わたしより背が高くなったら
せんぱい、せんぱーい、という甲高い声がした。ふり返ると、鈴音がフリスビーを追いかける子犬みたいに、はしゃぎながら駆け寄ってきている。恭介は立ち止まり、淡雪が降っているような桜並木を駆けてくる少女を見つめた。跳ねあがる栗色の髪が背負った朝日を反射して、周囲に光の粒を舞い散らしている。彼女は恭介の間近まで来ても走る速度を緩めない。ほとんど体当たりをするみたいに恭介へぶつかってから、ようやく足を止めた。
「おはようございます!」
ぶつかった勢いで恭介がたたらを踏んでいるにもかかわらず、鈴音は満面の笑みで挨拶をしてきた。本当に子犬がじゃれついているみたいだ。もっとも大きな瞳に少し幼さを感じさせる丸顔は、子犬というより、いわゆるタヌキ顔と呼ばれるものに近いのだけれど。
「おはよう。鈴音は朝から元気だね」
どうにか体勢を立て直した恭介が挨拶を返すと、鈴音は彼を見上げて小首を傾げた。
「そういう先輩は朝からふらついてますね? ちゃんと朝ごはん食べてきましたか?」
「いや、ふらついたのは鈴音がぶつかって来たからだよね?」
「あ、パン食べます?」鈴音はバックの中をまさぐり出す。「部活のときに食べようと思ってたんですけど、先輩が貧血で倒れでもしたら可哀想なのであげてもいいです」
「鈴音はもう少し人の話を聞こうな。あとパンはいりません」
「遠慮は無用ですよ。わたしと先輩のあいだで水くさいのは無しです」鈴音はビニール袋に入ったあんパンを差し出す。「先輩はもう少しお肉をつけた方がいいですよ。お母さんも言ってました。背が伸びていくせいか、前よりもっと華奢に見えて心配だって。先輩、ここ一年くらいで大分背が伸びましたよね?」
うん、と恭介は頷く。つい先日あった身体計測では十七才の男子平均より二センチほど高くなっていて嬉しかった。
――わたしより背が高くなったら。
「でも、体重はそんなに増えてないでしょう?」鈴音は恭介の制服のポケットにあんパンをねじ込む。「だからお食べなさい、遠慮せず。そのかわり、これからはわたしのこと鈴音お嬢さまって呼ぶんですよ? わたしは先輩のこと恭介って呼び捨てにします」
「え、パンひとつで?」
「ひとつじゃ足りませんか? そうですね、男の人ですもんね」鈴音は一人で納得したように頷く。「たくさん食べる男の人って素敵です。分かりました、チョココロネもあげます」
「いや、そうじゃなくて」
「ああ、おかず系のパンがいいですか?」
「だからパンはいらないって」
「おにぎりとかがいいんですか? でも、おにぎりはありません。というか先輩!」鈴音は眉をつり上げる。「うちがパン屋だって知ってますよね? それなのにおにぎり食べたいとか、我がまま過ぎませんか!」
「なんで僕は怒られてるんだろうね」
「と、思わせて――」鈴音はふっと頬を緩める。「おにぎりはあります! お父さん渾身の新作、豚バラらいすバーガー! 佐倉ベーカリーの新商品です!」
「いや、朝ごはん食べてきたから」
微妙にかみ合わない会話を続けながら歩いていく二人の横を、春の陽射しに制服の白シャツを輝かす少年たちが駆け抜けていき、微かに吹く風に襟元のスカーフを揺らす少女たちが、おしゃべりに夢中になりながら追いこしていく。学校が近づくにつれ増えていく生徒たちの波に、恭介と鈴音は運ばれるようにして校門の前までやってきた。
「あ、お姉ちゃんだ」
門の前に立ち生徒たちの登校を見守っている長身の女性に、鈴音は大きく手を振った。鈴音に気づいた彩香――鈴音の姉であり恭介の担任でもある――が軽く手を上げて応えた。鈴音はリードを外された仔犬のように、彩香に向かって駆け出していく。
「お姉ちゃん、おはよう!」
「学校では佐倉先生、ね」
抱きつくような勢いで駆け寄ってきた鈴音に動ずる風もなく、彩香は静かな落ち着いた声で妹を窘めた。
「佐倉先生、おはようございます!」
「うん、おはよう」
素直に言い直した妹に、姉は笑みを浮かべて頷く。恭介も挨拶をすると、彩香は目を細めて彼を眺めた。
「悪いわね、いつも鈴音の面倒みてもらって」
「え、面倒見ているのはわたしの方だよ?」
「そう」
「さっきも先輩がフラフラして倒れそうだったから朝ごはんをね――」
鈴音は餌をねだる雛鳥みたいに、姉を見上げながら口を忙しく動かしている。彩香は目に優し気な光をたたえながら妹の話に耳を傾けていた。恭介は朝日に白い頬を輝かしている姉妹を見つめる。
――なんだかんだで、やっぱり似てるよな。当たり前だけど。
鈴音と彩香は一見では姉妹と思われないことが多かった。彩香が長身なのに対して、鈴音は女子としても小柄な方だったし、朝の光で銀色に縁取られているその顔の輪郭も、鈴音が幼さを感じさせる丸顔なのに対して、彩香の頬から顎にかけてのラインは、柔らかな曲線を描きつつもほっそりとしていた。だが、それでも彫りの深い二重瞼の大きな瞳を中心とした二人の目もとは、彼女たちの間に流れる血の繋がりを感じさせずにはいられないほど似通っている。
「ほら、お話はそれくらいにして」いつまでも続く妹のおしゃべりに彩香は苦笑を浮かべる。「早く教室に行きなさい、遅刻しちゃうよ。浅比くん、お願いね」
「はい」恭介は頷く。「行こう」
鈴音を促して恭介は校門を潜り、満開の桜で薄桃色の靄がかかっているような校庭を横切っていく。玄関の前まで来ると、鈴音は一年校舎の方へと足を向けながら恭介に大きく手を振った。
「それじゃあ、先輩。部活で!」
登校してくる生徒たちが、好奇の視線を恭介と鈴音に注いでいる。顔が熱くなっていくのが自分でも分かったが、無邪気に手を振る鈴音を無視もできない。恭介も手を振って応えると、鈴音は満面の笑みを浮かべて走り去っていく。その背中を見届けてから、恭介は玄関に入り、下駄箱で内履きにはき替えた。階段を上がっていき教室のドアを開けると、大きな窓から注ぎ込まれる陽光とクラスメイトたちの立てる朝の騒めきが彼を包みこんできた。
「ねえ、浅比ってさ、佐倉さんと仲がいいの?」
恭介が席に座り鞄から教科書を出していると、クラスの女子たちが話しかけてきた。
「よく、一緒に登校してるよね?」
女子ソフト部所属の、外見はキャッチャーのようだが実はサードがポジションという大柄な女子が、隣の席に腰を下ろしながら尋ねてきた。恭介が頷くと、おかっぱ頭の女子が彼の机に手を置いて身を乗り出してきた。
「もしかして、つきあってるとか?」
「か、彼女さん?」
二人の後に隠れていたような小柄な女子が、ソフト部女子の肩に手を置きながら顔を覗かせた。
「いや、いや」恭介は手を振る。「そんなのじゃないよ。親戚なんだよ」
「ああ、従妹とか?」
小柄な女子が嬉しそうに訊ねてきた。
「はとこ、かな? 母さんたちが」
「お母さんたちがはとこ?」おかっぱの女子が首を傾げる。「それじゃ、ほとんど他人じゃない?」
そうだね、と恭介が笑うと小柄な女子が誰に言うとでもなく呟いた。
「佐倉さんって可愛いよね」
「そう?」おかっぱ頭の女子が腕を組む。「ちょっとかわい子ぶってない?」
「あー、そう言えば」三塁手が頷く。「部活の後輩があの子と同じクラスなんだけど、クラスの中でもちょっと浮いてるって言ってたな」
「まあ、先生の妹だからね、ただでさえ話のネタにされやすいのに」
女子たちの噂話に気まずい思いでいる恭介の耳へ、聴き慣れた声が響いてきた。
「俺の席が! 鉄壁のガードで守られている!」
声の方に顔を向けると、鶴田がドアの前に立ち、塞がれている自分の席を指さしていた。
「おい林田、本塁ブロックは禁止になったはずだぞ!」
「あたしはサードだよ!」
ソフト部女子が言い返したその時予鈴が鳴った。彼女は立ち上がり、他の女子たちと一緒に自分たちの席へと戻っていく。おす、と恭介が手を上げると鶴田も挨拶を返してきた。彼はその名にふさわしい細い体を折りたたむようにして椅子に腰かけ、長い脚を窮屈そうに机の下にしまい込んだ。
「どうも、机が小さい」
「成長期だもんな」
「なあ、林田」鶴田は三つほど前の席に腰かけるソフト部女子の大きな背中に声をかけた。「おまえも机が窮屈だろ?」
「大きなお世話だよ!」
「謝りなさいよ!」おかっぱの女子が声を上げる。「聡美に謝りなさいよ!」
「鶴田くん」隣にいた小柄な女子も小声で抗議してきた。「そういうこと言うのいけないと思う」
「え? なんで?」鶴田は心外と言った面持ちで恭介の方を向いた。「ただ机が小さくないか心配しただけじゃないか。べつにデブって言ったわけじゃないぞ? おかしいよな?」
デブ、という言葉に教室内がざわついた。謝りなさいよ! という声がそこかしこから湧き上がってくる。
「なんで俺は女子から集中砲火を受けてるんだ? 俺は悪くないぞ!」
「先生に言ってやるから!」
「不当だ! たとえホームルームで吊し上げを喰おうとも俺は戦うぞ!」
「お前はさ」恭介は呆れたような表情を浮かべる。「体は細いのに神経は太いのな」
喧噪で満たされ始めた教室へ、本鈴のチャイムとともに彩香が入って来た。当直の号令で挨拶を済ますと、彩香は教壇の上から生徒たちを見回した。
「どうしたの? 朝から騒がしいけど」
おかっぱの女子が経緯を話すと、彩香は鶴田へ顔を向けた。
「鶴田くん。たとえ冗談にせよ、人が嫌な思いをするようなことを言うものじゃありません」
「いえ、でも――」
「あなたに悪気があったとは思いません。それでも林田さんが嫌な思いをしたのなら、それはいけないことよね?」
穏やかな口調で諭す彩香に、鶴田は困ったように頭を掻いていたが、やがて立ち上がり林田の席まで行くと頭を下げた。
「ごめん」
「許す!」
ソフト部女子の漢気あるひと言に教室が湧き、騒ぎが収まったところで彩香は連絡事項を伝え始めた。ひどい目に遭った、とボヤく鶴田に恭介は苦笑を浮かべる。
「口は禍の元だよ」
うん、と鶴田は頷いてから、恭介の耳元に顔を近づけて囁いた。
「ところでさ、俺はやっぱり林田は体格からしてサードじゃなくてキャッチャーにコンバートするべきだと思うんだけど、恭介はどう思う?」
「お前、全然反省してないだろ!」
思わず高くなった声に、教室中の視線が恭介に集まる。私語は慎みなさい、と彩香に注意され皆から笑われた。鶴田まで一緒に大笑いしているのが納得いかなかったが、なんだか彼もおかしくなってしまい、声を上げて笑いだしてしまった。
一日の授業を終え、放課後を迎えると、教室内には朝とは別種の活気に溢れてきた。すぐさま教室を飛び出す者、真っ先にスマホや携帯を確認する者、教室に居残っておしゃべりを続ける者、特におしゃべり組の中には机の上に菓子類を広げ始める強者たちまでいる。恭介が帰り支度を終えて教室を出ようとした時、ロッカーから柔道着を取り出していた鶴田が声をかけてきた。
「恭介、腰の具合はどうだ?」
「ああ、もう普通の生活には影響ないよ」
「普通の生活、ということは」鶴田は手にしていた柔道着を軽く掲げた。「やっぱり、こっちはまだ無理か」
「まだ、というか」恭介は笑みを浮かべる。「そもそも俺には向いてないんだよ、体育会系というか運動部は。今の部活の方が性に合ってるんだ」
鶴田は何か言いたそうに口を開いたが、結局、言葉を発することなく閉じた。恭介は軽く彼の腕を叩き教室を出ていく。中庭に出ると、午後は陽が当たらぬ薄暗い廊下を渡ってきたためか、日射しが一際まぶしく感じられた。花びらの散った渡り廊下を抜けて、恭介は部室のある校舎へと向かっていく。
郷土史研究会と書かれた看板の前で、恭介は一度足を止めた。まだ入部していくらも経っていないためか、軽い緊張を感じる。ドアを開き部室に入ると、テーブルの上で地図を広げていた少女が、恭介の方へ顔を向けた。彼は軽く頭を下げる。
「こんにちは、かづさ先輩」
うん、と彼女は頷くと、再び地図の上に目を落とした。微かな青味を帯びた黒髪が地図の上にかかる。彼女は指で垂れた髪をかき上げ耳の後ろに流した。だが細くとも弾力のある髪は微かな動きでもすぐに波打ち始め、せっかく現れた桜貝のような耳を瑠璃色に輝く髪の波で覆い隠してしまった。
「今日は外に出るんでしたっけ?」
恭介が尋ねると、切れ長で、髪と同じく微かに青味を帯びた黒目がちな瞳が彼に向けられた。
「そう。フィールドワーク、ね」
かづさは恭介から窓に目を移すと、背筋を立てて大きく伸びをした。ほっそりとした長い手足が窓から注ぐ陽に白く輝いている。
「天気もいいし」
かずさは恭介に向き直り目を細めた。その目線は恭介と同じぐらいの高さにある。長身なかづさに、恭介は高校二年生の春になって、ようやく追いついた。
――わたしより背が高くなったら。
かづさは再び机の上に屈みこむとメモに何か書き込み、地図の下に敷かれていた別のもう一枚を取り出して上に置いた。
「なにをしているんです?」
「昔の地図と比べているの。これが渡瀬市の二十年くらい前の地図、さっきのが十年くらい前で、こっちが現在の一番新しいもの――」
机の上が広げられた地図で溢れだした時、ドアの開く音と共に明るい声が響いてきた。
「かづちゃん先輩、こんにちは!」
鈴音は部室に入って来ると、バッグを掲げて弾んだ声を上げた。
「今日はお出かけですよね? いつもより多めにパンを持ってきました!」
「ピクニックに行くんじゃないんだから」
かづさが平坦な声で言うと、鈴音は首を傾げる。
「でも新田公園に行くんですよね?」
「公園というか古墳を調べに行くのね。それにいつも差し入れしてもらっちゃ、おじ様たちにも悪いでしょう?」
「その点は心配いりません! どのみち失敗作でお店に出せないようなパンか、売れ残り必至の不人気パンばかりですから」
「そういうことは」かづさはため息をついた。「黙っていたほうがいいと思うな」
二人のやり取りを恭介が好ましい気持ちで見ているうちに、少しずつ部員が集まり出してきた。
「みんな揃ってるかな?」
やがて顧問である彩香が部室に顔を出し、郷土史研究会の部員たちは、彼女に引率され屋外活動を開始した。外は天気も良く、萌えだした若葉を抜けてくる風も爽やかで、恭介もピクニック気分で歩いていたが、いくらもしないうちに穏やかな気分ではいられなくなった。十数名ほどの部員たちが明確にではないにせよ、二つのグループに分かれてしまっている。ひとつは鈴音を中心に彩香とかづさ、鈴音のクラスメイトの女子たちと恭介、もう一つは他の部員たち、といった風に。もっとも始め鈴音は誰かれ構わず話しかけ、部員たちの間を雀のようにチョンチョン走り回り黄色い声を上げていた。だがあまり話は弾ずまない様子で、自然と姉やかづさたちと話すことが多くなっていった。それが顧問である彩香と部長であるかづさを、鈴音が独り占めしているように見えなくもない。
「そういえば藤本さん」そんな気配を感じ取ってか、彩香は他の部員たちに話しかける。「お祖母さまのお加減はどう? 確か入院されていたのよね?」
「はい、おかげ様で――」
「あ、そうなの?」鈴音が甲高い声を上げる。「おばあちゃんが入院してるの?」
「う、うん。ちょっと風邪をこじらせて、肺炎になりかかって――」
「わー、大変だねえ。うちのおばあちゃんなんてね、八十過ぎてるのに、すごい元気なんだよ。薙刀の師範でね、おじいちゃんが合気道の道場をやってるんだけど、おばあちゃんの方が強いぐらいなんだ。あ、そうそうお姉ちゃん、じゃなくて先生、この間おばあちゃんがね――」
「今、先生は藤本さんとお話をしているの。その話は後でね」
会話に割り込むどころか、自分の話を始めてしまう鈴音に、彩香は困ったような表情を浮かべる。
――悪気はないんだろうけどな。
恭介も少し気まずい思いに駆られたが、鈴音本人は気にしている風もない。あっ、と声を上げたかと思うと、かづさの肩を叩きだした。
「かづちゃん先輩、猫です!」
鈴音は少し離れた道沿いの陽だまりで昼寝をしている猫を指さす。
「猫ですよ!」
「うん」
「撫でて来ていいですか?」
「だめ」
「えー、なんでですか」
「今は部活動中。勝手な行動は慎みなさい」
かづさが叱るというでもないフラットな調子で言うと、鈴音は彼女の顔を瞬きもせずに見つめだした。不満なのかと思いきや、鈴音は笑みを浮かべると、かづさの頬を両手で挟んだ。
「かづちゃん先輩って猫みたいですよね」
「え?」
「見た目の感じとか性格とか、猫系ですよね。あ、わたしは犬系ってよく言われます」
「そう」
「なので猫の代わりに、かづちゃん先輩を撫でます」
鈴音は指で、かづさの白い喉をくすぐり出した。
「やめなさい」
撫でようとする掌から逃れるために身をよじるかづさと、そうはさせじとじゃれつく鈴音は、下手な社交ダンスでもしているみたいに、細い体を絡ませ合いながらグルグル回りだす。その動きに合わせて彼女たちの長い髪は踊り、広がり、午後の日射しを浴びて、瑠璃色に、金色に輝きだした。
恭介は辺りをそっと窺う。鈴音のこういう子供っぽいところが、彼は嫌いではない。むしろ微笑ましいぐらいに思っている。だが彼女と親しくない人間から見たらどうだろうか。他の部員たちの間からは、少し白けたような雰囲気が漂っているようにも感じられる。彩香も気にしている様子だったが、部員との会話の途中で、注意するタイミングを掴めないようだった。
「ほら」恭介は鈴音に声をかける。「車とか通ったら危ないだろ」
彼はやんわりと二人に間に入り、鈴音からかづさを引き離す。解放されたかづさは、無言で乱れた制服を直し始めた。動き回ったためか、あるいはじゃれつかれたことが恥ずかしかったのか、白梅の中で源平咲きした一輪の紅梅のように、その端正な白い横顔にはうっすらと朱が差されていた。
「あ、公園が見えてきました!」鈴音が今度は恭介の肩を叩きだす。「先輩、どっちが先に着くか競争しましょう!」
「しないよ」
「えー、なんでですか」
「集団行動なんだから和を乱すようなことするんじゃないよ」
「え! 和を乱してますか、わたし?」
「やっぱり自覚はなかったのか」
「前から思ってたんですけど」彼女は恭介を見上げる。「なんか先輩って、わたしに対してだけ、あたりが強くありません?」
「それは気のせいじゃないよ」
「否定しないんですか! でも仕方ないですよね、男の子ですもん。好きな女子にはつい意地悪をしちゃうっていう、あれですね? でも先輩」鈴音は彼の肩に手を置く。「それは小学生ぐらいまでの話ですよ? さすが高校生にもなって、それはどうかと思います」
恭介が絶句していると、二人のやり取りがおかしかったのか、あまり表情を面にださないかづさが笑みを浮かべていた。
「おしゃべりはそれくらいにして、始めましょうか、フィールドワーク」
かづさを先頭に、彩香を殿にして一同は公園に入った。九分咲きした桜のアーチがかかる遊歩道を進んでいくと、饅頭のような形をした丘が見えてくる。きゃーっという、歓声と悲鳴が入り混じったような声が上がったかと思うと、小学生くらいの男の子が二人、段ボールを尻に敷いて丘の斜面を滑り落ちてきた。
「あ、あたしも、あれしたい」
目を輝かす鈴音に、恭介は首を振る。
「だめです、部活中です」
「じゃあ、終わったらいいですか?」
「そもそも入り口の看板に『芝すべり禁止』って書いてあったろ」
「えー、あの子たちはしてるじゃないですか」
丘を滑り終えた少年たちは、段ボールを片手に再び頂上を目指して駆け上がっていく。羨ましそうに彼らを見ている鈴音を促し、恭介は部員たちとともに四阿に入り腰を下ろした。かづさが今回の目的と調査場所のふり分けについて話し始めたが、入部して日の浅い恭介には分からないことが多い。彼はテーブルに置いてあるパンフレットを手に取った。
――新田公園は五世紀ころに建築されたと言われる大小十基の古墳を中心に、季節の花々や樹木が植えられた遊歩道、ブランコや滑り台などの遊具が設置された広場からなる地区公園です。春は桜、秋は紅葉の名所としても知られ、市民の憩いの場として親しまれています。明治二十二年に帝国大学教授である大友幸吉博士が古墳の現地調査を行ったことから、考古学嚆矢の場として――
「それでは各グループごとに別れて行動してください」
かづさの言葉に恭介はパンフレットから顔を上げた。部員たちは三人ほどのグループに分かれ、それぞれ四阿を出ていく。入部したての恭介とお目付けが必要な鈴音は、かづさが面倒を見ることになった。
「わたしたちは五号墳ね」
かづさに促され恭介と鈴音は古墳へと向かった。遊具に夢中になっている子供たちで賑わう広場を抜け、丘へと続く石段を上がると緩やかな坂道になっていく。舗装が無くなり、坂も急になる二段組木の階段が始まる辺りから、樹が茂りだし陽の光を遮りはじめた。広場ではしゃぐ子供たちの声が遠く聞こえてくる。陰りを帯びた若葉が色を濃くする暗い坂道を歩いていくと、斜面に作られた墳丘が見えてきた。
「あれが五号墳」かづさが指さす。「丘の斜面を掘って作られたもので横穴式石室って言うの」
墳丘は二段式なっており、石を敷き詰めて作られた三段ほどの階段を昇ると、ちょうど彼らが並んで立てるくらいのスペースがあり、斜面に掘られた開口部には鍵のかかった扉が備え付けられている。かづさは制服のポケットから鍵を取り出した。
「あ、中が見られるんですね」
鈴音の弾んだ声にかづさは頷く。
「うん、事前に申請しておけばね」
「わたし、中を見るの初めてかもです」
「まあ、何があるってわけでもないんだけどね」
かづさが扉を開けた。広さが二畳くらい、高さはしゃがみ込めば入れるくらいの空間で、彼女の言う通り内部には何もない。大きな岩の天井を、壁際に埋め込まれ積み重ねられた石が支えている構造だった。
「じゃあ、すずちゃん。写真撮ってくれる?」
「はい!」
かづさに言われた鈴音は石段を駆け下りると、地面にしゃがみ込んで携帯をかざした。
「はい、いきますよー。あ、先輩、もっとかづちゃん先輩に寄ってください。なんだったら肩とか抱いちゃってもいいんですよ?」
「俺たちを撮ってもしょうがないだろ」
「石室を撮って欲しかったんだけど」
「えー」鈴音が不満気な声を上げる。「石室なんか撮ってもつまらないじゃないですか。中に何もないし」
「だからそう言ったじゃない」
「つい三分前まで、初めて見る、とか言って興味津々だったじゃないか」
はいはい、と鈴音は言いながら石段を上がってくると石室の撮影を始めた。説明板に書かれている文のメモや、メジャーで大まかな計測を終えると一同は丘の頂上を目指して再び歩きだした。
「頂上に着いたら芝すべりしていいですか?」
「だめ」鈴音の希望をかづさは一蹴する。「だいたい制服を着ているのに芝すべりもないでしょう」
「それは平気です!」鈴音はスカートの裾を軽く摘まんだ。「ちゃんと下にスパッツ履いてますから」
「そういう問題じゃないでしょう」
頂きが近づくにつれ頭上を覆っていた樹々はまばらになり、陽の光が強くなってきた。頂上に足を踏み入れると、綺麗に刈り込まれた芝生が目に眩しいほど輝いている。
「ここは景色がいいよね」
かづさは目を細めて、遮るものない春の光に照らされた街並みを眺めている。
「ええ、本当に」恭介は頷く。「ここは、あの石碑ですか?」
かづさが街並みから、頂上に建てられている石碑へと目を移した。大きな樹の下に守られるようにして建つ石碑には、幕末の動乱期に平民から募られ組織された報恩隊が官軍とこの丘で戦い全滅した、という主旨の文が彫り込まれている。
「うん。古墳とは関係ないけど、郷土史の一環だからね」
かづさの顔に陰りが差し、恭介は少し慌てた。鈴音に何か話を振ろうと隣を見ると、なぜか彼女の姿がない。辺りを見回すと、鈴音は少し離れたところで、段ボールを手にしている小学生たちに話しかけていた。
「ねえ、お姉ちゃんにも一回滑らせてくれない?」
恭介とかづさは顔を見合わせると、鈴音のもとへ行った。恭介は丸めたパンフレットで彼女の頭をポンポンと軽く叩く。
「部活をしなさい、部活を」
「ごめんね、君たち」かづさは芝に膝を突き、少年たちと目線を合わせた。「このお姉ちゃんの言うことは聞かなくていいからね」
彼女はバックからチョコレート菓子を取り出し小さな掌に握らせた。かづさに見つめられたせいか、少年たちは顔を赤くし照れたような笑みを浮かべていたが、やがて大きな声で礼をいうと、段ボールを尻に敷いて丘を滑り出していく。羨ましそうに彼らを見ている鈴音を、かづさと恭介は引っぱるようにして再び頂きまで連れ戻した。
本条邸の門を潜ると、実をつけ始めた梅の木から、微かに甘い匂いが漂ってきた。庭池の傍を通ると、鯉が口をへの字に曲げた不満げな顔を突き出してくる。鯉はしばらく口をパクつかせながら恭介の顔を見つめていたが、餌をくれないなら用はないとばかりに身を沈め泳ぎ去ってしまった。
「ただいま帰りました」
恭介が玄関の扉を開けると、ちょうど祖母――正確には従伯祖母――が台所から出てきたところだった。
「お帰りなさい、恭介」
祖母は軽く頷く。傘寿を過ぎたとも思えぬ背筋の伸びた、南部の袷に半幅帯の普段着姿にも隙の無い、かくしゃくたる媼である。
「お祖父さまは道場ですか?」
恭介は框に腰かけ靴を脱ぎながら尋ねる。
「いえ、所用で出かけています。帰りは遅くなるかも」
「そうですか」恭介は脱いだ靴を揃えると頷いた。「なら、今のうちに道場の掃除をしておきます」
「ええ、お願いね。今日、かづさは塾だったかしら?」
「はい、部活終わりでそのまま」
そう、と祖母は頷き台所へ戻っていく。恭介が道場の掃除を終え、自室で宿題をしていると、襖を軽く叩く音がした。ふと窓の外に目をやると、いつの間にか日は沈み、辺り一面は藍色に染まっている。
「恭ちゃん、ごはんよ」
かづさが襖を開けて入ってきた。宿題? と彼女は恭介の肩越しにノートを覗き込む。かづさの黒髪が彼の頬に軽く触れた。
「もう、終わるところです」恭介は顔の火照りを感じながら答える。「お祖父さまは戻られましたか?」
「今日は遅くなるみたい。先に食事を済ませるようにって」
かづさと恭介が部屋を出ると、居間からにぎやかな声が聞こえてきた。夕食の膳を前に、鈴音が祖母を相手におしゃべりをしている。恭介は膝を折って座りながら鈴音に尋ねた。
「彩香さんは?」
「お父さんたちと出かけちゃいました。お店も今日は早じまいです」
「そうなんだ。珍しいね」
恭介が頷きながら何の気なしに祖母を見ると、その顔に微かな陰りが走った気がした。だが祖母はすぐ平静な様子に戻り、手を合わせると孫たちを促した。
「さあ、いただきましょう」
食前の挨拶が済むと、恭介は膝を崩し胡坐を掻いた。かづさも膝を崩して横座りになったが、鈴音は恭介のように胡坐を掻き始めた。
「なんですか、すず。お行儀の悪い」
祖母が窘めるが、鈴音は全く動ぜず鰊を箸で突いている。
「おばあちゃん。わたし、魚きらい。お肉がいい」
「鈴音はさ、もう少し人の話を聞こうな」
「スカートで胡坐なんか掻くんじゃないの」
かづさは焼き鰊の乗った鈴音の皿を手に取る。
「大丈夫、スパッツ履いてるから」
「そういうことじゃないでしょう」
かづさが鰊に箸を入れると、割かれた身から微かな湯気が上がった。背骨に沿って身をほぐし、箸で尾を摘まみ持ち上げる。見ていて気持ちが良いほどきれいに背骨がはがれていく。小骨も手際よくとり除いてから、かづさは鈴音の前に皿を戻した。
「部長モードじゃないかづちゃん大好き!」
鈴音は弾んだ声を上げると、美味しそうに焼き鰊を食べ始めた。
「魚は嫌いじゃなかったのか」
恭介の言葉に、鈴音は小首を傾げる。
「正確に言うと、魚の骨がきらい?」
「まあ、骨が好きって人はあまりいないだろうけど」
ふと見ると、恭介の鰊もかづさが骨を取っている。彼は慌てて自分でやろうとしたが、かづさは当たり前のことのように骨を取り終えてしまった。
「ありがとうございます」
恭介が恐縮しながら皿を受け取ると、鈴音がおかしそうに笑った。
「恭お兄ちゃん、硬すぎますよ。学校にいるわけじゃないんだから。家に帰ってきたら遠慮はなし、です」
「そうですよ」祖母が恭介に顔を向けた。「あなたはお客様ではなくて、身内なのですから。こちらも遠慮はしないかわりに、あなたも気を使う必要はありません」
そうそう、と鈴音が頷くと祖母は笑みを浮かべた。
「もっともすずは、もう少し気を使うべきかしらね、いろいろと」
かづさが無言でコクコクと頷く。えー、と鈴音が納得いかなそうな顔をした。ほら、ねぶり箸、と祖母が鈴音を注意する。祖母は作法に厳しく、いつも恭介は若干、緊張しながら箸を使っている。
ふと彼はかづさを眺めた。祖母の躾の賜物だろうか、脂の乗った鰊の箸休めに、タラの芽の白和えへ箸を伸ばすその仕草も、お椀を両手で持ち上げて、蛤のみそ汁から漂う香りを楽しむその風情も、かづさは品よく映えて見える。かといって取り澄ましたような気取りもない。彼女は育ち盛りの少女らしく、よく食べた。目に鮮やかな春キャベツと人参の香の物をサクサク食べ、甘い湯気の漂うご飯を二膳お替りし、焼き鰊を骨だけ残して綺麗に食べ終えると、鈴音にせがまれて祖母が出した、和風の食膳には少しそぐわない感のある豚の角煮も、美味しそうに口へ運んでいく。恭介の視線に気づいたのか、かづさは顔を綻ばした。
「よく食べるなあって、思ってるんでしょ」
いえ、そんな、と彼が慌てて首を振ると、鈴音は相変わらずねぶり箸をしながら感心したように呟いた。
「かづちゃんて、痩せの大食いだよねえ」
「すずちゃんだってそうじゃない」
「かづささんもそうだけど、鈴音も細すぎるぐらいだろ」
「でも、なんか最近、すぐお肉がついちゃうんです」
にぎやかな――といっても八割がた鈴音がしゃべっていたが――食事を終え、一同が白湯を飲んでいると携帯の着信音が響いた。
「あ、わたしの」鈴音は携帯を手にし画面に目を落とす。「お姉ちゃんからだ」
「なんて?」
かづさが尋ねると鈴音は顔を上げた。
「帰るのが遅れそうだって。何してるんだろ」
鈴音は不思議そうな顔をしている。恭介は気になって祖母の顔を窺った。やはり表情が少し硬い気がする。鈴音は携帯をしまうと、恭介とかづさの手を取った。
「ね、ゲームしようよ、ゲーム」
「宿題とか大丈夫なの?」
ないない、と鈴音はかづさの問いを軽く流して、恭介たちを引っ張っていく。彼らが客間にある大画面のテレビでゲームをしていると、祖母が入って来た。
「そろそろ終わりにして、すずは帰りなさい」
祖母の言葉に時計へ目をやると九時を過ぎている。鈴音は画面から目を離さず、コントローラーを操作しながら不満そうな声を上げた。
「今日はもう、お泊りのつもりでいたんだけど。久しぶりに」
「久しぶりって」かづさが笑う。「先週お泊りしたばかりじゃない」
「三日も前の話だもん、それは」
「もう、お父さんたちも帰っているしょう?」
祖母の言葉に、鈴音は携帯のメールを確認した。
「あ、本当だ。でも、今から帰るの面倒くさい」
「だめです」祖母は首を振る。「今日は帰りなさい」
恭介の知る限りでは、鈴音のお泊りを祖母が許さなかったのは今日が始めてだった。そんな祖母の態度に、鈴音も何かしら感じるものがあったのだろうか。彼女は素直に頷き、おとなしく帰り支度を始めた。遅くなったため恭介は鈴音を家まで送り届け、夜桜が月に妖しいまでに輝く並木道を通って本条邸へと戻っていく。帰宅した彼を祖母とかづさが玄関で出迎えてくれたが、ふたりの表情は一様に硬かった。
「お祖父さまがお呼びです。お部屋へ伺っておくれ」
祖母の言葉に、恭介は戸惑いつつも頷いた。恭ちゃん、と祖父の部屋に向う彼の背中に声がかけられた。ふり向くとかづさが心配そうに恭介を見つめている。彼女の口がためらいがちに開かれ、また閉じた。声をかけはしたものの何を言っていいのか分からない、そんな風に見えた。恭介は笑みを浮かべ無言で頷き返すと、祖父の部屋の前まで行き、廊下に膝を突いた。
「恭介です」
入りなさい、と言う声に恭介は障子を開けた。祖父は唐机を前に懐手をして、いつにない難し気な顔をしている。彼が部屋に入ると、祖父は無言で茶を淹れ始めた。
「楽にしなさい」
畏まって座る恭介の前に茶を置くと、祖父も湯呑みを手にし口をつけた。恭介は膝を崩しながら祖父の顔を窺う。丸顔に禿頭の愛嬌ある顔立ちで、その板についた着物姿と相まって――特に湯呑みを手に茶を啜っている様などは――合気道の師範というより、味のある噺家といった風貌である。だが今日の祖父は、道場で見るのともまた違う厳しい表情をしており、いつもと大分趣きが異なっていた。
「竜太郎がな」祖父は湯呑みを置いた。「出所してくるそうだ」
恭介は息が詰まった。
「中でも問題を起こし続けて」祖父は腕を組む。「いつ出て来られるのか分からんようになってしまったせいか、みな心の準備が出来ていなくてな。彩香は泣いていたよ」
「兄さんが――」
辛うじて恭介は言葉を発したが、後が続かなかった。
「まあ、だからどうと言うわけでもないんだが」祖父は再び湯呑みを手に取った。「一応、話しておこうと思ってな」
呆然としている恭介に、祖父は茶を飲むよう勧めた。促されるがまま彼は機械的に茶を飲み干していく。いつも祖父の入れてくる、渋い中にも微かな甘みのあるお茶の味が、今は全く分からない。兄が帰ってくる、そのことだけが恭介の頭の中を駆け巡っていた。
執筆の狙い
長編として書きだしたものです。一章を書き上げたところで止まってしまいました。皆様に読んでいただき、ご感想と、なにより書き続ける価値があると思うかをお聞きしたいです。これは一章の前半になりますので、もし需要があれば次回に後半をアップしたいと思います。よろしくお願いいたします。