空白のゴールテープ
【空白のゴールテープ】
僕は半分まで読み進めた本を、栞を挟まずに閉じた。
閉じた勢いで埃が舞った。
窓から差した光が、埃を照らす。
隣から、ミシッと革の沈む音がした。
ゲーミングチェアに座っていた翠(みどり)が、態勢を変えた。
「その本、面白いの?」
「まぁまぁかな。人生最後の日を迎えた人たちの、ちょっと哲学的な話」
「そうなんだ」
僕は翠の膝上に置かれた本を見る。
「翠は? その本、面白いの?」
「うん。面白い! 血が滲んだような生き様だね。でも…俺だったら、の方が先走るんだよ」
パタン
本を閉じる音がして、僕は顔を上げた。
栞は挟まれていない。
「零(れい)」
翠が僕を指差しながら笑う。
「あ、またこんな目を細めて」
眉間に皺を寄せて、僕の真似をする。
翠は背伸びをした。
「あぁー! 自然を感じたい! 体を動かしたい! よし! 山へドライブしに行こう!」
翠はゲーミングチェアから勢いよく立ち上がった。
翠が車を走らせてから、一時間が経った。
腕時計を見ると、まだ半分しか進んでいない。
「疲れただろ? 変わるから、どこか寄らない?」
「平気。でも、コーヒーが欲しい」
翠は、空になった紙コップを揺らした。
長閑な田圃だらけの地が続く。
さらに走ると、山肌が剥き出しの地が見えてくる。
土壁の剥がれた古小屋が点々と並んでいた。
僕は視線を逸らし、青空を見た。
ぽっ、ぽっ、ぽっ、と三点置いたような小さな雲。
縮こまったなにかが少しだけ、緩んでいった。
山から一辺して現れた道の駅。
翠が目を見開き、僕も釣られて微笑む。
車から降りると、翠は背伸びをした。
体を揺らすようにして、人々の輪に向かってゆく。
野菜を手に取る人、ソフトクリームを食べる親子……。
コーヒーを買う翠を、眩い日差しが照らした。
僕は目を細めた。
「おい、湧水コーヒーだって!」
「良かったじゃん」
そのとき、何処かから、女の子の声がした。
「見てー! 魚、見つけた!」
女の子が小さな池の前で、母親に手招きしている。
「わぁ~! よく見つけたね」
翠も親子を見ては微笑む。
氷がカラン、と揺れる音がした。
翠はストローに口をつける。
「ん~! 美味しい!」
クレッシェンドが彼なら、僕はオルガン・ポイントだ。
再び半分の距離を走り、目的の山に着いた。
バーベキュー広場から煙が上がる。
展望台や売店で賑わう人々。
ロープウェイで山頂付近まで登り、二キロ歩くだけの軽登山。
チケットを二枚買い、列に並ぶ。
目の前でリュックが激しく揺れている。
子供がぴょん、ぴょんと跳ねていた。
ゆっくりとロープウェイが動き出す。
目の前の緑が広がってゆく。
紫色のカタクリの花の群れが広がる。
「わぁ」
親子たちが声をあげる。
ロープウェイのワイヤーが風に揺れ、支柱の鉄骨に近づく。
翠の目線はすぐ近くを見つめている。
ワイヤーを見つめていた翠は、車内の人々を見つめ始める。
車輪と擦れ合い、ギギギ、と軋むような音が鳴る。
翠の体が僅かに動く。
山頂付近に停車し降りると、僕は訊いた。
「どうだった?」
「うん。景色はいいし、雰囲気は好きなんだけど…心配になるね」
翠は太い筋肉を屈伸させながら、傾斜を登り始める。
ジリジリと照りつける太陽。
翠の首に汗が流れる。
翠は短い髪をワシャワシャと手で揺らした。
僕は襟足まである長い髪を、ヘアゴムでひとつに束ねた。
翠は、ハッ、ハッ、とリズミカルに呼吸を繰り返す。
翠は振り返ると、眉を潜めた。
「零は本当に真っ白だな」
自身の腕を見る。
鶴の首みたいに細くて青白い。
水を飲む。
喉の奥が氷を当てられたみたいに驚く。
「お化けが嫌いな癖に、零がお化けみたいだ」
再び、翠が地を踏みしめながら一歩、一歩と傾斜を登る。
『そっちだって、ジェットコースターが苦手な癖に』
喉元まで出かけた言葉に首を振る。
僕には、彼の透明なセンサーを包む力もない。
ようやく山頂に着いた。
翠は両手を腰に当て、景色を見渡した。
「あれって、あの工場だろ?」
隣に立つ夫婦の声がした。
「え、どこどこ?」
一向に見つけられない妻に、旦那は腿を叩き始める。
「ゆり、あの工場見えるか? ほら、父さんが前に務めてた、鳩のマークの」
小さな女の子を持ち上げ、肩車させる。
「うん! お父さんより早く見つけたよー!」
「最高だね」と、翠が瞳を光らせながら、僕に近づく。
「うん…いいよね。自然って」
僕らはまた、下山し始めた。
下山途中でロープウェイに乗る。
ガタン、と一度機体が大きく揺れた。
それから、ゆっくりと下ってゆく。
僕はその乗り物に重心を預けた。
目を閉じても、開ければやがて到着できるなんて。
僕の呼吸は一定したリズムを刻み出す。
翠を見る。
相変わらず体を僅かに動かしている。
翠はおもむろに手いたずらをしていた。
下山した先には、湧水が流れていた。
岩に張りついた苔を見る。
ヒタヒタになっても、全身に水を浴びていた。
いつだったか聞いた雑学では、苔は自ら水分を吸う根がないとか…。
「とっても美味しいから。ほら、飲んでみな」
皺と血管の浮いた手で、柄杓を渡す女性。
隣には、双子みたいによく似た男性がいた。
二人は欠けた歯を見せて笑い合う。
翠は柄杓を受け取る。
湧水を掬って口に含む。
うん、うん、と翠は頷いた。
「私らも、若い頃はあの山を登ったもんだよ。ロープウェイも使わんでさ」
「本当ですか? 往復六時間はする」
そうさ、と女性は頷く。
「登山は好きかい?」
翠は一瞬、考え込む。
「登っているときの自分が好きです」
女性と男性は朗らかに笑う。そりゃあいいと。
「今度、参加してみようと思うんです」
翠は、スマートフォンの画面を二人に見せた。
「トレイルランニングってご存知ですか? 山の上を走って順位を競う競技なんですけど」
「山岳マラソンみたいなもんかね? なかなかしんどいんじゃないかい?」
それでも、と翠は続けた。
「相性が良さそうなんです。僕と」
再び、「そりゃあ、いい」と二人は笑った。
山から帰る道中。
来る時は気づかなかった、喫茶店マークの看板が見えた。
看板は文字が剥げかけていた。
左矢印の先に三キロと書かれている。
行ってみようか、と翠はハンドルを切った。
ガラス戸の木枠はペンキが剥げていた。
大正浪漫な絵画が飾ってある。
白い卵みたいな顔に、細いカーブの黒目で笑いかける。
僕は後退りする。
ガラスの向こうに人気はない。
翠は迷わず、ガラス戸を開ける。
チャリン、とベルが響く。
奥から腰の曲がった女性が出てくる。
赤い布地に小花柄の前掛けを着た、白髪の女性。
時が止まっているような気がした。
入り口側の二人掛け席に座る。
女性は水とメニュー表を机上に置いた。
ロックな洋楽が鳴り響く店内。
コップが置かれる音が控えめに響いた。
翠はメニュー表を指差す。
「決めた! オムライスにしよう」
僕はまだ、メニュー表と睨めっこしていた。
ベルが鳴り、若い女性二人が入店する。
「雰囲気あるね〜」
二人は店内を見渡しながら、奥の席に腰を下ろす。
翠の頼んだオムライスとコーヒー、僕の頼んだシーフードドリアが運ばれてきた。
僕らはスプーンで音を立て始める。
「見てよこれ。絶対あそこで買ったよね!」
「嘘だよね! 本当ムカつくよね!」
女性二人はスマートフォンを見合う。
次第に、声のボリュームを上げてゆく。
「なんでこうゆうこと、平気で言うんだろうね?」
淡々とスプーンを口に運んでいた翠の手が止まる。
顰め面を浮かべ、オムライスを口にかきこんだ。
店を出るなり、翠は深呼吸をした。
「雰囲気が良かったんじゃないのかよ」
「あぁいう人もいるよ」
「そりゃあ、そうだけどさ…」
僕と翠は、同居しているアパートに着いた。
翠は玄関で靴をひっくり返した。
そのままリビングへ向かう。
帽子を机上に置き、椅子の背にパーカーを掛ける。
僕は、思わず笑う。
二年も経つと、こんなところまで日常になっていた。
「そんなギリギリで大丈夫?」
数週間後には、トレイルランニングの大会が迫っている。
「最初は完走さえできればいいと思ってる」と翠は答えた。
「だからこれから、ジムに行くんだよ」
いつの間に用意したのか、トレーニングウェアに着替え始める。
パタン、と玄関の戸が閉じる。
僕はキッチンに立ち、野菜を刻み始める。
コンコンコン、と包丁の小刻みな音が静寂に響き渡る。
僕はイヤホンからキャッチーな音楽を流す。
人参をピーラーで削り始める。
カリカリと鳴らし、頭を音で塞いでゆく。
翠はジムから帰ってくるとシャワーを浴びた。
タオルで頭を豪快に拭きながら言った。
「あー、楽しかった! 明日は絶対、筋肉痛だよ」
「それでさ! いろんなマシンがあるから、動画を見ながら試してさ」
「そうなんだ」
「まだ、いくつか試してないマシンがあるから、明日も行きたいな。本当、楽しかった」
「それは良かったね」
僕は時折、相槌を打つ。
「でさ」と翠は話をさらに展開させる。
「ね? そう思わない?」
翠がこちらを見つめた。
彼の口癖だ。
「そうかもしれない」
他に言うことを探したが、それしか出なかった。
目前に置かれた玉子焼きを食べて、翠のジムの話はストップした。
「あぁ、うまい、うまい」
僕は思わず、微笑んだ。
あぁ、翠…。
どうかずっと、そうやって光を放っていてくれればいいんだ。
翠のジム通いは、ルーティン化した。
翠がジムに通い始めて二週間が経った。
僕は開放的なガラス張りの建物を見つめる。
しばらく様子を見た後、戸を開いた。
等間隔に並んだ数々のマシン。
走る人々の呼吸や足音が響く。
「これは、トレッドミル」と翠が走る為の機体に上がる。
「スタートを押して、ここでスピード調整する」
翠はスピードボタンをポチポチと押した。
ベルトの回転が早まってゆく。
シューッと摩擦音が聞こえる。
僕も真似してトレッドミルに上る。
スピードを上げてゆく。
一分…二分…十分も経たないうちに息が上がる。
背中に汗が伝う。
学生時代の翠は、運動とは縁がなかった。
僕と写真ばかり撮っていた。
真横で走る翠の軽やかな足音が聞こえた。
僕も仕事帰りにジムに通うようになった。
音楽のアップテンポに合わせて手足を振り続ける。
呼吸を整える。
体が後ろへ離れないように集中する。
「零があんなにハマるなんてな」と翠は嬉しそうだった。
「他に何にも考えなくていい」
「そうだな。前だけ見てられる」と翠が笑う。
僕は身を縮めた。
車は会場へと近づく。
開け放たれた窓に吹き込む風と薔薇の香り。
仕舞い忘れた鯉のぼりが、新緑の風に泳いでいる。
駐車場へ降り立ち、翠は深呼吸した。
翠と同じスポーツウェア姿の人々が擦れ違ってゆく。
翠の表情は強張った。
「間もなく、トレイルランニング参加者入場受付を開始いたします」
「行ってくる」と翠は駆けてゆく。
少し離れた場所で、ガラス窓から様子を窺う。
翠はスマートフォンを何度も操作する。
スタッフが画面を指差している。
僕はガラスの方へさらに近づく。
しばらくして『四十六番』のゼッケンを着た翠が駆けてきた。
「エントリー順の番号らしいよ。全部で五十人だって」
僕は周りを見渡す。
小学生くらいの子供と母親の姿が特に目立った。
三十代以降に見える夫婦も多い。
逆に、翠と同じくらいの二十代はあまり見当たらない。
「トレイルランニングってこんな感じなの?」
聞くと、翠は頬を搔いた。
些か歯切れ悪く言った。
「いや…。これは小規模な方だよ。五キロコースで三歳から参加できるから…」
「そりゃあ、初心者で急な思い付きだから妥当だよ」
「うん…」
翠はまた、頬を掻いた。
「間もなく、スタートいたします。参加者はスタートラインにお並びください」
スタートラインに立つ翠は水を口に含んだ。
片足を大きく前に出してストレッチをする。
子供たちが手を叩き、歌うように数える。
「じゅうごー! じゅうよんー!」
笑顔の翠は、やけに瞬きが多い。
「にー! いちー! よーいっ スタート!」
ダッと一気に足音が響き、土埃が上がる。
翠は先頭に十人ほどいる列の次にいた。
目先には百段近い階段が鬼門のように待ち構える。
翠は鬼門目掛けてペースを崩さず走る。
いける、いける!と翠の背中に心の声を送る。
子供たちは鋭い眼光で先頭に食らいつく。
夫婦のほとんどは後列でマイペースを貫いていた。
ようやく階段に差し掛かる。
翠の速度が一気に落ちた。
やがて、中段に差し掛かる。
翠は手すりに手をついた。
大きく肩を上下させる。
子供たちが一気に追い上げる。
後列にいた夫婦も次々に翠を追い越す。
最上段で待ち構えるカメラマンにピースを見せる人々。
翠は軽く頭を下げるだけだった。
表情も見えないまま、翠は森の奥に消えていった。
僕は早まる鼓動に手を添える。
ゆっくりとゴール付近に歩き出した。
スタート位置に戻り、二十分ほどした頃。
子供たちの蹴りに、土が激しく削れてゆく。
スタッフがゴールテープを構えた。
三番にゴールした子は、ビニール袋に顔を埋めた。
母親に背中を擦られていた。
「最後の全速カッコ良かったね」
主催者がマイクを向ける。
「いちばんが…よかったけど…つぎはぜったいいちばんがいい」
服や手足の泥も気にせず、声を上げて泣く。
それからさらに十分、二十分して、夫婦が仲良くゴールし始めた。
「前回よりペースが落ちてしまいましたが、次回も参加したいです。楽しかったです!」
マイクに向けて、はにかみながら挨拶をする主人。
奥さんの方を向いて「ね?」と笑いかける。
皆、手足に泥の勲章をつけてゴールする。
タイムアウト三十分前になった。
翠の姿は見えない。
下り坂の奥に目を凝らすと、「四十六番」のゼッケンが見えた。
みどり…!
心の中で叫ぶ。翠の後ろにも夫婦と大人の三人が続く。
ゴールのアーチ裏では、表彰式が始まっていた。
小学生の歓喜の声に包まれる。
翠の後ろにもう一人、ピッタリ着いている人がいた。
スタッフが着る緑色のパーカーを着ている。
翠は雨に濡れたような髪を振り上げた。
上げたその顔は青白かった。
ゴールのアーチを潜り抜ける。
ぎこちない笑顔を浮かべていた。
「皆さん、無事に完走です! お疲れ様でした!」
主催者が高らかに声を上げる。
翠は最後から四番目だった。
翠の元に駆け寄る。
「あ、行っちゃった…」
翠は、表彰式の奥に視線を送った。
「階段を上った後に貧血を起こしてさ…。ボランティアの人が、ずっとついてきてくれたんだけど…」
翠は笑いながら、両手を腰に当てた。
「お礼を言いたかったのにな」
「貧血って、大丈夫? 階段で立ち止まったから心配してたんだ」
「うん…。吐き気がして座り込んじゃってさ。リタイアを提案されたんだけど」
「薬を飲んだら少しマシになったよ」
翠は雀の涙みたいな水を飲み干す。
僕は急いで、鞄から予備の水を渡す。
翠はペットボトルを受け取り、勢いよく口に流し込む。
翠は普段から薬を持ち歩いている。
「最初に急ぎすぎたんだよなぁ」
翠は溜息を漏らした。
「次は九月に開催なんだよ。次は絶対、ペース配分を意識する!」
『貧血になったのに、完走できただけでも凄いよ』
出かけた言葉を足元に落とす。
「見た? キッズたち、元気だよなぁ。泥にダイブしても立ち上がって我武者羅だよ」
翠は、表彰台に立つ子供たちに視線を送る。
翠の瞳が陽を受けて揺らめく。
僕は夫婦に視線を移す。
目尻に皺を浮かべた夫婦は、拳を軽く突き合っている。
僕は翠のような人を探したが、見つからなかった。
「さすがに、変だって」
僕は、翠がパンツのベルトに引っ掛けている、ハンドタオルを指差した。
山のシルエットの上に、『TRAIL RUNNERS2025』と書かれている。
「だって、キーホルダーかマフラータオルが欲しかったのに…」
参加賞は翠が受付でもたついているうちに、ハンドタオルだけになってしまったようだ。
「貰えただけ、良かったじゃん」
「次はマフラータオルにしようか、キーホルダーにしょうか…」
僕はクスッ、と笑う。
参加賞を手にした翠を思い浮かべる。
「どうかした?」と翠が振り向く。
ううん、と僕は首を横に振る。
「じゃあ、そろっと行こうか」
僕らはいつものジムへ向かった。
大会から二週間が経った。
一週間前まで、翠は筋肉痛だった。
僕は病人を看護するみたいに、コキを使われた。
大会の翌日には仕事までしてきた癖に…。
今では、軽快に歩いている。
僕は、ロックミュージックのボリュームを上げる。
ピピピピ
リズムに合わせるように、横から音がした。
僕は片方のイヤホンを外す。
「それ、なに?」
「傾斜にできるんだよ。階段対策」
僕も傾斜を三のレベルまで上げてみる。
脹脛と太腿に一気に負荷がかかった。
歩いているだけなのに、汗が滲む。
代わりに脳が暇を持て余し始めた。
走馬灯のように日記を脳内で捲り始める。
僕は傾斜をゼロに戻す。
加速を上げてゆく。
走る速度は、基準値でも疲れなくなった。
僕はさらに二つ、スピードを上げる。
正午のジムには、僕らの他に二人しかいない。
冷房が隅々まで通っている。
窓外に見える、道行く人を見つめる。
ロックをシティ・ポップに切り替える。
プロモーションビデオみたいに。
ピ、ピ…
真横で傾斜を上げる音がした。
少しして、翠は別のマシンに移動した。
カン、カン
背後から、鉄かなにかが当たる音がした。
女性の声が聞こえる。
「あれ…?」
「最初にレバーを引いて、元の位置にリセットするんですよ」
今度は翠の声だ。
トレッドミルを停止させ、振り返る。
翠は女性の近くに立っていた。
「そうそう。負荷をかけたい重さの位置にこのピンを刺して…」
「そうなんですね! ありがとうございます!」
それから、ジムに行く度にあの女性を見かけるようになった。
二人は、会う度に会釈をするだけだった。
翠には四年前に別れた彼女がいた。
SNSでカメラ好きを高じて出会った彼女。
遠距離を理由に、関係が難しくなったと言っていた。
僕には遠距離だけではない、翠の防波堤があるような気がした。
彼女と別れた後に翠は言った。
「俺って、変わってるんだよな」
珍しく、僕の中にマグマのような塊が浮かんだ。
僕は叩いてそれを冷ました。
「僕の方が…変わってるよ。翠は、普通にもなれるんだよ」
思わず吐いてしまった言葉…。
翠は口を尖らせていた。
気づくと、隣にいた翠が、こちらを見ていた。
僕はスピードを落とし、マシンを停止させた。
「そろっと帰ろう?」
翠が言った。
「翠の新しい仕事って、どんな仕事なの?」
「鉄の大きなホールに材料を流し込む作業だよ」
作業服姿の翠は、玄関の戸に手を掛けた。
「じゃあ、戸締りよろしく」
以前の翠は、落ち武者のようだった。
僕は、「環境を変えるべきだよ」と度々忠告していた。
『優しい人たちだったことは分かる』とも言っていた。
彼を見送った二十分後に僕もアパートを後にする。
地鳴りのようなエンジン音と共にハンドルを切る。
会社はすぐそこだ。十分足らずで到着する。
僕は席に座り、カチカチとキーボードを鳴らす。
もうすぐで、翠の勤めていた五年を上回る。
その間、新人が何度も出入りした。
思い入れのある人も見送ってきた。
「生活は維持できるし、貯金もできる。迷惑はかけないようにする」
翠は僕より収入の少ない職を選んだ。
「冬木(ふゆき)さん」
名前を呼ばれ、振り向く。
メモ帳を抱えた女性が立っていた。
「ここ、なんて書き直したらいいですかね…?」
『最近、すっかり暑くなりましたね』と出だしに書かれている。
最後は『すみませんが、よろしくお願い致します』で締められていた。
僕は二重線を引き、書き直した。
『拝啓 向夏の候、貴社におかれましては~恐れ入りますが、ご査収のほどよろしくお願い申し上げます。』
「ありがとうございます!」
休憩中に女性トイレから聞こえてきた声。
彼女たちは抑えたつもりが、十分声が漏れていた。
「冬木さんて、すごく普通の人だよね」
「うん、真面目で大人しい、いい人。彼女がいないって言ってたけど」
「え? 聞いたの? 狙ってたの?」
「わたし、今は彼氏がいるから。だいぶ前にね。だって…全然アリだと思ったから」
翠はいつものように、先に帰宅していた。
洗濯物を畳み終え、立ち上がる。
「こんなに時間が余った! よし! 行ってくる!」
「冷蔵庫に入れたから、チンして!」
そのまま、アパートを飛び出す。
冷蔵庫には、カレーがタッパに入っていた。
洗い終わったと思われる鍋を見る。
カレー粉が付着していた。
翠は、十九時近くになっても帰ってこなかった。
歩いてすぐの喫茶店。
ガラス越しに、翠が見える。
老婦人に詰め寄るように、瞳を輝かせていた。
戸を開けようとした手を引っ込める。
僕は踵を返した。
綿毛を踏みそうになり、踵を浮かす。
少し目線を先に配る。
ちょうど、陽の当たる場所に咲く綿毛もあった。
風が吹き、一斉に綿毛が飛んでゆく。
少し先にある綿毛を、足元の綿毛が追い越してゆく。
その飛び方は、不規則に上下していた。
どの綿毛よりも遠くへ独りで飛んでゆく。
僕はその不規則な綿毛を長いこと、見送っていた。
その日の翠は、一日中、ベッドの上でゴロゴロしていた。
僕はフローリングにコロコロをかける。
キッチンへ向かう足を方向転換させる。
僕はソファーに深く沈んだ。
窓外では厚い雲が空の隙間を埋めてゆく。
カエルが窓に張り付いては、律儀に教えてくれる。
『これから雨が降るよ』
翠はヨロヨロと歩きだした。
キッチンに立ち、錠剤を口に含む。
「あぁ、何もできない。情けない」
翠はこめかみを抑えながら、再びベッドに戻った。
「仕方がないなぁ」
僕もこめかみを抑えた。
キッチンに立ち、麺を茹でる。
細くて固いスティックが扇のように広がる。
お湯の中へゆっくりと沈んでゆく。
茹で上がった麺をお椀に移す。
めんつゆとツナ缶、トマトを小さく切って和える。
飾りのように大葉も散らした。
「ほら、できたよ!」
些か不満げな声が放たれる。
空気を読むように、落雷が落ちた。
ゴロゴロゴロ…
翠は麺を口に含む。
あぁ~とかわぁ~とか感嘆符を鳴らす。
僕は頬杖をつき、呟いた。
「まったく」
窓外に視線を送る。紫陽花が露に濡れていた。
翠が小さく息を吐いた。
「頼むよ。しばらくこんな調子じゃ外にも出れない」
「あと三か月しかないのに大丈夫?」
うーん、と翠は項垂れる。
そうだ、と翠は言った。
「今日は服を見に行きたかったんだよ。零に、付いてきて欲しくて」
「服くらい、自分で選びなよ」
「ダサいからなぁ」
僕は怪訝な顔で翠を見た。
好みを優先する翠には、意外に思えた。
薬が効き始めた翠が運転席に座る。
僕らは、午後から服屋を見に行った。
「俺だったらこれにするけど」
翠は黒いシンプルなTシャツと、スキニージーンズを手にする。
「じゃあ、それでいいじゃん」
「いや、零の方がオシャレだからさ。零なら、どれにする?」
「僕なら、これにするけど…」
僕は、近くの服を持ち出す。
腰まである長めの水色のシャツに、白いTシャツと黒いパンツ。
「なんとなく。爽やかに見えるから。でも、決めるのは自分だよ?」
翠は僕の選んだ服を掴んだ。
そのまま真っすぐレジへ向かう。
僕の頭に翠の声が響く。
『自分の直観に任せればよかった』
なんて後で言われるのはごめんだ。
翌週の週末。
カラッと乾いた太陽が照り付けている。
翠は眩し気に目を細めた。
水色のシャツに身を包んでいる。
翠は額の汗を拭う。
やたら早足で車へと歩いていった。
帰宅するなり、翠はテーブルに顔を伏せた。
「意外と、を二回も言われたよ」
「だから、心を開くのが苦手なんだろうなぁ。わかる、わかる」
一人反省会を始める翠に尋ねる。
「もしかして、あのジムの女性?」
うん、と翠は頷く。
「連絡先を聞いてこないから、なにかが彼女の中で違うと判断したんだろうな」
翠は落ち込む程、喋りだす癖があるからよく分かる。
「けど、聞き上手そうな女性だよね」
僕の言葉に、うんうん、と翠は頷く。
あの温厚そうな女性なら、翠の防波堤も乗り越えてくれそうな気がする。
なんとなくだけど。
『意外ってのは、悪い意味で言ったんじゃないと思うよ』
この手の励ましを何度してきたことか。
僕は口を閉ざす。
「なんか怖いんだよなぁ。あの笑顔」
狭いキッチンの周りをウロウロ歩き回る翠。
『幼馴染』という鎖がなかったら…。
僕は窓外を見る。
二匹の野良猫がけたましく叫び合った。
その横を、知らん顔した猫が通り過ぎた。
大会まであと一か月になった。
郵便受けにハガキが入っていた。
「零、 小学校の同窓会だってさ。どうする?」
僕は少しの間、黙り込む。
「翠は?」
「欠席にしておくよ」
「翠は、それでいいの?」
「うん」
翠は近所をジョギングしにいった。
僕も翠の後に外に出る。
手には、欠席に丸をつけた二枚のハガキ。
数週間の日照りが続いていた。
草木はしんなりと傾いている。
歩道橋の向こうにタチアオイが見える。
陽に向かって鮮やかな赤色の花弁を広げる。
ガードレールの下に視線を送る。
ハナスベリヒユが鮮やかな黄色の花を咲かせていた。
廃校になった小学校を通り過ぎる。
記念展示館として利用され続けていた。
白い外壁の隅々に蜘蛛の巣が貼っている。
なにもいない、金網の小屋を呆然と見る。
だれかが僕を指差して笑った。
小学生の頃の記憶だ。
椅子取りゲームで、負けた僕を皆が笑っている。
この記憶が原因かは分からない。
僕は人一倍脆いことを知ってゆく。
一度壊れたら、戻らない気がした。
僕は、僕を笑った連中と仲良くした。
翠が転校してくるまでは…。
『初めまして。合川 翠といいます。よろしくお願いします』
僕の脳内に響く声。
小学二年生の頃、翠は転校してきた。
翠は大人しくて、本ばかり読んでいた。
翠は言った。
「なんかさ、集団てつまらないよ」
「僕もつまらない」
だろ?と翠は口角を上げた。
僕は吐き出せない息を喉元で押し殺す。
翠は言った。
「集団でからかったり自慢し合ったりさ…もっと面白いことがあるはずだよ」
僕は、その日から翠すら怖くなった。
僕はポストに、二枚のハガキを投函した。
カタン、と軽い音がした。
帰宅すると、インターホンが鳴った。
「合川 都(あいかわ みやこ)さんより、宅配便です」
僕は、重たい荷物を受け取る。
「翠、お母さんから荷物だよ」
「またかぁ」
翠は笑う。
中には、土がついた野菜がゴロゴロ入っている。
野菜の隙間に無理やり入れられた衣類。
ビニール袋に入った衣類は、タグがつけられている。
下着、靴下、半袖…。
翠は呟いた。
「本当に…全く」
「もしもし…? 母さん? またこんなに送って。心配いらないって、言ってるだろ?」
電話越しに、翠の母の声がする。
「でもねぇ、あなた…。心配なのよ」
「わかるよ。それは有難いけどさ。全部使えないから。ね?」
翠の母親は、過保護で僕の母に似ている。
けれど、翠の母には温度が通っていた。
『泣いても知らないよ? 世の中、自分が思うより冷たいもんだよ』
母の口癖を思い出す。
父親は損得ばかり優先していた。
両親は僕と同じで脆い。
僕は両親にすら防波堤を立てた。
何故、脆さを人にぶつける?
誰かを傷つけるくらいなら、僕は仕舞う。
鍵を閉めて、誰にも見せないように。
「うん。こっちは上手くやってるよ。元気でね」
電話を切った翠が、驚いた顔をしていた。
「零…?」
僕は一体、どんな顔をしていたんだろう。
「翠のお母さんて、本当に心配性なんだね」
翠は笑う。
「相変わらずだよね。零のお母さんもそんな感じだよね? でも、前に遊びに行ったとき、いい人だと思った」
僕は笑った。
「そうだね」
翠は恐ろしくて、温かい。
「外を…走ると、全然…違うよ。道が…でこぼこで」
翠は両膝に手をつき、肩を上下させた。
水を勢いよく飲み干す翠に尋ねた。
「次の目標は?」
「とにかくアイツに勝たないと。アイツに体力を渡したくないから歩く。それで、できるだけ走って、せめても前回より楽しみたい」
一瞬ハテナを浮かべたが、すぐにあの鬼門の階段が浮かび、僕は頷く。
翌日の週末に翠の背中を叩く。
「ジョギングは行かなくていいの?」
あぁ、と眼を擦りながら起き上がる。
翠は朝が苦手だ。
「あれ? どうしたの、その恰好」
スポーツウェアの姿の僕に、翠は目を丸くする。
「一緒にジョギングしてみようかな、と」
「よし、行こう」と翠も着替えだした。
ハナスベリヒユが咲くガードレールを曲がる。
住宅街が連なる歩道を走る。
黄色い日差しが温度を上げてゆく。
背中に汗が伝う。
茶色の煉瓦の屋根が視界に映る。
白いバルコニー。
僕は洋楽のボリュームを上げた。
手入れされたペチュニアの花が並ぶ。
僕は自身の走る、右側に視線を動かしていた。
翠は左側の、無人になった古民家を見ていた。
雑草だらけの庭には、タチアオイが咲いている。
剥がれ落ちた土壁。
中に取り残された漆塗りの椅子。
僕は目を逸らし、前に向き直る。
急こう配の坂に差し掛かる。
翠はまだ後方の古小屋を見ようとする。
一歩進む度に重力が沈む。
坂の頂上にもくると、ほとんど歩いていた。
翠はマイペースに走り続けている。
「まって…みどり…」
翠は頂上から数歩先で立ち止まった。
その場で腿上げを繰り返す。
口の中に血の味が込み上げる。
気持ちが悪い。
頂上で水を飲み、息を整える。
翠に追いつく。
僕らはジョギングを再開した。
すぐに呼吸は乱れ、口の中が乾く。
喉の奥で唾が固まる。
坂を超えると公園に辿り着いた。
ブランコとベンチがあるだけの小さな公園。
横には白茶けた木肌の小さな社があった。
僕らはベンチに座り水を飲む。
「ここでおにぎりとか食べたら最高じゃない?」
翠が青空を見上げながら言う。
白い綿雲がお飾りみたいに浮かんでいる。
「うん、楽しそう。今度作ってくるよ」
僕らは色褪せた鈴緒を揺らした。
ガラガラと喉が詰まったような音色を放つ。
賽銭箱はなく、石灯篭に小銭が置かれていた。
僕は呟いた。
「賽銭箱もないなんて可哀そうに」
翠は石灯篭の竿を下から覗き込んだ。
そこに書いてあるなにかを読み上げる。
「万治(まんじ)三年」
「まんじ…?」
「賽銭箱すら概念がない時代なんじゃないかな」
「詳しいね?」
「いや、テレビで聞いたことあったんだよな。江戸時代の真ん中から賽銭箱が広まったとか」
翠は社に背を向け、歩き出す。
翠が微笑む。
「まぁ、それくらい古くから在るってことだよね」
「翠っていろんなことに興味があるよね」
翠は自嘲気味に笑う。
「全部が中途半端なんだよね」
実際、翠は僕よりテストの点数も低く、勉強嫌いだった。
再びジョギングを再開する。
またあの坂が目前に現れた。
僕は思わず固唾を呑んだ。
坂を下りると、スモーキーな香りが広がる。
バーベキューを焼く家族の賑やかな声。
翠も同じバルコニーを見ていた。
翠の細めた目のカーブは、なだらかな曲線を描いていた。
僕は洋楽のボリュームを上げた。
「今って夏だよね?」
隣で走る翠に声をかける。
「秋だよ」
市民センターの前に着いた。
かき氷のキャンピングカーが駐車していた。
長蛇の列をつくっている。
饅頭の露店は店仕舞いを始めた。
日差しを見上げては、溜息を漏らす。
トレイルランニング大会の前日を迎えた。
僕らは遠回りのジョギングコースへ出た。
「今日はお祭りらしいね」
トウモロコシの香ばしい匂い。
甘いメープルの匂い。
「お腹空いたね」
僕は腕時計を見て、言った。
「まだお昼前だよ」
時刻は十時を指していた。
吹き抜けた風が汗を浚う。
まだ茎が青緑のススキを揺らす。
どこかの家の風鈴が鳴った。
チリン、チリン
小さなビーズがガラスを叩く軽やかな音。
あの坂が見えてきた。
躊躇うことなく、進む。
アパートに戻る。
翠はソファーに腰を落ち着けた。
「体力を温存させておこうかな、と」
翠は読書に没頭した。
海外作家の実話で、生存危機の話だ。
翠はスウェットの袖を捲り上げる。
太い腕で本を持つ姿に思わず笑った。
「どこも空いていない」
僕らは、駐車場をぐるぐる回る。
「あ! あそこ!」
会場前に視線を送る。
既に多くのスポーツウェア姿の人々が集まる。
「前回よりも多そうだね?」
翠は力の抜けた声で返事した。
「うん…」
入場受付から、間もなく翠が戻ってきた。
『二十四番』と書かれたゼッケンを掲げる。
「エントリー開始の一週間後でこの番号だよ。今回は百人はいるらしいよ」
「ひゃく…?」
受付に並ぶ人々を見る。
翠と同じくらいの若い年齢層も目立つ。
翠の顔を窺う。
いつもの、血色感のある肌で健康的に見える。
「キーホルダーゲット!」
翠はお決まりのデザイン(山のシルエットにTRAIL RUNNERS 2025)のキーホルダーを揺らした。
「早速、鞄につけようかな」
ボールチェーンを外す。
「落とすかもしれないよ。預かっておくよ」
「そうだな。お願い」
アクリル素材の小さなキーホルダーを受け取る。
鍵を入れているポーチに一緒に仕舞う。
「間もなく、入場開始でございます」
ぞろぞろと人の群れが動き出した。
僕らも後に続く。
ゲートの前に立つ係員にチケットを渡しす。
真っ先に視界に映った、空気で膨らんだアーチ。
翠は『TRAIL RUNNERS 2025』と書かれたゲートへ駆けてゆく。
「写真撮ってよ」
僕は少しずつ後退する。
アーチの文字と翠が真ん中に入る画角を探る。
ちょうどいい位置でシャッターを切った。
「まさか、使う日が来るとはね」
クローゼットに眠っていた一眼レフカメラ。
僕は呟いた。
「売ったらいい値がしそうだけど」
今度は三脚を立てて、タイマーをセットする。
僕もアーチの前に駆けてゆく。
「どう? いい感じ?」
画面を覗く。
翠はピンと伸びたピースをしていた。
翠は頷く。
「うん。いい感じ」
「お友達ですか?」
落ち着いた声が聞こえ、振り返る。
緑色のパーカーを着たスタッフの男性だ。
「あ、はい。幼馴染です」
「次回は来年の三月ですから、お二人でのご参加、お待ちしてますよ」
僕は、視線を泳がせながら笑った。
僕を見て、翠は笑った。
「間もなく、カウントダウンを開始いたします。選手はスタートラインに並んでください」
足音が地鳴りのように響く。
僕はアーチの外側から翠を探した。
後方の列で水を飲んでいた。
動画を回す。
翠は笑顔だった。
カウントダウンに合わせて口を動かしている。
「よーい、スタート!」
先頭の子供たちとの間に、一気に距離が開く。
子供たちが階段を上り始める。
翠は子供たちの五十メートルほど後ろにいた。
子供たちが頂上でピースを掲げる。
翠はようやく階段を上り始める。
翠は一歩、一歩と着実に歩いていた。
二十代ほどの人たちも、翠を追い越してゆく。
彼らは食らいつくような勢いで上る。
歩く人の姿は少ない。
翠を追い越す夫婦が、なにか話しかけていた。
頂上に上った翠は、カメラマンに向けてピースした。
指がピン、と張ったいつものピースだ。
僕の鼓動が緩やかなテンポを刻みだした。
僕はゆっくりとゴール地点に戻り始める。
山から下った風が、追い風のように首筋を撫でた。
僕は振り返り、山の方を見つめた。
あんなに高い山の空気はどんな味がするんだろう?
屋台でホットサンドを買った。
ベンチに座って食べていると、熱い熱気に顔を上げる。
子供たちが三人ほど、互角の距離で向かってくる。
三人は追い越し合う。
少しでも身体を前に出す。
先頭の子が、後方から越された。
ゴールテープが切られる寸前だった。
激しく肩を上下させ、マイクに嗚咽を響かせる。
ほんの三秒の差。
駆け付けた母も泣いていた。
スタートから二十分もしないゴールだった。
僕は三百メートルほど先まで、ゴミを捨てにゆく。
スタートラインから階段くらいの距離だ。
辺りには、ススキみたいな穂を赤紫色に染めた、小さな花弁の花が咲いていた。
看板には『屑(くず)。豆科。花言葉は芯の強さ、努力、活力など』と書かれている。
土埃を含んだ風が鼻孔をくすぐる。
人々は次々にアーチを潜り抜ける。
一時間が経過していた。
スタート時に見かけ人が次々にゴールしている。
僕はアーチの横に立つ。
三脚をセットしては、レンズを覗く。
さらに十分が経つ。
レンズは泥だらけの翠を捉えた。
翠がこちらを見つけ、笑いかける。
翠は笑顔で余力がありそうだ。
ゴールアーチを潜り抜ける。
「楽しかったです」
「また、来年も参加したいですか?」
「はい」
主催者が声を一層響かせた。
「お、いいですね~」
「来年の目標はありますか?」
「参加する度に、景色が違って見えて…。来年は、また違った景色を…一回りも、二回りも違う景色を見たいです。目標じゃないですけど」
「いいじゃないですか~」
『二十四番』のゼッケンをスタッフに脱がされる。
手足、レギンスまで泥まみれ。
その番号だけは綺麗だった。
僕は翠の元に駆け寄った。
「楽しかった」
翠はそれ以上語らなかった。
後に送られたメールに結果が届いた。
スタートから一時間十分にして、八十位。
翠は笑い、メールをすぐに閉じた。
スタッフの穏やかな声が脳内に響く。
『お二人でのご参加、お待ちしてますよ』
親指をそっと握りしめた。
大会から二週間が経った。
この間の写真のデータが送られてきた。
『二十四番』を探してデータを読み込む。
泥だらけのまま、歯を出して笑っている。
前回の写真を思い返す。
青白い顔で泥ひとつない翠。
他にも、もう一枚、写真が撮られていた。
山の急斜面でロープを握る翠の姿。
真剣な表情をしていた。
土の表面は人々の足跡で抉られていた。
「こっちの写真かぁ」
「え?」
「いや、この写真には写ってないけどさ、前方の人たちが滑って、それに余所見した人も滑って大笑いしたんだよ」
「それ、笑えるの?」
僕は写真に映る谷底を見た。
「尻もちを突く度に笑いが起きてたよ。泥んこだぁって言って、笑顔でまた立ち上がるんだよ。俺も気づくと大笑いしててさ」
「そのときの翠、見てみたかった」
窓外に見える葉が落ちた。
カサカサ
葉に空いた穴を風が吹き抜けるような…。
厚い雲が垂れていていた。
『翠がいなければ、僕は穴の空いた落ち葉だ』
ギュッと体が縮こまる。
僕は蛍光灯を見つめた。
メールには、次回大会のエントリー案内も添えられていた。
翠はすぐにエントリーボタンをタップした。
「僕も、参加しようと思う」
顔を上げた翠は目を見開いた。
すぐに笑顔に変えた。
翠は僕に、参加理由を聞かなかった。
「今日は零のスポーツウェアを買いに行って、帰りにジムだな」
翠は形から入る人だった。
中古ショップ行きになった物がどれほどあったか。
一度気に入ったものは壊れるまで使うのに…。
やっぱりどこか、チグハグな人だ。
新しいナイロン特有の香りがする。
新しいスポーツウェアの裾を引っ張る。
傾斜ボタンを上げる。
『あの女性』が顔を出した。
記憶を呼び寄せる。
久々に見る顔に自身を疑う。
再確認しようと視線を送る。
彼女は僕の真横のマシンに上がった。
こちらに顔を向けた。
急いでイヤホンを外す。
彼女と目が合った。
ダークブラウンの落ち着いた髪色で微笑む。
後ろに束ねられた長い髪。
少しふくよかな女性だった。
前に見たより、少し痩せたような気がする。
華やかとは一概に言えない。
一歩後ろに引いた感じが、聞き上手そうな人だ。
彼女の口が開いた。
「合川さんの…幼馴染さん、ですよね?」
この間、二人が会ったとき、翠はそこまで話したんだ。
自身の表情を気にしながら、力なく頷く。
「私、宮本(みやもと)っていいます」
ごめんなさい、と彼女は言った。
「ジムって慣れなくて不安だったから、合川さんが話し掛けてくれて、すごく嬉しかったんです。でも、ジムに行きづらくさせたらどうしよう、って…」
窓の外を見る。
噂の本人は水筒を取りに行ったきりだ。
僕は言った。
「心配すること、ないですよ」
「翠も同じように、心配してましたから。話し掛けて大丈夫だったかな?って」
彼女は手をポン、と叩いて笑った。
「あっ、それは、この間会ったときにも言ってくれましたよ。それでお互いが心配してたんだって思って、なんか…心が軽くなりました」
軽くなったのに、また確認作業をするのか。
女性の心理なのだろうか。
女性というものは、つくづく掴めない。
「あ、宮本さん」
車から戻った翠が僕らに近づく。
宮本さんの顔が明るくなる。
一瞬、視線を落とすのが見えた。
「久しぶりですね?」
「はい。最近、仕事が忙しかったもので…」
「そうなんですね。それじゃあ、なかなかジムにも来れないですよね」
「それでね、この間教えてくれた御朱印、ゲットしたんですよ」
「本当ですか? あれはカッコイイ御朱印ですよね」
「そうなんですよ~」と女性は手を叩いた。
翠は興味が広いから、フックをかけやすい。
宮本さんが翠に言った『意外』はいい意味に違いない。
二人は話に華を咲かせてゆく。
そのままジムを出て駐車場へ向かった。
僕は音楽を流す。
体が後ろのベルトへと後退し始める。
必死に手を振り体を前へ出す。
また下がるの繰り返しだった。
アパートに帰宅する。
翠の表情に影があった。
僕は彼の言葉を待った。
目前に麦茶を置く。
翠は勢いよく飲むと、饒舌に話し出した。
「トレイルランニングの話をしたら、見に行ってみたいって」
「そうなんだ。良かったじゃん」
翠を見たいんだろうな、と僕は心の中に声を置いた。
「でもそれを最後に、しばらく会えないかもしれないって」
翠は息継ぎなしに言葉を放つ。
「彼女、仕事を変えるから引っ越すらしいよ。俺も仕事を変えたばかりなんだって言った」
「そうなんだ。お似合いなのに」
そう思う?と翠が顔を上げた。
僕は静かに頷く。
「隣の市に引っ越すらしいから、会えなくはないけど…」
「まぁ、ジムには来なくなるよね」
僕は椅子に腰かけながら言った。
「連絡先は交換できた?」
うん、と翠は頷く。
「でも、引っ越しでしばらく忙しそうだから…」
「確かにね」
「宮本さんが俺に意外とって言った理由がなんとなく分かった気がする」
「そうなんだ?」
「うん。同じ匂いがする」
翠は舞う埃を見つめていた。
口角は優しい曲線を描いていた。
キッチンを挟んで隔てられた、それぞれの寝室へ向かう。
目を閉じると、脳内に女性の声が響いた。
『おやすみなさい』
宮本さんの声だ。
おやすみ、と翠が返した。
翠の元彼女を思い浮かべる。
「ライブTシャツで、公園を一眼レフカメラで撮る人なんて、俺らくらいだよ」
翠は楽しそうに話していた。
僕にとって、宮本さんはあのときとは違う。
あのときの翠は、若気の至りみたいに見えたから。
翠が誰といたっていい。
翠はそれでも、家に帰ってきてくれた。
目を開け、カーテンから漏れる光を見つめる。
翠がサイズを間違えたカーテン。
ドレープの下に僅かな隙間をつくっている。
月明かりが優しく降り注ぐ。
天井に映された線のような影。
魚みたいに泳いでいる。
キッチンの向こうに、翠は確かにいるはずだ。
こんなにこのアパートは広かっただろうか。
「免許更新、混んでたよ」
帰宅すると正午に差し掛かっていた。
「今日は夕方からジョギングだな」
僕らは夕焼けを背にして走り出した。
坂を下りて公園のベンチに座る。
僕はおにぎりを翠に渡した。
社の屋根をオレンジ色が染めてゆく。
影が少しずつ伸びる。
背後から甘い香りが漂い、振り返る。
橙黄色のつぶつぶした花の群れ。
僕はその見慣れた花に思考を巡らせる。
「あれは…宮本さんのトートバッグ」
鮮やかな黄色の花の刺繍が印象的だった。
随分、年季の入った黄ばんだトートバッグ。
「違うよ。あれはミモザだよ」
「そうなんだ? 詳しいね?」
「学生の頃の話だよ。近所の庭に咲いててさ」
翠はおにぎりを包んだアルミホイルに苦戦していた。
「出くわした家主に写真が撮りたいと話したら、色々教えてくれてさ…花の説明だけで三十分は聞かされたよ。ほとんど覚えていないけど」
翠が話していそうな人を想像するとき。
いつも年配の女性が頭に浮かぶ。
再び坂を上ってゆく。
下った先で僕らは足を止めた。
あの無人の古民家の前に人がいた。
男性は痩せ細り、杖を持っている。
その古民家の剥げた土壁を見ていた。
タチアオイを愛おしそうに眺める。
僕らに気づくと、男性は微笑んで挨拶した。
「こんばんは」
「この家はね、私のかつての知り合いの家なんだよ」
「そうなんですか?」
翠は些か、体を前に出して耳を傾ける。
「えっとねぇ、カタカタ足で踏むやつだよ」
「ミシン、ですか?」
「そう、それだ」
男性は笑う。
「その仕事をしてた家だったかな」
「仕立て屋さんだったんですね」
翠は漆塗りの椅子を見つめた。
古小屋の中に不自然に鎮座している。
沈みゆく夕日が、僅かな光を椅子に乗せる。
男性は翠の視線の先を見る。
それからこめかみに指を添える。
「ごめんねぇ…。記憶力もやたら悪くなってねぇ」
翠は口を結び、小さくお辞儀した。
なにか悪いことでもしたような顔だ。
「あぁ、そうだ…。いつの間にか、引っ越して連絡先が取れなくなったんだよ」
「そうだったんですね。ありがとうございます。この家がずっと、気になってたんです」
杖の男性に別れを告げ、再び歩き出す。
翠が呟いた。
「夕暮れの人々って…どうも話したくなるんだよな」
「どういうこと?」
「夕暮れを見れば分かるよ」
カラスの鳴き声が響く。
電線が地面に影を落としている。
オレンジ色に紫のグラデーションが溶けてゆく。
僕は風に揺れる秋桜を見る。
シルエットみたいに輪郭を浮かべている。
僕は言った。
「夕飯の時間だよ」
「そうだな。早く帰ろう」
厚手のコートを羽織り、駐車場へ降りる。
木枯らしに身を震わせる。
真っ暗な背景。
ジムの灯りだけが蛍のように光っている。
ラックは羽織で隙間なく埋まっていた。
僕は画面をタップし、翠宛に送信した。
『ジムに寄って行くから、先に夕飯食べてて』
棚に荷物を押し込む。
隣には、ミモザの刺繍のトートバッグが入っていた。
白いシャツと紺色のビジネススーツが折り畳まれていた。
六つ離れた棚のスペースに、自身の荷物を押し込んだ。
宮本さんはトレッドミルでウォーキングしていた。
僕は真後ろにあるレッグプレスに座った。
しばらく膝を曲げ伸ばす。
薄紫のジャージが視界に入る。
「冬木さん、こんばんは」
「宮本さん」
「今日でジムを退会するから」
合川さんは?と探るように辺りを見渡す。
「翠は帰宅しています」
「そっか」
宮本さんの声はやけに明るい。
座っている僕の横に屈む。
宮本さんは声を潜めた。
「少し、外で話してもいいですか?」
宮本さんは、手に白い息を吐いた。
キルティングのジャケットに身を包んでいた。
「ごめんなさい。早く済ませるので」
「気にしないでください」
僕は自身の体を見て呆れる。
寒さに強いので、と言うには嘘が見え透いてしまう。
「まだ、もちろん見せてない部分もたくさんあるんですけど」
宮本さんは、右手をそっと左胸に添えた。
「合川さんといると、自分を出していける気がするんです」
宮本さんは、目前に浮かぶ街灯を見つめた。
コツン、コツン、
虫が光を求めて体当たりしている。
「私、本当は凄く変わってるのに、凄く普通に見られて…」
普通…と心の中で言葉を吐き、僕は彼女から目を逸らした。
「ジムを始めた理由だって、意外なところを見つけて欲しかったからなの」
宮本さんは再び、白い息を吐いた。
「合川さんの意外な部分を見つける度、自分を救いたかっただけなのかな」
宮本さんは、クスクスと笑い出した。
「合川さん、真っすぐな人だから定住者だと思ったら、遊牧民みたいだなって。そういう発見をする度、温かい気持ちになるんです」
「遊牧民…」
僕は呟き、あぁ、とすぐに頷いた。
その言葉を引き出した宮本さんに思わず強い視線を送る。
宮本さんが見つめ返す前に視線を逸らす。
「今日話したことは、合川さんには内緒でお願いします。恥ずかしいので」
ふーっ、と息を吐きだす。
宮本さんは意味もなく、足を組んだ。
「わかり…ました」
「トレイルランニング、冬木さんも参加するんですよね。いい思い出になるといいですね。私も楽しみにしています」
「それじゃあ」
宮本さんは小さく手を振り、車に乗り込んだ。
翠は窓外を見て溜息をついた。
「やれやれだね」
正午なのに外は夕方のように薄暗い。
白い塊はバス停の時刻表まで埋めていた。
ドンッ…ドンッ
屋根から白い塊が落ちる音。
僕らの間に皿をつつく音だけが響く。
翠は何気なくチャンネルを回す。
海の生き物の特集番組だった。
チョウチンアンコウが映っている。
頭から突き出たアンテナの先を光らせている。
ワイプの中の芸人たちが食い気味で見つめる。
その直後、芸人たちの口が大きく開かれる。
チョウチンアンコウがイカをパクリと呑み込んだ。
翠も興味深そうに映像を見つめていた。
さらに芸人たちが絶叫する。
小さなチョウチンアンコウが、一回りも大きいチョウチンアンコウに嚙みついた。
真面目な声のナレーションが入る。
「実は今噛みついたのはオスなんです! オスは獲物を捕る能力がない為、メスと一体化することで生き延びるんです」
僕は翠の表情を見れなかった。
手元に視線を逸らす。
箸で掴んだジャガイモが揺れる。
皿の上に落ちる。
翠が振り返った。
「大丈夫…?」
顔を窺う。
「これは、まさに生存本能の一種です。私たちの知らない深海の底には、まだまだこんな、生存本能のドラマがあるんです!」
抑揚をつけてゆくナレーションの声。
強い耳鳴りに襲われる。
こめかみが激しく脈を打つ。
吐き気がする。
「ごめん…」
僕はリビングまで体を引きずる。
ソファーで横になった。
翠はテレビを消した。
リビングの灯りが消える。
翠が僕にブランケットを掛けてくれた。
箸で皿をつつく音が聞こえる。
今度は水を流す音がする。
ドンッとまた白い塊が落ちる音がした。
『生存本能』と僕は頭の中で繰り返した。
僕と翠って、一体…。
翌日になっても翠はなにも言わなかった。
一人で読書をしている。
翠は僕の顔を窺う。
「食欲はある?」
僕は頷く。
テーブルには雑炊と湯豆腐が並んでいた。
鍋の中の湯豆腐は崩れかけている。
一口では大きすぎる輪切りのネギが添えられていた。
僕の瞳になにかが込み上げる。
それが流れることはなかった。
大会は一週間前に迫っていた。
暖房を押し入れに仕舞う。
翠は母親と通話していた。
「父さんが腰を痛めたんだって。暖房仕舞うの手伝ってほしいって」
翠は苦笑した。
「母さんは力がないからなぁ。米も運べないし」
「僕も手伝いに行くよ」
「そう? 母さん喜ぶよ」
翠は僕たちしかいない部屋で声を潜める。
「母さんには、トレイルランニングのこと秘密にしてるんだ」
僕はあぁ、とすぐに頷いた。
きっと、大きな声で応援しにきて、翠は恥ずかしいんだろう。
それに、余計に心配されるかもしれない。
翠は笑った。
「いつか、思い出話みたいに話せばいいよ」
翠の家は三階建てで車庫まである。
庭には父が手入れしている畑があった。
玄関を開けると、すぐに翠の母が飛んできた。
こじんまりとした垂れ目の女性だ。
「片づけるものがいっぱいよ」
「おじゃまします」
翠の母は僕を見て、パァッと花を咲かせたように笑う。
「あら、零ちゃん。元気?」
奥の部屋へ上がり、翠が父に声を掛ける。
「父さん。大丈夫?」
ベッドの上で寝たきりの姿。
「すまないな。心配かけて」
翠と僕で二階からヒーターを運び、車庫へ下した。
「あ、これくらい一人でいける」
翠は車庫にあったお米の袋を持ち上げる。
「翠は先に行って。母さんとこ、手伝いにいって」
僕は車庫の狭い階段を上る。
ギシギシと床が抜けそうな音が響く。
翠の母は、棚の前に立ち、椅子へ上がっていた。
「あ、僕が取りますよ」
「あら、悪いわね。箱があると思うんだけど」
棚の上へと手を伸ばす。
奥まで手が届いた。
「零ちゃん、身長伸びた? 翠より、身長高いんじゃない?」
「ほんの二センチだけですけどね」
この間の健康診断で、僕は百六十九センチになった。
ドンッ ダダダダ…
玄関にお米が置かれ、再び階段を下りてゆく音がする。
「他に、手伝うことはありますか?」
「悪いわね。畑の野菜を運んでくれないかしら」
僕は翠の母に案内され、畑へ向かう。
しゃがみ込み、小ぶりの鎌を振る。
刃先がザクッとキャベツの根本へ沈む。
「あの子ねぇ。本当、零ちゃのことが好きなのよ」
また始まった、と僕は、はにかむ。
翠の母も、鎌を振りかざす。
バリバリバリッと茎を断ち切る音。
「もっと自信を持っていいのにって言ってたわよ」
「不思議な子だけど、絶対に人のことを悪く言わない子だってね」
みっつもキャベツの入ったレジカゴを持ち上げる。
ずっしりとした重みは、いつもの比ではない。
小学生の頃――
「ねぇ翠。また友達に俺の話ばかりして」
俺は些か声を震わせた。
「あんまり、僕の話をしないでよ。恥ずかしいから」
「なんで? 悪いようには言ってないよ?」
「だって…。僕は、そんなんじゃないのに」
「思ったことを言っただけだけど?」
僕は言えなかった。
『それは、翠のフィルターでみた僕なんだ』
翠が人に話すほど、僕は僕から離れてゆく。
翠が前の会社の人に抱いた気持ちに似ているのだろうか。
『優しい人たちだったけれど苦しい』
それでも、僕にはその優しくて苦しい温度が必要なんだ。
「翠、これも持っていく?」
母はさっき採ったキャベツを袋に入れて渡す。
「いつも貰ってるからいらないよ」
母の困ったような顔に、翠は呆れ笑う。
「分かったよ。貰うよ」
些か乱暴に袋を奪う。
「零ちゃん、また遊びに来てね」
「ありがとうございました」
なんて可愛いんだ。
翠も、このお母さんも。
この人たちといると、僕の胸はいつも痛む。
除雪車が氷山みたいな山を崩していた。
泥土でコーティングされて見栄えのない姿。
追い打ちをかけるように太陽が照らした。
アスファルトの裂け目に咲く花を見る。
背丈の低いオオイヌフグリ。
日差しは優劣なく降り注ぐ。
僕は目を細めた。
六か月ぶりだろうか。
僕はチケットを握り締める。
動き出す人の波に続く。
翠の背中を追う。
改札口を通る瞬間がスローモーションに感じる。
僕らは、ほとんど埋まったロッカーの空きを見つける。
慎重に荷物を仕舞う。
『TRAIL RUNNERS 2026』と書かれたマフラータオルがロッカーの中から僕らを見送った。
ストレッチをしていると、声が掛かる。
「合川君、冬木さん、こんにちは」
空気を含んだような荒い網目のカーディガンとティアードスカート姿の宮本さん。
「凄いね! こんなに人がいるんだね」
「うん。今回は百四十人だったかな? 毎回、人数が増えてるよ」
あまりにも自然なタメ口に、翠も自然と釣られて話す。
僕は一言だけ話す。
「こんにちは」
二人の敷居に入れず、周りをぼーっと見渡す。
欠伸をしたり、ピョンピョン跳ねる子供。
軽く一周する大人たちの姿。
心臓の脈は音を大袈裟に鳴らしてゆく。
宮本さんの声に視線を戻す。
「あのね…」
一瞬、僕の方へ視線を送った。
ん?と翠が顔だけで聞き返す。
宮本さんは静かに首を振った。
「何でもないの。ただ…楽しんでねって」
翠はハハハ、と笑う。
「ありがとう」
僕らはアーチの元へ歩いてゆく。
宮本さんは少し離れた場所で立ち止まった。
アーチの外で応援する人々を探る。
宮本さんの姿はない。
カウントダウンが始まる。
僕の耳元に子供たちのキンキンするような声が届く。
左胸に手を添える。
翠が背中をトントン、と叩いた。
顔を見上げ翠を見る。
翠はただ、階段だけを見つめていた。
「にー! いちーっ! よーい、スタート!」
澄み切った空気を掻き分ける。
一斉に土を蹴ってゆく人々。
僕らは中列でペースを崩さず走る。
階段が目前になる。
翠は僕の後ろに回った。
深呼吸をして僕は頷いた。
合図のように翠は後ろからついてくる。
喉は渇くのに、頬を冷えた汗が伝う。
気持ち悪さに視界が歪む。
拳を握る。
なんとか意識を現実に戻す。
段差の間隔は意外と広かった。
足を上げるだけで疲労が蓄積してゆく。
左側を歩く僕らの横を通り過ぎる人々。
身体を前へ、前へと乗り出す姿に、鳥肌が立つ。
中段に差し掛かる。
脹脛が張っている。
膝がキリキリと悲鳴を上げだす。
膝下、足首にはテーピングが貼られている。
翠に言われて貼ったテープが少しずつ剥がれてゆく。
翠はギリギリまで左に寄った。
足を止め、振り返った。
二段下を歩く僕がその差を埋める。
翠は眉を潜めた。
「顔は常に前を向け。下を見てると、呼吸が苦しくなる」
翠は軽快な足取りで上り始める。
僕は三、四段先の階段を真っすぐ見据える。
気道が広がった。
体内へ酸素のポンプが送り出される。
足を踏み外さないか、視線が下を向きそうになる。
その度に翠の背中を見た。
青いスポーツウェアが汗で背中に貼り付いていた。
いちに、いちに、と脳内でリズムを刻む。
どんなBGMをかけようか想像する。
イントロからエレキギターをかけたくなるような曲が一気に浮かぶ。
僕は今がどのくらい進んだかも考えなかった。
ただ足を上げてゆく。
頂上に着くと、僕は膝に手をついて立ち止まった。
前髪の先から汗が滴る。
目先の地表を濡らした。
翠が顔を覗き込む。
「大丈夫? 深呼吸して。水を飲んで」
落ち着いてから再び走り出す。
カメラを見つめる気力もなかった。
翠はピンと張ったピースを掲げた。
木々には等間隔にピンク色のテープが結ばれていた。
僕らはそれを頼りに進んだ。
斜面には、カタクリの蕾が角のように突き出していた。
土は雪解け水で水分を含んでいる。
ぐにゃりと靴が滑る。
僕はなんとか後ろ足に重心を置いた。
態勢を立て直す。
太い根が低いハードルのように並ぶ。
僕らは必死に足場を探した。
下りの急斜面に差し掛かる。
僕らは八の字に歩く。
きゃはは、と甲高い声が聞こえる。
僕らは親子に追突しそうになってのけ反る。
母親が尻もちをつく。
泥だらけのお尻を叩いた。
小学生くらいの女の子が大声で笑う。
「ママぁ転んだ!」
母親が僕らの方を向いた。
「すみません」
僕らも頭を下げながら、親子を追い越す。
「すみません」
翠は歯を出して笑う。
僕も思わず顔がほころんだ。
カメラのレンズが僕らを捉えた。
緑や紫色を含んだ光が太陽に反射する。
親子の声が背後から聞こえる。
いちに、いちに
「ママ! ママってば!」
女の子の地団駄を踏む音がした。
母親の乱れた呼吸と笑い声に包まれる。
急斜面を下る。
アスファルトの平地が見えた。
三百メートル程先に、また森の入り口が覗く。
アスファルトで一気に加速してゆく。
僕らは両手を振った。
「がんばれ! もう半分ですよ!」
緑色のパーカーにキャップを被ったスタッフたち。
手を叩き続ける。
僕らは首だけで頷く。
森の入り口手前で少しずつ失速させる。
再び木の根を跨いでゆく。
腕時計を見る。
開始から一時間が過ぎていた。
翠は瞬時に足場を探りだす。
態勢を崩すことなく進む。
「ねぇ、翠」
翠は振り返らなかった。
僕と距離が空く度に速度を緩める。
僕の激しい呼吸音で感覚が分かるのだろうか。
「いつか、何位圏内とか…具体的に目指そうと思わないの?」
息を切らす音だけが木々の間に響く。
しばらくしてから、翠は答えた。
「思わない。あと何回かは参加するつもりでいる。でも、どこでやめるかの目途もない」
森を抜ける。
アスファルトの地を走る翠の背中を見つめる。
追い越してゆく人々に見向きもしない。
僕の胸はさらに締め付けられる。
翠の軽快な足取りは余力を十分に感じさせる。
遠くの方へ視線を移す。
下り坂の先にゴールに立つ人々。
レゴブロックみたいに小さく見えた。
レゴブロックみたいな姿が霧がかったように霞む。
僕は足を止めた。
翠が振り向く。
首筋を小高い山から吹いた風が撫でてゆく。
『先に行っていいよ』
声にならず、僕は俯く。
囁くように翠は言った。
「目標とかじゃない。景色を見るのが好きなんだ」
「ごめん…。僕…」
鼻の下が湿ったような気がした。
頬を伝ったのは汗なのだろうか。
「分かち…合えない…」
たった七文字に、僕は翠の顔も見れなくなる。
数秒の空白が流れる。
僕は重力の重い足を軽く浮かせた。
爪先の向きを僅かに変える。
ジャッ
『でも、隣で見ていたいんだ』
心の声は厚い壁を今にもこじ開けようとしていた。
恐る恐る顔を上げる。
翠はただ静かに微笑んでいた。
「違う方向を見ていても、過ごした時間が教えてくれる」
翠は頬を掻く。
手いたずらをする。
「いつも俺を肯定してくれて…ありがとう」
翠は前を向き、再び坂を下り始めた。
アスファルトの坂で、僕らは加速してゆく。
喉の奥に血のような唾液が込み上げる。
僕はふっ、と笑った。
僕は空気を吸い込む。
水道水の鉄っぽい滞りがなくなったような。
とにかくなだらかな空気だ。
平地を足が踏み締める。
スタッフが手拍子する。
「がんばれ! がんばれ!」
僕らは横一列に並ぶ。
足並み揃えてアーチを潜る。
「おふたり仲良くゴールです! 完走おめでとう! お疲れ様!」
僕らの前に、ゴールテープは現れなかった。
翠が空気をそっと掴むように、自身の手を握った。
僕らは、空白のゴールテープを掴んだ。
僕らはその場で息を切らす。
宮本さんが駆け寄る。
「お疲れ様!」
「良かったら、写真撮ろうか?」
翠は自身のスマートフォンを宮本さんに手渡す。
宮本さんは手で合図した。
「もう少し寄って。うん。いい感じ」
宮本さんはスマートフォンを横向きにする。
今度は縦に戻してシャッターを切った。
翠はスマートフォンを受け取る。
「ありがとう」
「トレイルランニングって凄いね。楽しそうだね。いや…凄く大変そうだけどでも…ふたりとも、キラキラしてた」
照れくさそうに翠が笑う。
宮本さんは何か、耳打ちした。
翠は一瞬目を見開き、すぐに微笑んだ。
「トレイルランニングを見たいなんて我儘言ったけど、でも…本当に、見に来て良かった。私は変わらないけど、変わるの。言葉がおかしいかな? 二人のお陰だよ」
「いや、分かるよ。なんとなく」
僕も頷いた。
宮本さんはミモザのトートバッグの中へ手を伸ばす。
「これ…」
お守りをふたつ、僕らに手渡した。
「手作り?」
緑色と青色のフェルト生地。
山の刺繍が縫われていた。
「親戚の叔父さんがね、仕立て屋をやっててよく教えてくれたの。もう、いないんだけどね」
僕の脳裏に、漆塗りの椅子が一瞬、頭を過った。
「ありがとう。大切にするよ」
時計台から、五時を知らせるメロディーが流れる。
昼間みたいに明るい光が僕らを包んでいる。
「元気でね。引っ越し先でも頑張って」
翠はすぐに背を向ける。
退場の改札口へと歩き出した。
僕は翠に続く前に宮本さんに頭を下げた。
宮本さんが手を振る。
「またね」
その瞳は翠ではなく、僕を見つめていた。
真っすぐ広い、海のような眼差しだった。
僕はもう一度深く一礼した。
顔を上げる。
宮本さんは口に手を添えた。
クスクスと笑っている。
僕は駆け足で翠の背中を追いかけた。
「宮本さんにとって、翠は人生の通過点だったのかもね」
僕は、宮本さんと内緒にした会話を思い出す。
「…そうかもなぁ」
改札を抜け、木々の前に立つ。
翠は青空に少しだけ染み出たオレンジを見つめた。
それから僕の方を向く。
「零だって、宮本さんにとって、必要な通過点だったと思うよ」
僕は宮本さんが翠に耳打ちしたことを思い返す。
それぞれの内緒話か。
思わず笑みが零れる。
僕はもう一度、あの眼差しを思い浮かべる。
広い海のような眼差しを。
どんな内緒話をしたのか、僕には何となく分かる。
僕は木々の影を見ては視線を逸らした。
僕が子供たちの賑やかな声に、耳を預けようとするとき――
翠が見ていたのは、車椅子の女性だった。
会場の向こうにある、支柱が赤茶に錆びたバス停。
バスが停車する。
運転手が乗車口にスロープ坂を設置した。
翠の目尻も、スロープ坂みたいにカーブを描いてゆく。
「それでもいい」
僕は、そっと呟いた。
執筆の狙い
純文学への応募を考えています。
主人公零と翠の対比。
「分かり合えない」ままでも、同じゴールを目指そうとするグラデーションのような生き方。
生存本能的な葛藤を書きました。
もしよければ、
1.テーマ、メッセージ性は伝わるか?
2.零がなぜそんなに苦しんでいるのか分かりやすいか?
3.最後まで読みたいと思える作品かどうか、読後感はどう感じるか。
についてご意見頂ければ幸いです。
率直な客観的意見を求めておりますので、お好きなようにご意見頂いてかまいません。
ご意見くださった方の作品もぜひ、読ませて頂きます。
よろしくお願いいたします。