清川女史
「清川さん、おはようございます。朝ですよ。カーテンを開けますね」
「……眩しい。閉めて」
朝の挨拶と共に響いた明るい声に、清川真美は不機嫌に眉をひそめた。彼女自身の掠れた声は、鼻に繋がれた酸素チューブのせいかひどく弱々しい。
「でも、少しは日の光を浴びないと。お身体を拭きますから、少し向きを変えますね」
「触らないで。……自分のことは、自分でできるから」
「そうおっしゃらずに。ほら、ゆっくり……」
「鈴木さん、だったわね。私のペースは私が決める。これまで何十人ものスタッフを動かして、自分の体調だって完璧にマネジメントしてきたのよ。昨日から担当になったばかりのあなたに、勝手にスケジュールを組まれる筋合いは……」
語尾を強めようとした途端、気管の奥にへばりついていた粘液が絡み、肺の底からせり上がるような激しい痙攣に襲われた。引きつったような咳が連続して漏れ、真美は苦痛に顔を歪めた。
「大丈夫ですよ。無理にお話しされなくていいですからね」
昨日から担当になったその鈴木という看護師は、真美の刺々しい態度にも怯む様子はなく、静かに微笑んで酸素の流量を確認した。そして、発作が治まるのを待つように、背中へそっと温かい手を添える。
その淀みないプロの動作と、赤子をあやすような無条件の優しさが、真美にはひどく惨めに感じられた。
かつて、メディアやシンポジウムの席で、鋭い舌鋒と淀みないプレゼンテーションで論敵を圧倒していた自分の姿が、まるで他人の記憶のように遠い。制度の狭間でこぼれ落ちる人々を救うため、国や行政と対等に渡り合ってきたあの頃の威厳は、点滴の管に繋がれたこの痩せこけた身体のどこにも残っていなかった。
自力では寝返りすら打てず、若い娘に排泄の世話まで委ねなければ生きていけない。それが、五十代半ばにして病に倒れた真美に突きつけられた、残酷な現実だった。
枕元のサイドテーブルに固定されたタブレット端末が、短い通知音を鳴らした。
真美は重い右腕を引きずるように伸ばし、震える指先でどうにか画面をタップした。表示されたのは、かつて自分が立ち上げ、代表を務めていたNPO法人のSNSアカウントだ。
画面の中で笑っているのは、真美の後任に収まった西田という若い女性理事だった。
『本日は支援者の皆様と、笑顔の絶えない意見交換会となりました! 未来世代のために、今私たちができることを、手を取り合って楽しく進めていきましょう』
添えられた写真の中で、西田はパステルカラーのブラウスに身を包み、スタッフたちと親しげにピースサインをしている。
真美の指先が痙攣し、タブレットがベッドの端から滑り落ちた。
楽しく、ですって?
そもそも「未来世代への社会資源の再分配」という耳触りの良い理念は、大企業から助成金を引き出し、行政を動かすために真美が緻密な計算のもとで組み上げたレトリックに過ぎない。それを、あの薄っぺらい笑顔の女は本気で信じ込み、何の疑いもなくポエミーな言葉に変換して軽薄に口にしている。
厳格な規律で回してきた組織が、あんな無害で空虚な仲良しクラブに成り下がったのか。
いや、違う。真美のプライドを最も抉ったのは、完璧主義だった自分が去った後でも、社会は何事もなかったかのように回り続けているという事実だった。彼女の代わりなどいくらでもいて、命を削って構築したシステムは、清川真美という存在をあっさりと忘れ去って機能し続けている。
社会から必要とされていないのなら、これまで全てを犠牲にしてきた意味はどこにあったのだろう。自分が死んだ後の世界がどうなろうと、今この背中を焼くような苦痛が和らぐわけではないのに。
それにもかかわらず、真美はこれまで、個人の感情や情愛よりも、社会的な合理性と自らの使命を常に優先してきた。
数年前に離婚した元夫の顔が、ふと脳裏をよぎった。
『君はいつも遠くの可哀想な人たちの話ばかりだ。僕が熱を出して寝込んでいても、会議の準備の片手間にしか見ないじゃないか』
そう言って去っていった元夫。ああ、せいせいしたわ。社会の不条理を是正するという重圧も知らず、個人のささやかな感情に逃げ込むような男なんて、こちらから願い下げだ。
被害者ぶらないでよ、と冷たく言い放って離婚届にハンコを叩きつけたとき、真美は確かな優越感に浸っていた。私には社会という大きな相手がいるのだから、ちっぽけな個人の感傷にかまけている暇なんてないのだと。
そして、その冷徹な合理性は、実の母親に対しても例外ではなかった。
父が亡くなり、足腰と認知の衰えが始まった母が「家で一緒に暮らしたい」と泣きついてきたとき、真美はためらうことなく特別養護老人ホームの手続きを進めた。
『お前は本当に冷たい子だね。世間の子どもは、もう少し親の面倒を見るものだよ……』
手配した介護タクシーの窓越しに、母は恨みがましい目で真美を睨みつけた。その湿り気を帯びた情の押し付けに対し、真美は極めて冷静に反論したのだ。
「介護離職がどれだけ深刻な社会問題か分かってる? 家族が抱え込んで共倒れになるより、プロに任せるのが一番安全で合理的だわ。それに、私には私を必要としている現場があるのよ」
そこに罪悪感はなかった。社会全体を最適化するという考えは、彼女にとって、常に正しかった…。
だが、今の自分はどうだ。
社会のために尽くしてきたはずなのに、今誰が慰めてくれるというのか。誰も面会にすら来ないじゃないか。自力で動けなくなったこの惨めな肉体を憐れんでくれる人は、この世界に誰一人もいなかったのだ。
病室の時計の針が静かに進み、昼食の配膳のカートが廊下を通り過ぎていった頃。
午後になると、容態が急変した。
背中から腰にかけて鉛を流し込まれたような鈍痛が走り、息を吸うたびに肺の裏側がギリギリと軋む。
(痛い。息が吸えない。嫌だ、このまま死んでしまうのだろうか——)
不意に、抗いがたい死の恐怖が真美の全身を鷲掴みにした。これまで向き合ってきた「社会問題としての死」ではない。今まさに自分の意識を永遠の暗闇へ引きずり込もうとしている、絶対的で理不尽な暴力としての死だ。
喉の奥から、空気がひしゃげたような浅く濁った音が漏れる。ナースコールを握りしめることもできず、真美は震える手でシーツを掻き毟った。怖い。怖い。助けて。誰か。
「清川さん、大丈夫ですよ。ゆっくり息を吐いて」
扉が開き、駆け寄ってきたのはあの看護婦の鈴木だった。彼女は慌てることなく、心電図のモニターを確認しながら真美の身体を横向きに倒した。
「苦しいですね。痛いですね。大丈夫、私がここにいますから」
鈴木の手が、強張った真美の背中を、円を描くようにゆっくりとさすり始めた。一定の、穏やかなリズム。温かい体温が、病衣越しに直接染み込んでくる。見上げれば、彼女はかつてのどの部下よりも若い、驚くほどあどけなさの残る顔をしていた。彼女にとってはただの仕事の一部なのかもしれない。それでも、懸命に背中をさするその手には確かな心がこもっていて、損得だけで人間関係を切り捨ててきた真美にとって、それは戸惑うほど意外で、深く心を打つものだった。
真美は、わずかに息を呑んだ。
その優しい言葉、迷いのない確かな手の動かし方。
それは真美がまだ幼い頃、ふと「自分もいつか死んで無になるのだ」という想像に囚われ、暗闇の中でパニックを起こして泣き叫んだ夜、母が朝まで繰り返してくれたあの優しい手つきと全く同じだった。理屈も何もない。それは「心配いらないよ」とただ命の不安をなだめるための、原始的な温もりだった。
立派な理念も実績も、暗闇の中では何の役にも立たない。ただ誰かに手を握っていてほしかった。そして自分は、その一番大切なものを「非合理だ」と切り捨ててきたのだ。
タクシーの窓越しに見た、母の小さく丸まった背中が鮮明に蘇る。
「……清川さん、少し落ち着きましたか?」
鈴木が真美の細い手首にそっと触れた。
その温もりに触れた瞬間、真美の胸の奥で何かが決定的に決壊した。ひび割れた頬を、熱いしずくが伝い落ちる。
「……私の人生、全部無意味だったんだわ……」
嗚咽と共に、掠れた声が漏れた。
「誰のことも助けてなんかいなかった。一番近くにいた家族すら、理屈をつけて見捨てたのよ。偉そうに社会を語って……空っぽの、最低な人間だわ……っ」
「そんなことありませんよ」
鈴木は真美の手を両手で柔らかく包み込んだ。
「清川さんが作ってきたNPOの活動、私、学生の頃に記事で読みました。そのおかげで助かった人、たくさんいるはずです。立派な人生ですよ」
「違うの……! あなたの方が、ずっと立派よ……。こんな惨めな私に、こんなに優しい手を……」
「違わないですよ。私はただ、清川さんに少しでも楽になってほしいって、そう思ってるだけですから」
真美は、自分を案じてくれる鈴木の小さな手を、すがりつくように強く握り返した。かつて施設に置き去りにしてきた母の、シワだらけの手を思い出しながら。
分厚く冷たい理論の鎧が完全に砕け散り、その下から現れたのは、ただ誰かの温もりを求めて泣きじゃくる、無力で愚かな一人の子どもの姿だった。
「……ごめんなさい……ありがとう……」
誰も面会に来ない病室にはしばらくの間、肩を震わせて泣きじゃくる真美の声だけが響いていた。
窓の外では、彼女にはもう関わりのない社会の夕暮れが、静かに夜の闇へと溶けていこうとしていた。
執筆の狙い
趣味での執筆です。
社会を良くすることばかり考えて生きてきた人が、いざ病室でたった一人になったとき、
「自分の人生、全部無意味だったんじゃないか」という虚無感に襲われる姿を描きました。
執筆の下書きをAIに頼り、話の構成・文章推敲・仕上げを自身で行っています。