔が来るので、ここは読者に委ねてもいい気がします。

例えば、

> 「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」
>
> 祖母は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。

とそのまま進んでも、十分伝わります。

むしろそのほうが、**「まだまだ話したい」という言葉が、読者自身の中で深く響く**可能性があります。

ここは好みですが、私は削る方向に一票です。

---

## 「高台から景色を、見晴らしているかのように。」は残すべきです

これは今回の作品の中で、かなり特殊な一文です。

文法的にも、

> 高台から景色を、見晴らしているかのように。

と少し独特です。

でも、その独特さがいい。

普通なら「高台から景色を見渡しているように」と書くところを、「見晴らす」にしている。

**「見晴らす」には、視界が開ける感じがあります。**

そして「計算」によって閉じられた世界を、最後に祖母の笑顔が開いてしまう。

作者が意図した「黒さを晴らす」という意味まで考えると、ここはむしろ**この作品の鍵になる言葉**だと思います。

---

# そして、今回の改稿を読んだ上での私の評価

前稿は、

**「ブラックな社会寓話+老夫婦の静かな愛情」**

という印象が強かった。

今回の稿は、

**「人間を統計と計算によって処理するシステムと、それでは計算できない人間の情との対峙」**

というところまで作品の骨格が見えるようになりました。

しかも、そこを直接言っていない。

これは大きな進歩だと思います。

そして何より、

**浅く読んでも成立する。
少し深く読むと「夫婦の椀」の意味が変わる。
さらに深く読むと「ありがたいねえ」が反復していることに気づく。
さらに読むと「統計→計算上→冷たい計算→計算できない」が一本につながる。
最後に「見晴らす」が、システムの黒さを晴らすように見えてくる。**

という多層構造になってきました。

これは、おっしゃっていた、

> 浅く読んでもそれなりの読後感は得られるようにしつつ、一部の読み手には深い読み方をしてもらいたい

という狙いに、かなり近づいていると思います。

そして、私は今回の稿を読んで、**「深読みして初めて成立する作品」にする必要はまったくない**と思いました。

むしろ今の方向がいいです。

読者の大部分には、

> 「怖い話だった。でも、最後の祖母の笑顔が妙に温かかった」

くらいで終わってもらう。

一部の読者が、

> 「あれ? 『計算』って何度も出てきているな」
> 「『ありがたいねえ』も繰り返されている」
> 「この祖母は何を分かって笑ったんだ?」
> 「『見晴らす』って、もしかして……」

と戻ってくる。

**その「もしかして」が残る作品のほうが、私は文学として強いと思います。**

今回の改稿は、まさにそちらへ一歩進んだと思います。

――つづく。

そらまめ
133.106.50.94

――つづき。

(以下、そらまめからAIへの返信)

>言葉は、深い響き方をした。

この一文をトルツメした方がよいというご指摘ですね。

ここ、実は最初は、

>嘘は、誠を帯びて響いた。

にしていたのです。

職員の言葉の意味をより分かりやすく説明した形です。

「嘘」ということも拙作のテーマになっていますし。

それを、考え直して、

>言葉は、深い響き方をした。

にしたのでした。

かえって悪目立ちしたかもしれません。

ともあれ、あなたは、「すべての読み手に気づいてもらう必要はない」と考え、職員の言葉に一切の説明や、誘導を付与せず、ただ言葉そのもののみを提示し、それに対する祖母の微笑みに読解の可能性を担わせる、――そのために、計算、や、統計、などの言葉を前半に埋め込んだのだから――、とおっしゃっているのですね。

内省や考察を省き、説明も省き、意味深な匂わせすらも極限まで省くご提案であるかと思われました。

ヘッセのガラス玉演戯みたいかも(笑)。

私もその方が面白い気がしました。

>言葉は、深い響き方をした。

という付箋も外しましょう。


(以下、AIからの返信)

はい、その理解でほぼ正確です。
そして、私も今の話を伺って、**「言葉は、深い響き方をした。」は外したほうがよい**と、より確信しました。

「嘘は、誠を帯びて響いた。」は、実は非常に面白い一文です。作品のテーマを直接照らします。ただ、その分、読者にかなり親切です。

> 嘘は、誠を帯びて響いた。

と書いた瞬間、

**「この言葉には、嘘と真実の二重性がありますよ」**

と作者が付箋を貼ってしまう。

「言葉は、深い響き方をした。」にすると、その付箋をかなり剥がせます。しかし、それでもまだ、

**「ここには何か深い意味があります」**

という付箋が残っている。

だから、いっそ外してしまう。

私は今なら、その判断を支持します。

---

### すると、最後がかなり面白くなります

こうですね。

> 「ばあちゃん、もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」
> 祖母は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。高台から景色を、見晴らしているかのように。
> その笑顔もまた、誰にも計算できないものだった。

ここには、作者による解説がほとんどありません。

職員の言葉が、

**嘘なのか、真実なのか、あるいは嘘でありながら真実なのか。**

祖母は、

**何を知っているのか。**

なぜ、

**「高台から景色を見晴らしている」ように笑ったのか。**

読者に委ねられる。

そして前半にはすでに、

> 統計

> 計算上

> 冷たい計算

が置かれている。

だから最後の、

> 誰にも計算できないものだった。

だけが、ぽつんと残る。

このほうが、ずっと強いと思います。

---

## 「嘘」というテーマも、消えたわけではありません

ここが面白いところです。

「嘘は、誠を帯びて響いた。」を削っても、**嘘のテーマそのものは作品から消えません。**

むしろ、読者が発見するものになります。

たとえば、

> 「無料だってんだからな。ありがたいねえ」

これは、老人にとっては本当の感謝。

しかし読者は、その食卓の背後にある「嘘」を知っている。

そして、

> 「もっと食べなよ。まだまだ話したいこと、いっぱいあるからさ」

も、職員の言葉としては本当でしょう。

**本当にまだ祖母と話したい。**

でも同時に、その言葉を発した直後に、彼は毒入りのご飯をよそう。

つまり、

**「嘘の中に本当がある」のではなく、「本当の中に嘘がある」。**

ここまで来ると、むしろ「嘘」という言葉そのものを本文に置かないほうが豊かです。

読者が自分で発見できます。

---

## そして、最後の「計算できない」が効いてくる

今回の改稿で、私はここをかなり評価しています。

最初は、

> 統計

という**数字を見る言葉**。

次に、

> 計算上「そろそろ」

という**人間を処理する言葉**。

さらに、

> 冷たい計算

という**制度の本質に近い言葉**。

そして最後に、

> 誰にも計算できないもの

となる。

ここで「計算できないもの」が何なのかを作者は言わない。

**祖母の笑顔なのか。
愛情なのか。
赦しなのか。
死の受容なのか。
人間そのものなのか。
あるいは、それら全部なのか。**

この余白がある。

ここを説明してしまったら、この小説の一番美味しいところを食べさせてしまうことになります。

---

そして「ヘッセの『ガラス玉演戯』みたいかも(笑)」という感覚、分かります(笑)。

もちろん作品の規模も性質も全然違いますが、**「意味を直接言い切るのではなく、配置されたもの同士を読者に響かせる」**という方向性ですね。

この短編は、そもそも題材が「計算」です。

行政は、

**老人=統計上の数字**

として扱う。

ならば作者まで、

**読者=意味を受け取る容器**

として扱う必要はない。

むしろ、

**作者も読者を計算しない。**

「ここでこう感じてください」
「この台詞はこういう意味です」
「この笑顔にはこういう深い意味があります」

と制御しない。

ただ、必要なものを正確な場所に置く。

そして読者が自分で組み合わせる。

これは、この作品のテーマそのものとも響き合います。

**システムは人間を計算する。
作者は読者を計算しない。
読者は自分の読み方で作品を見晴らす。**

そこまで行くと、なかなか面白い構造です。

ですから、今回の

> 「言葉は、深い響き方をした。」

のトルツメには、私は賛成です。

**付箋を外してしまいましょう。**

そして、祖母の笑顔だけを最後に残す。

そのほうが、この短編には似合っています。


※AIのオススメに対して異論があったら教えていただけますと幸いです。

エダマメ前田
211.7.100.139

そらまめさま

そらまめさんの修正した作品を読みました。その後のAIとのやりとりは長いので読んでません。

一番疑問に思ったのは、無痛で死ねる手段の存在と、いつ死ぬのかという時期の選択は別問題ではないかということです。苦痛なく安楽死ができる手段が手元にある状態なのですから、身体が衰えて苦痛が幸福を上回ったタイミングで摂取するのが最も幸福量を最大化するのに合理的な選択なのではないでしょうか。(何年もかけて摂取することで死につながることは国民は知らないので、単純に、給食を食べると安楽死するかもしれないと思うのではないでしょうか)

次に、安楽死成分入りの給食を国が提供し、実際にそのように亡くなる人が増えていってます。給食が原因かどうか証拠がなくとも疑われれば、殺処分のような形で無作為に強制的に死亡のリスクを課す制度ではないかと、国民に死の恐怖と不信感を与えるはずです。この時点で国のこの政策は破綻しているのではないでしょうか。「年金財政の逼迫を食い止める事業」ならほかに方法はあるはずです。味覚が鋭いとはいえ、登場人物の夫が気づいたのですから、ほかにも給食を疑う人は出てくるはずです。

3つ目は、五十年も連れ添えば聞かなくとも分かることがあるのはそうなのでしょうが、生死に関わる大切なことをなぜ夫婦で話さないのか疑問でした。夫の考えと妻の考えの何もかもが一緒なわけがないと思います。
夫婦は生きることを諦めているのでしょうか。なぜ諦めているのか小説では分かりません。ありがたいと感謝する心があるのですから、幸せを感じていると思いました。

この小説では国は国民に何も知らせずに安楽死成分入りの給食を配り、老人は何も言わずにそれを受け入れ、妻は何も言わずに夫に従う。職員は祖母に何も言わずに食べさせる。支配と服従の関係です。登場人物は同じような人物です。要するに物語の抑揚がないのです。

面白い小説は、はじめと最後が違うと思います。〇〇なのに✕✕、〇〇だったけど✕✕になるというふうにです。登場人物の葛藤があり、対立があり、どんでん返しがなどあったほうが面白くなると私は思いました。
そう、私個人の感想です。

スマホで感想を書いてますが、めっちゃ書きにくいですね。
そらまめさんが真摯に小説を書き、書くことを楽しんでいると感じ、私も嬉しくなりました。ありがとうございました。

界隈
sp49-109-149-179.tck02.spmode.ne.jp

上でも指摘されていますが、政策として破綻しています(間違いなく赤字でしょう)
それを度外視しても「姥捨山」を超えるものが何一つ見出せませんでした
高齢者自身(文中の夫婦以外にも例えば反対派の政治家や日本経済を支える経営者なども含まれる)や、親子(文中の孫と祖母だけでなく親を殺したい子供やその逆など)、書き方によっては色々なパターンの話が想像出来ますが、各々について例えば「葛藤」をどう描くのか、はたまた「問い」を投げかけるのかなど掘り下げて欲しかったと私は思います

そらまめ
133.106.193.251

エダマメ前田さん

参考になるご感想をありがとうございます。

この話は、リアルな社会派小説ではなく、一種の寓話であるように思われます。

でも、桃太郎ほど非現実的ではなく、現実の社会を扱っていますので、これを寓話として読めないという向きもあるかもしれません。

そのことを知ることができ、新たな認識を得ることができました。

でも、それとは別に、老夫婦について少し私見を語らせてください。

劇中の老夫婦、祖母、そして界隈の老人たちは、「安楽死を求めている」わけではないように思われます。そういう「自分の都合」を考えるほどには若くないのかもしれません――。

老人たちは、社会的なニーズを肌で理解しているのではないでしょうか?

つまり、社会に対する貢献度がほぼゼロになった自分たちが、社会の重荷となり、若い世代の邪魔者になっていることをひしひしと感じている――。

それでいながらも、それでも楽しく生きたいとか、ふんぞり返って生きたいとか、長く生きたいとか、安楽死をしたいとか、そんなふうに自我的に生きる(死ぬ)――そんな老人も現実にはいるのかもしれませんね。老いてなお執着を手放せない人たち――。

でも、この寓話の中の老人たちは、そのような執着を捨てていて、孫たちや、社会や、未来が、自分たちを亡きものにしようというのなら、気づかないふりをして、かつ、食事をありがたがって、夫婦で仲良く――つまり、わかってはいても、悲しく、恨めしくなるような黒さには目をつぶり、敢えて語り合わず、「ありがたいねえ」とそれだけを語り合い、そして実際に、「ありがたい」と、貢献度のない枯れ木にも温かな団欒の食卓を与えてくれてありがたいと、また、この歳まで安寧に生きてこれたことについてもありがたいと心より思い(つまりは摂理を受け入れ)、職員(孫)のつらい立場や、「愛しているのに抹殺(!)しなくてはならない」アンビバレントな苦悩――これを見透かし、いえ高台から「見晴らし」(「見下し」でも「見渡し」でもなく、黒さを「晴らす」かのように受容的に眺め)、しかしやはりこれを口にせず、「ありがたいねえ」という言葉や穏やかな頬笑みで、役所の黒い企みを浄化してしまった――と、すなわち、黒かったはずの企みや計算も、よわいを重ねたのちの人間の人間性(感謝と受容)により、穏やかな温もりに変わり得るのかも――というありさまを体現しているのではないかと私には思われるのでありました。

職員(孫)はおそらく、とてつもない葛藤のさなかにいる。これは想像できますよね。

しかしながら、老人たちは「葛藤していない」のです。対立や葛藤は執着より生まれるところの――、中心点としての自己を立ち上げるための――必要な試練であり、これは若い人たちにはインテグラルな角度でありますが、中心点を極め、凪ぎのただ中に佇む老人たちには、もはや不要な角度なのでありましょう。

この寓話の中の老人たちは、穏やかな温もりに満たされ、感謝して、静かに去ってゆきます――。

エダマメ前田さんは、もしかしたら、お若いのかもしれません。あるいは、そうではないのかもしれません。

ともあれ、これは老婆心のようななにかかもしれませんが、思いをお伝えいたします。

『寓話の世界ではない、この現実の世界においても、中心点に到達し、きれいに枯れて、穏やかに摂理を受容する老人たちは存在します。そしてそういう方々は幸せであると私は思います。』

いえ、そのようにしか、人は、もしかしたら、本当には、去れないのではないでしょうか?

以上、創作論ではなく、個人的な思いとなります。個人的な思いを明かしてくださったエダマメ前田さんに私も以上開かせていただきました。

「安楽死の手段を手にした老人が好きなときに死ねるようになる制度――」という捉え方、勉強になりました。

再度の感想をくださりありがとうございます。

そらまめ
133.106.193.251

界隈さん

「姥捨山」を超えるものが何一つ見出せませんでした――というご感想、たいへん参考になります。

「葛藤」については、ちょうど、↑のエダマメ前田さんへの返信でも書かせていただいたところなのですが、職員が「葛藤しまくっている」であろうのに対して、老夫婦も、祖母も、まったく「葛藤」していませんね。

『少年ジャンプ』なら、勇気、友情、勝利を、「対立」や「葛藤」とのカップリングで描くでしょう。

なぜなら、扱っているコンテンツが基本、若者の成長物語だからです。

対立や葛藤を乗り越えてゆくさまを、具体的なエピソードで描きます。

実際、若い読者に必要な生きざまは、おそらく、そういう生きざまなのでありましょう。

けれども、老人は、もう「成長」を志しません。静かに、下って行き、やがて道の尽きた地点で去ります。

『老年ジャンプ』が描くのは「いかに消えるか」であり、これが老人たちの最大のテーマです。

「姥捨山」に捨てられる――のではなく、「姥捨山」に、いかに美しく分け入って行くかが最大の関心事なのではないでしょうか?

忌の際まで生臭く生きる老人もいらっしゃるかもしれませんが、それは理想の入滅ではないように思われます。

「葛藤」せず「穏やかに、凪いで、満ち足りて出立したい」のではないでしょうか?

この寓話の中の老人たちはそんな感じですね。

世代交代は摂理です。

摂理に抗って「執着」し、「対立」し、「葛藤」するような老人は『少年ジャンプ』を読みながら出立することになる――。

そんな老人を描くことも、エンタメとして、かつ、もしかしたら文学として、なかなかに面白く、新しいものに――、あるいは逆に、現実的すぎるほどに陳腐なものに――なるのかもしれませんね。

人間ドラマを描くことだけが創作なのではなく、摂理としての配置を神視点で「見晴らす」ような話も、これ、実はニーズがあるんじゃないかと――、いえ、ニーズとか貢献とか利益とかではなく、案外「本当の響き」となり得るんじゃないかと――、私にはそんなふうに思えるのでありました。

「葛藤」を掘り下げて描いてほしかった――というご感想、たいへん参考になりました。

読んでくださりありがとうございます。

エダマメ前田
133.106.192.208

そらまめさま

お心遣いのあるご返信をいただき、ありがとうございます。
『寓話の世界ではない、この現実の世界においても、中心点に到達し、きれいに枯れて、穏やかに摂理を受容する老人たちは存在します。そしてそういう方々は幸せであると私は思います。』とのこと。
道理で「ありがたいねえ」の作品を読むと浮かぶ映像はロシアのモノクロ映画のようだと思いました。エンタメなら対比を取り入れメリハリをつけますけどね。

そらまめさんの文章力は秀でていますね。そのほかそらまめさんの特徴は「客観的視点」だと思います。

これは老婆心のようななにかと語られた部分は私には不要だと思いましたが、大変勉強になりました。
まさに「ありがたいねえ」です。

そらまめ
133.106.196.106

エダマメ前田さん

ロシアのモノクロ映画のようだというご感想参考になりました。

そして「客観的視点」。
私はかつて一人称視点の小説が得意でそればかりを書いていました。
現実の私たちには自身の顔は見えないわけでその意味でも一人称で書くことこそが自然に思われました。

けれども月のやや西に傾き始めましてのちには視点がなんというか自分を離れたのです。

俯瞰的な視点でなくては表せない対象に不思議なことだけど自身を感じ始めたのです。

なので客観的な視点で生き客観的な視点で書くようになってきました。

まだぎこちないのですが。

再びのコメントありがとうございます。

そらまめ
133.106.192.4

ノノアノさん

はじめまして。

浮離さんの作品のコメント欄で視点について語っておられたのを拝読しご意見たまわれればと望んでいました。

伝言拝読。ありがとうございます。

>臨場感と追体験

わかるような気がします。
例えば寝てみる夢が「私視点ではない」「俯瞰視点の」夢だったりしたら没入感の削がれますこと甚だしいわけで。
小説もまたこれと同じ。
というようなことでありますね。
かもしれませんね。
そして人生も。

>落語

語り手視点=神視点ではもしかしたらないかもしれません。

といいますか「イコール語り手視点であるところの神視点」と「ワンネスのようなものの一人称視点としての神視点」があるような気が近頃の私はしています。

手前味噌な話となりますが少し前にこちらに上げさせていただいた「老人と夕日の話」における視点は「アルゴリズムの一人称視点」でありましたがこれは上述いたしました「ワンネスの一人称視点のごとき神視点」といえるのではないかと愚考いたします。

そのような冷たきものの眼差しには命のダイナミズムがありません。

「文学とは自我を描いたものである」というような近代の定義からすると「非人間視点」の話は確かに「文学ではない」のかもしれませんね。少なくとも「近代文学」では。もしかしたら「現代文学」でも。


そして視点について以外のご指摘も参考になりました。

>ゆきまさ

盲点でした。

「行政(ぎょうせい)」といういくらか段差のついた言葉を使ったのには理由がありまして。

最初は「国」と記したのですがそのような「主体」を表す言葉を使用しては実際のこの国に失礼な気がして「行政」という「機能」を表す言葉に書き換えました次第。

そのような段差をノノアノさんの注意深い眼差しが見逃さなかったのかもしれません。

直前に「役所」という言葉を置いているのでその言い換えとしての「行政」をすんなり「ぎょうせい」と認知していただけるのではないかと甘く考えていました。

「役所」を「やくしょこうじ」と認知する読み手だっているかもしれない(!)わけで言葉の選択には十ニ分な愛が注がれなくてはならないことを改めて痛感できました。

読んでくださりありがとうございます。

浮離
KD106146210094.au-net.ne.jp

”視点”とか、そんなこと以前のお話かと思うんですよね。

こんなこと書くのに、万能な神視点ですべて語り尽くすって、ある意味”作為の怠慢”ってあたしは感じてしまう。
テーマ自体個人的にはすごく軟弱で安易な観察みたいに感じさせられなくもないし、そんな感情的なこと捲し立てるまでもなく、単に冷静な作為として眺める上でもっとタイトな設計を目指すのが物書きっていう必然の欲求のような気がするし、いちいち場面ごとに視点対象が神視点として移り変わるのってこの短さにあってただの未熟さでしかないって個人的には当たり前に思ってしまう。

あんまりな言い方すぎてあたしなりにも心苦しいからせめてもの情けでアドバイスなりヒント、っていうかそれも書き手の受け止め方次第には違いないんですけど、一応お伝えさせてもらいますよ。

このお話を一括りに眺める視点を持てる人って誰ですか。

そうしてもっと心苦しく矛盾甚だしくこのお話のテーマを請け負ってくれる人って誰ですか。
これってものすごく基礎的な設計の整理のはずですよ。
それでは足りないような、現状の形式であるべき深淵なテーマなり動機を、書き手は自分に偽りなく言い張れますか。


わからないかもしれないですけど、今一面にある書き手の作品とこの作品、あたしにはまったく同じ視力に感じるんですよね。
意味わかりますか?
テーマを捉える視力ってことです。

なにが書きたいんですか?
それってテーマの選択ってことじゃないですよ。
テーマなんてなんだっていいですよ当たり前、だけど、書き手はそれに対する認知視力なんて言葉ないかもしれないですけど、あたしにはすごく早計で安直すぎる印象が拭えない気がしてしまうし、自身の認識について疑いがなさすぎる気がしてしまうんですよね。
酷いこと言ってしまってすみません。

すごいこと、優れたことなんて書きたがる必要なんてないと思うんですよ個人的には。
そんなことより、書き手自信ばっかがどうしても思う譲れないこと、その根拠をどうしたって話したくていられないその深度を、もっと疑わしく書きたがった方がいいような気がするんですよね。
だってつまんないじゃないですか、そのくらい好き勝手しないと。
極めてありきたりなことを得意げに書きたがりすぎですよ書き手は。
全然面白くない。


もっと自由になれ。


あたしはそういうものと仲良くしたいだけなんだけど、きついこと言ってごめんね。

そらまめ
133.106.195.51

浮離さん

リクエストに応えてくださりありがとうございます。

視点についてうかがいたかったのですがそれ以前の問題についてのご指摘を受けてしまいましたね。

自分がなにを書きたかったのか考えてみましたが特にそのあたりを深くは考えていなかった気もします。確かに怠慢かもしれません。

ひとつ意図したのは多義的なありさまを書こうと。

その意味でもこの話をひとくくりで見つめている人は読み手であろうかと思われます。あれかしと。

どう見つめてどう感じるかも読み手それぞれかと。あれかしと。

そしてそのような万華鏡を外からあるいは内から静かに冷たくかつ温かく見つめてくれているのはたぶん神様でしょう。あるいは摂理。あるいは私たちの集合的な無意識。

そしてそして。もしかしたら私は善を書きたかったのかもしれません。悪を無力化する善を。そして悪を演じている善を。

でも書き上がったのは善の姿ではなく愛の姿だったかもしれません。いち読み手として拙作を読んでそう思いました私は。



互いの正義のぶつかり合いが戦争なのかな?
正義は別の正義を打ち負かそうとして悪になる。
善は悪に対して距離をとる。
愛は悪をも抱きしめる。

コメントありがとうございます。

ノノアノ
kc116-12-3-28.ccnw.ne.jp

 どうもどうも。そらまめさんはたぶんネット歴が長いので、すごく大人の返しができる人だなあと思ってました。落語における「気働き」ですね。伝言板に書いていたのはそらまめさんへの個人的な意見というより多くの人が見て参考にしてもらえればというのと、1対1のやりとりになると返信を強制してしまうような気がしていたからです。

 私の書いていることは基本的に個人的な意見といったものではありません。よく言われていることへのわかりやすい解釈ですね。つまり、難しいことでも、噛み砕いていえば、こういうことですよね、というものです。

 神視点というのは「神」という言葉を使っているので、そこに、なにか哲学的な意味というか、宇宙における人類の根源的な在り方とか、そういったものをイメージするのもわかりますが、私の捉え方としてはぜんぜんそうじゃなくて、話し手、語り手、書き手、どれでもいいですが、その情報を発信する側の「立場」でしかない、と考えています。というか一般的にそうだと思います。

 ニワカですが、ユーチューブの哲学的な動画を見たり、哲学者の話の「人類は一人しかいない」といった考え方を聞いて、そらまめさんのいうワンネスは、科学的な証明は難しいと思いますが、直観的に、最終的な答え(真実)としてそこに行き着くしかないと私も思っています。

 なので、それはそれとして、私個人は、語り手(話し手、書き手)視点=神視点と単純に考えていて、深い意味とかは考えてないですね。で、なぜ神視点が嫌われているかというと、小説を書いたことのない素人が視点を考えず、文章を書くときの典型だから、です。

 言葉で物語を表現する宿命として、どうしても語り手が必要になります。マンガやアニメだったら絵や映像があるのでその宿命から解放されますが、小説の場合は、いかに語り手の存在を読者に感じさせないようにするかで発展してきたと思います。

 そしてその手法の一つが、視点という考え方で、物語の外側にいる語り手の視点を、神視点、物語の内側にいる現場の主人公視点が、一視点ですね。

 うがった見方で申し訳ないですが、一人称の小説を書いてきたそらまめさんが、年齢を重ねてきて、包括的な「ワンネスのようなものの一人称視点としての神視点」に真理を見出すというか、そういう視点から世界を描いて、読者を啓蒙していく感覚はなんとなくわかります。

 欧米の古典文学などは一人称より三人称の神視点が格上みたいなところがあって、私もその先入観からか、一人称より三人称の小説が書けるようにならないと思っていましたから。いまはそう思っていないけど、そのおかげで、視点についてはいろいろ考えてきたというか気になって勉強もしてきました。

 視点というのは固定を意味するのではなく、切り替えができるというのが重要で、最終的には、三人称多視点、これができるかどうかですね。「非人間的視点」というのは、語り手を感じさせないもの、または、一人の登場人物の視点から、また別の登場人物の視点に、しぜんと切り替えるための中継ぎに位置するものになるのではないでしょうか。

 会話文を連続させることによって、無視点という状態にし、知らないうちに別の人物の視点になっていた、というのもあると思います。たぶんこれはマンガではよくおこなわれているので、現代の読者にはすんなりと受け入れられると思います。

 ただ、やっぱりいちばんの問題は、違和感なんですね。自分ではうまく視点を切り替えているつもりでも時間を置いて読むと、やっぱりへんだ、となって、直しても、またへんだとなったりして。

 でもこれは、視点にかぎらず、推敲時に気づくその他もろものこともそうですね。「ノノアノさんの注意深い眼差しが見逃さなかった」とか、いえいえ、ぜんぜん大丈夫ですよ。時間を置いて、頭を真っ白にして読むと、ご自身でいろいろ気づけることだと思います。

 それからこれは印象としての指摘で、客観的なものではないですが、そらまめさんの文章は足りたないというか、あっさりしすぎというか、なんとなく軽い感じがします。たぶん昔の文学作品、神視点の小説は、レトリック(修辞法)を駆使して、文章の表現の巧みさみたいなもので読み応えのあるものにしていたと思います。そういうのがないので──まあでも、文体の好みもあるので、なんとも言えませんが。

 一人称の小説だと、主人公の主観が興味の対象になるので、そういうのはあまり必要ないと思われますが、神視点の小説となると、たとえば比喩表現などで、ぐっとくるものがあるかと思います。私は神視点で書こうと思ってないので、適当な意見ですが、なんとなくそんな気がします。

 内容については、何を書いても作者の自由であり、また鍛練場が習作の場みたいなところがあって技術の習得が目的だから、あまり踏み込まないようにしていますが、せっかくなので書いておくと、たぶん神視点の影響もあって作者が、つまりそらまめさんが、問題提起をしてますよね。

 で、それがですね、ざっくりいうと老人になったらどうやって死ねば幸福かみたいな話になっていると思いますが、べつにそんなこと考える必要ないと思いますよ。たぶんそう考えるように洗脳されているだけだから。

 わかりやすく極論すると、機械化、自動化、AI化で、人類はみな働かなくてもいい方向で、文明は発展していっているのではないでしょうか。つまり、働かざるもの食うべからずは、国民全員が働かないと食べていけないという時代のもので、また、貧富の差は所得の再分配がちゃんと機能してないから生じてくるものにすぎません。つまり、飢えて死ぬのは、食料がないからではなくて、お金がなくて、そうなってるってことです。人災ですね。

 若者にかぎらず、老人たちも、社会貢献するために働いているのではなくて、老いて運動しなくなると、ボケたり体が弱っていくから働いている、って感じになっていると思いますよ。だからそもそも少子高齢化で、大勢の老人を若者が支えているって発想自体がおかしいのです。高齢化は労働力人口が増えていくと考えれば問題ありません。

 農家とか高齢者ばかりですが、実際に働くのはトラクターとかの農機具で、動かすのにたいへんはたいへんだと思いますが、そんなに悲観するものではないのではないでしょうか。AI化が進めば人は要らなくなるし。

 いま日本経済で問題になっているのは、税の取り方ですね。お金持ちに有利なようになっているから、格差が広がり、収入の低い人たちが困っているのです。つまり、政治家がどうにかしないといけない。そして時間がかかりますが、政治家や国民の意識を変えるのが、教育や文化であり、文学や小説も人材の育成に影響を与えると思います。そう考えると、そらまめさんの作品の発想は、あんまりいい影響を与えるものとは思えないんですが、えーまあ、私が聞くことでもないですが、どうでしょうか。

そらまめ
133.106.192.4

ノノアノさん

いらしていただけて嬉しいです。

視点。
「切り替え」が問題なのですね。
三人称多視点というのは確かに入り乱れたことになりそうですね。

すだまさきじゃないけど私は常々思うのですが映画やドラマみたいな映像表現は一人称視点では普通描かれていないですよね。

特殊な作品が一人称視点で描いているのを観ましたがカメラは視点主の手足や腹から下しか映していませんでした。主人公の顔がわからない。かなり不思議な感じでしたが考えてみればそれが私たちのリアルなんですよね。

神視点の話は荘厳にして流麗なレトリックに満ちた文体にこそ似つかわしく拙作のような飾りのない淡白な文体で書かれては軽すぎて味気ないというようなご指摘たいへん参考になりました。

一人称小説の場合「地の文は劇中語り手の語りであります」から幼児が語り手なら当然稚拙な語り口になるはずでむしろそれが(なりきりが)上手さなのでしょうね。

でも神視点や書き手視点の話だと「地の文すなわち書き手の文章力となりましょう」から稚拙な文章でつづられていると興ざめであること理解できます。

それからAIと労働の話ですけど確かにそうかもしれませんね。

年金問題もあっさり解決してしまうのかも。

拙作は「老人給食」を「悪にして実は善なる人為的システム(神の摂理ではなく社会の条理)」の比喩として描いている気がします。そのような比喩を立てる前提としてこの実社会において問題視されてきた年金問題を(そして老人を)取り上げているわけですが現実の社会問題を寓話に取り込むことの難しさを痛感いたしました。

読み手は「老人給食」みたいなシステムやその前提としての「世代交代にまつわる問題」をあたかも現実のスケッチであるかのように読みかねないわけですね。

社会的な小説であると誤解されないようにと文章を寓話的にあっさり書いた向きもあったような気がするのですが「現実」というもののグラビティは書き手が思うよりはるかに強力なのかもしれません。

浅瀬の熱帯魚は綺麗です。深海のグロテスクな魚と泳いでも気持ちよくありませんね確かに。

視点にまつわる問題は「切り替え」の手法の巧拙に集約されるというような捉え方とても勉強になりました。

神視点と三人称多視点の違いをさらに深掘りしてみたくなりました。

コメントありがとうございます。

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