小説家になりたくて
夜に仕事から帰ってくると同棲している詩織がカレーを作っていた。僕は鞄を置くと、服を着替えて、キッチンへ行く。詩織は僕の存在に気が付くと「今日は遅かったね」と言った。
「仕事が終わらなくてさ。残業だったんだ」
彼女がカレーをかき混ぜている間に冷蔵庫からトマトのレタスを取り出してサラダを作ることにした。
まな板でトマトとレタスを刻み、マヨネーズと一緒に和える。カレーが出来上がると彼女は皿にご飯を持ってルウをかけた。僕はサラダを二人分の小皿に盛った。
リビングで僕らは向き合ってビールと一緒にカレーを食べた。いつもの日常が過ぎていく。会社に勤め始めてから五年が経った。彼女とは大学院生の頃に出会った。僕は中堅の私大を出た後、国立の有名な大学の大学院で文学を研究した。彼女はその時同じ研究室にいた。私立の女子大出身で、僕らは他大学から来たので、すぐに仲良くなった。
「明日は休みだけど、何処かに行く?」と彼女は言った。
「遅くまで寝ていたいんだ。明日は家でのんびり過ごしたい。小説も書きたいし」
僕がそう言うと彼女は「そっか」と言った。
大学生の頃から小説を書いていた。当時はプロを目指していたのだが、就職した後も結果は出なかった。大学院生の頃に一度地方文学賞の一次選考に通過しただけで、その後は何も成果はない。
カレーを食べ終えると彼女はソファに座り、テレビのニュースを見ていた。僕は寝室でパソコンを立ち上げて、小説を書くことにした。
都内にある小規模の教材を作る出版社で働いている。詩織は食品会社の人事部で働いていた。
僕は書き出しをオフィスの様子から書くことにした。小説を書きながら、何となく自分には才能がないような気がしてくる。始めの千字を書いたところで読み返してみた。ストーリーに起伏のないいつものような小説だった。書き始めたばかりなのに、これも賞を受賞することはないだろうと思う。
それでもしばらくは書き進めて、気が付くと三千字の小説を書いていた。彼女が寝室に入ってくると僕は振り向く。
「明日の午後にカフェ巡りしようよ」と彼女は言った。
「午後だったらいいよ」
「やっぱり外に出たいんだよね。圭介は家が好きだけど、私は外にいると元気になるんだ」
僕はパソコンを閉じて、風呂に入ることにした。彼女は風呂から出てきて、ティーシャツにショートパンツを履いている。
風呂でシャワーを浴びながら、きっと将来は彼女と結婚して、子供を作り、今の会社での生活を送るのだと思った。
次の日は午前の十時に目が覚めた。隣に詩織はいなかった。僕はまだ眠かったので、しばらくの間ベッドにいた。リビングから音がするので、詩織は何かをしているのだろう。今の仕事は嫌いではなかったが、将来は作家になって華やかな生活をしたいと思っていた。でも世の中には自分よりも優れた小説を書く人がたくさんいる。最近はそのことを痛感していた。十一時になるとベッドから出て、顔を洗い、髪を整えて、歯を磨いた。リビングへ行くと、彼女はソファで本を読んでいた。
「お昼ご飯もカフェで食べようか」と彼女は言った。
僕はリビングでコーヒーを淹れて、テーブルに座って飲み始める。窓の外は晴れていて、初夏の日光が辺りを照らしていた。詩織は夢中で本を読んでいる。
「本当は編集者になりたかったんだ。昔から本が好きだったから」
詩織はある時そう言っていた。
「だから圭介が羨ましいよ」
詩織がそんなことを言っていたことを思い出し、果たして自分の仕事はそんな風に思われるものなのか考えている。作家になってテレビや雑誌に出たかったし、自分にはそれくらいの実力があると思っていた。
大学生の頃、夏休みに近所の図書館に行って本を読んでいた。当時はコールセンターでアルバイトをしていて、それがない日は毎日のように図書館に行っていた。たまたま手に取った「小説の書き方」という本を読んだ時に作家を目指そうと思った。その年の夏休みに友人と花火大会に行った時に初めて小説家になることを打ち明けた。彼は小説が読んでみたいと言ったので、僕は小説投稿サイトに掲載した作品を見せた。
「才能あるよ」と彼は上機嫌で言った。
当時はそこまで自信もなく、見せるのは少し恥ずかしかったが、大学生の間は書き続け、段々と自分は作家になれるのだと思うようになった。
僕は寝室で服を着替え、詩織と一緒にマンションの部屋を出た。外は部屋の中よりずっと暑く、すぐに額に汗が滲む。
僕らは電車に乗って、繁華街へ向かった。車内には家族連れの人や若者がいて、僕らは空いている席に並んで座った。
「詩織は僕の小説をどう思う?」
「才能あると思うよ。でも全体的な完成度がまだプロのレベルじゃないと思う」
「将来は作家になれるかな?」
「わからないよ。圭介が今後も上手くなれば、なれると思うし、今のままだったら無理かもね」
「そっか」
僕らは電車内でそんな話をしていた。読み手の彼女のことは信頼している。
一軒目のカフェに入ると、店内は冷房が効いていて涼しく、木目調の壁に囲われていた。店内にはジャズがかかっていて、僕らは二人掛けのテーブルに案内された。店員は慣れた手つきでテーブルの片付けをしていて、僕はそんな様子を見ていた。
「どれにする?」と彼女はメニューを開いて聞いた。
「サンドイッチは?」
「いいね。アイスコーヒーと一緒に食べようか」
店員を呼び、アイスコーヒーとサンドイッチとフライドポテトを注文した。
アイスコーヒーはすぐにやってきた。
「思うんだけどさ、圭介はどうしてそんなに作家になりたいの?」
彼女はストローでコーヒーを飲みながら僕に聞いた。僕はそう言われて、自分でもどうしてだろうと思う。ある程度の進学校から中堅の私大に入り、小さな出版者に勤めている。そんな自分が作家になるのは、結構難しいと思う。
「自分でもわからないけど、自信はあったんだ」
「確かに圭介の文章は魅力的だと思うよ」
「でもどうしてそんな根拠のない自信があるのかはわからなくてね」
僕はそう言ってアイスコーヒーを飲む。サンドイッチとフライドポテトが運ばれてきた。
「でもきっと文章力は今の仕事に生かされているんじゃない?」
自分の仕事を思い出すと、特別な愛着はなかった。毎日締め切りに追われるままに学習教材を作り続けている。
「今の仕事は一生したいとは思えないんだ」
「私は本を読むのが好きだからさ。圭介の小説も好きだよ。プロになれなくても自費出版だってできるし」
僕はそう言われたが、あくまでも作家になりたいだけであって、自分で出版することには興味を持てない。
僕らは一時間程その店にいて、話をした。外に出ると外は熱気に満ちている。
「最近暑いよね」と僕は言った。
「ちょっと異常だよね」
二軒目のカフェに入ると、僕はコーヒーとケーキを注文して、席に座った。彼女はカラオケに行きたいと言ったので、この後カラオケに行くことにした。二人で過ごしていると楽しいけれど、本当に望んだのはこんな日々だったのだろうか。彼女は将来のことについて話をして、結婚についての話題になった。
「そろそろまた両親にも挨拶に行きたい」と僕は言った。
「同棲する前に一回行ったよね。結婚はいつ頃にする?」
「もう少し経ったらでいいと思う」
僕らはそんな会話をしながら、ケーキを食べてコーヒーを飲んだ。窓の外にはたくさんの歩いている人がいた。そんな様子を見ながら、僕も結婚するんだなと思う。
カラオケを二時間予約して、酒を飲みながら、歌った。店を出る頃には夕方になっていた。駅前はまだ人で溢れている。僕らは電車に乗って帰った。自宅の最寄り駅についた後、近くにある大きな公園に寄った。
「今日は楽しかった」と彼女は言った。
隣にいる彼女のことを考えて、僕はここ最近少しだけ憂鬱だったことを思う。
「やっぱり作家になりたいんだよな」と僕は言った。
公園の中を歩きながら、もうじき太陽が沈もうとしていた。
「まだ諦めるのは早いよ」
「でもさ、自分くらいの才能なんていくらでもいるんだ。最近はそのことに気が付いてさ。それがなんだか寂しいんだよ。自分は特別だって思いたかった」
思い返せば自分はこれまでごく普通に生きてきたと思う。きっと世の中の人から見れば恵まれていると思うだろう。それでも僕は自分が特別で、作家になっていつか賞賛されることを願っていた。
公園には芝生があって、その上を歩きながら、彼女の後ろ姿を見ていた。
「私にはわからないんだよね。生まれてからずっと自分は大したことはないと思っていたから。だから自信があるのはいいことだと思うけどな」
僕は遠くに沈んでいく太陽を見ていた。その光景はこの先の人生でも今日のことを思い出すような気がする。
「これからも書き続けようと思うよ」
僕がそう言うと彼女は微笑んでいた。僕は彼女のことを魅力的に感じていたけれど、ぼんやりとした寂しさが心に残り続けている。この広い世界の中でどうして僕らは一緒にいるのだろう。
家に帰ると夕食の準備をした。今日はうどんを作った。彼女と向き合ってウイスキーを飲みながらうどんを食べた。
食事を終えると、ベランダに出て煙草を吸った。彼女は風呂に入っている。大学生の頃から今までずっと小説に夢中になっていた。その間に詩織と出会い、結婚をしようとしている。僕の中には今でも実現したい未来があり、そのことに囚われ続けていた。
煙草の煙は夜風の中に消えていった。胸には僅かな不安が揺らめいている。この先も同じような生活が続くことに僕は耐えられるのだろうか。
目の前の道路を時折車が通り過ぎていく。煙草を吸い終わると、部屋に戻って、テレビを点けた。テレビは戦争のニュースがやっていた。そんな現実を知る度に自分は恵まれていると思う。でもそんな世界の中でも、このまま平穏に過ぎていくことが不安だった。僕は今の気持ちをまた書いてみようと思い、パソコンを立ち上げる。画面に文字を入力していると彼女が風呂から出てきた。
執筆の狙い
小説家になりたい社会人の葛藤を描いた短編小説を書いてみました。