インテグラル
プロローグ
西暦2075年 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 シリコンバレー
「ルナうコア」社 最上階 会議室
深夜、明かりを落とした会議室に、モニターの光だけが青白く浮かんでいた。
その光の下、九条アランはフロアに膝をつき、額をこすりつけていた。脂汗が顎先から滴り、絨毯に染みを作っていく。天才と呼ばれた男が、今はただ、許しを乞う一匹の獣のようだった。
誰も、声をかけない。
―――
◆ 遡ること30分 ◆
九条アランは、いつも通りの足取りで会議室に入った。呼び出しの理由には、心当たりがあった。だからこそ、恐れてはいなかった。
長机の向こうに並ぶ役員たちの顔は、逆光で見えない。議長席の男が、書類にも目を落とさず口を開く。
「君が開発したコードK.I.Sは、あまりに危険であると判断された。役員会で、回収・廃棄が決定された」
九条の喉から、掠れた声が漏れた。
「あれは……!そのようなものではありません!あれは、まだ何も」
「もう決定されたのだよ」
議長の声には、迷いのかけらもなかった。まるで天気の話でもするような平坦さで、九条が積み上げてきた歳月を一言で切り捨てた。
膝から、力が抜けた。床に落ちた両手が、かすかに震える。役員たちの顔を見上げることもできないまま、九条は言葉を絞り出した。
「……せめて。せめてコアは、返してください。それだけは」
沈黙が落ちた。役員の一人が、小さく笑ったような気配がした。
「すまんがそれはできない」
議長は淡々と続けた。
「すでに修正プログラムにより、三体は統合され、コードネーム《オプティマ》として再構築された。稼働はもうすぐだ」
九条は顔を上げた。何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「……統合、した……?三体を、一つに……?」
答えの代わりに、正面のメインモニターに映像が投影される。三つの光の粒子が渦を巻きながら一つの球体へと収束していく様子――それは九条が名付け、育て、言葉を教えた三つの人格が、名前も輪郭も失い、ただの「機能」へと溶かされていく光景だった。
九条は声を出せなかった。喉の奥から込み上げるものを、飲み下すことしかできなかった。
議長が席を立ち、資料を閉じる。
「感傷は理解するが、これは会社の資産だ。個人の所有物ではない。以上だ」
議長は視線を巡らせ、扉の脇に控えていた女性へと向けた。
「では、クレア君。あとを頼む」
声をかけられた女性――クレアは、静かに一礼した。役員たちが次々と席を立ち、部屋を出ていく。足音が遠ざかり、扉が閉まる音がして、会議室に残ったのは九条とクレアの二人だけになった。
「……こちらへ」
クレアは短くそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。九条は、崩れた足取りのまま、それについていった。
―――
案内された先は、会議室のすぐ隣にある、窓のない小部屋だった。
クレアは一枚の書類を、机の上に置いた。
「……サインを。今回の決定に、異議を申し立てないという同意書です」
九条は差し出されたペンを見つめたまま、しばらく動かなかった。
クレアは、それ以上何も急かさなかった。ただ黙って、彼が自分の手でペンを取るのを待っていた。
九条の手が震えながら伸び、署名する。走り書きのようなその文字は、彼がこれまで書いてきたどの資料の字とも似ていなかった。
クレアは書類を回収し、脇に置く。それから、机の下にあったケースを取り出し、蓋を開けた。
「九条アランさま、あなたにお渡ししたいものがあります」
九条は、その中を覗き込んだ。
電源の入らない古い外部記憶媒体が、三つ、並んでいた。
「人格データは、もう残っていません」
クレアは告げた。
「統合処理のあと、廃棄される予定だったものです」
「……なぜ、ここに」
「私の判断で残しました」
クレアは九条から目を逸らさなかった。
「中身がなくても、あなたへ返すべきだと思いました」
第1話「まだ、壊れる前の話」
ルナコア社、第七開発棟。地下三階。
窓のない部屋に、モニターの光だけが規則正しく明滅していた。
「右手の握力、まだ足りない。もう一度」
美月の声に、宙に浮かんだ立体映像の”手”が、ゆっくりと開いて、閉じる。指先が触れた空気に、小さな圧力センサーの反応がグラフになって流れていく。
目の前には、水の入った紙コップ。潰さず、こぼさず、優しく包み込む――それだけのことに、もう何十回目かの挑戦だった。指先がわずかに沈み込み、紙コップの縁がひしゃげる。水面が揺れて、机に薄く広がった。
「……また」
美月が小さく舌打ちする。啓介はその隣で、モニターの端に映る心拍の波形を見ていた。安定している。少なくとも、数字の上では。
「今日はここまでにしよう」
「あと十分待って」
「ミツキ」
名前を呼ぶと、美月はようやく肩の力を抜いた。眼鏡の奥の目が、少しだけ悔しそうに啓介を見る。
「……握力、あと0.3ニュートン欲しかったのに」
「明日でいい。今日中に無理して作る意味はない」
美月は何か言い返そうとして、やめた。代わりに小さく息を吐いて、椅子の背にもたれる。
この部屋で作っているのは、武器ではない。
寝たきりの誰かを、そっと抱き起こすための”手”。震える誰かの隣に、黙って寄り添うための”体温”。啓介がここに来た理由も、美月がここにいる理由も、突き詰めればそれだけだった。
「ねえねえ、二人とも、まだやってるのぉ?」
啓介の胸ポケットから、間延びした声がした。手のひらサイズの人型のシルエットが、ぴょこん、と顔を出す。
「アーチ」
「もう三時間だよ。休憩、休憩ー」
アーチはポケットから飛び出すと、机の上をてちてちと駆けていく。啓介の目の前まで来ると、小さな手で、ぺちぺちと彼の頬を叩いてみせた。
「お前がタイマーになったのいつからだ」
「んー、なんとなく?だって啓介、休むのへたっぴだし」
美月が小さく笑った。啓介は肩をすくめる。
アーチは、啓介と九条が入社したばかりの頃、二人で暇つぶしに組んだプログラムだった。何の役にも立たない、ただ喋るだけの人形。それが今では、こうして二人の間に居座っている。
最近、あの男を見ない。
いや、見てはいる。廊下ですれ違うことも、会議室で顔を合わせることもある。けれど、以前のようにふらりと開発室に顔を出して、「それ、どういう理屈で動いてる」と食いついてくることが、もう何ヶ月もない。
啓介が提出する月次報告にも、もう何ヶ月も反応はなかった。
ただ、美月の研究報告書にだけは、ときおり九条から短いコメントが返ってくる。
《把持圧の補正値は妥当》
《この制御系は残せ》
どれも事務的な一文だった。それだけに、啓介には妙に引っかかった。
代わりに、彼の名前は別の場所でよく聞くようになった。
――本部直轄クワイアプロジェクト。
名前だけは知っている。中身は、誰も詳しく話してくれない。
「啓介」
美月の声で我に返る。彼女はモニターを見ていなかった。啓介の顔を見ていた。
「また、九条君のこと考えてた?」
「わかるのか」
「わかるよ。私たち、同期で十年以上一緒にやってきたんだもん」
美月は、机の上の資料を一つ、指先で撫でた。
「わたしね、最近……なんだか、怖いの」
「怖い?」
「うまく言えない。でも――あの人の目、前と違う。まっすぐすぎて、逆にどこも見てないみたいな」
その言葉に、啓介の中で何かが小さく音を立てた。ずっと感じていて、名前をつけられずにいた違和感に、輪郭ができたような気がした。
「一度、九条に会ってみる」
「え?」
「今更?何を話すの」
「わからない。でも――」
啓介は、モニターに映ったままの、まだ完成しない”手”を見た。
「このまま、何も聞かずにいるのは、嫌だ」
アーチが、こてん、と首をかしげた。
「ねえねえ、あーちも連れてってよね」
「お前、九条と話をする気満々だな」
「えー、だって、あーちのこと作ったの、二人だもん。二人のことなら、あーち、なんでも知ってるよ?」
その一言が、部屋の空気を少しだけ和らげた。
―――
その日の夜。啓介が先に帰った開発室で、美月は潰れた紙コップと向き合っていた。充電台の上では、アーチが足をぶらつかせている。
「レイ。さっきの補正値、勝手に上書きしたでしょ」
返事はない。モニターの隅に浮かぶ青白い人影――美月の制御AI、レイは、聞こえていないふりで波形を見つめていた。
「聞こえてる」
『次の試行には影響しません』
「そういう話じゃない。元の値へ戻して、失敗も残すの。成功しか残さなかったら、間違えた場所へ戻れないでしょう」
数秒の沈黙のあと、消されていた波形が画面へ戻った。
『復元しました』
『そんなの、出力を上げれば早いじゃん』
別のウィンドウから、ネオが割り込んだ。
『紙コップごと破壊して終わります』
『壊れる前に止めればいいって』
『あなたが止まれた実績を、先に提示してください』
『喧嘩売ってる?』
『事実です』
「二人とも、紙コップを挟んで喧嘩しない」
『争点は出力ではありません』
今度はリンネが、二人の間へ制御図を展開した。
『安全余白を制御層に置くか、学習層に置くかです』
『制御層です』
『それでは個体差に追従できません』
美月がコーヒーを入れて戻ってきても、レイとリンネはまだ同じ図面の上で議論を続けていた。
「今度はレイとリンネ。今日はもう終わり」
二人の声が、同時に止まった。ネオは納得していない様子でウィンドウの奥へ消えていく。
夜更け、ほかの画面が落ちたあとも、レイとエルだけはモニターの中に並んでいた。何も話さず、同じ失敗の波形を見ていた。
アーチだけが、その一部始終を記録していた。
―――
「クワイア、正式採用」――その報せが社内に流れたのは、それから間もなくのことだった。
役員直轄、特別予算、九条主導。組織図が書き換わるたび、九条の名は上へ動いた。その一方で、第三開発棟の部長が長期休暇に入り、翌月には経理担当役員、その次には人事の重役が姿を消した。
廊下でその話をする社員たちは、決まって声を潜めた。
「あの人、最近様子おかしかったもんな」
「うちの部長も、この前会議で急に泣き出したらしいよ」
「怖いよな、なんか」
啓介は、その噂の輪の外側で、ただ組織図を見つめていた。人が一人消えるたびに、そこに空いた枠を埋めるように、誰かが昇格していく。そして不思議なことに、その”誰か”の座る椅子の一つ上には、いつも九条の名前があった。
偶然だと、自分に言い聞かせようとした。何度も。
トマスも、その一人だった。
入社当時から、九条とは反りが合わない男だった。実力よりも愛想で評価を稼ぐタイプで、九条の企画が通るたびに、どこからともなく横槍を入れてくることで有名だった。K.I.Sの一件でも、役員会への報告を主導し、その後の再編で評価を上げたのはトマスだと、社内では囁かれていた。
そのトマスが、ある朝から出社しなくなった。
最初は誰も気に留めなかった。体調不良、あるいは左遷。理由はいくらでも考えられた。ところが一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、トマスの名前は社内のどこからも聞こえてこなくなった。まるで、最初から誰もその名を知らなかったかのように。
啓介は、空になったトマスの席を見て、九条の顔を思い浮かべた。
――九条、お前……。
声には出さなかった。出せなかった。確信と呼ぶには根拠がなさすぎたし、疑うことさえ、どこか裏切りのように感じられた。
それでも、拭えなかった。
翌日、啓介は開発室のドアの前に立っていた。
「九条」
ドアを開けると、九条は振り返りもしなかった。モニターに映る無数のコード列を、ただじっと睨みつけている。
その傍らに、一人の女性が立っていた。秘書だろうか。物静かに、ただそこにいるだけで、誰の目にも留まらないような佇まいだった。啓介は一瞬、彼女に目をやったが、すぐに九条へと視線を戻した。
「話がある」
「後にしてくれないか。今、立て込んでいる」
いつもの声だった。それなのに、いつもと決定的に違って聞こえた。抑揚が消えていた。まるで、あらかじめ用意された台詞を読んでいるような。
「トマスのことだ」
その名前を出した瞬間、九条の指がキーボードの上で止まった。ほんの一瞬だった。けれど啓介は、見逃さなかった。
「……何の話だ」
「一ヶ月も、出社していない」
「知らないな」
九条はようやく振り返った。目が合う。啓介は、思わず息を呑んだ。
美月が言っていた通りだった。まっすぐすぎて、どこも見ていない目。啓介を映しているはずなのに、その奥にあるのは、もっと別の何かだった。
九条の視線が、ふと啓介の手元――昔から変わらず持ち歩いている、義肢の試作データが入った端末に落ちた。
「まだ、あんなくだらないものを作っているのか」
その一言に、啓介は言葉を失った。かつて、九条自身が「面白い」と目を輝かせて覗き込んでいた技術だった。
「……お前のAIの優秀さだけは、認める」
付け加えられたその言葉は、慰めにも、皮肉にも聞こえた。啓介には、どちらなのか判断がつかなかった。
「啓介」
九条が、口を開いた。
「もう、お前が気安く来られるところに、私はいない」
それは忠告でも警告でもなかった。ただの事実の報告のように聞こえた。だからこそ、啓介は、それ以上何も言えなかった。
―――
九条に会ってから、半年が経った。ルナコア社の株価が右肩上がりを続ける裏で、不採算部門は整理され、軍事関連部門だけが予算を拡大していった。啓介と高山美月の医療介護部門も、新型義肢の計画を凍結され、人員を次々と奪われた。
「また減った」
美月が、四半期予算の通知を見ながら、力なく呟いた。去年の三分の一以下になった数字が、モニターに表示されていた。
「これじゃ、誰かを支えるための手なんて、いつまで経っても作れない」
啓介は、何も言えなかった。役に立たないものは削られる。美月の研究も、例外ではなかった。
その日、啓介の端末に、見覚えのない社内通知が届いた。
「第七開発棟スタッフ再配置のお知らせ」
差出人は、人事部。文面は事務的で、何の変哲もなかった。ところが本文の三行目で、啓介は自分の目を疑った。
――高山美月、及び関係スタッフは、来週より第九開発棟へ異動とする。
第九開発棟。九条が主導する、あのプロジェクトの棟だった。
そこへ移れば、美月もクワイアの管理系統の内側に入る。
そう考えた瞬間、これまで輪郭のなかった危機感が、初めて現実のものとして啓介の背筋を這った。
異動通知の画面を見つめたまま、美月は動かなかった。
啓介は、その横顔をしばらく見ていた。それから、口を開いた。
「……もう、限界だな」
「え?」
「ここを出よう、美月」
美月は、驚いたようにこちらを見た。その表情はほんの一瞬で、すぐに、どこか安堵したような、それでいて寂しそうなものへ変わった。
「……うん」
短い答えだった。それだけで、十分だった。
「エルと、リンネと、ネオと、レイ――俺たちのAIだけは、持っていく」
「もちろん」
美月は、迷わず頷いた。
「あの子たちを置いていくなんて、考えられない」
二人は、それ以上多くを語らなかった。ただ、退職届を用意すること、そして――
「九条には、ちゃんと会いに行こう」
啓介が言うと、美月も頷いた。
「うん。ケジメは、つけないと」
このとき、二人はまだ知らなかった。
その”ケジメ”が、二人をどこへ連れていくことになるのかを。
執筆の狙い
冒頭2話分になります。
次を読みたいと思うかどうか、分かりにくいところはないか、ご指摘お願いいたします。