作家でごはん!鍛練場
平山文人

瓦礫の中に咲く花

       
 ドズン、と腹の底まで響く不快な音がマリアムとリームが眠る緑色のテントを揺るがせた。その瞬間、九歳の娘は体を激しく震わせる。隣で汗の浸み込んだ毛布に包まっていた三十一歳の母親は、すぐに彼女の体を抱き寄せて、
「大丈夫、大丈夫よ」
 と頭を撫でながら声をかけ続けたが、彼女自身の声も震えていた。母娘の露出した腕には疥癬が出来ていて、赤らんでいる。月も星も見えないような黒い天幕が包む深夜ですらも、イスラエル軍は容赦なく攻撃を仕掛けてくる。砲弾の炸裂する音は、憎悪そのものを叩きつけてくるようで、マリアムもリームも何度も心を殺されかけた。
「Ya Lateef ヤー・ラティーフ(優しきお方よ、どうかご慈悲を)」
 マリアムは唇を震わせながら、幾度こう祈ったかわからない。その一方で、こんな苦しい無慈悲な日々が続くのなら、いっそ……という想いすらもよぎる。天国に行けば、愛する夫ハーレドと息子のヤセルに会える。抱きしめているリームの体が本当に細くなった。あの日以降──二年半以上の間、まともに食事を取れた日はどれだけあっただろうか。少なくとも、家が爆撃されるまでは、毎日食事はとれていた。
 ハマスがイスラエルに攻撃を仕掛けた数ヶ月後、小さいが家族四人が暖かく過ごしていた白い一軒家は空爆で粉々に破壊され、夫のハーレドと息子のヤセルは即死だった。買い物に出かけていたマリアムとリームは、きつい硝煙の匂いと舞い上がる埃の中を必死に家まで走り、そこで崩れ落ちた──
 大きくもないテントの隅を、ネズミが走り回っている。マリアムは跳ね起きて、箒を振り回し、ネズミを外に追い払った後、力なく座り込んだ。その時、命綱そのものと化したスマートフォンが足の一本欠けたひび割れたテーブルの上で鳴った。急いで見てみると、フランスの福祉団体のメンバーがPalPayで20ドル振り込んでくれている。よかった、これで、うまくいけば小麦やじゃがいもが買える。
「ハビーバティ(可愛い娘よ)、20ドル振り込んでもらえたわ」
「ウミ(お母さん)、神様は私たちをお見捨てになられないのね」
「そうよ、だから今は眠りましょう」
 そう言って、親子は再び瞳を閉じた。静けさを取り戻した狭いテントの中には、二人の静かな呼吸だけが聞こえてくるのだった。

 翌朝早くから、マリアム母娘は眠い目をこすり、数キロ離れた給水タンクのある所まで歩いていく。飲み水、洗濯、トイレでの洗浄、全てがこれらにかかっている。数リットル入るプラスチックのガロン瓶は、空っぽの時はいいが、満タンになると両腕で力を込めて持たないといけないほど重い。それを、若干九歳のリームが二時間近く持って運ばなければならない。季節が夏に近づいてきて、蒸すような暑さの中を、娘が汗を流し歯を食いしばってそれを運んでいるのを見る時のマリアムの苦しさや悲しみはとても言語化出来るものではなかった。本当ならば、子どもなんだから学校に行って、放課後は友達と遊んでいればいい年齢なのに……。それでも、行かなければその日の飲み水がない。
 六月のパレスチナのガザ地区は乾燥していて、何もしていなくても喉が乾く。やがて少しずつ太陽が昇りはじめて、その威力を遠慮なく発揮し始めた。屈託のない顔で歩き続けるリームは、ガロン瓶に残っていた僅かな水を飲み干し、唇についた水さえも惜しい、と言わんばかりに舌を出して舐め取った。瓦礫の山と化し、見渡す限り崩れ去った廃墟の中を、リームはそれでも笑顔で歩いていた。
「ウミ、私、また新しい歌を作ったの」
「まぁすごいわね。歌ってみて」
 リームは深呼吸をして息を整えると、優しい声で歌いだした。

 太陽がのぼって お日様の光が みんなに降りそそぐよ
 雲がやってきて 雨水をくれるの
 風が吹いてきて 涼しさをくれたの
 ネコがやってきて 遊んでくれたの
 星があらわれて 輝く光をくれたの
 わたしは安心して眠ったの

 すれ違う急ぎ足の埃塗れの男性が、この歌声を聞いて思わず微笑んだ。耳を澄ませて聞いていたマリアムは、最愛のハビーバティがこんな世界の中でも優しさを失っていないことが分かって、思わずつないだ手を強く握りしめた。頑張らなきゃ、生きなきゃ、と奥歯を噛みしめた。彼女らの足は強く大地を踏みしめ、その行進を止める事は誰にも出来はしない。
 給水タンクの行列に三時間並んでようやく今日の水を手に入れた二人は、そのまますぐ近くで国連系の援助団体が実施している炊き出しに並んだ。誰も彼も洗濯が出来ないので、汗の染みた汚れた衣服で、今もなお額から滲む汗を拭いながらそこにいた。マリアムの頭に、ふと、殉教者、という言葉が頭に浮かんだ。私たちは一体何の罪の咎でこうしているんだろう。勿論、誰も答えてはくれない。薄い雲が浮かぶ空が、彼女らの問いかけを吸い込むかのように、ただ青く広がっていた。
 ここで貰える大きな鍋で煮込んだタッカ(豆を煮込んだスープ)がマリアムらの一日分の食料なのだが、貰えない日もあり、そんな日は二人は項垂れて幽霊のような姿で虚しくテントに戻るのだった。今日は運が良く、二時間並んで大きなお鍋にいっぱいのタッカを入れてもらえた。肩に巻いた下げ鞄に4ℓの水を入れたガロン瓶を入れ、手にはどっしり重い、蓋をしたお鍋を持ったまま、マリアムは4㎞ほど歩かねばならなかった。
 
 帰路の途中の、元は美しい公園であったところで二人は昼食を取ることにした。爆撃で破壊され尽くして、今は滑り台もジャングルジムも全て鉄屑になっている。かつてベンチであったものの端は欠けていた。
「さぁリーム、まず礼拝をしましょう」
 彼女らイスラム教徒には一日五回、メッカに向かって礼拝(サラート)をする義務がある。その前に手などを清めるウドゥーという準備をする必要があるが、とてもとても貴重な水をそれには使えない。その代わりに、タヤッムムと呼ばれる、土か砂で清める代替の方法があって、マリアムたちはそれを行っていた。午後のものはズフルと呼ばれていて、二人は敬虔な表情になって、メッカの方角に向かって、膝をついて、頭を下げて深く祈った。慈悲深いアッラーが私たちを守ってくださいますように、と。
 礼拝を終えた二人は、持ってきていたスプーンでまだ暖かいタッカを食べはじめる。
「お腹ぺこぺこね」
「お母さんもよ。半分までは食べていいからね。後は夜の分」
 と、分かっていても食べ盛りのリームはたくさん食べてしまう。マリアムはそれは承知の上で、自分は少なめに食べる。昨晩振り込んでもらったPalPayのお金で、じゃがいもを買えないかと考えていた。ここからすぐ近くの商店街なら決済通貨、ドルで売買が可能なはずだ。
ひとまず食事を終えた二人は、人いきれでごった返す、喧噪に支配された細長い闇市へ足を踏み入れた。陽炎の揺らめきの向こうで、食料や日常品を手に入れたい人達が汗を流しながら叫んで、怒鳴って交渉している。お腹に入れてあるスマートフォンだけは絶対に無くせない。スリにでも遭ったら終わりだ、と鉄の鍋でお腹を押さえながら歩く。
 泥で汚れたTシャツや長袖の服に身を包んだ人が取り囲んでいる八百屋に着くと、じゃがいもが百個ぐらいはベニヤ板で作られた台に並んでいた。マリアムは目を輝かせて、
「こんにちは、じゃがいもをください。ここはドル決済は可能ですか?」
「いんや、無理だ。シェケルに両替しておいで。向こうのビルの看板見えるか?あそこのブローカーがやってくれるよ」
 と、愛嬌のある大きな目の店主に指さされた高いビルは、無傷で残っている貴重な建物だった。電柱も並立しているから、電気も通っているのだろう。仕方ないので、言われた通りにするため、リームを連れて、熱気と怒号に支配されたなか、行き交う人をすり抜けて十階建てのビルの中に入った。綺麗に拭かれているガラス張りのドアを開けると、照明のついた明るい一階の広い部屋に長いテーブルがあって、そこに二人のスーツ姿の男がパソコンを並べて座っていた。彼ら以外に誰もいなかった。二個の扇風機が彼らの後ろで回っていて、その風がプラスチックと消臭剤のような、清潔を感じる匂いをマリアムの鼻腔に送ってきて、彼女は急に別世界に迷い込んだような、なんとも言えない気持ちになった。手垢のついたスマホを取り出し、PalPayのドルをシェケルに両替してほしい、と頼むと、
「いいとも。ただし手数料15%かかるが、いいかい?」
 と、と比較的若そうな男が無表情で答えた。高い、とマリアムは聞いた瞬間に思った。スマホを持つ手が微かに震えたが、背に腹は代えられない。もう今手元には3シェケルもないのだ。唇を噛んで了解し、それでも60シェケル(日本円で2400円程度)、赤い札三枚がマリアムの手に入った。それを心底大事そうにお腹の財布にしまい込んで、お礼を言って無駄に静かなビルを出て、再び八百屋に向かう。リームが背中を掴んで、無言で付き添って歩く。
「両替してきました。じゃがいもを売ってほしいのですが」
「そうかい、1㎏で4シェケルだよ。あるかい?」
 マリアムは力強く頷くと、20シェケル札を一枚出して、店主に渡した。うん、と返事した彼は、白いビニール袋に六個ほどのじゃがいもを入れて、秤で重さを確認した後、少し首を傾げてもう一個入れた。
「うん、少し重量オーバーだが、まぁサービスだ。あと、あんた新顔だからこれも入れてやろう」
 と、着けているエプロンのポケットから銀紙に包まれた何かを二個入れてくれた。
「これはなんですか?」
「マーガリンだよ。じゃがいもだけ食ったって美味しくないだろうさ」
 と、彼はやや黄色い歯を見せて微笑んだ。マリアムは驚いて、思わず頭を下げた。リームも見習って、同じようにした。もじゃ頭の店主はまたおいで、と気さくに手を振ってくれた。マリアムはお腹が鳴ったので、気持ち急ぎ足になった。今晩はお腹いっぱい食べられる、という期待が足を速めるのだった。母娘二人はひとかたまりになって、壊れた車の横を抜け、倒れた電柱をまたぎ、ガラスの破片をよけながら、家と言う名の汚れた緑のテントに向かった。
「ウミ、あれ……」
 とリームが指さした青空には、微かな駆動音を立てる監視用のドローンが浮かんでいた。マリアムは不吉なものを見た、と表情を曇らせ、リームの手を降ろさせた。まだ、やり足りないのか、これだけ私たちの生活を粉々に砕いておいて。夫や息子をはじめとして、ガザの民衆を殺しまくっておいて! マリアムの胸にどす黒い憎悪が湧きおこったが、それは体を疲弊させるだけだと知っていたので、大きく息を吐いて、首を何度か振った。今は、生きるために全ての力を使わねばならない。彼女の鍋を握る手は震えていた。
 
 空が橙と黒に染まりゆく頃、ようやくガザ南部地区にあるみすぼらしい緑色のテントに帰ってきた二人は、重いガロン瓶を降ろし、タッカが半分ほど残っているお鍋をガスコンロの上に置いた。しかし、携帯ガスがないので火をつけられない。仕方ないので、マリアムはテントのすぐ傍に瓦礫から拾ってきた石やコンクリートの破片で簡易な竈を造って、そこに木材や紙の切れ端を集めてきて燃やすのだった。リームはこのいかにも急ごしらえの竈を案外気に入っていた。
「キャンプファイアみたいだね」
「そうね、いつかまたキャンプに行こうね」
 テントの中でじゃがいもの皮と青い芽をナイフで剝きながらマリアムは答える。小さく切って、別の鍋に全て放り込み、水を注いだ。今日は四個だけ切った。後は明日食べよう。そして、テント外の簡易竈の上において、ライターで集めてあったチラシに火をつけた。じゃがいもはしっかり煮ないとお腹を壊してしまう。大空は闇が支配し始めて、幾つかの星が煌めいている。気温が高いのですぐに水は沸騰し、泡を立ててじゃがいもを柔らくしてくれる。竈の黒い煙がリームの目に染みて、思わず彼女は手で擦った。手はろくに洗っていないので黒ずんでいて、余計に目が痛くなってしまう。マリアムは濡らしたタオルで娘の目をやさしく拭く。二十分ほど経ったので、マリアムはじゃがいもを入れた鍋をどかして、さっきもらってきたタッカを乗せて暖めた。リームは素早く動き、お皿とスプーンを二人分持ってきた。
「さあ、いただきましょう」
「はい、ウミ」
 二人は湯気の立っているタッカと、マーガリンをつけたじゃがいもを次々に食べた。周囲のテントからも、食べ物の匂いがしてくるが、焦げ付いたような匂いや、もしくは焼いただけであろうパンの香りなど、およそまっとうな食事は摂れていないであろうことは予想が出来た。マリアムとリームはよく噛むことを覚えていた。こうすると、満腹中枢が勘違いしてお腹いっぱいになったと認識してくれるからだった。 
 ともかくも、今晩はしっかり食べる事が出来た二人は、竈の火をしっかり消して、二人で共用トイレに行くことにした。数百のテントが密集しているこの地域に対して、たった二つしかトイレはない。それも、数メートルほどの穴を地面に掘って、その上に板を置いて穴を開けているだけ。大量の蝿や蛾が飛び交い、容赦なく疥癬で傷んだ肌に纏わりついてくる。ぼっとん便所状態なので、不衛生の極みで、悪臭もすごい。周辺には、風の向き次第で、糞便の匂いが流れてくるのだが、誰にもどうしようもなかった。
 リームはトイレにいる時はずっと息を止めるか、鼻をつまんでいた。周囲には一応テント生地の囲いがあるが、気休め程度で、しかも絶えず数十人は並んでいて、住民たちは我慢と忍耐を強いられていたのだった。
マリアムは太陽光充電式の小さなLEDライトと、小さなナイフと、500mlのペットボトルに貴重な水を入れて持っていく。陰部を清潔にするのはイスラム教の教えなので厳守せねばならなかった。また、日中ならまだしも、夜間は絶対に女性は一人ではトイレには行けなかった。強姦される危険があるからだ。そのため、夜間に尿意を催した時は、バケツなどにするか、テントの裏でするしかないのだった。こんな状況なので、いつ感染症が蔓延してもおかしくなかった。
 今夜も、数多くの人たちが用を足すためだけに列を作っている。女性のほうが圧倒的に多いのは、男性はきっとそこらで済ましているのだろう、辺りの道という道でアンモニア臭がする。
「こんばんは、リーム」
 すぐ前に並んでいるのはリームと同い年のシャハドだ。母親のファティーマの腰にまとわりついている甘えたの子で、愛嬌のある可愛い性格をしている。二人は本当なら同じ小学校に通っていたはずだったが、小学校は空爆で完全に廃墟と化して、今は野良犬の住処になっている。
「こんばんは。夜は涼しいね」
「そうね、見て、あれ。白鳥座よ。あんなにきれいに羽ばたいてるよ」
 シャハドが指さす夜空には美しく輝く白鳥の星座があった。思わずマリアムもファティーマも見上げた。子どもらは肩を並べて、あの星もきれい、あれはベガじゃない? とささやきあっている。たとえこんな生き地獄の中でも、子どもは希望や喜びを失っていない。マリアムの両目は微かに濡れていた。そして、そっとリームの頭に手を添えた。

 翌朝も母娘は早朝の礼拝を終えた後、同じルーチンを繰り返すのだが、水汲みに行く前に、マリアムは一軒の家を訪ねていた。その家には太陽光パネルがあって、電線網が完全に破壊されたガザ地区の南部でも発電が可能なのだった。マリアムは生命線であるスマートフォンの充電を依頼しに来たのだ。家主のモハメドは敬虔なムスリムの信徒で、慈悲深く、喜捨(サダカ)の精神でもってして、夫と息子を失ったマリアムには無料で充電させてくれるのだ。
「おはよう、いらっしゃい。さ、スマホをお貸し」
 丸い眼鏡をかけた髭の濃いモハメドは、家の入り口で丁寧にスマホを受け取り、部屋の中の充電コードに差し込む。机の上には既に二十台ほどのスマートフォンが並んでいた。
「いつも本当にありがとうございます」
「……もう聞いているかい。テント村のサラという十歳の子が強姦されたと聞いている。よくよく気を付けるんだよ」
 それを聞いて、ほんの数百メートルの場所の緑のテントに置いてきたリームの事が俄かに心配になってきた。また水を汲んだ後に来ます、と伝えた後、まさか、こんな朝から、と思いつつも、足は自然と駆け足になる。
 急いでテントの幕を開くと、リームがいない。そんな、まさか、とテントを飛び出すと、すぐ傍で娘の楽しそうな歌声が聞こえた。裏手に回ると、そこで小さな野良犬の頭を撫でているリームの姿があった。
「あっ、駄目よリーム、犬を触っちゃ駄目」
「どうして? こんなに可愛いのに。それに、ガリガリだよ、お腹減ってそうよ」
「伝染病とか、病気を持ってるかもしれないの。だから触らないで」
 マリアムは汚れて痩せこけた野良犬と目があった。今私は、無料でスマホを充電させてもらっている、モハメドさんに、そして神様に。アッラーは犬を不浄なものとして忌避するように言っている、言っているが……。いま彼女の目に映っているのは、この紛争の被害者であり、ただお腹を空かせた一頭の生き物だ。マリアムは残してあった銀紙に包まれたマーガリン一個を持ってきた。
「リーム、これをあげなさい」
「いいの? ウミ」
「じゃがいもは塩と胡椒をかけてもおいしく食べられるわ」
 リームが開いたマーガリンを、野良犬はすごい勢いで舐めて、銀紙すら食べそうになったので、リームは慌てて取り上げた。まだ激しく尻尾を振っている白と茶色の毛皮を着た犬を見て、マリアムは大きく頷いて、リームを誘い、水汲みに出発したのだった。

 数日後の夜、マリアムとリームがLEDライトの幽かな光の下で、これだけは、と燃やさずに取っておいた「アラビアンナイト」の絵本を読んでいると、シャハドがひとりぽつんとやってきた。
「こんばんは……」
 伏し目がちな九歳の様子を見て、マリアムは訝し気に聞いた。
「あら、どうしたの?」
「あのね……お母さんがいなくて寂しいから、ここにいてもいい?」
「ファティーマがいないの? どこかへ行っちゃったの?」
「そう。お家の家事の手伝いの仕事があるからって、最近よく夜はいなくなるの。帰ってこない時もあるの」
 それを聞いて母親は首を傾げた。こんな時間に家事手伝い? 
「でも、帰ってきたらたくさん食べ物を持って帰ってきてくれるから、それは嬉しいんだけど、夜一人なのは怖くて……」
 手には少し汚れた白猫のぬいぐるみを大事そうに持っている。
「そう。じゃあここにいていいよ。一緒に絵本を読みましょう」
 とマリアムは優しく手招きし、濡らしたタオルでシャハドの顔を拭いてあげた。そして、アラビアンナイトの中の「船乗りシンドバッドの冒険」の続きを二人に読み聞かせながら、胸の奥はじんわりと疼いていた。ファティーマ、もしかして……。彼女はマリアムと同じく、空爆で夫を亡くしていた。困窮の度合いは彼女らは同じ程度だった。マリアムは唇を噛んで、黙り込んでしまった。リームが不思議そうに母親の顔を見つめたので、彼女は次のページをめくった。


 マリアムは翌朝、目を覚ますと、ようやく手に入れた小麦粉で焼いたパンをシャハドにも食べさせて朝食を済ませた後、彼女をファティーマのテントまで送っていった。と言っても数十メートルも離れていないのだが、母親の様子が見たかったのだ。
「お母さん、ただいま。いるかな……」
 青いテントの幕を開いてシャハドが中に入ると、ファティーマは横になっていたが、眠ってはいなかった。シャハドを見るなり跳ね起きて、
「あなた! どこへ行っていたの! さっきまで必死に探してたのよ!」
 と、血相を変えて、額に血管を浮かばせて大きな声をあげた。
「ごめんなさいお母さん。一人じゃ寂しいからリームとマリアムのテントで一緒に眠ってたの」
 微かに体を震わせながら答えるシャハド。厳しいまなざしを娘に向ける母親の体から、ソープの清潔な香りがする。視界に、幾つかの並んでいる食料の缶詰が目に入った。マリアムは、それで全てを悟った。そして、こういった。
「夜の家事仕事の時は私に言ってね。シャハドは預かるからね」
 この時、目を合わせた二人は百万の言葉を交わしていた。それだけでよかった。ファティーマは腕で体を抱いて、酷く恥ずかしそうな表情をしたが、マリアムはそれ以上何も言わず、じゃあね、と言って青いテントを去った。テントの中ではファティーマが愛娘を強く抱きしめて、ずっとそのままでいた。
 
 人通りがかなりあったが、マリアムは気にせず、顔を覆って、涙を零しながら歩いた。神の教えに背いたのね、それでも、そうであっても、私たちは生きていかなきゃいけないんだ。足元がぐらりと沈むような感じがして、膝を押さえながら歩いた。白く大きな雲が太陽を隠していたので、彼女の影は薄かった。朝の冷気を含んだ風が、マリアムを慰めるように吹いてきた。

 その後、マリアム母娘は今日も、もう何百回通ったか覚えていない給水タンクのところまで歩いてゆく。見える景色は、ほんの少しずつだが変わっていっている。潰れた車が無くなり、道に転がっていた木材やコンクリートの欠片はどこかに持っていかれ、少なくとも歩きやすくはなった。
「あっ、ウミ、これ見て!」
 とリームが思わず駆け寄ったところには、割れた石材の破片や折れた鉄材があったが、その隙間から、小さな赤い花が咲いている。
「ヒナゲシの花ね……こんな場所でも、花は咲くのね」
 マリアムとリームは座り込んで、たった一輪の健気に咲く花を見つめた。リームが、引っこ抜こうとしたので、慌てて止める。
「やめましょう。抜いたら枯れてしまうよ。ここで咲かせてあげようよ、他の人たちも見るよ」
「えー、だめ? お家に飾りたかったな……」
 口を尖らせたリームは、膝を払って立ち上がった。しかし、笑顔に変わって、
「ウミ、また歌を思いついたよ。歌っていい?」
 あら、どうぞ、というと、リームは高いよく通る声で歌いだした。
 
 きこえてくるよ 花の笑い声
 きこえてきたよ 犬の笑い声
 きこえてきたよ 風の楽しいことば
 きこえてくるよ 鳥の歌声も
 すがたが違っても みんな生きてるよ
 だから手をつないで いっしょに歩こうね

 歌い終えると、リームは自慢げに母親の顔を見つめてきた。もちろん九歳の子が即興で歌ったもので、楽曲とは言えないだろう。しかし、娘の歌には希望がある、希望しかない。道は遥かに遠く、眩しい光が差してくるのにはまだまだ時間がかかるだろう。でも、必ずそこまで歩いて見せるわ。母も娘も前しか見ていない。マリアムの口は閉じられ、神秘な微笑みを浮かべた。


瓦礫の中に咲く花

執筆の狙い

作者 平山文人
zaq3d2eff12.rev.zaq.ne.jp

文学の役割の一つは、「声を奪われた、沈黙を強いられる人たちの姿を映し出し示す事」にあると思っています。

本作では、破壊されたガザ地区で懸命に生きる母娘の姿を書きました。今なお苦難の中にあるパレスチナのガザ地区の人々に
思いを馳せてくれたら、と思います。皆さまの感想をお待ちしています、よろしくお願いします。

コメント

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

パレスチナ問題は歴史としては学びました。
イスラム教についても、ユダヤ人移住にもある程度の知識はあります。

だけど、こうして「歴史書や年表には記されない一人の人間」としての目線で語られると、また格別なリアリティがあり、腹がずしんとなりました。
特に爆撃のシーンとかで物語を盛り上げるのではなく、淡々と日常を語ることで、戦争の悲惨さを伝える、その志というか心意気に打たれました。
こうした親子はリアルにいるのかなと思うと、なかなかね。

僕も実在していた岩田聡さんのものを書いているので、こうした物語の資料というか歴史背景を調べるというのは大変だと思うのです。たぶんいい加減に書かれたものではないと思うので、ほんとここまでイメージ豊かに世界を映しているのに頭が下がります。

この親子、実際は終わりの見えない苦難の道を進んでいるんでしょうが、物語は歌に希望を乗せて閉じられます。
その作中に込められた祈りのようなものを、また僕も祈りたいです。

パレスチナ問題は「あー、やっぱヒトラーはユダヤ人をヨーロッパから追い出したのね」とか、「トランプ、おめー、ちくしょう」とか色々思うんですが、つまりそういう政界の有名人を出さないで、一人一人、名もなき市民や個人の問題として見つめた方がもっとリアルに自分と繋げれるのかなと思った次第です。勉強になりました。

本作とはあまり関係ないのですが、個人的には戦争とドローンとかもっと知りたかったかな。
ある元自衛隊の人はドローンはジャマ―で妨害できるので戦争の決定打にはならない、と直接聞いたのですが、どうも思ったよりも深刻なようで。

夜の雨
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平山文人さん「瓦礫の中に咲く花」読みました。

日本からはるか遠く離れた国での戦争で、身近に感じるのはその戦争によって日本の物価が上がっていること。

しかしイスラエルに攻撃をされている国の庶民は逃げ場がなくって殺されたり傷つけられたりしている。
とくに子供などは何の罪もないのだが。
どうして大人が起こした戦争の罪をかぶらねばならないのだろうか。
アメリカなどは地球の裏の国の戦争にどうして関わっているのだろうかと。
国内の物価があがり庶民が住みにくい国へと沈んでいっているのがわからないのだろうか。

つまり戦争は一般の庶民にはよいことなどはない。


で、この「瓦礫の中に咲く花」という作品は、そんな戦争で四人家族のうち夫と幼い息子の二人が殺されて、三十一歳の母親「マリアム」その九歳の娘である「リーム」の日常が描かれているのだが、エピソードが克明なので、パレスチナのガザ地区で懸命に生きる母娘の姿が伝わってくる。

普通に日々生きるというだけで、食料を手に入れるためにどうしているのかとか、が、まさに悲惨レベル。
マリアム母娘の場合はスマホにフランスの福祉団体のメンバーがPalPayで20ドル振り込んでくれたのが、命拾いになっているのだが。
知り合いの母娘の場合は母が体を売らねばならないまでに追い詰められている。

御作はそのあたりのエピソードが具体的に描かれているので非常にわかりよい。
命綱の水は、数リットル入るプラスチックのガロン瓶で二時間近く持って運ばなければならないとか。これを九歳の娘がやっている。
また、給水タンクの行列に三時間並んでようやく自分の番が回って来る。

福祉団体のメンバーがPalPayで20ドル振り込んでくれたがそれがそのまま使えるのではなくって、両替しなければならない。
そのときに15%の手数料を取られるとか。

ちなみに
60シェケル(日本円で2400円程度)、赤い札三枚がマリアムの手に入った。
これでジャガイモをどれほど買えるのかというと、「1㎏で4シェケル」だから「60シェケル」だと「15kgということになる」。
まるまるジャガイモを買ったとしての話しだが。

ほかにはトイレはどうしているのかとか。

あと、御作では「犬」のエピソードやら「絵本」のエピソードがありますが、このあたりが九歳のリームにとっての安らぎかも知れないですね。

御作は、パレスチナのガザ地区で生きる母娘がどうやって生き延びているのかがわかりやすく具体的に描かれているので、なにが起こっているのかが読んでいて感じることができました。

このレベルの作品が描ける視点をもっているということは、すばらしい目をお持ちではないかと思います。


ありがとうございました。

平山文人
zaq3d2eff12.rev.zaq.ne.jp

えんがわさん、感想をありがとうございます。

はい、ハマスがイスラエルを先に襲撃して、その前からずっとガザ地区は弾圧を受けていて……と言う流れは
本作では書きませんでした。この掌編を読んで、自分で調べて欲しいと思ったからです。どうしてこんな事が起こっているのか?と読者の方に思っていただけたら嬉しいですね。

彼女たちは「運命に踊らされ、言葉で抵抗する事すらも出来ない人たち」です。こういった人たちに目を向けることが
文学者、作家の一つの役割だろう、と最近特に強く思っています。今後もこういった小説は定期的に書くと思います。

彼女らのありのままの姿を書くために、かなり調べましたね。GeminiやChatGPTはこういう時に相当役に立ちます。
「例えば、今のガザ地区ではドル決済の通貨は使えるの?」と聞くと、詳細に事情を教えてくれます。
ただし、生成AIは普通に嘘もつくので(笑)、それをもう一度チェックしますけれども……

えんがわさん、そう言ってくれて本当にありがとうございます。「誰にも気をかけてすらもらえない」ことが、
いま苦しんでいる人達にとって最も辛い事ですから。

ドローンについては、今ウクライナが無人兵器として最大限活用していますが、AI制御のものは自動で軌道を調整したりして、かなりの精度で目標の建物などに突撃できるようですね。妨害電波も通じない無敵ドローンがあるようですよ。ウクライナ戦争もいつ終わるか本当に気がかりではありますね……

それではこれからもお互い頑張りましょう。

平山文人
zaq3d2eff12.rev.zaq.ne.jp

夜の雨さん、感想をありがとうございます。

はい、もうこの言葉に全てが詰まっています。「つまり戦争は一般の庶民にはよいことなどはない」
誰かは利益を得ているのかもしれませんね。また、指導者たちにはなんらかの大義はあるのかもしれません。
しかし犠牲になるのはいつも戦場に行かされる庶民です。こんなもの、本当に起こらなければいいのに、と思います。

本当に今のガザの避難民の生活は「悲惨」としか言いようがありません。報道などである程度実態は知っていましたが、
改めてこうして物語として書く中で、何度も目を擦りました。こんなことがあってたまるか、と。しかし、これは現実に今も続いていることなのですね。本当に辛いです。

文学と言うか、小説を書く者は「人間や社会をよく見る」ことが大事だと思っています。もしも自分の書く小説の中に、生きた人間やありのままの世界を書きたいと願うなら、それは本当に重要だと思います。それが出来たなら、それはいい小説を書いた、と言えるのではないかと思います。

いつも本当にありがとうございます。これからもお互いに頑張りましょう。

小次郎
KD106146068223.au-net.ne.jp

導入は、マリアムとリームに加え九歳の娘がいるのかな?
と、思っていましたが、違っていました。
日本は、平和な国ですよね。
残酷な世界で生きていく大変さってありますよね。
よく調べられたのかなと思います。
本当に、日本は恵まれていますよ。
対岸の火事ですが、思いを馳せました。

平山文人
zaq3d2eff12.rev.zaq.ne.jp

小次郎さん、感想をありがとうございます。

そうです、場所によっては本当に世界は悲惨としかいいようがないですよね。
比べたら、日本は本当に平和で恵まれています。いい国に産まれた、と、ガザのような事例を知れば知るほど思います。

世界を少しでも良くするために、何か出来ることがあればいいな、と思いますね。思いを馳せてくれてありがとうございます。

それでは、これからもお互いにがんばりましょうね。

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