優しいあなたが好き
きなこ
本日より以てして、川崎が潰爛した。咽ぶような死臭の街へ変わった。午前中に始まった衝撃が、一挙に街を潰爛へ陥れた。私はからがら生き果せた、というと些か大げさにはなるが、とにかく死なずに済んだ側だった。返す返す川崎潰爛自体は紛うことなき事実にして大げさでない。私が今いるのは登戸である。川崎駅に集められた適合者の一人であったので事件を見届けた後に歩いてここまで来るのには時間がかかり、朝に潰爛が始まったのにもかかわらず夕方前になってしまった。たどり着いたのは生田緑地。岡本太郎美術館やプラネタリウムが入った施設があったり、春ならピクニックに向くような芝生の広がった広場があったりなど、休日はファミリー層の人気が高い。今日は平日なのでここで死体は見かけることはなく丘を登って東屋に座ることができた。考え事をする他にない。顔をもたげる。天井に蜘蛛の巣が張っている。
許される人殺しを自分は見たのだろうか。それとも当然に許されざる殺しだったのだろうか。どちらにしろ、正味関係ないからどうだって良いわけだけれども。今集中して思うのは、自分は初めて人殺しを見たのになにせどうか許されますようにと祈っている。私にはあれは正義な気がする。
盛夏の折見上げれば眼球を焦がすように陽が降っている。青葉がはためく向こうの空が眩しくておのずと伏し目になる。だからより隠れられるように身を壁に寄せて縮こまる。
ふと遠くより足音が近づいてくる。坂道の地面を踏みしめるザクザクとした音。生き残りがいるのに驚いて立ち上がる。東屋の形状は一辺が無くなった箱の様になっているため壁に張り付き、そっと顔だけを陽のもとに、音の方へ晒す。そいつがもしあのトチ狂った教団の残党なる気振れならば何をされるかわからない。いやもし、教団の瓦解に際し取り付く島をなくして途方に暮れただけで目を覚ましたヤツなのだとしたら。なににせよ気づかれたら面倒だ。面だけ拝んでトンズラすることにした。体を全部東屋から抜け出して顔さえ見たら駆け出す準備をした。
坂道の下方よりしなだれたような力の抜けた歩き方の男がやってきている。見た顔。覚えがある。――待て、あれはあの男か。いやそうだ、間違いない。むしろ忘れるはずがない。この男こそが、私の眼の前で、正義の人殺しをした男だ。
「きなこさん、ですよね」男が私に呼びかけた。たくさん歩いて疲れているだろうに、血液の固まった得物――ラゾーナの何処かで掻払った包丁と思われるものを何故か未だに手に持っている。
「ええ。というかあなた。さっき代表殺していましたよね」「そうです、あの場にいましたよね。きなこさん。あなたもわかっている通りでしょうけど、今日私、あまりに自分では溜飲を下げきれないようなことがあったもんですから。私の話をきいてはもらえませんでしょうか」ああこいつも。こいつも、占いをカウンセリングと勘違いしている質か。「はい。もちろんです」答えながら一気にこいつへの興味を失ってしまった。
きなこというのは、私の占い師としての名前である。そういうふうな名前にしたのは、そういうほうが占い師って感じするよなって思ったからに過ぎない。とはいえ今ではかなり気に入っている。
元々は鍵の複製も請け持つ革靴の修理屋で働いていた。しかし四年前に始まったパンデミックで失業してしまった。(川崎市に三店舗、海老名に一店舗あったがこのときの影響で全店が潰れた。社長が泣きながら電話でこういう始末になると伝えてきたときはもらい泣きをした)その際に自宅でタロットを勉強したことがきなこを名乗るに至った発端だ。占いをやってみるならどうせだしステレオタイプにいきたいと思い、ハイキングやキャンプでも使えるような、四つ足でひさしとしての機能しか持たないテントを二万で購入し、登戸駅のデッキ下に勝手に展開した。一年ほど続けているのに何故かどこからも退去を促されたことはない。加えて、偏見だがやるなら必須だろうと思い、いわゆるコールドリーディングについて学べる本を自粛期間に読んだ。軽く読んだだけで肝要なことが何か分かった気がした。要するに弱った人間には、その人間ごとに適当な治療法がありそれを引き出すのはその人間自身であるということなのだ。つまりはメンヘラの相手をする恋人気分で、それらしいことを言っていればそいつ自身が勝手に意味を見出して改善に向かってくれるということ。それを成立させるために私が力を尽くさねばならないのは、私の言葉を聞くことがいかに安心でき信用に足るのかをどうにかしてそいつに錯覚させてやるよう仕向けることである。
正味最初は詐欺のつもりで始めた。しかし案外コールドリーディングとか大それた技術を持ち出すまでもないのが現実だ。(だから本音では安心した。にわか知識で大丈夫か不安だった)出たカードにそれらしくストーリーをこじつけてしまえば大概は――あ、リーディングってこんなもんなのか。と言わんばかりに二十分の料金を払ってくれるのだ。故に徐々に私の中で、次の客もその次の客も、どうかカウンセリングまがいのつもりで来るメンヘラでないでくれと願うようになった。ところが、ところがといっても当たり前なのだが、来るもんは来てしまうものだ。
私がリーディングしてきた客の中で最も陰気臭いのが四人いる。みな男で、童貞だ。なぜにみな靄がかっているみたいなくすんだオーラを放っており、共通して多弁だった。自分の話をするのがどうにも楽しいらしい。嫌気が差しながら陰気な男の話を聞いて、それでいて私は人にどう見えているだろうかと反省させられる。結局、人の嫌なところを見つめる時間は自分の嫌なところを思い出させられる時間に等しくて、そいつらのリーディングのあとはどんよりさせられた。
そして、此度の五人目の童貞、正義の人殺し、稲川穂香である。
稲川
稲川穂香。群馬県みなかみ町に産まれた、利根川の上流の水と自然を湛える豊かな田舎の子供だった。 姉がひとりいる。姉との仲は基本的に悪くない。幼少期はよく一緒に遊んだが、ややその無邪気さが過剰な気味がありからかいを真に受けた彼は素直に傷ついていた。姉にしてみれば、少し頭が弱く危うさを抱える幼気なひとつ下の弟が愛らしく、姉らしく叱責し、姉らしくからかうまでの事だった。親もその程度のことと軽く考えており、ブサイクと言われたことも、何をやらせてもだめだねと笑われたことも、その年齢の頃合いにおいて巨大な体に見えた姉に突き飛ばされたことも、すべて彼は許す必要があった。親に言っても、たかだか兄弟のじゃれ合いのことだからだ。
姉は勝ち気だった。そして美人だった。実家にいる頃は上の学年の男子からは稲川の弟だとやけに顔と名前を覚えられていた。それに対して彼には、何も有用に使うこともせず、人付き合いは消極的に抑えていた。幼稚園から小学校まで、しばしば穂香という名前をからかわれた。女の子のような名前がコンプレックスになった。姉に比べられることが多かった。小学校時分から恋愛に興じれた姉に比べられてからかわれることが嫌だった。姉に比べて社会性の乏しいことを指摘されるのも苦しかった。親戚は言葉にせずともそのようなレッテルでこちらを見ていることが伺い知れて気分が悪かった。習い事はしなかった。金がなかったわけでもないが、一度水泳に通ったがすぐに辞めたいと親に伝えた。結局辞めさせてもらえたが、何をやらせてもだめだねとやはり言われるばかりだった。
両親も、姉も、親戚も、クラスメイトの友達も、彼のことを好きだったと彼自身考えている。だから、期待の寄せられない様になってしまった自分が嫌だった。勉強に嫌気は出なかった。人並みの成績を取ることができたが成功体験と呼べることでも何もなかった。たまに勉強を教えてくれと頼まれる事があった。クラスにおいて彼のことを頭がいいと捉えて当たり前の空気があった。彼にとって見れば、頭なんて良くないのはわかっているけれどそれをいちいち正すことに意味がないのは瞭然だった。小学生の頃夜間に学校に忍び込んだことがあった。友人に誘われたとき気乗りしなかったが、嫌われることのほうが怖かった。昇降口から忍び込んで階段を登り自分たちのクラスを目指そうとしたものの大人に見つかった。友人等は逃げおおせたが自分だけ捕まってしまった。足音が何人分かした、怒らないからあと誰が教えなさいと言われ、素直に応じた。結果的には、当然怒られたし、翌日に残りの奴らに告げ口したことを追求され非難されて、女みたいな名前してんだ、そら女みてえなやつだよな。こうなると思ってたわ。だとかよく要領を得ない悪口をかけられた。それから男友達はあまり作れなくなった。 好かれていることは友達であることからわかることだが、同時に簡単に友達の関係は崩れるので、嫌いになられることも簡単にあり得ると学んだ。好かれることも嫌われることも、同様に怖いことだと信じ始めたのはその頃からだった。
赤荻
「私が思うに、しあわせは相対なんだとおもうんです」赤荻槇人といった。幸せは相対であらなければいけないと思いませんか、と彼は続けた。
「私はね、人よりね、暴食気質でね。いっぱい食べなきゃお腹いっぱいにならんのです。でもね、それは、ゆくゆくのことを考えればね、早死の素だからってね、みんな忌避するもんなんです」
ぶくぶくと太った巨漢で大変に悪臭がした。あまり風呂には入れないらしい。億劫とか体が動かないとか言い訳をしないで、ただただまっすぐに入れないんですといった。抑うつなのかどうかは専門家でないのでしれない。
「でもわたしにとってみれば、たくさん食べなきゃ不満足なんです。みんなはそれが不摂生なのかもしれないけれど私にはこれがちょうどいいんです。そう! ちょうどなんです。私にとってちょうどであることがしあわせなんです。あなたよりもたくさん食べられれば、わたしにはその分贅沢です。あなたはそれを許さなくても私はこれを許します。なにせ私にはしあわせがこれしか無いから。私にはこうすることしかできないから。それが私のしあわせなんです。あなたのしあわせに私は文句を言いません、あなたも私の幸せに文句を言うべきでないのではありませんか」「ええ。最もですね」「だいたい早死が不幸と誰が決めた? 私にはそれがちょうどいい」「なぜですか」「ちょうどいいんだ」「それはあなたが無職であり実家を頼りにいきていることに起因しますか」「ああ。だからちょうどいいんだ」
二八歳の成人男性である。
就職をしたことはなし、勉強をしたこともなし。すると人は自然自分との会話が多くなる。ついには主観的視野狭窄じみたコミュニケーションしかできない次第。ところがそんな彼にも小さい頃に彼女ができたことがある。なにぶん人生にほまれはそれだけであり、それだけが自尊心の屋台骨となっている。たかだか中学で振られるまでのプラトニックだった。振られた理由も簡単なもので、その頃合いになればちゃんとしてない男子のくせにつまんない男とか最悪だからであった。
アルバイトを始めてからはバイト先にて、女子大生に卑屈でありつつ確実なメリットを求む童貞的な接触をかまして嫌われた。その子のインスタを副アカウントで覗き見した際――キモムーブしてきて草。大学にも行ってないくせにwww――と晒しをされてしまった始末。
汗を指ではねて鼻をすすり耳の裏をかく。えらく目線がさがってしまっている。
「極々利己的な満足が人間にとっての本分だと思いませんか」私は赤荻が何を求めてこの話をしているのか考えた。きっと許してほしいのだ。許されねば、いきていく資格をば求めあぐねて夜も眠れないのだ。
「何を占いましょうか」
尋ねると途端、脂肪に埋まってほぼ無いに等しいような顎に手を触れて、面を上げては考え始めた。ノープランならこちらで提案をしてやることもできる。まずは様子を見てみる。いかがでしょうか……と覗き込んでも何を思いつく様子もない。わからないことを聞くのが占いなのだが、思えばこいつは自らとの会話が生活の主。したがい、こいつの中にある疑念や質問の答えなら自分なりに用意があって不思議でない。だのにここへと足を運んだ。予想するとすれば、答えに自信が持てないか腑に落ちないもんがある。即ち私から提案する質問はこいつが既に思い浮かんだであろう上に答えの見えないものにしなければならない。こいつの生活に浮かぶ疑問とはなんだろう――。
「生まれてから死ぬまでに、生きてきた意味や甲斐、要は生きがいが見つかるか……とか」
目が合う。
「死ぬときに生まれたことを後悔するかどうか、天にきいてみませんか」
こんなのほぼ嫌味に等しい。しかし存外、それがいいですと採用された。
私は金がなかったためにウェイト版タロット、プチルノルマン、オラクルカードではウィズダムオラクル、エンジェルアンサーを持っているのみ。占い師を名乗るにはあまりに頼りない手数である。加え、覚えたてで覚束ないリーディングでありかなりのボッタクリに値する自覚があるが大した期待を客側も持たないので、そのお粗末に対し面と向かっての文句は言われたことがない。赤荻も当然手数に対して関心さえない様子であった。重ねた七八枚のカードをクロスの上で円状に滑らしばらまく。そのまま両手で持ってぐるぐると撫で回しカードの天地と束ね直したときの位置をランダムにする。回したカードを一点にかき集めて一束に整えるあいだも赤荻の弁が止まらなかった。
私は準備しながら話を合わせた。おそらく赤荻における生きがいの主なイメージは異性であることは想像できるのでそのつもりにリーディングをすることをこの時点で決定した。赤荻は心底不安といった面相でいるが、私はむしろ飛び上がりそうな衝撃を受けた。私の反応に希望があることを察し赤荻の頬がほころぶ。私はすぐに何が見えたかを伝えようともう一度スプレッドを見回すと、結果のカードに目が留まる。それまでのカードの出方との矛盾が生じたように感じたから。赤荻は急かすが、私はひとまず考察を言葉にすることに努めなくてはならない。一個ずつ説明することにし、彼の視線をスプレッドへ誘導させるべく手を向ける。
「まず現状を示す位置に悪魔が出ました。悪魔は基本誘惑にたいしてのその人自身の態度の話です。これは逆位置なので、あなたの心情を察するにこの人生における怠惰な自分への脱却を示す意味になるかと思われます。して、その障害にはカップの三。祝杯を上げている絵を見ればわかるようにこれは祝福のカード。障害として出たこととあなたの言から鑑みるに、自ずから不幸せを寄せてしまう考え方のことを言っているように思うんです。しあわせになることへの、あなたの無意識な抗いです。きっともっと考え方によって変わるものがあることがあるんです。それを助長するように出たのが顕在意識のカード、力のカードの逆位置。つまり自分でも自覚ある範囲のあなたの考え方の傾向は自信のないこと――自分で自分の成功を信じれない事と出ています」
私の説明に赤荻はコクリと頷く。
「そう思いつつもあなたは人生の変革を想像して胸を踊らせています。潜在意識に出たカードにそれが出ています。カップのペイジはイマジネーションです。あなたは生まれ変わる自分に希望を持っている。成功のビジョンを夢見ています」
彼の瞳に潤いが帯びる。
「過去のあなたは人一倍に独りよがりでした。嫌われていることにさえ気づかないくらいでしょう。もしも自覚しているつもりであるならば、あなたが想定しているよりはるかにということになる。それだけに、あなたは独りよがりでした。しかし未来のあなたは違います。相手の気持ちも考えたうえでの行動を取ることが、コミュニケーションを取ることへのハードルが下がることで可能になります。異性の気持ちをわからないなりに気を配る事ができるようになるのです」
恋愛に向けて敷居を下げてやるための文言は正味付け加えで、あまりそのようなことはカードが示しているとも言い難い我田引水、俗に上げリーディングである。
「あなたはもしやするとすでに手段が選択肢にあるのではないですか。今ある選択肢を慎重に見比べては物怖じして、生まれ変わる自分の努力にブレーキを掛けていては?」
目を泳がせてから彼が答える。
「選択肢はあります。……そのとおりです。誘われているコミュニティーが、あ、まあといっても、そうだな、きなこさんが思うようなそういうんじゃなさそうだからアレなんだけど」
私から見て向こう岸、テーブルの上からはみ出たタロットクロスの端をいじくって言いあぐねるも、息の一吸いを契機に言葉を連ねる。
「最近昔の友人からSNSでダイレクトメッセージが来て。やりとりをするようになりました。色々近況報告の仕合をするようになって、そうすると私の近況を憂いてか、まあそいつもろくでもないやつではあるんですけど、かなり誘われるようになったんです」「旧友のコミュニティーにですか」「いや、なんだか得体が知れないんですが」
でこをかきながら少し言葉につっかえて続ける。
「宗教なのかなって感じなんです。なんか妙で、調べると有名な教団で、日本に結構昔から根付いてるような。政治への関与とかもしてるような感じで。なんかいやでしょ? もう今ではあまり関係のない友人とはいえ昔なじみがそんなんと関わりあるっていう状況が。それに誘われてるんです。集まりがあるからって、お前みたいなやつを救う教えなんだって。それもなんだか癪な話だしね、私にしてみると」
私は憔悴した。類は友を呼ぶのだなと月並みに思わされた。
「まあ、それは確かに不穏ですね」
だが、占い師として、そのことと今回のリーディングの結果には結びつきを感じざるを得ない。
「しかし、その機会があなたにとっての転機になりえるのは間違いがないです。今のあなたはコミュニティーを広げることについての関心は向いていても足踏みをしている状態です、それはあくまで冷静に選択肢を見ているということ。悪いことじゃなくむしろ正しい。でも私はその機会に飛び込むことをおすすめしたいです。というのも、カップの十も出てるんですよ。あなたはこれから自分の大事な選択や行動を起こすうえで周囲の人間からの献身的なサポートが見込めます。そして、そのコミュニティーこそがあなたの居場所になることも。おそらくそこにはあなたに似通った人が多く自分の考えが通用する場です。それをあなたも感じていて、その場における自分のイメージも持てていて今出会いのチャンスも見込めてワクワクする気持ちもあるんじゃないですか。私にはこの機会を捨てるよりも環境を変える選択がツキを呼びよせるように見受けられるんです」
赤荻の意を決したような顔つきに、説得の成功を確信した。
件の結果に出たカードは愚者。捉え方は自由だが私はこれに二パターン思いついた。愚者を重荷やプレッシャーなどからの開放とするならその先の死はハッピーエンドだ。しかし愚者をそのまま単純に捉えてしまうと、これから事態が好転するのにもかかわらず、結果的にはなぜか不満足な死に至るかもしれなくなるわけだ。とにかくオラクルカードを引きヒントを得ることにした。
出たのは、タイム・フォー・ア・ナップ。休息を勧める意味を持つ。私は首を傾げた。あからさまに警告している。選択を急ぐこと、それが身を滅ぼしかねないとの忠告である。しかしこれまでの流れを加味しての考察をするならば、こじつけじみる所はあるものの励ましにできなくはない。
「その場所に身を置くことがむしろあなたの身を守ることになる……つまり、このままの生活を続けるとあなたはご自身で察するように失敗します、ですがこの環境の変化に舵を切れるなら、むしろ今までの億劫と苦悩の人生から離れて休めるような人生になり、将来的に良い方向へ進むことができるんです」
こういう手合は励ましがほしいに過ぎないのだからこの回答が正解だ。案の定赤荻はなるほど……と私の進言をまともに受け取り染み入っている。
「わかりました。なるべくそのようにしていきたいと思います」「ええ。赤荻さんの人生が好転することを祈ってやみません」そうやってリーディングを済ました。そこから少しばかりの雑談を交わし赤荻は帰っていった。
稲川の姉
稲川は姉のことを嫌いと思うことは決してなかったものの、ただ怖いと思うことはしばしばあった。 彼が中学年のときから、家の絨毯にお菓子の食べクズをこぼすのは前々からの行儀の悪い癖だったのだがこの頃合いになると姉も年齢的に脅すような口をきける語彙力を身につけ始めていたので、片付けろと簡単に言うよりてめえがこぼしたならてめえの口で以て吸って綺麗に戻せとどやすようになった。おびえながらも彼は結局お菓子のクズをこぼし続けた。 女性のことは姉を基準に考えるようになったので、どんなに淑やかな女性も彼にはそのうちにある、脅せるだけの語彙力を恐れるようになっていた。正味その訝しみはただしい。誰しも相手を傷つける言葉選びは内心用意している。彼もそうであるように。姉が高校二年生で中絶をしてからは、このさきこの女に自分がどんなに傷つけられたときに、十九万払ってまで人殺した分際でなにをもの抜かしてんだと言ってやろうか考えていた。今は絶対に口にする気など無いし、言葉にもしたくないと声を震わせていた。 高校は勉強を無碍にせず過ごし、アルバイトをし携帯料金は自分で払うようにしていた。卒業時は、集合写真の左上に一番小さく写った。それだけの三年間だった。高校からの親友とともに駒澤大学文学部に入学。川崎に一人暮らしを始めた。 過去を群馬に置いて来たつもりだった。いろんな呪縛から逃れる口実ついでの上京(住んでいるのは川崎だが差し支えない筈)だった。「置いてきたって何を」 その子には具体的なことまでは言わずに、それとなく自己開示をした。その子の名は村上麻耶といった。「強いて言うなら、何もない人生を。これからおとなになることで、その過程で以てきっと何かが変わるような気持ちなんだ」「楽しくなかったの。高校とか」「あんまりね」「出身はどこだっけ」「群馬。めっちゃ田舎だったからね」「そうなんだ。意外。稲川さんなんか芋っぽくなくない?」「そんなことないでしょ」「おしゃれだと思うよ。メガネかけない方がいいんじゃないの」「いいよ」「えー。そのほうがかっこいいのにな」「――――」 ……………………。時が止まった気がした、と彼は感じた。……はっ、と小さく笑って濁した。彼女はこともなげにこちらを見た。「メガネに慣れてるからいいんだよ」 照れ隠しに頑固になる。童貞のそれである。村上さんは出身どこなのと切り替えし話題をそらした。「言わなかったっけ、川崎だよ。溝ノ口ってわかる?」「ほんとに?」「そう、なんで?」「俺高津だよ。住んでるの」「ちか。てかすぐそこじゃん。すぐそこってより同じじゃん。わざと?」「どうやるんだよわざとって」 田園都市線において溝の口の隣駅である高津から徒歩十分に住んだことが幸運だった。彼女の地元圏内である。 とりも直さず、比較的遅めの初恋だった。
白倉
「しあわせは自己完結だと思うんだ、私はね」
白倉瀧雄といった。痩せぎすでありながら肌には血色の良い若さの生き残りを思わせる白髪の老人だった。
自己完結、とオウム返しに聞き返す。それに人の本意のままに毎日を形成できればしあわせという意味だよ、とジェスチャーする手。Yシャツの袖が肩の方へ引かれて高価そうな銀色の時計がやや緩めに巻かれていた。
青いYシャツにデニム。年金受給者である。
白倉の父は教師だった。厳格ながら育児においては当人の望みを重んじ、一人息子のため、希望は基本叶えるように育てた。当時にしてみれば大層ゆるい方針の家のように現代人には想像させられる。事実その通りだったようで、他所の家の家庭事情には共感しかねることが多いらしい。
「人にやさしくすることが私のしあわせでね。そうじゃなきゃほら、優しくいられない人間に報われるような未来が来てはならないでしょう。私が尽くしてやったにも関わらずそれかっていうね、いやな経験は数えてしまうから覚えていたくないのだけどね」
「それは、あなたの好意を無碍にした、あなたがしつこく口説いたという女性に対して言っていますか」
「違う、けど」
言ってすぐ、右手で顔を覆うようにする動きをちょこまかとした。
「そうじゃないけど、だからこそという意味では、そう。その、自分はたとえなにか人にしてもらえることは数えて忘れず、そのために力をつくしたいと思って。それを自分のしあわせにしようと決めたんだ」
明りが灯りだしたみたいに、言動に力が入る。
「人間においてしあわせはたかが自分本位だ。あくまで他人の干渉がマストじゃない、どころか土台不要だ。社会性で繁栄を極めた人間ともあろうに皮肉なもんだ。だから、人にやさしくすることは不必要な、例えば物によっては悪になりうるようなほどに不必要だ。だから私の人生がある。だからこそ、いいか。だからこそ俺は、人に尽くして死ぬ。これは復讐だ」
鼻息を荒げて瞳孔を開いている。
私はカードをいじくりながら、基本面は向けずに話を聞いていた。
「逆恨みだと思いますが」
「……そうだね」
私の感じに冷めた白倉は、むき出しにしていた悪意を引っ込めた。
「疲れる、年を食ってからは特にもう、悪気が私の脳を制圧する」
すう――っと呼吸を整えて続ける。
「占いとか、やってみようと思ったんだ。それで」
白倉は六十年代、戦後からの復興の著しい時期に幼年期を過ごした。当時普及したてのテレビは勿論彼にとって目覚ましく楽しいコンテンツだった。とはいえ基本チャンネルの決定権は父に渡っていたし、当人は漫画を読むのが好きだったのもあり、ほとんど食事中などの団らん下での視聴しか許されなかったのには文句なく過ごした。鉄腕アトムが放送開始された頃、小学校では白倉は話についていけなくなっていた。それに憤りを覚えなかったのは、ただ白倉には構わないと思える範疇だったからだ。意固地な自我が周囲より顕著であり、いじめを受けそうになっても跳ね除けていじめられるどころか周りに畏怖させるような気概さえあったことだ。偏に白倉に根性があったから。勉強にも打ち込み、運動も欠かさず行って体育も部活もこなし、完全無欠であることを目指した。趣味は漫画だけにとどまらずに小説へ、成長するごとに内容は難しくなっていく。わからない内容はわかるようになることができるしろと捉えて、理解できるように調べた。一人ぼっちの鉄人の自分に酔っていった。文武両道な彼に嫉妬や尊敬が集まるのは必然だった。それでも彼は、彼を追うものは避け、彼に食って掛かってくるものは退けていた。自然一人を貫いた。強い自我があったから。理解できぬのは人の心だったから。
理解に苦しむ心を持った、自分より尊くない人間を避けることに凝っていった。彼にあったのは意固地な一面にとどまらない。相手の求めていることがわかるようでわからない連続の中で苦しんだ。人の、表面的な感情を読むのは得意なのにその難しさに頭を抱えた。人付き合いには判断力が鈍るばかりだった。
家では親の顔色を伺うばかりで、他所では意固地になるのはただの欲求不満の裏返しなんだと自覚していた。
優秀に育った彼はそのままに優秀な学歴と、優秀な会社への就職を遂げるに至る。
人間性の完成は思春期に済ませ、自立心の発達にも支障もなく、大変ハイエンドなエリート人生をスタートさせる。彼の人生に金銭的困窮はない。そのリスクは徹底的なプランニングにより回避してきた。不和のないはずの人生を過ごし、出世し、晴れて定年退職し、不動産も車も手に入れて資産も潤沢な彼が老後に突入するに当たり不安があるのには理由がある。優秀な頭脳には、悩まなくていいことと悩むべきことの違いを判別するのには苦労がない。必要なことだけを考え、必要なことだけを準備し生きてきた。そうして今残ったのは財産の他に何も無い。なにもないことを、仕事を失って気づいた。死ぬことを待つだけの人生が始まったと白倉は捉えたことにより、その事実にあたって震えた。死んでしまえば、気づいてきた全ては水疱に消す。自分だけの財産。その独占には、死後に残る意味など無いからだ。
しかし同時に理解しているのは、しあわせは自己完結に過ぎないことである。
「就職からしばらく、二十代中は仕事に打ち込めた。努力をするのに困らないように、習慣づけに関する教育が私の人生にとって、他の人間に比べいい人生を送るための大事な効果を持ってくれたからな」
「神託を得るとすれば、何についての答えが知りたいですか。今までの話はかなり人生全般の不満足のことなので」
「そうだね」
老人は老人めかしく、皺の深まった両手を摺り合わせながら緩やかな動きで両肘を客席の肘置きに突き立てて、両手指を絡み合わせるようにして顎を乗せる台を作り、首を休ませて思考し始めた。考え事が好きなら質問ぐらい先に考えておいてほしいのだが当然指摘なぞしなかった。
「私は今、ある組織の幹部をしている。全く知らない世間の方からはとてもじゃないが善良には見え難いような教団だ。私は教団の理念と信条を愛し、正しいことと信頼して所属している。名を〝せいほうかい〟と云う。朋に誓う会。誓朋会。私の死に場所。ついてはその教団の目的達成における重要なプロジェクトが近々控えていて、まあほぼ失敗はないんだ。尋ねるなら、達成後の私の心だ。私はその経験から幸福は得られるのか、救われた気持ちになれるのか。そして、遂行にあたりどんな心の準備をしていたらいいかとか」
偏見で悪いが、途端に気味の悪い爺に見えてしまう。
「それはどういった思想なんですか」
「あなたの趣味にはあわないよ、きっと。布教したがるやつもいるが私は相手の感情を尊重する。いいんだ、気にしなくて」
「そのプロジェクトってのはなんですか」
「あなたはできるだけリーディングしてくれればいい」
癪に障ったが言われたとおりにすることとした。
カードのカット中に一枚がジャンピングした。ジャンピングカードは最後に開くことにしているので左の端に避けて置いた。
シャッフルを済ませたカードを今回はギリシャ十字というスプレッドに展開した。現在、目標にあたっての見込まれる障害、見込まれる展開、あたっての解決法、そして結果を十字に並べたカードから読み解く。一枚目、現在のカードより順番にすべて目繰り上げる。
「そうですね、まずひとつとしてそのプロジェクトに対しあなたの中に不信感がありそうですね」
「そのとおり」
「ですよね。恋人の逆です」
絵を指差す。
「この男女は楽園を追放される、所謂かのふたりです。画策したこのプロジェクトに起因した、なにかいやな結果を恐れている、それが障害の位置に出たのはその懸念点が主な問題であるという意味でしょう。とはいえ現在は星が正位置で来ているので希望が強くある。今後の展開としては、そのプロジェクトの過程でなにか教団内の人間関係か、もしくはそれに準ずる人物相関で仲違いが起きうるかも知れません。もしやするとまさにそれがあなたの忌避するその懸念そのものかも。結果はカップの十の逆なのですこぶる最悪になりかねません、障害と結果が同じカップに出てることがかなり恣意的なメッセージに感じます」
ここまで言って、少し脅しすぎているかと思い、立て直す心づもりをした。
「でも心配しすぎることもありません、しっかりと解決法にその対策、というよりも必要な心構えが示されています。信じることです。計画の意義を、自分の信条、ポリシーで以って強く理性的に進めることです。ソードの5は勝利を信条によりもぎ取る意味を持っています。自分を信じて、決断してください」
右下寄りに目が動いてやや力の抜けた表情に揺らいだ心が持ち直すのが見て取れる。
ジャンピングカードをここで開いた。隠者。今回のリーディングに矛盾なく通るカード。
「このカードは内観を示します。とことん言っていますね、あなたがどう思うか、あなたがどうしたいかが何よりの一義です。どうか自信を持ってください。この結果のカードに出た結末は、あなた次第で塗り替えられますから」
私がそう云うと、膝上に置いていた手をテーブルに乗せて軽く握りこぶしを作って、白倉は口角を上げた。
村上
村上との交流は少なからず続いていた。縁が二人を引き寄せるか、二人が会話する機会には困らなかった。 連絡先の交換自体は二人だけじゃない複数人のグループ伝いに成功したが、どこまでいってもたかだかその程度に収まるまでだった。 彼女は真剣に学業を努め、かつ無尽蔵にみえるまでのバイタリティでもってアルバイトにも精を注いでいた。 稲川は全くありがちな形で持って、彼女周りの人間関係に嫉妬をした。彼女と会話する異性の数を見かけるたび数えた。 稲川にも、彼女が自分のものではない理解はできていた。しかし、仕方のないやきもきを持て余し、恋の煩わしさに没頭してしまっていた。 彼女は二子玉川ライズで勤務しているのは本人から聞いていた。足繁くとまでは行かないものの、なにかとライズへ赴く用事を作る努力はしていた。その自分をふと俯瞰して自覚する辟易を伴いながら。 ある日、二人で映画を見に行くことに成功した。 没落していく主人公の波乱な人生を追体験するような映画だった。結果的にその映画は世界的な大ヒットをする。無頼派純文学的な内容で、世間での影響としては主人公の自称を名乗った単独犯による無差別の傷害事件が日本中で流行りかけるぐらいのエネルギーを持った作品だった。 彼女は冷静に主人公を分析した。「さみしい人生の八つ当たりは誰にも許されていいことじゃないと思う。上から目線でも同情をしてあげることはできる、でもあれはあくまで徹底的に悪だよね。あれに感化される若者は珍しくなく現れるだろうけど」
ごめん、わたしこういうふうに考察するの好きだからいっぱい喋っちゃって、彼女が顔を赤らめて伏す。 俺もそういうたちだから、むしろ楽しいと返した。もう観客も出払った上映室に、淡い雰囲気にくるまる二人だけの空間があった。 帰り道、回想しながら胸の熱りを冷ますように呼吸を整わせて、気持ちを伝える覚悟を決めあぐねるばかりの思案をした。
三年生になる頃、交流がめっきり減った。キャンパスでの会話こそあれ遊びに行くこともない、お互い忙しくしていたのでしょうがなかった。
ある日風の噂が届いた。彼女が最近どのような生活をしているのかの近況報告じみた情報。稲川は数人数のコミュニティー内で生活を回している。それに過不足もなにもない。ただ彼女は自分よりも多くの人と関わり、楽しんで遊び、絆を深め合い、努力をし、紛れもないかけがえない青春と人生を生きているらしかった。 そして、彼氏ができたらしい。なんて思うべきか、迷った。彼女はそつがない。可愛い。頑張りやで一所懸命で、清廉潔白で、そりゃそうだ。男がほっとかない。だから構わないと思うべきなんだ。そう思うべきだと信じた。 久しぶりに構内で話した。「彼氏できたってきいたわそう言えば」「いつの話?」「いつ?」どんなつもりで聞き返したのか、意味を懸命に検索した。「え、もしかして情報古い?」「そう、だね。ついこないだ別れた」「……そう」「その人は九ヶ月前に付き合って、あれそう言えばこういう話穂香にはしてなかったもんね」
――――そう。避けていたから。稲川に口説くだけの勇気も言葉もないのだから。彼女にはその壁を突破する勇気と経験がある。端から釣り合ってないんだから。だから、こんないい子に彼氏がいたこともびっくりしちゃいけないんだと信じている。「……嫉妬した?」「え?」「嫉妬した? 私が彼氏いるって知ったとき」 数秒、沈黙、膠着、意を決した。「いや。だって麻耶は可愛いし。むしろ彼氏いないほうがびっくりだと思うよ。むしろ」
彼女は稲川から視線を外して、鞄に手をかけ持ち上げて、そのついでのようにこぼしたきり、構内をあとにした。
「そっか」
そのまま、数ヶ月話す機会はなかった。なんの理由があるでもなく、数ヶ月また会話できなくなった。
本間
「しあわせは不定形ですよ。至極真っ当に捉えると」
本間克典といった。確かにしあわせはありますでしょう、ですがそれはあまりに手の届かないものであって、ついぞつかめずに終いなもんでしかないんですよ、と続けた。
四人のうち唯一の現役大学生の二十一歳である。刈り上がった短髪と強い目つき、若さあふれる血色が生き物としての全盛を物語る。
「きなこさんはどう思われますか」
こうやって私に問いかける声色は天真爛漫が少しおとなしくしてる程度のものに思えるのに、その向こうの悲しさが顔を見せている。だから童貞なのかな、本当なら童貞じゃなくてもおかしくなんかないポテンシャルなのはわかるのに、と勝手に悔しく思わされた。
「僕もそう思うよ」
私はどうせ相手に合わせた言葉しか言わない。なにか、居ても立っても居られない気持ちだった。
彼は幼少期、父が離婚で離れ離れになったあとにすぐ死去した。幼稚園児の頃である。離婚してから、中学に入るまでその後の父のことを聞いておらず、ふと訊いたところもうとっくに亡くなっていると簡単に告げられたという。大した思い出も無かったので悲しむでもなく、そんなもんだろうとだけで終わらせた。
それよりも彼にとって重要だったのは離婚の概要だった。父が周囲と自分との見比べをした結果嫉妬をし、何やら浮気や勝手な金の使い方などと母との相談もなしの行動をしたため当然の帰結的に離婚へ至ったので父のことなんて好きであるわけない。土台父の死なぞ悲しく思えようがなかったのだ。
それからの児童生活では、ベターに片親家庭にありがちな不平不満のありけりな道程にあった。学童保育で仲良くなった子にもやはり片親でない子には失礼な物言いをされたが、育っている環境が違うならしかたないと流した。取るに足らないことに悩むべきじゃないなどという大人でも分かってないやつのほうが多い真理を当時既に心得ていたのだ。
彼はわりかし頭が良かったようだ。事実今も偏差値の高い大学の法学部に在籍している。目標は弁護士でまさに、他の子らとは頭の出来が違う手合だ。
頭の出来が違う彼には、小学校は公立であったから自然頭の出来の玉石混交で目敏く周囲の児童の考えていることを見抜いて気を回していた。苦労なくそれをした。なぜならば、頭の出来が自分より良いのがいなかったと確信できたほど彼が聡明だったからだ。大人びている彼がいつもクラスメイトから委員会や生徒会などの長への推薦をされたが全部拒否して、他の子を推薦してその子をそのポストへ追いやることで面倒事を避けるようにしていた。本当なら受験に有利なので買って出たほうがいいのも理解したうえで、そんなもの成績が上等なら必要でないだろうと選択していたのだ。
スポーツはからっきしだったが、人の話を満足に聞いてあげられた彼は、正味モテる側だったという。だが、精神年齢の乖離がストレスなので異性と交際はしないままだった。彼の経験則では、男性より女性の方がよっぽど精神年齢の低いのを感じるので不愉快が勝つばかりだったという。このへんの話は私も腹立たしく思いながら聞いていた。女性蔑視についてではない。そのことについては私も概ね同意だが、何よりモテるやつが余裕で話しているのが鼻についた。
ちなみに、〝頭の出来がいい〟と言う語句は私の考えたものではなく彼の口から言ったのをそのまま引用している次第なのをご留意いただきたい。
とはいえ、彼の今の純粋な人生の本分に据えた心持ちはほかでもない利他主義だと言った。人のためになることをするのは苦労なくできるのだから、それを甲斐ある形でなおかつ高給でやれるなら万々歳だからだ。つくづく鼻につく男だったが、全てにおいて彼に勝てないので何も言える立場でない。唯一同じなのは、私も童貞である点一つだった。
しあわせになれてないという点も、同じとは言えるが。
だが、不幸せという意味で私と彼とで違うことはその原因だ。彼がしあわせになれていないのは、ほかでもなく彼が頭脳明晰であることにしか見えなかった。しあわせをしあわせでないと言い込めるだけの理屈づくりも、彼には苦労がないから。偏に彼が、頭の出来が違うからでそういなかったのだ。その点に於いては、正直、すっと溜飲が下がったので彼を嫌いな人間にカウントせずにいられた。むしろこういう残念な秀才はなんだか好きなくらいだ。
「君はいい子だね」
「いえいえ、僕よりみんなのほうが偉いんですよ。向いてもないのに生きるのを頑張ってる。僕は得意なことをしているのみです」
「おっとずいぶん高飛車だね」
「はい。むしろ、そりゃそうです」
「どうして」
「救えない人ばっかでしょ。すこしの悪気です」
少し押し黙らざるを得なかった。ちょっとだけ考えて素直に返答することにした。
「正直僕も君と同じ気持ちを覚えることもあったよ」
二十歳そこらはまだ子供だとは私も思う、けどこんな子供じみた悪意を口に出来るのは痛々しかった。
「君はどうして攻撃的な気持ちが強いの」
片眉がクイっと動いて思案する。
「小学生六年生の時、先生に時間って本当は存在してないんじゃないかって言った事があったんです。時間という概念と言葉は人間が解釈しやすいよう、身勝手に便宜上考えついただけのことであって、この世には人間に理解してもらえるように作られたわけでない摂理があるだけで、そう思えば時間は本来ないと伝えたんです。勿論、今よりも言葉も拙い時分ですから考えを上手に伝えられもしなかったろうし、第一今となってみれば子ども特有の哲学であって不毛でした。だからってぞんざいに扱っていいわけないじゃないですか。子供相手なんだから大人は頑張って対応してあげるべきでしたでしょ。それを先生はただ単に偉人の名前を持ち出したり、日常生活での例え話を持ち出したりして、きっぱりと時間はあるんだよと否定したんです。それを受けて僕は、こういう相手の気持を僕と違って慮れないバカ共を救済する方向でものを考えていくことにしたんです」
稚拙な理由に稚拙な野望だね、とツッコミめかしく言ってみると「僕はあなたのことも救いますが」と返ってきた。挑発はやはりするもんじゃない、ピリッと張り詰める空気をして思わされた。
「何をリーディングしてほしい?」
「僕がバカを救うのには何をするべきか、僕がここから何をするべきか教えて下さい」
例によってシャッフルを終える。今回はホースシュースプレッドを選択した。七枚引いてさながら馬の蹄のような構図でカードを展開した。
今回はウィズダムを二枚引いて何にヒントを貰うべきかも訊いた。
「過去に出てるね。女王のペンタクル。頭の出来の違う幼少期ってやつそのまんま。そして現在がソードの二、選択肢に迷っている。問題はここからだね。ペンタクルの騎士の逆位置が近未来に出てる。君は近いうちに能力の不足で自己嫌悪するよ」
「まさか」
「信じないなら占いなんて来るべきじゃなかったな」
「とりあえず聞きます」
「アドバイスカードにはペンタクルの四だから、状況悪化をしないためにも何より大事なのは今ある君の能力、そして自尊心、自信を保つこと。まあ言うまでもないね。君なら心配いらない」
彼はえっへんみたいな面をした。
「ああよかったねえ。周囲の状況はフールの逆だ」
「何なんですか」
「バカばっかが集まるってこと。少なくとも君にとってバカなヤツ」
「それは嬉しい」
「興味深いのは障害にワンドの四が出たことだな。君がこれから見を投じるのは、何か既に基盤の大きく築かれた、おそらくは会社かな、そういったコミュニティーだ。そこが君にとってストレスなんだろうな。結果もワンドのペイジの逆。君は嫌だろうけど、まあ選んだ道はそういう道だからなあ、甘んじて受け入れるしかない」
しゃくりあげるような笑顔をしながら彼は頷いた。分かってますと言っていないだけで言っている顔。
「さて、ヒントを貰いたくてオラクルっていうタロットとは別口の神託も貰ったんだけども、そっちが言うには、おそらく就職先やその他活動など、既になにかもうヒントは君の中にあるな」
「僕の中にですか」
「心当たりがあるけど見て見ぬふりをしてるんじゃない? 友達や、お母さんとか親族のつてとかさ」
「宗教の勧誘なら受けたけど断りました。他に何もありませんよ」
まさかと思って瞬時に尋ねた。
「誓朋会?」
「知ってるんですか」
得体のしれない恐怖を間近に感じて鳥肌がたったけど、いや聞いたことあるから言っただけだよ、奇遇だね、とか濁しておいた。
「まあ、あとは、こっちでも強くメッセージに出てるのは君のやれることを完成させようということ、あとは周りの人の言葉に耳を傾けながら自分のできることを探すことだね」
彼は満面の笑みを崩さないままにこちらをみていた。
「じゃあもう一個訊いていいですか」
「なに」
「僕はこの先、自分の信念を突き通して後悔しないですよね」
私は滅多に使わないのでほったらかしてたエンジェルアンサーを鞄から取り出して、箱からクロスの上に移して、綿密にシャッフルして、一枚引いた。
このカードは質問に対してのイエスかノーかを、他のオラクルカードの比にならないほどありありと突き出す。神の使いたる天使の率直な答えを訊き出すとっておきのカード。
出たカードは面白いくらいに率直に、答えを示していた。
「『YES!』――だってさ」
私が吹き出してしまうのと同時に彼も吹き出していた。
上司
稲川がわざとじゃないというのだからおそらくわざとではないのだろうが、稲川と村上は同じ会社に同期入社した。嬉しい気もするし、煩わしい気もしたし、申し訳ない気もして、とにかくあまり関わることも少ないだろうから、変に執着してると思われまいとだけ覚悟をして勤務に努めた。 財閥グループでありながら〇〇会とやらには属さないらしい末端食品企業。村上は受付業務、稲川は商品企画部門。ただでさえ被刺激性に貧弱な稲川にはすでに恋をしている場合でなくなり、彼女のことはほとんど、顔さえ合わせられれば嬉しい程度の存在となった。 三年もすれば稲川にも後輩ができる。後輩の仲に一際バイタリティのある青年がいた。その後輩、岩村は従順に彼についてくるので、自然稲川にとってもより良い仕事をするための糧になった。
「稲川さん、受付の村上さんと大学一緒だったんですね」「まあ、別にさして仲良かったあれでもないよ」オフィスでの軽い話し相手にも彼は都合よく、お互いの与太話を洒落込む間柄になっていた。仕事を教えながら、また助け合いながら、懸命に働き続けた。
「彼女の作り方ですか」「お前いるんだろ」「いるだけですよ」「俺彼女できたことないもん」「その考え持ってたらやっぱそりゃ出来ないですよ」「なんでよ」「今日び彼女いるのはごく一部じゃないですか。重要なのはデフォルトである彼女出来ない状態で、何ていうんだ、彼女ができるようなスペックを持つ努力? ……をすればいいんじゃないですか」「めんどくせえよそんなの」「じゃ彼女いらないんじゃないですか」「なのかな」
二九歳のときのこと。仰天の報告を岩村から受ける。結婚するとのこと。かけがえのない後輩の幸せに涙ぐむ。ただもう一つ嬉しかった。村上の結婚相手がこのような素晴らしい青年だったのは、彼女にとってとてもいいことだと思ったから。結婚式はこの世界にあるという、〝しあわせ〟のまさにそういった様相を呈していた。 幸福そうな二人をみながら、同時に、まだ自分が村上を好きであるということも心痛しながら理解して、気持ちの所在がわからなかった。
世界中に歴史に残るようなパンデミックが訪れて、二年が経った。緊急事態宣言もまん延防止等措置が終わるなど、芸能人の自殺が相次ぐなど、内閣総理が暗殺されるなどした。その頃は総理暗殺がまだホットな話題だった。出社して少し、朝礼までの余暇。給湯室にて上司とコーヒーを淹れていた。稲川が代わりに淹れようとするのを制して自分で淹れる上司。そういう人としての出来具合に尊敬していた相手だった。
「昨日、日曜だったんでね、僕、早朝から小説読んでたんですよ。公園のベンチで。季節が季節だからもうすっかり明るみだしてるんで読んでられる明るさで。したら猫が寄ってきたから撫でたんです。僕知ってるんです。猫は腰の尻尾の付け根あたりを指でトントンしてやりながら尻を撫で下ろしてやると喜ぶんですよね。そうしてやると、そいつがこちらへ背を向けて、チョット離れた位置で腰おろしたんです。人馴れができてる子だったので十中八九複数人から餌付けをされてるんだろうと思いました。それでも今は、この子の主人になったと思って、なんだか癒やされたんですよ」「休みの日の朝っぱらから何してんだお前は」「それでしばらく眺めてたんです。六時辺りに入ったところで、年配の女性がトートバック携えてきたんですよ。そしたら、あんなに隷属然とした態度で僕を守ってたその子が、僕のことなんか忘れたみたいに女性にとことこ寄ってって、銀の灰皿みたいな小皿に餌をこさえてやるとばくばく食いだして、しまいに僕にもしてくれたように体を擦り寄せて、なんなら僕には見せてくれんかった腹を、うつ伏せになってまで見せて、撫でることを要求して、その人も撫でてやっててね……。あれ、なんであんなにせつなかったのか自分でも不思議でした」「BSSってやつだね」年食った割にそういう手合の言葉もよく知っている人だった。
「かといってその女の人の所有物という訳でもないんだろ。野良猫なんだから。お前のものでもないのと一緒で」「そうでしょう、でもなんだか溜飲がね……。軽く傷つきましたね」「お前あれだな。彼女欲しいんだろ」「ええ、正直」
その上司も独身だった。コーヒーを啜りながら上司が続ける。
「作ればいいだろ」「出会いをこちらから求めなきゃいけないのが億劫で。この歳ですけど、まだ彼女できたことなくて。たかだか出会いの数打ってないからできてないだけなのもわかってるんですけど、よしんばそういう出会いの場で何回もトライしていい感じになる人ゲットしたとて、なんだか、それを求めている気がしなくて。僕気使うの好きじゃないですし、一人のほうが楽で」「付き合うってそんな気苦労がつきまとう面倒さだけの代物じゃないよ。それだけじゃないんだよ、人と付き合うって」
上司の言葉を聞きながら、あなたも独身でしょうに、と思った。稲川はこういった話題においてそのような手合の言葉に対しての反論を常備していた。ここで一つそれを発射した。
「僕の彼女が欲しい理由って、癒やされたいとか、どうにもわがままで相手の気持ちを度外視してる感があるんですよ。だからどうにも、自分は資格がない気がして」
するとそういうことやっぱ言うか、とわかりきっていたようなため息を吐いて――分かんねえよ、そんなこと言われても。と投げやりに耳を掻いた。そうですね、時計を眺めながら返事した。稲川は辟易とした。無知には二種類ある。実践経験の伴わない予備知識のみにしてひけらかす厚顔無恥。そして端から何も知らない無知蒙昧。 我々は後者か、稲川の心に、さも肺胞に黒ずみをもって染み付くヤニのような無力感による病めいた感情が満ちた。
コーヒーを飲み干した稲川、未だずるずると啜る上司に尋ねた。「しあわせってどうやって成るもんなんです?」すると、残った液体を目一杯嚥下し終えて、吐息の末に答えた。「神様が悪いんだよ。幸も不幸も、全部神様の監督責任だよ」
シンクに、空っぽになったカップを置いて手についたコーヒーをハンカチで拭いながら。 朝礼の時間を知らせる音が鳴った。二人してオフィスに戻る。社訓を斉唱する。 稲川はいつも詠唱させられる社訓に一つの不審を感じていた。それは、すべての訓示を詠唱し終わったあとに締めに唱えさせられる文言。さながら祈りのように。
――我々の師範でありながら其の生涯の慈悲深きこと、不憫極まることこの上ない我らが朋の為に、艱難あまねく不埒な世界へせめてもの打倒を誓います――。
比留川
「しあわせなんかないんだよ。わからないやつから順番に不幸になるんだ。わからないやつのために不幸だけがこの世にあるんだよ」
比留川昌と言った。長身の、右小鼻についた大きな疣の目立つ老人だ。口のきき方には気をつけたほうが良いかと訝ったが、存外にも洒落の利く爺で僭上的な振る舞いにも真剣に受け止めてくれる器があった。流石、元詐欺グループリーダーたる風格である。
「俺には少し奇妙なんだ、はたから見ると俺が害悪とはいえ尊敬されないことが。俺がやってきた生き方というのは悪だよ。でもね、ある種の生存能力の極地に思えないか」
「言わんとする意味はわかります。ただ悪は排斥の対象ですよ」
「排斥するのは当然だ、そうするべきだ。でも、俺は上手に生きたろう? 君たちにはできなかっただけで、上手に生きたろう? それを称える気持ちはないのか」
「捕まったんでしょ」
「そうだよ」
「じゃあ上手じゃないんじゃないですか」
「出所してから路頭に迷えば確かに下手打って落ちこぼれた下手くその仲間になる、けど、俺は今悠々生きられている。他ならぬ俺自身の力だよ。よくしてやったやつが手助けしてくれる、力があるうちに人の助けになることは未来の自分への投資だよ」
比留川は三十代のとき証券関連雑誌を販売する会社の社長だった。自分の雑誌で推奨した株式を自らがその価値を釣り上げるいわゆる仕手戦を行い、預り金として大金を読者から巻き上げ十倍まで融資を請け負うと保証すると嘯き、それをほぼ着服した。九十年代初頭よりこの活動を始めている。手口には元ネタがあり事情に詳しければ、模倣した犯罪であることは明白だった。彼はこれにひっかかる愚鈍はどうせ多いと踏み、まんまと金を稼いだ。逮捕されたのは一九九四年。四〇歳のことだった。
「幹部に裏切られた。俺は元来仲間を含めた誰しもに嫌われる質でな。それでも今も俺を助けるうぶな養分も居る。要はな、取り付く島が必要なんだ、無能には。俺のような有能が居てくれなくては。そうだろ? お前みたいに、一人でもやりたい仕事に着手しなんとか生きるだけの勇気が要るんだ、無能には。でもみんながみんな勇気を持てるわけでない。どうにも自ずから道を切り開くのが向かない手合を救う、俺のような必要悪もある。ここのところ、死の近づく匂いがしてからは自分の存在意義を考えてしまうんだ」
肬を人差し指で撫でる。
「誓朋会ってきいたことあるか?」
私は、反射的に肺が伸縮して、ほ、と、は、の間ぐらいの声が出た。またそれだ。
「誓朋会って何なんですか」
比留川はにこにことしながら、ここまでの感とは変わってやけに優しい口調で答えた。
「正式名称は――我々の師範でありながら其の生涯の慈悲深きこと、不憫極まることこの上ない我らが朋の為に、艱難あまねく不埒な世界へせめてもの打倒を誓う会――かっけえだろ」
すらすらと暗唱したので恐らく相当の暗記作業を行ったのが伺えた。だせえよ、と答えるより「それはいったいなんの集団なんですか」と話を膨らませた。
「社会への復讐が目的だ。朋ってのが誰かわかるか」
「わかるわけないでしょ」
「ベルフェゴールだ。タロット好きならキリスト教も好きだろ」
にわかなのでよくは知らない、ただなんとなくは好みであるので、恥ずかしくて、ま、と一文字だけで頷いた。
「元はモアブ人が信仰していた只の神様だった。モーセに連れられたイスラエルの民たちはパレスチナに向かう道中でモアブに訪れた。モアブ人は客人であるイスラエルの民たちを手厚く歓迎したそうだよ。そして、自分たちが信仰している神様のお祭りに彼らを参加させた。それをヤーハウェが怒った。参加したイスラエルの民たちの処刑をモーセに命令し、なおかつ疫病を齎し、自分だけが世界の主であることを知らしめた。死んだ人数は、二万人。当時からすればその数は尋常でない災害であるだろうことは想像に難くないな」
好きな映画の話でもしているみたいに情報を垂れ流してくるが、私には神話然とし過ぎていて頭に入りづらかった。
「祭事には性交もふくまれていた。モアブの信仰で、大地への感謝を女体を用いて捧げるために。そこから転じ、ベルフェゴールは色欲の悪魔と呼ばれる。悪魔としての名前、ベルフェゴールの意味は人間嫌いだよ。なあ、なんかこういうのって面白いよな」
「わかります」
やっぱにわかだ、別に面白くねえ。
「共感するだろ? お前も向いてるだろ。うちは救えそうな人間はなるべく救う代わりに、救えない人間は罰する。今の内にお前も入信したらどうだ」
「しないです」
スプレッドは例に依ってギリシャ十字。質問は自分の存在意義を全うした働きを教団で行えるか。白倉と半ばかぶるのは、両者ともほぼ終活のように教団での仕事を捉えているからであろう。
一枚カードがジャンプした。カップの五。
「あなたは不幸を以て手にしたいものを得ることができるでしょう」
「不幸? 具体的には?」
「あなたのなかで心当たりは」
ヨークシャーテリアみたいに首を振る。
「まあなんにせよ問題ではなさそうですね。現在理性的で、やる気も責任感もムンムンです」
ソードのキングを指差す。
「この絵俺に似てるな」
「そうですね。しかし障害はそれに起因しそうです」
ワンドの六、逆位置。
「なぜ」
「リーダーシップを取るにあたり失敗がありそうってだけです。あなたには難しい障害ではなさそうですが」
「まさにそういう理由で失敗した過去はあるがな」
「確かに、もう一回あったらキツイか」
少し笑って言うと、眉をしかめられた。
「しかし力のカードが出ています。あなたはこれを受容し良い方向に持っていける。やはりさしたる問題ではないみたいだ。アドバイスではソードの四です。絵を見れば分かる通り。気負わず自分のペースに、疲れれば休めば良いし、悩むならゆっくり休養すればいいアイデアも浮かびます。すこぶる運命に愛されていますね。あなたの望むように展開は運ばれるんじゃないですか」
「なあ」
「はい」
「客舐めんのは違うだろ」
比留川を見やる己が顔をなるべく動かさないようにした。言葉に迷う。自然少しにらみ合う形になる。まあいいやとスプレッドに視線を置いた。
「続けます。結果は恋人の逆位置です。失恋と言う意味じゃないですよ」
「馬鹿にしてるのか」
「この場合は選択の行く末を表します。簡単に言えば、あなたは結果としては選択の末に失敗をします。けれど心配は要りません。あなたがこの不幸の先で本当に得たかったものを得ることは、ジャンピングカードが教えてくれました。重要なのはそれですから」
比留川は上半身の力を抜いた軽い前傾の姿勢でこちらを覗いている。
「以上ですが」
「ああそう」
言って刹那金をテーブルに置いて去っていった。
川崎潰爛
八月二十日。猛暑の月曜日だった。
稲川は出勤の満員電車で、蒸し暑い密閉空間の中岩村が憎いのを本当の気持ちとして自覚する。そんな懐の浅く、気も利かない自分の弱さ。並びにぎゅうぎゅう詰めの息苦しさで吐きそうになりながら。
何気なくあたりを見回す。二年前のパンデミックが嘘だったような景色である。さして時の経っていない割に社会の浄化作用が随分強力に働いたものだ。今と昔のはざま、たった数年だけ日本の朝の電車が比較的すっからかんだった期間があるのが不思議に思う。
また同時に、不用心だとも訝しんだ。インフルもそうだったけれど、撲滅したわけでもないのにまたこうやって温床を作るんだから、何かしら、共生関係を結んでいる可能性さえ感じた。
葛根湯ならあるよ、稲川が鞄から取り出す。
「すいません、急にこの頃風邪っぽくて」
勘弁しろよ――そう言うと岩村は小さくすいませんと頭を下げた。
「奥さんも働いてるわけだから。これからこそ体に気をつけろよ」
意識の低い後輩に辟易とする。近くで咳をされると気が散るから稲川は嫌った。
ところがその日は其処此処よりごほごほと咳き込む声が聞こえた。
「流行ってるよな、風邪」
「ええ、最近はやけに」
岩村がタイピングしながら相槌を打ってくれているのだが、ついでにやたら首や体を掻いている。そういった多動的な癖のある向きではない。
「なんですかね、すげえ痒いんですよね。体調崩す前くらいから」
「ダニじゃない」
「どうすかね、妻が家綺麗にしてくれてるし、むくんでるとかでもないし」
喋りながら絶えず掻き毟る。なんだか病めいている。寄生虫の仕業を疑わざるを得ない、忌避感から席を立った。
喫煙所を目指して歩いていると、マスクを付けているのが随分目立った。今日から始まったのでなく八月に入ってからだ。
なんとなくその群衆を観察してみると、一様に同じ症状を持っているようだった。シャツをまくった腕を掻く者。うなじを掻く者、背中を掻く者。胸騒ぎがした。
八月二十五日。出社。電車は満員ではなかった。散在するスーツ姿も、みなマスクを付けている。女性の割合が少ない。オフィスも不自然なまでの閑散。朝に久々にニュースを見ると、川崎市にて原因不明の感冒の流行が報じられていた。患者数が川崎市住民の五割を超えていた。思い出さずには居られない、二年前。ところが件のウィルスとの関連性がないことが発覚した。新型発生の証左であった。日本中に緊張が走っている。ロックダウンをするべきだと主張する声が上がるが政府は慎重だった。
惨劇の余韻冷めやらぬままのこの期に及び、及び腰の政府への不信感が、陰謀論者を駆り立てていた。確かに今の状況でこれは訝るのもやむ無しだがインターネット糖質の仲間に思われるのが癪なので稲川は何の気も無いよう装った。
「調べたか? 此度のウィルスで死人はまだ出ていないの」
「ええ、知ってますけど」
「おかしいと思わないか? さながら人為的な」
上司の話は聞き流すことを選択した。
この人も陰謀論者であることにがっかりした。給湯室へ彼は向かっていった。
少し時間が経つ。まだ始業時間でないが、こんなにも自分と上司以外出社して来なければいよいよおかしい。しかし、一人が執務室に入って来た。
顔中に、火傷痕のような、もしくは切り裂かれたような生傷がまばらにある。その手は包帯をして。マスクをしているのに、顔がただれてしまっているのがすっかりわかった。息をすると苦しげにあえぎ、相変わらず、むしろ以前よりも病的に体を頻りに掻いて。それなのに痩せ我慢全開に、せめて掻かまいと体を震わせながら稲川の隣のデスクに座る。つまり岩村である。まずなんて声をかけるべきか迷った。迷った末に口にした。
「いやまだ休んでていいだろ」
いや、むしろ入院しとけよ、って言うべきだったか、いや違うか。救急車呼ぼうが人として筋か。正解を探して逡巡した。
「妻が、妻が拐われた」
「は」
「会社に連れ去ったって、奴らが……警察にはあしらわれた、俺の名を聞いて、ざまあみろだと」
稲川、あまりのバッドユーモアに失笑を溢さずにいられない。
「今日の計画的に俺の居る会社に一旦連れてこいって言ったんだ。俺がチーフだから」
いつから居たか、上司が平然と冗談に乗るが尚つまらない。
風邪のせいでこうなったのか? ただの風邪で人がこうなるか? やはり二年前を想起する。
上司はウケてもないのにカブセを続けた
「人は嘘ばかりつく。お前も嫌な嘘をつかれてきた質だろ。俺が敬愛する朋もそうだった。彼と言うか彼女というのか知らんが、その純な実態なんて後世の言い伝えに凡そ埋もれて消え失せた。元々が神様であっただとか関係なく、信仰という嘘から生まれた朋は、後世による嘘の上書きで今悪魔と呼ばれている。それとは別に存在しているものがある。それは俺達だ。お前を含めた人類全員だ。存在する俺達でさえもベルフェゴールのように、本来ならあるべきだった人生を他者の干渉で不本意な代物にすげ替えられている。だから我々は、我々の手で粛清する。それこそが此度の施しの正体、川崎を爆心地に、ニュー・エルサレムを開闢する」
当然、稲川には全く意味が分かっていない。
「八時四十四分、残り一分。――街に死体があふれるぞ」
岩村が机に突っ伏しだして吐血した。――マスクは血痰で汚れた。途端に体中を悪魔憑きの如く掻き乱して悶えだした。血しぶきが小さく吹く、首から、額から、唇から。爪が朱く滲む。顎に力が入りすぎているのか血が歯茎より溢れていた。動物の鳴き声が執務室に満ちる。
上司の言葉が狂言でないかもしれないので稲川はしっかり聞き入ることに決める。
「お前はこっち側だよ。こうならないから安心してよ」
突然のスプラッターが始まって、数十秒ほどくらい。四十五分にはいたらない。
八時四十四分、かく言う私は件のスプラッターを登戸に見ていた。その日は早朝から何故にどいつもこいつも症候が著しくなっているのに私は気づいていた。それに出勤者もやけに少なかった。予感した不気味な気配はすぐに現象として現れた。頭や身体を、スーツを脱いでまで掻き乱す群衆。女も男も、私服の老若男女。制服姿も。みながまず発狂と吐血と、失禁、デッキの上も、改札前も。
だが不思議に、私は何も起きなかった。痛くも痒くもない。唖然しかない。心を同じくしたような、事態に狼狽した様子の者が比較的半狂乱の乏しい国道沿いに逃げて集まった。健常者側も老若男女いるがわりかし男が多かった。少しいるババアや子どもや若い女が泣きわめいたりえずいたりしていて、男は基本呆けてしまっているばかりでいた。
八時四五分、登戸駅周辺に血飛沫で満ちた。ちょうど四五分になった瞬間、発狂者にさらなる変化が起こったのだ。
地面に横になった人間が、一度動きを止めたかと思うと、タイミングを合わせたかのように感電し始めた。激しい痙攣とともに強く噛み閉まった歯の間から、唇の間から、耳から、目から、指や、生々しい傷口から、鮮血が弾けて吹き出した。叫喚を伴う。健常者の誰しももまた叫喚。のたうち回る発狂者も叫喚。花火大会みたいだった。
失血に次ぐ失血、なのに、終わらない。叫喚が終わらない。発狂者たちがこんなにも血をあげているのに、どれくらいの分数そうしていたのか知れないが、死なないのだ。察するに、なるべく失血死を遅らせんばかりに調整して、死なない程度に痛めつけられているわけだ。
デッキ上から、全身白スーツの集団がやってきているのを一人の泣きわめきババアが発見して知らせてくれた。道路に真っ白の車が何台も乗り付けて、全身白スーツがぞろぞろと降りてくる。先頭に停まった車から降りてきたジジイがこの集団のボスであることは、周りの有象無象の白スーツがフォーメーション組んでそいつを囲んでいることで伺い知れる。救急車を呼ぶような働き者が今思うと一人も居なかったのを今となって思えば、つまり厳選された集まりであることの証左であったと回想する。
人気のないロータリーに教壇みたいな台とスピーカー、マイクを用意し横並びに整列したので、我々がとにかくその眼前に一纏まりになった。自然発狂者を避けながら集う。
ボスジジイがマイクを握った。
「お待たせいたしました。ここまでの人生、大変良く堪えてきました。我々があなたたちを救います」
地面にのたうち回っている奴らのことを言っているのでなく、我々に対して言っている。白スーツたちは一つも発狂者たちに目もくれていなかった。と言っても白というべきか、もはや白と朱のツートンカラーと言うべきか思案の余地がある。
「私達は誓朋会です。あなた達をこれから川崎駅へお連れします。そこでまず洗礼を受けていただき誓朋会への入会をします。それがあなた達における新聖地」
間を置く。
「ニュー・エルサレムへの切符であります」
私達はこのまま車に乗せられて川崎駅に向かった。出発時刻は九時丁度。依然地獄の中で死者は居ないようなのは、花火大会が終わるのを見届けられなかったことから察した。
岩村は絨毯に転げ回りなら血反吐を吐き散らして、耳から血しぶきを噴出して絶叫していた。目がまるで、赤い玉に黒いおはじきがくっついてるみたい、と稲川は静観していた。
戸が開いた。酷く肥満な白スーツの男が入ってきた。
「旦那はどこです。僕殺してもいいですか」
上司はすっと彼を指さした。
「殺しておきます。僕に殺させてください」
白スーツ男は、まだプラスチックに放送された状態の新品の包丁を懐から取り出す。
開封して、ゴミを律儀にゴミ箱に捨てている。
「ちょっと待て、いちいちとどめを刺す意味があるのか」
稲川の感覚としては、わざわざ殺すのは無粋なのでは、という考えから指摘したらしい。その問いに上司が手でいなすかのように答えた。
「殺したければ殺していいの」
白スーツが岩村を間近に見下ろす。両手で強く包丁を握る。四つん這いの姿勢で口から出ようとするものを全部出さんとする岩村の、無防備な背へ照準を合わせて振り上げた。そのまま突き下ろせばぶっ刺さる塩梅だ。
殺せ赤荻、上司の掛け声に合わせて突き降ろさんとした刹那、岩村が機敏に動いた。かっと白スーツを見上げたかと思うと足に蹴りを入れ、それでよろけたのを見計らい、瞬時の立ち上がりしなに体当たり。白スーツのぶっ飛んだ先に観葉植物があり尻からぶち当たったことで鉢を破壊、情けなく呻く。包丁は手放してしまい宙を舞って絨毯に落っこちた。土まみれになるも気にする余裕なく辛うじて立ち上がるも、そこに岩村が飛びかかってぶん殴った。二人して植木鉢の瓦礫に飛び込む格好になり、取っ組み合った末、白スーツが大きな叫び声を上げて白目をむいた。岩村が包丁を土手っ腹に突き刺したのだ。より一層ねじ込むと血を吐いて白スーツは動かなくなった。岩村はゆっくりと離れる。刺したままにしたので空手である。
格闘によるアドレナリンが症状を緩和している様子で、耳垂れのような血の噴出と鼻血を絶やさない程度に収まり、妻をどうする気だ、と上司に啖呵切った。真面目に上司の長話を清聴していたらしい。上司はこれを受けて自然体でいた。
岩村は切れ切れにモガモガ、ブクブク、朱殷の反吐を噴きながら、それでもツラを上げ続けた。
「お前らが新聖地で死ぬのは当たり前なので贖罪には及ばない。お前の妻が、死すべき側全員の罪を背負って磔になるという体を取るのは、我々の温情だ」
もう一吹き血を吐いて岩村はついに床に倒れ込んでしまった。
それから一分ほど動けなかった稲川だったが、恐る恐る岩村の頭を持ち上げて表情を見た。目のかっ開いたまま。あぶくが溶けかけの肉を伝って落ちていく。顔が溶け始めていた。じりじりと唐揚げを揚げるような音がしている。
当然だが人間が死ぬのを見たのは初めてだし、こんな死に様がこの世にあることを想像し得なかった。岩村の見たことのない顔、自身の人生では出せたことのない多大な勇気の末路、自分にはない勇気があった男の顔は今死んだあとの壮絶しかない。岩村が何かを間違えていたのか、疑問を覚えた。
白スーツの死体に近寄る。なにか唐揚げの音以外に音がすることに気づいたからだ。そっと顔を近づけるとやはり、仰向けに放られた遺体から音がする。ピー、ピー、ピー。なんだか駐車場で聞くような音。
出どころが分かった。手のひらに丸い銀色の球が埋まっている。何かしらの機械であることが知れる、それがアラートを鳴らしているのだ。
「稲川」
上司の一声に振り返る。鞄を手に取っている。出かける支度をしている。
「行くよ。稲川」
稲川が白スーツの腹から包丁を引き抜いたのを上司は気づかなかった。
私は川崎アトレの駐車場に降ろされ、改札前まで連行された。そこには様々な、硫酸で溶かされたみたいな様相の死体のほか、私と同じ立場と思しき数百人の人間が密集し整列させられており、時計台横に設けられた運動会の来賓席みたいなテント――私が登戸に設置したのに似ている――の下に白スーツの誓朋会会員の集まりが居た。
そのうちの一人には神奈川県知事が居た。政治が絡んでいるようだ。白倉の顔もあった。県知事と白倉は誓朋会において立場が同じの幹部であることが様子から伺えた。
白倉が集められた群衆に向け、拡声器を用いバプテスマの開始を宣言した。
誓朋会テントから見て隊列の右手前側の人間から順番に、テント下に置かれたパーテーションでこちらから見えない具合の場所に順番に連れられる。そこでドリルのような機械音と物が柔らかく裂き弾けるような音、そこに連れられた者の絶叫がリピテーションに聞こえて何が起きているかわからなかったが、とかく嫌な予感だけした。
一時間ほどそれが続き、ついに私もパーテーションの入口前までくるよう指示された。会社や学校の健康診断のように前の番の者は手前に待機させられる。そのことで中の人間がなんの処置を受けているのかようやく知れた。
手のひらに、貫通しない程度の丸い穴をこじ開けられ、そこに銀の球体をはめ込み、縫合が終わるとその手を作業台に押さえつけられ、なにかリモコンを向けられる。そうしてボタンが押されると銀の球体の中央に備え付けられた赤いランプがぴかぴかと点滅し、その確認が済むとパーテーションから開放される手筈であった。無論、そんなことを行っているわけなので、屠殺場が如き血と肉片の惨劇がそこにあるのだがこれを見せないようパーテーションで隠してパニックにならぬよう対策していたわけだ。
これを見届けたということは、ついに私の番が回ってきたということでもあった。固唾をのむ。
「彼は私に預けさせてくれ」
白倉が言うと私は白倉に連れられその場から離された。
背中を追って移動した先は東口の向こう、川崎アゼリア入口近くの喫煙所だった。
取り巻きも居ない完全な二人きりなのは白倉自身がそれを確認してくれたことで確定した。
「君はしあわせをどう考える」
問われた。私も丁度待機時それを考えていた。少し考えて答えた。
「帰属が必要に思います」
こんな回答で良かったですかと訊いたら続けてみてと催促された。
「しあわせってのを目上の人がよく、蜃気楼みたいなものにたとえるじゃないですか。私は最近まで意味がわかりませんでした。ピンと来なかったんです。存在が疑わしいみたいな言い草に納得できませんでした。しかし今はたくさんの人間の不幸に触れたんです、するとなにか、分かったような気がして。占ってやった一人の少年が言ってたんです、在るけど掴めないものであるって。じゃあなぜ掴めないのかを彼は教えてくれませんでした。私が思うにしあわせの正体に最も近しい観念こそ彼の提言ですが、重要なのはこの不明ななぜの部分です」
タバコを差し出してきたので貰った。一吸いして再開する。
「正解は恐らく、手を伸ばせば伸ばすほどしあわせの方から距離を取るってだけなんです。寸での間隔を保って、必ず手が届きそうな風に見せて必ず触れさせないよう向こうが避けるだけなんです。それをわからない馬鹿から先に不幸になるんです。不幸という言葉は、しあわせに欺かれた人間たちの悲しみの形容詞だったんです。そうやって人は鬱になる、意地悪な不条理を我々は生かされています。その中で、不幸を紛らわせるには薬が必要。それが帰属。社会性をもった動物にある我々人間において最上の安心だからです。帰属という鎮痛剤を服薬しながらしあわせを追って死ぬばかりなんです。ところが、しあわせに背を向ける態度を取る人間も居ます。今できることに一所懸命になって、ついぞ見返りを求めない人の背にしあわせは抱きついてきます」
言葉に詰まる。ただこの件について語りきりたかったのだが、諦めて口をつぐんだ。
「君は、生きるに相応しいから今生きている。今朝すでに始まったのにまだ生きている人間は、我々誓朋会か、適合者か、特別に生かしただけかのいずれか。君は生きていいんだ。我々が君という命を歓迎し祝福する。だけど、君はそれを望んではいるかな」
白倉がタバコを捨てる。半分も吸っていないのに。
「好きにすると良い」
「どういうことですか」
「君は入会しなくていい」
「あなたの立場でどうしてそう言うんです?」
「君のしあわせの邪魔をしたくないと思ったからだ」
私もタバコを捨てた。白倉がスーツのポケットに手を突っ込む。
「あの」
「なんだ。早くいきなさい」
「いや、その仕事。見届けてみてもいいですか」
白倉は瞼がめくれ上がるほど黒目をあらわにしたが、すぐに閉じて、ちょっと歯を見せるぐらいに頬をほころばせて、おいで。と手招きして歩き出した。
ラゾーナの広場に人間がごった返していた。クイーンのウェンブリースタジアムでのライブ映像みたいに、建設されたステージに大きなスピーカーと、舞台横に楽屋前としたこれまたテントがあって、それに向かう形で群衆が詰め切っていた。
上の階、プロムナードデッキはキャットウォーク代わりか白スーツがたくさん居た。ステージ前ではベルトパーテーションを用いて湾状の広いスペースが設けられていた。
私は扇状で雑多に集められた群衆の最後列でステージを見やっていた。異様な静粛が仰々しかった。白倉はプロムナードの、JINSの入口前辺りに椅子を設けて数人の側近と広場を見渡していた。
異様な空間で、最も異様に存在していたのは二つ。パーテーションの内側に鎮座しているカブトムシだった。見る限り風体は日本原産カブトムシのオスなのだが、とても大きかった。体高が成人男性二人の肩車くらいか、体長は角を含めてハイエースくらいだった。目玉がATMの監視カメラみたいだったし、口周りのヒゲや体毛はデッキブラシに使えそうな風だった。そしてそのカブトムシの眼前で設えられた、公園の鉄棒を膨張させて大きくしたようなものに麻縄が二つくくりつけられバンザイの形で両手首を縛られた女性だった。私は遠くからだったので顔はよく見えなかった。抵抗する素振りも見えないほど疲弊しているのにはなんとなく察せたあの女性は、稲川に聞くとなんと村上摩耶だったらしい。群衆が息を呑んで、身動きの取れない村上の背後をカブトムシが待機している状態を見守っていた。
カブトムシが動いた。火打ち石を想起する音で節が鳴って、まさに昆虫そのもの、昆虫千といった三対の足が広場の土を掘りながら歩み始める。当然だが群衆はみっともなく慄き男ばかりなのが情けないようなどよめきで人混みを波打たせた。やはり目当てはあの女のようでこれから起こり得そうな事柄を各々が発想して息に代わって今度は固唾を呑む。
これから起こることクイズにほぼ等しいこの状況でいろんな予想が出ただろうが確定で最悪な正解が発表された。前足が鉄棒の上に乗り懸垂の要領で巨体を持ち上げるやいなや、私はかれこれ小学生の時育てたカブトムシのそれ以来に見たが、突き上げんばかりの勃起をした。おぞましいまでの黒光りと冷たい装甲感に哺乳類が相手するにはあまりにも無理な現実を思いやられた。途端、トラメガでひずんだ白倉の声が広場に響く。「三メートルあります」わざわざ伝えるべきことかは疑わしかった。しかしそれを踏まえてしっかり見てみれば、そういう育ちすぎた巨大茄子にも最大体長のアミメニシキヘビを真っ黒にしたのにも似ていた。そういうサイズ感の交尾器を、村上の華奢な体越しにちらつかせていた。
そしてやはり、いれた。みんなが声を上げた。歓声や悲鳴や怒号や、何にせよ盛り上がっていた。こちらから見ていて、彼女の事務服のスカートの下からまさぐるような挿入をしたのでしっかりとした性交に見えた。しかしまともに挿入したわけでないのは喉元から交尾器が肉骨ぶち抜いて顔を見せたことに明白だった。昆虫の其れと言った素早さで彼女の胴から交尾器を引き抜くと、もう一度差し入れてまた喉から、人間で言う亀頭の相似器官が覗く。これを繰り返す最中、足で肉体を強固に掴み続けた。途端に轟音が鳴った。ドゥッ、入道雲が上がったのかと思った。それは一筋の射精だった。本流の一筋のほかミスト状にぶち撒けられたのもあったから最前で見とれていたり慄いていたりの集団は朱殷と白濁で塗れていた。
トラメガの声。
「十七リットルあります」
しらねえよ、と思った。
射精から十数秒を静止し、用が済んだのに萎れないままの交尾器に村上を挿したまま、拘束具から怪力で引き離してステージ横に設えられた楽屋用のテントに拐っていった。みっともない騒然が空間に取り残された。
ステージ上手側から真っ青なスーツが出てきた。ツーブロックで三十路辺りの青年。マイク片手にセンターへ躍り出た。
「代表です」
遅れて比留川が下手側、白倉が上手側から斜め後ろ二歩程度の距離に侍った。
私、我々の師範でありながら其の生涯の慈悲深きこと、不憫極まる我らが朋の為に、艱難あまねく不埒な世界へせめてもの打倒を誓う会代表を務めております。大変お恥ずかしい限りですが私の名前を発表することは控えさせていただきます。些か不躾かとは存じますがこれで挨拶とかえさせて頂きます。
ま、挨拶を簡単に済ませてしまいましたが、しかしこれと言って急いで入るような大した本題もございません。皆さんの前にこうして登壇させていただいたのは、この聖地の開闢をしたのは誰なのか、そしてその人間が信用に足るのか否か。それを皆さんに踏まえていただきたかったからに相違ありません。
まず私は童貞です。みなさんは童貞と処女の集まりです。それ以外は全員今朝に皆殺しました。弊会がコネを持っている様々な企業・グループに作って頂いたエレクトロキュートウィルスに依ります。
ウィルスは今年三月に東京・神奈川を爆心地にJR東日本系の全車両に散布されました。国民が風邪を引きやすい季節にかこつけて、風邪を引きやすいよう調節した空調から皆さんの体内へ配っていきました。Eウィルスは健気にこの日まで発病を待ち続け、患者が生きるべきか否かを淡々と判別していました。川崎は死ぬべき人間の方が多いと言って差し支えがありませんでしょう、故以て、誓朋会の本拠地は川崎に据えております。これから先日本では此度の事件についての報道は我々のお願いにより規制されます。ただ粛々と感染拡大を続けていくことになります。
大事なのはそんな能書きじゃありませんね。我々が何を可能に、そして何を不可能にしたかです。非常に簡単です。人殺しの可能としあわせの不可能です。皆さんの手のひらに埋まったマシンは殺意に反応します。これで殺意の見える化が出来ます。これを鳴らしている間は殺人可能状態になります。逆に鳴らしてもないのに人を殺した場合、例えば事故であっても、不慮の殺害犯を処刑します。当たり前です。殺されたくない場合は、あなたもアラートを鳴らせばあいこの形になるわけで、この場合私を介して、ようは裁判です。どちらの殺意が正当か見極める仕事を責任持ってやらせていただきます。とすると、私だけに特権があることになるわけですけども私はなんの思惑もありません。皆さんのための新聖地の王になることは私にとってしあわせではありません。ほんとうならこの役を誰かに譲りたいくらいですが、誰もやらない。必要だから私が買って出ているに過ぎません。
そしてしあわせの不可能ですが、今日より以てウィルスはしあわせに反応してすぐに殺すようになりました。群れから頭抜けることがもう聖地ではありえません。ここにいる皆さんの中からもこれからしあわせを見出す者が現れるかもしれませんが、出たら勝手に死にます。死体は会員が責任を持って処理します。向こう数カ月は死臭を我慢していただけたら助かります。
要はこれを新聖地と呼びます。
ピーーーーっ。ピーーーーっ。
群衆の最前からアラートがひとつ分鳴り始めた。代表が閉口した。そして微笑む。
「誰だよ」似つかわぬ若い言葉が飛び出した。
音源の青年から人々が離れ円形のスポットを作った。音源は、本間だった。
「ああー、ああー。良いよもう。お前の話を聞いててお前がしあわせになれなかった理由が分かった。一つだけだ。しあわせになることを諦めたんだ。しあわせはたったひとりだけでなり得ることじゃないと知れなかったことなんだ。ただのそれだけなんだ。卑怯にも開き直って地団駄踏んでるだけのてめえと、この俺を一緒にすんなよクソッタレが」
獰猛に歯を見せる勢い。しかし裏腹にウィルスが身肌を溶かしだしている。
「どうしてそう思うの」
代表の質問に冷笑の感は無い。
「俺は俺だけが聖地にふさわしいと思ってる。その点ではお前と同じ排斥主義だよ。けど違う。お前を見ていてムカつくのは、他者との繋がりに限りを作ることで安寧を作る狡さだ! カッコわりい、キモチわりい」
「君が俺を排斥したいと思うならそうしてご覧。俺は君を肯定する」
「そうやって俺からも嫌われないようにして!」
「そうだね」
「そうだねじゃねえよ!」
「いいやそうだねだよ。君の憤りも君の心にしてみれば正しい、だから君の聖地も用意されなくちゃいけない。でも俺は自分の聖地を作るのに精一杯だから君は自分の手で新聖地を作るんだ。その時、俺を殺す必要がもし出たら、俺は自分の聖地を守るために正々堂々戦うよ」
「俺のしあわせごと救える訳でもねえのに代表名乗ってんのかよ」
「そうだね」自嘲的に微笑みながら答える。
本間からグツグツと煮込むような音がして、尚強まる。
「俺は、全部を救うつもりだ。どんな間抜けも、ヤリチンもヤリマンも、素晴らしい父も母も、男児も女児も、ジジイもババアも、こんな無能なてめえも。俺が救う。もっとしあわせを配ってやる。それが俺にできる最後の世界への暴力だからな! てめえも首洗って、俺に救われるのを震えながら待ってろ、このみっともねえクソ童貞がよ」
言い終わるやいなや、エレクトロキュートの発作を起こして周囲全体を真っ赤に染め顔面から血溜まりへ突っ伏した。代表はさしたる反応もなかった。
すると、群衆の中にも数人かが後追いするように同じくアラートを鳴らし感電死した。私はこの頃には人が死ぬのに驚かなくなっていた。
膠着が現場を縛っていた。何も起きず本間の亡骸を纏う人の目が有っただけだった一分ほど、この間の代表はスピーチを取りやめにし、袖の会員が白倉へ運びステージ中央に置かれたパイプ椅子に座った。
男が一人動きを見せた。男は村上の血溜まりの前に佇み、周囲はなにげに注目した。無言。泣き伏すもなく静かに居た。稲川である。
稲川はくるりと全体を見回すと足元に視線を一度落とし、今度は代表を一瞥。背丈ほどのステージをよじ登り眼前に躍り出た。続いての挑戦者の登壇。ここで私は気付いたが、今回の催しに警備が居ない。一つもこれを想定していなかったようだし、こうした状況にもかかわらず誰も近寄らない。稲川が口火を切る。
「傲慢きちが」
応えんと椅子から立ち上がる。
「君もそうだし、私も傲慢きちだよ。だから着いてきて欲しい。傲慢きちでいて当たり前の世界にしよう」
「これじゃ、お前らは病気だよ。こんなのは間違ってるよ」
「我々を病気にしたのは誰だと思う。君を病気にしたのは誰だと思う」
「俺は病気かも知れない。けどそれを相手のせいには出来ない。俺は、きっと俺のせいだ」
「君のせいと社会が責任を強いているだけだ」
「社会が俺に強いたのは、人を愛することと、人に取り入ること。俺は苦手だっただけで、必要なんだよ」
「君が愛を語るか」
「俺は愛を尊ぶ。正しいのは愛だ。いつだって愛だ。それを取り扱えない俺が不出来なだけだ」
「人に愛してると伝えるのをきっと練習してきたんだな。君は伝えてもらえたか? 君が愛した人は、君を愛したのか?」
「愛してるを言ってもらいたかった。憎しみは単純だから良いよな。難しくなくて。だけど、愛をかなぐり捨てるのはイヤだ」
稲川が包丁をぐっと握り込む。
「でもそれだと、君じゃしあわせになれないじゃないか」
「いい、そんなの」
しびれを切らしたように問う。
「教えてご覧、どうしたいの」
「叶うなら俺は、世界でいちばん愛してるを伝えるのが上手い童貞になりたい」
そう言うと、走り込み、体重を乗せて左腹部に包丁を差し込んだ。稲川は睨み続けて更にねじり込まんと努力を辞めなかった。対して、一切の抵抗をみせない格好には代表なりの祝福があるように見えた。見飽きたものだが、血を口から吹く。腹部が赤く濡れる。
「俺を今受け入れたら、最期に俺があなたを許すと思ったか。人に許されたいから人を許す、そういう弱い心が、だから嫌いだ」
罵倒を最後、稲川がじりじり退いた。支えを失ったことにより膝をつき、やがてゆっくりと横たわりついには身を捩りもしなくなった。とどめをさす必要がないだろうに、稲川はこの仰向けの喉仏に、跳躍を用いて踏みつけた。私は医者ではないから言い切れないがこの瞬間、これも見飽きた人の死の瞬間であったとみて間違いないだろう。
稲川が見返って、叫ぶ。
「どうして誰も代表を守らなかった? どうして努々俺に代表を殺させた? その責任を取れない弱さも、気持ちわりんだよ」
立ち竦んでいた比留川が叫びに対して答える。「何度も言ったが殺してもいいんだ。止めない。ただし代表を殺されて俺も黙っちゃいない。俺はお前を殺す」
比留川がアラートをけたたましく鳴らし始めた。すると呼応して群衆の中からもアラートが鳴る。ざっと内三割程度の人数が同意をしたようであった。プロムナードでも同じくアラートの呼応が鳴っていた。
しかし、白倉が稲川のそばに立った。比留川との直線上を遮る。自然比留川が怒鳴った。
「何を考えている」
しかし毅然。
「ここは新聖地だろうが。俺は守る」
白倉が言い放つと、上手から数人の白スーツが現れ稲川を囲んだ。これに、数の利を取らんと思った比留川は思い切った。
「次の代表は俺がやる! せっかくの新秩序を乱す反乱分子を許すわけにはいかない。俺がポストを引き継ぎ計画を遂行する!」
比留川は怒って我を忘れていたようにも、生気を取り戻したようにも見えた。下手からも白スーツがぞろぞろと、白倉派よりやや多く現れ彼の背後に整列した。沢山のアラートの合唱をかき分けるように声高に宣言する。
「俺は徹底的に聖地の正義を守る。ついてきてくれるよな!」
次の瞬間には、三四人の白スーツが背後から襲いかかり、こかされ、項を踏まれ、顔面を叩きつけられ、比留川も殺された。比留川が代表になることをよく思えない層が居たなら、これを新聖地秩序に則り許さねばなるまい。
比留川を殺害したグループを今度は真なる比留川派の白スーツ達が襲いかかり、しっちゃかめっちゃかに乱闘となった。この隙に白倉とその派閥は稲川をステージから先導して降ろし、改札の方へ走って逃げようとした。群衆を避けて大回りする必要があり直進できない事による時間のロスがある、それによって群衆内の比留川派が先回りしてかち合う形になった。血を被ってない白スーツと血を被った普段着の男たちが取っ組み合い、これまた血を被った群衆の中の白倉派が加勢しどれが何の勢力か見当もつかなくなった。
私は何をするでなく見ていた。私と同じくしてた者たちは皆往々にして、立ち竦んだり座り込んだり好きにしていた。泣きわめく女も男もいたし、アラートはこの間も鳴り響きすぎて耳が壊れそうだった。ふと見上げてみたら蝉が飛んでいて、目をつむると、夥しい数の蝉に包まれている感覚だった。
目を開いた頃に稲川は見当たらなくなっていた。白倉が私の眼前に居た。
「君の好きじゃない世界になったでしょ」
私は頷くばかりだった。
殴られた。後ろから。反射的に振り向くと比留川派が私を囲んでいた。そこからは一心不乱。猪突猛進に走った。登戸を目指して。
「きなこさん、あなたはどう思われますか」
「どうも思いませんが」
生田緑地は川崎ほどではないが蝉の大合唱だ。夏らしい夏だ。手の甲を掻くと、固まった血が蒸れた汗にふやけてめくれた。
「異なる事が怖い内、同じである事が怖い内、どちらが大人の内でどちらが子供の内か。
自分が人と違う事に気づいて、いずれ人がそれぞれ違い合っていて自分も同様なのだと気づくのがちょうど完全変態と同じフローを辿ってるように思う。きっと僕も、また彼らも、そして誰しもが、羽化不全を起こしてしまったから暴力に走りたくなるんです。みんなが違うことを認めれば良いのに認め合えないことによる加虐性が僕たちです。それを認めて、今度こそ生き合えたらいいんですけど……でも、やっぱどうせ僕は間違えてるんです」
「みんなそうですけど、あなたも随分と不幸がりますね」
「え、私は自分を不幸とかは思ったことは無いですけど」
「あ、そうですか。意外」
「しあわせではないだけでは」
この季節、一九時もまだ暑くてむさ苦しい明るさの中にある。何をするでもないし、今更タロットをする気もサラサラ無いと彼にはとうに伝えている。私はほんの世間話のつもりで彼に喋っていた。
「殺したいほど人を憎んでいる人のみが生き残れる街になったけど、結局はまたみんなの顔色を伺わなければ殺されても可笑しくない世界になった。ある種状況は良くなってない、おろか悪化してるんじゃないかな」
「でしょう」
「そのなかで出逢ったのがあなたで良かった」
「僕は人を殺しましたよ」
「でも、あなたは私を殺さないでしょう?」
この途端に彼は、ふしゅうふしゅうと呼吸を荒げていき、アラートが割れんばかりに鳴り出した。世間話中にプレッシャーを掛けるようなことを言った私が悪いだろう。
包丁をぐっと握り込んだのが見えた。
執筆の狙い
17歳の時につよい劣等感から思いつき20歳を越えてから書き出した小説です。まともに読めるものになっているのでしょうか。面白いと言えるものになっているのでしょうか。忌憚のない感想をいただきたいです。