川に帰る
縁側に陣を張り、冷酒に酔いつつ歌を詠んでいると、こんな一首が浮かびました。
水底の 虹となりにし この兄は 我を見つらし 慎みて生く
みなそこの にじとなりにし このかみは われをみつらし つつしみていく
飲んでいる酒は『夢追い人』。爽やかで、ほんのりと甘い大吟醸。酒が苦手だった私を、大の酒好きにした地酒です。
鈴虫の声に浸り、裏山を眺めていると、遠い日の景色が目に浮かびます。
兄とよく裏山の渓流で遊びました。川べりを歩いていると、兄は時折指を差し、そこに棲む命のことを教えてくれました。
「あの岩にいる青い鳥。カワセミっていうんだ」
「鳥なのにカワセミなの」
「セミが擬態したんだよ」
「ギタイ?」
「セミが鳥に変身したんだ」
「本当に!」
普段無口な兄が、生き物の話をするときだけは冗談を言い、ふざけたりもしたのです。
夏休みに山奥を探検すると、深緑を縫う水流は清らかに青く、魚たちはまるで宝石でした。虹色に輝く鱒(ます)は、今も心の中で輝いています。
兄は岩場に立つと、「魚になれたらいいのに」とつぶやきました。
過ぎゆくだけの幼き日の思い出。一見無意味に見えることが、生きる意味に思えるときがあります。
私は勉強が苦手だったので、夏休みの宿題はいつも兄に助けてもらいました。
勉強をする兄を見た記憶がありません。でも兄はいつも優秀な成績で、親の希望する高校に合格し、県内の有名な国立大学に進学しました。
大学生になっても、兄の周りに友人の気配はありません。いわゆる青春の謳歌とは無縁な学生で、目的もなく、ただ川辺を歩いて過ごす孤独な青年でした。
高三の夏休み。私の最後の夏休みのことです。兄は受験勉強をする私に、「川にいくから」と言って家を出ました。わざわざ告げていくことに違和感を覚えました。
兄は川から戻りませんでした。捜索は数日で打ち切られ、自殺か遭難かも分からぬまま、行方不明という形で処理されました。その失踪は、世間にとって大した出来事ではなかったのです。
孤独な心を知りたくて、兄の部屋にある本を読み漁りました。でも、これといった手掛かりは得られませんでした。
その夏の灯籠流しの際に、兄の魂を見送ろうとは思いませんでした。兄は生きている。そう信じていたからです。
光の群れが、ゆっくりと川を下っていきます。そのとき兄の本棚にあった詩集の一節がよぎりました。
空蝉(うつせみ)の世は仮宿
時は永遠の旅人
兄は人生に意味を見い出せなかったのかもしれない。ただ、そうであっても、奥山の生き物たちを愛していたはず。たとえ人の世に疲れても、その愛まで捨てるとは思えませんでした。
親は人並みの人間になれと、しょっちゅう言うようになり、私の進学を強く望みました。でも私は大学に魅力を感じられず、地元の中小企業への就職を選んだのです。
私も年相応に処世術を学び、世渡りは人並みにできたので、高卒でも、それなりに昇進することができました。
蒸し暑い夏の日の午後、汗を拭きながら倉庫で作業をしていると、課長が入ってきて、秋の昇進を教えてくれました。
「良かったな」
「ありがとうございます」
気の早い課長は、お祝い会をしてやると言い出し、パートの女の子らにも声をかけて、ささやかな宴が催されることになりました。
宴会場は知る人ぞ知る老舗。古式ゆかしき伝統を守る料亭で、郷土料理と地酒は通の間で有名でした。
宴が盛り上がると、課長が古来伝わる地酒があると言い、女将に注文をしました。
「まあ一杯やれ」
当時は地酒が苦手でした。でも課長の心遣いを無下にはできません。
「ありがとうございます」
ぐいっと一口飲むと、爽やかで、ほんのりと甘い香りが広がったのです。
いつになく酔いしれていると、女将が座敷に入ってきて、滅多に捕れないので是非にと、川魚の料理を勧めました。
「ほう。どんな魚」と課長。
「ご賞味あれ」と微笑む女将。
しばらくすると、女将がそれを一皿持ってきました。
「一皿だけですか」と庶務の子が聞くと、女将は畳に三つ指をつき、「珍しい魚なので」と笑みを浮かべる。
女将はお辞儀をして下がると、襖をとんと閉めました。
女の子たちは他愛もない話をしながら、川魚を箸で突いていました。
「この魚、なんか変な顔してない」
「やだ、やめてよ」
「でも、すごく美味しい」
私は彼女たちを横目に、里芋の煮っころがしを食べていました。すると視線を感じたのです。きょろきょろと座敷を見回すと、皿の上の魚と目が合いました。
一瞬時が止まり、懐かしさが込み上げます。まさか。
手が震え、里芋が箸からすべり落ちます。彼女たちは、なぜ気づかないのだ。あの優しい目に、なぜ気づかないのだ。自分が狂っているのか。いや違う! それは間違いなく、兄の顔なのだ。
世間を離れた兄が、一皿の料理となって供される。ああ、なんて悲劇だ。なんて不条理なんだ。
箸で突かれる兄を見ながら飲んでいると、涙があふれ、もう見ていることができません。
宴が終わると、同僚は折箱に残り物を詰めて帰り、尾頭だけになった兄が取り残されました。
「兄ちゃん。俺だよ」
「うん。わかるよ」
「川で暮らしていたんだね」
「静かでいいよ」
「人の世界がつらかったの」
「魚になりたかっただけさ」
「兄ちゃん。これからどうするの」
「すまないが、川に戻してくれないか」
兄を折に入れて料亭を後にし、川に向かう途中で上蓋を開けました。
「兄ちゃん。また会えるよね」
兄は尾ひれをわずかに振り、目を伏せました。
ふたりで遊んだ川原につくと、天の河が氾濫し、光の海が広がっています。
夜空に輝く宝石のような星々。
穏やかな清流のせせらぎ。
悲しく響く鈴虫の声。
この宇宙に偶然生まれた者たちが、その別れを惜しんでいるようでした。
兄は名残惜しむように浅瀬を泳ぎ、やがて下流に下っていきます。
「兄ちゃん。元気でねえ」と叫ぶと、兄は高く飛び跳ねました。
星明かりに煌めく虹色の鱒。満天の星空を映す漆黒の清流。それは遥か先で天の河へ流れ込む。
精霊は川を下り、浄土へ帰るという。でも夏が来ると、兄が川を泳いでいるような気がします。
兄は吾を 鱗魚となりて 見守らなむ
あにはごを、いろくづとなりて、まもらなむ
『慕尼黑歌集』
執筆の狙い
夏の縁側で冷酒に酔いながら詠んだ一首から、物語は静かに始まる。
幼い頃、兄と裏山の渓流で遊んだ日々。カワセミの戯れ言、虹色に輝く鱒の記憶、清らかな川のせせらぎ。兄は無口な少年だったが、生き物たちへの深い愛情だけを弟に伝える。
兄は夏の川へ出かけ、そのまま帰らぬ人となる。残された弟は、喪失の影を胸に抱きながら、静かに時を重ねていく。
夏の風物詩と古語の調べが織りなす、幻想と記憶の物語。失われた絆の行方と、人生の儚さを詩情豊かに描いた一編。鈴虫の声と川のせせらぎが心に響き続ける。
※上記はAIによる紹介文です。