優しさの値段(仮)
朝起きると、『僕』だった。どんな性自認のときでも、学校へ行くときは見た目に合わせて、セーラー服に身を包むことにしている。セーラー服に袖を通すとき、違和感。僕の今の心は、女の子ではないから。バスに乗り、田園を幾つも越えて、蘆原停留所に着いた。
今日は、自動運転ではない人間の見知らぬ運転手さんで、バスから降りようとした瞬間、彼の視線が胸に突き刺さる。刻が止まったのではない。時間が少し伸びたみたいで、僕の肺の息が止まってしまった。視界が白んで見えてくる。
またいつもの鋭利なナイフ——視線に慣れないのだ。
肺が縮む。皮膚が色めきたったように、ざわついた。そして、鳩尾が巨大な注射器の針にでも打たれたみたい。沈むようで痛かった。。
——ああ、自分の胸の上の数字。
僕のセーラー服から、白い透過光が7を立体的に浮かびあがらせている。
無音。
聞こえていた蝉の鳴き声の鱗片すら感じられなくなってしまったのは、この視線の刃物のせい。運転手さんの胸の上では5が静かに点滅している。
知っている、恰好の獲物に見えるのは7以上。息が詰まり、身体が震えた。脳のどこかに亀裂が入る。運転手さんの口が開き、意識を耳に集中させた。
「まあ、人生いろいろあるからね」
でも、元気出せよという声のトーンと優しい視線。
その運転手さんの目には、青でも、紫でもなく赤い炎が見えている。
運転手さんの声のトーンと、視線のおかげか、穏やかな気持ちになった。信じていいよね今度こそ——。気がつくと、僕が静かに引いていく。
「ありがとう……すごく、嬉しいです。そんなふうに声をかけてもらえたら、少しだけ救われる気がします」
答える時、『私』の喉の奥から出た甘い声が、自分でも安心できる響きだった。
運転手さんへ、とびっきりの笑顔を浮かべる。窓から差す光が包むように柔らかい。
「……まだ7のままだな」
その言葉を聞いたとき——傷つかないようにと、縮こまった私が心の核シェルターへと退避していく。心に盾を構えた『俺』が引き摺り出された。
ムカつくな。
聞こえてくる鳥の鳴き声が割れる。
やべ、表情に出たか。おっさんが急に態度を変えたから。
「す……まない」
おっさんの顔色が申し訳なさそうにしていた。その視線が——一瞬だけ俺の胸から外れる。揺れる目はどこか遠く——たぶん、利益の匂いのする方角に逸れた。
ああ、またか。くそ。
心臓の鼓動が耳に響き、視界が狭まって、おっさんを正視できないでいる。自分の胸の数字を見た。
8。
割れていた鳥の鳴き声が耳の奥で弾ける。息の吸い方すら忘れる。
俺はそれでも、おっさんの目を見た。
「運転手さんの優しさ——ちゃんと効いたぜ!」
俺は目に涙を滲ませ、それでも笑ってみせた。盾は削れ、代りに剣を装備し、自分の胸の数字を指で指した。おっさんの顔色翳っているが、無視。
タッチ決済で運賃を支払う。バスのステップを蹴って降りる。
バスの運転手の視線、胸を刺してからその後の優しい態度。あの一瞬だけでも、救われた事実を思い出す。
俺は、幼馴染が降りてくるのを待つ。幼馴染といっても、中学だけは別だったが。
熱射病にでもおかされそうな陽射しが、空から降っていた。蝉の鳴き声が木々のあちらこちらから聞こえてくる。
「おはよう、雪」
俺は雪の目の炎を見る。青色。続けて視線を胸に落とすと、胸の数字はゼロ。他の数字は全部アラビア数字なのに、内面の揺れがない者のみが、カタカナでゼロ。印象的。
「ミドリ、暗い声で、おはよう言わない言わない」
「暗くもなるだろ」
俺は溜息をつきながら、言った。
「ミドリの今の性自認って男? 女でもいいけど、女の自分を労わって自然と男が出るんだよね? 男より、デリケートだから、護ってるのかな」
その問いに、胸の奥が小さく震え、『私』は自分の中の俺に、キスをしたくてたまらない。さっきバスの中で、あんなに柔らかく響いた私の甘い声。まだ、耳の奥に残っている。……嫌だ、私が呑み込まれそう。
ナイトの『俺』に吞み込まれてしまった私は、彼の声を聞いた。
「プライバシーだぞ」
吐き捨てるように言う。
「ああ、ごめんごめん」
雪とはつき合いが長い。
「箱あるでしょう?」
雪は視線を落とした。
「使えばいいのに」
若干、強い視線をくれている。
「ウゼーよ」
俺の言葉は、ただ空気を切った。雪の目を覗くと、奥には何もない。——何故か目を逸らしたくなった。
「箱を使うとどうなるか知ってるだろ?」
俺が吐く言葉には怒気を孕んでいる。
「押した奴は数字がゼロになる」
俺は息を吐く。
「へー、知っているんだね」
雪は瞬きもせず、そう言った。俺は言い返した。
「使う気はないけどな」
雪の言葉が引き鉄になり、鞄の底にあるポリカーボネート製の箱が思い浮かんだ。背筋どころか、背骨まで冷える。鈍い光沢を放つ黒い塊。俺は、乱暴に鞄のジッパーを引き、その塊を引き摺り出す。下の蓋を親指で弾くと、生体認証のスリットから、冷酷に、地面を点滅させる赤い光線が出る。生体認証の部分に指頭を押し当てる。認証の完了を告げる微かな振動。
その瞬間、蟬の鳴き声を圧殺するような、電子の悲鳴が箱から爆裂する。鼓膜が軋む。
直後、上の蓋をずらして雪の顔面に突きつける。
だが、雪は網膜の微動だにしない目で、中を覗き込んだ。俺は、忌々しく思って、蓋を閉じる。
「こんなもの俺には必要ない。でも、捨てるわけにもいかないからな」
数人がこちらを見ている。今ではこの音珍しくもない。なのに、目にある軽蔑で、心臓が止まりそうになった。
悪用と思っているのかよ。
「ミドリのこと、見てる人いるじゃない」
乾いた声の響きがした。雪は笑っているのに、そこに暖かさはない。
高校生になって再会してからは、こいつの数字が変わったところ見たことがない。長年付き合っているが、輪郭がつかめない。ゼロを維持するって、どういうことなんだろうな。
「知るかよ。俺はそういうつもりで箱を触ってねえ」
進む先が、虫眼鏡で、炙られでもした蟻の死体みたいに見えた。数兆匹はいるに違いない。熱く焼け、逃げ道がなくなったどこまでも続く焦げた死骸みたいなアスファルトを踏んで歩く。途中、自転車登校の奴が、俺達を追い越していく。
胸の数字が見えた。3だ。雪が言った。
「ゼロってさ、何も感じないから、楽なんだよ。誰にも期待していなくて、揺れてないってことだから」
その言葉に、心が違和という小さな棘で刺された。『僕』は、優しさもとげとげしさもなくなり、オートマシーン化する。いつも通り、胸の数字を見ると、7。時間経過のおかげか数字が下がっていた。僕は言う。
「誰にも期待せず、揺れてないのはつまらないものだよ」
雪は何も言わず、セーラー服の胸のリボンを手で弄った。反射的に、僕も自分のセーラー服のリボンを触った。
そのまま歩いていると、視線がコンビニを捉える。
「うまい棒食べたくなった」
僕は言い、雪が、
「うん、いいよ」
と、言ってくれる。コンビニの中に入ると、同じ高校の男子生徒が二人で話していて、嫌でもその声が、耳に入って来た。
「俺さ、希死念慮度高いやつの数字、三段階下げたぜ」
「マジ? あれって成功すると金もらえるし、信用ポイントも入るからな」
「そうそう。便利っちゃ便利だけど、なんか変だよな」
「でも、ちょっとでも金もらえるし、ポイント入るのなら、やっちゃうよな」
「どれぐらい下げるのがコスパが一番いい?」
「一段階だろ」
「泣かせるとよく効き目あるよな」
耳に蓋はできなくて、感情的になった俺が拳を握って出そうになった。でも、俯瞰して聞いていたせいか、冷麺のスープのように冷たくてやんわりとした黒い心の濁りで、僕は陳列棚に歩いて三千円と棚に値札が貼られているうまい棒を手にした。
かつて、ハイパーインフレの波に呑まれたこの国では、昔は十円だったという駄菓子。今や三千円。不思議なものだ。これが、十円? どんな時代だったんだろうか。今は、最も価値が低いのは千円硬貨だというのに。
有人レジに持っていき、うまい棒をレジカウンターに置く。若い女性店員が、品出しをやめて、レジに速足で入ってくる。彼女は、僕の胸を凝視していた。
「元気出してくださいね、お金いりません、うまい棒の代金私が払いますね」
女性店員が言った。そして、財布からクレジットカードを取り出し、機械にタッチした。店員の視線が僕の胸から離れてなくて笑えてきた。こんな些細なことで、心が動くものかと思ったから。
それでも、手の中のうまい棒だけが、やけに暖かい。胸の奥が、じんわりと甘く疼く。こんな些細なことでも……やっぱり嬉しくて『私』は微笑む。
雪もうまい棒を手に一本持ってレジカウンターに置く。店員が三千円ですと言い、雪は千円硬貨を三枚取り出して、レジカウンターに置いた。
コンビニを出ると、すぐ、雪が私に声をかけてきた。
「ミドリ何段階下がった?」
雪が私の胸の数字に視線を落とす。私も見てみたが変わっていなかった。うまい棒ぐらいで下がるぐらいなら、とっくの昔に下がっているじゃない。うまい棒の封を切って食べたが、味が軽い。気づかいが暖かいというのに、喉に残る味を飲み込めない。
呼吸が荒くなる『俺』。
くそ……またか。
俺の目から頬に冷たい涙が伝う。
ミドリ何段階下がった? 雪の声が残響となって、毒のように頭を侵す。
隣にいる雪は、俺の涙に反応しなかった。雪の胸の数字、ゼロを見た。こいつみたいにはなりたくない。
いつの間にか、雪の声の残響が遠のき、呼吸が整って、『僕』は頬の涙を指で拭った。
歩いているうちに、全身から汗が噴き出、特にひたいや、こめかみから流れてくる汗が気持ち悪い。やがて、僕達は学校の門をくぐった。
『注視対象者。希死念慮度7、遠藤ミドリさん。皆さん優しく接しましょう』
やたら明るい機械のアナウンスが聞こえてきた。今まで、こんなアナウンスは初めてだ。汗が冷え、額と全身に張りつく。
僕の中で感じる俺が、叫び声をあげてもおかしくなかった。
でも、そのアナウンス。
気持ち悪いのに、それでもそれ以上に嬉しさを感じて、『私』の身体の奥がぐちゃぐちゃになって崩れていく。鳥肌が立つほど。溶けたアイスみたいに、とろりとしている。冷たいのに、ねっとりした甘さが絡みついて離れない。気持ち悪いのに、口角が自然とふわりと上がって、目がうるうると潤んできた。その崩れたアイスの味覚を堪能していると、足取りが、ふわふわと軽いのに、それでも重い気もしなくもない。
校庭を通り抜けて、玄関に入る。靴を上履きに履き替え、廊下に出たら——。
そこには、スクールカウンセラーの昌義先生が立っていた。胸の数字は、4、目には赤い炎がついている。
「やあ、さて、今の君なんて呼べば?」
昌義先生の表情には笑顔が浮かんでいる。
「ミドリさんで」
新たに導入された制度のおかげか、私の声が跳ねている。
「ということは、今は女の子だね」
「はい」
「じゃ、私はこれで」
雪がそう言って、私達から離れていく。
「希死念慮度は6だね」
昌義先生が言って、挿している胸ポケットからペンを抜いた。手に持っているメモに、ボールペンで記入する、6と言いながら。そのとき、書き込む音がやけに大きかった。
「はい、あの門のアナウンス私への配慮なんですよね?」
昌義先生は、ははは、と笑って視線を投げてくる。
「配慮という言い方は、少し適切ではないかな、思いやり。数字が高い子には、特にね。大丈夫だよ、君みたいな子はちゃんと支えられるべきだからね」
私の胸にほんの一瞬だけ目を落とした昌義先生の視線が気になって、自分の胸の数字を見る。
6。
昌義先生がペンを走らせた。昌義先生の表情をみると一瞬、苛つきが浮かぶ。すぐに、何事もなかったように笑顔に戻った。不思議だったが、それよりも……。
「思いやり、支えてくれるんですね。すごく嬉しいです」
と、本音が漏れた。
「今日は、一限目少し使って、カウンセリングを始めよう。今からでいいかな?」
「大丈夫です」
私達はカウンセリングルームに訪れた。机と椅子。机の上には、卓上ガスコンロと、インスタントコーヒー、ガムシロップとクリープ。
そして、部屋に視線を這わせる。掛け時計、窓、冷蔵庫、棚の順に。
昌義先生が、机の奥へ行き、翻って手を机へ向けた。
「さあ、座って」
「はい」
私は椅子に座った。
「今日は、コーヒーがいい? ジュースがいい? 実はコーヒーの方が落ち着く子が多いんだよ」
「コーヒーで」
「わかった、ミドリさん」
昌義先生は、ヤカンに予め入れられている水をコンロのボタンを押して、沸かし始めた。
「カップを持ってくるから」
そう言って、棚がある方へ歩いていった。昌義先生は、棚からカップを二つ持ってきて、机の上に置き、座る。
「何か話したいことある? 箱のこととか最近いつも気にしているけど」
「箱の悪用についてかな」
「いいよ」
「さっき、箱を開けてみたんです。そしたら、何人かが視線を向けてきて軽蔑の色が浮かんでいました」
「まあ、わざと開いたときの音を鳴らして、箱を使うのを躊躇ったと思わせて、思いやりやら、金品を引き出そうとする。そんな、動機の人達いるけど、ミドリさんは、違った動機で箱を開いたんだよね?」
昌義先生が、ヤカンに視線を落とす。私も。
まだ、水はグツグツしていなかった。
「はい、雪の反応を見たかったんです」
「雪さんの反応? どういう事かな?」
昌義先生は私の目を見てきた。
「雪は、あの箱使ったかもしれないから、不安で」
「もしも使っていたとしても、雪さんには自己決定権があるからね」
「使うってことは、耐えられなかったってことでしょう?」
「よそう、そういうふうにネガティブに考えるの」
田中昌義先生がそう言ってくてたおかげか、『僕』は冷静になった。彼は僕の胸を見た。そして、満足そうな表情を浮かべる。
「そうですね、田中昌義先生」
胸の数字に視線を落としたら、5になっていた。
「田中昌義先生か、という事は、性自認が中立の僕だね」
「ええ、もう何回もやりとりしています。わかっているでしょう。田中昌義先生、話変わりますが、どうして父は僕にみんなには見えない目の炎を見せるようにしたんでしょうね?」
執筆の狙い
ここに載せるのは、導入のみ。
リアルの人にはわからんと言われました。
AIは情報量が多く、読者負荷が高いと言ってます。それと、未完のこの物語、出来てるとこまで見せたら、新人賞では一次、二次は通過するでしょうと言ってます。
あくまでもAI。
ジャンルはディストピア小説。
そんなにわかりにくいでしょうか?
だいぶん、修正したんですけどね💦
公募用なので、あまり。開示できません。