正面突破
3部「正面突破」
1.「誰のための最適解ですか?」
「保険という商品は、必要になってからではお金をいくら積んでも入れない、世の中で唯一の商品です。大病を患ってから
『あのとき入っておけば』
と後悔される方を、私は何人も見てきました」
ある午後のホテルのティーラウンジ。
綺麗に刈り上げられたツーブロック。
ピシっと仕立てられた紺のシングルスーツ。
黒光りした靴を纏った男は高級腕時計をしている。
フラワーホールにはSDGsバッジ。
テーブルを挟んで向かいには、どこにでも居そうな初老の男性と、透き通るような白さのオーラを纏った女性が座っている。
初老の男性は、笠井という名だった。
今日、笠井は、PMP生命の男とアポイントを取っていた。
最近体調が優れないこともあり、自分の契約内容をもう一度確認しておきたかっただけだ。
しかし。
「それで、どうすればいいんですか?」
気づけば新しい保険契約の話になっていた。
スーツの男が答える。
「やるべきことは、実はとてもシンプルです。
まずは笠井さんが、
この『ご家族を守る権利』を手にできるかどうか、
確かめる手続きを今すぐ進めましょう」
「いちおう、家族と相談してからでもよろしいでしょうか」
「笠井さん、審査が無事に通ってから、最終的にこの内容でスタートするかどうかを一緒に決めればいいんです。
まずはリスクをゼロにするための第一歩を、今ここで踏み出しましょう」
スーツの男はクロージングをかけてくる。
1分ほど沈黙の時間。
その空気感に耐えきれなくなった笠井は、
観念するように口を開いた。
「じゃあ……」
(きた)
スーツの男の心の声が聞こえる。
笠井の横に座っている女は表情一つ変えずにテーブルの上の書類を見ている。
スーツの男の口元が緩んだ瞬間だった。
「では笠井さん」
「お待ちください」
「横から失礼いたします」
女が突然口を開いた。
「私からご質問よろしいでしょうか」
「はい。どうぞなんなりと」
スーツの男は余裕だといわんばかりの表情で答える。
「笠井さんも、よろしいですか?」
「は、はい。お願いします」
「では。黒光りツーブロックさん。
一体これは誰にとっての最適解ですか?」
女の心の声が漏れていた。
彼女は何にでも、瞬時にあだ名をつけてしまう癖がある。
彼女の中で、目の前の男は、もうすでに
「黒光りツーブロック」
として変換されている。
「え?くろびか?」
「失礼しました」
「あなたは先程から笠井さんの現在の保障内容を一切把握していません。
その上でなぜこのような商品が必要なのでしょうか?」
思わぬ質問だったのだろう。
黒光りは一瞬たじろぐ。
そして、笠井に向かってこう言う
「笠井さん。この方は?」
笠井が答える前に女が口を開いた。
「私は小説家です。」
笠井はなんのことかわからずとまどいつつも答えた。
「こちらは、娘の知り合いで、今日は娘の代わりに同席をしています」
そのままだった。間違ってはいない。
「ともかくです。
残念ながら保険というのは、いくらお金があっても、健康状態によっては入りたくても入れないケースが多々あります。つまり、こちらが選ぶだけでなく、保険会社から『選ばれる』必要があるんです。」
黒光りは明らかにイラついている。
「質問の答えになっていませんね」
女は冷静に聞く。
黒光りは何も言えない。
「意識しているのか天然なのか。
あなたの募集行為は、意向把握義務違反、不適切な勧誘です。
情報の非対称性を利用して、感情を揺さぶっているだけです。」
黒光りは苦虫を嚙み潰した顔で
「ご利用いただけないようなら結構です。失礼します。」
吐き捨てるようにそう言うと、一礼することもなく席を立った。
「笠井さん。お疲れ様でした。
あれが本性です。
あなたのことなど1ミリも考えていません。
あの黒光りには、笠井さんの顔がお金に見えていたのではないでしょうか。」
笠井は神妙な面持ちで答える。
「はい。そうかもしれません。また無駄な保険に入るところでした」
「いえ。
完全に無駄、とまでは言えません。
ですがあの内容には整合性も必然性もなかった。
それだけです。帰りましょうか。」
女は黒光りが帰っていった方向を一度だけ見た。
「それに、彼もノルマに追われ、家族もあるのでしょう。組織の中では、ある意味被害者なのです」
笠井にはよくわからなかった。
「はあ。あ、あの、お礼というか、報酬の方は?」
「ああ。それなら大丈夫です。忍さんからいただいておりますので」
その夜、笠井は家族と共に夕食のテーブルについていた。
「お父さん、今日どうだった?」
「ああ、高山さんのおかげで無駄な保険に入らなくて済んだよ」
「そっか。よかったね」
笠井は気になっていたことを聞く。
「ところで忍。高山さん、報酬は忍から貰ってるって言ってたけど、いったいいくら払ったんだ?」
「あー。えっと、3000円」
「相談1回3000円か。それは良心的だね。」
「聞いてないんだね。高山さんは小説を書いてるの。月2回配信されるわ。その定期購読が月額3000円。」
「どういうことだ?」
「本業は小説家なのよ。定期購読してる人の特典として、いろいろ相談に乗ってくれるの。その家族も含めてね。月3000円は安くはないけど、小説すごく面白いし、困った時相談できるならいいかなって」
「じゃあ、また頼もうと思ったら頼めるのか?」
「うん。何回でも。」
「何回でも?それで食っていけるんだろうか?」
「大丈夫じゃない?めっちゃファン多いし」
笠井は驚いた。金融の知識もスキルも片手間のレベルでは無いと思ったからだ。
あとで小説を読ませてもらうことにした。
2.「原点」
この高山美月を語る上で、彼女の中学時代を知っておかなければならない。
時計の針を一気に15年ほど巻き戻す。
(給食の時間。私は見ました。彼が夏美さんの牛乳を奪って飲むのを)
(私も飲まれたい)
あのストローには少なくても数万個以上の細菌が付着しているはずです。
それをああやって。
夏美さんの細菌が彼の体内に入っていく。
見せつけるにもほどがあります。
なぜ私は彼ばかり見てしまうようになってしまったのか。
結果には必ず原因があります。
まずは整理いたしましょう。
気持ちを落ち着けるにはまず分析です。
・彼と夏美さんは両想いである。
・小学5年生のお互いの初恋の相手である。
・牛乳やパンを食べ合う。
・手を繋いでいる所は未だ確認できず。
・私は彼に認知はされてはいるけれども、クラスのひとりといったところである。
(勝てない)
何度分析しても勝てません。
ですが私にとっての幸せとは何でしょうか?
それは彼の幸せではありませんか?
そうであれば、この状況は望ましいもののはず。
ああ。わかりません。
こんな時は「クレオちゃん」を読んで気分を落ち着かせましょう。
「もりもとー。」
「おい。森本っ。」
(はっ!)
「ぼーっとすんなよー。26ページから読んで。」
「はい。」
横目で彼を見ます。
寝ていました。
翌日、気持ちを抑えられなくなった私は、給食の時間牛乳を持って彼の下に行きました。
「よろしければどうぞ」
「お?いいの?サンキュー」
彼は迷いもなくストローをくわえ一気に吸い込みました。
(入った。私の細菌が。)
「か。返して下さい。」
奪い取ると背を向けて私は一気に飲みました。
(やった。)
すぐさま横目で夏美さんを見ました。
(きょとんとしている)
なにか違う。
これは何か違います。
彼は恐らく
「誰の牛乳でも飲む」
夏美さんから取りやすいから取っているだけだ。
夏美さんも被害者感情しかない。
だとしたら夏美さんが優位という訳ではありませんね。
検証は終わりました。
その日から私は、彼が夏美さんの牛乳を奪ってもなんとも思わなくなりました。
しかし私のその行動は、クラスで波紋を呼んでいました。
「美月大胆すぎる」
「夏美の気持ち考えないの?」
「俺も美月の牛乳飲みてー」
こうなることは予測済みです。
むしろこれを狙っていた側面もありますが、彼にはなんの効果もありませんでした。
彼と夏美さんはいつもと同じように戯れています。
私の分析によると、彼と夏美さんは「交換日記」をしている。
交換日は不定期のようでした。
(うらやましい。)
私にだって日記はあります。
交換がないだけです。
(はぁ。なぜ夏美さんが先だったのでしょう)
状況は悪化の一途を辿っています。やはり私には彼女が必要です。
(根岸、早く帰ってきて)
3.「サイキッカー根岸」
1週間後、根岸が登校してまいりました。
どんなにこの日を待ちわびたことでしょう。
根岸は盲腸の手術で入院していたのです。
「おっはよー。大佐ぁ」
なぜか根岸は私のことを大佐と呼びます。
「おぅおぅ根岸。よく帰ってきてくれましたね」
私は彼女を抱きしめます。
「えへへ」
根岸との出会いは中学生になってからでした。
まだクラスの皆が緊張していた1年生の4月。
根岸とは席が隣でした。
彼女は小柄な女の子で、
肩まで伸びた赤髪は生まれつきとのことでした。
後ろ髪は低い位置で二つに分けられ、素朴な二本のお提げ。
分厚いレンズの眼鏡。
少し猫背で。
目立つタイプではありませんでした。
しかし、彼女の頭の中には常に星や魔法陣や宇宙の話が詰まっていたのです。
ある日わたしは、根岸が給食を食べながら六芒星を書いてなにやら念じているのを見たのです。
(サイキッカー根岸)
このとき根岸につけたあだ名です。
そして初めて話しかけました。
「サイキッカーさん。それは何をしていらして?」
「サイキッカー?私のことですかい?」
「失礼しました。根岸さん」
「いいですよ。気に入りました。
これですか?これは書いて念じればその通りになる秘密の魔法陣なのです。大佐」
「大佐?」
「失礼。あなたのその美しい髪、透き通る白さ。生まれながらの大佐ですね」
(ちょっと意味がわかりませんわ)
「さっきなんでもとおっしゃいましたか?」
「ええ。なんでも」
「ひとつお願いできないかしら」
「大佐の頼みなら断られませんね。
ただし、術は1日1回のみです。慎重に」
「では…この給食の残りのピーマンなんとかならないかしら?」
「やってみましょう」
サイキッカー根岸は私の皿を取ると席を立ち、どこに行くのかと思っていたら、一直線に彼の元に向かいました。
一瞬でした。彼はその皿のピーマンをぺろりと平らげたのです。
根岸はどうだと言わんばかりの表情で帰ってきました。
「お見事です」
「お易い御用で」
「私たち、おともだちになれるかしら?」
「大佐のお頼みとあらば」
根岸は私にとってまさにクレオちゃんで言うところのファラオくんでした。
一般の方向けに言うと、近藤勇にとっての土方歳三でしょうか。
それから私たちは毎日を共にしました。
それは2年生になっても変わりませんでした。
「大佐はあの人の事が好きなんで?」
「ええ。でも彼にはすでに夏美さんという人がいます」
「はい。あの可愛らしい人ですね。大佐とはまた違う、愛くるしさが溢れています。
しかし、どうも最近おかしくありませんか?以前のようにふたりでいるところを見ません」
「さすがね。根岸。おそらく何かあったのだと思います。」
「大佐。私はこう思います。もし仮にふたりが終わったのならば堂々と名乗るべきだと。随分待ちました」
「そうですね。その時は力を貸してください。」
「もちろんです」
校内の噂では
もう「啓介と夏美は終わった」そんな風に広まっていました。
「そろそろ決着をつけましょう。大佐」
「ええ。でもどうすれば?」
「正面突破です」
「私がひきつけますので、ドーンと撃ってください」
「あの御仁は今日、確実に教室に残ります。ここを狙いうちしましょう」
「なぜそんなことが分かるのです?」
「私が残っていて下さいと伝えたからです」
「正面突破ね」
「はい。心の準備はよろしいですか?」
「少し怖いです」
「では、根岸が術を授けましょう」
「お願いします」
根岸はわたしの両手をぎゅっと握り、耳元でこう言いました。
「好きです」
(うっ)
撃ち抜かれたように胸が痛い
「終わりました。これで大丈夫です」
根岸の分厚いレンズの奥の瞳が優しかった。
教室から根岸がでてきた。
「いまです。ここは私が守ります」
ドクン
ドクン
ドクン
(伝えるだけ。伝えるだけ)
(好きです。好きです)
「行きます」
「はい」
ガラガラ
そこから先は覚えていません。
気づいたら私は根岸の胸で泣いていました。
2年生の冬のことです。
その日は根岸の立っての願いで、私たちはプリクラを撮りに行きました。
朝から根岸はソワソワしており、休み時間はポーズの研究に余念がありませんでした。
「どうしたのです?なにか変なものを食べましたか?」
「ええ。今日は私の大切な一日になります」
意味が分かりませんでした。
放課後ふたりで向かいました。
ポーズを決める根岸。
「よ!サイキッカー!」
私は思い切り応援してあげました。
「大佐。ボンディのポテトを食べてかえりましょう」
「いいですね。お腹も空いていたところです」
「Lですね」
「もちろんです」
根岸はポテトを口いっぱいに頬張りながら
「と、とろれ……たいさは、あのごじんに、あらなをふけているのでふ?」
(モグモグ……ごくん)
「あなた頬張りすぎですよ」
どうやら彼のあだ名のことを聞いているらしい。
「もちろんです」
「どのように?」
「『不治の病』です」
根岸はしばらく一点を見つめながらさらにポテトをストローのように咥え、こう言った?
「治りますか?」
「治らないから不治の病です」
「重症ですね」
「ええ」
その言葉を言ったあと
何故か根岸に強く抱きしめられました。
暖かかった。
帰り道。
根岸は不意にこう言いました。
「大佐。今日をもって大佐ともお別れです」
(え?)
「何を言っているのです?」
そう言ってはみたけれど、根岸はこんなつまらない冗談は言いません。
私にはわかる。
(本当なんですね)
だからもう、それだけで涙が止まらない。
「大事なことなのでもう一度言います。今日をもって大佐ともお別れです」
(もう言わないで)
「明日には、私は日本にいません」
分厚いレンズの奥の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「大佐。いや。
「美月さん。あなたと出会えて幸せでした。大切な思い出をありがとう」
「行かないで!」
泣きじゃくる私を、根岸はずっと抱きしめてくれました。
根岸は父親の仕事の都合でロシアに行くことになりました。
おそらく、随分前から分かっていたことでしょう。
私の人生においてこれほどの喪失感を覚えたことはありませんでした。
もしあなたが、突然両足を切断されたらどうですか?
私の痛みがわかっていただけますでしょうか。
それからしばらく喪失感でぼんやりしていましたが、一通の手紙で力を取り戻しました。
遠く離れたロシアの地から、根岸が手紙をくれたのです。
「差出人 根岸 千佳」
その名の通り、美しくも気高い人物です。
手紙にはこう書いてありました。
「ロシアは寒いです」
と。
当たり前じゃないですか。
ロシアなんですから。
元気に暮らしているようで安心いたしました。
4.「攻撃」
私が告白した日。
彼は何も言いませんでした。
ただ「ポカーン」としていただけです。
私が次にすべきことは、その気持ちを確かめることですが、方法が見つかりませんでした。
(根岸さえいれば)
私には術が必要でした。
冷静に整理したところ、
とどのつまり、聞くか、聞かないか、それだけです。
(やろう)
音楽室に移動する時、私は実行しました。
「啓介さん、私のことは好きですか?」
相変わらず「ポカーン」としていましたが
歩きながら彼は「ああ」と言いました。
音楽の授業中、私はその意味を分析していました。
「ああ」
ああ。とは?
ああ=はいではありません。
ああ。その件なら。
ああ。今はまだ。
私に答えは出せませんでした。
「ピョロ~…」
リコーダーの音は間抜けな音しか出ませんでした。
中学生活は、受験という一大事を皆意識しだす時期に入っていました。
彼との距離は何も変わりません。
話しかければ気さくに答えていただけるし、彼もたまに話しかけてくれます。
「牛乳、飲まないの?」
と。
夏美さんとはもう話もしていないようでした。
その頃からわたしの身の回りで少しずつ異変が起き始めました。
体育の授業後、数学の授業前でした。
机に入れていた筆箱が見当たりません。
ロッカーやカバンを探している私をみた彼が声をかけてくれました。
「どったの?」
「筆箱が見当たりません」
「わかった」
そういうと彼は自分の鉛筆を持ってきてくれました。
(ありがとう)
改めて彼の危機察知能力の高さに感心しました。
(そういう問題ではないけれど)
貸してくれた鉛筆は、「占い鉛筆」でした。
(これ、根岸も持っていました)
そういえば、根岸から聞いた事がある。
「あの御仁、私の占い鉛筆が面白そうだからと、持っていたまま帰ってきません。まあ、沢山あるからいいんですけどね」
筆箱は放課後やっと見つかりました。
ゴミ箱に捨てられていました。
整理します。
私は確実に机に入れました。
筆箱は歩きません。
すなわちこれは、誰かがゴミと間違えたか。
意図的に捨てたか。
嫌な気分になるので考えないことにしました。
これが私への攻撃の始まりでした。
翌日、今度は上履きがありません。
確信しました。
(攻撃を受けている)
ならば受けてたちましょう。
私は靴下のまま教室へ向いました。
背後で誰かに見られているような、そんな感覚でした。
「美月どうしたの?」
「あれ?裸足じゃん」
複数の方から声をかけられますがいたって平静を装います。
朝のホームルームは異様な雰囲気でした。
先生の口調は静かでしたが、明らかに怒りを含んでいました。
私は体育館シューズで過ごすことを許されました。
その後も私への執拗な攻撃は続きました。
机への落書き。
無視。
高圧的な態度。
根も葉もない噂の流布。
整理してみます。
女子のほぼ全員が私との会話を積極的にしない。
半分は完全無視。
4分の1はあからさまな攻撃を仕掛けてきます。
私は冷静に受け流していましたが、やはりストレスは溜まりました。
人間ですもの。
こうなった原因はなんとなくわかっていました。
その時飛び交っていた噂の中に
「美月が啓介と夏美を引き裂いた」
「ちょっと綺麗だからって調子乗りすぎ」
というものがありました。
彼と夏美さんは小学5年生からの初恋同士。
それを周りの女子たちが積極的にくっつけたのです。
彼も、夏美さんもみなに好かれていましたので
私の行動が疎ましかったのでしょう。
私の容姿に関しては、知ったことではありません。
しかし、夏美さんがこの件に関して全く関与していないことはわかります。
そんなことをする人と彼が思いを通じ合わせる事などないからです。
しかしこのままでは私は壊れてしまう。
(なんとかしなければ)
(大佐、正面突破です。)
根岸の言葉が頭をよぎりました。
やりましょう。
決着をつけるのです。
これが唯一の方法です。
準備などいりません。
根岸ならそう言うでしょう。
噂は勝手に流れます。
決行日を翌日としました。
作戦は簡単ですが、時間と場所だけは精査する必要があります。
私はお昼休みを選びました。
ツカツカツカ
隣のクラスのドアを開けました。
窓際の席に彼女はいます。
数人の女子と談笑しているようでした。
一直線にそこへ向かいます。
クラスの雰囲気がざわつき始めます。
座っている彼女の正面に立つと
「夏美さん。私、啓介さんに告白しました。もうおふたりは付き合ってないと聞いたもので。」
教室の空気は一瞬で静まり返りました。
夏美さんはいきなりのことに驚き、そして震えながらこちらを見ています。
そして目に力を取り戻すと
「別れてない」
と言いました。
みなが固唾を飲んで次の言葉を待っている気がしました。
「そうですか。」
わたしは目線を夏美さんから、周囲に上げ、全体に伝わるように言いました。
「
ただの噂だったんですね。どこの誰ともわからない、何も知らないものが面白おかしくそんな噂を流したんですね」
私から目線をそらすものたち。
私は目線を再び夏美さんに向けました。
(すうううっ)
「私は彼のことが好きです。正々堂々これからも想いを伝えていきます」
静かにそう伝えました。
そう言うと夏美さんの言葉を待たず教室から出ることにしました。
これ以上追い詰めてはいけない。
彼女が一番苦しいのだから。
「ちょっと待ちなさいよ!」
野次馬が何か言っていますが関係ありません。
無視して教室を出ます。
しかし、扉が開きません。
とても重い。
どうしたものかと思っていたら。
「反対だよ」
夏美さんがドアを開けてくれました。
私は左に開くところを、右に開こうとしていたのです。
掌には大量の汗をかいていました。
その日から私への攻撃はなりを潜めました。
1週間ほど経ちましたでしょうか。
夏美さんから、話がしたいとの申し出がありました。
下駄箱の前での待ち合わせでした。
「どうしましたか?水際の帳面係さん」
「ちょうめんがかり?」
(はっ。ついあだ名で呼んでしまいました)
「失礼しました。夏美さん」
「ふふふ。美月ちゃんおもしろいね」
ふたりは自転車を押して、一緒に帰ることになりました。
「
ちょっとあそこで話さない?」
自動販売機の並んだ、ベンチのある場所でした。
「びっくりしたよ。あの時は」
1週間前の教室のことでした。
「でもね、言ってくれて良かったと思ってる。私も悩んでたから」
「はい」
しばらく沈黙の後
「啓介くんとどう?」
どうと聞かれても特に何も進展はありません。
「彼はいつも無邪気でのほほんとしています。成長が止まっているのでしょうか?」
「うふふ。だよね。ほんとよくわかんない」
聞こう。今しかない。
「夏美さん。なぜ急に話をしなくなったのですか?」
帳面係は俯いたまま
「よく分からないの」
(これは心当たりがある答えだ)
「そんなはずはありません。何かあるはずです」
「日記かな。」
日記。何かが書いてあった。
「そうですか。ですが、今はもう、修復が先では?」
「ちょっと疲れちゃった。受験勉強もあるしね。わたし美月ちゃんみたいに頭良くないから」
「どうするおつもりで」
「今のわたしには、啓介くんを受け止めきれない」
「夏美さん。私と交換日記をしませんか?」
これは、同情ではありません。
同じ課題に向き合った同志として、自然と口に出ていました。
夏美さんは驚いていましたが快く承諾しました。
「このノートにしましょう」
「悪魔ちゃん男爵?」
「はい。お気に入りの一冊です」
その後ふたりは彼の悪口を言いあいながら帰りました。
彼はというと、普段と何も変わりません。
私に対しての態度はどこか照れを含んでいるように変わりましたが
それでもふたりで手を繋ぐわけでもなく、デートをする訳でもなく、ただ時間か過ぎていきました。
受験勉強もありましたし。
問題は、何一つ決まっていないということです。
何より私は聞いていません。
「好きです」の答えを。
どう転んだとしても、聞くしかない。
卒業式も目前にせまった土曜日。
金曜日に手紙を渡していました。
近所の公園に来て欲しいと。
風が強い、寒い冬の午後でした。
私が公園に着いた時、彼は小学生とサッカーをしていました。
大人げなく小学生を華麗に躱しながら。
そんな彼を見ながらベンチに座ります。
「
あいつら楽勝」
彼がやってきました。
(当たり前でしょう。小学生、しかも低学年ですから)
「今日はどうした?熱でもあるの?」
(使い方間違ってますよ)
「ひとつ確認をしておきたいです」
「確認?」
「私のこと、好きですか?」
トク
トク
トク
トク
「ああ」
やっぱりその言葉でした。
それなりに神妙な顔をしてはいます。
それなりに。
これが彼なんだ。
そう思うと私は胸がキュッと締め付けられました。
「キスしてください。」
そう伝えていました。
目を閉じると数秒後。
唇に暖かさを感じた。
初めての感触。
34度くらいでしょうか。
私は今、小6から好きな人とキスをしている。
2秒が永遠に感じました。
「じゃあな。」
目を開けると彼は小学生の元に走っていました。
(根岸。私はキスをしました。あなたはしましたか?)
ロシアからヒューヒューという声が聞こえた気がします。
5.「けじめ」
高校に進みました。
彼は遠くの学校に進学したため、ほとんど会えません。
変わったことといえば電話をすることくらいでしょうか。
夏を過ぎたころから彼の様子が少しずつ変わって言ったような気がします。
最初の頃は毎日のように電話がありました。
今日は何を食べたとか。
部活がどうとか。
そんな話ばかりです。
私はそれが好きでした。
彼がそこにいると分かるからです。
秋の気配を感じ始めたころ。
電話の向こうで、彼は珍しく黙っていました。
いつもなら、今日の夕飯の話をします。
部活の話をします。
くだらない男子の話をします。
私はそのくだらなさが好きでした。
彼がそこにいると分かるからです。
「話がある」
彼がそう言った瞬間、私は受話器を持つ手に力が入っていることに気づきました。
何となく、分かっていました。
分かっていたのに、聞きたくはありませんでした。
「夏美のことが忘れられない」
思ったより、まっすぐに弾いてきました。
私は少しだけ息を吸いました。
電話なので、表情を整える必要はありません。
それでも、整えました。
「知っていました。私を誰だと思っていますか? あなたのことが一番好きな人間ですよ」
「ごめん」
「一つだけお願いがあります。危惧はしていません。啓介さんだから、それでも敢えてお伝えします」
私は、生まれて初めて、母に叱られるような言葉を使いました。
「彼女を泣かせたら、ぶっ殺します」
「はい!」
「いい返事です」
電話を切ったあと、私はしばらく受話器を見ていました。
さようなら。
不治の病さん。
これでいいと思いました。
そして私は大学生になりました。
何を覚えるのか、楽しみです。
親元を離れ、初めての一人暮らし。
クレオちゃんのぬいぐるみは忘れずに持ってきました。
炊飯器の使い方だって覚えました。
しかし、
全方位に気を配らないといけないということは私が今までどれだけ守られていたのかということの裏返しです。
(これは気合いをいれねば)
そう思いました。
感傷に浸っている場合ではありません。
幼い頃からの夢を叶えるために。
テレビのモニターに映るアナウンサー。
正確な言葉で正確に伝える。
国語教師の母を持つ私は言葉遣いだけは厳しく育てられました。
今まで一度も汚い言葉を話したことがありません。
あの日を除いて。
2年生からアナウンススクールに通います。
エントリーシートは通過しました。
一次選考も通過。
二次選考も通過。
想定通りです。
私は夢に向かって順調に進んでいました。
しかし、それと同時に違和感も積み重なっていったのです。
フリートークの選考がありました。
時間は二時間。
長い。
とても長い。
けれど、始まって五分で、私は少しだけ違和感を覚えていました。
隣に座っていた女性が、よく笑う人でした。
面白い話をしている、というより、場の温度を上げるのが上手い人でした。
「えー、それ分かります」
「私もそうなんです」
「でも、それって逆に面白くないですか?」
彼女がそう言うたびに、面接官の表情が少し柔らかくなります。
周りの候補者も、自然と彼女の方を向きます。
話題の中心が、少しずつ彼女に集まっていくのが分かりました。
私は聞かれたことに答えました。
できるだけ正確に。
言葉の意味を取り違えないように。
誤解を生まないように。
質問の意図を外さないように。
「最近気になったニュースはありますか?」
「はい。地方における医療体制の偏在についてです」
私は、自分なりに整理して話しました。
現状。
背景。
問題点。
伝える側が注意すべき言葉。
最後まで話し終えたとき、面接官の一人が言いました。
「いいですね」
けれど、その「いいですね」は、私の話の中身に触れているようには聞こえませんでした。
まるで、提出された書類の角が揃っていることを確認したような声でした。
次に、隣の女性が話しました。
内容は、私よりずっと短かった。
けれど、彼女は最初に少し笑いました。
「ニュースって言っていいのか分からないんですけど」
その一言で、場が少し明るくなりました。
彼女は、自分の祖母がテレビの前でニュースに怒っていた話をしました。
その怒り方が可愛かったこと。
けれど、その奥に不安があったこと。
だからニュースは、正しいだけでは届かないのかもしれないと思ったこと。
面接官が、笑いました。
深く頷いた人もいました。
「いいですね」
同じ言葉でした。
けれど、さっきとは音が違いました。
私はその瞬間、少しだけ分かってしまいました。
見られているのは、答えの正確さだけではありません。
その人が場に置いたとき、空気がどう動くか。
その人の言葉に、人が顔を上げるか。
その人を、もう少し見ていたいと思うか。
それは、正しさとは別の力でした。
私は、その力を持っていないのかもしれません。
いえ。
持っていないというより、私が欲しかったものではないのかもしれません。
フリートークは続きました。
私は笑いました。
相槌も打ちました。
必要なところでは発言もしました。
けれど、私の中ではずっと、別の問いが回っていました。
私は、何を目指してここに座っているのでしょうか。
正しい情報を、必要な人に正しく届けたい。
そう思っていました。
でも、ここで求められているものは、それだけではない。
言葉の正しさ。
表情。
声の明るさ。
余白。
親しみやすさ。
画面の中に置かれたときの見え方。
私は、アナウンサーという仕事を、少し勘違いしていたのかもしれません。
二時間が終わったとき、私は疲れていました。
話しすぎたからではありません。
見すぎたからです。
私は何を見られているのだろう。
私はなにか大きな勘違いをしているのではないだろうか。
私のやりたいことって。
整理します。
正しい情報を必要な人に正しく届ける。
しかし、求められているのはそんな事じゃない。
人間性、これは、聖人君子などではなく、チャンネルを替えられない、その人が持っているオーラとでも言いましょうか。
つまり、アナウンサーとはディスプレイに並ぶ商品です。
「お母さん。話があります。」
その夜、母に電話で話しました。
母はいつも通り落ち着いた口調で優しく答えてくれました。
「せっかくここまできたのだし、進めば違う景色もあるかもしれないよ」
そう言われました。
考え直しなさい、とは言われませんでした。
(私がしたいことって…。
誰かの役にたちたい)
「私は「言葉」が好き。
何ができますか?お母さん。」
「言葉は人の役に立つけれど、傷つけることもあるわ。
むしろこの世の中は、いかに人を操るか、そんな風に言葉が使われている気がお母さんはする。何ができるかしらね。
あなたが違和感を覚える言葉、それに答えがあるかもしれないわね」
(違和感を覚える言葉)
「ただね、美月、あなたの言葉は絶対ではないわ。それだけは忘れないようにね」
電話を切ったあと私は机に向かいノートに適当に言葉を書いてみました。
「ああ」
「正面突破です」
書いてみて気づいた事があります。
見る、つまり読むのと、聞くのでは捉え方が違う場合があると。
もちろん単語一つではなく、その前後の文脈を考えなければいけません。
どちらがよくてどちらが悪いという事ではありません。
私の「言葉」は、どう受け取られるのだろう?
ふとそのようなことを思ったのです。
子供の頃から母の影響もあり、多くの本に触れてきました。
「本」書いてみようかな。
今まで読む対象だったものが、書く対象に変わりました。
それからは最終選考まで時間があれば机に向かい思いつくまま「言葉」をノートに書いていきました。
最終選考の日。
目の前には役員がならんでいます。
「うちの番組で、一つだけダメ出しをしてください」
「書いてみて、分かったことがあります。
外から見ているものと、作る側に回って見えるものは、まるで違うということです。
一つの言葉を置くにも、順番があります。
削る言葉もあります。
届いてほしい相手もあります。
ですから、番組を一つだけ切り取って、ここが悪いです、と言うのは簡単です。
でもそれは、作った方々が何を届けようとしたのかを見ない言葉になります」
「書いてみて、とは?」
「言葉です」
「言葉ですか?具体的になにがわかりましたか?」
「書き手、つまり作り手の良心、人間性で如何様にもなる。番組で言えば、どこに主眼を置いているかということです」
「ちょっとよくわかりませんね」
「誰のための仕事なのかということです」
それ以上の質問はありませんでした。
役員の一人が、手元の紙に何かを書きました。
別の一人が、私から目をそらしました。
部屋の空調の音だけが、妙にはっきり聞こえました。
きっと、その答えは正解ではなかったのでしょう。
選考結果は不合格でした。
不思議と、悔しさはありませんでした。
ただ、道が一本、静かに消えた音がしました。
そして別の道が、机の上のノートに残っていました。
整理します。
中学生で大切なものに向かう事を覚え
高校生で大切なものから引くことを覚えました。
大学生で、自分の言葉を持つことを覚えました。
全て簡単ではありませんでしたが私は少しだけ強くなりました。
6.「違和感」
そして私は、自分の人生で一番大きな違和感と出会うことになります。
アナウンサー試験に落ちた後、お母さんが上京して来ました。
「美月、お疲れ様」
「お母さん。ごめんなさい」
「謝るようなことしたの?」
「してない」
「じゃあいいじゃない。思うようにやりなさい」
「うん」
「明日はよろしくね」
お母さんは東京観光を案内してほしいとのことだった。
今日の夜はしっかりお母さんと打ち合わせしよう。
久しぶりのお母さんの手料理。
お布団で横に並んで天井を見上げています。
明日の打ち合わせも終わりました。
「お父さんは元気?」
「お父さんね、聞いて。」
「うん。」
「勝手に保険に入っちゃって、すごく損したの。」
「保険?」
「営業の人が言うことをそのまま真に受けちゃってね。」
「騙されたってこと?」
「ううん。騙された訳ではないわ。でも、判断に必要な情報は与えられなかったみたいね」
「それって、騙された事にはならないの?」
「難しいところね。ルール上は問題ないこともあるね」
「お父さん、大丈夫だった?」
「どうして、営業ってのは自分たちのことしか考えないんだ!て怒ってたわ」
その話は、保険、営業、ルール、今まで考えたこともなかった話でした。
「金融業」
落ち着いたら調べてみようかな。
翌朝、お母さんはすでに起きて準備をしていました。
「おはよう。」
「おはよう。美月、あなた鼻血」
「え?」
鏡を見ると私は鼻血を垂らしながら立っていた。
母の顔が急激に曇る。
「
ちょっと来なさい」
そう言いながら自分の方から来ました。
私の袖や裾をまくります。
「どうしたのお母さん」
「いつからなの?いっぱいアザがあるじゃない。なんで言わないの!」
お母さんは鬼のようでした。
何故そんなに怒っているのかわかりませんでした。
お母さんはどこかに電話をしています。
「美月、保険証持ちなさい。病院行くわよ」
「病院?」
その日の東京観光はキャンセルになりました。
私の鼻血のせいで。
病院の待ち合い室
お母さんは落ち着きを取り戻していました。
「診てもらって何も無ければそれでいいんだから。念の為ちゃんとしておきましょう」
問診
視診
血液検査
その後1時間ほど待たされました。
なぜかお母さんだけ呼ばれる。
母の顔が引き攣るのがわかりました。
しばらくしてお母さんが帰ってきました。
口は笑っていますが目は笑っていません。
「念の為、もう少し詳しく検査しましょうって」
何らかの異常があるのは間違いないらしい。
私と母はその足で大きな病院に移動しました。
向かった先は
「血液内科」
でした。
7.「イチゴ面接官」
そして今、わたしは病院のベッドの上にいます。
昨日お母さんと東京観光してるはずだったのに。
周りは慌ただしく動いています。
「急性骨髄性白血病」
それが私の病名でした。聞いたことはありますが何も知りませんでした。
整理しようとしましたが、周りの慌ただしさに、気持ちが追いつきません。
お母さんは入院の準備、手続き、家族、職場、大学への連絡。
私は
検査
検査
検査
そしてお母さんと一緒に説明を受けました。
主治医の先生から、これから行う「抗がん剤治療」のスケジュールと、
副作用(髪が抜ける、激しい吐き気、高熱、最悪の事態のリスクなどについて)
整理が追いつかないまま、大量の同意書にサインをしていました。
その後、丸山さんという、コーディネーターと呼ばれる方との面談がありました。
わたしは必ず訪れる脱毛に向けて、
あらかじめ髪を短くすることになりました。
翌日
院内の美容室。
お母さんが隣にいます。
子どものころから伸ばしていた髪です。
「これまで本当に大切に伸ばしてきた綺麗な髪ですね。責任を持って、次の誰かへ届くように切りますね」
私は髪を寄付する事にしました。
慣れ親しんだ髪は一瞬で切られます
パチン
パチン
パチン
ずっと一緒だった私の一部だったものが、私ではなくなっていく音でした。
いよいよ闘いが始まるというスイッチの音に聞こえました。
お母さんは泣いていましたが、私は生まれて初めてのベリーショートに、少し感動を覚えていました。
まだあまり実感がなかったのかもしれません。
翌日から抗がん剤の投与が開始されました。
首元には太い管が付けられました。
もう自由には動けません。
病室からは一歩も出られないそうです。
病室に入ってくる人はみな厳重な格好をしています。
「じゃあ、一本目始めますね。」
24時間1週間連続で投与されます。
私の闘いが始まりました。
(へぇ。抗がん剤って赤いんですね。そうですね、言うならばイチゴ面接官でしょうか。私の体を駆け巡り色々なさるのでしょう。)
枕元では、
ウィーン、ウィーンと
点滴の機械の音がずっと音を立て続けています。
防護服の看護師さんを見る度にそんなに自分は重篤なのかと考えてしまいます。
始まったばかりは、まだとくに何ともありませんでした。
(大丈夫。決められたことを、決められたようにやるだけ。たぶんこれからしんどくなる。できるだけ今からイメージしておこう。
絶対しんどくなる。大丈夫)
3日目くらいから急に体が重くなりました。
常に頭がグルグル回っている感じがします。
水がなにか金属のような味がして、何も食べる気になりません。
(ついに来ましたね。でもわたしは予習しています。
こうなることは想定内です。イチゴ面接官には負けません)
7日目にはもう何もできない。目を閉じているだけ。口の中が痛い、光を見るだけで頭が痛くなる。私は耐えられるのだろうか。何度もそう思いました。
(面接官なんかじゃない。悪魔です)
地獄面接は終了しました。
一週間の抗がん剤投与が終わりました。
やっとシャワーを浴びられます。
少し気分が晴れましたが、丸山さんの説明によるとここから1週間が特に注意が必要な時期との事でしたが、私にはどうしようもありません。
発熱、口内の強烈な痛み、ツバを飲み込むのも激痛でした。地獄はまだ続いています。
担当医師からの説明がありました。
分厚いマスクを身につけている。目元しか見えないその姿。
「高山さん、熱、しんどいね」
「はい」
「少しだけ大事な話をさせてね」
先生は丸椅子を引き寄せました。
何か良くない話だということは分かりました。
「今回の白血病なんだけどね」
「はい」
「少し手強いタイプだった」
「そうですか」
「抗がん剤だけでは難しいかもしれない」
「難しい?」
「うん」
「どうすればいいんですか?」
先生は少しだけ間を置いて答えました。
「骨髄移植という方法があります」
喉の激痛に耐えながら、頷くしか出来ませんでした。
コーディネーターさんとも話をしました。
移植までの流れ、ドナーさんの流れ。
患者とドナーは絶対に会うことはできない。
どこの誰か分からない人のために、腰に何十本と注射を刺され骨髄を抜かれるらしい。そしてそれを運ぶ人たち。ドナーさんをサポートするコーディネーターさん。
私は涙が溢れて止まりませんでした。
必ず成功するとは限らない、自分には何の関係もないのに自分の体を傷つけてまで提供してくださる。
こんなに泣いたことは生まれて初めてでした。
ドナーさんを待つことになりました。
決して会うことがない同志。
細胞だけで繋がる関係。
適合者が現れる間にもイチゴ面接官の試練は定期的に続きます。
(どこかで誰かがきっと)
そう信じながら面接に耐え続けました。
体調がいい日もあります。
私は兼ねてからやりたかったことに挑戦することにしました。
違和感のある言葉を並べ、組み立て、ひとつの物語にすることを。
書いている間は少し気が紛れます。
1ヶ月、2ヶ月、物語は3作目に入っていました。
何作目まで書けるかな。もしかしたらこれが最後の物語になるかもしれない、と思うこともありました。
3ヶ月目に入ったある日のことでした。
ノックの音、顔を出す看護師さん。
「高山さん。おともだちが来てくれましよ。30分だけね。」
ぼーっとしていた私はよくわからないまま
「はあい」
と答えました。
ドアが開き、顔を見せたのは、夏美さんでした。
「久しぶりだね。美月ちゃん」
驚きました。4年ぶりですが、マスクをしていても、その愛くるしさは間違いなく夏美さんでした。
「千佳ちゃんから手紙が来てね。美月ちゃんと連絡が取れないって。ごめんね。遅くなって」
私からの返事が来ないことを心配した根岸は、私と夏美さんが高校でも繋がっていることを知っていたので、夏美さんに手紙を出したとのことでした。
(根岸。風邪をひいていませんか?)
ふたりが心配してこうしてくれた事にとても暖かいものを感じ、もう枯れたと思った涙が溢れてきました。
そして、昔話をしているうちに、あっという間に30分が終わりました。
「美月ちゃんそれなに?」
ベッドの横に山積みにされたノートのことでした。
「物語です」
ぱらぱらとめくる夏美さん
「ひとつ借りていい?」
「え?はいどうぞ。まだぜんぜんまとまっていませんが」
「いいよ。ありがとう。じゃあまた来るね」
「ありがとう」
私の書いた物語が、初めて外に出ていく瞬間でした。
暖かい時間でした。わたしのために、みんなが動いてくれている。
(負けませんよ。)
8.「命のバトン」
その知らせは突然でした。
トントントン。
いつもより強いノックの音がしました。
入ってきたのは丸山さん。
「美月さん。体調はどうかな?
大切なお話があります。」
いつも丁寧で優しい笑みを浮かべている方だけど、その時はぶ厚いファイルを抱え、真剣な表情でした。
真っ直ぐに私を見つめるとこう言いました
「骨髄バンクから、最終的な連絡が来ました。美月さんと白血球の型がぴったり合って、最後まで手続きを進めてくださったドナーさんが、正式に決定したよ」
(ああ。わたしのために)
「わかりました」
喉の痛みも一瞬忘れた気がします。
「移植の当日、カレンダーの『デートゥゼロ(Day to 0)』は、来月の十四日に決まりました」
淡々と、冷静に伝えなければならないことを、私に同様を与えないように話している。
(すごい)
日にちが決まりました。
それは、私に新しい命が吹き込まれると同時に、「前処置」と呼ばれるこれまで以上の地獄の治療が始まるという宣告でもありました。
カウントダウンが始まりました。
前処置については、考えることをやめました。
今はそちらに思考のリソースを割く余裕がありません。
事前に不測の事態についても説明を受けました。
私の容態の急変。
ドナーさん側の事情。
その他様々な要因。
移植が中止になれば、非常に重篤な事態になるそうです。
正直に言います。
怖いです。
「死」
今までは、どこか遠い出来事でした。
ですが今回は違います。
目の前にあります。
しかし。
このことについて私にできることはありません。
本当に何も。
だから決めました。
Day0に向けて日々を記録することにします。
正確に。
私のために動いてくださっている全ての人の闘いを。
丸山さん。
看護師さん。
主治医の先生。
家族。
そして会うことのないドナーさん。
死んだら感謝は伝えられませんから。
Day0から逆算して一週間前。
ついに、私の体から全ての血液工場を消し去る「前処置」が始まりました。
ここからはもう、記録はできません。
記憶に刻み込めるか、いえ、そんな余裕はもうありません。
まず全身を放射線が駆け巡ります。
巨大な機械が「ウーーーーン」という重低音で私のDNAを寸断していきます。
回数を重ねるごとに皮膚は火照り、口の中はカラカラになりました。
間髪入れずに始まったのはこれまでとは桁違いの大量の抗がん剤の投与でした。
イチゴどころではない。
全ての破壊プログラムが終了しました。
私は更地になっています。
免疫も。
血液も。
明日を保証してくれるものも。
何もありません。
一つの細菌で、
死にます。
(苦しい。もう。もう。お母さん私もう。)
「あと少し。ドナーさんの細胞を抱えて、今必死に向かってる!」
「がんばれ。生きろ!」
「しっかり!」
誰の声だったのかわかりませんでしたが、一人の声ではなかった気がします。
「届いたよ!到着した!」
「生きろ!」
私の体に戦友の細胞が入りました。
Day4
移植から4日目。
猛烈な高熱に襲われていました。激しい悪寒がします。口の中はまるで剃刀の刃を何枚も含んでいるようでした。声は出ませんでした。
Day11
2週間近く何も食べていません。生きているのかもわかりません。
(お願い。早く目覚めて。私の戦友の細胞さん。)
意識は微睡み、私は常に半分寝て、半分起きているような。
その夜、異変が起きました。
一度下がりかけていた熱が、再びゴゴゴゴと音を立てるように急激に上昇し40℃まで跳ね上がりました。
赤い発疹が現れ、息が吸えない。
ああもうこれで終わる。
もう無理かも。
終わる。
お母さん私死にたくない。
必死にナースコールを押す。
「よし!」
駆け付けた看護師さんはそう言った気がします。
後から聞いたことですが、それは、戦友の細胞さんたちが、一斉に新しい血液を作り上げようと暴れている、そのエネルギーの爆発でした。
Day90
この病棟とも今日でお別れとなります。私の体重は36キロほどしかありませんでした。
服は全てブカブカです。
丸山さんは笑顔で見送ってくれました。
「いってらっしゃい。美月さん。あなたはあなたの力で病気に勝ちました。私たちはサポートしただけ。堂々と前に進んでください。よく頑張った。」
目にはうっすら光るものが浮かんでいました。
私を慮った優しさにあふれた言葉です。
「皆さんがいなければ私は今日今ここに立っていませんでした」
そっと胸をお借りし涙を流す私を抱きしめてくれました。
この10ヶ月を整理できるほど、まだ体力も気力も戻ってはいませんが、
「死」を意識したことは間違いありません。
一つだけ言えること。
見ていてください。
私はみなさんから受け取ったものを、これから誰かに渡していきます。
そこには私の知らない世界がありました。
一つの命をつなぐために、多くの人が複雑なチームを組み、着実に仕事をこなしていました。
医師の正確かつ分かりやすい説明。
看護師さんの、絶対に間違えてはいけない作業の合間に見せる優しい言葉。
丸山さんの、冷静でありながら患者を落ち込ませない配慮と言葉選び。
友人たちの励まし。
家族の支え。
私はずっと「言葉」そのものを見ていました。
ですが違いました。
言葉だけではありません。
誰が。
何のために。
どのような状況で伝えるのか。
その全てが言葉の一部だったのです。
同じ言葉でも、伝える人の意識や目的によって大きく変化する。
また、受け取る側の状況によっても変化する。
私はそのことを、病院で学びました。
9「出発」
大学5年生になりました。ゆっくり、ゆっくりではありますが着実に前に進んでいます。
あんなに出たかった無菌室も出てみると不安になるものです。
あの無機質で厳しい空間は私を守るためのものでした。
これからはノーガードで戦わなければなりません。
元々そうであったのに、病気になる前はわかっていませんでした。
いかに無防備であったか。
なんでもない、ということがいかに贅沢なものであったのか。
執筆活動のかたわら、就職活動もしなければなりません。
わたしには違和感が残っていました。
「騙されたわけではないが必要な情報を与えられなかった。」
母の言葉です。
世の中に、
私が病院での10か月で学んだ世界とは違う世界があるのなら、
見ましょうその世界を。
私は扉を叩くことに決めました。
金融業。生命保険業界。
お互いがお互いを支えあう。崇高な理念。
本来人を助けるためのものであるものなのに、なぜ父は判断を誤ったのか。
人を支えることを伝えるために、どのように言葉が紡がれていくのか。
父は騙されたわけではありません。
だからこそ確認する必要がありました。
確認は、半年で十分でした。
私は就職後、半年で離職しました。
その世界を把握するのには十分でした。
(これは、厳しい。)
「言葉」が商品を売るためだけに最適化されています。
しかもタチの悪いことに本人たちがそれに気づいていません。
お客さまのためという名を借りた収益化メソッドです。
これは個人の問題ではなく業界の構造の問題でした。
身体の病気とはまた違う、なにか社会の病気を体験した気がします。
ですが、これは、私ひとりで治せるものではありません。
放っておきましょう。
今はまだ。
私は私の周りの人と意味あるつながりを続けるだけです。
ありのまま、目の前の相手に誠実に接するだけです。
それが私の学んだ10か月なのですから。
執筆活動は止まりません。うれしいことに読者が増えています。
読者からは、うれしいコメントもあれば、厳しいコメントもあります。
半年後、私はこの道を生業とすることに決めました。
定期購読していただいた方は全力で守る。
果たしてどうなることやら。
10.「依頼」
1ヶ月後、初めての依頼が舞い込みました。
50代女性の方から。お母さんが保険の勧誘を受けるかもしれない。心配であると。
さて、さて。
依頼者は平松さん。
81になられるお母さんとも事前に面談しました。
現在の状況把握とお母さまの想いの確認。
整理できました。
では、その場面に向かいましょう。
平松さんが提案を受けているのは、昔からある保険会社。全国ネットワークで安心と信頼を売りにしています。
現れたのは50歳手前くらい。
制服のズボンの裾の長さがあっていません。
丁寧な言葉遣い。しかしどこか、予定調和のような、自己陶酔、といった印象を受けました。
説明は続きます。
ここまで法律は犯していません。
会社作成の冊子を使い、淡々と話しています。
平松さんは少しついていけていない印象でした。
「こちらをご覧ください。このように、相続税には基礎控除がございます。平松さまの場合ですと、お子様お2人ですから、4800万円ですね」
続けざまにそのダボ付きナルシスは、
「この辺りは路線価も高いですしね。みなさんどうしたらいいのかとおっしゃいます」
そして
「平松さま、安心してください。国が認めた有効な対策があるんです。法定相続人×500万円までの死亡保険金は非課税で残せるんです」
「使われていない、預貯金ございますよね?」
平松さんは俯いて聞いています。
「このままでは娘様に迷惑をかけることになります。平松さん、それは避けたいですよね?」
来ました。
デットラインを超えました。
「ちょっとダボナルさん。よろしいですか?」
「ダボナル?」
「失礼しました。えーっと、」
「山川です。」
「平松さん、こちらの方は?」
「孫です」
「はい。私が孫のように思われている高山美月です」
「ひとつお聞きします。平松さんに万一があったとき、相続税が発生するかどうかはどのように確認されたのですか?」
「それは、平松さんが、」
「平松さんは何も言っていません。そしてご自身の資産がいくらになるのかも把握されていません。」
「…」
「そのご提案、誰のためのご提案ですか?」
ダボつきは少し焦っています。
「これはあくまで仮のお話です」
「仮のお話で、娘様に迷惑をかけると言いましたか?」。
「それは、一般的なご案内として」
最早支離滅裂です。
「一般的なご案内で、平松さんの罪悪感に触れましたか?」
平松さんは、まだ俯いていました。
私はその横顔を見ました。
理解している顔ではありません。
困っている顔です。
「山川さん。制度の説明は間違っていません。ですが、今平松さんが何を理解して、何を不安に感じているのか、確認されましたか」
「……」
「もう一度お尋ねします。そのご提案、誰のためのご提案ですか?」
ダボつきは無表情になりました。
「平松さん本日はありがとうございました。また改めます」
念を押すように
「これはあくまで仮のお話です。平松さんまた来ますね。本日はありがとうございました。」
そそくさとドアを開け帰りました。
「高山さん本当にお金はよろしいんですか?」
「お金ならお嬢さんにいただいていますのでご安心ください。それよりも、おそらく先ほどの人はまた来ます。私をいつでも呼んでくださいね」
私の生きる道が決まった日でした。
いつからか私は「ファイナンシャルノベリスト」と呼ばれるようになっていました。
(私はただの色白おしゃべりメガネです)
穏やかな日々、充実していました。小説の話題には事欠きません。
依頼がそのまま作品のヒントになります。
活動をはじめて3年程たった日
一通の依頼メールが届いていました。
差出人:齊藤啓介
あらあら。同姓同名かしら。
待ち合わせ場所は、「ボンディ」という喫茶店でした。
(ここはポテトが美味しいんです)
そのご夫妻はすでに到着されており、おふたりで楽しそうに談笑されていました。
「お待たせしました」
整理します
夫、齊藤啓介さん29歳妻 夏美さん29歳
この度マイホームをご検討につき、家計の見直し相談。
このご相談において、最も大切なのは収支ではありません。
核心から確認することにいたしました。
「ご主人さま、奥さま、おふたりは亡くなるまでお相手を大切にできますか?私の目を見て答えてください。」
ご主人は私の目から1ミリもそらす事なく
「はい」
と答えました。
あの頼りなかった目とはまるで違います。
(これは大丈夫だ)
奥さまはいかがですか?
こちらも、愛くるしさは変わりませんが目の奥には強さがあります。
「はい」
わかりました。それでは始めましょう。
「しっかし、俺の年収が美月にバレるのか、なんか嫌だなー。」
「啓介さん安心してください。誰にも言いませんので」
「そういう問題じゃなくて」
「美月ちゃん別れてよかったかも。年収ひっくいよー」
「おいっ!」
夏美さんは私の1番最初の読者です。
まだノートに書いていた時からの。
この2人にはとくに幸せになってもらわなければなりません。
これは私情です。
しかし今回の仕事の品質にはプラスににしか働きません。
私は全力を尽くしました。
「ありがとう美月」
「いいえ」
「またね。美月ちゃん」
私の言葉はおふたりに役に立てたでしょうか。
答えはありません。
プロとして常に目の前のかたの最前の利益を考えること。
これが私の学んだことです。
正しい言葉と、思いやりを乗せて。
エピローグ
体調もほとんど戻り、好きな執筆活動も順調です。
私に今必要なこと。
どうしても会いたい人がいます。
私は今、空港にいます。
夕闇に包まれ始めた羽田空港の出発ロビー。
外は冷たい雨。
濡れる滑走路と静かに佇む機体。
搭乗開始のアナウンスが流れました。
大きなガラスに、映る自分。
パチンパチンと離れていった髪も中学と同じくらいに戻ってきました。
「あなたはどうしていますか?」
15年振りになります。
さあ行きましょう。ロシアの地へ。
執筆の狙い
三部作の三部目になるのですが、単体で読んでみてどうかと思いまして。