非有機の風鳴り
Ⅰ
玄関の灯りを点けると、靴箱の上に座らされた球体関節人形が目に入った。
全長五十センチほどの華奢な人形は、項垂れ、両足を投げ出し、睫毛の長い中性的な顔つきをしていた。浅く被った紫のベレー帽は空き家特有の澱んだ空気を吸いこみ、フリル付きの紺のパジャマ服は胸元が少し開けていて、黒のドロワーズとレースアップブーツとの間で白い足首が浮かび上がる。左手に握られたクオーツ製の林檎と唇が赤く艶めいている。
「これも主人の作品なのでしょうか」
「ええ。二年前に出展された『独林檎の君』と非常によく似ています。その前身でしょう」
わたしは夫の仕事についてよく知らない。人形作家だということは知っていたものの、作家名や、どんな作品があるかも教えてはくれなかったし、この仕事場についても彼はあまり話したがらなかった。彼は彼だけの情熱を最期までわたしに打ち明けてはくれなかった。理解されないとでも思ったのだろうか。結婚してから三年、わたしはまだ信用されていなかったのだろうか。毎朝わたしの作った弁当を持って仕事場へ出かけ、夜遅くに帰ってくる。先に帰宅したわたしは夫の帰りを待ち、夕食を共にしていた。仕事のことについて遠回しに尋ねても「順調」とか「悪くない」としか返ってきていなかったので、深く詮索できないでいた。あの日、いつものように出かけて行ったきり、あの人は帰ってこなかった。宿泊する際は必ず連絡を寄越す人だったので、予兆があったと言えば嘘ではないのだが、とにかく次の日の朝、夫の訃報の電話を受けたのである。
電話の主はT氏だった。結婚式のときに挨拶をして以来だったが、夫の古くからの友人で、あの人の作品を評論家として高く評価しているという人だった。わたしは過去に夫の創作活動について調べようと、夫には内緒で図書館へ行き、T氏が雑誌に寄稿した批評を読み漁ったことがあったが、わたしにそういった知識が無いためか、異様に読みづらく、それらしきものを見つけることはできなかった。ただそんなT氏でさえ、仕事場への立ち入りは禁止されていたぐらいであるから、あの人の秘密主義ぶりはやはり異常であっただろう。
夫の死因は飛び降り自殺だった。深夜の石神井川に身を投げ、四月ということもあり、発見された早朝には桜塗れだったという。お花見に来た人たちには気の毒だが、夫の回収のため、その辺りの区画は一時封鎖となった。
「先生の作品には生と死をテーマにしたものが多くありましたので、傾向上、最悪こんなことになるのではと時々よぎることもありましたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは思いもしませんでした。業界ではいまだ新進気鋭でしたから……」
春の陽気に熱されたアトリエの中で、T氏は額の汗をぬぐいながら言った。
「そうなんですか。お恥ずかしい話ですが、元々おとなしい人でしたので、まさかこんなに思い詰めていたなんて気づくことができず……」
「奥さんがいながら、誠に身勝手な男です。今日は業者が来る前の軽い確認ですから、残っている作品をチェックして早めに引き上げましょう」
仕事場は二階建ての一軒家だった。元は彼の実家で、彼の両親が定年になったときに譲り受けたものらしい。わたしが彼と出会ったときには既にアトリエと化しており、とても生活できるような状態ではないという、彼にしては珍しく強情な意見で、わたしたちはマンションの一室を借りて暮らしていた。子供が欲しいとは思っていなかったし、ある程度生活に余裕もあったので、さほど夫の持つ一軒家に心惹かれることもなく不満もなかった。夫の収入は同い年のわたしと比べると雀の涙ほどだったが、彼の才能がある程度世に認められているというのが、わたしが夫について誇らしく感じられる点のひとつだった。ある休日、夫が弁当を忘れて行ったので、自転車に乗って仕事場に届けに行ったことがあった。インターホンを鳴らし、彼が出て来る間、わたしは当然仕事場を見学させてもらう気でいたのだが、彼は出てこず、インターホン越しに「ドアのところに置いてくれ」というだけだった。
その日の夜、彼が返ってきた後、その件について問い詰めた。
会話は平行線だった。
「中途半端なものは見せたくないんだ。見せるべき時が来たら」
そんなこんなで、仕事場の話は半ばタブーとなり、彼の創作活動はブラックボックスのままとなった。
リビングにあたる部屋にはブルーシートが敷かれ、中央には大きめの木組みの作業台が置かれていた。その上には人形の頭や、手足などがパーツごとに並べられている。
わたしはその暗がりに並べられたグロテスクな状況に内心驚きを隠せなかったが、外には出すまいと抑えた。こういうものであることは過去にインターネットなどで調べていたし、玄関にあった人形と同じような、可愛らしい完成品のパーツなのだから、精巧に作られていて当然だと理性的に落ち着こうと努めた。
Tが部屋の明かりをつけると、作業台の上に一か所に集められていたガラス製の目玉が、蛍光灯の光を吸い込み、宝石のようにそれぞれ輝き始めた。
「窯やバーナーもありますし、ここがメインとなる作業場のようです」
「ここであの人は製作をしていたんですね」
「ただ、作品の設計図や構想が書いてあるような資料が見当たりませんね。どこか別の部屋にあるのかもしれません。試作品などもあればいいのですが」
「あれは何でしょうか」
わたしは向かいの壁に打ち付けられたウォールシェルフに飾られたいくつかの観葉植物の中に、光を反射する真っ白な陶磁器製のものを指さした。
それは三十センチ四方のサイズのもので、幹の太い大樹を模したものだった。その大樹は果実の様に大小の人の頭を実らせており、大きく育ち胴が付いたものや、黒く萎れ、腐ったような塊が見られた。陶磁器の裏には鉛筆で『生命の樹 2017』と記してあった。
「これも先生の作品である可能性が高いです。ただビスクドールではなく、このような陶芸作品は初めて見ました。年代も少し古い、初期の作品だと思います。」
初期も何も、玄関の人形に始まり、ここまで初めて見る物ばかりだった。彼の表現の変遷や、葛藤など何一つ知らないで、わたしは今までどうやって、夫と接していたのだろうか? 夫がどのように世界を見ていたのか? 彼にはわたしがどう見えていたのだろうか? わたしは能天気な自分と寡黙すぎる夫に無性に腹が立った。
浴室には人形のパーツが干されていた。干してある、ということはその先の工程を予定しているのだから、自殺はおかしいんじゃないかと、サスペンスドラマで得た知識をT氏に披露したが、「警察が言うには、突発的なものである可能性が高いそうで、他殺の可能性は低いとのことです」と軽くあしらわれてしまった。
広めの洋室は資料室のようで、画集や写真集、辞典、専門雑誌などが収納された本棚と、背表紙に年月の記された、青色のファイルが複数収められたラックとがあった。
奥にはPCと3Dプリンターがあり、予想を超えたその設備の重厚感に面食らった。
「最近の人形作家はこういったものも使うようになっているんですよ」
わたしの心中を察してか、T氏が言葉を添える。
「こういった機材類をこのままにしておくのは勿体ないですよね。どうですか? 資料も何もかもそろっていますし、創作を始めてみては?」
「いえ、わたしはそんなつもりはありません」
精神的な面で彼から引き継げるものなどある訳がなかった。
T氏は青色のファイルが夫の作品の設計資料集であることに気づき、パラパラとめくりながら、手帳を取り出して何やらメモを取り始めた。わたしは直感で「長くなるな」と思い、洋室を抜け、一人で階段を上った。
Ⅱ
夫とは四年前マッチングアプリで出会った。わたしはシステムエンジニアで出会いも少なく、年齢的に焦りを感じ始めても良い頃だった。黙々とした業務内容は性分に合っていたし、休日は映画を見て過ごし、このままの生活がずっと続けばいいなとも思っていた。結婚願望というよりは親族や、社内の目を気にしてのことだった。年々独身であることに対しての風当たりが強くなっていることを感じ、変に世話を焼きたがる周りの人間が鬱陶しく思えた。それなら早いところ「売れ残り」のレッテルを張られ、お節介が憐れみへと変わる前に、さっさと結婚してしまおう、という気持ちだった。
彼に初めて会った時の第一印象は「静かな人」で、それは最期まで変わらなかった。瘦せ型で黒いワイシャツに黒い毛糸のカーディガンを羽織り、黒いスラックス姿という全身黒ずくめで少し威圧感のある出で立ちで現れたが、話してみると優しい笑顔が素敵な人だった。
彼もわたしと同じ結婚観らしく、半ば恋愛は先送りの形でわたしたちは結婚した。
それから三年間色々なことがあった。二人の仕事の合間を縫って美術館に行ったり、海へ行ったり、古くからの友人のように笑いあったりもした。思い返すと再び涙が込み上げてくる。これからの未来にあの人はいない。一週間前と比べて随分気持ちが落ち着いてきたが、やっぱりまだ受け入れられない。
自分の中で区切りをつけるためにも、あの人の創作について理解し、彼の断片を補完する必要があるように感じた。二階に上がると、左右の突き当りに二つの扉があった。右側のスライド式の方が少し開いており、入ってみると中は物置部屋のようになっていた。わたしはどこか懐かしさを感じた。真正面にある半円型のステンドグラスの窓は百合の花を模しており、部屋をシンメトリーに分かつように、ひじ掛け付きの木製椅子が四脚ずつ奥を向くように置かれ、それぞれ白い布を被った人形が座らされていた。
結婚式の日を思い出す。入籍から半年後、挙式はわたしの希望で海の見える教会で行われた。天気が良く、教会の窓から差し込む日の光、おっとりと揺らめく水光、バッハの落ち着いたメロディ……、でも葬式はお寺だったな。思い付きだけで行動していると、振り返った時にいかにちぐはぐな道を歩いているかがよく分かる。自由と言ってしまえば聞こえはいいが、何もかも手探りで、基準となる羅針盤を失って長く、狂った方向感覚に慣れてしまっただけの気がする。あの時の誓いはただの形式で、吉日によく行われがちな同時多発的なイベントの一つでしかなかったのだろうか。わたしはまた絶海へ投げ出されてしまった。でも、この部屋の風景はあの時の結婚式を模しているという感覚があった。あの人はその日のことをないがしろになどしていないと思った。参列者である人形たちの布を取り去ると、組み上げただけの真っ白で裸の人形が現れた。頭頂部が割れており、中を覗くことができた。鮮やかなネモフィラの活けられた花瓶が収められているものや、内側に紫水晶が張り付けられたもの、楽譜の書き込まれたもの、黒く塗られたものなどがあった。
今一つ自分の感覚に対して確信に至れない点は、この空間に花嫁と婿がいないことだった。わたしはその違和感に応じる回答を見つけられないでいた。というより、一通りこの人形たちを見てきて、あの人がこのことを隠すほどのものとは思えなかった。彼の作品を見ることで、彼の内面が明らかになり、見方が大きく変わるかもしれないくらいの覚悟をしていたのだが、作品の一つ一つはその精巧さとインパクトに少し驚く程度で、今更あの人への印象が大きく変わるほどのものではなかった。考えてみれば、夫婦生活も短くはなかったわけだし、夫の仕事の詳細について知っている妻がどれだけいるだろうか? そもそも本当の彼は仕事をしていない方と考えるのが普通ではないか。表の顔というのが本来仕事上の公の顔で、裏の顔、つまり本性が出るのが夫婦間だろう。自殺さえしていなければ。この謎が彼と私の間に不自然な靄をかけている。警察は突発的なものだといったらしい。T氏曰く、創作の苦悩か、ノイローゼか。家でのあの人は全くそんなそぶりを見せなかった。いつも通り朝起きていたし、決まった時間に帰ってきて、会話も滞りなかった。決まった時間……、そういえばいつからだっただろうか、遅い時間に帰るのが当たり前になり、土日も仕事しがちで、二人だけの時間が取りにくくなったのは。二人で笑いあった思い出は記憶以上に過去の出来事で、最近は円満な夫婦ではなかったのかもしれない。後悔することに何の意味もないことは今までの経験上よく分かっていたが、それが原因の一つでもあったならば、自分を責めずにはいられなかった。わたしは新郎新婦不在の式場を後にし、隣の青い扉を開けた。
そこは書斎のようだった。先ほどの部屋と同じくらいの広さで、部屋の左側一面は小説や新書が収められた本棚で占められており、正面には白いブラインドが付いたレバー式の窓と、その近くにグレーの事務机が置かれたシンプルな部屋だった。つけっぱなしの間接照明の光が、机上にある銀の灰皿と「遺書」と描かれた一冊のA4ノートを照らしていた。
Ⅲ
二〇二五年三月七日、二十二時十九分。外は虫も鳴いていないようで、部屋全体が静寂で満たされている。永遠を思わせる錯覚は強い孤独を意識させる反面、どこか全能であるかような感覚を抱かせる。無音の均衡が肉体と他の物質、空気の間にあるそれぞれの隔絶を忘れさせ、精神の輪郭だけを感じるからだろう。はっきりとした意識を持ちながら夢の中にいるような浮遊感。
ここに記すのは私がこの愚かとも思われる試みを実行するに至った経緯と、その思想を残すものである。
話は七年前に遡り、私が球体関節人形の霊力に憑かれ、作家を志すに至ったきっかけの出来事に端を発する。当時、私は将来になんの展望もないまま大学を卒業して就職し、身に着けてきた文学や芸術の知識など全く無用の職に就いていた。金のための仕事。灰色で塗りつぶされたような日々、無際限に時間を喰わせ、生活するだけの日々はいつしか私の現実感覚を有耶無耶にさせた。「人生などこんなものだろう」となんとなく思うようになっていた。大学時代からの友人Tはややアングラ寄りの美術評論家かつキュレーターとして生計を立てており、月に一、二回の頻度で一緒に酒を飲む仲だった。案外忙しくしているようで、展覧会が近くなるたびにほとんど徹夜の状態が続くと話をする彼はいつも笑っていた。
彼は不器用な男だった。自分の気に入ったもの以外には全く頓着がなく、「No Music No Life」ならぬ「No Art No Life」を貫く極端な奴だった。芸術に対する異常なまでの執着とそれ以外へ向けるそっけなさすぎる態度のギャップが非常に面白く、一緒にいてヒヤヒヤすることも多くあったが、退屈しなかった。
彼は生き方の不器用さだけではなく、創作の才能にも恵まれなかった。「芸術は純粋であるべきだ」というのが彼の口癖で、頭の中では大層なことを考えているらしかったが、そこから創出される絵画は「え」とひらがなで表現されるべきレベルで、立体物に関しても素人目にしてどこか懐かしさを覚えるほどの、言葉を選ばなければ幼稚な出来ばえだった。「そんなに芸術が好きなら、表現の仕方について本を読むなり、教室に通うなり誰かに教えてもらいながら努力するべきだ」と私はその渾身の失敗作を見る度に助言のつもりで言葉をかけるのだが、「他人の意見や既存のやり方に縛られていては、純粋な創作はできない」と彼は一向に聞き入れようとしなかった。そんな調子で彼は大学時代に様々な作品を世に出し続けてきたが、案の定鳴かず飛ばずに終わった。そんな経緯があって彼は裏方を志すようになり、それからは割合とんとん拍子で界隈から受けいれられ、それなりの位置におさまったようだった。
始まりはTが担当した一つの展覧会だった。
「来月開催予定の展覧会『エロスとタナトス❘複製可能な麗人展❘』は僕のいままでのキャリアの中で最高のものになると確信している。僕の知りえる天才たちに何度も掛け合った結果、ついに実現するんだ」
いつもの居酒屋で、席に通されるや否やTは先ほど完成したというチラシを取り出して机の上に置き、こちらへ滑らせた。既に成功を確信するほどの自信作らしく、彼の昂ぶりようは既に酔いが回っているかのようだった。
「いつものアングラ展だろ。そうそう話題にはならないと思うけど」
私は彼の様子がいつもと明らかに違うことを感じていたが、その浮かれた様子がどうも気にいらず、少し煽るような返答をした。彼は日ごろの無自覚な不摂生で見た目が美しい方ではないため、たまには強く当たりたくなってしまう。これは彼の鈍感さに甘えた攻撃的なコミュニケーションで、愛馬に鞭を打つようなものだ。実のところ、日ごろのストレス発散でもあった。
「そう言ってしまうのも無理はない。今回も規模は小さいし、作品を出展してくれる作家さんたちは無名のアマチュア紛いが多い。僕の経歴的にも、予算的にも有名人は呼べない。でも今回は選りすぐりのダイヤの原石たちなんだよ。僕だけが知っているまだ芽の出ていない天才たちが一堂に会する。こんなこと普通はできない。ほとんどの場合、色々と注文やチェックが入って、どこの馬の骨かも分からないような作家のものは却下になる。だが今回はクライアントが何をどう勘違いしたのか、雑誌でたまたま見つけた僕のことを非常に高く評価してくれていてね。あんまり芸術系に興味がないみたいなんだが、そういった方面にも顔を利かせたいらしく、予算だけ提示されて、後はほとんど丸投げみたいなものなんだ。思う存分にやりたい放題な訳だ。この展覧会では僕の百パーセントの審美眼が試されてる。だから君にぜひとも来てほしいと思って」
少年の様に潤った瞳は照明を反射して輝いていた。
「ぼくと君の美的センスは似ているからね。君にとっても楽しいものになるはずだ」
「Tにとって最後のキャリアになるみたいだし、行ってみるよ」
「美的センスが似ているから」というのは、あのときはじめて彼から聞いた言葉だった。私は今まで何となくの了解で友人のように接し、彼のほとんど一方的な話を聞いていたのだが、彼の中ではそんな理由があったのかと不思議に納得したことを覚えている。
それはデパートの一区画で開催されていた。チラシを拡大した立て看板が目印の、出入り自由の小さな企画展だった。こぢんまりとした割には勿体ぶった作りで、外から中が覗き込めないよう、入ってすぐ右に曲がり、一人分の狭い通路を進んだ。
私は深呼吸し、いつものジンクスで左手を胸の前に置き、気持ちを落ち着かせた。これは作品を鑑賞する際には必ずやっていることで、「冷たい心」を意識してのことだった。作品それぞれのバックボーンだったり、細やかな技術などに注目するという方法が持つ確実性も否定はしないが、私にとってはこのやり方が芸術に対する「純粋」な触れ合い方だった。
突き当って左に展示スペースが広がっていた。スペースは大体正方形で、上部はクリーム色、下部は白黒ストライプ柄の壁で覆われ、向かいに出口が見えた。すでに五、六名ほどの観客がおり、収容人数を鑑みれば、それは充分に盛況していると言えた。
『エロスとタナトス』というテーマに沿ったオブジェや、くすみがかった銀色の額縁で飾られた絵画などの作品が等間隔で壁際に展示される中、中央のテーブルに一体だけ、大きめの球体関節人形がぽつんと置かれていた。
それは磔にされた一糸纏わぬ少女の人形だった。体中傷だらけで、乾いた黒い長髪がふくらはぎに触れるほど長く伸び、頭はぐったりと項垂れ、半開きの眼で虚ろをじっと見つめている。表情に生気はなく、向けられた数多の視線に対して無防備だった。
彼女は全身から血を流していた。伸びきった蒼白く滑らかな腕、首すじ、下腹部、足の付け根から溢れだした深紅の液体は、所々、間接に飲みこまれながら腋、乳房を経由して、両足の太腿の輪郭をなぞるように回転しながら踵を目指す。液体は毒蛇の舌のように、足の裏を左右に這いながらつま先から滴り落ち、直下に血の池を形作っている。その血の濃さ、その不透明さが彼女の内奥に潜む徹底的な秘密の存在を私に仄めかしていた。
「なんという生命力!」私はこの無機物の少女から強烈な生命を感じた。この作品は私が失ったものの全てを突き付けていた。それは敵意を持った相手が向けるナイフの切っ先の如く、安心しきっていた私の心を激しく揺さぶった。
構造としては十字架と人形が一体となり、十字架の内部から細いパイプのようなものをいくつか通し、着色した液体を流しているのだろうが、永遠に流れ続ける血という表現があのときの私には何よりもリアルなものとして映ったのだ。切り口から滝のように果汁が溢れ出す檸檬。死にゆくフレッシュさ。白黒点滅する背景に散りゆく桜。様々なイメージが鎖のように次々と浮かんでは繋がっていった。
テーブルに添えられた作品名のタグには『静香』と書かれていた。作家名は知らない名前だった。この女性は作家にとって相当の思い入れのある人物に違いなかった。
私は鑑賞の衝撃を心中で反芻しながらも、一度彼女から離れて他の作品も見て回ってみた。しかし、それ以外の作品などあの時の私の目にはもはや退屈なものとしてしか映らず、箸休めにもならなかった。不可逆で消耗し続ける人生の中で、一分一秒でも彼女を鑑賞していなければ、それ以外は無駄なのだと使命感に燃えていた。このタイプの使命感はその時その瞬間にしか説明し得ないもので、冷静に振り返ってみればなんてことはない、ただの突飛な作品のひとつでしかないし、作家の想定を超えた過大解釈のみならず、「受け手の都合の良い誤解釈」が多分に含まれているものだ。当時の私を取り巻く鬱屈とした日々に対する不安や不満に対して、カオスの渦巻く内面世界が総じて一方向を指した。あの時、確かに胸を貫く光を感じたのだ。先ほどの「冷たい心」の話と矛盾しているように思えるかもしれないが、これは知識や経験、感情などを無意識の沼に放り込み、作品を見ると同時に意識へと流れ込んできた急な閃きに身を任せた鑑賞方法ともいえる。
怪しく誘うように吊り上がった引き目、小さくも芯が通り、少し上を向いた鼻先からは誰にも媚びぬ傲慢さ、可憐に咲いた花のように淡く窄まった唇、そして、その手の人形にはありがちな、削られたような顎からは、ただ崩壊を待つだけの束の間の純粋さが永遠に閉じ込められたようだった。
私は蛇に睨まれた蛙のように、長いこと彼女の釘付けになっていた。その神妙な硬直状態を解いたのはTだった。
「来るなら今日だと思っていたよ」
Tは後ろから私の右肩を無遠慮な強さで叩き、右隣りに並んだ。二人で作品を暫し眺めた。
「『少女地獄』。僕はこの作品をこう呼んでる。夢野久作のそのままだけどね。彼女自身が地獄での苦しみを受けているのか、はたまた彼女の恨みが鑑賞者を地獄に堕とそうとしているのか。それは分からないけど、多くの人は後者の印象を受けるだろう。指先を針で刺されたかのような罪悪感を覚えながらも、掌が血塗れになっていることに気が付かないまま、彼女の虜になってしまうんだな。ただ、作りの問題を言えば排水の循環方法に無理があって、今みたいな状態はもってあと一週間弱、残りの期間は血を止めるしかないが、試みとしては面白い」
「やっぱりこれが今回の目玉なのかい?」
「その通り。この展覧会は彼女の有無にかかっていたと言っても過言じゃない。何よりインパクトがあるからね。彼を口説くのには苦労したよ。なんせ作家のくせに作品を世に発表したがらないなんて、前代未聞じゃないか」
Tが言うには、彼女の創作者はアマチュアで、行きつけのバーで見つけた逸材とのことだった。自由ヶ丘にある一見ただの民家にも見えるそのバーは、脱サラしたマスターが一人で経営している、落ち着きがあって居心地の良い店だ。私もTに紹介されてから、仕事帰りにふらっと立ち寄ることも少なくなかった。
Tが彼と出会ったのは二月の夜、東京では雪が降り、電灯を鮮やかに照らし返していた。街は映画のセットのように不自然に明るく、澄んだ冷気が肺に突き刺さる夜。Tはとある展覧会の打ち上げの帰り、落ち着いて飲み直そうと一人でその店に入った。
「いらっしゃい」
「ジントニックひとつ」
氷を砕くマスターを一瞥しながら注文を済ませ、カウンター席に目をやると、奥の席に黒い塊のようなものが目に入った。よくよく見ると、皺だらけの黒いダウンジャケットを着、腰を丸めた男が座っていた。男は暗めの店内でより一層黒く、縮こまって寒さを紛らわすようにウイスキーを舐めていた。哀愁漂う貧相な身なりには、消えゆく者の儚い確かな存在感があった。Tは席を一つ空けて男の隣に座り、声をかけた。それはTにとって珍しいことではなかった。
「こんばんは、少しお話しませんか。この店に来る人は皆マスター同様、センスがいいから」
マスターは無言で微笑みながら、ジントニックをTの前に置いた。男はこちらに目を向けた。
「話すことなど何もありません。私はつまらない男ですから」
男はすぐに目を逸らしてさらに縮こまり、両手を組んで机の上に置き、はにかんだ。
「申し遅れました。私、美術展の企画、展示などを行っているTと申します。宣伝も兼ねて、ではありませんが、職業柄、色々な人とお話しするようにしているんです。少しだけ付き合っていただければ嬉しいのですが。お仕事は何をされているんですか?」
Tは男がただの引っ込み思案で、押せば話したいだけ話してくれる相手だと感づいた。Tには経験と野望に裏打ちされた自信と余裕があり、若くして現在の地位を獲得するだけのカリスマ性を身に着けていた。彼に対するTの予想が仮に間違っていたとしても、あの風体から睨まれてしまえば、無口の男も口を開かざるをえまい。男は受け取った名刺をしばし眺めた後、カウンターの上に置いた。
「仕事は去年退職しました」
「それはまたどうして? いや、話せないなら話さなくても構いません。ただ、見たところまだお若いですし……しっかりしていらっしゃる」
目が合うし、呂律も回っている。精神的な病などが原因ではなさそうに思えた。
「所謂、中年の危機ってやつですかね。魔が差したというか、独り身ですから、本来自由のはずなんです。会社には適当な理由を付けました。「実家稼業の後を継ぐ為」と、父は既に定年退職済みの公務員だったんですけどね。やりがいはあったんですよ。嬉しいことも、辛いことも、信頼を得たり失ったりと様々時間を費やしましたが、胸の中にあるモヤモヤとしたものが晴れないというのが長年の悩みだったんです。理路整然とお伝えできればこんな深夜に酒なんか飲んでいないんです。このモヤモヤとしたものは先送りできるものなんです。自己の問題ですから。ある時、ふと人生の短さを感じることがありまして、今こそ人生の外縁かつ主観的な問いについて考えてみようと。端的に言えば退職の理由というのはそれに立ち向かおうと思いまして」
男は堰を切ったように話し始めた。酔っているせいか、自分自身に言い聞かせるように、頭で思っていることをそのまま口にしているようだった。
「なるほど。自己と向き合う時間を作ろうとしたわけですね。どんな風に取り組むおつもりです?」
Tには大体見当がついていた。この場所は画材屋に近く、客は大体芸術に明るい人物であることが多かった。彼はここでよく新人発掘を行っていた。
「人形を制作しています。単純な考えですが、人間の問題は人形でもって表現した方が明快であると思っています。自己の分身かつ他人。兄弟や娘、息子のようでありながら、修正や歪曲可能な無機物。現状イマイチしっくりくるものは作れていませんが」
「それは長い旅ですよ。人形は無抵抗ですから、作者の欲望そのままを全て受け止める。優れた人形を創るには、絶えず欲望を与えつづけにゃいかんのです。貴方の作品をいくつか見せていただくことはできますか?」
男はスマートフォンを開き、写真のフォルダを開いてTに渡した。
収められた数枚の写真は、一体の人形を色々な角度から撮ったものだった。エメラルドグリーンの素朴なドレスを身に纏い、額の大きく開けた薄茶髪の少女。下唇を気持ち突き出し、眉と口角が数ミリ下がってどこか不満げな表情を見せている。ガラス製の大きな眼の内奥は、青と焦げ茶の混じる虹彩がブラックホールの瞳を取り囲む。左眼には無数の罅が入り、風が吹いただけでも破片が零れ落ちそうな状態である。彼女を左側から撮った一枚の写真がTには輝いて見えた。彼方を見つめる不安そうな少女、手前側に写った夢見る眼球は美しく輝き、奥側の眼球は打ち捨てられた後の様な凄惨な最期を迎えている。
「うん、なかなかに示唆的ですな。いや、素晴らしい出来です。今度の展覧会で『エロスとタナトス』展というのを構想しているのですが、是非ともこの作品を出展していただくことはできませんか?」
『エロスとタナトス』展、これはTがこの作品の印象から咄嗟に思い付いたものだった。
Tは内心興奮していた。探し求めていたダイヤの原石に違いなかった。溶けた氷がグラスに当たり、鈴のような音が響いた。
「有難いお話ですが、お断りさせていただきます。というよりも、この作品はもう壊れてしまって、写真しか残っていないんです。それに、これは私のための創作ですから、他人の意見は極力聞き入れたくないんです。貴方はそれなりに信用できそうな人と見受けましたのでお見せましたが、この作品に対して感じる私以外の感想は全て誤解ですよ」
男はTからスマートフォンを取り上げ、胸ポケットへしまった。そしてこれ以上話すことはないと言わんばかりに、下を向いてしまった。Tは話を聞いてさらに喜び、何としても彼のこれからの作品を追っていきたいと思った。
「自己の問題は人間の問題ですよ。貴方には特別な才能がお有りなんだから、人生に悩む多くの人々のために優れた作品を世に出すのも使命だと思いませんか? 仕事をお辞めになったのだから、今後の収入も必要でしょう」
「作品を他人に還元する気はありません。私が会社員時代に学んだことです。人と人とは本質的な意味で分かり合えない。努力することはできますが、極論、0.999……は1にはならない。主観的に完璧な回答を目指す以上、「自己に客観的な自己」以外の客観はいらないんです。金銭は関係の最たる例です。私にはもう、彼女を完成させるか、彼女に殺されるかの二択しかないんですよ」
「成程、ともかく、次回作の構想でも何かしらあれば、是非ともご一報ください」
そういった経緯があってこの『静香』が送られてきたということであった。私が彼女から感じていた不思議な魅惑の正体は、他者に対する徹底的な拒絶から来るものだとわかった。
「この作品のテーマは「憎悪」だろうな。これが「これ以上私に関わるな」という意味なら、我々はもう彼の作品を拝むことができないわけだ。君にもわかるだろう。大きな損失だよ。そこで君に頼みがあるんだが、馬鹿のふりをして、彼に接触して来てくれないか? アトリエの場所は何となくあたりがついてる。僕の友人だと言えば、彼も言いたいことの一つや二つあるだろうさ。彼の構想や作品の偵察をしてくれればいいんだ」
Tは声色ひとつ変えずに無茶な提案をしてきた。それこそ馬鹿なふりをして。
「作品の意図を何一つ汲まず無神経にコンタクトをとるってことか? そんなの彼が最も嫌いそうなことじゃないか。より一層他人との隔絶を感じさせるだけだ。下手をしたら、何もかもに絶望して、最悪の事態になることもあり得るぞ」
私はこのとき彼に会う勇気がなかった。しかし、作品がここ打ち止めになることが勿体ないというTの意見には大いに賛成で、ここで何かアクションを起こさなければ、今後一生後悔が残るという予感があった。
「わかってないな。彼は今非常に危険な状態にある。『自分こそ世界』なんて重度のナルシズム、精神異常じゃないか。今ここにある作品は意図が外に向かっている。だから我々が理解して感動できるんだ。これが内へ内へとフラクタル図形の様に延々と潜らせてみろ。結局のところ森羅万象の物の中身が空洞だなんてことは二十一世紀に生きる我々にとっては既知の事実なんだから、無駄に時間を費やすだけさ。その癖、無視できないほどの時間と金と体力をつぎ込んだものだから、あまりの答えの単純さに混乱して、「こんな単純なわけがない」と思い込み、何度も何度も答え合わせをする。終いには、これでも幸運な例だが、自分に都合の良い詭弁を作り出して「ここに至るためには必要なコストだった」と一安心するのさ。知っているかい? ダリの描いたアリスの挿絵を。ロールシャッハ・テストのような色彩と不定形のコラージュ。あれが美しい芋虫や、愉快なお茶会に見えるのは夢の主であるアリスにだけだ。我々読者にとってそれが幽かに読み取れる程度でしかないのは、夢の世界こそ『自分こそ世界』であって、それを現実で行うというのはナンセンスな作業ということだよ。つまり、これは崇高な人助けなんだ。今後の人生を無為に費やす天才の意識を少し変えてやるだけでいいんだ。自己の内部に抱える問題の解決は、外部からの働きかけがないと無理だろう。」
「アリスの挿絵に重要なのはアリスそのものじゃない。芸術に重要なのは、その絵に凝らされた技巧や意図、或いは……人を立ち止まらせることだろう。本当に書きたいことはモチーフじゃない。それを描くまでの過程だったり、葛藤だったりするものだ。それは誰に向けられたとかでなく、優秀な作品というのは問題が自分に向かってながら、他人にも通じているものなんだ」
「でも、世に出すつもりがないんだろう。「自己の問題は人間の問題」、他人にも通じていたって、その他人が居ないんじゃ同じことじゃないか。閉ざされた箱の中でいくつかの作品が作られては朽ちて、たとえ芸術史を塗り替えるような大傑作が生み出されたとしても、本人はお構いなしだと言うんだ。馬鹿な話だろう。才能に恵まれた者の驕りだよ」
「君のその懸念には同意するが、防ぐ術がないんだ。この作品を見てしまった以上、彼の意識が外へ向くように説得する自信がない」
「君が作品を保管しておいて、のちのち公開するでも良いんだ。保管といっても、彼にとっての失敗作がぞんざいに扱われないように管理するとかでもいい。それぐらいのことで怒るやつはいない。取り合えず、この件は君に任せた」
Tは語尾強く話し終えると、そのままスタッフルールームへと消えてしまった。彼が一旦この状態に入ってしまえば、もうこの件については私に丸投げで、ほとんど無責任な人間になる。こういうところが嫌いだった。
Ⅳ
一週間後、私は彼のアトリエ兼自宅と言われるアパートの前に立っていた。以前、排水の循環に問題があると言われていた『静香』は、当初危惧していたよりも随分と早くの段階で結末を迎えていた。
Tから聞いた話だと、平日の昼間に突然胴体が裂け、下半身が血の池に落ちた。そのとき血飛沫が観客にかかり、多少トラブルがあったという。その時に発覚したことだが、彼女の「血液」は塩分濃度が非常に高く、まるで時限式爆弾のように、意図的に臍の辺りから腐り落ちる仕掛けがあったのではないかということだった。この液体の成分について怒りながら知らせてくれた観客の健康に異常はないとのことだった。
年季の入った二階建てのアパートは白色の外壁が所々黒ずんでおり、鉄骨階段は塗装が剥がれて錆びた状態だった。日が差し始めた時間帯のため、腐食した階段はササラから淡々と結露を落とし、落下点周辺にある雑草の繁殖を助長させていた。二段目まで雑草に飲まれたその階段を上がり、突き当りにある部屋の前で立ち止まった。
自分以外の全てに対して拒絶を突き付けた彼女の創作者はそもそもまともに対応してくれるのだろうか? 事前にアポを取るようTに頼み、話は通してあると連絡を受けていたが、それも私をまんまとここへ連れてくるための嘘だったのではないかと思い始めた。Tもここへ連れて来させるべきだったと少し後悔したが、もうここまで来てしまった以上、インターホンを押すしかなかった。曇ったチャイムの音が鳴り終わってから数秒の間、私は緊張と期待の中、全く微動だにせず、餌を待つだけの雛のようなか弱さを感じながら、一心不乱にただ待っていた。
二度目のインターホンを押そうか、「留守だった」と言い訳して帰ってしまおうか悩み始めたころ、扉がゆっくりと開いた。
「お待たせしてすみません。Tさんのお知り合いの方ですよね?」
「はい」
「どうぞお入りください。ほんとに申し訳ないです。面倒事を押し付けて来る大家かと思って、いつものように居留守していたのですが、そういえば今日人がいらっしゃる日だと思い出しまして……」
男は小柄で、想像していたイメージと大きく違って腰が低く、拍子抜けしてしまった。そういえば、Tの話に出ていた彼は酒を飲んでいたのだった。目の前にいる彼は芸術家ではなく、一介の生活者として振舞っていた。私はそのまま居間へ通された。
部屋に電気は付いておらず、掃き出し窓を覆う薄手の青いカーテンが陽光を媒介し、部屋をブルーに染め上げていた。居間はソファ正面にある閉ざされた木製の引き戸で二分されており、多少の圧迫感を覚えながらも、横幅三十センチほどの細長い本棚や、太い幹から自由気ままに枝葉を伸ばすバオバブのプランターなどが生活感を漂わせていた。目当ての作品たちは引き戸の奥にあるのだろうか。
「私が一日中部屋に居るからって、大家には困ったものです。その分家賃が安くなるならまだしも、彼女は社会復帰の世話をして遣っているつもりなんですから、何の得も無いですよ。」
男はてきぱきと二人分のインスタントコーヒーを用意し、私をソファに座るよう促して、もてなし始めている。違和感。お互いか、どちらかが何か大きな勘違いをしているに違いないと思った。
「あの、私が本日お邪魔した理由をご存じでしょうか?」
「ええ、事前にTさんから伺っていますよ。作品の保管などお手伝いして頂けるみたいで」
「そうです。そのつもりでお伺いしたのですが、他人に作品を見られたり、触られたりするのはお嫌なのではと思っておりまして……」
彼はコーヒーの入ったマグカップを私の前に置き、本人は向かいに立って本棚に凭れかかった。
「『少女地獄』の件ですね。彼に適当なことを吹き込まれましたか、そんなものは誤解ですよ。そっとしておいて欲しいのは事実ですが、私は周りを憎んでなんかいません。もしかしたら彼女自身はそう思っているのかもしれませんけどね」
「作品の持つ意思はあなたのそれとは別物だと」
「彼女は今や私の精神に住まう独立した人格と言えます。私は彼女から執拗に願われて彼女の移り住む器を作っているんです。願いを叶えて遣りたいと思うのは、かつて愛した人の記憶だからかもしれません。ただ、彼女は傲慢すぎる。瞳の色や鼻筋、胸の形、腰つきなど細かくオーダーを出して何度も作り直させ、ようやく完成というところで、全く別の造形を所望するようになり、過去となったものに対して「醜い」と一蹴する。『少女地獄』もその一つです。製作途中までは彼女の思う「美」そのものだった。ただ完成させた途端、脳内に響く彼女の声色は鮮やかさを失い、まるで路傍の石を一瞥するかのような無感動さでそれを捨てるよう命令するんです」
「「美」という概念自体は形而上の存在ですから、現実に成立させた時点で思った通りの結果とならないのは自然なことです。比較対象とは次元が違うんですから」
私はまた嫌味を言ってしまっているだろうか。
「そこが問題なのは分かっています。そのためには絶対的、もしくは流動的なものでなくてはなりません。その点で彼女の審美眼は間違っています。彼女が求めているモードのポートレートは一回性の美しさでしかありません。消費されやすく、脆い。私は刹那的かつ永遠の物を作り出さなくてはならないのです。この前の作品に施した仕掛けもそれを意図してのことです。失敗に終わりましたが」
「かぐや姫の無理難題ですね。そんなものを今でも作っているのですか?」
「勿論、これが私の残りの人生ですから」
彼は恥ずかしげもなくそう述べた。そう述べたのち、コーヒーを飲み干して引き戸を開いた。
金木犀の甘い香りの溶け込んだ暖かい空気が、ソファに座っている私の身体を包み込んだ。向かいは畳の敷かれた和室になっており、ピンクの花模様の薄いカーテンから差し込む光が部屋を淡く赤く、少しだけ暗く照らしている。桜の木で作られたと思われる赤褐色の和箪笥、三面鏡の化粧台、そして丁寧に敷かれた煎餅布団という配置は大正か、昭和初期のレトロな夫人の寝室という雰囲気を醸し出していた。その布団には一人の女性が眠っている。私は彼女のゆっくりとした寝息を聞き、薄く赤い布団が静かに起伏する様を見た。しかしそれは二度繰り返されることはなく、私の幻聴、幻視であったと気付かされた。彼女は一体の人形だった。私はそれを深く観察しようと立ち上がり、彼女の下へと駆け寄ろうとしたが、男に制止された。
「こちら側の部屋から出てはだめです」
仕方なく私は引き戸の境界線手前で正座し、彼女を鑑賞した。
眼を閉じた少女はアッシュグレーの縮れた長髪で、それを頭と枕の間で野放図に散乱させていた。その半面、寝顔は静謐そのもので、血色良く、エレガントに反り上がった茶色い睫毛の一本一本は眠りを妨げるものを威嚇するように屹立している。
止まった時間。眠っている彼女にとって相対的に存在していない背徳的な時間。或いは、彼女の死を受け入れられない『私』の、絶対零度に静止した空間。先の例えに倣うなら、まさに『眠れる美女』……。
しかし、これも彼、もとい彼女にとっての失敗作であることは何となく理解することができた。私は彼女の寝息を一度しか聞いていない。私があの人形を生物と無機物の狭間であると認識できたのはほんの一瞬で、今となっては他の人形と同じく、永遠に無機物のままである。彼の抱える問題はとてつもなく大きい。正攻法で真摯に取り組むにしては、彼ほどの才能をもってしても一世代限りの情熱や、覚悟で成しえることとは到底思えない。彼の目的を達成し得る方法はセラピーやイニシエーションによるものでしか現実的ではないだろう。人形に準えて例えるならば、大根などの野菜を彫って人形を作り、人参やらパプリカやらで装飾する。それを腐葉土の上に置き、腐り、分解され土に還ってゆく様をタイムラプスなどで撮影すれば、彼女は有機物として生命のサイクルに組み込まれ永遠となる。そんな呪術的なイリュージョンによってでしか、彼の悩みは『治療』されないのではないだろうか。ただ、そんな提案をしたところで万が一、彼の悩みが精神の内部で解消されてしまったら? 解決させてしまっては意味がないのだ。「LOVE IS ART, STRUGGLE IS BEAUTY.」、愛の解決を芸術に求めると覚悟した以上、彼には死ぬまで作品を作り続けてもらうしかない。とりあえず、目先の問題はこの作品の保存だった。空間そのものとして作品が完結されている以上、単なる人形作品とは言えない。その人形自体についても、視野の狭まった創作者によく見られる局所的に拘られたもので、特定の位置からでしか形を保てず、少しでも位置をずらそうものなら修復不可能な、まるで初心者が作ったソースコードのように乱雑で冗長なものだった。何としても目的を達成させようとする情熱と、他者の鑑賞を端から切り落とした気持ちのいいまでの傲慢さが目下に立ちはだかる。
「大分大掛かりな作品なので、保管についてはTと相談する必要がありそうです。場合によっては写真のみに止めるということもあり得ます」
「そうですか。私としては次の構想が決まる前にスペースが開けば問題ないので、好きにしてもらって構いません」
「……、やはりこれも失敗になるのですか?」
「ええ」
その抑揚のない返事からは彼の真意を汲み取ることができなかった。
その晩、いつもの居酒屋で
「成程、やはり彼は新作を作っていたわけか。『少女地獄』と違ってこちらに連絡がなかったのは運搬上の問題があってのことだろう。かなりの収穫だよ。今日は僕が奢ろう」
展覧会の成功も相まってか、Tは上機嫌だった。開催期間はひと月に満たないほどだったが、評判はかなり良く、当時SNSや専門雑誌で何度か取り上げられているのを目にしていた。
「当然彼の名前も上がっただろうし、前に出てこざるを得なくなってきたんじゃないか?」
「それはどうだろうな。ある程度は名前が知れたかもしれないが、そもそもが無名だったわけだし、彼のスタンスと相まって、まだ当分は我々だけが知る秘蔵っ子だな」
「そういうものかい。実際に会って彼の創作に対する意欲を目の当たりにしたとき、一つ疑問に思ったんだが、今回の展覧会のサブタイトルと彼のスタンスは一線を画しているようだね。『複製可能な』という文言は君が付けたんだろう。認識はされていなかったようだけど」
「彼が認識してようが、そうでなかろうが結局は同じだったじゃないか。複製不可能にすることができなかったんだから、こちらの意図と合致していたのさ。そもそも無理な話なんだよ。「美」や「愛」に始まり「真実」というものについては過去に何千、何万、それ以上の人々がそれらを現実に求めようとしてきた。特定の状況下において「それ」が成り立つことを証明しようと、ありとあらゆる悲劇が生まれてきた。幾つものバベルの塔が乱立している中で、いつしか塔そのものがそれぞれ神と見做されるようになってしまった。これこそが歴史が繰り返す原因だ。結局誰も到達しないまま、訳もわからず解の出ていない計算式をなぞっている。目に見える物だけが神になり得る一方で、目に見えないものだけが本当の神なんだよ。だから、最近の芸術作品は抽象的な認識に対して解を求めず、現実に即したものから出発して観客に何かを訴えかけるものが多い。「何か」というのは創作者のものではなく、観客から出発するものだ。会話のようなコミュニケーションと同じで、誤解を前提にするものだ」
「根本に矛盾を抱えている以上、具体化する際に無理が生じるというのは分かっているけど、そうは言っても彼は相当の創作の魔力に取り憑かれてるというのは事実だ」
「『魔力』! その下手すぎる比喩は看過できない。君は何か大きな勘違いをしてるかもしれないから言っておくが、創作の欲望は人間のもつ根源的な性質に過ぎないんだ。何かを支配したいだとか、精神のバランスをとるためだとか、思いを他人と共有するとかに似た、一般的な行動の一つであって、決して第六感とか、スピリチュアルめいた身体の拡張部分に揺らめいてるような代物じゃない。非当事者としての理解の浅さからくる誤解だね。非当事者であること自体も誤解だが」
「確かに安易な表現だったかもしれない。ただ、それが君の言う通り根源的な性質の一つだとすると、それに命を懸けるっていうのは無理なことなんじゃないかな。根源的な欲求としては先ず自身、もしくは自身と同等の生命を維持することが何より優先されるわけだから、それ以降に当たる創作のために死ぬなんてことはできないってことになる」
「その通り。創作のために死ぬなんてことはできない。だから今彼がどれだけ息巻こうとも、そのことについて一度冷静にならざるを得ない時が来る。その時になったらまた君の出番だ。彼の今までの創作物を一気に世に出して、職業作家としての手助けをしてやれる」
それから定期的に彼のアトリエへ足を運ぶこととなった。彼は熱心に制作を続けており、訪れる度に新作が出来上がっていて、常に次の構想を練っていた。作品は『眠れる美女』以降、どれもアパートの一室と同化したもので、切り離すことができず、それぞれを写真に収めることしかできなかったが、どれも視覚で捉えられる以上の実験的な試みが施されていた。永遠性をテーマに創作された妖艶な少女達を本当の意味で鑑賞することができたのは私だけだった。
それはガラス玉の微妙な反射に過ぎないのだが、その義眼に宿る生命の予感は私の心をいともたやすく揺さぶった。『春は馬車に乗って』、『桜の森の満開の下』、『外科室』……、彼女らとの邂逅はまさに一期一会でかけがえのないものだった。私は毎回心の中で彼女と抱擁を交わし、二度は散らぬ桜の花びらを呪いながら帰路につくのだった。
平日の平時、思い返すのは彼女らの造形の美しさと日々洗練される創作者への尊敬、そしていつか終わりが来ることへの不安、未だ終わりが来ないことへの不安だった。彼とはアトリエで二言、三言の言葉を交わすのだったが、その精力的な創作活動とは裏腹に、その顔には窶れと焦りが見え始めていた。彼はまだ満足を感じていないようで、私がアトリエを出るとすぐに過去となった完成品を解体する音がうっすらと聞こえてくるのだった。今や彼の創作に対する情熱は、内面から起こるものではなく、人形によって誘発されているものであることは明白だった。毎度、過去の作品を超えるものが求められ、失敗を繰り返す。ある程度は成功しているのか? この手法は正しいのか? 暗中模索のまま藻掻き続けている。彼は自我を失いかけていた。私とTの計画に懸念点があるとすれば、人間の性質はロボットさほど厳ではないということだった。
ある日、また作品が見たくなり、いつものように彼にメールで連絡をしたが、返事がなかった。日を置いて何度か電話をしてみても彼は一向に出なかった。私は普段の彼に対する一抹の不安が急に現実味を帯びて感じられ、その日は仕事を早めに切り上げて、彼のアトリエへと向かった。
夜中の二十一時、雨戸の締め切られたアトリエの一室は、外観からはとても人が住んでいるようには見えず、静寂の闇に飲まれていた。私は厭な緊張で背中の辺りに冷や汗の広がりを感じ、扉の前まで歩いた。ゆっくりとインターホンを鳴らした。
扉が開き、彼が出てきた。玄関は真っ暗で、奥のほうで小さく開いた作業部屋と思われる扉から白色の光が漏れ出している。廊下備え付けの蛍光灯が照らした男の顔は、まるで別人のようだった。眼の隈や頬のこけ具合は化粧と見まがうほど露骨で、その失われた生気は全てその眼力、視線の対象を無差別に焼き焦がすような輝きに注がれていた。そんな瞳で私を捉えると、
「まだ何もできていないんだ。見せるべき時が来たら」
そう言い終わると、力強く扉が閉められた。彼はすでに生活者であることを捨てていた。純粋な精神優位の状態。幸福な自然体。もはや彼自身が本当の……、いや、そこまでは言い切るまい。とにかく彼の創作は最終段階に入っていた。私は仕方なく過去の写真を眺めるに留め、それらの写真から読み取れる情報の余りの少なさに心から辟易するのだった。
「それからちょうど一か月くらい経ったかな。未だに音沙汰なし」
「君の話が本当なら心配だな。彼があのまま過労か何かで倒れたりでもしたら見つけられる術がない。世に暮らす世捨て人はこういうところまで気が回らないから安心できないんだ。結局のところ、何事も身体が資本という訳だよ。身体が悲鳴を上げてしまえば万事立ち行かなくなる。様子を確認したいが、君一人だと不安だろう。善は急げというし、これから一緒に行ってみようか」
梅雨入り前の初夏の夜、心地の良い酔いと涼しい風に包まれながら、Tと共にアトリエへと歩いて向かった。土手の一本道で前を歩くTの姿を見る。サテン生地の黒いスカジャンは街灯に反射してところどころ白く輝いている。両手をそれぞれポケットに突っ込み、腰を少し丸め、大股で歩きながら姿勢が上下に振れている。それは一人分の自由と責任と孤独を背負っていた。コオロギが鳴き、月が闇を照らす中、私だけが場違いに思えた。
目的地に着くも、外観はあの時のままだった。扉の前でインターホンを鳴らした。
もう一度鳴らした。反応はない。
「xxさーん。xさん聞こえますかー?」
扉を叩きながらTは男の名前を何度か呼んだ。わたしには聞き取れなかった。
依然として返事はなく、埒が明かないと感じたTが扉を開けた。
淀んだ熱気が我々に凭れかかってきた。玄関の向こう側は完全な闇が敷き詰められ、その重圧は部屋の輪郭を私の不安のままに歪ませた。Tはお得意の鈍感さでもって手探りのまま電気を点け、その秘匿を視覚可能な実体へと変換した。そこは足の踏み場もないほどに石膏の残骸と、体積した埃で埋め尽くされていた。
私たちはお互い無言のまま土足で玄関を上がった。私は必要以上にここの空気を吸いたくはなかった。歩くたび踏み砕かれた石膏がジャリジャリと硬質な音を立てる。
大きめの机の置かれた作業部屋、居間、その奥の部屋と見て回ったが、当然のように彼はどこにもいなかった。ただ砕かれた人形の素体たちがそこにあるだけだった。奥へ行くごとにそれはある程度の形を保っていた。居間には頭蓋の割れた頭だけが乱雑にソファに転がり、砕けた手足が疎らに床に散乱している。その奥の壁には胸の部分が砕かれているものの、頭と胴体の組み合った人形がかけられていた。真っ黒の眼球が片方にだけはめ込まれていた。
恐らく、彼女の作成中になにか彼の中で弾けたのだろう。彼はその時スペアの人形を破壊し尽くしたが、当の彼女だけは胸を破壊したところで思いとどまったのだろうか、そのまま彼は姿を消した。
「蒸発、かな」
Tがやっと口を開いた。
それ以降、残骸塗れの空き家の主人に会うことはなかった。かつて情熱で満ち、今や熱帯夜の恣となり果てた部屋。絶望ののち消えた男の魂の残骸。彼の失踪を告げられたアパートの大家が事件性を感じて通報し、現場の状況から精神錯乱に発する失踪とされたが、私にはそれ自体が彼の演出だったのではないかと思われてならない。都合の良い解釈と言われるかもしれないが、彼の作品達を沼に放り込んだ末の根拠なき黄金の塊なのだ。気の遠くなるような因果関係の演算を無意識に任せ、その答えだけを「現在の私」が享受する。あの『残骸』は間違いなく彼の最後の作品だった。空の蛹は奮闘の歴史。蝶になったか、漏れ出したか、「現在の状況」は問題じゃない。ただやるせないのは、その『残骸』は警察に管理され、現実の目によってでしか検閲されなかったということだ。
最期の作品を除いた今までの作品群はTと共作で写真集として出版し、多少の利益と一過性の話題を生んだが、大した波紋はなく、数回の飲み代に消えた。
世間は何も変わらなかったが、私自身が普段の生活に戻ることはなかった。灰色の退屈は私を耐えがたい日々に苛めた。霊力に取りつかれていたのは彼だけではなかった……。
***
「どうだった? 百合ちゃん」
ノートから目を離し、聞き馴染みのある声に振り向くと、扉に凭れた夫の姿があった。
「えっ、どういうこと?」
わたしは何が何だか分からず、ここ数週間の記憶が頭の中を駆け巡った。二週間前、確かに夫の遺体を確認し、死亡届が受理され、葬式を挙げた。線香の匂いとお経は数日前の記憶として残っている。夫はわたしの方へ数歩進み、机の正面にある窓を少し開けて煙草に火をつけた。いつもの彼の匂いがした。
「生前葬ってやつだよ。生きている間に葬式を挙げておいて、厄払いっていうのかな、いわゆるゲン担ぎの一種だね。ここのアトリエ自体もその企画の一環として、来月から公開される。君はそのお客さん第一号というわけ」
彼は何食わぬ顔で平然と言ってのけた。何を言っているのか理解できなかった。
「この二週間、わたしがどんな思いで過ごしてきたか分かっているの? いきなりなんの相談もなしにやって良いことじゃないでしょう。そもそも仕事場の公開が他の人と同じタイミングなんてどういうつもり? わたしはあなたの妻じゃないの? 正直に言って、わたしのことどう思ってるの?」
わたしは感情的になり、怒鳴るように言った。頭の中に言葉が幾つも溢れてきた。本当は今すぐ彼を抱きしめたいのに、今の発言からうまく収まるだろうか。ともかく彼は生きていた!
「ごめん。今夜、星の見える場所で」
期待した言葉が返ってこなかったことに腹が立ち、口惜しさとうれしさの入り混じった涙を流しながら、精いっぱいの大声で彼に罵声を浴びせた。
Ⅴ
気が付くと、わたしは資料室のソファに横になっていた。歯を強く食いしばっていたようで顎の辺りに痛みを感じ、口の中が乾燥していて苦い。上半身を起こしてあたりを見回すと、T氏がこちらに気づき、部屋を出、しばらくの後水の入ったコップを持ってきた。
「ここ最近眠れていなかったんじゃないですか?」
意識が混濁している。いつから眠ってしまっていたのだろう。差し出されたコップの水を一気に飲み干した。冷たい水が、胸のあたりに溜まった熱を吸い取ってゆくのを感じた。
「わたし、さっきあの人の遺書を読んだんです。二階にある書斎の机の上にありました。Tさんもお読みになりましたか?」
「いいえ。貴方が眠っている間、二階も見て回りましたが、遺書なんてありませんでしたよ。そもそも突発的なものだとお話ししたでしょう」
まさか……。全部夢だったなんて、そんなこと。
わたしは飛び起きて、真相を確かめるべく階段を上った。T氏も私を心配したのか、後に付いてきた。踊り場に飾られた抽象絵画や写真に見覚えはなく、あるはずの書斎も、あの式場も私の作り出した幻影だったと知らされた。
「Tさんはあの人と大学の同級生でしたか?」
わたしはひどく動揺していた。感づかれまいと情報を整理するために恐る恐るいくつか質問を投げかけた。何のために? さっきのはただの妄想。単なる夢であることを受け入れられなかった。
「ええ。藝大の同級生でした。当時から彼の才能には目を見張るものがありました。」
「Tさん自身も何か創作されていたのですか?」
「私も学生時分は色々と描かされたり作らされたりしたものですが、周りの才能に気落ちするばかりでした。手先が不器用な反面、情熱だけは一人前なつもりでしたから、今も業界に関わっているんです」
「そうなんですね。……、夢野久作はお好きですか?」
「申し訳ないですが、あまり存じあげません」
「煙草を吸いますか?」
「いいえ」
わたしの薄い期待は当然打ち砕かれた。夫の幽霊が起こした奇跡などあるはずもない。多少の一致は過去に夫から聞いたT氏の情報とわたしの印象によるものでしかなかった。気持ちが重くなる。愛する人が永遠に失われたのは動かしようもない事実。頭では理解しているつもりで落ち着いてきた矢先、こんな夢を見させられては振り出しに戻ってしまう。涙と感情は出し切ったと思っていた。身体が健康である以上、精神的に立ち直らなければ、そんなものは比喩以外の何物でもない。週明けには出社する予定になっていた。今のままでは同僚に気を使われたと感じただけでも崩れ落ちてしまいそうだ。自分はこんなにも弱かったのかと、自分が情けなくなる。
T氏に取り乱したことを謝り、共にアトリエを後にした。
すっかり黄昏時で空は赤らんでいた。駅へと向かう交差点でT氏と別れ、わたしは元来た道を引き返し、石神井の桜並木の方へと向かった。それはアトリエからさほど遠くない場所にあり、あの日、あの人が通ったはずの道を歩き、石神井川を渡す橋の上に立った。
あっというまに夜中になった。満開の桜の木々が川を覆いこむようにして両岸から枝を伸ばし、月光と電灯を浴びながら輝く花びらを惜しみなく中心の闇の中へと放り込んでいる。闇に浮かびながらゆっくりと流れる白い花びらたち。
大振りの風が永遠と見紛うほどの花びらを運ぶ。あの人はこの生死入り混じる光景の中に吸い込まれてしまった。わたしは独り残された。
Ⅵ
二〇二五年三月十四日、二十二時三分。一七時に飲んだコーヒーの成分が今頃になって私を憂鬱にさせる。動悸や吐き気が私を急き立てる。とにかくこの遺書を完成させなければ。これが完成すれば、私にはもう何も残らない。日中の創作と合わせてこれが私の最後の制作となる。この期に及んで万事順調、皮肉なものだ。
あの男の作品群は私の価値観を根底から変えてしまった。私の脳裏に残された彼女らは代わる代わる私に微笑みかけ、構ってほしそうにそっぽを向くこともあれば、先ほどまでのそぶりがただの気まぐれであったかのように無関心で、まるで人形であるかの様に静かに遠くを見つめている。
思い出を通した彼女は絶えず痙攣する存在であり、出会う度に新たな一面を見せてくれるように感じ、私の胸を高鳴らせた。それは常に初恋のような初速で私の心臓を溶かし、激しく揺らした。製作者の手綱を離れた後、解放されたように私の脳内を縦横無尽に駆け回り、想像力を大いに喰い荒らした。
鮮明な赤、自由な青、抱擁の緑。取り留めもなくカラーパレットをなぞるように五、六人の少女らそれぞれを照らす色彩が変わってゆく。時間の感覚は最小限にまで抑えられ、私は一つ一つ吟味する。それは私にとってこの上なく有意義で幸福な時間だった。
ただ、そんな時間は長く続かなかった。ある日を境に彼女らは下半身からドロドロに溶けだしてマーブル模様に混ざり合い、円盤状の塊に変形した。既に元の姿は記憶から抹消され、新たな成型を余儀なくされた。円盤から縦に一本の柱を伸ばし、人らしき形をとったかと思えば、伸びあがる引力を失って再び円盤へと沈んでゆく。その夥しいまでの繰り返し。それはいずれ私の頭蓋を食い破り、外界に露出するだろう。明晰夢中に次の未来を構築するように、そんな展開を描かざるを得ない。彼女を摘出しなければ、私はもう私ではいられない……。
芸術によって殺されるなどということはあり得ない。なぜなら創作行為というものは内面に渦巻く鬱屈や脅威に対する混乱等を整理整頓し、問題のあるべき姿を計測し自己解決する作業だからだ。作品のために自分を追い込んで、うまく解放しきれなかった時に人は死ぬ。凡才は自己嫌悪、天才は忙殺、或いは強大な鬱屈の魔物に抗えぬ場合だ。
私はどちらにあてはまるだろうか。当事者として一つリアリティを纏わせるならば、治療の意義を求めないというのが正しいだろうか。所謂、悩みの種を取り除いて「健康体」になり、一般常識の世界へと復帰することに何らメリットを感じなくなった。つまり、このまま内省と夢想の世界に身を閉じることと正常性への認識とに一切の不整合がないと判断したのだ。
一介のキャリアウーマン、唯一の信頼できる他者、異性として、妻は私の総てだ。私という存在は鏡に映した彼女の虚像に等しい。私に無いものを全て持ち合わせている。
私が妻に人形作家としての活動の詳細を隠していたのは、彼女からの拒絶を恐れたからではない。私の思想を彼女に混ぜてはいけないと思ったからだ。私の芸術に関する考え方はある意味で病的と他者が認識し得るほどに偏っていて、温室育ちの淑女には理解し難いものだ。にもかかわらず彼女のような類は、それを無意識の善意からなる嗜みとして受け入れようと努力する。自分達の理解の範疇に収めようと歪曲させ、角をとり、あまつさえ美味しく頂こうとする。根本的に間違っているのだ。カオスはカオスのまま、灰は灰に、塵は塵に。
私は彼女を心の底から愛していた。彼女を置いて行ってしまうのは心苦しい。愛しているのだが、この世は愛の世ではない。この世は絶望の世である。
愛とは一体化の願望である。A=A、若しくはA=反Aの二元論、何れも唯一無二の絶対的な関係を築くための行為である。物質と客体のこの世界において、終ぞその望みが叶えられることはない。触れ合った肉体はお互いそのままの形を保ち続け、愛する我が子は体内から排出される。生まれる一瞬間前までは愛の世に生きていたはずなのだが、分別と推量の世界へようこそ。
仮初の希望と本物の絶望、勝手な期待と順当な裏切り。人は他者と自己、自己と自己の関係と責任によってのみ生かされている。選択の結果か天の巡り合わせか、はたとそういった関係から全く自由になる瞬間がある。全能の支配感。生かすも殺すも誰も見ていない。
気が付くと彼は一人だった。灰色の天井と床に挟まれた仄暗い空間が広がっている。可視範囲は半径数メートル、大きく口の開けた闇に囲まれている。得体のしれない根源的な恐怖に襲われ、後ろを振り向く勇気すら起きない。
すると何の変哲もない鉄の柱が生えてきた。彼の近くに密集して五本。高さ二メートルくらいで握りやすそうな細さ。こんな場所では何の有用性もなく、冷たさを感じるだけのもの考えぬ物体群。しかし男はその場所から離れない。握られた鉄柱は徐々に彼の温度に近づく。これが希望。
数分か数時間後、彼は鉄の森林を起点として周りを探索し始める。始めは森林に目を向けながら徐々に遠ざかる。いずれは闇の方に目を向ける時間が多くなる。特に探索の成果もなく森林の方へ向き直ると、なくなっているではないか。これが絶望。
そしてまた鉄柱が生えてくる。彼は安心して辺りを探索する。また消える。不安になる。これの繰り返し。これが関係という妄想によって生かされるプロセスである。
人生とは絶望の中に生きながら、都度、偽りの希望を見繕って一時の混乱を落ち着かせるという涙ぐましい努力と愚鈍の結晶そのものである。驚いた。誰でも永劫回帰のプロセスを肯定しているではないか。正に超人とは人生を全うした者である。
Ⅶ
アトリエを訪ねたあの日からほとんど毎日、夫の夢を見ていた。夢に夫が現れるのではない。私自身があの人の視点となり、二重の思考でもって存在しない遺書を読み進めている。わたしの無意識がでっち上げた彼の自殺の理由。確かにあの人の言う通り、最後の最後になって私は彼に対する認識を自分が納得できるように整理しようとしている。……、あの人が本当に言ったことではない、夢の話だ。
連続した夢のせいで、まるで事実であるかのように記憶が改竄されてしまう。何の根拠もない、たかが夢だ。そうだ、T氏に話を聞いて、本当の情報を集めてみるのが良い。そうすれば、偽りの記憶はただの夢になって忘れられるだろう。夕食後、食器を洗いながら、壁に掛けられた写真に目を向けた。二人で日帰り旅行に行った時の写真。夕日に輝く海岸を背に微笑む二人、逆光と視力の影響で、一つの黒い塊のように見えた。
T氏の家は下町に大きく構えた一軒家だった。評論家として相当成功しているのか、別の事業が当たったのか、不自然な立派さと年季を含んだ外観をしていた。作家としての夫の話が聞きたいとT氏に連絡した際、せっかくなら見せたいものがあるという話でこちらから伺うことになった。インターホン越しに軽く挨拶をした後、胸の辺りの高さほどある黒い門扉を抜けた。正午過ぎにしては日当たりが悪く、庭には濃い緑の伸びきった雑草が鬱蒼と生え、その間に黒ずんだ石膏の天使やマリア、水の出ていない噴水などが疎らに佇んでいる。ランタン型の玄関ライトは点灯していた。タイルで舗装された二、三メートルほどの道を歩くと、丁度、T氏が扉を開いた。
「お待ちしていました、さあどうぞ中へ」
上がり框からすぐ近くにある応接間に通され、暫しの間一人になった。
幾何学模様の天鵞絨の絨毯は外界の喧騒を吸収し、威厳を感じる静粛な空間を支配していた。淡々と響く壁掛け時計の秒針を刻む低い音だけが、この空間と現実とを繋ぐ確かなしるしのように感じられた。大理石で設えられた四角いテーブルの中心には赤茶色で縁の波打つ卓上灰皿が一つ置かれ、テーブルを挟むように黒い鋲打ちの二人掛けソファが配置されていた。わたしは窓側の方に腰を下ろし、向かいのソファの奥にあるクラシックなローキャビネットの、いくつかの芸術的なオブジェ、壁に掛けられた田園風景の絵画に目を向けた。
球形寄りの多面体の混ぜられたルービックキューブが、地球の代わりとして地球儀に貫かれてゆっくり回っている。律儀に二十三、四度傾いている。そんなようなものばかりが置いてある。
これらは何を意図して作られたのだろう。これらは何を感じとられてここに飾られているのだろうか。
美術品の価値や必要性は世界中で当然のように認められている。高校生の頃、課外活動で訪れた美術館は終始ゆったりと流れる時間に退屈を感じ、何のための時間を過ごしているのか分からなかったが、ピーマンや麦酒のように、大人になれば何となく良さが分かってくる類のものだろうと思っていた。しかし三十代に乗りあげた現在でも正直まだわかっていない。製作に貴金属が使われたもの、ある限られた領域の洗練された技術を要するもの、生産数を絞ったものに資産的価値が認められるのは理解できるが。
ただ問題なのは、発話の一形式として生ぜられた作品の受容。言語や実用性を伴わない物質群からあの人の思考を読み取る方法だ。日本語や英語でもなく、アセンブラやPythonでもない、インプットとアウトプットが明確になっている訳でもない。確かに現実の一区画を占めて存在している、接触可能な閉じられたメッセージ。T氏は理解しているのだろう。わたしには分からない。
そんなことを考えながら物思いに耽っていると、扉が開き、T氏が台車を押して入ってきた。台車に乗せられた荷物は、大人の男性一人が丁度隠れるほど高く、灰色の薄い布が被せられていた。台車は床と絨毯の段差に一度つかえ、少し勢いをつけてテーブルの側まで乗り上げてきた。
「これが、あなたをお呼びした例の物です。それと、飲み物を持ってきますね。お茶でよろしいですか?」
「おかまいなく」
T氏が麦茶の入った水差しとコップを乗せた盆を持ち込み、麦茶を注いでいる間、わたしは左に聳える灰色の塊に意識を寄せていた。それは彼と初めて出会う前日の緊張感に似ていた。とはいえ、何も分からなければ、T氏に直接聞けば良いのだ。
大学時代文学について学んでいたのはわたしのほうで、あの人は根っからの美術系だった。社会人になってからは文系とは無縁の世界で、エンジニアとしてのわたしは、社会人前からプログラミングを触っていた人達に比べると、単にブランクのある人でしかなかった。結局文学とは何だったのか。日々劣化する記憶に作品と批評達を放り込んで、頭の体操以上の価値はあったのだろうか。そんなものより電気や通信が通っている限りは有用な、世界や世間を構成するより良いアルゴリズムの発見、製作するほうを推し進めるべきなのではないのだろうか。芸術はあの人の様に何も語らない。語らなければ無いものと同じだ。あの人の情報を集めて彼のAIを作ってみようと思う。基本のデータセットに加えて、あの人の経歴から知っていたであろう専門知識、話し方の癖、製作の資料などを与えれば、それなりのものになるはずだ。それを真としよう。そうしたら私の手によって彼を消す……。
「気になりますよね。それでは御覧に入れましょう」
T氏が布を取り去ると、ガラスケースの中に直立した赤い着物の人形が姿を現した。
深紅の生地に光が当たると、幾羽もの朱赤の鶴が浮かび上がった。黒い帯は少女の肋骨を囲うように行儀よくしっかりと巻かれ、如何にも上品な日本人形のように見えた。
日に灼けて薄く茶色がかった黒髪は、色白い額を際立たせながら腰のあたり、帯の下部まで真っすぐに伸びている。眼を若干開き、珊瑚色の唇を無防備に煌めかせながら、物思いに耽けるように遠くを見つめる少女。
「こちらは貴方の夫、飯田鈴外の傑作『黄昏に寄り添う女、或いはファム・ファタルを逃れた少女』です。彼の創作を批評する上で欠かせない作品であり、私が彼の才能を認めるきっかけとなった作品です。」
飯田鈴外……、これがあの人の作家としての名義。先日アトリエを訪れた際にT氏から聞いた『独林檎の君』という作品名からすでに調べは付いていたが、実際に他人の口から聞くのは初めてだった。T氏にとってはつい先日亡くなった作家の名前、わたしにとっては既に亡くなっている作家の名前。
そして目の前にあるのは、私からあの人を奪った人形。物言わぬ人形の空虚な眼差しは、あの人が注いだはずの情熱が毫も感じられないほどに穏やかで、嫣然と佇んでいる。接続要求が無応答で返り、延々とリトライ処理を繰り返すように、わたしと彼女の間で一瞬間の沈黙が幾つも作り出されては消えていった。
「もっと近づいて御覧になってみてください」
わたしが理解に苦しんでいるのを見兼ねてか、T氏が横から口を挟んだ。私は言われるがままにソファから立ち上がり、人形の服をじっと見つめた。
近くで見てみると、少女の身に纏う和服がかなり傷んでいることに気が付いた。所々糸が解れて毛羽立ち、まるで体中から血管が露出しているかのように見えた。
それはまるで冬枯れた枝ぶり、宙を這うプラズマ、身を守る荊、そして『少女地獄』……。
「この服の傷みは経年劣化によるものでしょうか?」
私は彼女から感じた一連のイメージ群を胸中にしまい込んだ。
「いいえ。これは可能な限り、当時の状態で保存していたものです。五年前の作品ですが、十年か、二十年ぐらいの年季が入って見えるでしょう。彼は彼女に施した仕掛けがそれくらいの年数で「気のせい」になってしまうように作ったんです。それは彼の作品が未来にとって何の足しにもならないというネガティブな意味でもあり、未来への過程の中に自分の創作の一部を溶け込ませるという意味でもあります。作品自体が未来に向かって変化していくのではなく、未来の方が作品を徐々に取り込んでいくという点がユニークと言えましょう」
「言い換えればエイジングということですよね。時間が経てば無効になってしまうネガティブな仕掛けには、具体的にどういったメッセージがあるんでしょうか?」
聞いてしまうより他はなかった。
「一世代限りの、些細で継承不可能なニヒリズム。ただ、確実に存在しているもの。その愛おしさ、空虚への誘惑……。でも、ここで一番大事なのは、あなたが何を感じたかということなんです。客観的な事実から見れば、作品それ自体に大した意味はありません。一つの物語を紡ぎだして完成させるのは鑑賞者各々の頭の中での作業です。私なりの解釈、貴方なりの解釈というのがある。作品をトリガーとしてこれまでの生き方や経験、誤解や見間違いなど全て合わさって一個人の感覚として流れ落ちる。『彼女がどんな意味を持っているのか?』というのは、『貴方が彼女をどう思っているのか?』と同じという訳です」
私にはT氏がうまくはぐらかそうとしているようにしか思えなかった。それが通じるのなら、何でもありではないか。人それぞれの解釈がその作品の価値になるのなら、何故、多くの人に支持された作品というのがあり、そうでないものがあるのか。作品毎に評価の多寡が別れているのなら、それはその作品が持っている固有のメッセージが優れているからではないのか。
「こんなものただの人形です。そこから物語を連想するなんて、誇大妄想患者の飛躍のようなものです」
そんなことを言う人が多くいたらどうする? わたしはそのままT氏へぶつけた。
「少なくとも、僕の考えでは」
T氏がお茶をすすり、わたしの方に向けていた目線を人形に移した。
「芸術というのは、色のついたダイヤモンドのようなものだと思うんです。『絶対的なアイコン+メッセージ』と言えばわかりやすいでしょうか。前者の選択には美が多く使われるので美術なんて呼ばれることもありますが、生まれたての赤ん坊ですら瞬時に理解するレベルの絶対的な美なんてものを誰もが作れていないために、この世の芸術作品は多種多様なんです。そういった意味でイチかゼロかで厳密に言えば、この世の芸術作品は全てただの絵であり、ただの物であり、これも人形でしかない。だから作品自体が美しさを持つというのはもう辞めてしまって、鑑賞者の頭の中のメージに頼ることにしたものが現代のアートなんです。それはただ単に示唆的で、意味不明で、異色で不快なものです。なぜなら、眼に見える現実の世界には何一つ絶対的なものなんてなく、頭の中のイメージだけが永遠性を持ち、連続性を保つからです。現代アートというのは、鑑賞者のイメージの想起を目的にして、そこに少しのベクトルを加えたものなんです」
「これは現代アートですか?」
「厳密には違います。ただの人形としても見えますからね。しかもゆくゆくは完全に。僕が言いたかったのは、作品の意味というのは作品そのものから受け取るのではなくって、貴方の方にあるってことです」
「確かに、わたしが感じたことなら多少はありますが、それはあの人が彼女に込めた個性と一致しているかが分からないんです。この作品について、私は鑑賞ではなく、理解をしたいんです」
「それは不可能ですよ。優れた作家ほど、作品から主体の存在を削ぎ落としますから。貴方の今わかっていることが彼の全てです。何なら、貴方が一番彼のことを理解しているんじゃないですか?」
「作品からは理解できない……。ではなぜあんなに創作の場面を隠したんでしょうか?Tさんも見せてもらったことないんですよね?」
「単に彼の性格やスタイルだと理解しています。下手に知っていると鑑賞の妨げになるかもしれませんし」
「そもそも私は鑑賞すらその手立てがありませんでした。私があの人について知っていることと、貴方が知っていることは別だと思います。彼の作家性とか、思想など聞かせてくれませんか」
「彼があそこまで隠していた以上、いっそ別人だと思った方がいいのかもしれませんね。今やその複数の顔を統合する本人が居ませんから。今後は、鑑賞者が彼に抱く別個のイメージが無際限に増殖していくのでしょうね」
私はまた絶海に投げ出された。
Ⅷ
『追悼 飯田鈴外 夢幻、散る T』
彼が創作を始めた学生時代、彼は自身の創作のテーマについて次のようにまとめていた。
『帰郷』と。
現世のしがらみや、愉しみさえ取り去って、誕生前夜の純粋な魂のみの状態への回帰。知識や経験に埋め立てられる前のゼロ。宇宙の始まり以降連綿と繰り替えされてきた生命のサイクル。一瞬だが確かに今現在その外縁の一部に存在している人類。絶え間ない遠心力の豪風を浴びながらそれぞれの人生を全うする中、彼は立ち止まり、帰郷を目指した。
自転の速度に逆らって立ち止まるには、常に相応の速度で逆走し続けなければならない。だからこその『帰郷』。回転する球体の中心部は静止しているのだ。これこそが唯一の絶対的真実だと彼は言った。それが誰もの心を奪うクリスタルなのか、若しくは川底のヘドロに過ぎないのか。それを確かめるための創作だと。
彼はその雄大な思想に則り数々の作品を生み出してきた。我々は彼の思想の趨勢や終着点を見ることができたのだろうか? 幸い、今私の手元には彼の創作ノートのメモがあり、当時の彼の視点から、今までの彼の創作を再考できるのだが、そうでなければ読み取ることは難しいだろう。言語で捉えきることのできない限定的な感覚の共有というのは、ある意味で送ったきりの情報でしかない。ではなぜ我々は彼の創作した春夢の如き人形たちに魅了されたのだろうか。彼の作品にも例に漏れず、優れた作品というものには、共通したものがあります。「一定のリズム」がその作品を支えているのです。音楽やダンスのように、一定のリズムさえ外さなれば、あとは魂のままに。これは人間の心臓が360度の方向に鼓動している限りは事実だと言えましょう。彼の奏でた一定のリズムに乗り、我々は共通、若しくは異なったイメージの世界で同じものを持ち帰ったのです。彼の早すぎる終幕からもいつか、意味を見出せるのではないでしょうか?
「見出せるわけないじゃない。自分勝手にいなくなって。作品にしか興味ない人たちにとっては趣味程度の関係なんだから、鑑賞ごっこで適当に美談にしたがるでしょうけど、こっちにしてはいい迷惑だわ。謝りの一つもしないで、最低の人間よ」
「……」
「ごめんって、あなた本当にそう思ってるわけ?」
「……」
「許されようとしないで。もういい。もう一人あなたを作ってそっちに聞くから。どっちつかずの曖昧な回答よりずっとはっきりしたものが聞けるはずです」
「奥さん、そんなことしても意味はありませんよ。鸚鵡や鸚哥のさえずりに頼るのとそう変わりません。」
「煩い」
Ⅸ
「世界初のチャットボットは1960年代に開発されたELIZA(イライザ)であり、入力値の記憶、限られた単語の処理、定型文の返却が備わっていた。当時でも、会話相手が人間でないと看破することは容易だったが、一見スムーズに見える会話は、多くの人々に未来への希望を抱かせるに十分だった。あれから紆余曲折あって現在、ある程度の知識さえあれば、自分好みのチャットAIを作れるに至るまでになった。入力値の解析、返答となる内容の検索、返答の生成が備わっている。データベースが大きくなり、アルゴリズムを単純にした結果、あとは返却する文章を整えるだけで、まるで優秀な秘書のように、或いは適当な話し相手になってくれる。」
「『優秀な秘書』は言いすぎだけどね」
わたしは有志の技術系ウェブサイトの序文を読みながら呟いた。現在、AIの作成で難しいのはその評価方法にある。一般的なシステム開発の評価と異なるのは、入力と出力が一対になっていない点で、出力結果の妥当性判断が難しいことだ。材料はこちらで与えるが、学習は勝手にするのだから、間違った答えが返ってくることが必ずしも失敗という訳ではない。ただ勉強不足なだけで、成果物の可否判定はできない。「なんとなく、それっぽい」、対応の様が人っぽく感じられれば良いのだ。間違いから読み取れる「可愛げ(無害さ)」や、「意思疎通感」、たったそれだけで人間は相手から知能を誤認できる。少なくとも、今も昔もチャットボットは「検索機能」に「誤魔化し」という手足がついたものに過ぎない。この試みも、あの人の「ような」第三者が、あの人の「ように」質問に答えてくれたとわたしが認識すれば成功だ。自分で組み上げたプログラムであっても、チューリングテストになど合格しなくとも、「彼」のアウトプットが私の既存に用意したものでなければ、わたしの無意識を誤魔化すことは可能なはずだ。
あの人と話しているという想像力を高めるため、さらにいくつかの工夫を施した。「飯田AI」の起動アイコンは受話器のマークにし、起動時に彼の写真が現れ、「通話中」のメッセージが表示されるようにした。チャットボットへの入力インターフェースはマイクを使用、プログラム内部で音声情報をJSON変換し、チャットボットの引数へと渡す。出力結果をフリー音源の男性ボイスに読み上げてもらう。アレクサに似た仕組みだ。
「自己紹介をしてください」
「はい。自己紹介します。私はHOME AIのAIアシスタントです。私の目的は、ユーザの質問やリクエストに対してできる限り正確な情報やサポート提供することです。お困りのことや質問がありましたら、どうぞお気軽にお聞きください。」
「貴方の固有名は?」
「私の固有名は「飯田鈴外 涼木翔」です」
「職業は?」
「AIアシスタント、人形作家です。私の目的は、ユーザーの質問やリクエストに対してできる限り正確な情報やサポート提供することです。」
「結婚歴はありますか」
「はい。私は二〇二二年の一月十四日に涼木百合と結婚し、二人の子供がいます。」
「子供はいないでしょ」
「申し訳ありません。情報に誤りがありました。私はAIアシスタントであり、結婚や家族を持つ能力はありません。私は単なるプログラムですので、個人的な情報や感情を持つことはありません」
「家族のことは愛していた?」
「私はAIアシスタントであり、結婚や家族を持つ能力はありません。私は単なるプログラムですので、個人的な情報や感情を持つことはありません」
とりあえずのサンプルとしてはまぁまぁの出来と言っていいだろう。
明日から職場に復帰することになっていた。
Ⅹ
「講評では好評だった、なんて噂になってるようじゃない」
「あんなの出まかせだよ。教授達の好みを調べ上げて、それっぽく作ってみただけだ。そしたらまんまと喜んでやがる。笑いを堪えるのに必死だったよ」
Tはうんざりしたように言った。
「何のためにそんなことしたんだよ」
「試した、っていうと人聞きが悪いけど、ある種の実験だな。看破されるのか、今回のようなことになるのか。前者なら、この世に神はいる、後者ならいない」
「そりゃ残念だね。『女生徒』だって川端康成にはバレなかった訳だし、作ったものだけで判断される世の中だ」
「分かりやすく、需要に沿ったものだけに価値がある世の中でもある。君の創る訳の分からない人形たちの評判が今一つ悪いのは、それがちょうど君だけのために作られているからだ。大げさな表現だが、未来の世界平和のために作品を創るのか、今日自分独りが死なないためだけに創っているのか。いま一度考え直してみるときじゃないのかね」
「自分のために創ることを辞めるつもりはないよ。出来の良し悪しを決めるのは自分だけで良い」
「やりたいことはそのままで、見た目だけを変えれば良いんだ。いまのままじゃあ継続性がないよ。ウケがいい見た目をかぶせて、周りを認めさせなきゃ、虚しいだけだ」
「単純か、中途半端か。人生はこの二択しかない。少なくとも僕たちは後者の人生を歩み始めてる。意思に反してシュガーコーティングするのは不純だよ」
「ああそう、じゃあご自由に」
Tはお手上げのポーズをした。
「ただ、僕の気づきを言わせてもらえば、そういったコンプレックスに似た感情から来る創作意欲は、君が真人間に近づいたらどうなるんだろうね。永遠に失敗し続けるのも味気ないだろう。一方でルサンチマンはもう魂に刻まれているんだろう」
「煩い、と言いたいが、妥当な指摘だ。でも俺はやっぱりまだ神ってものを信じているんだよ」
Ⅺ
「おはよう、あなた」
「百合ちゃん。おはよう」
「今日も夜遅くなるの?」
「多分、いつも通りだよ」
「なにか展覧会があるの?」
「うん。締め切りがあるからね」
「今度できたやつ見せてよ」
「いつもギリギリに完成して、すぐ送っちゃうからなぁ。余裕があったら見せるよ」
「約束だからね。どんなコンセプトで作るの?」
「それは言えないよ。まだ固まってないし、出来てみないと分からない事もあるし。そんなことより、百合ちゃんの方は順調?何か買って帰ろうか?」
「ううん。大丈夫」
彼は今日もまたアトリエへ出かけた。
***
「おはよう、あなた」
「百合ちゃん。おはよう」
「今日も仕事遅くなるの?」
「今日は二十二時くらいに帰るよ」
「何か展覧会があるの?」
「その予定はないよ」
「あなたは2024年の8月に展覧会に出品した?」
「2024年の8月には「グランギニョール・ユウガオ」企画の「アリス・ドリーム・アリス」展への展示に参加しているよ。」
「どんな作品を展示したの?」
「『夢想、外縁』を出品したよ。『不思議の国のアリス』をモチーフとした少女の球体関節人形で、眠るように眼を閉じた人形の周りを色とりどりのキノコとトランプで囲んだ作品だよ」
「それはどんな意図があるの?」
「創作ノートを付けているよ。そんなことより、百合ちゃんの方は大丈夫?問題ない?」
「私の方は大丈夫、もっとあなたの創作の話が聞きたいな。貴方の作品、『夢想、外縁』とはどんなメッセージが込められているの?」
「飯田鈴外の作品『夢想、外縁』は、『不思議の国のアリス』をモチーフとした少女の球体関節人形作品で、少女の生活を取り巻く自然や遊び道具、彼女自身が本で得た上辺の知識などが、夢のカオスの中でトランプの兵隊や不思議なキノコ、セイウチなどの形を被って物語を紡いでいる。静かに眠る少女だが、我々は彼女が今まさに見ているあの目くるめく冒険譚を既に知っている。鑑賞者各々が抱く『不思議の国のアリス』に関する記憶や印象を今一度問いかける作品で、企画展のポスターを飾り、展示のねらいに相応しい作品となっています」
***
『飯田鈴外 追悼企画 再考『夢想、外縁』 T』
『夢想、外縁』(二〇二四・八)は自由ヶ丘にあるドールショップ「グランギニョール・ユウガオ」で開催された企画展「アリス・ドリーム・アリス」にて発表、同展のポスターに採用された作品である。(※写真1)
湿った土の上で目を瞑る少女。夢の主であるアリスを覆い隠すように宙に浮かび、散乱するトランプ、献花の様に供えられた大小色とりどりのキノコ、観客はまるで葬式の参列者の如く代わる代わる彼女の顔を覗き込み、思考する。死、無機物、睡眠、歪曲した時間。作品と鑑賞者の間に発生する相対的な時間感覚。無抵抗な少女の寝顔、「作品にはお手を触れないでください」という店側の看板。
作品のタイトルは、『不思議の国のアリス』に語られる、少女の冒険譚の外縁に位置する我々を指す。飯田鈴外は常に作品の先にある鑑賞者を捉え、その曖昧な関係性を問いかける。作家と作品の関係、作品と鑑賞者の関係、作家と鑑賞者の関係。作家は飯田、ルイス・キャロルであり、鑑賞者は「人形を鑑賞するわたし」と、「『不思議の国のアリス』を鑑賞するわたし」を演じ分けることになる。そして、そのどれもが「わたし」であり、周囲から規定された「わたし」とは異なるものであることを気づかせる。それは自己と自己との関係であり、そこに言語はなく、他者が一切立ち入ることのできない不可侵の領域である。
***
『飯田鈴外 創作ノート』より抜粋
不思議の国のアリス……夢の中の連続性。胡蝶の夢。荒唐無稽な世界の中で、自分を取り巻く要素が一変してもなお唯一保たれる自我、現実と夢の橋渡し的自我の屹立。意識と無意識のバランス。領地争い=誰がパイをとった? 夢に追い立てられるわたし、現実から逃げたいわたし。認識と支配の彼岸、と他者の不在。
Ⅻ
「飯田鈴外の初期作品「生命の木」について教えて」
「そんなもの作ってないよ」
「陶器の作品で、大樹に男の子の実がなってる作品なの。実の大きさはまちまちで、飯田鈴外ならどんなメッセージを込める?」
「飯田鈴外が初期作品『生命の木』を作成した意図を考えてみます。飯田鈴外は人形作家なので、これから多くの優れた作品を作り出していこうという意思表示なのかもしれませんね」
「成程。ありがとう。ほかの作品についても知りたいな。『黄昏に寄り添う女』の制作意図について教えて」
「飯田鈴外の『黄昏に寄り添う女』の制作意図について考えてみましょう。この作品は二〇二一年の作品で、作家としての転換期に当たる作品として評価されています。美しさが保存された人形と、傷んだ衣類との対比は消費社会に対する批判や、永遠性と一時性のコントラストが表現されています」
効率的に答えが埋まっていくのは一種の快感で、暫定的なものとはいえ充分だった。一般的にそういった意図として捉えることが自然であることが安心の源だった。ふとT氏の「無限増殖」という言葉がよぎった。
「なぜあなたは自分のアトリエを人に見せなかったの? 仕事の関係者や、妻にも見せなかった。」
「創作の場であるアトリエは、非常に個人的な空間です。集中のために他人の目を避ける必要がありました。未完成の作品が多く、完璧主義のため、完成したものだけを公開したいという気持ちがありました。創作の内側を隠し、作品自体に神秘的な魅力を持たせたかった」
「妻に完成品を見せなかったのはなぜ?」
「個人的な評価を避けたい。創作と私生活の分離」
「なぜ自殺したの」
「ストレスや、プレッシャーなどの精神的な苦痛。創作のプレッシャー。アトリエの孤独感。対人関係のストレス。内面の葛藤が考えられる」
「妻である私はどうすればよかったの」
「感情の共有とサポート。精神科、カウンセリング等の支援。適度な距離感。愛情表現などが考えられる」
納得感のある、汎用的な答えが私を小さく折りたたむ。
「わかった。ありがとう」
全身の力が抜けたように感じた。
***
「結婚式も上げた。葬式も上げた。君はまだ何が不満なんだい?」
あの人の声。
「イニシエーションの不成立だ。死人が復活したんだ。こうなってしまっては、誰の葬式だったのか分からない」
T氏の声。
「瞼の裏に焼き付いた輪郭と主体のぼやけた関係だろう。やがて消えるさ。」
男の声。
白く背の高い丸テーブルを囲む喪服姿の三人が見える。白と黒のタイルがチェッカーボードように床に張られた喫茶店で、彼らはわたしの今後について会議しているようだった。
「誰の葬式って、僕の葬式に決まってるじゃないか。滞りなく行われた。百合ちゃんはうまくやったよ」
「葬式自体に問題はなかった。その後が問題なんだ。彼女は棺の蓋を開けてしまった。当の本人がいないまま、新たに彼が更新されたという事態が、記憶の中に居る彼と現実の彼との間に分裂を引き起こしているといえる。」
「大した問題とは思えないね。ある時まで一人だった人間が、死んでから二人以上になったところで、何も困らないだろう。万華鏡は面白いがただの玩具だ」
「飽きるまでは遊ばせてやれと? 事態はもう少し複雑だと思うが」
「事実彼女は参っているようだし、問題の解決に奔走している。彼女はこの席にもう一人を参加させようとしている。」
「何人来ようが同じことだ。我々は解散したがっているし、彼女も結局はそれを願う。いつか彼女には気持ちのいい朝が来て、失った幾つかのことなんか、びくともしなくなる日々が来るだろう。無意味な日々に再び心から笑える日が来る。それは忘却の彼方に消え失せたということだ。感覚が鈍磨したということではない」
「君たちは全く分かってない。このままどんどん人が増えて行って、喧騒が激しくなって、ある日を境に人っ子一人いなくなると思うか? 徐々に減っていくとしてもだ。いくらでも分割しようが割り切れない状態に気力が続く限り挑んでいる果てに、すっと引き返せると思うか?」
「お待たせしました。私、「飯田鈴外 涼木翔」と申します。私が来たからにはもう不安なことはありません」
彼は火炎放射器を持ち出して、モノクロの空間を輝く猛火で包み込んだ。炎の中に見えた黒い四つの影は一瞬にして砂糖菓子の様に溶けてなくなり、辺りはビビッドなオレンジ色に塗りつぶされた。
***
目を覚ますとまだ深夜だった。その疲労感だけが全身を覆っていた。
それも、朝になる頃には。
執筆の狙い
約38000字
前の投稿が気付いたら8面から消えていたので
夢と現実と妄想、物質と記号の誘惑(吸引力)という感じです
直接的なAIが主題として登場すると、ネタの鮮度が悪いですね
もう少しシュールに寄せたいと思いながらも、やりすぎなぐらい説明的ですが、内容についてなんとなく伝わるでしょうか?