作家でごはん!鍛練場
近藤圭太

国境は目に見えない(20枚)

 作 ChatGPT
 編集 近藤圭太 Claude


 朝の七時五十二分、横断歩道のようで、横断歩道ではなかった。

 白線と呼ぶには薄すぎた。道路の上に、かつて塗られていたものの名残が、粉を吹いたように残っているだけだった。晴れていても見えにくい。雨の日には水がたまる。子どもたちはどこで止まればいいのだろう。

 交差点の手前は南川市。向こう側は東丘市。市境は、道路脇の古い側溝に沿って走っている。

 地図の上では一本の線だった。

 その朝、一台の軽ワゴンが東丘市側から入ってきた。駅前の渋滞を避ける車である。運転手は慣れた様子でハンドルを切り、ほとんど速度を落とさないまま交差点に近づいた。

 小学三年生の男の子が、一歩、前へ出た。

 黄色い旗が、視界を横切った。

「危ない」

 旗を持っていたのは、浅倉亮司だった。

 南川市議会議員。毎朝、この通学路に立つことで知られている。声は明るく、笑顔は大きい。仲間の保護者や近所の老人たちとおそろいの上着を着ていた。腕には交通安全の腕章。旗の扱いも手慣れたものである。

 軽ワゴンは急ブレーキをかけた。タイヤが短く鳴り、男の子は肩をすくめた。衝突はしなかった。運転手は窓を開けず、片手を軽く上げただけで走り去った。

 浅倉は男の子の前にしゃがんだ。

「大丈夫か、悠太」

 男の子は小さくうなずいた。

「昨日、妹さん熱出したって言ってたな。もう下がったか」

「うん」

「そうか。お母さんにも、無理しないように言っといて」

 男の子は、少し笑って走っていった。

 浅倉は、その背中をしばらく見ていた。
 見ている顔は、写真に写る時の顔ではなかった。

 近くにいた母親が、青い顔で近づいてきた。

「今の、見ましたよね」

「見ました。危なかったですね」

「前から言っているんです。この横断歩道、ほとんど消えています。車も止まってくれません。いつか本当に事故になります」

 浅倉は深くうなずいた。

「これは大事な問題です。私も前から気になっていました。しっかり市に届けます」

 母親は、少しだけ表情を緩めた。

 その後、高齢の女性がごみ袋を二つ持って歩いてきた。浅倉は旗を脇に挟み、片方を持った。

「集積所まで行きますよ」

「先生、ええのに」

「ついでです」

 浅倉は、本当に自然にそうした。

 その日、浅倉のSNSには写真が上がった。

 《今朝も子どもたちの見守りからスタート。地域の宝である子どもたちの命を守るため、全力で取り組んでまいります》

 写真の中で、浅倉は黄色い旗を持ち、児童に笑顔で手を振っていた。

     *

 瀬川真一がその母親から話を聞いたのは、その日の夕方だった。

 市役所の近くにある喫茶店だった。母親は冷めた紅茶に手をつけないまま、スマートフォンの動画を見せた。今朝の軽ワゴンではない。別の日の映像だった。

 車が横断歩道の手前で止まらない。子どもたちは一歩下がる。ランドセルが揺れる。画面の奥から、また別の車が入ってくる。

「これ、たまたま撮れたんです。こういうの、何回もあります」

 瀬川は動画を二度見た。

「学校には」

「言いました。PTAでも出しました。浅倉先生にも言いました」

「返事は」

「危ないですね、で終わります」

 母親は、唇を結んだ。

「浅倉先生が毎朝立ってくださっているのは、ありがたいんです。子どもの名前も覚えてくださっています。うちの子も、浅倉先生がいると安心するって言います」

 瀬川は黙って聞いた。

「でも、旗を振る人がいない日はどうなるんですか。雨の日はどうするんですか。先生が選挙で忙しくなったら、子どもは自分で避けろということですか」

 瀬川は、すぐには答えなかった。

 彼は駅前演説が得意ではなかった。声は通る方ではない。拍手を受ける間の取り方も下手だった。SNSも遅い。地域行事に顔を出しても、いつも端の方に立っていた。

 ただ、相談を受けたら現場に行く。

 それだけは決めていた。

「明日の朝、見に行きます」

 母親は瀬川を見た。

「見るだけですか」

「最初は見ないと分かりません」

「それは、分かります。でも」

「見るだけでは終わらせません」

 母親は、スマートフォンを伏せた。

 瀬川は手帳を開き、交差点の場所、時間帯、雨の日の状況、通学班の人数、車の流れを書き込んだ。

 その手帳は、もう半分以上が住民相談で埋まっていた。側溝、街灯、カーブミラー、生活保護、空き家、騒音、介護、いじめ、バス停のベンチ。小さな字で書かれた相談は、どれも小さくなかった。

     *

 翌朝、瀬川は七時二十分に交差点に立った。

 浅倉はすでにいた。黄色い旗を持ち、子どもたちに声をかけている。

「おはよう。瀬川さんも見守りですか」

「現場確認です」

「大事ですね。私もここは前から気になっていまして」

 浅倉の笑顔に、悪意はなかった。むしろ清潔だった。清潔すぎて、瀬川には少し眩しかった。

 瀬川は手帳を出した。

 七時三十分から八時十五分まで、通る車を数えた。普通車、軽自動車、配送車、介護施設の送迎車。東丘市側から入ってくる車が多かった。幹線道路の信号を避け、細い道へ流れ込んでくる。

 七時五十八分、子どもたちの列が膨らんだ。横断歩道の手前に五人、六人とたまる。歩道は狭い。雨の日なら、傘で車道にはみ出すだろう。

 八時九分、軽自動車が一時停止せずに通過した。浅倉が旗を出して止めたが、運転手は不満そうに顔をしかめた。

 浅倉は言った。

「こうやって毎朝立っていれば、だいぶ違いますよ」

「立てない日もあります」

「もちろん、制度的な対策も必要です。私も市には言っています」

「どこまで」

 浅倉は一瞬だけ黙った。

「担当課には伝えています。なかなか難しいようですが」

 瀬川は、それ以上聞かなかった。

 難しい。
 その言葉が出た時点で、相談はたいてい棚に置かれる。
 何が難しいのかを分けない限り、次の一手は出ない。

     *

 南川市道路管理課の窓口で、担当の藤尾は地図を広げた。

「ここですね。交差点の手前、南側はうちの市道です。ただ、横断先の道路部分と電柱の位置は東丘市になります」

「白線の引き直しは」

「外側線や注意喚起の路面表示なら、うちの市道部分で検討できます。ただ、横断歩道そのものは警察です」

「グリーンベルトは」

「幅員を見ないと分かりません。車道幅が確保できないと、かえって危険になる場合もあります」

「合同点検はできますか」

 藤尾は少し顔を曇らせた。

「学校、教育委員会、警察、東丘市さんにも入ってもらう必要があります」

「必要なら、入ってもらいましょう」

「呼ぶのは簡単ではありません」

「簡単ではないことは分かりました。では、何からなら始められますか」

 藤尾は瀬川を見た。面倒な議員だと思ったかもしれない。だが、不快そうではなかった。

「まずは学校から正式に危険箇所として上げてもらうことです。PTAの意見も必要です。あと、車の流れやヒヤリハットの記録があると、警察にも説明しやすいです」

「東丘市には」

「うちから連絡はできます。ただ」

「ただ」

「向こうは向こうで、市内の通学路対策を抱えています。主に通っているのは南川市の児童ですよね、という話にはなると思います」

 瀬川はうなずいた。

 子どもは市境を知らない。
 予算は知っている。
 道路台帳も知っている。
 決裁欄も知っている。

     *

 東丘市役所へ行く前に、瀬川は一件だけ電話をかけた。

 相手は、東丘市議の梶原だった。会派は違う。選挙の時には、互いに別の候補の応援に入ることもある。ただ、住民相談の話になると早かった。

「瀬川です。少し相談があります」

「珍しいですね。そちらから東丘に」

「市境の通学路です。北小の児童が通る交差点で、車は東丘側から入ってきます」

 梶原は少し黙った。

「場所は」

 瀬川が説明すると、梶原はすぐに分かった。

「あそこは抜け道になっています」

「東丘市の道路課に行きます。ただ、南川市の児童の話だと言われると思います」

「言われるでしょうね」

「どう入るのが自然ですか」

 電話の向こうで、紙をめくる音がした。

「東丘市側から見ると、あの道は生活道路です。通学路としての優先度は低い。ただ、車を出しているのは東丘側です。そこを押さえれば、話はできます」

「合同点検に出てもらえますか」

「正式には担当課同士でしょう。でも、こちらからも道路課には声をかけておきます。『南川の子ども』ではなく、『東丘から出る車の問題』として」

 瀬川は、少し息を吐いた。

「助かります」

「瀬川さん」

「はい」

「手柄にしないでくださいよ」

 冗談のような声だったが、冗談ではなかった。

「しません」

「なら、こちらもしません」

 電話が切れたあと、瀬川はしばらく画面を見ていた。

     *

 東丘市役所は、南川市役所より新しかった。入口には、子育て支援都市という大きな横断幕がかかっていた。

 道路維持課の担当係長は、丁寧だった。名刺を両手で受け取り、椅子も勧めた。ただし、声は固かった。

「危険性については、こちらも理解しております」

 瀬川は、その言葉を手帳に書かなかった。

「では、合同点検に参加していただけますか」

「南川市さんから正式に依頼があれば、検討します。ただ、通学しているのは南川市立北小学校の児童ですよね」

「道路を通っているのは子どもです」

「もちろんです。ただ、東丘市としても、市内の通学路対策が多数あります。優先順位があります」

 言っていることは正しかった。だから、瀬川は腹を立てることができなかった。

「東丘市側から入ってくる車が多いんです」

「交通規制となると、警察の判断です」

「看板や電柱幕は」

「設置場所の確認が必要です。地元自治会との調整もあります」

「東丘市の自治会ですね」

「はい。南川市のPTAだけで決められることではありません」

 瀬川は手帳に書いた。

 南川市の子ども。
 東丘市の車。
 警察の横断歩道。
 自治会の生活道路。
 保護者の不安。

 ひとつの交差点に、持ち主が多すぎた。

 係長は、少し声を落とした。

「梶原議員からも話はありました」

 瀬川は顔を上げた。

「そうですか」

「市境なので、感情的に進めるとこじれます」

「承知しています」

「東丘市の予算で、南川市の学校の通学路を整備する、という説明は簡単ではありません」

 その言葉で、ようやく本音が机に置かれた。

「では、東丘市だけが背負わない形にしましょう」

 係長は黙った。

「東丘市は、東丘市側から流入する車への注意喚起をする。南川市は、南川市側の外側線と路面表示を検討する。横断歩道は警察に現場確認してもらう。PTAはヒヤリハットを記録する。学校は見守り位置と横断指導を変える」

「決定はできません」

「決定ではなく、合同点検の材料です」

 係長の隣にいた若い職員が、地図の端を指で押さえた。

「電柱幕と看板なら、候補位置の確認はできます」

 係長が、その職員を見た。

「まだ持ち帰りです」

「はい。持ち帰りで結構です」

 瀬川は言った。

「持ち帰る内容を、次の会議の議題にしてください」

     *

 会議の日程は、なかなか決まらなかった。

 学校は授業参観の準備があると言った。警察は別件の交通安全教室が入っていると言った。東丘市は内部確認が必要だと言った。自治会長は「平日の昼間は無理だ」と言った。PTA会長は「夜なら出られるが、子どもを預ける先がない」と言った。

 瀬川の手帳には、時間だけが増えていった。

 その夜、瀬川は事務所で一人、手帳を開いていた。

 危険箇所の写真。
 七時三十分から八時十五分までの交通量。
 雨の日の歩行幅。
 母親の言葉。
 学校の回答。
 南川市道路管理課の所管整理。
 東丘市道路維持課の本音。
 警察の基準。
 自治会の反発予想。

 整理はできていた。

 整理はできている。
 しかし、白線はまだ薄い。

 瀬川は、手帳を閉じた。

 自分は問題を動かしているのか。
 それとも、問題を整理して、動かした気になっているだけなのか。

 初当選した年の冬、瀬川は別の相談を受けていた。側溝のふたが割れていて、高齢者がつまずきそうになるという話だった。あの時、瀬川は担当課に伝えた。伝えたことで、仕事をしたと思っていた。

 三か月後、そこを歩いていた女性が転んだ。大きな事故ではなかった。新聞にも載らなかった。骨折でもなかった。ただ、その女性は春に娘の家へ引っ越した。

 瀬川の手元には、担当課へ送ったメールだけが残った。

 届けた。
 だが、動かなかった。

 瀬川は立ち上がり、窓の外を見た。駅前のロータリーに、浅倉ののぼりが立っていた。風がないのに、布だけがわずかに揺れて見えた。

     *

 自治会館の集会室は、古い畳のにおいがした。

 保護者、学校長、PTA会長、南川市道路管理課、東丘市道路維持課、警察、二つの自治会長。瀬川が何度も電話をかけ、頭を下げ、日程を合わせて、ようやく集まった。

 浅倉も来ていた。入口に近い席で、腕を組んでいた。

 最初に母親が話した。

「子どもが死んでからでは遅いんです」

 部屋の空気が張った。

 沿道の高齢男性が手を上げた。

「子どもが大事なのは分かります。でも、朝に車を止められたら困るんです。うちは妻を病院に送る日があります。介護の車も来ます。全部、許可を取れと言うんですか」

 別の女性が続けた。

「通行止めにしたら、一本向こうの道に車が回るだけです。あっちにも子どもはいます」

 PTA会長が言った。

「でも、今のままでは本当に危ないんです」

 東丘市の係長が地図を広げた。

「今回、東丘市側で管理している部分はここです。ただ、主に通行している児童は南川市立北小学校の児童です。東丘市として単独で整備するには、説明が必要になります」

 PTA会長が、すぐに反応した。

「子どもが東丘市の子でなければ、後回しということですか」

「そういう意味ではありません」

「では、どういう意味ですか」

 係長は、返事を探した。

 瀬川は、その沈黙を止めなかった。言葉がきれいなままでは、話は進まない。本音が出なければ、分けることもできない。

 南川市の藤尾が言った。

「南川市で対応できる部分は対応します。ただ、交差点東側の電柱幕や看板については、東丘市さんの協力が必要です」

 警察官は静かに説明した。

「信号機や時間帯規制は、すぐには判断できません。まず現状を整理し、段階的に対策を考える必要があります」

 母親が声を上げた。

「段階的、段階的って、その間に事故が起きたらどうするんですか」

 瀬川は、夜の事務所で閉じた手帳を思い出した。

 整理はできている。
 しかし、白線はまだ薄い。

「明日の事故を、今日ここで完全に止めることはできません」

 瀬川は言った。

 母親の顔がこわばった。

「でも、明日から変えられることはあります。横断前に一歩下がる場所を学校で指導する。見守りの立ち位置を変える。車に向けた仮の注意看板を、許可が取れる範囲で置く。横断歩道の補修は警察に現場確認してもらう。恒久対策とは別に、明日の朝の対策を作るべきです」

 警察官が資料から顔を上げた。

「学校指導と見守り位置の変更は、すぐ相談できます。仮設看板は、道路管理者と設置場所を確認してください」

 藤尾がうなずいた。

「南川市側なら、明日朝までに候補位置を見ます」

 東丘市の若い職員が続けた。

「東丘市側も、電柱の管理者確認だけなら今日中にできます」

 係長は、少しだけ息を吐いた。

「持ち帰ります。ただし、今日ここで約束はできません」

「約束でなくて結構です。持ち帰る内容を、議事録に残してください」

 浅倉は、その時まで黙っていた。

 そして、話がまとまりかけた頃に、穏やかな声で言った。

「やはり、子どもたちの安全については、皆さん同じ思いですね」

 誰も反論しなかった。

 反論しなかっただけだった。

     *

 工事は、三か月後に始まった。

 最初に横断歩道が塗り直された。新しい白は、朝の光を受けて少し眩しかった。停止線も引き直された。路面には「児童注意」の文字が入った。東丘市側の電柱には、通学路を知らせる幕が巻かれた。南川市側には、緑の帯が細く伸びた。交差点の角には、柔らかいポールが立った。

 全部が解決したわけではない。

 信号機は付かなかった。
 時間帯の車両通行止めも、まだ検討中だった。
 雨の日の危なさも、完全には消えていない。

 それでも、車は少し手前で速度を落とすようになった。子どもたちは、以前より一歩下がって待つようになった。保護者も、ただ怒るだけではなく、記録を残すようになった。

 完成確認の日、市の広報担当が写真を撮りに来た。

 道路管理課、学校長、PTA、自治会、警察。そこに浅倉もいた。黄色い旗を持ち、いつもの笑顔で立っている。

「瀬川さん、こちらへ」

 広報担当が呼んだ。

 瀬川が近づく前に、浅倉が一歩前へ出た。

「いやあ、皆さんの声が形になって、本当によかったです」

 カメラのシャッターが切られた。

 その夜、浅倉のSNSには新しい投稿が上がった。

 《市境の危険箇所に安全対策が実現しました。これからも子どもたちの命を守るため、現場第一で取り組んでまいります》

 写真の中央に、浅倉がいた。瀬川は端に写っていた。肩が半分切れていた。

 コメント欄には、短い言葉が並んでいた。

 《浅倉先生、ありがとうございます》
 《いつも現場で動いてくださって感謝です》
 《子どもたちを守ってくださり、心強いです》

 瀬川は、スマートフォンを机に置いた。

 置いたあと、また手に取った。

 違う。

 そう思った。

 何が違うのかは、分かっていた。
 分かっているつもりだった。

 浅倉は、合同点検の日程を組んでいない。東丘市の道路課へも行っていない。警察署で信号機の基準を聞いたわけでもない。自治会長に頭を下げたわけでもない。議事録に残す文言を確認したわけでもない。

 違う。

 だが、その違うを口にすれば、どう聞こえるのか。

 自分がやりました。
 私の実績です。
 浅倉さんではありません。

 そう言いたいのか。

 瀬川は、画面を見たまま動けなかった。

 怒っているのは、相談者の声が軽く扱われたからなのか。
 自分の汗が見えないからなのか。

 どちらもあった。

 どちらかだけなら、まだ楽だった。

 浅倉が何もしなかったわけではない。
 あの朝、浅倉の旗がなければ、悠太は車の前に出ていた。浅倉は子どもの名前を覚えていた。高齢者のごみ袋も持った。彼の善意は、確かにあった。

 その善意が、会議室の奥までは降りてこなかっただけだ。

 瀬川はスマートフォンの画面を消した。

 消しても、胸の奥の苦さは消えなかった。

     *

 翌朝、瀬川は一人で交差点に立った。

 新しい白線の手前で、子どもたちが止まっていた。軽自動車が近づき、以前より手前で速度を落とした。完全に安全になったわけではない。運転手の顔には、まだ苛立ちが残っていた。

 それでも、車は止まった。

 悠太が渡った。
 その後ろを、二人、三人と続いた。

 あの母親が、少し離れた場所から瀬川に頭を下げた。深くはなかった。ほんの小さな会釈だった。

 瀬川も、同じように小さく頭を下げた。

 よかった。

 それは本当だった。

 許せない。

 それも本当だった。

 二つは、瀬川の中で混ざらなかった。

 市役所へ向かう途中、瀬川の携帯電話が鳴った。画面には、知らない番号が表示されていた。

「瀬川先生ですか。すみません、近所の側溝のことで相談がありまして」

 瀬川は足を止めた。

 古い側溝の記憶が、胸の奥で小さく動いた。

「はい。お話を伺います」

 瀬川は手帳を開いた。

(了)

国境は目に見えない(20枚)

執筆の狙い

作者 近藤圭太
softbank060079190216.bbtec.net

noteに投稿した作品の転載です。
私はあくまでも編集者として、この作品に関わっています。

コメント

塩瀬ヨリ
i125-206-38-154.s30.a048.ap.plala.or.jp

近藤圭太さま
「国境は目に見えない」拝読しました。

地味な住民相談を手帳に書き留め、縦割り行政の分厚い壁と対峙する市議・瀬川。ひとつの消えかけた横断歩道を巡る、警察、学校、地域住民の利害対立を社会派の視座と乾いた文体で描いた作品と感じました。

現実の社会に厳然と浮かび上がる構造の課題と、個人のエゴが衝突するドラマなので、リアリティラインの担保が納得度のキモになると思われます。

以下に、気になった点をお伝えしますね。

〇文体
>朝の七時五十二分、横断歩道のようで、横断歩道ではなかった。
主語と述語の噛み合わせが不整合と思われます。
「朝の七時五十二分。(それは)横断歩道のようで、横断歩道ではなかった。」
文章を2つに分けたほうがいいかもしれません。

>子どもたちはどこで止まればいいのだろう。
横断歩道は子供だけが渡るものではないので、子供に限定して言及されるのは不自然な気がします。
これが、瀬川の自由関節話法であるなら、この後に続く子供が道路を渡る状況をアテンションする効果があると思われますが、冒頭の場面に瀬川は出てこず、神視点の情景描写です。
歩行者、くらいに止める方が自然な気がします。

>軽ワゴンは急ブレーキをかけた。タイヤが短く鳴り~片手を軽く上げただけで走り去った。
横断歩道を渡ろうとした小学生を浅倉が制止した、車がそれに気づいて急ブレーキをかけた、という場面。
学童を安全にわたらせるのが旗振りの役割なのですが、車両が停止したあと小学生が横断歩道を渡り切ったのか、描写が不明瞭です。
そもそも、旗振りの大人がそこに立っているのであれば。
横断歩道にさしかかった軽ワゴンが減速の素振りを見せていない時点で、子どもが飛び出さないように制止するのも役割の一つです。
長らく地域に貢献して旗振りに従事していた浅倉がおかすとは思えない初歩的なミスであり、浅倉の人物像の一貫性を損ないます。
この横断歩道が危険である、というアンカーのためのご都合主義と感じました。


>近くにいた母親が、青い顔で近づいてきた。
この女性が”誰の”母親かがわかりません。ひかれそうになった小学生の母親なら、すぐさま飛び出してきて安否を確認したり、渡り方を指導したりするのが自然と思われます。そうしないので、誰か他の子どもの母親であろうとは推測できますが、それであれば母親ではなく「保護者の一人が」くらいが適切と思われます。

>瀬川真一がその母親から話を聞いたのは、その日の夕方だった。
>母親は、少しだけ表情を緩めた。
”その”とあるので、直前の母親つながりが生じているのだと読めます。
朝の時点で浅倉に話が通じて安心したはずの母親が、なぜわずか数時間後に、わざわざ別の議員にまで「二重陳情」をする必要があるのでしょうか。
もし浅倉の対応に不信感を抱いたのであれば、数日は様子を見るのが自然であり、同日の夕方に動くのはあまりにも気が早すぎます。
あと、一つの文章に”その”が2回でてきているので、どちらかを別な表現にしたほうがおさまりがいいと思います。

>軽自動車が一時停止せずに通過した。浅倉が旗を出して止めたが
車が、通過したのか?停止したのか?がコンフリクトしてます。

>難しい。その言葉が出た時点で、相談はたいてい棚に置かれる。
 何が難しいのかを分けない限り、次の一手は出ない。
何が棚に置かれるのか?分けるとは何を分離/解体することか?省略されすぎていて、不安定な文章と思います。

>子どもは市境を知らない。
 予算は知っている。
 道路台帳も知っている。
 決裁欄も知っている。
詩的アフォリズムとして成立するために必要な条件が不足していると感じます。
子供は大人事情などは知らないが、大人は縦割りなので柵ばかりが窮屈だ、という意図と思いますが。
主語であろう”大人は”が省略されるのはいいとしても、子供1:大人3という構成であるならば。
子供1との対比であると同時に、3つ並列させるための連想の距離や概念の抽象度の調整がなされていないと感じます。
同じようなことを3回繰り返す意味がない、情報として深化していないということです。

>整理はできていた。整理はできている。しかし、白線はまだ薄い。
>届けた。だが、動かなかった。
>誰も反論しなかった。反論しなかっただけだった。
>何が違うのかは、分かっていた。分かっているつもりだった。
同じ言葉や似たフレーズを繰り返して強調する技法と思われますが、短い距離で頻出していると効果がうすれて陳腐化します。

〇ストーリーとテーマ
「現実の社会に厳然と浮かび上がる構造の課題と、個人のエゴが衝突するドラマ」と思われますが、実直で政治が下手な瀬川が、陽キャの浅野や抜け目ない梶原とやり合うなかで手柄を横取りされた格好になる。
弱者にしわ寄せがいく社会の歪な構造を批評的に描く、というには登場人物のエゴや葛藤が上辺のみにとどまっています。
真面目なヤツがバカを見る、それでも日々を同じスタンスで進んでいく、という美学のようなものにも到達していない気がします。
タイトルにある「国境」も、修辞として大げさな感じで違和感が残りました。そこまで掘り下げる程の強度があるテーマとは感じられませんでした。
文体の雰囲気重視で、キャラクターの心情描写が不足/曖昧になっているのと、主人公以外の登場人物がご都合主義的な配置/発言なので、主人公の姿見として不足しています。

AIで書かれたとのことですが、頷ける水準と感じました。
逆に、編集とはどのような工程を指すのかが気になりました。

執筆お疲れさまでした!

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内